我が詩観
中原中也
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詩観とはいへ、書かんとするのは要するに私の文学観であり、世界観の概略でもあるから、それに今日や昨日に考へ付いたことではないことを書くのであるから、多くの人に読んで貰ひたいものである。
何故之を書くに到つたかといふと、もともと死ぬまでに一度は是非とも書きたいと年来の希望があつたからでもあるが、由来抒情詩人といへば、何にも分らぬくせに抒情だけはどうした拍子でか出来る人間のことだ位に考へてゐるのが一般の有様であり、論議の盛んな当節にあつては、尚更そのやうに考へられる向きも多いので、聊かそれに答へてみたいといふのが、直接の動機である。
寧ろこれは、此の詩観が大体の結着をみた当時、即ち今より十三年ばかり前に書けばよかつたのであるが、当時は青春で一杯であつて、論文を纏めるなぞといふ気持には不向きであつた。その後次第に私の理論的な生活は減退し、直観だけに信頼する傾向は次第に増した。その十三年ばかり前には、日に少くも三頁のノートを取らないことはなかつたし、実に多くのことを考へたのだが、今茲にその百分の一も想起出来るかどうかと心細い次第だ。(それらのノートといふのは、その後みんな破棄してしまつたのである。)体系の姿こそ与へなかつたものの、自分では終始一貫した世界観を把んだつもりであつたので、今書かうとすると、極度に構へて取掛りたくもなるが、論文の方法に不慣れな自分としては、却て思ひ付くまゝに細部を並べて、然る後それを一括するといつた態度を採ることが、途中で倦怠を覚える心配がなくて済みさうに思へるから、そのやうにする。
こんな前置きを書くと、さも長いものを書きさうでもあらうが、骨子だけを誌すにとゞめて、色んな場合に適用してお目にかけるといふことは一切抜きにするから、そんなに長くはなるまい。但し、よく了解してさへ貰へれば、勿論色んな場合への適用も予想出来るやうには、書くつもりである。
昭和五六年の頃より、つまり小林秀雄が文壇に現れて間もなくの頃より、文芸評論は頓に盛んになつて、現今猶益々盛んである。
然るにその多くは、文芸評論といふよりも、文芸と一般世間の常識との関係を論じたものといふか、文芸と社会を連関させて論じたものといふか、兎も角文芸自体のことよりも、それと他の物との関係を論じたものである。これは、河上も云ふ通り、現今の日本にだけ生じてゐる事で、蓋しは文芸の貧困を語るものであらう。
さうした中で、私がこれから書くことなぞは、余りに平和に見えすぎるかとも思ふが、私としては、私の生命の、「身の振り方」を決するために必要欠くべからざる思惟の季節であつたのだし、普通に主観的と考へられる抒情詩ではあるけれど、主観的なものに表現の安定性を与へるためには、客観的なものを扱ふ場合よりも却て一層の客観的能力を要することでもあるから、近頃の論文に慣れた読者の眼が、途中で棄てられないやう希望する。謂はばその主観的な抒情詩の背後に、如何なる具合に客観的能力が働いてゐるかを示すことこそ、此の小論の主旨でもあるのだ。
附加へて云ふなら、音といふ無形物に形を与へる作曲といふ仕事には、最も男性的能力を必要とするといふ、ワイニンゲルの考へを、芸術のこととさへいへば、低俗な意味での「好きこそ物の上手なれ」で片附けてしまふ我が常識界に、及ばず乍ら徹定させてみたいと思ふのである。
神は在るか。──神が「在るか無いか」と考へる以上、在るとも無いとも云ふことは出来ぬ。然るに「在るか無いか」と考へる以上、その考へることは存在する。ではその考へることは如何にして可能であるか? 斯かる時人はどうしても或る根原を設定せねばならぬ。その設定を何と名付けようと勝手だが、恐らくそれこそ人類が「神」と呼んで来たものの起原に相違あるまい。
仮りに無神論者が、神は無いと主張する時、その主張は何に依拠してゐるのか? とまれ何者かに依拠してゐるのは事実であらう。それを「神」と呼んだら何故悪いか? 「神」といふ言葉が、宗教裁判のあの過酷を生んだ欧羅巴に於て、則ち神自体よりも神を祀る人間習俗の中に屡々不幸を招来したことがあつたといふので「神」を厭ふといふのならまだ分るとしても、日本に於て「神」を何故に厭ふ者があるのであるか?
ニイチエは「神は死んだ」と云つた。然し彼は「運命」といふものは信じた。その「運命」を、どうして神と呼んでは不可ないのか?
脳細胞の運動の偶然の作用が思考作用だと云ふ学者もゐた。では、脳細胞の偶然の作用が思考となるやうにしたのが神だと、何故考へてはならないのか?
所で、私は今、神が在る無いを唯決定しさへすればいいといふ所存ではない。神が在れば、どんなよいことがあるかといふのが問題である。
もともと「神が在る」といふことは、私の直観に根ざすのだ。もつと適確に云ふなら、西田幾多郎の「純粋意識」に根ざすのだ。扨、私の直観が神は在ると云ふとなら、その私の直観は何故にさう云ふのであらう?──私の直観は、即ち私は、此の世に生きて、事象物象に神秘を感ずるからである。そしてその神秘は、魂の愉悦であるからである。斯の如き云ひ方は、余りにも所謂高遠に過ぎると思ふ人もあらうが、その魂の愉悦たるや、日常極く普通な状態に於て、感じられるものであつて、河上の言辞に従へば「虚無の美」であるし、ポオが、「詩の本質は、丁寧にいへば、心の陶酔である情熱からも、精神の糧である真実からも、全く独立したものである(ヨネ・野口訳)」といふ場合の、その「独立したもの」と云ふことも出来る。
だが、神秘を感じて魂の愉悦を覚えるといふことが、私の直観だけのことだとしたら、問題は、何等緊要の事ではなくなるに相違ない。
所で、私はその愉悦たるや、濃淡の差こそあれ、凡ゆる人間に在ると思ふのである。無いといふ者があるとすれば、それは無いと感ずるのではなく、無いと感ずると、余りに漠然知覚するので、無いといふ表現を採るのである。
(凡ゆる誤謬は直観自体の中にはない。それの表現手続きの中に生起するのである。又、凡ゆる思惟の矛盾は、その対象自体の中にあるのではない。思惟の手段、即ち言語──それの不撓性、非同時性等々に由来するのである)。
それに、(人間に於ける全ての要素は、その配合の比例といふ点や、進化の程度といふ点では様々だとしても、要素の数といふ点では、全く同数だと考ふべきものである。若しその数が異るとするか、人間と人間とが論じ合はうとすることは、全く以て滑稽なこととなる。)
神秘も魂の愉悦も、要らないとする人があるかも知れぬ。所で人間が物を創造するのはその源に於てはそれら神秘だの魂の愉悦だのといふものではないか?
とまれ、此の世に更新を与へるもののその原初、その胎盤は何か? 人々が普通一般に考へる程有形的な原初といふものはない。工場が運転するためには、先づ発明家が製作品の設計を渡さなければならぬ。設計が生ずるためには、最初は唯盲目的意欲とも見える発明家の意志がなければならぬ。その意志を、発明家自身は神秘とも感じようではないか?
神は在る。では、私の神は善意の神か?──勿論である。何故なら善意といふものが在つて然る後神が在るのではなく、神といふ一切の根源が在る「在り様」こそ善意である筈だからである。(此処らをもつと厳密な言葉で書くに書けないこともないが、私は読者の頭を信用したいし、徒らに侃々にもなりたくない)。
勿論、斯く信ずる私の上に、神の悪意の仕業とも見える事も起るであらう。けれどもそれは途中のことだ。何故なら、帰する所は、あの路この路を径た上での善意の国である筈だからだ。
茲で一寸序でに述べたいことは、「さうか、では悪意の仕業とも見えることがあつても、関心するには及ばないのだな」と考へ勝ちな人々が少くはない。だが、悪意の仕業とも見える事が起ることもあるといふことは、起つても好いといふことではない。状態の説明を、意志への指唆と取違へるといふことは、屡々人間脳膸の犯す習性的誤謬である。(尤も、その習性たるや、根本的なもので、純粋持続の完全表現は絶対に不可能だといふことに由来してゐる。だが茲でも亦、完全表現を期待すまいと考ふべき理由はないことを附加へて置かう)。
則ち、私は神の悪意の仕業とも見える事──不幸や災害が起る毎に嘆かずにはゐられない。嘆いてゐる時は神をも忘れてゐる。然しやがて神が想ひ出されるのだ。もし想ひ出されなかつたとしたら、嘆きは何時終るといふのだ? ゴマカルといふ手段は、私にはない。神は瞬時想起されるが、またやがても消失する。私──私の気質は、理性的ではない。(理性的ではないといふことは、理性が無いといふことではない。AはBの百倍の理性を持つてゐても、AはまたBの百五倍の我執を持つてゐれば、AはBより「所謂感情的」である)。
ユマニテ(Humanité)に就いて。──私は、ユマニテを疑ふことは出来ぬ。仮りに一心にそれを疑ひたくなつたとするか、その疑はなければならないのは、良心があるからで、良心もなかつたら、疑つてさへみないであらう。そしてその良心こそ、ユマニテなるものではあるまいか?
良心や道徳を、人類の後天的獲得物だとする説がある。さうであつても構はない。問題は、では何故にそれは後天的に獲得されたかといふことだ。とまれ、「後天的に獲得される」に到つた先天的事情は存在したではないか?
又、道徳は時処に依つて異るさうだ。それはさうだらう。だが君は君に最も影響した時処の道徳的感情に因つてのみ、事物に対し、事物を感ずるであらう。(道徳の様式が異るといふことは、道徳精神が異るといふことではない)。
ではそのユマニテは、詩と如何なる関係があるか?──ユマニテが、論理的に詩と直接の関係があるかどうかは議論のある所だ。だが私にも、これだけのことは分つてゐる。先程の「神秘」を多かれ少かれ感ずる者として、ユマニテは感じないといふことは考へられぬ。例へば神秘の探求に憑かれて、ユマニテに比較的無頓着になつてゐる状態といふものは考へられるが、神秘には感ずるが、ユマニテには感じないといふやうなことは考へられない。またその逆に、ユマニテには感じて神秘には感じないといふことも考へられない。ユマニテには感じて、如何なる美の様相にも感じないといふ世上によくある道義家は、多かれ少かれ機械的な人間である。(茲で証明を試みることは無暴である。何故なら同感の形式でだけ伝達出来ることといふものはあるのである。例へば直観の、逆証明は成立たぬ。もしそれが成立つとしたら、心意といふものは存在を解消する。即ち時間は、解消する。然るに、我等がゐるのは、時間の世界である)。
斯くて、ユマニテと詩と、仮りに全然無関係なものだとしても、ユマニテに感じる人にでなければ詩は生れないし又、観賞も出来ぬわけだといふことは云へる。
扨、私事、神は信じたが宗教家といふ人間仕事の一様式にも吸引を感じなく、さりとて神学者にもなりたいと思はず、又、ユマニテは信じたが、例へば社会事業にどれといつて縁も生ぜず、さりながら、詩には心ときめいたのである。小林の言葉で云へば、私の「生理の秘密」が、詩に向いてゐたのである。
だが、いよいよ、では詩をやらうかと決心するためには、詩の限界を見定めてからでなくてはならぬと思ふのであつた。
といふことは、言換れば、詩が詩であるために必須な状件は、何かといふことを査べることであつた。
其の間の探究を、茲に掲げることは、徒労に帰する。
不十分に、さては断片的に、誌すことは出来るにしても、尠くもこの小論中に書くとしたら全くの無意味でさへある。ボオドレエルが「技巧論の不可能」となすものが、茲で泌々と思ひ出されるのだと云つておかう。
が、強ひて一口に云つてみるなら、私は自分の文体を、全くギリギリの所で捉へたのである。
インタープリテーションでなく、まづは詩であるためには、苦しいと云へば苦しい、長い道を歩いたことであつた。
近頃流行の、「文学と政治」のことに一寸言及するならば、文学の対象としては、一切物が対象となるわけだから、無論その中に政治も含まつてゐる。そこで、それに興味の持てる文士は、持てるだけ持てばいいのだし、但し政治的関心がないから、それで不可ないとか好いとか云へる筋はない。
私は、政治のことは少しも知らないが、然し、それと文芸との関係は知つてゐる。又経済学や自然科学に就いても、まるで知らないが、やはり文芸との関係は知つてゐる。つまり、事物の属すべき範疇を見ることは出来るのだ。
然る後は、縁があつて、政治に興味の持てる時もあらば興味を持つであらう。それで詩人として、どうして不可ないことがあらうか? 不可ないとは云はないまでも、これでは詩人が狭量だとのやうに思へる人は、詩の世界の広さを知らないからのことであらう。私としたら、読みたい詩の百分の一も読まずに死ぬであらうと思へば、自分の子供にも詩をやつて貰ひたいくらゐのものなのだ。
何かのために。──私は西田幾多郎著「自覚に於ける直観と反省」に共鳴するものだ。我が詩人諸士がそれを読まれんこと秘かな願ひです。
詩的履歴書。──大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
大正七年、詩の好きな教生に遇ふ。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
大正九年、露細亜詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞといふことは、随分先から行はれてゐることなんだなと安心す。
大正十年友人と「末黒野」なる歌集を印刷す。少しは売れた。
大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思ふ。
仝年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。
大正十四年四月、小林に紹介さる。
大正十四年八月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。
昭和二年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。
仝年十一月、諸井三郎を訪ぬ。
昭和三年父を失ふ。ウソついて日大に行つてるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧ろウソが明白にされたので過去三ヶ年半の可なり辛い自責感を去る。
仝年五月、「朝の歌」及「臨終」諸井三郎の作曲にて日本青年館にて発表さる。
昭和四年同人雑誌「白痴群」を出す。
昭和五年八号が出た後廃刊となる。以後雌伏。
昭和七年季刊誌「四季」第二輯夏号に詩三篇を掲載。
昭和八年五月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
昭和八年十二月、結婚。
昭和九年四月、「紀元」脱退。
昭和九年十二月、「ランボオ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
昭和十年六月、ジイド全集に「暦」を訳す。
仝年十月男児を得。
仝年十二月「山羊の歌」刊行。
昭和十一年六月「ランボオ詩抄」(山本文庫)刊行。
大正四年より現今迄の制作詩篇約七百。内五百破棄。
大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:shiro
2017年9月24日作成
2018年4月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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