門松のはなし
折口信夫
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正月に門松を立てる訣を記憶してゐる人が、今日でもまだあるでせうか。此意義は、恐らく文献からは発見出来ますまい。文化を誇つたものほど早くに忘れてしまうた様です。僅に、圏外にとり残された極少数の人達の間に、かすかながら伝承されてゐる事があるので、それから探りを入れて、まう一度これを原の姿に還し、訣ればその意義を考へて見たいと思ふのです。
今日では、門松の形が全国的に略きまつてしまひましたが、以前は、いろ〳〵違つた形のものがあつたのです。今日の様な形に固定したのは、江戸時代に、諸国の大名が江戸に集つた為に、自然と或一つの形に近づいて行つたのだと思ひます。或は、今日の形は、当時最勢力のあつたものの模倣であつたかも知れません。
絵で見ますと、江戸時代のものにも、葉のついたまゝの竹が、松よりも高く立てられてゐるのもあり、松だけのものもあり、更に変つた形のものもあつたらしいので、「松枯れで、武田首なきあした哉」の句は、松平と武田とを諷したのでせうが、形が、略今日東京で立てるのと似てゐた様に思はれます。
今日東京で立てますのは、削いだ竹が中心になつて、それに松があしらはれてゐるのが本式とされてゐます。今では、此形が全国的にまねられてゐるのですが、それでも、古い習慣を守つてゐる地方には、尚、お国風と見られる、松が主になつて、その根元に笹の葉が挿されてゐるもの、松だけが柱に結ひつけられてゐるもの、その他色々違つた形のものがあります。此らを見ますと、一体門松は、竹が中心なのか、松が中心なのか、と考へて見なければなりません。
しかし、ところによると、松も竹も立てないで、全然別のものを立てゝゐるところもあります。譬えば、箱根権現の氏子は、昔から、竹も松も立てないで、樒を立てます。此には伝説が附随してゐるので、箱根権現が山を歩いてをられるとき、松葉で眼をつかれた、それで氏子は必片目が細いと言ひ、松を忌むのだと言ふのですが、此様な話しは、諸国にある餅なし正月の話しなどゝ同じで、合理的な説明に過ぎません。今日の考へから言ひますと、樒は仏前のものになつてをりますから、それを門松の代りに立てるのは如何にもをかしいと思ひますが、昔は、榊が幾種もあつたので、樒も、榊の一種だつたのです。
それなら、何故榊を立てるかゞ問題になるのですが、かうした信仰は、時代によつて幾らも変つてをりますから、一概に言ふ事は出来ませんが、正月の神を迎へる招ぎ代であつたかとも見られます。さういふ考へも成り立たなくはないのです。しかしこゝには、まう少し正月に即した考へを立てゝ見ませう。
日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。これが後には、鬼・天狗と考へられる様になつたのですが、正月に迎へる歳神様(歳徳神)も、それから変つてゐるので、更に古くは、祖先神が来ると信じたのです。歳神様は、三日の晩に尉と姥の姿で、お帰りになると言ふ信仰には、此考妣二位の神来訪の印象が伝承されてゐる様です。しかし此話しは、既に度々してをりますので、こゝには省略したいと思ひます。
とにかく、此信仰には、現実との結びつきがありました。さうした山の神に仕へる神人があつて、暮・初春には、里へ祝福に降りて来たので、その時には、いろ〳〵な土産ものを持つて来て、里のものと交易して行つたのです。此交易をした場所を、いちと言ひました。後の「市」の古義なのです。山人・山姥が市日に来て、大食をした話し、無限に這入る小袋にものを詰めて行つたと言ふ伝説は、さうした、山人が里のものをたくさんに持ち還つた記憶があつて出来た話しだと思ひます。山人が持つて来た土産には、寄生木・羊歯の葉、その他いろ〳〵なものがあつたので、今も正月の飾りものになつてゐますが、削りかけ・削り花なども、その一種だつたのです。太宰府その他で行はれる鷽替への神事は、その交易の形を残したのでせう。鷽も、削りかけの一種と見られるからです。里の人達は、これらのものを山人から受けて、これを、山人の祓ひをうけたしるしとして家の内外に飾つたのでした。
これから考へて見ますと、門松も、やはり山人のもつて来た山づとの一種であつたに相違ないのですが、其木は必しも一種ではなかつたかと思ひます。それには、かう言ふ事が考へられるのです。此山人の祝福には、その年の田の成りものを約束して行くのが大切な行事だつたので、その為には、今も正月の神事として残つてゐる田遊び・お田植ゑの様な所作も見せていつたのですが、また山から下りて来る時に突いて来た杖を立てゝ行つて、それに根がつくのが非常に善い兆だとしたのです。だからそれには、根のつき易い、いろ〳〵な木が立てられて行つた訣です。これが松に固定したのには、訣があつたと思ひます。とにかく、今日の様な門松になつて行つた道筋を考へて見ませう。
私は、此数年間、毎年正月になると、三河・遠江・信濃の国境に近い奥山家へ、初春の行事を採訪に出かけましたが、こゝの門松は、また形が違つてゐるのです。門神柱、或は男木などゝと言はれる、栗・楢などの柱が二本立てられ、これに注連をはり、その下に松が立てられるので、その松の枝には、やすと言ふ、藁で作つた、つとを半分にした様なものが掛けられ、その中には、餅・粢などが入れられるのです。此形は、盆の聖霊棚に非常に近いと思はれます。
日本には、魂迎へをする時期が、盆と暮と二度あつた事は、徒然草四季の段を見ても訣る事ですが、此は、元来は初春だけのものだつたのです。それが二度になつて、一方は仏教との習合によつて非常に盛んになり、初春の方は、正月の行事が行はれた為に魂祭りとしての信仰は、却つて忘れてしまうたのです。しかし、此魂祭りなるものが、古い時代のは、今の仏教式のものではなく、暮・初春に、山から──もつと古くは海の彼方から──来訪すると信じた祖先神を祀る事だつたので、さうした神を迎へる祭壇が、即、たな或はくらだつたのです。七夕も、後には支那の乞巧尊信仰がとり入れられて星祭りになつてしまひましたが、此語に印象されてゐる日本本来のものは、さうした遠来の神を迎へるべく、をとめが海岸に棚を作つて、神の斎衣を作る為の機を織りながら待つてゐたので、此がたなばたつめでした。門松が、やはりさうした神を迎へる為の棚であつたといふ記憶を、かすかながらでも残してゐるのが、此三・信・遠国境の山村で見た門神柱です。普通の家では、此門神柱を二本しか立てませんが、家によると十数本も立てるのがあります。その意味は、もう忘れられてしまうてゐるのですが、老人達の話しを綜合して考へますと、それは、本家が、分家の数だけの柱を立てるらしいのです。盆や正月に、子方が親方の家へおめでたうを言ひに行く慣例は最近までありました。柱を分家の数だけ立てるのは、此記憶が底にあつたからでせう。処で、此柱を十数本立てた形は、恰も、とり入れた稲を乾すはざと同じ形なので、事実この門神柱の事も、はざと言うてゐるのです。さうして見ると、此二つは、偶然似てゐるだけではなく、稲を乾すはざも、元は実用の為に作つたものではなく、やはり田の神を迎へる為の棚であつた事が考へられるのであります。
かやうに、此地方の門松は、柱が主体で、松は客体と見られるのですが、而も、此十数本も立てた柱の下にも、一々松を立てるのは、如何にも意味のある事だと思はれます。即、此松を添へると、山から迎へて来た霊が、その柱に宿ると考へた遠い昔の人の信仰が、如実に想像出来るではありませんか。今でも、此松を山から伐り出す事を、伐るとは言はないでおろすと言うてゐますが、古くは、はやすと言ひました。松ばやしがそれです。はやすは、はなす・はがすなどゝ一類の語で、ふゆ・ふやすと同じく、霊魂の分裂を意味した語なのです。だから、松を迎へる事は、分霊を迎へる事で、松は即、その霊ののりものだつたのです。
次に、此松の枝にやすをかける訣ですが、昔の人は、かうして迎へて来た霊、或はやつて来た霊には必、不純なものが随伴すると考へたのです。盆にも、正式に迎へる聖霊への供物の外に、無縁仏の供物を作りますが、それと同じ様に、歳神様にも、家へ這入つて貰つては困る神が附隨して来るので、それを防ぐべく、此やすをかけて供物をするのです。
とにかく、こゝの門松には、古い信仰が残つてゐるのです。此門神様の周囲に、鬼木或はにう木と言うてゐる、薪に十二月或は十三月と書くか、十二本或は十三本の筋をひくかしたもの(元は、閏年だけ十三月としたのですが、後には、今年も此様に月が多いと祝ふ意味で、平年にも十三月と書く様になつたのです)を並べ、又たくさんの薪を積むのですが、これこそ、前に申した、山人の山づとで、鬼木と言うたのは、鬼が持つて来ると考へたからでせう。にう木と言うたのは、丹生と関係のある語で、みそぎを授ける木の意であつたらうと思はれます。処によつては、此丹生木の事をみづきとも言うてゐますが、此語も、やはり水の祓ひを授ける木の意であつたと思はれます。此丹生木は門松に立てる外に、小正月に、家の出入口や、祠・墓などにも立てます。今は、その家のものが立てるのですが、元は、山人が来て立てゝ行つたのです。
皆さんは、奈良朝頃、宮廷に御竈木の式と言うて、正月十五日に、宮廷に仕へてゐた宮人・役人、又は畿内の国司達から宮廷の御薪を奉る式のあつた事を御承知でせう。宮廷の御儀になつたのは、一種の固定で、これも、元は山人の山づとであつたので、それを群臣がまねて、天子への服従を誓ふ式としたのだと思ひます。江戸時代に、門松の根をしめる木をみかまぎと言ひましたが、奈良朝に行はれた宮廷の御竈木とは全然形の違ふ、かうしたものを、どうして同じ名で呼んだか、それは、かうした民間伝承があつたからだと思ひます。
かうして段々見て来ますと、今の門松は、此、門神柱の柱が竹に変り、その頭部が削がれたのだと考へてよい様です。竹を二本立てゝ注連をはつた風習は、京の大原にも、武蔵の秩父にもありました。大原のは、その注連縄に農具を吊したと言ひますから、七夕の笹に人形を吊し、聖霊棚に素麺や田畠の成りものを吊すのと似てゐたと言へませう。
底本:「花の名随筆1 一月の花」作品社
1998(平成10)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社
1956(昭和31)年9月初版発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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