父の墓
田山花袋
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停車場から町の入口まで半里位ある。堤防になつてゐる二間幅の路には、櫨の大きな並木が涼しい蔭をつくつて居て、車夫の饅頭笠が其間を縫つて走つて行く。小石が出て居るので、車がガタガタ鳴つた。
堤防の下には、処々に茅葺屋根が見える。汚ない水たまりがあつて、其処に白く塵埃に塗れた茅や薄が生えて居る。日影のキラキラする夏の午後の空に、起伏した山の皺が明かに印せられた。
堤防の尽きた処から、路はだらだらと下りて、汚ない田舎町に入つて行く。
路の角に車夫が五六人、木蔭を選んで客待をして居た。其傍に小さな宮があつて、其広場で、子供が集つて独楽を廻して居た。
思ひも懸けぬ細い路が、更に思ひもかけぬ汚い狭い衰へた町を前に展げた。溝の日に乾く臭と物の腐る臭と沈滞した埃の交つた空気の臭とが凄しく鼻を衝いた。理髪肆の男の白い衣は汚れて居るし、小間物屋の檐は傾いて居るし、二階屋の硝子窓は塵埃に白くなつて居るし、肴屋の番台は青く汚くなつて居るし、古着屋の店には、古着、古足袋、古シヤツ、古ヅボンなどが一面に並べてあるし、何処を見ても衰への感じのしないものはなかつた。
とある道の角に、三十位の卑しい女が、色の褪めた赤い腰巻を捲つて、男と立つて話をして居た。其処に細い巷路があつた。洗濯物が一面に干してあつた。
『肥後の八代とも言はれる町が、まさかこんなでもあるまい。此処は裏町か何かで、賑かな大通は別にあるだらう』と私は思つた。成程、少し行くと、通がいくらか綺麗になつた。十字に交叉した路を右に折れると、やがて私の選んだ旅店の前に車夫は梶棒を下した。
私の通された室は、奥の風通しの好い二階であつた。八畳の座敷に六畳の副室があつた。衣桁には手拭が一筋風に吹かれて、拙い山水の幅が床の間に懸けられてあつた。座敷からすぐ瓦屋根に続いて、縁側も欄干もない。古い崩れがけた黒塀が隣とのしきりをしては居るが、隣の庭にある百日紅は丁度此方の庭木であるかのやうに鮮かにすぐ眼の前に咲いて居る。
そして其向ふに、同じつくりの二階屋がずらりと幾軒も並んで、其の裏を見せて居る。二階屋の裏! 其処には蚊帳が釣つたまゝになつて居る家もあつた。雨戸が半ば明けられて、昨夜吊つたまゝの盆燈籠が其軒に下げてある家もあつた。雨戸の全く閉め切つてある家もあつた。箪笥、葛籠、長持、机などが見えた。不図、其中の一軒から、艶かしい女が、白い脛を見せて、今時分ガラガラと雨戸を繰り出た。
茶を運んで出た女に、
『向ふの二階屋の表面は大通りになつて居るのかね?』
『さうだツけん』と女は笑つた。
其二階屋の表の通を私は夕餐の後に通つて見た。其処が此田舎町の大通で──矢張狭かつた──西洋小間物店、葉茶屋、呉服商、絵葉書屋などが並んで居た。孰れも古い家屋ばかりで、此処らあたりの田舎町の特色がよく出て居た。町の中央に、芝居小屋があつて、青い白い幟が幾本となく風にヒラヒラして居た。
私の想像は二十年前の私の故郷の藁葺の田舎家に私を連れて行つた。
母親は筒袖を着て、いざり機をチヤンカラチヤンカラ織つて居た。大名縞が梭の動く度に少しづゝ織られて行く。裏には栗の樹が深い蔭をつくつて、涼しい風を絶えず一室に送つて来る。壁に張つてある煤けた西南戦争の錦絵を私は子供心によく覚えて居た。
『肥後八代横手村』
母親はよく其村のことを話した。四ツ切の大きな写真が箪笥の底に蔵つてあつた。墓がいくつとなく並んで居る写真であつた。其墓の一つを母親が指して『これがお前の父さんのお墓だよ。父さんは此処に居るんだよ。成長くなつたら、行つて御覧?』
またある時は、
『生きて居るなら、何なに遠くつても、お金を持て、訪ねて行くけれど、お墓になつて居てはねえ!』
母親の眼からは涙が流れた。その時に限らず、母親の膝を枕に、私は其の父親の話──御国の為めに戦死した豪い父親の話を聞いて居ると、いつも私の頬に冷たいものゝ落ちるのが例であつた。母親は其話をしては泣かずには居られなかつた。
姉は其頃十五六で、
『お前なぞは男だから、成長くなつたら、いくらでもお墓参が出来るけれど、私などは女だから、ねえ母さん。……でも、一生に一度はお参りしたい!』
私は子供心に、父親のことを考へた。国の為に死んだ豪い父親! 其墓のある処はどんな処だらうと思つた。
故郷の藁葺家と、汚ない八畳の間と、裏の栗の樹と、真黒になつてヤンマ取りに夢中になつて居る八歳の子供と──其子供が別の子供のやうに眼の前を通つた。
後送された父親の遺留品の中に、手帳が一冊あつた。
成長くなつてから、私は幾度も其手帳を見たことがある。
普通の革の手帳で、鉛筆が一本挿してあつた、中には日記がつけてあつた。
其日記を私は覚えて居る──
四月十日
昨夜長崎より船にて上陸す。
賊軍少々抵抗したれど、忽まちにして退散す。気候暖かし。晴。
十一日
八代にて昼食。士民官軍を喜び迎ふ。
甲佐方面に賊軍本営を置くとの説あり。
菜の花既に盛を過ぐ。
十二日曇
進軍
十三日晴
十四日晴
これで跡は白くなつてゐる。十四日の午後、御船附近の戦争で、父親は胸に弾丸を受けて、死屍となつて野に横はつたのである。十四日晴──と書いて、後が何も書いてないといふことが少なからず人々を悲ませた。私も悲しかつた。
私は今年三十八である。父親が海をこえてこの遠い九州の野に来た年齢は殆ど同じである。私は二十年前、死ぬ四日前に此処に来た父親の心を考へずには居られなかつた。
子の眼に映つた田舎町が其当時父の眼に映つた田舎町とさう大して違ひはないといふことは、古い家並、古い通、古い空気が明かにそれを証拠立てゝ居る。父も家庭に対する苦み、妻子に対する苦み、社会に対する苦しみ──所謂中年の苦痛を抱いて、其時此の狭い汚い町を通つたに相違ない。世の係累を暫し戦ひの巷に遁れやうとしたか、それともまだ妻子の為めに成功の道を求めやうとしたか、それは何方であるか解らぬが、兎に角自から進んで此地に遣つて来たことは事実である。私は官軍の服を着けた将校兵士が、隊を為し列を作つて此の狭い田舎町を通過した折りのさまを描いて見た。
其夜は征西将軍の宮の大祭で、町は賑かであつた。街頭をぞろぞろと人が通つた。花火が勇ましい音を立てゝあがると、人々が皆な足を留めて振返つた。
郵便局の角から入ると、それから二三町の間は露店のランプの油烟が、むせるほどに一杯に籠つて、往きちがふ人の肩と肩とが触れ合つた。田舎のお祭によく見るやうな見せ物──豹、大鱶、のぞき機関、活動写真、番台の上の男は声を嗄して客を呼んで居る。旅行用の枕を大負けに負けて売つてるものの隣りに、不思議に中る人相見の洋服の男がゐて、その周囲を取巻いて、人が黒山のやうにたかつて居る。をり〳〵摩違ふ娘の顔は白かつた。
雑踏した長い馬場を通り越すと、夜目にもそれと知らるゝ蓮池があつて、夏の夜風が白い赤い花と広葉とを吹動かした。其奥には社殿の燈明──私は其一生を征旅の中に送つて、この辺土に墓となつた征西将軍宮の事蹟を考へて黯然とした。
そして其昔と今のこの祭の雑踏とを比べて考へて見た。
頭上には星がキラ〳〵光つた。
帰りには裏道を通つた。露店の尽頭に、石鹸を五個六個並べて、大きな声で、
『買はんか、買はんか、これでも買はんか』
と怒鳴つて居る爺さんがあつた。其の権幕が恐ろしいので、人々は傍にも寄りつかずにさつさと避けて通つた。
『買はんか、買はんか、これでもか、これでも買はんか』
露店の上の石鹸が皆跳り上つた。
翌日、暑くならぬ中にと思つて、朝飯をすますとすぐ、私は横手村に行つた。
『墓地の鍵を預つて居る男がある筈ですから、其処に行つて聞いて御覧なさい』と旅館の主人が教へて呉れた。
横手村と謂つても、町とは人家続きになつて居て、十町と隔つては居なかつた。其近所と思はれる処に行くと、野菜の車を曳いて、向ふから男が遣つて来る。
『官軍の墓地は何の辺になりませうか』
と訊くと、
『官軍の墓地? 何ですか、それは!』
と要領を得ぬ答である。
これこれと説明して聞かせると、それならこの向ふにあるのがそれだらうとのことである。
私は裏道に廻つて見た。此処はつい此間まで元の停車場のあつた処で、柵などがまだ依然として残つて居た。片側は人家がつゞいてゐるが、向ふは田畝になつて了ふので、私はまたある家に立寄つて聞くと、このすぐ向ふだといふ。
成程、墓地らしいものが田の中にあつた。周囲に柵が繞らしてある。
それを少し離れて、二三軒の瓦屋根があつて、それに朝日がさした。小さい工場の烟筒からは、細い煙が登つて居る。向ふの街道には車の通る音が絶えず聞える。
田圃道にはまだ朝の露が残つて居た。私の足袋はしとどに濡れた。辛うじて、瓦屋根の、同じ門のつくりの、鉄道の役員の官舎らしい家の前に来ると、其処の傍に車井戸があつて、肥つた下女が朝日を受けて、井戸の鏈を音高く繰つて居た。私は今一度訊ねて見た。其下婢も矢張鍵を預つて居る家を知らなかつた。けれど態々家に入つて聞いて呉れたので漸く解つた。
鍵を預つて居る人は、前の街道を一二町行つた処の、鍛冶屋の隣の饅頭屋であつた。場末の町によく見るやうな家の構で、せいろの中の田舎饅頭からは湯気が立つて居る。上さんは手拭を被つてせつせと働いて居た。
朴訥な人の好ささうな老爺が、大きな鍵を持つて私の前に立つた。私は線香と花とを買つた。
一歩毎に老爺の持つた鍵がぢやらぢやらと鳴る。
今度は正面から入つた。
街道の傍に『官軍改修墓地』といふ木標が立つてゐたが、風雨に曝されて字も読めぬ位に古びてゐた。石の橋の上には、刈つた藺が並べて干してあつて、それから墓地の柵までの間は、笠のやうな老松が両側から蔽ひかゝつた。
老爺は門の鍵を開けた。
幼い頃見た写真がすぐ思出された。けれど想像とは丸で違つてゐた。野梅の若木が二三本処々に立つて居るばかり、他に樹木とてはないので、何だか墓のやうな気がしなかつた。夏の日に照されて、墓地の土は白く乾いて、どんな微かな風にもすぐ埃が立ちさうである。私の記憶も矢張この白い土のやうに乾いて居た。
数多い墓の中から、漸く父の墓をさがし出して其前に立つた。墓は小さな石で、表面に姓名、裏に戦死した年月日と場所とが刻んであつた。
『分りましたかな』
一緒に探して呉れた老爺は私の傍に遣つて来た。
『お参りに来る人がそれでも随分あるだらうねえ?』かう私が訊くと、
『え、時には御座いますがな。たんとはありません。皆な遠いで御座いますから……。』
『お前さん、余程前から、番人をして居るのかね?』
『お墓が出来た時からかうして番人を致して居ります』
と爺は言つて、『何うも一人で何も彼も致すで、草がぢきに生えて困りますばい。二三日鎌さ入れねえとかうでがんすばい』と、傍に青くなつた草を指した。
四月の十四日──父の命日には、年々床の間に父の名の入つた石摺の大きな幅をかけて、机の上に位牌と御膳を据ゑて、お祭をした。其頃いつも八重さくらが盛りで、兄はその爛熳たる花に山吹を二枝ほど交ぜて瓶にさして供へた。伯母は其日は屹度筍を土産に持つて来た。長い年月──さうして過した長い年月を、此墓守の爺は、一人さびしく草を除つて掃除して居たのだ。
私は墓の前に跪いた。
一人息子であつた父の戦死を嘆いた祖父母も死んだ。夫に死なれた為めに、険しいさびしい性格になつて常に家庭の悲劇を起した母も死んだ。難かしい母親の犠牲になつた兄も死んだ。
弾丸を胸部に受けて、野に横つた父の苦痛と、長い悲しい淋しい生活を続けた母の苦痛と、家庭の悲惨な犠牲になつて青年の希望も勇気も消磨しつくして了つた兄の苦痛と──人生は唯長い苦痛の無意味の連続ではないか。
私は父の戦死から生じた総ての苦痛を味つて来た。絶望が絶望に続き、苦痛が苦痛に続いた。その絶望と苦痛の中で、私は人の夫となり、人の親となつた。総領の男の児は、丁度今私が父に死別れた時の年齢と同じである。
私は父親のことよりも、自分と妻と児のことを考へた。過去よりも現在が烈しく頭を衝いた。
『人間はかうして生存して居るのだ。かうして現在から現在を趁つて、無意味の中に生れて、生きて、で、そして死んで行くのだ』
『平凡なる事実だ。言ふを待たざることだけれど、事実だ』
私はジツとして墓の前に立つて居た。
いろいろな顔や、いろいろな舞台が早く眼の前を過ぎた。父の若かつた時のことから、自分の児の死ぬ時までのことが直線を為して見えるやうに思はれる。死は死と重なり、恋は恋と重なり、苦痛は苦痛と重なり、墓は墓と重なり、そして人生は無窮に続く。
私は四辺を眴した。かうした長い連続を積上げて行く一日一日のいかに平凡に、いかに穏かであるかを思つた。日影は暑くなり出した。山には朝の薄い靄が靡いて、複雑した影を襞ごとにつくつた。青い田と田の間の小さい蓮池には紅白の花が咲いた。
墓を去つて、笠松の間の路を街道に出やうとしたのは、それから十分ほど経つてからのことであつた。何だか去るに忍びないやうな気がした。かうした思を取集めて考へることは、一生中幾度もないやうにさへ思はれた。人間は唯〓(「總のつくり)忙の中に過ぎて行く……味つて居る余裕すらないと又繰返した。
松は濃い影を地上に曳いた。田の境の溝には藺がツンツン出て、雑草が網のやうに茂つてゐた。見て居ると街道には車が通る、馬が通る、児をたゞ負ぶした田舎の上さんが通る、脚絆甲かけの旅人が通る。鍛冶屋の男が重い鉄槌に力をこめて、カンカンと赤い火花を通に散らして居ると、其隣には建前をしたばかりの屋根の上に大工が二三人頻りに釘を打附けて居た。
底本:「ふるさと文学館 第五〇巻 【熊本】」ぎょうせい
1993(平成5)年9月15日初版発行
底本の親本:「趣味 第4巻4号」易風社
1909(明治42)年
初出:「趣味 第4巻4号」易風社
1909(明治42)年
入力:林田清明
校正:鈴木厚司
2010年3月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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