耕二のこと
中原中也
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主家で先刻から、父と母との小言らしい声がしてゐた。時々その声の間から、調子の高い耕二の声が聞えた。
それが聞えなくなつてから間もなくして、その時書斎で読書してゐた耕二の兄は、机の前の障子の中硝子から弟(一字不明)口笛を吹きながら仰向勝に耕二(五字不明)を、みた。
「何処に行くんだい。」
「野球の仕合さ。」
「さうか。」
兄は耕二が野球用の道具を何も持つてゐないので、「如何したんだい」と訊きたい気もしたが、強ひてその気持を抑へた。といふのは、それでなくても厳しい父と細々し過ぎる母とが、殊に遊ぶこと以外には何にも考へようとはしない耕二に、執拗にも間がな隙がな小言を言ひつめるので、今もやつと許されて出掛けるらしい耕二に沢山の言葉は掛けないで出してやりたかつた。
「何て幸福な今の耕二だらう!」兄は読みかけてはさう思つた。
「今な奥さん、坊ちやが隣り下駄屋から──あれ何言ふか、野球手袋な、あれお主婦さに出して貰ふ彼方駆けたで。わたし内帰ろ言ふても駆けた、えゝのか。勉強せんで。」
暫くして支那人の傭車夫が母にかう言つて笑つてゐるのが聞えた。それからその支那人を信用し切つた母の「お前よく言つて呉れたね、そんな時はこれからでも一寸わたしまで言つてお呉れよ」といふ声が聞えた。「うんう、う……」と支那人は点頭いた。
「支那人にしては珍しい好い人間だ。」と兄は思つた。「いや好いんぢやない妥協的なんだ。」と又思つた。「あれが外国人だから嫌な表情にみえないんだが、日本人だつたらどんなに嫌に見えるだらう。」
「あれでゐて、グラムやバットを、隣りに預けて置くやうな芸当が出来るんかなあ……如何いつてお主婦に話をつけたんだらう……いや、耕二が芸当が出来るんぢやないんだ、親達がやかまし過ぎるんだ。」
──兄は再び読書にかゝつた。
ダ・ヴィンチは、入れられぬ故郷の町を後に、自作の画数枚を背負つて雪のアルプスを越え………「今に………!」兄は何時の間にか昂奮してゐた。卒業の時恩賜を貰つて自分と母との前でそれを出してみせた親族の男の顔が浮んでゐた。「耕二は怠けたつて好いんだ。親父は俺を長男に持つて不足を言ふ所はない!」…………
父は、如何せ又新しく買つてやらなければ承知しない耕二と知つてゐながら、時々怒つた機勢などにはグラムを引き裂いたりした。母は裂かないまでも匿した、祖母は何時も匿場を考へ付けた。
午飯の時に父が言つた。
「耕二は当抵野球病が癒りさうもないが……。」
さういふ父の顔を兄は横からヂツとみてゐた。頬鬚が品の好い中年の紳士らしくて、全く他人として父が親しめた。
「あんたは知つてるの?──耕ちやんはキャプテンなんだつて。ほんとに仕様のない子ねえ。」母は嬉しさうにそれを兄に知らせた。
「うん、今朝のことさ、野球に行くつて言ふから今日は止せつて言ふと、僕はキャプテンだからそんな理由にはいかないつてのだ。」
「ヘー。」兄も嬉しさうだつた。
「困つたもんだ。」父は遠くの木の葉でもみるやうな眼付をしていつた。
「なあに、今によくなりますよ。」
「それやあ、おまへは自分を標準にするからのことだけれど、耕二はさうは行かん。親の俺からみてもおまへと耕二は大変な違ひだ。」
父は食べ終ると楊子を啣へて自分の居間の方に行つた。その後を兄が尾いて行つた。
父は扇風機を掛けて置いて煙草を吹かし始めた。そして煙草を吹かしながら庭の方をみてゐた、兄は父の頤をみ入りながら何だか喋舌りたさうにモヂモヂしてゐた。
「まあ此の暑いのによくも耕二は野球をしてられるもんだ。尚更馬鹿になる。」
父は突然額に皺を寄せてこんなことを言つた。
床の間の掛軸の話を一寸してから、兄は「此の頃は患者が多くつて随分労れるでせう」と言つた。
「うん………。」
父は満足げに又一服煙管につめた。だがその一服が終ると急に父の顔が緊つた、と思ふと楊子を棄て、それから煙草盆の抽出を閉めた。
「みち!──枕を出せ、午睡するから。」
兄はその父が物足りなかつた。
祖母が死んだ子を褒めて耕二を悪く母に言つてゐたのであらう、そして父が母を呼んだのはその話の終り切らない時だつたのだらう、兄が自分の部屋にゆく途中、茶の間を通ると祖母にその話の余波をまはされたから。
「祖母さんは今頃時分ヤツと御飯ね。」
「わたしは今朝から洗濯が沢山で、今ヤツト終つて、こゝに来て食べてるところだよ。──まああんたゞけでも勉強おしよ。」
兄は書斎に来た。読みさしの頁をみるとなんだか胸を蒸気で圧されるやうだつた。暑さは幾らでも募つてゐた。庭の池の水が緑黒くドロドロになつて、囲りの木の葉が動かずにヂツトそれを覗き込んでゐた。
「いや、いくら俺が耕二程言はれないにしろ、祖母さんにはかなはない!」
蠅が自分を障子にブツ突ける音がパタツとした。
耕二には、父の少しでも能く目の当る所をといふので、父の居間と襖一重隔てた三畳の間が与へられてあつた。
兄が湯から上つて来ると、耕二がボールをグラムに投げ込んではまたボールを手に取つて投げ込む──それを殆んど無意識に繰り返してゐるらしい音が、三畳の間でしてゐた。
兄が耕二の間の障子を開けると、「負けちやつた」と耕二はいきなりそれだけ言つた。
「他のことなら此方から訊いたつてロク〳〵答へない男が、自分の好きなことならあんなに訊かない先に答へるんだ」と兄は思つた。「それに出掛ける時には、何処と仕合するつてことさへ聞かせなかつた奴が!」
北向のその部屋はもう暗さを感じ始めてゐた。隅に墨だらけになつた小さな机が置いてある他には、小学の教科書とボロボロの学校鞄とが机の下に抛り込まれてゐるだけだつた。その中に耕二は足を投げ出して先に言つたボールをポツタポツタ言はせてゐるのである。そしてその着物といふのが膝まであるかなしなのであつた。
台所の方からは、──三十人に近い此の家族の夕飯仕度で騒がしかつた。看護婦達が入院患者の若い男と巫戯ける声も喧しく聞えた。それから附添人の婆などの皺枯れた、けれどもよく透る冗談話や笑声も。──恰度百姓娘の、赤いネルの腰巻を思はせるやうな夏の日の夕飯仕度の頃の中でされるには余りに相応しいそれらの話声や物音であつた。それからまた隣の父の居間からは彼の聞き覚えのある声と、父と母との上づゝた調子の話が先刻から絶えずしてた。
兄は何時もさうだが、此の時は殊に耕二の部屋にチヤンと坐る気になれなくて蹲んでゐた。湯上りではあるし、蹲んでゐることは却て熱苦しかつた。そしてそんなことに一向無頓着で俯いてボールで時を潰してゐる耕二が何だか癪に障つた。
ヒヨツト机の上の箸のやうなものが兄の目にとまつた。
「机の上のあの細い棒は何なんだい。」
「耳掻。」
──「こんな奴でも耳掻なんか買つて来るんだらうか」と思つた。「それともまた、何処かの道に落ちてたのを拾つたのかも知れない。」
「その耳掻を借せ。」
「耳掻か。」
「決つてるぢやないか!」
「これやいつたい買つたのかい、大変具合が悪いが。」
「学校の手工さ。」
「ハハハ、道理でなあ………これやあこんなものは使へやしない。」兄はそれを畳の上に投げつけた。
「とりたいだけもう耳垢をとつたんだ。」弟は相変らず手を動かしながら、その儘で言つた。
「あんなこと言ひやがる」と思つた兄は一寸調子外れをした、兄は父の居間との境の襖の方に目を移した。
「誰だい、来てる人は。」
「田中さんさ。」吐き出すやうに言つた。
耕二が耕二の口から嫌な人だと言つたのは前にも後にも田中といふその男以外になかつた。兄もそれを言つた時の耕二の顔は今でも思ひ出せる程嬉しかつた。
「あゝあの金縁かい。」兄はスツカリ「兄弟!」といふ調子で言つてしまつた。
──「まあさうまで言はれるのに私が止めるわけにも行かないが、それやああなたの御志は立派だが、併しそれであなたの一生涯が潰れるつてことになると………私も………。」父の声である。──
「いつたい何の話だい。」
「フフフ………。」
「言つたら好いぢやないか。」
耕二は何とも言ひ出しさうではなかつた。
兄は手持無沙汰なのでやがて耕二の机の方に近づかうとした。すると耕二が口を利き始めた。
「あのなあ、遠い親類の主人が死んだんださうだ。」
「誰の遠い親類か──分るやうに言へ。」
「田中さん。」
「それで。」
「だから今度田中さんが、その家には子供も大勢だし、誰も世話する者がないから自分が世話をしに、満洲のその家に世話に行くんだつて。」
「もつと小さい声で言はなきや!」
「もう済んだのさ。」
「お父さんは田中さんがよつぽど親切な人だつて。」
「何時聞いたんだ。」
「さう思つてる。」
「それに違ひないぢやないか。」
「フフフ………。」
「おまへみたいにそんな、人を馬鹿にしたやうな笑ひ方をすると余計に自分が馬鹿にされようぜ!」
兄はさう言ひ棄てゝ耕二の間を出て行つた。一間置いて次の間で、着物の綻びを繕つてゐた祖母が通りかゝつた彼に訊ねた。
「あのパツタパツタいつてるのは何かおまへ知らないかい、耕ちやんの部屋らしいが。」
「耕ちやんがまりでさせてんの。」
「壁に投げちやゐまいね。」祖母は剃られて青白い、眉毛の跡を吊り上げて、その老眼鏡の上から覗くやうに言つた。
「さうぢやないけれど。」
祖母は片手で膝を突いて立つた。そして耕二の部屋の方に行つた。
兄が自分の部屋に来て机の前に坐らうとする時、「朝からまりをしたら、帰つて来てからでも勉強おし!」といふキスヰ声がした。
兄は、今耕二にツツケンドンな口を利いて来たことが忽ち悔いられた。
晩飯が済んで一時間もすれば耕二は床に就くのが常である。さうして父と母と祖母と兄とは父の居間に集まる。そしてその時の話題といへば大抵が、殊に兄が其処にゐる場合は、子供の将来に就いての空想であつた。
此の晩は将来は出ないで耕二の話が出た。遉に現在の耕二を話題にすれば、そこに集つた人達も空想の悲哀を、茫然ながら感じないで済むものとみえて、稍々沈んだ調子で話されてゐた。
「あれだけ好きな野球なんだから、負ければ悲しいつてことでもあればまだしも………それもない。」
「いやお父さん、あれで負けたことはやつぱり口惜しいんですよ。」
「だが御覧なさい、『負けたァ』、たゞそれしか言はないもの、ね。」
「それに顔をみたところで何処を風が吹いたやらつて顔ぢやないかね。」
母と祖母とが続けざまに兄に向つて言つた。そして言つた後父も加つて三人で兄の方を睜つた。「今度はおまへの番だよ」つて眼で。
「自分等みたいな人間ばかりはゐませんからね。」兄が取りあへずさう口に上した。
「それまた理窟だ。」父が返した。
来診を報知らせる電鈴がその時鳴つた、「夜遅く………」と唸きながら父は立つて行つた。
「耕ちやんは怠けるのなんのと言つてもまだ家嗣ではないのだからなんだが、あんたが………。」
それは祖母が毎日のやうに言ふことである。それから、大臣になつてゐる自分の幼な友達だつた男の逸話を祖母は始めるのであつた。その話の間から母はまた「こゝにも問題はあつた」といふ顔を兄に向けた。
話頭が兄の方に向けられさうになつた時、父が帰つて来た。
「あんたは怠けて出来ないんだし、耕ちやんのは好い頭でないのとそれに欲気がまだ出ないんだから………。」
母が今来た父の方をみながら言つた。
「ふん、全くだ」と父は思つたらしく、マヂマヂと兄の顔を見入つた。父の視線を抹殺する様に兄が火鉢の中を掻き混ぜ始めた。
父も母も祖母も、耕二の話の時には兄が級長をしてゐた小学時代を引き出した。だが兄の話になると、──兄は中学に這入つてからといふもの、まるでお話にならない成績を取つてゐた。兄は段々自分が話の中心になることを感ずるとモヂモヂし始めた。
「あゝ何と面倒臭いことなんだ!」………ダヴィンチの顔──故郷の町の嘲笑──アルプス山の雪………と、まるで今彼が掻き混ぜてゐる石綿の灰の中から出て来るやうに、先達読んだ本の一節が浮んだ。「故郷の嘲笑、故郷の嘲笑──今に………クツツ!」
「うむ、おまへに見せてやるものがある、」彼は父の言葉をこれまで耳にすると、ガクツとたゞ一度だけする身慄ひと共に父の方を瞶めた。「みち、一寸倉に行つて乃木さんの訓言の掛軸があるからあれを持つて来い。」
「あゝ耕二は毎日の様にこんな目に遭ふのだ………さうだ、如何せ耕二は毎日の様に斯ういふ目に遭ふのだ。だから耕二を悪く言ひ出せば俺の方だけは………。」──「いや、それで耕二は俺を憎む、それで耕二は俺を憎む………。」
パタパタパタと眠さうな足音が隣の間でして、障子が開くと、そこに突つ立つて耕二が欠伸一つした。父の居間を通つて耕二は便所に行くらしかつた。──そこへ母が倉から手燭を持つて飛び出して来た。
「ありません。またお昼でもみませう。」
「ないことはない。だから俺が早くから電燈を倉の中に取り附けて置けといふに未だにしないんだから。──仕方がない、もう好い!」
耕二は帰つて来るとみんなの寄つてゐる火鉢の前にトンと坐つた。
「もう朝か。」
耕二が訊ねた、みんなが笑つた。耕二はその笑に全く無関心のやうに、卓の端にのつかつてる茶々碗の縁に光つてる小さな電燈に吸ひ込まれるやうにそれをみながら、「緑茶」と言つて口をムクムク動かした。
「またそれを飲むと明日朝目覚が悪くて困るから。此の間わたしや此の子がお茶を飲んで寝た朝起すのに一骨折だつたから。」祖母が言つた。
耕二はそれは言はれるとスツト立つて襖の方に行きかけた。母はその時の耕二に憐憫の情を持たないでゐられなくて、「まあもう少しいらつしやい」とさう言つた。──耕二はそのガシヤガシヤの手を襖の把手に手を掛けた儘、此方を向いて口をムツチリさせてゐた。耕二のなめらかな頭の影が、真白な襖の面へ茫然浮き出てゐた。──父が菓子鉢の蓋を取ると、「一つだけ食べて行け、え、耕二」と言つた。その後を祖母が耕二の顔に向つて「フンフンフン」といふ咬みつきたいやうな、肉親仲間以外では決してされることのない笑ひを一つかけた。
「全く堪らない場面だ」と兄は思つた。みんなを遮るやうな眼付をしながら耕二に言ひ掛けた、「もう行つて寝ろ寝ろ。」
「あんなことを言ふものぢやありません!」母が下唇を垂らすやうに言ふ。そして急に耕二の方に向き直つて笑をつくつた。
「兄さん行つて寝よう。」耕二はさう言ふなり襖を開けた儘で床の方へ行つた。
「俺がみんなと、もう一足といふ所で捏造になる所まで喋舌ることを耕二は知つてゐるからだ」と兄はさう考へると今暗い部屋の中に、小さな蒲団にくるまつて寝てゐるであらう耕二がとてつもなく気味の悪いものに思へた。
兄が学年試験が済んで早く成績表の来るのを待つてゐる時、田中さんから手紙が来た。子供が出来たといふ。──やつと来た兄の成績表には「原級」と印肉の判然ついただが、小さな印が捺されてあつた。
その後当分、耕二は何時も裏庭でコソコソ一人遊んだ。兄や父の顔をみるとニヤニヤ笑ふやうになつてゐた。
或日──それは春休みの暖かい日だつた。兄が懐手をしながら入院患者に顔を匿す様にして裏庭に出てみると、耕二が独楽を廻してゐた。早春の淡紫に湿つた土の上で、独楽はチリチリヽヽといふ微かな音を立ててシンミリ廻つた。耕二は、独楽を廻して置いては、頬を殆んど地面につけるやうにして独楽の心棒をみつめてゐた。だが兄がそこに近づいてからは、心棒と兄の顔を等分にみながらニヤニヤと笑つた。
「独楽廻しになれば相応だ。」兄は怒気を含んで言つた。
「廻る〳〵〳〵………あゝもう寿命が切れかるー………心棒が揺らあ。………」
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語註は省略しました。
入力:村松洋一
校正:shiro
2018年10月24日作成
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