山谿に生くる人々
──生きる為に──
葉山嘉樹



 何たる事であろう。

 大山は、大山の兄の死を待っていたのだ。という事を十数年後の今になって、ハッキリ知ったのである。

 大山は、その二人の子供が死んだ、という知らせを受け取ったのは、木曽川の落合川の発電所で働いている時であった。

 そして今、十数年後、木曽駒ヶ岳、恵那山などの山によって距てられる、天龍河畔の鉄道工事場で、今度は叔母からの通信で、兄が朝鮮で死んだ、ということを知ったのである。

 その簡単なハガキには、兄が朝鮮で死んだことを書いた後、「長男は盲腸で入院、他の子供たちは、それぞれお寺で、御厄介になって居ります。両親のない子供たちは実に可愛想です。どこを見ても、子供の多い人ばかりで無理もいわれませんので、閉口しました」

 とだけ書いてあった。

 大山は、丁場を休んでいたので、そのハガキを見ると、すぐに叔母に返事を出して、飯場の暗がりの中に、仰向けに引っくりかえった。

 ──ああ、兄貴もとうとう死んだのか。朝鮮で──

 と、悲しみも伴わない追想。それはもうすっかり疲れ切って、ミイラにでもなってしまったような、過去の追想の中に陥った。


 大山は十数年前、き二人の児の夢を見続けた。そのために、生来好きな酒が、量を殖やした。どんな思いをしても、大山は酒を飲んで、麻痺したような状態になって、泥酔の睡りを買った。

 そのためには、その後もらった女房のものはもちろん、それとの中にできた二人の子供の、着物までも、屑屋に売ったりして、あるいは、「殺人焼酎」かもしれないことを、承知の助で呷ったのである。

 夢の正体というのは、子供の死因が分らないところから来ていた。

 分らないものの正体を掴みたい、という事は何という苦痛であろう。もし、人間が、どうしてもたった今、人間とは何ぞや、という問いに対して、たった今解答を与えたいと焦り始めたら、そいつは無限地獄であろう。

 知ったところで、どうなるものでもない。子供たちが、どうして死んだか、それを眼の当り見ないだけでも、幸いだというものではないか。もし、眼の当り、子供が道傍の肥溜の中に逆さに落っこちて、死んでしまったのを見たり、なぜともなしに、瘠せ細って死んで行くのを、手の施しようもなく見せつけられたりしたら、それこそ、堪えられない事であろう。

 そして、眼の前で死ななければこそ、そういった憶測も湧くのであろうが、それかと言って、現実に、そんな風な幼児の死、が絶無であろうか。

 一つ夢、同じ夢を見続ける、というのは、医学上、どんな風な精神状態であろうか。

 大山は、「両親のない子供たちは、実に可愛想です」という、ハガキの文句のために、十数年前に、ひどい努力と、アルコールの力で、忘れかけていた、永久に知る事のできない、子供たちの死因と、その死因についての想像の、無数の場合から来る、一種の焦点のような夢を、ふたたび見続けねばならない羽目に陥ったのである。

 大山は、人間は不幸に暮すために生れたものではない。なるたけ、幸福に暮さなければならない、と思っていた。

 ところが、大山には、幸福より不幸の方が、度々多く訪れた。

 兄が死んだ、というのは、過去の事である。が、それを知ったのは、今である。そして大山は実感を以てではないが、そのことから来る生活の疲れ、というようなものを感じた。

「何だって、光線が下からい上がるんだろう。すっかり世の中が憂鬱になるような、光線じゃないか」

 と、大山は思った。

 二間位の広さで、花崗岩の腐蝕した白砂土が、太陽の直射に会って、照りかえして、足の下から部屋に射し込む。庭の向う側は、低い軒から下四尺余りは、胡桃だの、杉だの、藤だのの、濃緑色のために、暗い背景をしているのだ。

 つまり上が暗くて、土だけが白いので、光線が下から匍い上がるのだ。

 これは甚しく眼を疲れさす。そこへもって来て、気圧が変である。ベンチレーターで、換気する以外に法のない、汽船のダンブル(船艙)に似ている。

 飛行機が稀に、天龍川上空を通る場合、爆音は聞くが、機影を認める事は至難である。エアーポケットが、川面や、両岸の断崖へかけて出鱈目にあるのに違いない。

 鉄道線路の工事場で、火を燃すと、煙は下に流れる。

 光線が下から匍い上がって、煙が上から匍い下がれば、世の中はすっかり、あべこべである。そのあべこべが、ここでは現実である。

 このあべこべの現実、というものが、いきなり、ポカリと口を開いて、大山を呑み込んだのならば、大山はそれが常態であると思うであろう。

 だが、それにしては、大山は過去を大風呂敷に一抔入れて、背負い込んでいた。その中味がまた、宝物を詰めてでもあるのならば、出して陳列のし栄えもあろうが、ボロと臭気と貧困と屈辱とが、詰っていたのだ。

 そいつが、その大風呂敷が、真物の大風呂敷なら、追っかけられた泥棒みたいに、どこの軒先きにだって、投げ出して、身軽に逃げ出すことができる。が、過去という大風呂敷は、瘤みたいに同じ皮膚の下に背負い込んでいる。おまけに、この過去の大風呂敷は、時々針の尖を出して、背中を突っつくのである。

 ──もうたくさんだ──

 と、大山は、仰向けになったまま、両手を首の下に入れた。

 ──考えたり、思ったり、感じたりすることが、そもそも不必要な事なんだ。見ろ、ここは日本中で、一番昆虫の多いところだ、と言われている。昆虫は考えたり、思索したりしはしない。だが、感じはするだろうなあ。じゃあよし、お前も感じっぱなしにしろ! 「痛いな」「ああ草臥れた」「ああ飲みたい」「眠いな」と感じたら、それっ切りで、打ち切ってしまえ。後を考えるな。くよくよするな。ぼうっとしてしまえ。──

 そんな風に、ぼうっとしてしまえ、という風に考えていると、考えというものは、いけないものである。後を引くのである。

 大山は考え続けた。

 ──ふん。俺は過去の大風呂敷を背負っている。が、この過去の大風呂敷は、位牌まで入ってるんだぞ。位牌は、こいつは風呂敷の中にではなく、血の中に流れてるんだな。骨の中にもある。してみると、俺は先祖代々の位牌と一緒に、俺だけの大風呂敷を背負って、すっかりあべこべに引っくりかえった、ここへ来て、生活のドン底に滓酒おりざけのように、溜り込んでいるんだな。おまけに、現に二人の子供にまで、もう相当な風呂敷を背負わせているんだな。はて、生活って奴は、そんなもんだろうかなあ。こうちゃんとした自分の家があって、ちゃんとした生活の土台があって、ちゃんとした目論見を立てて、その目論見の通りに生きて行けないもんかしら。たとえば監獄──そうだ。あんまり規則づくめでも、こいつは面白くないて。とにかく、俺は先祖の位牌を血の中に流し、そいつを毎晩アルコールで醗酵させてるんだ。先祖はみんな死んじまった。一人だって生きてやしないんだ。おやじもおふくろも死んじまった。父方と母方の先祖は、ずいぶん死んだろうなあ。おっそろしい数だろうて。それが、とにかく俺んとこまでブラ下がって来てまた二つ下に結びっこぶがブラ下がっている。そうだ、何、大したこたあねえや。こういう混沌たる時代だ。俺一人が、何か人生を探究しなけりゃならん、という訳はあるまい。

「人類を幸福にするためには、一体どういう風にすればよござんすか」

 なんて、ヒットラーやムッソリーニや、西園寺公に、一々聞いて廻るってのも、億劫じゃないか。第一、物騒な時世だ。日本だけじゃないや。世界中が物情騒然たる時だ。そんな時世に「人類の幸福」なんて、とりとめもない事を、方々訊ね廻ってたら、慌て者があったら殴られちまうだろう。それにしても、俺は、とりとめのない事ではなく、何か、とりとめのある、ものの考え方ってのはできないんだろうか。こう、きちんとした、理路整然たる、胸のすくような、快刀乱麻を断つってえな風な、「ネー、テー、ドーン」といった調子で、断々乎として、生きて行きてえもんだ。俺なぁまるで、生みつけられたから、それで仕方なしに生きてる。どうにか生きてる。とにかく生きてる。止むなく生きてる。てな具合だ。畜生──

「痛えなあ」

 と叫ぶと、大山は急に飛び上がった。

 大山の足に、本来、馬につくべき、ツクツクボーシほどもあるあぶが、血を吸いかけて、その鋭い嘴を刺したのだった。

「畜生! 間違えるない。馬たあ違うぞ」

 と、大山は大声で逃げ去った虻に、怒鳴りつけて、刺跡に唾をつけた。

「どうしたんだい。百足むかででも刺したんか」

 と、由公が言った。

「百足なら理屈があるが、虻の野郎がよ」


 大山の子が学校から帰って来た。今年から小学校に上がったのだが、何しろ、天龍川の川っ端から、大赤石の裾の、高原地帯まで一里半の峻坂を登って行くのだから、これは文字通りの登校であった。

 遅生れの八つで、東京育ちの子供には、この登校は体力に応え過ぎた。したがって、一日行っては二日休む。といった日が続いた。

 続いて出かけると思うと、途中から泣いて帰ったりした。

「武ちゃんが、足を出して転がしたあ」

「大きな子が、何もしないのに、殴ったあ」

「本が失くなッたあ」

「遅くなっちゃッたあ」

 などと言って、急坂を泣き下って帰って来るのだった。

「本が失くなったって、どこで失くなったんだい」

「どこか、道の辺で失くしちゃった」

「どうして失くなったことが分った?」

「どうしても」

 ──ハハア、野郎、学校へ行くのが厭なもんだから、どっかで読本を捨てたか、草ん中へ隠したかしやがったな──

 と、大山は考えた。

「『どうしても』って、おかしいなあ。家を出かける時には、チャンと入ってたんだし、馳けたって飛び出すようなはずはないし、ほら、こんなにきっちり入ってるだろう。引っ張り出すんだって、よっぽど、力を入れなけりゃ抜けやしないじゃないか。それが失くなったてなあ、おかしいじゃないか」

 と言うと、タア坊は、飯場の入口に立ったまま首を傾けた。

 ──自分でも分らない──

 という恰好なのだ。

「探しといで」

 と言うと、ランドセルを置いたまま、また小川沿いに急坂を上って行った。

 大山は何とも言い表し難い気持に囚われた。飯場から学校までの、一里半の峻嶮な上り一方の坂道は、同時に、峻嶮なる児童の社会生活である。そこでは、この八歳になるか弱い子供は、一個の独立人としての生活を営まねばならない。その各々の子供たちは各々の異った家庭や、育った環境を持っていた。

 ある者は飯場頭の子であり、ある者は親方の子であり、ある者は労働者の子であった。またある者は宿屋の子であり、会社員の子であり、小農の子であった。

 その各々は、一々生活のやり方が違っていた。そこでは道徳の基準が、まだ一定していなかった。文化程度が不揃いであった。それでなくても子供たちは、冒険を好み、変化を好んだのに、その親たちの中には、兇暴な日常生活を営む者もあった。

 そういう訳だったので、大山は、その子供を、自分自身の意の通りに、通学させるという考えを放棄したのだった。

 読本を「探しに」行った子供は、「なかった」と言って帰った。

「じゃあ、いいから好きなようにして遊びな」

 と、大山は言った。

 ──長い生活だ。その上苦しい生活だ。健康さえ許せば、六十年も八十年も生きなければならぬ生涯だ。その長いけわしい生涯を、この子も、「幸福」を探して歩くんだろう。蛍とまむしの眼玉を間違えて、噛みつかれるように、幸の代りに不幸を掴むだろう。自由を求めては、ひどい拘束を食うだろう。俺が思い出して、俺の生活の中から「幸福」を摘み出そうとすれば、恋も結婚も何もかも消えてしまう。仄かに残るものは、「おやじもおふくろも、俺を叱らなかった。寝ている間に枕元に果物を置いててくれた。俺は枕頭に果物のある夢を見て、手を延して、ほんものの果物を掴んだ。そして、それにかぶりついて眼が覚めたら、おやじとおふくろが、枕頭に坐ってて、俺を見て微笑したっけなあ。三つ位、いや四つ位の時だった」そんなのが俺の幸福だったと言えば言えるだろう。俺も、子供に、子供が子供である間だけ位、自由にさせといてやろう。俺が死んだり、子供が一人立ちになれば、もう、自由も幸福も、そんなものはありはしない。生活があるだけだ。思い通りにならない、いやな時でも顔は笑っていなければならない、歪んだ、卑屈な生活が、あの子をまた捕えるんだ。それでもいい。そんな生活にでも、病弱で乗り出させたくはない。うんそうだ。今の中に、山ん中で、猿みたいに丈夫になれ。そして、勇敢に生活に打っつかって行け。──

 と、考えて、子を山に放った。

 その日は、暑中休暇に入る、最後の日であった。

 ランドセルの中に、休み中の練習帖だの、父兄への休み中の心得だのと一緒に、児童通信簿が入っていた。

 それを大山のかかあが見ていた。

「栄養が乙よ」

 と大山に言った。

「止むを得ないね。こいつあ、お前に似てるんだ」

「庶子よ。可愛想に」

「そいつも止むを得んね。先の女房が行処不明のまま、戸籍の上にガン張ってるんだからな。これも、お前の御存知の通りだ。手続きはお前に頼んであるが、お前もやろうとしないしね」

「これは、今度東京へ帰ったら、何とかしましょうね」

「いいだろう。だが、人間、生きて行くのに戸籍の事を思いつくのは、一生涯に幾度もないからね。一等おしまいには、戸籍より先に、消えっちまうんだからね」

「のんきな事ばかり言ってるわ。一体どうする心算なのよ」

「何をさ。お前に委せるよ」

「委せられたって、私にはどうしようもないじゃないの。他所の池で鯉を盗む時にはね、バタバタ水を撥ねられると困るでしょう。だから釣糸に一升徳利の底を割ったのを通しとくんだって、鯉がかかったら、スーッと釣り上げるでしょう。すると鯉は一升徳利の中へぶるぶるっと引きずり込まれちゃって、バタバタも、パチパチもやれないんですって。それと同じだわ」

「ふん。そいつあいい方法だね。天龍川で釣るよか、養魚池へ行って、その手をやるかな」

「馬鹿ね。あんたは。その釣られた鯉と同じだと言ってんのよ。あんただけなら、そりゃいいかもしれないけど、子供たちが可愛想じゃないの。タアちゃんだっても、東京の方がいいなあ、なんかって言ってるのよ」

「そりゃ、俺だって、どこかで、楽な生活ができれば遠慮しやしないよ。楽に暮さしてやるって言えば、エチオピアにだって、連れてってやるよ」

「楽な暮しなんかしたいとは思いはしないけれど、安心したいわ」

「誰だって安心に暮したいさ。だが、今、安心に暮してる人間が一人だってあるだろうか。今の時代に、安心して暮してるのは、幸福な白痴と赤ん坊とだけだ。安心して暮すどころではないんだ。どんなに苦しんでも、『暮せない』人間が、どぶの中のゴカイみたいに、押し重なって、ウヨウヨしてるんだ。そして、お前が俺にせがむように、世の中の女房という女房が、みんな自分の亭主は甲斐性なしだと思い込んでいるんだ。そして、あっちでもこっちでも悲劇をでっち上げてしまうんだ。お前は俺を馬鹿で腑甲斐ないと思っている。その通りだ。すると、今度は俺が、誰か一番手近かな者に、その人間が、『もっと俺に親切』にしたらいいだろうと思う。とすると、そいつが無限に拡がって行く。となるとどうなると思う。誰もが、誰かが、『もっと親切に扱ってくれたらいい』と思うってことになるんだ。ところが、今は、誰もが、親切に扱ってもらいたがってばかりいて、『親切に扱ってはやらない』んだ。なぜだと思う。そういう風に世の中の歯車が嵌まり込んじゃったんだ。そして錆びついちゃったんだ。いいかい、お前は俺を、馬鹿の見本みたいに言う。よろしいその通りだ。俺は、人間が便利のために拵らえた金のために、今になって逆に命までも取られるようになって、そのためにまた、多くの人が、命よりも金の方を大切にする。それが俺は胸糞が悪いんだ。『ようし、そんなら、せめて俺だけでも、金の馬鹿野郎を粗末にしてやれ』と思って、有りもしなければ当てもないのに、入ったら最後、悪妻よりも残酷に叩き出してやる。見るのも胸糞が悪いって風に綺麗サッパリと縁を切ってやる。ところがどうだ。悪妻だって叩き出したら、自分で米を磨いたり、子供の面倒をみたりして、早速困らなきゃならんが、金の野郎は、余り綺麗に叩き出すと、早速生活に困らねばならん。それで、お前から言われるまでもなく、金は何ともはや癪にさわるが、生活は活きてる限りしない訳にはいかない。子供に罪はない。子供が修学旅行の貯金を、学校に持って行く時は、肩身を狭くさせてはいかん、と思うから、今後だね。癪にさわるが、少し待遇をよくして、『無茶苦茶に叩き出さない』位のところにしようと、内々、恥しい話だが考えているんだ」

 大山は、山が抜けでもしたように、勢こんで喋舌った。それは女房に言ってる、というよりも自分に言って聞かせてるように見えた。

「いい傾向だわ。恥しがることはないわ。あんた一人で、金を軽蔑してみたところで、それであんたの値打が上がるっていう訳じゃ、あるまいし、結局、それで苦労し続けるのは、あんた自身だし、その上、あんたとすっかり同意見だという訳でもない、子供たちまで、その飛ばっちりを浴びなけりゃ、ならないんですものね。あんたも自分で言ってるんじゃないの。『俺はもう、子供のために生きてるんだ。若芽のためにくぬぎの切株が生きてるように』って、それさえ忘れなきゃいいじゃないの」

「そう拷問の責め道具に、子供、子供って担ぎ出すなよ。佐倉宗五郎じゃあるまいし。『子供のために』ってこともあるが、そこに一つ重大な問題があるんだ。子供のためにってことは、子供──つまり、子供等の時代のためってことであって、絶対に、子供を出汁だしに使ってはいけないんだ。たとえば、今生きていて、そしてその子供がもう子供を持ってる、という、お祖父ぢいさん級の人間だ。その老人たちの多くは、やっぱり、俺の通りの看板でもって金を大切にし、『子供のために残した』んだ。ところが、どうだ。その子供が、金を濫費するからといって、準禁治産者にしたり、ひどいのになると『勘当』したりするんだ。これでも子供のためだろうか。こうなると拷問だよ。犬の背中に棒を結りつけて、鼻っ先きへ牛肉をブラ下げるのと同じだ。子供のために金は残したが子供には使わさない。つまり舐めるだけは舐めてもいい。が食ってはいけない。いいかい、利子を舐め舐め生きてる分には差支えない。が、肉自体、元金を食ってはいけない、ってんだ。ここんとこを一つ、よく考えてみてくれ。早い話が、お前のおやじを例にとってみようか。いやな顔をするな、例というものは実感がないと利き目が薄いものだ。お前のおやじが、俺に何と言った。

『わしは子供のために、麦飯と味噌だけで暮して、財産を拵えた。田も畑も家敷もある。が、長男は使う事ばかり知って、殖そうとはせん。それでわしは勘当した。娘には婿をもろうて店を継がせようとしたが「お前見たいな素寒貧すかんぴんについて」駆け落ちしてしもうた。三男も、こいつどうせ、お前さんに仕込まれて、ロクな者になりはしない。わしは子供のために財産を残したが、子供は誰ももらってくれようとはせぬ』

 と言ったじゃないか。『そんな御心配は要りません。わしがもらって上げます』とも言えんじゃないか。で、俺は芯から同情したような顔をしていた。また、実際、その動機には同情するさ。子供の幸福のためには、泣いたって喚いたって、今の社会では、金がなかったら問題にならない。金を軽蔑なんかしていようもんなら、現在では、子供の幸福どころか、一家心中もんだ。だから『子供のために金』というスローガンはいいさ。だが、そのうちに、金が運よくチビリチビリでも貯り出すと、子供よりも金の方を大切にし始める。終いには子供を勘当してまで、金を守る、という事になる。なぜかっていうと、子供って奴は、金ほど便利に使う訳には行かないからなあ。金はちぎって出せるが、子供はちぎる訳にはいかない。金を出して女を買い酒を飲むが、その子もまた、自分で稼げもしないで女を買い酒を飲む、ってえことになると、最初の看板がグラつき出して来るんだ。浅ましいもんだ、たあ思わないか」

「冗談じゃないわ。あんたが金を貯めるなんて。借金を払うだけだって稼げやしないくせに、そんな変なことばかり考えないで、あっさりと稼ぎなさいよ」

「そうだ。あっさり稼げ、はよかった。お前としては傑作だ。だが、どうも俺は、あっさり稼ぐという性分に、生れついていないらしいんだ。恐らく俺は自分でも分らないだろうと思うんだ。ヒットラーに対して、俺が腹を立てている。こいつは、滑稽なことだ。だが事実だ。俺はヒットラーに対して腹を立てている。こいつは確かな事だ。何のために? なぜだ? 俺はヒットラー氏に会ったこともなければ、おまけにドイツまで行ったこともない。ドイツの大使館も知らない。ドイツ人も知らない。何だって、俺がヒットラー氏に対して腹を立てたんだろう。なぜだか俺にも分らないんだ。多分、こういうことになるんだろう。つまり、あんまり手近かな奴に対して腹を立てると、言い合いをしたり、まかり間違ったら殴り合いをしなければならん。そんなことはどうも面倒でいかん。何でも構わないから、滅多に出かけて来て、ケンカを吹っかけそうもない奴で、大もので、面つきの気に食わん奴に『腹を立てとけ』とでもいうことに、俺は考えていたんだろう。そうとでも考えなければ、俺は、何だって、ヒットラー氏に腹を立てたか、サッパリ訳が分らないんだ」

「馬鹿だわ。あんたは。卑怯者なんだわ。あんたは。腹を立てなきゃならない時には、いじけ込んでいて、あんたに何にも関係のない事に腹を立てているんだもの。わたしにも、どうやらあんたという人間が分りかけて来たわ。あんたは、もの事を大きい事と、小さい事と、この二つに分けているんだわ。あんたは世間の事を、まるで怪我みたいに、大怪我と、ちょっとした傷と、位に分けて考えてるんだわ。だから、大きな出来事についてだけ、あんたは興味を持っていて、小さな傷を打つ捨っとくのよ。だから、小さな傷から命とりの破傷風が起こった時に、慌てて騒ぎ出すんだわ」

「うめえことを言やがるなあ。信州人は理屈っぽくって、頭がよくって、小ぢんまりしてて、なんて聞いてたが、天龍へ来て、半年経つか経たんのに、お前はそれ程頭が良くなったんかなあ。そんなに信州の山の空気は頭にいいのかなあ。こいつあうかつには、東京へ帰られねえぞ。子供たちのためにね。だがお前が今言った事はまったくだ。大きな出来事だけを重大視して、小さな出来事を軽視してはいけない。これは真理だ」

 そこへ、郵便配達夫が、封筒を叮嚀ていねいに差し出した。

 大山宛てに、友人から来たのだった。

 封を切ると。


大山殿        Yより。

前略

 本月は決算月ですから

 是非々々数日中に御送金下さい

 如何様お願いします

 右

 としてあった。

「なるほど、盆だ。こいつあいけねえぞ。まだ二口、三口、あるぞ。さあて弱った」

 大山は、頭の中が熱くなった。彼は借金の催促の手紙を見れば、必ず頭が熱くなるのだった。頭が熱くなる、というのは、こいつは動脈硬化にとって、決して、いい結果を与えるものではない。が、それにしても、金を、「俺だけでも粗末にしてやろう」という不逞な思想の、当然の結果だった。

「どうも、借金の催促状などというものは、血圧を高める作用があるね。借金するという事実は非常に健康な事だが、催促状になると、もう不健康になるて」

 と、大山は濡れ手拭で鉢巻をしながら言った。

 昼飯の漬物を上げていた女房は、

「して見ると、あんただって気になると見えるわね。良心が残ってる証拠だわ」

「変な時にめるない。ますます気持が滅入っちまわあ」

 大山は、半纏はんてんを脱いで、ふんどし一つになって、隅っこの暗いところへ、這って行ってゴロリと横になった。それはまるで、その手紙が、当の本人で、その目から逃げるためのようであった。

 大山が、暗がりで寝転がって、借金の返済という個人的な事実から、

 ──俺が奴に返せないと、奴は、奴の借りを返せない。すると、そいつがまた返せない。とすると、どうなるんだ。そいつをトコトンまで押して行ったら、ふんだんに持ってる奴が、返されなかった。暫く、辛抱さえすればいいってことになるんじゃないか。ええと──

 と、その考えを突き詰めようとすると、板壁一枚隣りの飯場の婆さんの、カン高い饒舌がうるさく耳につき出した。

「何でも、孕んだとか言うんで、警察へ引張って行って調べる、とかいう話ですよ。三人だとかってんですがね。そうかと思うと、ナアニ、押っつけられたんだという噂もあるし」

「あっちの方は、人間が多いから、そんなこともあるんですな」

 と、男の合槌を打つ声が聞えた。

「灯台下暗しですよ。こっちだってあるんだけどね」

「ほう、こっちにもね」

「こっちだって、そりゃ一つや二つじゃありませんとも」

 イッヒッヒ。アッハッハ。と、男と女との四つ五つの笑い声が、入り混って起こった。

 大山は、借金の事も、借金が社会との、どんな繋がりになっているか、それから、どうして、ヒットラーまで繋がっているか、理解し、説明する事はできないにしても、感ででも探ろうとした、その想は、引っ掻くような猥らな笑い声で打ち切られてしまった。

 ──ああ、あそこには、本能だけの世界がある。情痴だけの世界がある。与えられて習慣の軌道の上に乗っかかって、押されるままに動いて行く人々がいる。幸福は、あの人々のみの享け得るものだ。

「俺の色男を取りやがって。出て来い」

 という冗談じみた女の声が聞え、続いて、数人の口々に喚く声が起こり、釘箱を揺ぶるような聞き取れない騒音が、引続いて起こった。

 大山は、その頭がますます、熱くなっていくのを感じた。堪らなくなって、立ち上って、押上窓を上げて、支っかい棒をかった。

 と、一坪に足らない鶏小屋、風呂場、その下の便所、その下に流れる天龍川の灰色の濁流が目に入った。

 満目、濃緑と白と灰色であった。対岸の山は緑、河原の石は白、流れは灰色だった。それ等の見倦きた風景に眺め入って、頭の中に熱く煮えくりかえる、得体の知れぬ想いを追っ払おうとしているとき、また一つの思いが、意地悪く頭の中に忍び込んだ。


 それは植付時の事だった。

 ほとんど全体が滝から成っていると言ってもいい、谿流から水を引いて、苗床を拵らえるために、山間農民の忙しい最中であった。

 飯場の便所が、オーバーしそうになったので、そいつを三尺ばかり低くなった、川堤の方へ移転したのだった。

 そこへ、その便所の角を廻って田へ水を引くための溝を作りに、四人の農夫が来た。そして四人は、何かヒソヒソと重大な相談でもするように首を集めていた。

 話が煩雑になるので、端折るが、それは、「溝を作るのに、便所の台柱が三寸か四寸、邪魔になる。その邪魔になる部分は、飯場の土地とは所有者が違う。したがって、これは、他人の土地の不当占用という事になる。で、『便所を移転してもらわねばならぬ』」ということになったのであった。

 そこで、農民たちは、その便所の最も近くに住んでいる小林という、飯場頭に、その言い分を持ち出したのであった。

「柱が邪魔だったら切りましょう」

 一方は、土方で日本中を股にかけて歩き廻っているから、話は早くつけたい方である。

 一方は、土地に生えついたまま、一生涯動かぬ樹のような農民である。気の長いこと無類である。その上、何かしら、彼等はドヤドヤッと、無遠慮に乗りこんで来て、大胆に奔放に自然に手を入れて、そいつを変形させ、人工的な力学的な美を創造する、土方というものに、一種の反感に似た気持を抱いていたのである。

 強烈な刺戟は、都会人にとっては悦であり、山に住む人々にとっては苦痛であった。

 大山が食事するために、丁場から飯場の方へ降りて行くと、田と飯場との間の狭い畦道で、小林が大きな声を出していた。

 話を聞くと、農夫たちが、「柱が邪魔なら切りましょう」と言うのに対して、はっきりした返答をしないし、その気分が、どうも切るだけでは満足でないらしい。何かその底にあるらしい。と、小林は大山に言うのだった。

「他人の土地を無断で拝借したのが悪い、と言っていられるんじゃないか。そうでしょうか」

 と、大山が訊いた。

「悪いと言うのじゃないが」

 と、農夫の一人が答えた。

「はっきりしてくれ。はっきり。地代が欲しいんなら欲しい、とはっきり言ってくれよ。そう、ねちねちやられて堪るかい。百姓にコミやられて土方で飯が食えるかい。冗談に土方をしてるんじゃねえや。こう見えたって、太平洋と日本海を繋ごうってえ、国家的な事業をやってんだ」

「そんな乱暴な事を言うんなら、この畦道を通ってもらうまい」

「何、畦道を通るな! 通ったらどうするんだい。面白え。通るなってえんなら、なおさら通ってみてえや。この野郎!」

 大山は間に入った。

「止せよ。土方と舟方と喧嘩して、人間が仲に入ったってなあ、ありゃ昔噺だぜ。止せったら兄弟。で、畦道を通るなって言われたって、宙を飛んで来る訳にもいきませんし、土地ってっても、一坪とか二坪とかいうんなら地代も出せますが、三寸角や五寸角じゃ、どうにも勘定ができませんですが、こうして戴けないでしょうか。無断借用を大目に見て頂いて、長い事もありませんから、酒一升買う、という位のところで、辛抱してもらえませんでしょうか。お互いに近くに住んでいて、眼に角立て合うってのは、面白くありませんから、一つ、お願い申します」

「はあ」と、一人が答えた。「なあ、みんな、そんなことにしてもらおうか」

「よからず」

 という事で、納まった事があった。

 板一枚隣りでは、まだ頭のてっぺんから搾るような笑い声がしたり、押し殺すような、擽るような笑い声が聞えて来た。

 ──どうすればいいんだ。何を目当てにして生きて行くんだ。何だ! 理想は、いくらでも高く、遠くに置くことができる。そして現実は、過去の習慣と、伝統と、それから本能とだけの重圧で、息もつけないほど、むんむんしている。ちょうど、あの濁った天龍川の水が、そのまま空気になりでもしたように、息苦しいじゃないか。農民も、土方も、メスの刃のような断崖の上に立っていて、上の方の空高く、理想というようなものを眺めようとすれば、眼は眩んで、断崖から落っこちてしまう、とでもいうように、その立った足許と、その足許の周囲の危険さに、心を奪われて、立ちすくんでいる。そして理想とは? それについて一生涯考えようとも、俺の借金が一銭たりとも減りはしないところのものだ。一銭も通用しないもんだから、誰も彼も、そいつを投げ出しちまったんだ。ところが、誰も彼も一人残らず投げ出しちまっても、そいつはなくなりはしないんだ。この厄介な、困った代物の正体は一体何だろう。今では、そいつは、足に縛りつけた鎖みたいなものだ。そんなものをブラ下げてると、足に捲きついて引っくりかえってしまうんだ。だが、何だって俺はこんな愚劣な事を、飯場の中で考えねばならないのか。これは、借金の催促状が俺の頭ん中で、細胞の間を気でも狂ったように、駆けずり廻ったから起こった妄想ではないか。そうだ。だがだ、朝鮮で死んだ兄は、俺のような理想は一度も持ったことがなかった。だが、やっぱり死んでしまったのだ。たくさんの子供たちを残して、何も分らない。ただ、生きて行けばいいんだ。あの睦公のように。そうだ、むつっぺえでもからかってやろう──

 睦子というのは、小林飯場の飯炊女であった。この女は、何よりも屋根が嫌いであった。二十七か八位の年増であった。丸い顔の、あどけない顔立ちであった。

「セーフティーバァルプ」(安全弁)という綽名あだながついていた。

 何でも、東京で一度嫁に行ったが、姑との折合が悪くて、四つか五つになる男の子を残して、別れてきたとかいう経歴を持っていた。

 おっそろしく、物事を構わない女であった。

「あれじゃあ、姑でなくたって、を上げちゃうね」

 と、小林も音を上げた位だった。

 もっとも、「東京から女中が来る!」という噂が立った時の、小林飯場の動揺は大きかった。男ばかりの世界へ、独身の女、それもまだ若いのが来る、というのだ。物事を深く考えたり、観察したりする事は、労働者たちにとっては億劫であったが、若い女の、容貌や風姿、体臭などを想像することは、億劫などころか、大きな悦であった。

 お睦の足は、踵の辺に、冬は氷河の亀裂のような赤ぎれが口を開いていたし、夏になると白く膿んだような、水虫に変質した。

 が、飯場の若い衆たちは、外国人みたいに女の脚から、美や魅惑を、発見しようとはしなかった。

 お睦を繞って、小林飯場の若い衆の間に、親切競争が捲き起こされた。

 一日の長い、十一時間または十二時間の労働を終えて、草臥くたびれ切った肩に、重い橋桁を担いで帰って、それを切って割って薪にするもの、その薪を、飯場の中の焚火の周りに立てかけて乾かすもの、そういう間接な好意でなく、いきなり睦ちゃんの、お尻を撫でる事によって、意志表示するもの。

 ことにこの恋愛競争に、大衆的な娯楽的要素を与え、レビュー化したのは、この年ちょうど、徴兵検査の年齢に達した、林田という小男であった。

 五尺には、どうも些と足らないだろう、と思われるほど、林田は短かかった。

「おい林田、検査場に行くと、入口んとこに縄が張ってあるんだ。五尺の高さんとこにな。引っかかる位の奴は別の口から、中へ入れるが、お前は、その縄の下を通らされるぜ。そして一等お終いに、司令官が言うぜ、『今日縄の下を、縄につかえずに通った者は、大きな体格の良い女房をもらえ』ってね」

「ニキミ、シバラ」(馬鹿野郎)

 と、林田は朝鮮語で言い返すのだった。この小男の愛嬌者は、朝鮮の労働者と、ことに親しかった。ともすれば、日本人労働者と、朝鮮人労働者は、言葉の自由な交換ができないで、反感は持たないまでも、親密になるという場合は、余り多いとは言えなかった。が、この小男は、特別であった。というのは、この小男が最初土方になったのは、朝鮮人の飯場においてであったからであった。

 が、ただそれだけの理由でもなく、この小男は極く無邪気な、人に悪意を持たない性質から、誰からも憎まれる、という事がなかった。

 この若者の小男が、一日の仕事を終えて、飯場に帰り、一風呂浴びて砂埃や汗を洗い落し、夕飯を済ますと、誰にも気づかれないように、お睦の白粉を棚から下ろし、それを顔中に塗りまくり、手拭で姐さん被りにし、それから、板壁に吊るしてあるお睦の着物を着、帯を締めて、飯場の一隅に立てかけてある米俵の奥に隠れるのであった。

 外のもっと年のいった、経験の多い兄哥連は、晩酌を一本やったら、おだを上げたりして、まだ土間の飯台から立ち上がらないのだった。

 空っぽの胃の腑に一本の酒が、まるで吹きつけるように、浸み込み、それで一層食慾を刺戟された、若い衆たちは、驚くほど馬食して、それが済むと、もう眠くなるのだった。

 板張りの一ヶ所が囲炉裏に切ってあり、そこへ、釜の下の焚き落としを入れ、寝るまでのほんの暫くを、追想に耽ったり手紙を書いたりするのである。

 ちょうどその時刻まで米俵の後ろで、息を殺して隠れていた、林田は、ハーモニカを吹き出すのであった。それは東京音頭であった。

 すると、若い衆はもちろん、洗うために、笊の中に茶碗を入れかけた、お睦までが駆けつけるのであった。

「誰だい? 隠し芸を、凄い奴を知ってるなあ」

 という声がかかると、林田は、片手はハーモニカを離す訳にはいかないが、片手には、二月の天龍谿谷の、七十年振りの厳寒というのに、渋団扇を持って、手振り足振り、お睦ちゃんの変装で、舞台へ現われるのだった。

「ウヒャーッ」

 と、身もだえするような笑いを、お睦は上げて、飯場の蒲茣蓙の上を、転げ廻った。

 若い衆は、主役を林田に取られたので、といって、咄嵯にいい役の考えも浮ばないで、ニヤニヤ笑いながら見入っていた。

 が、お睦は一通り転げると、まだ喉の奥で、キュッキュと、茶碗でも洗うような、笑い声を出しながら、林田に飛びついて行ったのであった。

 何のために飛びつかれたのか、林田には見当がつかないので、この小男は本気に慌てちまって、逃げて歩いた。が、何しろ、顔中真っ白けに白粉は塗ってるし、女の着物は着ているし、姐さん被りまでしているので、花見時でもない、寒中、飯場の外に飛び出すという冒険は、できなかった。

 とうとう小男の林田は、がっちりした体格のお睦に取り押えられて、隅の方に積んである布団の上に押しつけられた。そして姐さん被りの手拭をとり上げられた。

 この遊戯が、遅くまで続けられると、林田は朝、顔を洗う間がなく、飯を食うとすぐ、丁場に駆け上がらなければならなかった。

 ちょうど、その時分、隧道と凾渠とのコンクリが、毎日打ち続けられていたので、林田は、顔に白粉を塗ったまま、コンクリート・ミキサーの練台の上に、真っ先に飛び上がって、まだ量る必要もないのに、白土の袋の口を解いて、それを舟の中に空けるのだった。

 白土やセメントを量る役に廻れば、女よりも真っ白くなっても、不思議な事はないのだった。

「うまいところに嵌りやがったなあ」

 と、その面白い思いつきを知ってる親方は、別な役に廻そうともしないで、林田に白土とセメントの量り方を委せておくのだった。

 この遊戯は、約半ヶ月位は魅力があった。で、いつも扮装は同じだが、筋書きだけが、少しずつ更えられて、たとえば頬被りをとるところを、帯を解くとか、東京音頭の代りに、伊那音頭を吹くとかして、冬の夜のメリ込むような寒さと、無聊ぶりょうとを凌いでいった。

 これは、この調子で行けば、小林の飯場は和気靄々として、若い衆の足も止まり、楽しみもあり、各々の若い衆が、故郷に残して来たにがい、肉親の境遇も、幾分ぼやけ得たであろう。が、そんな時代ではなかった。

 つまり、お睦が若い女であり、朗であり、冗談好きである、というだけの間は良かった。

 が、誰も、お睦に、そんな状態でばかりいる事を強要する、という訳にはいかなかった。

 お睦が、掃除や片付け事が嫌いで、山に行って薪を取ったり、事務所に行って米俵を背負って来る事を好んだから、といって、一口に言えば男のする仕事を好んで、女のする仕事を厭うといったからとて、だからお睦は女でないという事にはならないのだった。

 お睦は、土方もやれば坑夫もやるし、鍛冶屋の真似だって、一通りはやるといった風な、兄哥株の笹本と、どうもくっついたらしかった。

 笹本は三十そこそこの年輩で、女のように優しい顔立ちであった。なぜだか、人の目をジッと見るという事がなく、いつもうなだれていて、この地上には、真実の愛情というものはない、と思い込んでしまった、といった風な、取りつく術も、慰める法もないような、寂しさを湛えた男だった。

 このよるべのない、寂しい男が、お睦を得たことは、慶びに堪えないことだった。が、それを単純に喜ぶためには、笹本とお睦とだけが、他の多くの人々から離れていれば、それで問題はないのだったが、困ったことには、お睦に目をつけていた者が、もう一人居たことであった。

「乞食も思わしくないから土方になったんだ」

 などと、冗談を言う位に、この社会には、捨てっぱちに落ちぶれた者も、沈み込んでいる。それはちょうど、鍛冶屋の金敷の台木の中に、いつの間にか鉄屑が嵌り込み、沈み込むのとよく似ている。

 金敷の台木から鉄屑が浮かび上がれないように、多くの土方の中には、それから浮かび上がれない約束に縛りつけられたような者もあった。それも、それが数多く!

 坂田も、そういう風なタイプの土方であった。もう四十に間もあるまい、と思われる年輩で、仕事も委しく、大抵の仕事には兄哥株だったが、たった一つの欠点があった。

 それはまた一つの美点でもあるところの、「人が好過ぎる」という事だった。

 それに、男振りが悪いという訳ではなく、脊も高いし、体格も好く、ボクシングの選手なんかよりも、もっと盛り上がった筋肉美を持っていた。ただ一つ、どうも少し上瞼が突き出し過ぎていた。いわばひさしが出過ぎていて、室の中が暗かった。

 それも良かった。が、女に対して自信を持っていなかった。つまり図々しくなかった。そのためには、いきなり口説くとか、手を握るとか、尻を撫でるとかする代りに、目標を決めた女の前で、自己紹介をやらなければならない、という面倒な手続が必要だった。

 ところが、坂田の自己紹介は、紹介の限度を飛び越して、自分褒め、自惚れになってしまうのだった。「それ位の事は、許してやらなければ、坂田は生きて行く空はあるまい」

 と、仲間たちは、皆心の底から深い同情を以て聞いていたし、毎々の者は聞く振りをして、外の事を考えていてやったのである。

 ところが、お睦は坂田の自己紹介が気に入らなかったのである。

 もっとも、後になって、これは坂田も、お睦も、二人が一緒になりでもしたら、大変なことになったであろう。と、覚ったらしく、坂田は、「あんなやりっ放しのお喋舌を嬶にしたら、それこそ一生の不作だったよ」

 と言い出して、すっかり諦めて、お睦が、男から男へと追っかけ廻るのを、嫉きもしないで、ただ、不快そうに眺めていた。

 お睦は「××は自分の絶対自由である」と確信していたらしい。いや、そんなことはまるっ切り考えなかったのであろう。そんな風な女がどうかするとあるものである。

 笹本が、「一廻りして来たい。大井川の発電所に世話焼で使ってくれる口ができた」

 と言って、小林に暇をもらうように申し出て、その送別会なんかを開き、さて出発して後のお睦の様子には、まるで淋しいなんて風な気持は見出せなかった。それどころか、笹本がいる時よりもっと朗になり、燥ぎ出したりした。

 それで、いろんな混線が起こった。

「昨夜はお睦さんは、小野さんと、丁場の方へ上がって行って、二時間ばかり帰って来なかった」

「一昨日の晩は、大山さんと川下の方に、四時間も散歩に行ったのにねえ」

「じゃあ、笹本さんがいなくなったから、どこへも出ない時は、誰かときっとおかしいんだわ」

 という風な会話が、山の神の連中の間に拡がり、折から留守にしていた、小林の女房が帰って来ると、小野の嬶が焚きつけられたり、大山の嬶が焚きつけられたりして、方々に小さな火花が持ち上がったのである。この小さな家庭争議の火花は、どうかすると、飛んでもない破綻にまで走ってしまうこともある。が、大したことは、お睦の場合では起きないで済んだ。

 ここで一つ、面白い(面白いどころか不屈至極だと、叱る人もあるかもしれないが)エピソードを挿ませてもらいたい。

 それは、嬶を忘れそこなった。というのである。

 おやじも飲んだくれだが、嬶も飲んだくれで、どっこいどっこい、という土方の夫婦がいた。これは一緒になり立ては、さしつさされつアレワイサノサ、とか何とかで、至極、ウマが合ったのだが、夫婦生活には、経済的な問題が重大になって来るので、だんだん暮している中に、お互に十分飲めない羽目になってしまった。

 そこで、おやじは嬶をオッ抛り出して、汽車で、別な工事場へ出かけたのである。ところが、うちでへべれけになってひっくりかえってるはずの嬶が、へべれけではあるが、発車間際に停車場にかけつけ、亭主と同じ列車に飛び乗ったのだ。そして、亭主のシートの前に立ったまま、胸倉を掴まえて、

「嬶を忘れる奴があるか」

 と言うと、亭主は頭を掻きながら、

「せっかく忘れて来たのになあ」

 と言った。というのである。

 こういう話は、さまで珍らしい事件ではないのだ。これが、お睦の場合であったならば、喜んで「忘れられた」かもしれないのだ。

 そのお睦も、とうとう暇を取って、どこかへ行った。「またちょいちょい遊びに来ますから」なんかと言って、行ったところをみると、どこか近くの辺に、彼女らしい「穴」でも見つけたのであろう。

 こういった風な女は、生活に後を残さないで、きれいさっぱりと、身を翻して行く。

 が、そこへ行くと大山だの、小林だのの、世帯持ちは、生活の両側に紐がついていて、それが首に捲きついているのであった。無理に、処置をつけようなどと考えると、その紐が締まるのである。

 だが、今、工事は進めている。小林の言ったように、日本海と太平洋とを結ぶ、非常な難工事が着々と進行している。

 ハッパは、昼夜を分たず、天龍谿谷に木魂して、深い眠の枕を持上げる。

 昨日は、手慰さみの最中に、四人の土方が連れて行かれた。

 盆の休みが過ぎて、明日からはまた、レトルトのように、暑い労働が始まる。


 天下の名勝と称する、天龍川畔天龍峡は、いわば天龍川が山岳地帯を、長々と突破する大谿谷のその小規模な玄関口である。

 そこは、東京からか、または伊那盆地から、いきなり飛び込んで来た、観光客には、奇岩怪石の間を、天龍川が幅狭く食い込んで、流れて居るので、たしかに珍らしいに違いない。

 が、それから、ふたたび足を下流に向って、延ばすならば、山はますます高く、谿谷はますます深くなることを発見するだろう。そして、しまいにはいやになっちまうだろう。

「いつまで、この両岸の山、この紆曲した濁流が、続くのだろう」

 と、途中で心細くなるほど、川は山の間に、長々と沈み込んで流れている。

 川舟が下り、そして曳っぱられて上がって来る。

 その川舟を仕立てる場所に門島というところがある。同じ名の駅のすぐ下である。

 そこから、七八丁の下流に「緑屋」という、旅館兼下宿、たばこ、雑貨、酒、ビール、罐詰、菓子、鯉、等々、つまり何でもある店がある。

 緑屋は、そこへ四十年前から、トグロを捲いていた。まったく、トグロを捲いていた、と言っても、非常に失礼に当るとは思われないような、急峻な、恐らく千尺もあろう山の真下に建っていた。

 しかし、その山が、途方もなく急嶮であるにも拘わらず、とにかく、四十年の間は、安全であった。植物の密生に依って、山肌が蔽われていたからである。

 その緑屋の、十五六間位の上を、鉄道線路が通るために、山を切り取らねばならなかった。「切り取る」と一口に言っても、普通の土ではなく、堅緻な岩であった。

 山の表皮を犯すために、草木を伐採したのは今から半年も前の事だった。次には岩石に穴を穿って、ハッパをかけるのだった。

 真下に「緑屋」さえなければ、ドカンドカンと大ハッパで、山を崩せるのだったが、そうは行かなかった。

 そうでなくてさえ、ハッパの石が飛んで、緑屋の屋根へ穴を明けたのは、一度や二度ではなかった。

 そのたんびに、勝気で伝法肌な、緑屋のおかみは、表へ飛び出して、真上の山を見上げて、

「馬鹿野郎! 気をつけやがれっ」

 と、顔色を蒼白くして、怒鳴るのだった。

 大山は、ハッパの蓋をするような役目に廻っていた。

 最初は路傍に捨てられてあった、古畳を拾って来て、導火線がシューッと音を立てて、燃え始めると、穴の上に畳を立てかけて逃げるのだった。

 だが、穴が三本も四本もくられると、一人では間に合わなかった。

 緩燃導火線であるし、いきなり爆発するものでない、という事を、百も承知していても、一間位隣りで、灰白色の煙を勢よく吹いている、ハッパ穴の前では、そんなにのんびり仕事をしてる訳に行くものではなかった。

 四本位の時は二人で火をつけて、それから古畳を立てかけて、ベルを振りながら、

「ハッパだあ、ハッパだあ」

 と怒鳴りながら、山の斜面を木の枝や根っこに掴まりながら逃げて行くのだ。そして、もう大丈夫と思われる辺で、樹の幹を盾にとって、煙を吐いている、ハッパの穴の辺を、ベルを急調子に振りながら、見詰めるのであった。

 それは一日に五回かける時でも、その各々の時に、心の引き緊まるのを覚えた。

 ドーン、ドドーン、バーン

 と天龍の川を挟む両岸の絶壁に木魂して古畳を突き倒し、穴を明け、時には四五間も空へ押し上げるのだった。

 古畳はすぐに役に立たなくなった。しかし、この山間では、古畳の補給は至難であった。で、古畳の代りに粗朶を針金で編んだ。樫の木の葉のついたままのを、かっきり畳一枚敷位の広さに編んだ。そして、切り取り面に水平に下から六七間の高さに、十番線(太い針金)を張り、それに五六間の長さで移動できるように、同じく針金を下げた。

 そうしておけば、一々ハッパ押えを、断崖の下まで吹き飛ばされないで済むし、ハッパ穴が五六尺の高い段の上に穿られても、上からハッパ押えを吊るしておけるのだった。

 それは困難な作業だった。編粗朶が相当に重いのと、それを穴の上にうまい具合に蓋をするのには手間が取れた。が、ゆっくり手間を取ってる訳にはいかない性質の作業であった。

 が、編粗朶にしても、一二度やる中には、穴に直接当るところは、樫の枝がザクザクに折れて取れて終うのだった。

 その切り取り面に、六七本の穴が仕上がり、一々押えをして、点火して、ベルを振りながら、見るのは面白い。一度などは、張り渡してある針金が一本であるため、ドーン、ドーンと鳴って、狂った馬が後脚を蹴上げるように、押えを撥ね上げ、撥ね上げするうち、最後の一本の穴の押えが、「確かに少しずった」と思ったがもうそうなっては、どんな豪勇の者も、「ハッパと度胸較べ」はできないのだ。

 ドーン、ドーンと鳴ると、機関銃口が、こっちを向いてでもいたように、バラバラっと、低く地を逼って、岩片が飛んで来た。大山たちは立ち樹を楯にとっていたので、何ともなかったが、他のトロを押している者や、捨場を掻いている者たちは、パッと首を下げた。

 穴が、こっちを向いていたのである。

 幸いに、負傷者はなかったが、鋭い刃をした岩片がたくさん落ちていた。

 どういう訳であるか、ハッパが鳴って、バラバラッと岩片が飛んで来ると、誰もお辞儀でもするように、ハッと前に頭を下げるのである。顎を突き出して上を向く者などは一人もないのだ。

 こうして、トロの線路の敷けるだけの幅で、緑屋の上の切り取りを上流へ突っ込んで行った。

 ところが、その切り取りとこの切り取りとの間に、小さな沢があった。沢とは言っても、雨が降ってもようやく小さな流れをなし、降らねば、岩松や苔の下を潜って、浸み流れる程度のもので、それが緑屋と、新屋という旅館の水源になっていた。

 その年は天候がおそろしく不順だった。

 梅雨期には、滅茶苦茶に照って、体中の水気を焙り出してしまうほど暑く、土用に入ってから、ジトジト降ったり、涼し過ぎたり、麹室の中みたいに暗くて蒸し暑く息苦しかったりした。米の値が上がって、東北地方では、稲苗を植付けるか植付けないかに、「この年は蕨根や葛の根を早くから掘っておくがよかろう」といった風な布令が出たなどと、噂された。

 そんな風な、乾燥した梅雨期に、緑屋の上の飲料水の沢に、掘鑿が突き当った。

 滑っこく、水で洗われた岩肌や、岩肌に生えた苔や、凹みに生えた菖蒲に似た草だのは、一本のハッパで、跡も片もなくなって、その後には、有史以来初めて光線を見るのであるかもしれない、地殻の内皮の一部分が、ザクザクになって、ひっくりかえる。すると、この岩片の表面が無暗に拡がるものだから、小さな流れは下へ流れないで、岩片へ吸い込まれるのである。

 すると、緑屋のおかみが下から上がって来るのだ。

「水がちっとも来ないが、どうしたんですか。石垣の方へ廻しているのなら、今日はこちらへ落としてもらいたいですが、半日やそこいらなら、辛抱するけれど、一滴も出ないで、一日中ってことになると、まことに悲しいでのう、お客様商売で、お客様に、風呂にも入ってもらえんことになるで」

 大山は、緑屋のおかみにとっ捕まると、要求が無理でないだけに、返答にも困るし、対策に到っては、手も足も、どころではなく、水が出ないので、逃げ出そうとしたのだが、間に合わなかった。ハッパ押え係りだったものだから、押えをとり外しながら、

「いやごもっともです。ちっとも出ないですか。そいつあいけない。弱ったなあ。こう毎日々々じゃ、水のない方はもちろん堪らないだろうが、わしもたまらんですよ。今、下に下りて行って、一つゆっくり御相談しましょう」

「そうして下さい。大山さん。死活問題ですよ。こんなことが続いたら、下宿の人も居てはくれなくなるし、私たち、乾上がっちまはねばなりませんよ。四十年も私たちはここに住んでいるんですからね。それが今になって水攻めに会おうなんて、悲しいですよ。大山さん」

 と、この感情の強いおかみは、眼に涙さえ溜めるのだった。

 大山は下に降りて行った。

 花屋の前にも、どこかの水力発電所の監督らしい人の、高級なバラックが建っていた。

 その辺の田だの桑畑だのには、赤インクだの、黒インキだの、ベニガラを塗ったのだの、白色レグホンの、雛がたくさん餌を漁っていた。これは少し説明を要するであろう。

 この深い谿谷にも、東京の夜店で売っているのと同じ、白色レグホンの、かえったばかりの雛を、穴の明いたボール箱へ「詰めて」自転車の尻に載っけて、売りに来る商人があった。それは安い値段で売られた。そして、うまく大きくさえすれば、いい値に売れるので、方々の飯場でそいつを買ったのである。

 だが、人間さえもが鶏小屋に類する飯場に住んでいるんだから、鶏と人間を同じ待遇にするという訳には行きかねた。そこで、鶏には眠る場所だけ、竹っ片やセメントの紙袋などで拵えてやり、昼間は、「自由に、勝手に、好きなものを食って、大きくなれ」ということにしたのである。

 ところが、そのうちに、毎晩、鶏小屋で寝る鶏の数が、「殖えたり減ったりする」という事が分った。どこだって「殖える」分には差し支えがなかったが、減るという事になると、一日一日大きくなるのだから、穏やかではなかった。

 そこで足に紐を捲いてみた。が、これも余り効力がなかった。赤い紐というものが、五十も六十も揃っていたり、布を裂いたにしたところで、まだ使える裂を、そう無やみに使えるものでもなかった。その上、解けたり、汚れて見分けがつかなくなったりした。

 止むを得ず、一番たくさん飼っていて、一番沢山減った、飼主が、一匹ずつ引っ捕まえて、スタンプ用の赤インクを、ベタベタと背中へ塗りつけたのだった。

 こういう次第で、この谿谷の川面に近い、街道筋では各々様々の色をした白色レグホンが、餌を拾っているのが見受けられるのである。


「これを見て下さい。まるっきり滴も出ないでしょう。これじゃどうにも悲しくて」

 と、緑屋のおかみは「悲し」がるのである。

 なるほど、上の沢から地に埋めて、長々と引かれた、筧の先からは、水は一滴も出ていなかった。水溜めの木桶にも、使い残りの水がごくわずかしか残っていなかった。水桶の下には二坪余りの池があって、水が黒く濁って、鯉が鈍く動いていた。

「それに、こんな風だと、今日中は鯉が持たないんですよ。こんな山の中ですから、鯉でも活かしておかなきゃ、活きたお魚なんて、外のものは手に入りませんからね。これでも十五六貫匁入れてあるんですよ。困っちまいますよ。外のものなら、何とか都合もつけますけれど、水だけはねえ。命の水っていう位でしょう。ほんとに悲しくて」

「どうも、天龍川のすぐ側に住んでて、水に不自由するって法はないですね。だけど、こんな渇水って珍らしいんじゃないですか。寒中よりも涸れてるんですものね。井戸は掘っても駄目なんですか」

 と大山が、気の毒になって、都合によったら、井戸でも掘ってやらねばなるまいか、と考えながら言った。

「そりゃあね。掘れば出ない事はないでしょうけど、せっかくいい水が湧いてるのにね。この水は体にとってもいいんですよ。うちに下宿してる人たちでも、二三ヶ月すると、きっと肥って来るんですからね」

「そう言ってましたよ、新屋でも、湯に沸かして入ると、リューマチに利くとか、とも言ってましたよ。何だかしかし余り長く飲み続けると、おかみさんみたいに、そういやおやじさんもだが、また瘠せるんじゃないんですか。過ぎたるはなお及ばざるが如しってね。新屋のオヤヂは、相変らず足が良くないようだし、どうです、おかみさん」

 と、大山は気持にゆとりができたので、まぜっかえした。

「口が悪い! 性分は仕方がありませんよ、大山さん。あんただって、たがを嵌めたように瘠せているじゃありませんか」

「どっちが口が悪いんだか、箍を嵌めたたあ驚いたなあ、どうも昔の大砲みたいだなあ、木でできた。しかし、おかみさんはうまいことを言いますね」

 大山はそう言って笑った。

 その時、緑屋の前の道を、上流の方から十六七人の労働者が、口々に何か喚きながら駆けて行った。

 そのうちの一人は、長い竹の棒を二本と、それに布か何か捲いたのを担いでいた。

「何だろう」

「どうしたんだろう」

 と、二人は腰を浮かして、表まで出た。

 そこへ、以前、小林の飯場にいて、白粉を塗ってお睦の着物を着ては、ふざけ散らしていた、小男の林田が駆けて来た。何でも、検査を受けて、暫く小林の飯場にいて、それから上流の発電所の堰堤の方で、ジャックハンマーの稽古の意味で、働いているとかいう噂は聞いていた。

「おい、林田、暫くじゃないかい。どうしたんだい」

 と、大山が立ち塞がるようにして聞いた。

「今、人間が二人、流れちゃったんだ。追っかけて行くとこなんだ」

「何だって、二人も流れたんだ」

「帰りだ、帰りだ。今はそんなことを喋舌っちゃいられないんだよ」

 そう言って、小男の林田は、木の葉が吹きまくられるような恰好で、下流の方へ仲間の後を追って駆けて行った。

「おうい、林田ぁ待てよう。ちょっとだけ話を聞かせろよ」

 と、大山は後の方の文句は、おかみへ聞かせるために言い添えて、駆けて林田の後に続いた。

 ──ものにはきっかけというものが要るもんだて──

 と大山は、緑屋のおかみから逃げ出し得たことに、ほっとしたのであった。

 緑屋から一丁ばかり下手に、小林飯場が通路から、ダラダラと二三間下りたところに建っていた。

 林田がその手前の電柱の辺まで、駆けて行った時、小林のバラックから、小林自身が通路へ上がって来た。

「今日は」

 と、林田が立ち止って小林に挨拶した。

「どうしたい」

「堰堤の方で今働いています。たった今、玉石が抜けて、下にいた仲間を放水路ん中に叩っこんじまったんです。一人は渦で巻きかえされて、上げましたが、も一人の方が流れちゃったんで、今、探しに行くとこなんです」

 そこへ大山も追いついて、話を聞いた。

「一人でに抜けたんかい。あそこは随分高いじゃないか」

「いや、危いから抜こうとして、大分骨を折ったけど、どうしても抜けなかったんですよ。そこへ、下の方に足場を作らなきゃならなかったんで、二人やって来たんですよ。『ちょっと待て、この玉石を抜いてからにしてくれ』ってんで、二人がかりでやってみたが、どうしても抜けないんです。こんなにまでして、抜けなきゃ落ちっこないってので、『いいからやれ、大丈夫だ』と言うので足場にかかったんです。ところが、どうした弾みだか、その玉石が抜けたんですよ。

『おうい、行くぞ、どけ、どけ』

 って上から怒鳴った時は、もう上の方にいた者の腰に、ぶっつかりましてね。そのぶっつかる瞬間に、そいつ手を高く挙げましたぜ。そうすると、その下にいたのも、やっぱり両手を高く、バンザーイ、とでも叫ぶ時のように上げましてね、そして、玉石が上の者の腰を打つ瞬間に、二人は抱き合っていましたよ。それから石も、抱き合った二人も、瞬く間に、あの放水路ん中にまくれ込んじまって、騒ぎになったんでさあ」

「二人とも流れちまったんかい。抱き合ったまま」

 と、小林が訊いた。

「落ちる時には抱き合ってましたがね。腰を打たれた方はすぐ死んだらしいんです、だから、放水路を出外れた吊橋のところから、渦になっているでしょう。あの渦んとこで、生きてた方の男は、一人で泳いで這上がったって、言ってましたよ。助かったかどうかまだ分りませんがね。腰をやられた方の男は、そのまま流れの底を、どうも押し流されたらしいんです。だから、今みんなで担架を持って、下流に浅いところが一ヶ所あるでしょう。あそこへ見張りに行くんです。死体より先に行ってないと、あそこを越されたら、もう浜松から太平洋ですからね。冗談じゃない。もう兼山の丁場の先辺りを、ゴロゴロ川底に打つかりながら流れてるかもしれない。ごめんなさい」

 そう言い捨てると、林田はまた転がるようにして、小刻みに駆けて行った。

「野郎、ひどい野郎だ、徴兵検査に行くってから、羽織の一枚も拵えるようにと思って、勘定と一緒に小遣も持たしてやったのに、帰って来て、一日二日居たと思ったら、もうケツを割っちまやがって、外で働いてやがる。面白い奴だから、どこへ行っても、可愛がられると見えるんだね」

 と、小林が大山に言った。

「若いからねえ。一つところにじっとしてなんかいられないんだよ。金坊きんぼうには『おやじに金をもらってくれ』なんてって、頼んでいたんだそうだよ。検査で幼友達に会って、女の味でも覚えたんじゃないかい」

「また、川向いでは火葬だね。俺たち正月からこっち、幾つ火葬を見ただろうね」

「随分の数だね」


 小林飯場の川向いに、この附近の村落や、工事場で死んだ者を火葬にするための場所があった。

 両岸が高い山になって、峡になっている戸口みたいな、狭い傾斜面に、水面よりやや高く、長さ五尺、幅二尺、深さ三四尺に穴が掘られてあるだけだった。

 その火葬場のすぐ上流は、発電所工事の砂やバラスの採集所になっていた。

 棺は、釣橋を渡ったり、新らしくできた道路を通ったり、そのまだ開通しない個所から急に、山の断崖を河原に下ったり、バラス採集所の掘り残しの狭い高いところを通ったりして、火葬場まで行かねばならなかった。

 チブスの流行った時などは、一日に二つ位そこから、濃い煙が上がった。その煙がまた、風のないために未練気に、いつまでも谿谷に立ち罩めて、川向いの飯場までも、いやな臭いを嗅がねばならなかった。

 まだ寒い頃の事であったが、前の日、小さな棺を、極く少人数で送って来て焼いていたが、その翌日、朝早くから、その小さな棺の母親らしいのが来て、夕方まで、ほとんど、その穴の中に入りっ切りだったことがあった。

 川向いの飯場でも、それに気がついて、「どうしたのであろう」と、みんな気になって時々見やった。もういないかと思うと、穴の中からものうそうに頭を上げたりするのだった。多分、幼くして逝った子の、どんな小さな骨をも拾い残すまいとしたのであろう。そして、冬の早い日没で、もう姿の見えなくなるまで、帰って行くのはこちらからは見届け得なかった。


 緑屋の飲料水の問題は、その日の夕方から雨になったので、一切の水喧嘩の例に洩れずあっさり解決がついた。

 が、今度は、緑屋の家屋そのものと、中にいる人間とが、「安全でないかもしれない」という状態になった。

 誰も、こんなことが持ち上がろうとは、思いもかけない事であった。というのは、その切り取りの岩石に、断層というか、何というか、があったのである。ちょうど山ほどもある玉葱みたいに、山の岩石に層が入っていたのであった。

 その理の下の方を、ハッパで外し外し、進んで行ったので、下から支えるものがなくなり、山の圧力で岩石の理に添うて、上の山が「崩壊して来ないとも保証ができない」という事になったのである。

 これには、一同まったく困り果てた。

 まだ二ヶ月かそこら前にも、中位の柳行李位な石が、その切り取りから落ちて、そんなはずがあろう道理がないのに、急傾斜面を転がって、敷居位ならまだしも鴨居から壁、敷居を打ち折って、そこへ居据った、という出来事があったばかりだった。

 その時は、鉄道敷地から、すぐ下の報償道路の上へ、そうっと落とそうという心算で、金挺でちょこっとこじたのだった。が、その意地の悪い石は、報償道路の上で、ちょっと、考えるような風に、一二度のろのろと転がり、上流寄りの沢の方へでも落ちる風を装いながら、道路を外れるや否や、猛然と竹だの欅の樹などに打っ衝かり、それに依って回転を与えられ砲弾のように転げ落ち、家の上の崖っ端で反動のため、約一間も高く撥ね上がって、上述のような被害を与えたのだった。

 そして、いつもその石の落ちた場所には、緑屋の一人娘の、みづほという、二十一になる愛らしい子が、裁縫をしているのだった。

 だが、その最初の無作法な石の訪問の時には、みづほは炊事場の方へ行っていたので、人間には何の被害もなかった。

 その時は、百方、謝罪して、損害を弁償することで勘弁してもらったのだった。

 今度はそうは行かなかった。一つの石や、一つの岩ではなく、相手が山であった。


 六月の初めだった。

 早朝、仕事のかかりにはまだ寒かったので、焚火をして当った。

 緑屋の上の切り取りは、今ではもう四五十尺も、山の臓腑が白く高く聳えていた。

 その切り取りの断崖の上に、畳二畳敷位の玉石が、載っかっていた。玉石といっても、数十年かまたは数百年か、そこにじっとして坐っていたものだから、草だの灌木だのが、その上に生い茂り、苔むしていた。そして、それが、下の山を形造っている岩磐の露頭か、または独立した玉石であるか、という事は、一目瞭然とはいかなかった。

 どちらも「神様」を以て任じている、二人の坑夫の間でさえ、「露頭だ」「いや玉石だ」という風に意見を異にした位であった。

 いずれにしても、その切り取りは、も少し深く山の内部へ向って、切り込まねばならなかった、とすれば、どちらにしても、その玉石めいたものは、「目の上の瘤」であった。そいつが、山と一緒に崩れて来たら、もう緑屋もその前のバラックも、てんで問題にはならないのだった。

 で、下の方から切り込む前に、その断崖上の玉石に穴をつくって、軽いハッパをかけた。

 ところが、この玉石奴、数百年甲羅を干して眠ってたところへ、いきなりハッパをかけられたので、ひどく驚いたものとみえて、拳骨大の涙をバラ撒いたのだった。

 その一つが、またぞろ、緑屋の屋根へ落ち、御叮嚀に、屋根から天井まで打ち抜き、菓子を並べてある箱の上まで、落ちて来て、硝子板と菓子とを、グチャグチャに、一緒くたにしちまったのである。

 ちょうどその直後、大山はバラック街の方に用事で出かけた帰りに、緑屋の前を通った。

「大山さん、大山さん」

 と、緑屋のおかみは、勝手の方から、大山の姿を見かけると、大声で呼び止めた。

「ハイ、また水が止まりましたか」

 と大山が冗談に言うと、

「水どころじゃありませんよ。これを御覧なさい。何とか徹底的に防備してもらわなけりゃ、工事を中止してもらう以外にありませんよ。屋根を打ち抜いて、天井を打ち抜いて、菓子の陳列棚を打ち壊して、商品をメチャメチャにするってな事になると、背に腹は代えられませんからね。責任者たるあんたは、一体どこをボヤボヤ歩いてるんです」

「や、こりゃあ、どうも、えらい事をやらかしちゃったなあ。あんなに設備してあるのに、どうして飛ばしやがるんだろうなあ。いや、どうも済みません。弁償しますから御勘弁願います。何しろ、坑夫に委せとくと、面倒臭がって充分にやりませんからね。『ハッパをかけりゃ、石が飛ぶのは当り前じゃないか』なんて捨っパチなのが居るんですからね。そりゃあ、ハッパをかけて石が飛ばないようじゃ、かける必要はありませんがね。困ったことには、緑屋さんが、四十年も前からこんなところにガン張ってる事ですよ。これが去年辺りから、バラックでも建てたってなのなら、因縁のつけようもあるが、いや、おかみさん、あけすけに言っちまえばまあそんなもんですよ。屋根板や天井板は早速持って来ますが、ね、おかみさん。菓子だのその箱だのは、私が食ったことにして、帳面につけといて下さい。会計の時にお払いしますから、そいじゃ、屋根板をとって来ますからね」

 大山は、もうしまいの方の口上は、外に出て行きながら喋舌っていた。

 配給事務所から、屋根板を一束もらって、それを緑屋のおやじ、──それは乾物のかますによく似ていた──に渡し、「こっちでやるはずですが、今日は忙しいから一つ、お頼み申します」と言って、大山は捲上の方の道から丁場に上がって行った。

 大山が、急峻な道を上り、半出来の線路丁場に頭だけ出した時だった。

 緑屋の上の切り取りの方から、「命がけ」みたいな大きな声が聞えた。

 大きな声は、野丁場ではいささかも珍らしいことはない。絶えず怒鳴り、喚き、罵っているといってもいい。それは必要からそうされるのだ。ものの一丁もあろうという河原から、丁場のウインチへ、「トロがトンボ(転覆)したから、捲くのを待て」というような場合、腹一杯喚かなければ、用が足りないのである。

 だが、この時の小林の大声は、単なる大声でも、怒声でも、叫喚でもなかった。

 大山が丁場にその姿を現わすと、緑屋の上の切り取りの辺が、何だか水の底ででもあるように、ひっそりと沈み込んで、静かであった。

 そして、小林はその切り取りの真下から離れて、下流寄りの埋立ての方へ立っていた。

「緑屋へ、行ってすぐ外へ飛び出すように言ってくれ。山が来るんだ。山が来るんだ」

 と、ふたたび小林は、耳なんかを素通りにして、じかに頭に響くといった風な、声を出して大山に言った。

 小林は物に動じない、腹の据った男であった。が、相手が「山」で、その上に、そいつが動き出して来よう、というのだから、その時は、ちょっと動じたらしかった。

 大山は、事の非常なるを覚った。

 それは、言葉を理解したというのではなく、小林が、崩壊する山を前にして、感じるであろう一切の事が、その短かい言葉と、調子とで、大山の全身を打ったのであった。

 大山はスイッチを入れられたモーターみたいに、その言葉と同時に、回転を始めて報償道路の捨場を駆け降りた。

 無我夢中という言葉がある、あれと似た気持であったが、言いかえれば、それは何かの理想を持った人間が、理想を一心に見詰めて、途中を省みない、という状態にも似ていた。

「緑屋の人々を救わねばならない」

 と、いう一念が大山の頭脳全体を領したのであった。

 だから、山羊でも犬でも駆け下りないような、急峻なところを、大山は一気に飛び下りたのであった。

 大山は後で考えたのであるが、そういう場合の人間の気持は、雑念に悩まされない、という事であった。日々の苦悩に満ちた生活、正義だとか、善だとか、そんなものは、この地上から姿を消してしまい、その上、虫のように「生きる」という、単なる事柄さえも、悪智慧を働かさねば困難な時代、そして、日々夜々、人間がそんな風な不合理な死に対して、無関心であり得るはずがない、残酷な「死」に対して、無感覚になっている時代。そして多くの人々は、もう、ものを考えようとさえしなくなった時代。

 そんな時に、一分でも二分でも、カッとなって、ただ一つ、緑屋を救わねばならぬ、という一つの気持に統一されたのを、珍らしい事だと思ったのだった。


「山が来ます。すぐ出て下さい」

 と、大山は、緑屋に飛び込みざま、怒鳴るように言った。

「ハッパですか」

 と、旅の人らしく、弁当を食べていた、二人連れの男が大山に訊いた。

「滅相もない。ハッパなんかじゃないんです。山が来るんです。早く出て下さい。話は外でします」

 と、大山は誘い出すように、表に飛び出して、

「山が来るんです。六十尺位の高さの山が来るんです。報償道路で止まらねば、この家は埋めちまいます。おかみさん、早く出て下さい。そして、こっちへ来て、山を見てて下さい」

 と、大山は、山のすぐ下になっている、奥の間に行って、何かマゴマゴ探している、おかみに怒鳴った。

 おかみは、何か大切なもの、あるいは命よりも大切なものを探そうとでも、するように、暗い奥の間をウロウロしていたが、大山の、これも異常な響を持った言葉に、諦めたのか、見付ける事ができたのか、下駄をつっかけて表に飛び出して来た。

 皆が飛び出したのを見届けると、大山は引っ返して、崩れ落ちようとする、山の下へ行こうとしたが、その山の見える下の道まで引っ返して来た時、山から目が離せなくなった。

 ──上がっているうちに、山が来るかも知れない。──

 と思うと、そこ──椿の木が茂って、墓が少し立ち並んだ辺──へ、生えたように立ち尽して、切り取りの山に見入った。

 五秒、十秒、一分、時は極めてゆるやかに経って行った。

 ああ、時というものは、ゆっくりする時もあるし、無暗に忙しがる時もあるものだ。失業者には癪に障るほど、時間はのろのろしているし、ようやく仕事にありついた者には、勘定日から勘定日への間には、時間は真空状態みたいに、早いのだ。ことに勘定日の時間の速度などというものは、それは、受取ったためしのある稼ぎ人でなければ、分らない話である。

 焦れったいような、粘りつくような時間の前に、ほとんど垂直に、山は、その皮を剥ぎ取られた岩盤を、白く、他の一面の緑の中に浮き立たせて聳えていた。

 まだ動かないのだ。

 動かざる事、山の如し、であった。

 だが、パラパラ、パラパラと、もう、五時間も前から、

「山が来るぞ」という警告は、山自身が発しているのだった。

 大山の後から、旅の人は物珍らしさから、緑屋の者たちは恐怖と懸念から、椿の木の下に立って、崩壊し来る山に見入った。が、緑屋のおかみだけは、ただ一念に山を見入っていることができないらしかった。

 それは、山は半丁も離れて見れば、何等の危険も含んでは見えなかったし、よしんば見えたにしても、おかみの場合では、じっとしていられる訳のものではなかったであろう。

 自分の店と、墓地との間を、幾度も行ったり来たりした。

「ウォッ!」

 という、押し殺したような、呻き声とも、溜息ともつかない声が、見上げている人々の口から一斉に出た。

 山が、ゆるぎ出したのだった。

 それは山がユラユラッとしたのだか、人々の眼がグラグラッとしたのだか、その刹那には分らなかった。

 が、続いて、鈍い響で大地が呻き声を上げた。それは人々の耳を打ち、足を顫わせた。

 山は底鳴りをさせ、地響きを立てながら、要慎深く、慎重に、辷り落ちた。断層のの一ヶ所に頑丈な突起があると見えて、その部分の中央を三四尺辷らして止め、その両端は下の部分から順序よく、鉄道線路の切り取りに崩れ落ち、そこに収容し切れない部分だけ、四五間の断崖を跳り越えて、幅二間の報償道路の軟かい路面へ、尖った頭を三四尺も突っ込み、その上へ上へと、線路をオーバーした「山」は畳み重なった。

 そして、都合よく、それは下の方まで、転落しては来なかった。山の中央部の突起部が緑屋を救い、この工事を請負った親方をも救ったのであった。

 が、その山の崩壊の全時間は、どの位の間かかったのだろう。それは一日分、いや二日分、いやもっと大きな心の激動を、小林や大山や、緑屋の者たちに与えたのだ。

 だが、辷り始めてから、納まってしまうのには二分間とはかからなかっただろう。

「バンザーイ!」

 と、大山は、小林へ、両手を高く上げて叫んだ。小林は崩壊現場で、臨終の病人を看護る、医師のように、厳粛な顔をしていた。が、今、山が幸いにして中途で食い止ったことを見届けて、安堵したらしく、何とも言えない涙ぐましい微笑を見せたのであった。

 それから大山は、緑屋の方へ飛んで行き、そこへ帰っていたおかみに、

「助かりました。大丈夫でした。御心配をかけました。何しろ無事で幸いでした」

 と言った。

 緑屋の前から、樹立を透して見ると、今まではずっと上の方にあった、山の臓腑が、真上に覗き込んだように、近々と白く眼に泌みるのだった。

 緑屋の人たちも、その前の会社員の家族の人たちも、街路に立って、「山が歩み寄る」という事が、予想よりも大きな事実だったのに、今更驚いているのだった。

「おそろしかったですわね」

「どうなることかと思いましたわ」

 とか、女の人たちは、小さな声で囁やき合っていた。大きな声を立てると、思い直して山がもう一度来はしないか、とでもいうように。

 大山は、兎のように山に駆け登った。

 小林も、その山をついさっきまで、鑿で穴を穿ったり、バール(テコ)で起こしたり、鶴嘴つるはしで起こしたりしていた、坑夫たちも、まるで造りつけられたように、いろいろな恰好で、じっと見詰め、もの思いに耽っているように見えた。

 まったく、それは無数の物思いであった。一つ事のつづまりがつかないのに、もう次の考えが頭を出し、次々、次々に無数の考えが、山に関してだの、生活に関してだの、突拍子もない聯想だの、星雲みたいな状態であった。それはまた、同時に一つの放心状態だったとも言えるであろう。

 崩れた山は、何百貫、何千貫の巨岩や、尖ったのや、平ったいのや、砂や、土などに分散して、重なり合い、鉄道線路の掘鑿に一杯になって、土止めに残された岩塊を溢れ出て、報償道路の防塞でかろうじて、食い止めていた。

 しかも、それだけの山が崩れ落ち、人々を激動せしめたのに、崩れた山は、その上に、方々臓腑を露出しているだけで、他の部分には、上の山と地続きだった時と同じように、山の表皮を被り、その上には、何んにもなかったように、ツツジの樹が五六株、山椒の若樹が一株、盆栽にでも何にでもしてくれ、といった風に、風情よく生えていた。

 風が、山が崩れたために出でもしたように、その小さな山椒の幹を揺った。

「天祐だったね」

 と大山は言った。

 何かもっと外に、いい言葉や表現がありそうなものだったが、大山はそう言った。

「人間ってものは、不思議なものだね。いよいよ山が来るな、と思ってるうちは、まだほんとに山が来るな、とは考えていないらしいんだね。いよいよ来るな、とパラパラパラパラ、方々から砂が落ち、だんだんそれが数多くなり量が殖える、と、『もう駄目だ、いよいよ来るな』と考えるね。体中がなぜともなく、小刻みに顫えて、『どの位の山が来るだろうか、大きな奴だったら、もう一切おしまいだ、緑屋も押し潰し、埋め込んでしまうし、そうなれば、五十年近い俺の稼業も、これでひとまず行き止りというものだろうし、だが、何とかならないものかな、何とかして、この山を止める法はないのか、まだ落ちてしまったのじゃないし、何とか方法はないのか、と考えたり、ワルや玄能や、ロープや、スコやノミなどを片付けさせたり、トロを押し出させたり、坑夫を山の上からも下からも引き上げさせたりして、さて、すっかり片付いてしまうと、この山は奇蹟でこのまま、食い止まるのじゃあるまいか、と思ったりして、いろいろ考えあぐんで、腹の決まらないもんだね。だが、山がユラユラッとして、地が呻いて、辷り出してしまうと、すっかり腹が決まるもんだね』

『山は来るんだ。成すべき事は成し、尽すべき事は尽した。山が来るんだ。緑屋を埋めても仕方がない。山は来るんだ』

 と決心がついたね。決心がついて、山の辷る様、崩れる様子を、始めて冷静に眺めることができたね。いよいよ山が崩れるだけ、崩れ落ち、止まるところまで行ってしまって、『緑屋を埋めなくて済んだ』という事が分った時、うれしい、とか、ありがたい、とかいう感じはなかったね。そんな利害得失じゃあない、別な感情だね、何と言うかね、崩れた山に、こう礼を言いたいような気持だったね。『どうも済まなかった』とでもね」

 と、昂奮と激動の後で、心の底に涙でも溜めているように、小林は静かに語った。

 大山は、なぜともなしに、涙ぐんでその話を聞いていた。静かな風情であり、心持ちであった。

 まるで、そこには、たった今まで、何事もなかったような、寂しい静けさがあった。

 日常の、生活の重しからいや応なしに、焙り出されるような考えと、この山崩れの直後に、人を囚にするような考えとは、何というはげしい径庭けいていのある事だろう。

 山は一二分で、または十秒か二十秒かで片がついてしまった。が、坑夫たちも世話焼きもみんな二分、十分、三十分、その崩壊現場を立ち去り得ないで、転落して、山の一部から独立した石となったのの上へ、腰を下ろして断層に眺め入っていた。

 何という見事な断層であろう。それはまるで自然石の巨大な墓石を思わせるように、辷っこい肌を、三角形にほとんど垂直に立てていた。そして、その表面には、白粉でも塗ったように、白い細かい土を薄くつけているのであった。

「これほど大きく来ようとは思わなかったね。だけどおそろしいものだね。こんなに鬱蒼たる森林に蔽われ、永劫に揺ぎなく思われる大地の中の、しかも、岩盤の中にこんながあるんだものなあ。おそろしいものだなあ」

 と、大山は静かに、小林に言い続けた。

「来るはずだねえ。たとい、僕等が、ここをまるっきり手をふれないでいても、何百年か、何千年の後には、きっとこのから離れてしまうんだろうね。見給え、上の方から五間位までは、根っこが入っている。まるで荷物を縛る紐みたいに薄べったくなってね、変化は徐々にだが、根強く行われているんだね」

「絶えず変ってるんだろうが、こんな風に山が来るってな風でないと、俺達にゃ分らないんだろうか。こんな風に地響がして、どかっと来ると、誰にだって分るだろうからな。緑屋のおかみ、憤ってやしなかったかい。山なんか落っことしやがってって」

 と、小林が言った。

「いや、極めて静かだったね。気の毒な位だったよ。部分的な震災みたいなもんだからね」

「そうかい、それは助かった。俺はまた、今度こそはボロ糞に言われなければならない、と覚悟をしていたんだ、ハッパでボロ糞なんだから、今度は胸倉位とっつかまれて、腕に噛みつかれるだろう、思ってたんだが」

 と言って、小林は始めて小さな声で笑った。


 静かな午後であった。

 天龍川には帆をかけた、川舟が上って行った、雨が近いであろう。帆かけ舟が上ると雨が降ると、この附近では、言われていた。そして、その通りであった。

 太陽は、ゆっくりと中央アルプス連峰の方へ、歩いて行った。まだ日は高かった。

 が、何かしら、大きな仕事を成し終えた時のような、安堵の心とうつろな魂の疲れが人々を捕えた。

 川下に死体を探しに行った、堰堤の方の人々は、まだ帰らなかった。

 川舟が上り、雨が降って、眠れる天龍が、起こって雲を呼び、雨を降らし、川底の石を転がすようになっては、死体の捜索は困難というよりも、至難になるであろう。


(昭和九年〈一九三四〉十月「改造」第十六巻十一号・昭和十年一月〈一九三五〉「改造」第十七巻一号)

底本:「葉山嘉樹 短編小説選集」郷土出版社

   1997(平成9)年415日初版発行

底本の親本:「葉山嘉樹全集 第三巻」筑摩書房

   1975(昭和50)年625日初版発行

初出:「改造 第十六巻十一号」

   1934(昭和9)年101日発行

   「改造 第十七巻一号」

   1935(昭和10)年11日発行

※初出の表題は「山谿に生くる人々──生きる為に──」(「改造 第十六巻十一号」)、「断崖の下の宿屋──山谿に生くる人々──」(「改造 第十七巻一号」)です。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。

入力:林 幸雄

校正:富田晶子

2018年928日作成

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