蜻蛉
──飜弄さる
中原中也
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会社の帰りに社長の宅を訪問した竹山は何時もになく遅く帰つて来た。
玄関先に夫らしい足音がすると、先刻から火鉢に凭つて時計ばかりみてゐた妻君は、忙しげに立ち上つて玄関に行つた。「まあね……」と彼女は三和土の上で靴を脱いでる夫の肩に手を置いて声だけを難儀らしくして云つた。──我国の女がまことに無表情に出来てゐることを知つてゐる者のその誰でもが今彼女の夫に対してしたことは、まあ女優か何かにしか思へなかつたのである。而もその夫といふのは、アメリカイズムの流行中心である映画会社にゐるにも関はらず、珍しくも太い横幅の長い口鬚をつけて、ゐて、女に甘えられるのが嫌だといふのではないが、そんな新式な甘え方を、調子よく受け取れるといふ格恰の男ではなかつた。
「まああたしまだ、仕度なんてしてやあしないわ、それに今晩はあれですもの……夜間(撮映)……ねえ。」彼女は語尾を揚げると共に男の顔を掬ひ上げるやうにしてみた。それからも──部屋の方へ上つて来る夫の後を追つかけながらやつぱり今のやうなことを自分自身聞いて貰はなくとも好いつてな風に繰返してゐた。
「あゝ、いや夜間のことはチヤンと承知だつたから、俺は途中でランチで済ませて来たんだ。」
案外に淡泊と返事をしたが、これが彼の平生のこんな場合の返事振ではない、額口に皺を寄せて火鉢の縁か何かをチヨンと指で弾いてそれから返事をするのが彼の平生のこんな場合の返事振なのである。
「さう、道理でお腹の出来てる顔付だわね。」
妻君も亦快よく唯それだけ云つた。
二人は顔を見合せた。別に笑顔にもならなかつたが互に極めて平明な顔をみることが出来た。「かういふ風であれば何事も好いんだな」といふ、解決に満ちた平明な顔が。夫が仰向いて長火鉢の上の柱時計をみながら飛び出した喉豆に掛けた声で「七時かあ」と云つた。その後また妻君が黙つて時計を見上げた。
「社長は別に悪意を持つてるわけぢやないんだ。」
それを聞いた妻君は初めて笑顔を作つても好い機会を持つたわけであつた。
夫といふのも妻君と同し映画会社の、俳優監督係なる役にある男だつた。監督係なるものが、如何に俳優に嫌はれてゐるかといふことはそれ程説明の必要もあるまい。而して人気商売の、殊には此のプロパガンダの時代に於て、彼等が悪口の種にならぬ限りに於て自己独特の奇態を流行させようなどゝいふ野望を常に抱いてゐるといふこともよく分つてゐよう。従つて彼等の間では彼等が世間に向つて抱くその野望からの当然の産物として出て来なければならなかつたのは、仲間同志に於ては、その仲間の誰でもを褒めたとも譏つたとも理由の分らない噂──まあまあ噂──さうつまり噂なんだ、それを作り出さんことに閑暇がない。その噂に依ると、二三日前から──さう、だから彼等の噂に一日と続くものはあんまりない筈である──竹山を辞職させようといふ社長の考へだといふ噂があつた。今日社長の宅へ行つたといふのはつまり御機嫌伺ひ方々その真否の偵察に出掛けたのであつた。
来たには来たが彼は話材を考案する余裕を持つことなしに来たことを彼は社長の庭園のお世事を言つてしまつた時に気付いた。………「あゝさう、俳優達の悪口だ」、──彼は今社長の前へ来てから始めてホツトした。そして「社長にしろ学校の校長にしろ、家庭を訪問して実際面と対つてみれやあ、恐くない人ばつかりなもんだ………」と来てから第一本目の煙草に火を点けながら考へてゐた。………それから愚にもつかない話を、例へば俳優の私生活などを色んなに捏造しては曝け出してお目に掛けた。社長が一寸した会社のことでの気附を述べ出すと、彼は皮表紙の手帖と買つたばかりの鋭鉛筆とを出して、一寸書きつけては社長の顔をみて、「はァ、はァ、」と云つた。「………あゝなる程………成程、」
不器量であり、不器用である妻君の女優は、本当のことを言つたら三流四流といふ所でなければならなかつた。けれども竹山俳優監督係夫人といふことは、盲同然の人間の寄り集つてゐる所ではその人間の価値如何のどんなに大切な標準器になるかは言ふまでもない。そこで妻君は一流の三四人中に数へらるべき所謂スター女優なのである。然るに朝など俳優部屋の、最も奥の鏡台に着く時など、妻君自身は余り好い心地はしなかつた。──
「今度這入つて来た細つそりした女ねえ、横着なのよ。」
「うムうム、──いやそれは私は気付いてゐないぢやない、今日も社長の所で一口二口洩して置きはしたが、いつたいどんなことをするんだい?」といつて彼は唇を突き出して以て妻君の方へ向けた。
「さあね………」と妻君は俯向いて揃へた指を伸ばして、女優的しなを作つたりしてゐた。
妻君の話の役に立つた細つそりした女優とは、それは妻君の顔と、即ち雲泥の差を有つてゐたのである。出左張屋でもなかつた。けれども出左張屋でなく奇麗な口をムツチリ噤んで大人しくしてゐれば、それがまた妻君には癪なんだらうから………。
一人の撮映監督の親族の娘とその友人といふのが二人ばかり、入社した。それは恰度月給日のその日のことだつた。月給日といへば女優部屋などは、普段とは和気の可なり横溢してゐるものだつた。彼等仲間の党派に変動を来すのも、半分は此の月給日のことだつた。
例の細つそりした女優は、自分よりも新参者の出来たことを、その和気の横溢した中でモヤモヤと感じた。そして古くからの者達以上にその新参者に注意したりした。
──いつたい此の会社の社長といふ男は、会社としての収入のみを考慮の中に入れたが、俳優其の他の傭入や解雇は、全然竹山俳優監督係に任せ切りだつた。そこで竹山は、色んな泣事を並べて来る青年や娘は、殊に娘の方は不精無精ながらに、来る奴来る奴みんな入社を許した。さうして、会社が創設されてから二年目には、最早俳優総数二百人以上の多きに達した。つまり員数にすれば我が国第一の映画会社となつたわけである。併し序に言ふが、給料はといつたら、それはそれはお話にならないもので、女優の三分の一は十円乃至十五円といふ、彼等の必需品化粧料を買ふさへ出兼る程のそれだつたのである。──さう、兎も角員数に於ける我が国第一の映画会社が出来上つた。だがその代り──だから中には下女や子守みたいな女優などゝいふものが、全くその会社では珍しくもないものになつてしまつた。映画雑誌屋は、それを称して女工と呼んだ。さあさうなつて来ると、当然少しづゝでも解雇しなければならなくなつて来た。そこで月末には吃度数人の被解雇者を見るといふ現象も、遂には此の会社の常習となつてしまつた。──そんなら傭入の方は当分止めるだらうに、──いゝえその方は相変ず従前通といふ仕末であつた。──
細つそりした女優は、その日の午後、解雇されたものゝ名前の中に、自分のそれを発見すると、泣きさうになつて社長室へ走つて行つた。
「さうか、今度の中にはおまへがをつたといふのか。」
その、呑気さうな言葉付が彼女には歯痒かつたが、その社長が、自分を可なり大事な者に考へてゐたことがその口振で分ると、彼女は急に、先刻解雇者の名前をみた時から忘れてゐた、それは若い女らしい、それを頭に浮べれば乳房のくらげのやうに伸縮し始める、その理想を再生させることが出来た。すると涙がジミジミと頬をつたつた。涙はみられても少しも恥しくはなかつた。彼女はそれを当然と任じ、寧ろ自明とさへ信じた。
「社長様、あたくしは………」そして涙を一層はげしくポロポロツとその時落した。「あたくしは映画劇に対する使命を………、」殆んど有頂天にそれを言つてしまつてゐた。
「あゝ今のは、言ひ過ぎた………言ひ過ぎだ………!」さう次の瞬間に脳膸が孤立したやうになつて感じられた時、同時に彼女は四辺をケロ、ケロツと見廻した。背後の扉のトップの金属が、たゞ矢鱈に冷たく鈍く光つてゐた。
解雇されたものがその時男女合はせて六人──その中の男優等は竹山に仕打するんだといつてその後間もなく騒ぎ廻つてゐた。
彼等はそして、細つそりした女優の下宿を、屡々訪れた。
「みんな芸術ゲの字も分つてゐない奴等なんですよ。」或物は彼女にかう云つて聞かした。社長に泣きつけば自分だけはまだ入れて呉れるかも知れないといふ位に考へてゐた彼女は、それにどう返事して好いか悪らずに、几帳面に坐つてさへゐれば好いことにしてゐた。
「竹山なんて、ねえ。──あゝまだあなたは知らないんでせう、あれやあね、僕等と田舎廻りにゐた時は僕の下役をしてた位なもんでさあ、あゝン………。」と云つて顔を上の方に向ける男もゐた。
或晩の如き、一人が、彼女を無理矢理に竹山への仕打のことで相談するから立会つて呉れといつて連れ出した。彼女は、連れ出した男を此の世に於ける唯一の寄すがり者のやうに思へる心に浮々した足取で、そのフェルトをペタペタ夜道に打つつけながら、解雇された仲間で一番給料も多かつた男の下宿の方に歩んだ。
映画会社の近所のことで、田圃路だつた。小川の直ぐ向ふの笹籔が、サワサワと秋風に吹かれて音立てゝゐた。何処か向ふの方で、子供が二三人、按摩の笛の真似をしてゐるのが聞えた。
「あゝゝ、世の中つてこんなもんかなあ………。」
急に彼女を連れてゐる男は星空を向つて云ひ放つた。多分彼は彼女に対する衝動を感じてゐたのであらう。
「さう? 何処の会社でも?」と彼女はさも知りたさうであつた。
「大体その現在の世の中といふものは………いや我々役者社会は却々、却々さう一本や二本の調子で渡れるところぢやありませんよ。………あなたもお嫁入──人の奥さんにでもおなんなすつた方が遂々は………。」
「そんなものなのか知ら………?」彼女はヒヨツト星を見上げた。
「ね、此の草は吹くと鳴るのよ。」
「僕に貸して御覧なさい。」
「…………。鳴らないわ。──あゝあれは春の草なのよ、間違へてたわあたし………。」
みんな男だけは集つてゐた。女優の方は彼女一人であつた。
中で一番威張れる者が、その赤らんだ薄い皮膚の眼蓋の上にロイド眼鏡を掛けて、彼女が襖を開くや愛相よく「今晩は」と言つた時、彼女は漸く何だか嬉しくなつた。「まだおし、まひ、では、ない………」と思へた。彼等はまぶしさうに電燈の方に度々眼を向けた。みんなの相談が済んだら、「自分の今後の採るべき道は、此の人に訊かう」とさう考へながらその眼をまた威張れる男の方に廻した。
両親のない彼女であつた。
三月程前まで、彼女は祖母と二人で暮してゐたのだが、三月前その最後の一人の祖母も死んで行つたので彼女は友のすゝめるまゝに女優となつたのだつた。──
解雇された男優達は騒いだばかりで何の反響をも見せては呉れなかつた。
たゞ彼女は、彼等のともすれば冷化さうな竹山仕打組の中間勢力を保たせるために必要な女として、最早解雇されて十日近くになるのに、未だにみんなに揉み廻されて日を送つてゐるのである。
彼女は此の頃、道を歩いてゐて秋津が自分の近くに飛んで来ると、それが親戚の人か何かのやうに思はれるのだつた。………
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語註は省略しました。
※中見出し「一」がないのは、底本通りです。
入力:村松洋一
校正:shiro
2019年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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