高橋新吉論
中原中也



 こんなやさしい無辜むこな心はまたとないのだ。

 それに同情のアクチイビティが沢山ある。これは日本人には珍らしい事だ。

 この人は細心だが、然し意識的な人ではない。意識的な人はかうも論理を愛する傾向を持つてゐるものではない。高橋新吉は私によれば良心による形而上学者だ。彼の意識は常に前方をみてゐるを本然とする。普通の人の意識は、何時も近い過去をみてゐるものなのだ。──

 彼の魂にとつて現象は殆んど何物でもない。といつてこれは現実を無視してゐるといふのではない。寧ろ彼こそ一番現実の大事な人なのだが、蓋しそれは幻想としてだと先づ言つて置かう。──彼にとつては常に真理が必要なのだ。それが彼の良心の渇きで、云はゞ彼は自動機械的に現実を材料としての夢想家なのだ。

 何時か彼は詩人であるよりも実社会の人であると思つた事はあるかも知れない。彼には自分を詩人だと思ふだけでは安心出来ないものがある。併しそれは彼の夢想が余りにありの儘の現実を扱ひ得るからで、夢想がかくも現実的であるといふ点で、高橋新吉は人類中非常に特異なものなのだ。けれどもこのことが彼の詩を却々整つたものとさせない重要な原因なのだ。

 普通に詩が整つてゐるといふことは、伝統に頼ることから得られるやうだが、高橋新吉は純粋な良心家で、伝統に頼る事は彼からは堕落としか思へない。彼には歴史も宗教もほんの時間的部分的なものに過ぎない。勿論人間は全的には何も支配することは出来ないことは彼も知つてゐるのだが、けれども彼が生きるとして、時間的なものに不満であるのは自然の勢ひだ。そして彼が或時詩の中でつぶやく、「詩の拙い奴は想像力の発達してることで分る。」(この言葉は少し覚え違えてるかも知れない。)

 かういふ人は我々の生活の文明的な部面では、随分変なものかも知れない。例へば、余り善良なものは却つてあく人であるかの如くおびえるものだといふシヱクスピヤの言事は高橋に当はまるだらう。又、これはほんの私の推量だが、彼がはにかむ時彼は平気なので、彼が平気な時彼は羞んでるのだ。この点高橋新吉は或は不良少年の心理に似てゐるのだが、彼の無意識的な善良さが人々の中に生きてゐるうちにさうなるのは当り前なのだ。

 態度や動作によつて皆目評されない人がある。彼は自分をセンチメンタリストと粧ふことがあるかも知れないが、それは彼と人々との齟齬を埋合はせる彼の自然の術なのだ。勿論理想としては、その粧ひもあるよりはない方がよいのだが、六ヶ敷いことだ──

(生れしながらの睡みに、そなたよ眠りてあれかし──ボドレル)


彼の欠点


 彼がヒュマニティから出発したことは明かだが、立派なヒュマニティは理論を欲するものであるのか、彼は非常に考へる習慣を持つた。けれども彼のやうに一切を演繹することの出来る人は、ヒュマニティの実質を見失ひ易い恐れがある。彼はそれを見失つてゐる。

 彼の詩のモチーフはヒュマニティではなく、

 言はゞ、「俺は全てが分つて生きてゐるのに、人々は分らないで俺と同一平面上にゐる」といふことのやうだ。彼の詩が扱つてゐるものは何時も普遍的なものだが、それを扱ふ動力は私的感情だ。──私が思ふに、彼の考へる習慣は彼の良心の義務観念が作つたのだから、彼は考へた後では「一個人としての実践」をすればよいのだ。つまり忠実な体感をすればよかつたのだが、彼のやうに絶対の要求の強い人はそれを二次的のことと侮り易い。

 尤も誰でも熾んに考へた直ぐ後体感的な気持になれるものではない。大抵の良い芸術家が一通り人生への尺度を持つてから暫く不妊であるのはそれだからであらう。そしてこの不妊期が心臓(ヒュマニティの実質)を目覚ますものらしい──

 彼が考へることは彼の良心を自覚的にするだけで、だから彼はその自覚的になつた良心でする経験、即ち修得物を詩にすればよいのだが、彼は余りに美事に考へたので、考へたことをその儘詩の中に持ちだしたいといふ欲望があるやうだ。──

 即ち彼は行為の前の義務──認識──の上で実に目覚ましい詩人なのだ。

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 思つたことの五分の一も書けないし、方々無理があつて見せるに恥しいが、


手紙


 僕は貴兄の好きな無名の者です。僕は貴兄を結果的にといふよりも過程的に見て大好きなのです。二三日前初めて辻氏を訪ねたら貴兄に手紙を出してみるがいゝといはれたので、手紙を書かうとしたのですが、手紙つて奴が僕には六ヶ敷いから、過日書いた貴兄についての論文(?)を送ることにします。

 なにしろ貴兄が特異で在ることと、僕が論文を纏める才にひどく乏しい上に論文の大体の相手を持たないために随分変なものかも知れないが、単なる好意で書いたものでも単なる悪意で書いたものでもないのだから、

 読んだら返事を願ひます。

昭和二年九月十五日
中原中也
高橋新吉様

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

底本の親本:「赤門文学 四・五月合併号」

   1943(昭和18)年41日発行

初出:「赤門文学 四・五月合併号」

   1943(昭和18)年41日発行

※()内の編者によるルビは省略しました。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:村松洋一

校正:西埜五百里

2014年1114日作成

青空文庫作成ファイル:

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