舞姫
永井荷風



 お〻! ローザ、トリアニ。リヨンのオペラ座、第一の舞姫、ローザ、トリアニ。

 われ始めて、番組の面に、第一位舞踏者プルミヱール、ダンスーズなる位付くらゐづけせし、君が名を読みし時、お〻、ローザ、トリアニ。われは暖き伊太利亜より来ませし姫かと疑ひぬ。君がふくやかなる長き面は、誰が目にも、まがうかたなきフランスの姫ならざりしか。舞台に出るフランスのかゝる技芸家は、好みて伊太利亜綴りの芸名を用ゆと覚ゆ。伊太利亜つゞりは、まこと、耳にさはやかなり。お〻、ローザ、トリアニ!

 そも、われの始めて君を見まつりしは、其の年の秋、君が未だリヨン市設のオペラ座の舞台に出で給はざる前なりし。ローン河に横はる橋々の袂に、其の年の初演奏はワグナーのワルキール、次の夜にはグノーがフオーストとの予告は出でたり。われは初めて見るリヨンのオペラ、巴里の其れにくらべばや人より先きによき席を得んとて、本屋、小間物屋の店、勧工場の如く連りし劇場の柱太き廻廊を、札売る方に進み行きし時、われは初めて君を見まつりしなり。お〻、ローザ、トリアニ!

 其の時、君は形余り大ならざる帽を後ざまに、いともはでなる弁慶縞なす薄色地の散歩着を着給ひぬ。夕暮のいそぐ人、狭き廻廊を押合ひ行く中に、君が衣服の縞柄の、如何にわが目を引きたりし。君は恋の絵葉書売る店先に、媼と立ちて語り給ふ。われは近く寄進みて、君が面を見まもりき。お〻、ローザ、トリアニ!

 君が面は恐しきまで美しく、頬のべに、唇のべににてかざられき。恐しきまで美しとは、かゝる化粧のわざは、よく物事わきまへぬ妻、娘の、夢企て及ぶべき処ならねば。何とは云はん、われにして、若し若干そくばくの富を抛たしめば、今宵を待たず、君と共に一杯の美酒を傾け得べしと思ひぬ。妄想は忽ち、わが慾深き眼を、ひたすら、君が衣服につゝまれし形体のいみじさに移らしめぬ。肩より腰、かゝるいみじき肉の誇りは、飢に追はれ餌につかれし世の常の遊び女には見得べからず、さちありしよ、われは。われは先取の権を得ばやと、狼の如く君が立去る後に従ひぬ。君が姿は廻廊を後に、暗く狭き楽屋の戸口に消えぬ。そこには大道具の書割をつみたる荷馬車ありき。お〻、ローザ、トリアニ!

 われは初めて、こゝに君がフランスの芸壇に出るアルチストなる事を悟りぬ。及びもつかぬわが望みの果敢はかなさを悲しみぬ。ワルキールの夜には、(ワグナーのかたくなゝる事よ)舞踏バレーなければ、われは徒に、ソプラノの姿より数多き女戦士の一人一人を見まもりぬ。フオーストの夜に至りて、われは漸く君を見出し得たり。四幕目、誘惑いざないの魔の岩屋にて、目くるめく遊仙窟の舞台、たへなる楽の音につれて現れ出し時、君は、明き灯の下に、あまた居並び、横りたる妖女の頭に立ち給ひき。君は透見すきみゆる霞の如き薄紗うすものの下に肉色したる肌着マイヨをつけ給ひたれば、君が二の腕、太腿の、何処いづくのあたりまでぞ、唯一人君を寝室ねべやに訪ふ人の、まことに触れ得べき自然の絹にして、何処のあたりまでぞ、君が薫りを徒らに、夜毎よごと楽屋のおうなの剥ぎとるべき、作りしはだえなるべきか。かくも、わが目は掻乱されぬ。かくもわが血は君がしゝむらを慕ひにき。お〻、ローザ、トリアニ!

 われはかくして、舞踏バレーの一場ありて、君出るオペラと云へば、聞くべき音楽の一節をだも聞く事能はずなりぬ。春風の香しき鬢のもつれを弄ぶが如き律ありて、凡そ微妙なる感能の極度を動す舞踏バレーの曲につれ、君は爪先立ちて、鳥の如くに舞台を飛び廻り、曲の一節毎に、裾を蹴つて足を上げ、手をかざして両の脇を伺はしむ。或時は身を空にひねりて雲の褥に横はるが如く、或時は地にかゞまりて、ベヌスの裸像の如く、坐れる腰に云ひがたき曲線の美を示す。あゝ、この妖艶なる君が形体は、如何なる時、わが心より消ゆる事を得べき。もし、その消え得べき時ありとなさば、そは、唯だ、われにして君をわがアルコーブの帳幕とばりの陰に引入れしめ、わが手わが唇をして、親しく君が肉の上に触れしめん夕べのみ。遂げたる望みの恐しさは、如何なる強き夢をも破りぬべし。われは貧かりき。されば、われさちふかかりき。おゝ、ローザ、トリアニ。

 われは君を愛す。ローザが腕よ。ローザが胸よ。ローザが腿よ。ローザが肩よ。おゝ、ローザ。トリアニ。リヨンのオペラ座、第一の舞姫、ローザ、トリアニ。

底本:「日本の名随筆 別巻55 恋心」作品社

   1995(平成7)年925日第1刷発行

底本の親本:「荷風全集 第五巻」岩波書店

   1992(平成4)年5

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2009年123日作成

2016年119日修正

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