骨
有島武郎
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たうとう勃凸は四年を終へない中に中学を退学した。退学させられた。学校といふものが彼にはさつぱり理解出来なかつたのだ。教室の中では飛行機を操縦するまねや、活動写真の人殺しのまねばかりしてゐた。勃凸にはそんなことが、興味といへば唯一の興味だつたのだ。
どこにも行かずに家の中でごろ〳〵してゐる中におやぢとの不和が無性に嵩じて、碌でもない口喧嘩から、おやぢにしたゝか打ちのめされた揚句、みぞれの降りしきる往来に塵のやうに掃き出されてしまつた。勃凸は退屈を持てあますやうな風付で、濡れたまゝぞべ〳〵とその友達の下宿にころがり込んだ。
安菓子を滅茶々々に腹の中につめ込んだり、飲めもしない酒をやけらしくあふつて、水のしたゝるやうに研ぎすましたジヤック・ナイフをあてもなく振り廻したりして、することもなく夜更しをするのが、彼に取つてはせめてもの自由だつた。
その中に勃凸は妙なことに興味を持ち出した。廊下一つ隔てた向ひの部屋に、これもくすぶり込んでゐるらしい一人の客が、十二時近くなると毎晩下から沢庵漬を取りよせて酒を飲むのだつたが、いかにも歯切れのよささうなばり〳〵といふ音と、生ぬるいらしい酒をずるつと啜り込む音とが堪らなく気持がよかつたのだ。胡坐をかいたまゝ、勃凸は鼠の眼のやうな可愛らしい眼で、強度の近眼鏡越しに友達の顔を見詰めながら、向ひの部屋の物音に聞き耳を立てた。
「あれ、今沢庵を喰つたあ。をつかしい奴だなあ……ほれ、今酒を飲んだべ」
その沢庵漬で酒を飲むのが、あとで勃凸と腐れ縁を結ぶやうになつた「おんつぁん」だつた。
いつとはなく二人は帳場で顔を見合すやうになつた。勃凸はおんつぁんを流動体のやうに感じた。勃凸には三十そこ〳〵のおんつぁんが生れる前からの父親のやうに思はれたのだつた。而してどつちから引き寄せるともなく勃凸はおんつぁんの部屋に入りびたるやうになつた。
「まるで馬鹿だなあお前は……俺にはそんなこといふ資格は無いどもな」
勃凸が酔つたまぎれに乱暴狼藉を働くと、おんつぁんは部屋の隅にいざり曲つて難を避けながら、頭をかゝへてかう笑つた。勃凸はさういふ時舐めまはしたい程おんつぁんが慕はしくなつてしまふのだつた。
さうかと思ふとおんつぁんは毛嫌ひする老いた牝犬のやうに、勃凸をすげなく蹴りつけることもあつた。手前のやうな生れそこなひは、おやぢのところに帰つて、小さくなつてぶつたゝかれながら、馬鹿様で暮すのが一番安全で幸福なことだ。おやぢが汗水たらして稼ぎためた大きな身代に倚りかゝつて愚図々々してゐる中には、ひとりでにその身代が手前のものになるから、それで飯を食つて死んでしまへば、この上なしの極楽だ。うつかり俺なんぞにかゝはり合つてゐると、鯱鉾立ちをして後悔しても取り返しのつかないことになるぞ。自分だけで俺は沢山だ。この上もてあましものが俺のまはりに囓りつくには及ばないことだ。俺一人だけ腐つて行けばそれでいゝんだから……おんつぁんはそんなことをいひながら、二本の指で盃をつまんで、甘さうに眼を寄せて、燗のぬるい酒を口もとに持つて行つた。勃凸はおんつぁんにそんな風に物をいはれると妙にすくみあがつた。而して無上に腹が立つた。
おんつぁんはやがて何処から金を工面したか、小細工物や、古着売の店の立ち列んだやうな町に出て小さな貸本屋を開いた。初めの中こそ多少の遠慮はしてゐたが、いつといふことなく勃凸はおんつぁんの店の仕事まで手伝ふやうになつてゐた。
おんつぁんも勃凸も仕事に興味が乗ると普通の人間の三倍も四倍も働いた。互に口もきゝあはない程働いた。従つて売上げも決して馬鹿にはならない位あつた。おんつぁんはそれで自分の好きな書物を買ひ入れた。けれどもおんつぁんの好きな書物は、あながち一般の読者の好きな書物ではない。おまけに真先に貸本に楽書をするのがお客でなくておんつぁん自身だつた。それがおんつぁんを黒表に載る人間にしようとは誰もが思はなかつたらう。
どうかしたはずみを喰ふと、おんつぁんも勃凸も他愛がなくなつて、店に出入りする若者達と一緒にどこかに出かけて、売溜めを綺麗にはたいて、商売道具を手あたり次第に質草にするのが鳧だつた。
或る時勃凸が、店先でいきなり一冊の書物を土間にたゝきつけた。
「何をしやがるんだ馬鹿。お前気ちがひにでもなる気か」
とおんつぁんが吹き出しさうな顔をして、声だけはがなり立てた。勃凸は真青に震へて怒つてゐた。
「おんつぁん……こんなちやくいことしてゐて、これでいゝのかい」
相当に名のあるその書物の作者が公けにしたもう一冊の書物を勃凸が書棚から引きぬいて来て、それをおんつぁんの前においた。今土間にたゝきつけられた書物と比べて見ると、表題こそは全く違つてゐるけれども、内容は殆ど同じだつた。
二人はそれだけで興奮してしまつた。持つて行き場のないやうな憤怒で、二人は定連と一緒に酒のあるところに転がり込んだ。而して滅茶苦茶に酔つぱらつて、勃凸の例の研ぎすましたジヤック・ナイフを自分の脚に突き刺して、その血を顔中に塗りこくつて、得意の死の踊りといふのを気違ひのやうに踊つた。
そのおかげで二人は二三日の間青つしよびれてしまつてゐた。
おんつぁんがたうとう出て行けといつた。勃凸にはおんつぁんの気持がすつかり判つてゐた。それだからふて腐れて赤いスエターを頭からすつぽりと被つて、戸棚の中で泣いてゐた。
それでも勃凸は素直に野幌に行つて小学校の代用教員になつた。少し金が溜るとそれを持つて、おんつぁんに会ひに札幌まで出かけて来た。身銭を切る嬉しさ、おんつぁんと、六つになるおんつぁんの娘とをおごつてやる嬉しさで夢中だつた。カフエーのテーブルの上に一寸眼に立つ灰皿を見つけると、頬の筋肉がにや〳〵し出した。
カフエーを出てドアを締めるが早いか、懐からその灰皿を取り出しておんつぁんの眼の前にふり廻して見せた。
「馬鹿! またやつたなお前。お前にやり〳〵してゐたからまたやるなと思つて、俺眼を放さないでゐたから、今日は駄目だと思つたら、矢張りだアめだよお前は。ぺつちやんこだよ」
といつておんつぁんが途方に暮れたやうに高々と笑つた。勃凸も大笑ひをした。而してその灰皿を新川の水の中に思ひきり力をこめてたゝきこんだ。
はじめの間こそ、おんつぁんに怒鳴りつけられるまゝに、すご〳〵と野幌に帰つたが、段々図々しくなつて、いつ学校の方をやめるともなく又おんつぁんの店に入りびたるやうになつた。
その中にあの大乱痴気が起つた。刑事は隣りの家の二階から一同の集まるのを見張つてゐて、もう集まり切つたといふところで、署長を先頭に踏みこんだのだ。平服だつたがおんつぁんはすぐそれだと見て取つた。ところが勃凸は一切お構ひなしに、又仲間が集まつて来たとでも思つたらしく、羽織つたマントの端をくるつと首のまはりに巻きつけて、伊太利どころの映画の色男をまねた業々しい身振りで、右手で左の肩から膝頭へかけてぐるつと大きな輪をかいて恭しい挨拶をした。而してひしやげるほど横面をなぐり飛ばされた。
おんつぁんも勃凸もほかの仲間三人も留置場に四日ゐた。勃凸は珍らしく悒鬱になつてゐた。それは恐ろしい徴候だつた。爆弾なり、短銃なり、ドスなりは、謂はゞ勃凸の肉体の一部分のやうなものだつたのだから。青白い華車な顔にはめこまれた、鼠の眼のやうな可愛らしい眼がすわつて来ると、勃凸の全身は鞘を払つた懐剣のやうに見えた。
兎に角証拠不十分といふことで放免になる朝、写真機の前に立たされた勃凸は、シャッターを切られるはずみに、そつぽを向いて、滅茶苦茶に顔をしかめてしまつた。さういふのが彼の悒鬱の一面だつた。
留守中におんつぁんの店は根太板まで引きはがされる程の綿密な捜索を受けてゐた。札幌で営業を停止されたばかりでなく、心あたりの就職の道は悉く杜絶してしまつた。
おんつぁんは細君も子供も仲間も皆んな振り切つて、たつた一人の人間にならうと思ひ定めた。それを勃凸が逸早く感づいた。
「おんつぁん俺らこと連れて行つてくれ、なあ」
と甘えかゝつた。
「だアめだ」
おんつぁんはほろりとかう答へた。
「よし、行くなら行つて見ろ、おんつぁん。俺屹度停車場でとつちめて見せるから」
けれどもおんつぁんはたうとう勃凸をまいて東京に出て来てしまつたのだ。而して私に今までのやうな話をして聞かせた。而して、
「とても本物だよあいつは。俺らあいつが憎めて〳〵仕方がないべ。けれどあいつに『おんつぁん』と来られると俺らぺつちやんこさ。まるでよれ〳〵になつてるんだから駄目なもんだてば」と言葉を結んだが……
そんな噂話を聞いて程もなく、勃凸がおんつぁんを追ひかけて、着のみ着のまゝで札幌から飛び出して来たといふことを知つた。
或る日、おんつぁんが来たと取り次がれたので、私は例の書斎に通すやうに云つておいて、暫くしてから行つて見ると、おんつぁんではない生若い青年だつた。背丈は尋常だが肩幅の狭い、骨細な体に何所か締りのぬけた着物の着かたをして、椅子にもかけかねる程気兼ねをしながら、おんつぁんからの用事をいひ終ると、
「ぢや帰るから」
といつて、止めるのも聴かずにどん〳〵帰つて行つてしまつた。私はすぐその男だなと思つたが、互に名乗り合ふこともしなかつた。
二三日するとおんつぁんが来て、何か紛失物はなかつたかと聞くのだつた。あすこに行つたら記念に屹度何かくすねて来る積りだつたが、何んだか気がさして、その気になれなかつたと云つてはゐたが、あいつのことだから何が何んだか分らないといふのだ。然し勿論何にも無くなつてはゐなかつた。
「めんこいとっつあんだ。額と手とがまるっでめんこくて俺らもう少しで舐めるところだつた。ありやとっつぁんぼっちやんだなあ」
ともいつたさうだ。私は笑つた。而して私がとっつぁんぼっちやんなら、あの男はぼっちやんとっちやんだといつた。而してそれから私達の間でその男のことを勃凸、私のことを凸勃といふやうになつたのだ。だから勃凸とは札幌時代からの彼の異名ではない。
その後勃凸と私との交渉はさして濃くなつて行くやうなこともなく、唯おんつぁんを通じて、彼が如何に女に愛着されるか、如何に放漫であるか、いざとなれば如何に抜け目のない強烈さを発揮するかといふことなどを聞かされるだけだつたが、今年になつて、突然勃凸と接近する機会が持ち上つた。
それは急におんつぁんが九州に旅立ち、その旅先きから又世界のどのはづれに行くかも知れないやうな事件が起つたからだ。勃凸の買つて来た赤皮の靴が法外に大き過ぎると冗談めいた口小言をいひながらも、おんつぁんはさすがに何処か緊張してゐた。私達は身にしみ通る夜風に顔をしかめながら、八時の夜行に間に合ふやうにと東京駅に急いだ。そこには先着の勃凸が、ハンティングの庇を眉深かにおろし、トンビの襟を高く立てゝ私達を待ち受けてゐた。おんつぁんは始終あたりに眼を配らなければならないやうな境涯にゐたのだ。
三等車は込み合つてゐたけれども、先に乗りこんで座席を占めてゐた勃凸の機転で、おんつぁんはやうやく窓に近いところに坐ることが出来た。おんつぁんはいつものやうに笑つて勃凸と話した。私は少し遠ざかつてゐた。勃凸が涕を拇指の根のところで拭き取つてゐるのがあやにくに見えた。おんつぁんの顔には油汗のやうなものが浮いて、見るも痛ましい程青白くなつてゐた。飽きも飽かれもしない妻と子とを残して、何んといつても住心地のいゝ日本から、どんな窮乏と危険とが待ち受けてゐるかも知れないいづこかに、盲者のやうに自分を投げ出して行かうとする。行かねばならないおんつぁんを、親身に送るものは、不良青年の極印を押された勃凸が一人ゐるばかりなのだ。こんな旅人とこんな見送り人とは、東京駅の長い歩廊にも恐らく又とはゐまい。私は思はずも感傷的になつてしまつた。而してその下らない感情を追ひ払ふためにセメントの床の上をこつ〳〵と寒さに首を縮めながら歩きまはつた。
勃凸との話が途切れるとおんつぁんはぐつたりして客車の天井を眺めてゐた。勃凸はハンティングとトンビの襟との間にすつかり顔を隠して石のやうに突つ立つてゐた。
長い事々しい警鈴の音、それは勃凸の胸をゑぐつたらう。列車は旅客を満載して闇の中へと動き出した。私達は他人同士のやうに知らん顔をし合つて別れた。
勃凸と私と而してもう一人の仲間なるIは黙つたまゝ高い石造の建築物の峡を歩いた。二人は私の行く方へと従つて来た。日比谷の停留場に来て、私は鳥料理の大きな店へと押し上つた。三人が通されたのはむさ苦しい六畳だつた。何しろ土曜日の晩だから、宴会客で店中が湧くやうだつたのだ。
驚いたのは、暗闇から明るい電灯の下に現れ出た勃凸の姿だつた。私の心には歩廊の陰惨な光景がまだうろついてゐたのに、彼の顔は無恥な位晴れ〴〵してゐた。
「たまげたなあ。とつても素晴らしいところだなあ」
彼は宛ら子供のやうな好奇心をもつてあたりを眺めまはした。
その家の特色なる電気鍋が出た。
「これ札幌にもあるよ」
その腹の底からの無邪気さが遂に私をほゝゑましてしまつた。私達は軽く酒を飲んで飯にした。Iが飯をつがうとすると、
「うんと盛つてくれ、てんこ盛りによ、な」
仏家の出なるIが器用に円く飯を盛り上げた茶碗を渡すと、勃凸はと見かう見しながら喜び勇んだ。
「見ろ、てんこ盛り。まるつで鎌倉時代見たいだなあ。ほら頼朝がかうして飯を食つたんだ。さうだべ、なあ」
さうした言葉の端にも彼にはどこまでも彼らしいところがあつた。一般に日本人に欠けてゐる個性の持ち味といふやうなものがあつた。勃凸と私とは段々両方から親しみこんで行つた。勃凸は私の書斎であつた勃凸ではなくなつてゐた。天才色とでもいふ白い皮膚が、少しの酒ですぐ薄紅くなつて、好きだとなつたら男女の区別なくしなだれかゝらずにはゐられない、そんな人懐こひ匂ひがその心からも体からも蒸れ出るやうに見えた。註文のものを運んで来る女中が、来る度毎に、二十になるやならずの彼の方に注意深い眼を短かく送りながら立つて行つた。あの若さで、あいつの生命はすつかり世帯くづれがしてゐると、それを私は痛ましいやうな気持で考へたりした。
互ひの話声が聞き取れぬほどあたりは物騒がしかつた。階子段の上から帳場に向けて、註文をとほす金切声の間に、かういふ店の客に似合はしいやうな、書生上りの匂ひのからまり付いた濁声がこゝを先途とがなり立てられてゐた。鼻も眼も醤油と脂肪の蒸気でむされるやうだつた。
同じ家に寝起きしてゐる勃凸とIとは、半分以上も私には分らない楽屋落ちらしい言葉で、おんつぁんと勃凸とが神楽坂辺に試みた馬鹿々々しい冒険談に笑ひ興じてゐた。
「勃凸の奴、Sの名刺を貰つて来て、壁に張りつけておいて、朝晩礼拝をしてゐるんだからやりきれやしない」
極めて堅気なIだけれども、初めから良心を授からないで生れて来たやうな勃凸の奇怪な自由さには取りつく島もないといふ風で、そのすつぱぬきさへが好意をこめた声になつてゐた。
「とつてもいゝから、俺なんぞ相手にする奴、この世の中に一人だつてゐねえと思つてたべ。したら、一晩中だもの。泣けてさ。とつてもいゝ……」
停電した。店中から鯨波の声が起つた。せうことなしに私達は真暗な部屋の中で、底の方に引きこまれるやうな気持でうづくまつてゐねばならなかつた。焜炉の中の電線だけが、べと〳〵した赤さで熱を吐いてゐるだけだつた。初めこそはこの不意打ちに飛び上らんばかり興じてゐた勃凸もやがて黙つた。三人の顔は正面だけが、薄れゆく焜炉の中の光に照らされて闇の中にぼんやりと浮いてゐた。
「おんつぁんもうどこまで行つたらう」
突然勃凸がぽつりとかういひ出した。私達はそれから又黙つて焜炉を見つめてゐた。部屋の外には男衆や女中が蝋燭だの提灯だのを持つて右往左往に駈け廻つてゐた。私達の部屋が後廻しになるのは当然だつた。
焜炉の中の光が薄れ切つてしまつた頃、而して店の中に兎に角蝋燭の火が分配され終つた頃、悪戯者らしく家中の電灯がぽつかりと点つた。然し停電をきつかけに私達の話題は角度をかへてゐた。
勃凸が謂はゞば正面を切つて、おんつぁんを思ひ出すやうなことを話しはじめた。
「俺おんつぁんが好きだ。何んといつても好きだ。おんつぁんのことなら俺何んでもするよ」
かういう風に勃凸はしんみりと口を切つた。
「俺にはとつても続けて勉強なんか出来ないべ。学校でも遊んでばつかしゐたさ。したらたうとう退校になつた。うん。俺おやぢが大嫌ひだつた。何んもしないで金ばつか溜めてゐるんでねえか。俺ぶつたゝかれた。鼓膜が千里の余も飛んじまつたべと思ふほどこゝんところをたゝかれた。そしてあとはもうまるで駄目さ。
おんつぁんはあれでひでえおつかねえんだよ。藤公と三人で酒飲んだ時、おんつぁんが藤公に忠告したら藤公がまるで怒つてさ。いきなりおんつぁんことなぐつたべ。したらな、おんつぁんがぐうんと藤公の胸をついたと思つたら、二十貫もある藤公が店のはめ板に平らべつたくなる程はたきつけられたつけ。その時のおんつぁんのおつかねえ顔つたら、俺今でも忘れねえ。藤公はもう殺されるなと思つた。藤公も藤公だからすぐ起きあがつて又かゝつて行つた。したらおんつぁんは真蒼になつて、眼に涙を一杯ためて、ぢつと坐つたまゝ、藤公が来てたゝくのを待つてゐた。藤公はおんつぁんを一つ二つなぐつたが気抜けがしてそれ切りさ。電灯の笠がこはれて、そこいらに散らばつてゐたつけ。
おんつぁんは藤公をたゝき殺さうとしたんだが、仲間だなと思つたら、急に手も足も出なくなつて、涙ばつか出たとさういつてゐた。……俺、おんつぁんに殺されるなと思つたことが二度も三度もある。ぎつと見詰められただけでそんな気がするんだ。ほれ、いつかの晩もさ、俺夜中にカルメンの歌を歌つてゐたら、おんつぁんが『がつ』といつていきなり部屋を出て行つたべ。あの時も俺出刃包丁がいきなり胸にさゝるべと思つて床の中で震へてゐたさ」
Iはおんつぁんの不思議な一面を知つたやうな顔をして聞いてゐたが、
「けれどおんつぁんは親切だなあ」
と言葉を入れた。
「俺と同じでおんつぁんには手前と他人とが縋れ合つてゐるんだものなあ」
勃凸は説明するやうにかういつて更に語りつゞけるのだつた。
「俺が野幌で教師をしてゐた時……
教師といへば……子供つてたまらなくめんこいねえ。子供も俺になづき切つてゐたつけ。めんこいども、俺その中で出来る子と出来ない子とがめんこかつた。俺出来ない子をうんといぢめたさ。出来る子は顔がめんこいけども、出来ない子は心がめんこいんだ。出来ない子を学校がひけてから残して俺教へてやるんだ。一度俺ら方が泣けてしまつて、机の板で頭をなぐりつけてやつたら、板が真二つになつた。その子はかうして頭を抱へたきり泣きもしなかつた。俺、奴が馬鹿か気狂ひになるべと思つていゝ加減心配したさ。したどもな、俺あやまる気がしねえで教員室にはいつて、皆の帰るのを待つて教場に行つて見たら、その子がたつた一人、頭をかゝへて泣きながらまだ残つてゐた。頭を撫でゝ見たら大きな瘤が出来てゐた。あいつ俺らこと死ぬまで恨むのだべさ。
したども学校もすぐ倦きたあ。おんつぁんのとこさ行くと帰れ〳〵といふべ、俺やけ糞になつて、何もしねえで町の中をごろつき歩いてゐた。したら俺の叔父さんが、盲目の叔父さんが小樽から俺らことおんつぁんのとこに捜しに来たつけ。おんつぁんとこさ行つたらおんつぁんがいつた。
『お前今日から俺んところに寄りつくんでねえぞ。俺は俺だしお前はお前だからな。お前おやぢのとこさ帰れ、よ。俺の病気が伝染つたら、お前御難を見るから。……俺はお前のことで心配するのはもういやになつた。自分一人を持てあましてゐるんだよ、俺は』
俺は何んにもいへなかつた。寒い雨の降る日で、傘が無かつたから俺頭からずつぷり濡れて足は泥つけさ。おんつぁんはバケツに水を汲んで来て、お袋のやうに俺の足を洗つてくれた。而して着物を着かへさせてくれた。俺太て腐れてゐたら、おんつぁんが……いつもさうだべ、なあ……額に汗をかき〳〵俺のものを綺麗に風呂敷に包んで、さあ出て行けと俺の坐つてゐるわきさ置いてよ、自分はそつぽを向いてもう物をいはねえでねえか。
糞つと思つて俺裏口からおんつぁんのとこを出たが、何処に行くあてがあるべさ。軒下に風呂敷をおいて、その上に腰を下ろして晩げまでぶる〳〵震へたなりぢつとしてゐた。おんつぁんが時々顔を出して見ては黙つて引込んだ。夜になつたら物もいはないでぴつたり戸をたてゝしまつたさ。
俺おんつぁんの心持が分り過ぎる位ゐ分るんだから唯泣いてたつた。
その晩俺はおんつぁんの作つてくれた風呂敷包を全部質において、料理屋さ行つてうつと飲んで女を買つたら、次ぐの朝払ひが足らなかつた。仕方なしに牛太郎と一緒におやぢのとこさ行つたらお袋が危篤で俺らこと捜しぬいてるところだつた。
それから三日目にお袋が死んぢやつたさ。俺のお袋はいゝお袋だつたなあ。おやぢに始終ぶつたゝかれながら俺達をめんこがつてくれたさ。獣物が自分の仔をめんこがるやうなもんだ。何んにもわからねえでめんこがつてゐたんだ。だから俺はこんなに馬鹿になつたども、俺はお袋だけは好きだつた。
死水をやれつて皆んながいふべ。お袋の口をあけてコップの水をうつと流しこんでやつたら、ごゝゝと三度むせた。それだけよ。……それつきりさ」
勃凸は他人事のやうに笑つた。Iも私も思はず釣りこまれて笑つたが、すぐその笑ひは引つ込んでしまつた。
気がついて見ると店の中は存外客少なになつてゐた。時計を見るといつの間にか十時近くなつてゐるので、私は家に帰ることを思つたが、勃凸はお互ひが別れ〳〵になるのをひどつ淋しがるやうに見えた。
それでも勘定だけはしておかうと思つて、女中を呼んで払ひのために懐中物を出しにかゝつた時、勃凸も気がついたやうに蟆口を取り出した。Iが金がないのにしやれたまねをするとからかつた。勃凸は耳もかさずに蟆口をひねり開けて、半紙の切れ端に包んだ小さなものを取り出した。
「これだ」
と私達の目の前に出さうとするのを、Iがまた手で遮つて、
「おい〳〵御自慢のSの名刺か。もうやめてくれよ」
といふのも構はず、それを開くと折り目のところに小さな歯のやうなものがころがつてゐた。
「何んだいそれは」
今度は私が聞いて見た。
「これ……お袋の骨だあ」
と勃凸は珍らしくもないものでも見せるやうにつまらなさうな顔をして紙包みを私達の眼の前にさし出した。
私達はまた暫く黙つた。と、突然Iが袂の中のハンケチを取り出す間もおそしと眼がしらに持つて行つた。
勃凸はやがてまたそれを蟆口の中にはふり込んだ。その時私は彼の顔にちらりと悒鬱な色が漲つたやうに思つた。おんつぁんが危険な色だといつたのはあれだなと思つた。
「俺は何んにもすることがないから何んでもするさ。糞つ、何んでもするぞ。見てれ。だどもおやぢの生きてる中は矢張駄目だ。俺はあいつを憎んでゐるども、あいつがゐる間は矢張駄目だ。……おんつぁんがゐねえばもう俺は滅茶苦茶さ。……馬鹿野郎……」
勃凸は誰に又何に向けていふともなく、「馬鹿野郎」といふ言葉を、押しつぶしたやうな物凄い声で云つた。
私は思はず凄惨な気に打たれてしまつた。どうしたらそんな気持から彼を立ち戻らすことが出来るかを私は知らなかつたから。
その後一週間ほどして、意外にもおんつぁんが再び東京に舞ひ戻つて来た。おんつぁんの予期してゐたやうなことは全く齟齬して、結局九州まで有り金の凡てを費ひ果たしに行つたやうな結果になつた。
それでもおんつぁんは勃凸のことは忘れなかつた。而しておんつぁんの言葉でいへば二人はまたよれ〳〵になつて寝起きを共にするやうになつたが、兎に角にも勃凸に一通りの手職は覚えさせるのがおんつぁんの生活のためにも必要になつたので、又何処からか辛うじて金の工面をして勃凸を自動車学校に入れることになり、勃凸は勃凸でそれを子供のやうに喜んだ。而して凛とした運転手服を着て大家に乗り込んで、そこにゐる女達を片端から征服してやると、多少の予期なしにではなく揚言したりした。
或る晩、勃凸が大森の方に下宿するから、送別のために出て来ないかといふ招きが来た。それはもう九時過ぎだつたけれども私は神楽坂の或る飲食店へと出かけて行つた。
「お待ちかねでした」といつて案内する女中に導かれて三階の一室にはいつて行つた時には、おんつぁんも、勃凸も、Iも最上の元気で食卓を囲んでゐた。
勃凸は体中が弾み上るやうな声を出して叫んだ。
「ほれえ、おんつぁん、凸勃が来たな。畜生! いゝなあ。おい、おんつぁん、騒げ、うつと騒げ、なあI、もつと騒げつたら」
「うむ、騒ぐ、騒ぐ」
場慣れないIは、はにかんで笑ひながら、大急ぎで箸を刺身皿に持つて行つた。勃凸のさうした声を聞くと私もよしといふやうな腹がすわつた。而してさゝれる酒をぐい〳〵と飲んだ。些かの虚飾も上下もないのが私の不断の気持を全く解放したらしい。
勃凸は着物を腰までまくり上げて、粗い鰹縞のやうな綿ネルの下着一つで胡坐をかいてゐた。その若々しい色白の顔は燃えるやうに充血して、彼の表情を寧ろ愛嬌深くする乱杭歯が現はれどほしに現はれてゐた。
「おい凸勃、今夜こそ、お前待合に行け、俺達と一緒に。どうだ行くか」
おんつぁんが杯にかじりついたまゝで詰問した。
「行くとも」
私は笑ひながら答へた。
「畜生! 面白れえなあ。凸勃が沈没するのだよ。畜生。……飲めや」
勃凸はふら〳〵しながら私の方に杯をよこした。
「お前いつ大森に行くんだ」
と私が尋ねて見た。
「明日行くよ。僕立派な運転手になつて見せるから……芸者が来ないでねえか。畜生」
丁度その時二人の芸者がはいつて来た。さういふところに来る芸者だから、三味線もよく弾けないやうな人達だつたけれども、その中の一人は、まだ十八九にしか見えない小柄な女の癖に、あばずれたきかん気の人らしかつた。
「私ハイカラに結つたら酔はないことにしてゐるんだけれども、お座敷が面白さうだから飲むわ。ついで頂戴」
といひながら、そこにあつた椀の中のものを盃洗にあけると、もう一人の芸者に酌をさせて、一と息に半分がた飲み干した。
「馬鹿でねえかこいつ」
もう眼の据つたおんつぁんがその女をたしなめるやうに見やりながら云つた。
「田舎もんね、あちら」
「畜生! 田舎もんがどうした。こつちに来い」
と勃凸が居丈け高になつた。
「田舎もん結構よ」
さういひながらその女は、私のそばから立ち上つて、勃凸とIとの間に割つてはいつた。
座敷はまるで滅茶苦茶だつた。私はおんつぁんと何かいひながらも、勃凸とその芸者との会話に注意してゐた。
「お前どつち───だ」
「卑しい稼業よ」
「芸者面しやがつて威張るない」
「いつ私が威張つて。こんな土地で芸者してゐるからには、───────────────上げるわよ」
「お前は女郎を馬鹿にしてるだべ」
「いつ私が……」
「見ろ、畜生!」
「畜生たあ何」
「俺は世の中で───一番好きなんだ。いつでも女郎を一番馬鹿にするのはお前等ださ。……糞、見つたくも無え」
「何んてこちらは独り合点な……」
「いゝなあ、おい、おんつぁん、とろつとしてよ、とろつと淋しい顔してよ。いゝなあ─────────、俺まるつで本当の家に帰つたやうだあ。畜生こんな高慢ちきな奴。……」
「憎らしいねえ、まあお聞きなさいつたら。……学生さんでせう、こちら」
「お前なんか学生とふざけてゐれや丁度いゝべさ」
「よく〳〵根性まがりの意地悪だねえ……ごまかしたつて駄目よ。まあお聞きなさいよ。私これでも二十三よ。姉さんぶるわけぢやないけど、修業中だけはお謹みなさいね」
「馬鹿々々々々々々……ぶんなぐるぞ」
「なぐれると思ふならなぐつて頂戴、さ」
勃凸は本当にその芸者の肩に手をかけてなぐりさうな気勢を示した。おんつぁんとIとが本気になつて止めた。その芸者も腹を立てたやうにつうつと立つてまた私のわきに来てしまつた。そしてこれ見よがしに私にへばりつき始めた。私はそれだけ勃凸の作戦の巧妙なのに感心した。巧妙な作戦といふよりも、溢れてゆく彼の性格の迸りであるのを知つた。
私達はさういふ風にして他愛もなく騒いだ。酔ひがまはり切ると、おんつぁんはいつものやうに凄惨な美声で松前追分を歌ひはじめた。それは彼の附け元気の断末魔の声だ。それから先きにはその本音が物凄く現はれはじめるのだ。泣いてもゐられない、笑つてもゐたれないやうな虚無の世界が、おんつぁんの酔眼に朦朧と映り出す。おんつぁんは肩息になつて酔ひながらもだえるのだ。
「おい、凸勃、ごまかしを除いたら、あとに何が残るんだ。何にも無えべ。だども俺ずるいよ。自分でもごまかして、他人のごまかしまで略奪して生きてゐるで無えか。俺一番駄目なんだなあ」
かういふ段になると、勃凸の酔ひは一時に醒めてしまふかのやうだ。彼はまるでじやれ附く猫のやうに、おんつぁんの上にのしかゝつて行つて、芝居のせりふや活弁の文句でかき廻してしまふのだ。それも私には出来ない芸当だつた。おんつぁんは勃凸にさう出られると、何時の間にか正体がくづれて、もとのまゝの酔ひどれに変つてゐた。それのみならず勃凸がどれほどおんつぁんを便りにし、その身の上をも懸念してゐるかゞ感ぜられると、私は妙に涙ぐましい気分にさへなつた。
それでもやゝともするとおんつぁんは沈みこみさうになつた。絶対的な眼の色が痛ましく近眼鏡の奥に輝やいた。「駄目、おんつぁん」をきつかけに勃凸は急に待合の事をいひ出した。おんつぁんは枯れかゝつた草が水を得たやうに、目前の誘惑へとのしかゝつて行つた。勃凸も自分の言葉に自分で酔つて行くやうに見えた。
「畜生! さあ来い。何んでも来い。おんつぁん、凸勃に沈没させてやるべなあ。とつても面白いなあ。おい凸勃、今夜こそお前のめんこい額さ舐めてやつから。畜生!」
勃凸は大童とでもいふやうな前はだけな取り乱した姿で、私の首玉にかじりつくと、何処といふきらひもなく私の顔を舐めまはした。芸者までが腹をかゝへて笑つた。
「今度はお前ことキスするんだ、なあ」
勃凸はさつきの芸者の方に迫つて行つた。芸者はうまく勃凸の手をすりぬけて二人とも帰つて行つてしまつた。
私達もそれに続いてその家を出た。神楽坂の往来はびしよ〳〵にぬかるんで夜風が寒かつた。而して人通りが途絶えてゐた。私達は下駄の上に泥の乗るのも忘れて、冗談口をたゝきながら毘沙門の裏通りへと折れ曲つた。屋台鮨の暖簾に顔をつツこむと、会計役を承つた勃凸があとから支払ひをした。
たうとう私達は盛り花のしてあるやうな家の閾をまたいだ。ビールの瓶と前後して三人ばかりの女がそこに現はれた。すぐそのあとで、山出し風な肥つた女中がはいつて来て、勃凸に何かさゝやいた。勃凸は、
「軽蔑するない。今夜は持つてるぞ。ほれ、これ見れ」
といひながら皆の見てゐる前で蟆口から五円札の何枚かを取り出して見せてゐたが、急に顔色をかへて、慌てゝ蟆口から根こそぎ中のものを取り出して、
「あれつ」
といふと立ち上つた。
「何んだ」
先程から全く固くなつてしまつてゐたIが、自分の出る幕が来たかのやうに真面目にかう尋ねた。
勃凸は自分の身のまはりから、坐つてゐた座蒲団まで調べてゐたが、そのまゝ何んにも云はないで部屋を出て行つた。
「勃凸の馬鹿野郎、あいつはよくあんな変なまねをするんだ。まるで狐つきださ」
と云つておんつぁんは左程怪訝に思ふ風もなかつた。
「本当に剽軽な奴だなあ、あいつは又何か僕達をひつかけようとしてゐるんだらう」
Iもさういつて笑ひながら合槌をうつた。
やゝ暫くしてから勃凸は少し息をはずませながら帰つて来たが、思ひなしか元気が薄れてゐた。
「何か落したか」
とおんつぁんが尋ねた。
勃凸は鼠の眼のやうな眼と、愛嬌のある乱杭歯とで上べツ面のやうな微笑を漂はしながら、
「うん」
と頭を強く縦にゆすつた。
「何を」
「こつを……」
「こつ?」
「骨さ。ほれ、お袋のよ」
私達は顔を見合はせた。一座はしらけた。何んの訳かその場の仕儀の分らない女達の一人は、帯の間からお守りを出して、それを額のところに一寸あてゝ、毒をうけないおまじなひをしてゐた。
勃凸はふとそれに眼をつけた。
「おい、それ俺にくれや」
「これ? これは上げられませんわ」
とその女はいかにもしとやかに答へた。
「したら、名刺でいゝから」
女はいはれるまゝに、小さな千社札のやうな木版刷りの、名刺を一枚食卓の上においた。
「どうぞよろしく」
勃凸はそれを取り上げると蟆口の底の方に押し込んだ。而して急に元気づいたやうな声で、
「畜生! 駄目だ俺。おんつぁん、俺この方が似合ふべ、なあ」
と呼びながら、蟆口を懐に抛りこんでその上を平手で軽くたゝいた。而して風呂場へと立つて行つた。
おんつぁんの顔が歪んだと思ふと、大粒の涙が流れ出て来た。
女達は不思議さうにおんつぁんを見守つてゐた。
底本:「三代名作全集・有島武郎集」河出書房
1942(昭和17)年12月15日初版発行
初出:「泉」
1923(大正12)年4月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。
※「取り出した」「取出した」等の送り仮名のゆれは、底本のままとしました。
※「やうに」と「ように」の混用も、底本のままとしました。
入力:mono
校正:松永佳代
2011年6月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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