日記と自叙伝
三木清


 三つの種類の人間がある。先づ他人の私事に妙に関心し、とりわけいはゆる醜聞を、ことに世間に名の知られた他人の醜聞を愛する人間がある。彼等はさういふ興味からいはゆる三面記事事件を喜ぶ。このやうな人間の興味は、今日ことに婦人雑誌などによつて巧に利用されてゐるところである。

 第二の種類の人間は特にいはゆる英雄伝や偉人伝を読むことを好むやうに見える。彼らはとにかく偉い人になりたい、なんでも成功したいといふ心に燃やされ、教訓的見地からつづられた「実用的歴史」を愛し、或ひは名士の成功談なるものによつて感激させられることを欲する。かういふ成功主義的または英雄主義的心理も、今日とくに大衆雑誌といはれるものによつて巧に利用されてゐるところである。

 然し第三の種類の人間がある。私はこの種類の人間のひとつの特徴をとらへて、彼等をば日記や自叙伝を読むことを愛する人間といふことができはしないかと思ふ。彼等は他人の私事の秘密をのぞくことを徒らに好むのではない。けれども彼等は他人の生活に無関心なのでなく、それを理解することを欲する。然しそのことは自己を理解せんがためである、いな、人間と生とを理解せんがためである。また彼等は他人のいはゆる成功や英雄的行為によつて徒らに感激させられることを喜ぶのではない。むしろ彼等は平凡な人生の複雑微妙、世のつねのすがたの面白さ、深さを理解することを求めるのである。

 といふのはかうである。日記や自叙伝は、本来、他人の醜聞を愛する人の趣味に適するものでない、なぜなら人間は自分自身のためにのみ記された日記の中においてさへ容易に自分の秘密を赤裸裸に告白するものではないから。また日記や自叙伝においては、本来、偉大な人々も、彼等の超人間的な行為や事業のすばらしさについて語るよりも、むしろ彼等の人間らしい生活や運命について書くことを好むものであるから、自己誇示はいふまでもなく、自己暴露ないし自己露出といふことも日記や自叙伝においては堅く禁じられてゐる。そこにおいてほどリアリズムの要求されるところはないのである。

 だが三つの種類の人間があるのでなく、それらはむしろ人間の三つのこころを現はすものとも見られよう。従つて我々が実際に日記や自叙伝をひもどかうとする気持には、他人の私事の秘密を喜ぶこころ、もしくは他人の成功や英雄的行為にあやからうとするこころが混じてゐる。これらのこころは媚られることができるであらう。リアリズムの最も要求される日記や自叙伝においてほどまた実際にそれの困難なところはないからである。

 三つの種類の人間或ひは人間の三つのこころに相応して文学の三つの現実の形態がある。第一のものには特にいはゆる軟文学が、第二のものにはいはゆる大衆文学が、第三のものには主としていはゆる心理小説が相応するともいはれよう。

 日記や自叙伝の要求するのは完全なリアリズムである。それの精神は文学的精神でなく科学的精神であるとさへいつてよい。さういつたからとて、我々が例へば日記を書かうとするのは、あらゆる人間に具はつてゐる自己表現の欲求即ち芸術的欲求のおのずからなる現はれでないといふのではない。然し素人の文学的表現の好みほど危険なものはない。さういふ好みのうちには自己にこび、あまえ、もしくは自己をひけらかすこころがひそんでをり、或ひは容易に忍びこむものである。そこに要求されてゐるのは詩的精神でなく、散文的精神であるといつてよい。詩にリアリズムがないといふのでない。然し詩的であらうとするとき、装飾的になつたり、センチメンタリズムに陥つたりし易いものだ。

 かくて日記についていへば、淡々としてただ事件を叙したのに案外面白いものがある。もちろん日記の本来の面白さは事件そのものにあるといふよりも、日常茶飯事を述べて筆者の主観などとても現はれさうにないところにその主観がおのづからにじみ出てゐるところにある。従つて上乗の日記は事件の叙述よりも心理の描写に求めらるべきであらう。しかし心理を十分に描いて完全なリアリストであることはまつたく容易のことではない。どうしてもあまくなりたがる。或ひは教訓的、道学者的となり易い。教訓的な実用的歴史は心理主義的であるのがつねである。ところで道学者といふものはまるであまい物の見方をしてゐることが多いと思ふ。日記は簡潔なのがふつう面白い。自分を多く語つて真実であることは困難であるからである。文豪といへども日記では筆を惜むのがつねだ。

 断片性は日記の最も根本的な性格である。そのことは多くの日記がつれづれに、きれぎれに書かれるといふことによるのではなく、却つて日記そのものの最も内的な本質を現はすのである。即ち日記の断片性は根本的に「生の断片性」にもとづくのである。生の最も内的な規定は断片性である。ここに生といふのは特に内的生もしくは「内的人間」のことである。さきに心理といつたものは純粋に心理的なものではなく、むしろもつと感性的ともいはるべき内的人間の意味に解されねばならぬ。外的人間や生活はどれほど断片的に見えてもそのじつ連続的であるに反して、内的人間や生活は深く理解すればするほど断片性をあらはにするやうに思はれる。これ、その面白さが主として、その「人間」の面白さにかかり、その上乗なるものは内的生活の描写にあるといはれる日記の根本的性格が断片性である所以である。生の断片性を最も明かに現はさせるものは、それ自身生の根本的規定に属するところの死の立場である。従つてすぐれた日記の多くは死の立場から書かれた生の記録である。例へば、アミエルの日記は最上の日記のひとつと認められてゐる。ところでトルストイは彼の愛読したこの日記について書いてゐる、彼は、「我々が凡て死を宣告されて、ただその執行を猶予されてゐるだけであることを痛感してゐる。そしてこれこそ、この書が非常に真摯で、厳粛で、有益なる所以である。」

 よき自叙伝はよき日記よりも稀である。ゲーテの『詩と真実』は最上の一つといつてよいであらうが、有名ルソーの懴悔録でさへ甚だすぐれた自叙伝に数へられ得るかはすでに疑問である。これひとつには、自叙伝は他人に読まれることを予想して書かれ、そして他人の前で自己を正直に告白することは困難であるのによるともいはれよう。日記は少くともその本性上は他人に読ませようとするものではない。尤も日記が全然他人の存在を予想せずして書かれると考へるのは間違ひだ。人間の社会性ははるかに深く根差してをり、人間は最も内密な行為においても社会的に規定されてゐる。それはとにかく、自叙伝において専ら自己についてのみ語らうとしたものはたいてい失敗してをり、むしろ自己の環境について、環境と自己との交互作用について述べようとしたのが成功してゐる。

 これは日記と自叙伝との種類の区別を暗示するものでなければならぬ。両者はよく一緒に語られるけれども、実はその性質を異にしたものである。日記が抒情詩と同じ線にあつて反対の方向にあるいはゆる自照の文学に属するとすれば、自叙伝は叙事詩と同じ線の上にある歴史文学に属してゐる。一方を主観的性質の文学といふならば、他方は客観的性質の文学といはれよう。日記の性質が断片的であれば、自叙伝の性質は構成的である。

 構成的であることを要求されてゐるところに自叙伝の困難がある。なぜなら構成的手法または技巧はたいていの場合自己の思想や感情のまともな表現を害ふものであるから。歴史的であり、従つてすぐれた「歴史的意識」が必要とされてゐると共に、それがほかならぬ「自己」の歴史であるべきところに、自叙伝の困難がある。それでイギリス史についての大作をなしたヒュームも自伝については最も簡単に記す道を選んだのである。

 もつとも伝記、そして自叙伝といふ語はもつと広い意味に用ゐられることもできる。かくて例へばいふ、プラトンの対話篇アポロギアよりもすぐれたソクラテスの伝記はあるであらうか、と。またいふ、彼の懴悔録よりほかにアウグスティヌスの如何なる伝記も本質的に存し得ない。またいふ、キェルケゴールの日記は彼について存し得る唯一の伝記である。このやうにして日記と自叙伝とは一つの範疇に入れられる。そしてこれは或る意味でたしかに正しい、且つ深い見方を含んでゐる。だがその意味を哲学的に解明するための余白を私はもうもつてゐない。

 最後にただひとこと。日記と自叙伝に対する興味が他人の私事の秘密をのぞかうといふ卑しい心、成功主義的または英雄主義的の安価な感激を求むる心にもとづかないにしても、それが心理的主観的なものに対する偏愛、客観的現実と社会的実践からの逃避、主観主義的、個人主義的な道学者趣味、等々のものにしらずしらず結び付いてゐることの多いのを指摘しておくことが必要であらう。日記や自叙伝に対する興味は「文化人」のものであるといふことのうちにすでに或る危険が含まれてゐる。

底本:「日本の名随筆 別巻28 日記」作品社

   1993(平成5)年625日第1刷発行

底本の親本:「三木清全集 第一二巻」岩波書店

   1967(昭和42)年9月発行

入力:浦山敦子

校正:noriko saito

2010年33日作成

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