明治の地獄
三遊亭円朝
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えゝ一席申上げます、明治の地獄も新作と申す程の事でもなく、円朝が先達て箱根に逗留中、宗蓮寺で地獄極楽の絵を見まして、それから案じ附きましたお短かい落語でございますが、まだ口慣れませんからお聞苦しうございませう。人間が死んで地獄へ行くとか、善を為したる者は極楽へ昇天するとか、宗教の方では天国へ行く、悪国へ堕ると云ふ、何方が本当だか円朝には分りませんが、地獄からどうせ郵便の届いた試しもなし、極楽の写真を見た事もないから、是は有るか無いか頓と分らん事で、人が死んで行く時は何んなものか、此の肉体と霊魂と離れる時は其の霊魂は何処へ去きますか、どうも是は分らん。此等の事を考へなければ本当の智識とは言へんと云ふ事ださうでございます。随分彼の悟道の方には、「ガンコウ地に堕んと欲する時そもさんか何れの処に達せん。と死んでプウと息の止まつた時に此心は何処へ行くかと云ふ……何処へ参りませう、是は皆様方を伺つたら何処と仰しやるか知りませんが、円朝には分りません。大病でも自分で死ぬと覚悟をし、医者も見放した事も知つて居り、御看病は十分に届き、自分も最う死ぬと諦めが附いてしまつても、とろ〳〵と病気労れで寝附いた時に、ひよいと間に眼が覚める事が有ります。男「いやア……大層広い……こりやア原のやうな処だ……おや僕は丈夫だが、此間佐藤進先生が迚もむづかしいと云つたよ、それから妻が心配して、橋本先生に診て貰つたら何うだらうと云ふから、診て貰つたが、橋本先生に診て戴いてもむづかしいと云はれた、さういふ御名医方が見放すくらゐの病気だから、僕も覚悟をして居たけれども、少し横になつてうと〳〵眠られると思つたら、眼が覚めたやうだが……此んなぼんやりした処へ来た……遠くに電気燈でも点いて居るのか知ら、プウと明るいよ……こりや歩ける……今までは両方の手を持て腰を抱いて貰はんと便所へも行けなかつたが……これは妙だ、歩ける……運動に出て来たのか何だか分らん……おや向うへ女が一人行く、もし〳〵姉さん〳〵。女「はい。男「少々物が承はりたうございますが、此処は何処ですね。女「此処は六道の辻でございますよ。男「え……それぢやア僕は死んだんだ、こりやア驚いた、六道の辻だとえ、昔青山にさう云ふ処が有つたが、困つたね、僕は死んだのか知らん……姉さん何でげすかえ、矢張あなたは急病かなんかで此処へお出でなすツたかえ。女「はい私も疾うから参つて居ります、おやまア、岩田屋の旦那だよ、貴方は腎虚なんでせう。男「馬鹿をいへ、さうしてお前は誰だツけ。女「柳橋のお重でございますよ。岩「なる程芸妓のお重さんだ、お前は虎列剌で死んだのだ、これはどうも……此方へ来てから虎列剌の方は薩張よいかね、併し並んで歩くのは厭だ、僕は地獄へ行くのは困るね、極楽へ行きたいが、何方へ行つたら宜からう。重「何方へ行つても最う造作ア有りません、直きですよ。岩「それでも極楽は十萬億土だと云ふぢやアないか。重「其処に停車場が有りますから、汽車に乗れば、すうツと直きに行かれますよ。岩「もう地獄へも汽車が出来たかえ、驚いたね。甲「へえゝどうも旦那、誠に暫く……。岩「いやア、アハヽヽこれは吉原の幇間の民仲だね。民「へえ、どうも思ひ掛ない処で旦那にお目にかゝつたぢやアないか。乙「へえ旦那、誠に暫く、どうも宜くお出でなすツた。岩「なに宜くも来ない……こゝに川が有るね。民「これが有名な三途川と云ふので。岩「三途川にしちやア橋が有るね。民「旧は渡で対岸に大きな柳の樹が有つて、其処に脱衣婆が居て、亡者の衣服をふん奪て、六道銭を取つて居ましたが、渡しはいけないといふ議論がありました、それは水害のためにもし船が転覆へると蘇生る亡者が多いので、それでは折角開けようといふ地獄の衰微だといふので、此の通り鉄橋になつちまいました、それ御覧じろ、三途橋と書いて有りませう。岩「成程、三途川は鉄橋が架るなどゝ云ふのはえらいもので。民「えらいなんて、地獄の開けた事を貴方にお目にかけたい位のものです、兎も角彼処に茶屋が有りますから入らツしやい。と是から案内に連れて行き、橋を渡ると葭簀張の腰掛け茶屋で、奥が住居になつて居り、戸棚が三つばかり有り、棚が幾つも有りまして、葡萄酒、ラムネ、麦酒などの壜が幾本も並んで居て、中々届いたもので、土間を広く取つて、卓子に白いテーブル掛が懸つて、椅子が有りまして、烟草盆が出て居り、花瓶に花を挿し中々気取つたもので、菓子台にはゆで玉子に何か菓子が有ります、好い菓子では有りませんけれども、萬事届いて居ります。岩「こりやア驚いた、婆さん茶を一杯おくれ。婆「お掛けなさいまし、宜く入らツしやいました、さ此方へ、汽車の出るにはちつと間が有りますよ、今極楽が出ました後でございます、これから地獄行が出ます。岩「妙だね、へえゝ、感心だね。ちやんと麦酒の看板だね、西洋酒のビラが下つて居る所が不思議だね、此の婆さんは何ですか。民「これは脱衣婆さんなんで。岩「ア、アー、三途川の婆さんかえ。婆「はい旧は彼等で六道銭を取つて、どうやら斯うやら暮して居りましたが、今度此処へ停車場が出来るに就て、茶屋を出したら宜からうといふ人の勧めに任せて、茶屋を始めましたが、此方が結句気楽です。岩「怖らしくない婆さんだね、新宿の婆さんとは大違ひだ。婆「何処も彼も貴方実に立派に成りましたよ。岩「向うの微かに遠い処に赤い煉瓦がある、あれは何だえ。婆「陸軍省でございます。岩「へえゝ、陸軍省が出来ましたかね。婆「明治十年に西郷隆盛様や桐野様や篠原様が入らツしやいまして、陸軍省をお建てになりました、それから身丈格好の揃つた亡者を選んで、毎日々々調練でございます。岩「へえゝ、調練……これは面白いな、向うの高い山の上に白いものが見える、あれは何だえ。婆「あれでございますか、文部省が建ちましたの、空気の好い処でなければならんと仰しやいまして、森大臣さまが入らツしやいまして。岩「へえゝ、驚いたね、大層揃つて出来ましたね、地獄のお閻魔さまは何うして居ますね。婆「只今はお気楽でございますよ、皆さん方に任せツきりで、憲法発布が有りまして、それからは皆えらい方が引受けて何んでもなさるのです。岩「へえゝ、何う云ふ姿で、矢ツ張り舌や何か出して居ますか。婆「重たい冠は脱つてしまひ、軽い帽子を冠つて、又儀式の時にはお冠りなさいます、それに到頭散髪になツちまひました。岩「然うですかえ、十王様は。婆「十王様は宮様同様なお家柄でございますから、何も御用はないのでございませう。岩「銭札を付ける奴などは何うして。婆「彼は書記官に成つて居ります。岩「えらいもんですね、鬼なんぞは矢張角が有りませう。婆「いゝえ、鬼の角は皆な佐藤の老先生が入らしつて切つてお仕舞ひなさいました。岩「へえゝ。婆「ちよいと小さいシヤツポを冠り、洋服で歩いて居ますから知れませんよ。岩「あの浄玻璃の鏡に業の権衡は何うしました。婆「業の権衡は公園にお茶屋が有りまして、其処に据付けて有りますが、皆さんが僕は地獄へ来てから体量が増えたなどゝ云つて悦んで居ります、浄玻璃の鏡は、ストウブを焚きます上に飾つてあります、縁だけ取換へて、娑婆の事が写る、僕は是だけ悪い事をしたなどと云つて在ツしやいます。岩「成程、血の池地獄、針の山などはまだございますか。婆「いゝえ、ございませんよ、岩崎弥太郎さんと云ふ方が入らツしやいまして、あの旦那様が針の山を払ひ下げて、其山を崩した土で血の池を埋めてしまひ、今では真ツ平らで、彼処が公園に成りまして、誠に面白うございますよ、女が燈心で竹の根を掘つたりする観物が出ますよ。岩「成程、へえゝ。婆「パノラマを往つて御覧なさいまし。岩「地獄へパノラマが……。婆「大層立派に出来ましたよ。岩「矢張りあの浅草の公園に在るやうな戦争の図かえ。婆「いゝえ、昔の地獄の火の車や無間地獄などで、此方に本当の火の車が有りまして、半分絵で描いて有つて、その境界がちつとも分りません、誠に感心だ、火の燃える処が本当のやうだ、怖いなんツて皆さんが仰しやいます。岩「成程、然うでございますかね、それから正月と盆の十六日に蓋の開くと云ふ、地獄の大きな釜は何うしました。婆「あれで瓦斯を焚きます、夜は方々へ瓦斯が点きますから、少しも地獄は怖い事はございません。岩「へえゝ、開けたもんで。婆「開けたツて、貴方芝居見に入らツしやいよ、一日お供を致しませう。岩「地獄は芝居が有ますか。婆「有るかツて、えらいのが来て居ます、故人高島屋や彦三郎が来て居ます、半四郎や、仲蔵なども来て、それに今度訥升に宗十郎が這入つて大層な芝居が有ります。岩「成程此方の方が宜い。婆「それから豊前太夫が来ました。富本上るりに庄五郎が来ましたので、長唄の出囃が有ります。岩「成程これはえらい、ぢやア見に行きませう。と云ふ処へガラ〳〵〳〵(轟く音)婆「馬車が来ました。岩「おゝ、お立派な馬車だ、大きな方だね。婆「あの方は山岡鉄太郎様と仰しやるお方です。岩「側に何か二人附いて居るね。婆「ハア、お一人は静岡の知事をなすツた関口さん、お一人は御料局長の肥田さんで、お情交が好いもんだから、何時でも御一緒で。岩「大層お忙しさうで。婆「なに極楽へ行つて入つしやいましたが、近来極楽も疲弊を仕ましたから、勧化をお頼まれで、其事で極楽へ入らしつたのでございませう。岩「極楽の勧化かえ、相変らず此方へ来てもお忙がしい。婆「それに関口さんと肥田さんは鉄道には懲りたと云つて、何日でもお馬車で。岩「何しろ奇態なもので……。と云つてゐる内に、慣れないから足を踏外して三途川へ逆トンボを打つてドブーリ飛込むと、岩「無無阿弥陀仏。々々々々々々。女「実に驚きました、彼んなお丈夫さまなお方が何うして御死去りになつたかと云つて、宿の者も宜しう申しました、嚥お力落しで……。婆「有難う存じます、良人は平素牛肉などは三人前も喰べました位で……。女「おや、お待ちなさいまし、早桶の中でミチ〳〵音が致しますよ。妻「魔が魅したのでせう。岩「明けておくれ〳〵、蘇生へつたから明けてお呉れ。岩「何とか云ひますよ、お明けなさい。と云ふから、早桶の蓋を取ると蘇生つて居る。妻「あらまアお前さん助かつたのかえ。岩「三途川へ落こつて蘇生へつた。妻「妙だね、ま嬉しい。女「斯んなお芽出たい事はございませんね。岩「皆さんはお通夜のお方か、おや〳〵物騒だな、通夜の坊さんが酒に酔倒れて居る、炮砥に線香をどつさり差して、一本花に枕団子旧弊だね、是から思ふと地獄の方が余程開けた。と云ふお話で。
底本:「明治の文学 第3巻 三遊亭円朝」筑摩書房
2001(平成13)年8月25日初版第1刷発行
底本の親本:「定本 円朝全集 巻の13」世界文庫
1964(昭和39)年6月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年6月19日作成
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