詩に関する話
中原中也
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一、序
近頃芸術は世界全般に亙つて衰へ、その帰趨を知らない。種々なる主義傾向によつて賑はつてゐるとは云へ、各人は衰弱し、独りゐては考へ込み、人と遇つてはカラ笑ひしてゐる。私も亦同様である。然るに今日私は過去五年間の暗中模索、傷ましき躁宴の後に、聊か芸術の泉なるものが依て以て存する所以に想ひ到つた。──どうぞ愚人の囈言も偶にはよいとして、私の語る所を聴いて貰ひたい。
ありとある微分値の間を駆け巡り、今日積分値にまで漸く辿りついてみると、案外に道は近きにあるに驚かざるを得ない。
要するに芸術とは、自然と人情とを、対抗的にではなく、魂の裡に感じ、対抗的にではなく感じられることは感興或ひは、感謝となるもので、而してそれが旺盛なれば遂に表現を作すといふ順序のものである。
然るに、事物を対抗的にではなく感受し得るためにはそれ相当の条件がある。(但し私の云ふその条件とは、金銭や環境、又は個性なぞと呼ばれてゐるものの裡にあるのではない。)
扨、対抗的でなくなるためには人は先づ克己を持てばよい。尤も、克己なる語の用ゐられる多くの場合は個人精神の中のこととしてであるが、私の今云ふ意味は、誠実であるといふことをも含むでゐる。
顧ふに、十九世紀前半までの芸術は、先づ自然をだけ克服したのだと観れば観られる。その後交通は急劇に頻繁となり、人は竟に自然をだけ克服する力では、眩ぐるしき対人圏に於て誠実たり得ず、やがては我を忘れるに到つたのである。我を忘れた時にも猶存するものは、作用に非ずして対象のみであり、斯かる時近時の芸術が方法的となり、恰かも結構な骨に紙の肉を張つたやうであることは、首肯出来る所であらう。
誠実たること──即ち愚痴つぽくないためには、敬虔なる感情を持し得るの必要、或は絶えず意識的なる自己葛藤が必要であらう。何れにしても結構で、前者と後者とには各仕事がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。
頻繁なる対人圏にあつて、各人が各人で朗らかであり得ぬ程度に比例して人々は互の「顔色を覗ふ」こと盛となる、即ち相対的となる、即ち創作的気心より遠ざかるわけである。
然し今、頻繁なる対人圏と同様に、人を弱くするものがある。それはかの落付のない勉強である。──同胞諸子が堅忍なられんことを!
(とまれ一切物中に於ける、各自我のスペクトルの乱雑が、近時世界の芸術に萎凋を来してゐる。)
茲に於て私は少々傍道をしなければならないのであるが、──由来我が文学は言葉を読むと同時に触りを感取するが重要である。
日本武尊が古事記中に叫ばれた歌は、明かに一呼吸中に歌はれたものであつて、一呼吸中のものとしては実に絶品であるが、デヴヱロッピングではない。斯かる場合にこそ触りは甚だ重要な役割をするのであつて、惟ふにこれは歌といふよりも散文の澄んだる箇所の膨脹したものである。言換れば人情を包摂せざる範囲の芸術である。尚言換れば対人圏の論理、即ち誠実より以前の芸術である。勿論其処に誠実がなくはないが、消極的にあるまでである。即ち「在る」として誠実だが「行動する」として誠実ではない。即ち精神的であるが魂的ではない。(釈迦は諦観したであらうが、諦観した人として歩いたかどうか私は知らぬ。)
歩かざる人にある芸術は、竟に一呼吸中の物、及びその延長であり、延長──即ち感傷の根本形式である。
乃ち、東洋芸術の大部が一色であり、雑多あつて多様なき所以である。
今や我々は東西芸術の契機を見たのだから、従来屡々あつたやうに、我等の血液を嘆ずべきではない。(凡ゆる道は天に通ずる。即ち意志以外の総てのものは必竟途上の物たるに過ぎない。)
要するに芸術の泉とは徒然草に、心の鏡が澄んでゐれば全ての物が正しく映る云々の裡にあるのであつて、東洋人は自然に対しては非常に心澄ませたが、人に対しては未だ澄むことなく、卑下しすぎたり頑なだつたりしてゐる。現今は欧羅巴も亦同じやうであり、唯少し異る点は、各人が自己に閉籠つて型を造り、それを精練してゐて己が赤裸々に生きないのが欧羅巴なるに反し、我等の間では、互につけ込み合ふことを承認し合つてゐる点であらう。
人に対して平静、順応的にしてアクティヴに非ざる限り、我等が民族の文学は何時迄も反復に終るであらう。
二、実践的な覚え書
凡そ分析なるものは、私には吸気の気持ではなく呼気の気持でなされるものと思はれる。而して瞑想とは、その反対に、吸気の気持でなされると思はれる。
私は近時芸術の萎凋する理由を、時代が呼気的状勢にあるからだといふやうに考へる。
仮りに思想が分析によつてはじめて形態を取るとしても、思想の実質は、瞑想そのものではないが瞑想状態にある。
自己分析がなされることはそれが必然的であるかぎり結構な状態であるが、その分析の結果が、直ちに行為に移らないで、その分析過程の記録慾となる時悲惨である。
その記録慾は、分析が繊細であればある程強いのでもあらうが、その慾は昂ずれば、やがて事物から自己を隔離することになる。尠くとも理論と事実とが余りに対立して、人格の分裂となる。
近来芸術が非常に感覚的であるか又、一方非常に理論的であるかの何れかに偏してゐるのは、如上の理由に因るのであらう。
蓋し、「生きるとは感覚すること(ルッソオ)」であり、感覚されつつあれば折にふれて、それらは魂によつて織物とされる。その織物こそ芸術であつて、その余はすべて胃病芸術なのであらう。
その今いふ記録慾──言換れば「回想の時間」。
すべて回想的に努力されるのは人のヴァニティのためではないか?
ネルヴァルの発狂、二重意識の相剋による錯乱は蓋し、彼が彼の分析方面に執し過ぎたことが原因ではある。
又、「人生の躁宴に於ける不安の客」と言はれたボードレールの不安は、私には結局抽象慾の過剰が原因をなしてゐると思はれる。彼がダンディスムといふも、必竟その抽象慾の一形式ではないか?
ラムボオに就いても同様なことが云へる。彼は自己の感覚の断面々々に執しすぎて、畢にその断面々々が一人格中に包摂される底の実質を失つたのである。
蓋し、すべて分析過程の保留を願つたり、抽象慾過剰だつたり、感覚的断面に執着したりすることは、実行家的精神であつて芸術家精神ではない。
(以下少しく独白めいて、岩野泡鳴を批評しよう。
彼が刹那主義といふ時、恰かも私が上に述べた如き趣意にあるやうに見える。然るに彼は余りに側面的に刹那を考へはしなかつたか?
即ち、彼は刹那が個人精神中で考へ得らることであつて、生活といふ対人圏に流用されるすべてのものは、必竟「規約」以外の何物でもないことを誤認しはしなかつたか? 否寧ろ、棄てて省みなかつたではないか?
蓋し、個人──即ち夢みる動物中の理論なり想像なり幻想なり其他何でもが、他の個人にまで如何に影響するかの其処に生の全ての意味があるのを、その影響以前に於てだけ刹那を考へてゐた泡鳴は、悲劇、即ち生死合一境──言換れば慈愛の境地を見ることがなかつた。
顧ふに、彼こそ「若い人に同情心は不足勝なものです」と言はれる場合の、その「若い人」である……)
扨、私は近代病者の一例を御紹介するが、その前に一言前置きしなければならない。近頃人々は、「唯物、々々」と云つてゐるが、彼等がさう云つてゐる時くらゐ唯心的なものはないやうである。
惟ふに、物と心とは同時に在る。今仮りに「太初に言葉ありき」といふことを考へてみるに、そは「太初に意ありき」といふことであると同時に「太初に意を聴かされしものありき」といふことである。
即ち実在は人間の思考作用に入り来るや空間化され、而してその空間化されし実在に於ては、主語と客語は常に転換され得る。
之を要するに、物は心を予想し、心は物を予想するのがザインであり、それを展開するものが夢である、といふことである。
而して夢が実践されるは情意的であり、──かくて、情けを否認するは否認者自身の生を否認することであり、生存者が生存を否認することは不可能であり、結局さらば彼の否認とはほんの心理的一事実に過ぎないとなら、さつさと人々は情けを認容し、謂はばチエホフの微笑の中に行き、──近代よ、汝の神経衰弱より放たれるがよい。
甞て彼──一近代病者は、「情けぞ人の命なる」といふヴェルレーヌが一詩に不図心惹かれ、惹かれた迄はつつましやかであつたが、惹かれ終つて彼はそはそはしはじめた。
「どうしたのだ」と訊ねると、羞むともなく羞みながら、「それでは私の場合では何を愛せばよいか?」といふのだ。
「貴方が情けを感ずるものを」と答へると、間もなく彼はイライラしだした。
では彼は情けを持たぬのであらうか? 否! 生きとし生けるもの無情ではない。唯彼の場合は、情けではないが情けの実質(層)が、可なり錯乱してゐるのである。
何よりも彼はもと善良な人で、その善良は今も依然存するが、彼の善良は働きを失つてゐる。
注意せよ、彼は以前には驚くべく観念明晰な男であつたが、やがてその観念を自己の裡に位置せしめる底のもの、即ち自然──手を差伸べもしないが手を退きもしないもの、──が人間の裡にあつては恩愛的な作用をつとめる、その作用を、雑念或は意識及び其の惰性によつて忘失したのである。その忘失こそ忘失者自身には認め難いのであつて、恐るべき近代病の根本性質はそれである。
けれどもそれらの人も、ヴァニティや倨傲を棄てて、自分自身に克ちさへするなら、忽ちに新鮮な生活は展けてくる!
然し此の錯雑した時勢にあつても、いつかな愚鈍で、有難からぬ幸福のお方もあつて、その手合では、情けとは迎合性や動物的嗜好などを意味するだけで、つまりまあ気分屋なのである。
近所が火事であるための驚きと、心の感動と、言換れば偶然と必然とを、混同しない程度に比例して芸術非芸術があるとはシモンズの謂ふ所だ。芸術は扨措いて、生活の中ででもそのやうな手合は困るのであつて、それらの人が朝目覚めた時の無念無想、即ち瞑想状態が、精神にも物質にも有益であつて、其処にこそ現実があり欣怡のあることに想到されるやう、私一介の馬鹿は希つてゐる。
作曲家は音域の拡大に、文人は語法の発明に、画家は偏へに方法的な今日、生活はその無味な装美にカラ躁ぎする今日、それもまあよいとして、感覚(受動)方面にばかり忙しく、魂(能動)方面が一向それに伴はない時、その人々が人生を無味だと云つたり懐疑を口にするとしても、慈愛は絶対に存して、蒼空は永遠に曇天よりも晴れやかであらう……
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
初出:「白痴群 第六号」
1930(昭和5)年4月1日発行
入力:村松洋一
校正:小林繁雄
2009年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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