日本料理の基礎観念
北大路魯山人
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私どもが旅行をしますと、汽車の弁当を食ったり、旅館の料理を食ったりしなければなりませんが、それらはいかにも不味くてまったく閉口します。そういう日本料理というものはまるでなっていません。まだ西洋料理ならいくらか食べられます。また、中国料理でもそうです。してみると、西洋料理とか中国料理とかいうものは、拵え方がやさしいのだ、単純なのだ。ひと通り覚えれば、誰にでも簡単にやれるのでありましょう。ところが、日本料理というと、そうはいかないのでありまして、私どもが料理人を使っていて、朝から晩までガミガミいっていましても、なかなかうまく出来ない。しかし、日本料理がうまく出来ると、われわれ日本人には誰の嗜好にも合って、その料理がわれわれの味覚にぴったり適するのです。しかし、このぴったりがなかなかいかないのです。
私ども内輪でいくらやかましくいっていても、料理人たちは上の空でだめですから、こういう機会に、本気で聞かせようと思っているのであります。それで、みなさんに聞いていただきながら、いっしょに料理人にも聞かせるので、こういう機会に、みなさんを利用するようなわけでもあります。
私どもはよくこういうことを聞かれます。何歳の子どもには、どんな食べ物がよくて、どうした料理がいいでしょうかと。そのようなことは、ごく平凡な料理の話で、私どもは申し上げません。私の申しますのは、このだいこんとだいこんはどうだとか、この水と水とは、このなにとなにとは、どちらが良いか悪いかという機微に触れること。のりにしましても、どういうのりがもっともよいかという比較詮議をする。そういうお話をいたしますので、例えば、一流の料理屋の刺身の醤油にしても、一々違いますが、それが区分けが出来るように、こんなことはどうも僭越ですが、いわゆる食道楽の立場から、ぜいたくといえば、ぜいたくといえる最高の嗜好的、食べ物のお話をいたそうと思います。そのおつもりでお聞きを願います。
料理とは理を料ること
料理とは食というものの理を料るという文字を書きますが、そこに深い意味があるように思います。ですから、合理的でなくてはなりません。ものの道理に合わないことではいけません。ものを合理的に処理することであります。割烹というのは、切るとか煮るとかいうのみのことで、食物の理を料るとはいいにくい。料理というのは、どこまでも理を料ることで、不自然な無理をしてはいけないのであります。
真に美味しい料理はどうも付焼刃では出来ません。隣りの奥さんがやられるからちょっとやってみようか、ではだめであります。心から好きで、味の分る舌を持たなくては、よい料理は出来ないのであります。
料理は相手を診断せよ
自分の料理を他人に無理強いしてはなりません。相手をよく考慮して、あたかも医者が患者を診断して投薬するごとく、料理も相手に適するものでなくてはなりません。そこに苦心が要るのです。医者が患者の容態が判るように、料理をする者は、相手の嗜好を見分け、老若男女いずれにも、その要求が叶うようでなくてはなりません。相手の腹が空いているかどうか、この前にはどんなものを食べているとか、量とか質とか、平常の生活とか、現在の身体の加減とかを考慮に入れなければなりません。それは充分、料理の体験がなくてはならぬことであろうと思います。
甘い、辛いということも、甘ければ甘いで美味く、辛ければ辛いで美味いというふうに、どんな味であっても嗜好に叶うという、すなわち、ものの道理に背かない味でなくてはなりません。それですから、ただ眼で見ることばかりではだめでありますし、また、料理は舌の上が美味いのみでも足りません。まず目先が変わるとか、色彩の用意が異なるとかいうことで、つまり、感覚の全体に訴えて満足するとか、美味くなるという総大観になるのであります。名医となることも、名料理人になることも、容易ではありません。
原料第一──選定
さて、原料は鳥にしても、あまり成熟しない中くらいのものがよろしいのでありまして、真に賞味出来るのは、そういうものであります。たいについて申しましても、四、五百匁のところがちょうど美味本位に当たるので、一貫目から一貫目以上になると、非常に味が大味になります。しかし、味はたとえ落ちても、大きいたいの頭を兜蒸しなどに使うのは立派でいいでしょうが、実際からいいますと、やはり、美味くありません。大きいのは形と色彩がよくて感じは立派だが、味は論になりません。それならば小振りのものが味がよいといって、小さいものばかりに決めるかといえば、たびたびのことになると、そうばかりにいかない。ただなにごとも単純ではいかないのであります。こういうことについては、なにもかも一応知って苦労をしておき、そして、機宜の処置がとれなくてはいけません。
もともと美味いものは、どうしても材料によるので、材料が悪ければ、どんな腕のある料理人だって、どうすることも出来ません。里芋でいっても、ゴリゴリした芋だったら、どんな煮方をしたって、料理人の手に負い切れないのです。さかなにしても脂っ気のないものは、それこそ煮ても焼いても、バターを付けようと雲丹を塗ろうと、どんなにしたってものになりません。材料を精選するということの大切なゆえんであります。この材料を見分けることは、なかなか容易なことではなく、むずかしいことですが、注意の修練、勘によってできますものであります。悪材を持った場合、まあなんとかなるというような、ぼんやりした考えではよい料理はできません。
原料の原味を殺すな
原料の原味を殺さないのが料理のコツのひとつであります。きゅうりならきゅうり、そらまめならそらまめに、それぞれの持ち味があるのですから、その持って生まれた味を殺さないように工夫しなければなりません。小芋の味ひとつにしたって、人の力ではどうにもできないのでありますから、持ち味を生かすということは、とりもなおさず、生きたよい材料を扱うということになるのであります。例えば湯豆腐を拵えるにしても、その豆腐のよいものを探し当てねばならない。それでなくって、醤油だ、薬味だといって、それらにばかりやかましくいったところで、もちろん、それもやかましくいわねばなりませんが、それら工夫のことは第二義のことで、それよりも豆腐の吟味が第一義なのであります。材料の精選とともに材料の原味を殺さぬこと、その味というものは、科学や人為では出来ないものでありますから、それを貴ぶのであります。
昆布、鰹節──選定および出汁の取り方・削り方
料理には出汁が必要であります。出汁はふつうかつおぶしが使われて、東京では、あまりこぶは使わないようでありますが、出汁には、やはりこの両方とも、うまく使うのがよろしいと思います。それでどういうこぶがよいか、どういうかつおぶしがよいかということをお話しいたさねばなりません。東京ではどういうものですかあまりこぶの出汁を使わないようでありますが、ぜひとも、かつおぶしの出汁とこぶの出汁とは使い分けして使うがよいと思います。こぶにしても、かつおぶしにしても、土産物にもらったとか、あり合わせのというのでは、どうもおもしろくありません。
かつおぶしはどういうふうにして削るか、どういうふうにして材料を選択するか。かつおぶしとかつおぶしとを叩き合わすと、カンカンとまるで拍子木を鳴らすみたいな音でないといけません。虫の入った木のような、ポトポトしかいわない、湿っぽい匂いのするのはだめです。
ところで、みなさんのご家庭では鉋をもっておられましょうか。切れ味のよい鉋でなければ、完全にかつおぶしを削ることはできません。赤錆になったり、刃の鈍くなったもので、ゴリゴリとごつく削っていたのでは、かつおぶしが例え一円のものでも、五十銭の値打ちもしないものになります。どんなふうに削ったのがいい出汁になるのかと申しますと、削ったかつおぶしがまるで雁皮紙のごとく薄く、ガラスのように光沢あるものでないといけないのであります。こういうのでないと、よい出汁が出ないのであります。削り下手なかつおぶしは、死んだ出汁が出ます。生きたいい出汁をつくるには、どうしても上等のよく切れる鉋を持たねばなりません。そして出汁を取るには、グラグラッと湯のたぎるところへ、サッと入れた瞬間、充分に出汁ができているのです。それを、いつまでも入れておいて、クタクタ煮るのでは、碌な出汁は出ず、かえって味を損うばかりです。いわゆる二番出汁というようなものにしてはいけません。それで刃のよく切れる、台の平らな鉋をお持ちになられることをお勧めいたします。かつおぶしを薄く削るということは、非常に経済的であり、味について効果的でもあります。ごつい鉋でゴツゴツ削るのでは、まったくかつおぶしを殺してしまって、百匁の物でも五十匁の用にしかなっておらぬというようなことです。こんな矛盾が世間には行われがちではないかと思います。
こぶ出汁のことは、東京では料理屋でさえあまり知らないようです。これは東京には、こぶを使うという習慣がなかったからでしょう。こぶの出汁は、実に結構なものでありまして、さかなの料理にはこぶ出汁にかぎります。かつおぶしの出汁では、さかなの味が二つ重なるので、どうしても具合の悪いものができます。この味のダブルということがくどいのであります。こぶを出汁に使う法は、古来、京都で考えられたことです。ご存知のように、京都は千年もつづいた首都でありましたから、北海道で産出されたこぶが、はるかな京都という山の中で、実際上の需要から必要に迫られて、こぶ出汁を取るまでに発達したのでありました。
こぶの出汁を取りますのは、こぶを水でぬらしただけで、五分間か三分間、間をおき、こぶの表面がほとびれた感じのする時、水道の水で、ジャーッとさせないで、音もせず身動きもしないで、トロッと出る水をこぶに受けながら、指先で器用にいたわって、だましだまし、こぶの表面の砂、ゴミみたいなものを落とすのです。そのこぶを熱湯の中へサッと通す。それでいいのであります。これでは、出汁が出たかどうかと訝かられるかも知れませんが、これで充分、出汁ができているので、出たか出ないかは、ちょっと汁をなめてみるのです。これで、実に気の利いた出汁ができています。量はどれくらい要るかは、実習いたしますと、すぐお判りになります。この出汁は、たいの潮などのときは、ぜひともこれでなくてはなりません。こぶを湯からサッと通したきりで上げてしまうのは、なにか惜しいように考えて、長くいつまでも煮るのは、こぶの底の甘い味が出て、決して気の利いた出汁はできません。京都辺では引き出しこぶといって、なべの一方からこぶを湯に入れて、底をくぐらして、一方から引き上げる、こうしたやり方をしていますが、これでありますと、どんなやかましい食通でも満足し、文句がないということをいっています。
よい料理には「味の素」は不可
「味の素」は近来非常に宣伝されておりますが、私は「味の素」の味は気に入らない。料理人の傍らに置けば、不精から、どうしても過度に使うというようになってしまいますから、その味に災いされます。私どもは「味の素」をぜんぜん料理場に置かぬことにしています。「味の素」も使い方でお惣菜的料理に適する場合もあるでしょうが、そういうことは上等の料理の場合ではありません。今のところ、とにかく高級を意味する料理のためには、なるたけ「味の素」は使わないのがよいと思います。なんとしても上等の料理、最高の料理には、私の経験上「味の素」は味が低く、かつ、味が一定していけないと思います。こぶなりかつおぶしを自分の加減で調味するのがよいと思います。
蔬菜は新鮮入手に努力すべし
野菜料理は相当の年配の方に好まれます。また、健康上からも、たいへんによろしいのであります。私は鎌倉で陶器をやっていますから、そこにわずかの畑を持っていまして、だいこんでも里芋でもねぎでも、採りたてのものばかりしか食べていませんが、この採りたてのものは、質が違うと思われるほど美味いものです。採ってから少しでも時間が経つと、どうも問題にならぬくらい味が落ちます。東京ではそういうことはできませんが、鎌倉ですと、お客をしましても、膳を出す三十分なり四十分なり前でなければ、畑から採らせないのであります。
里芋でありますなら、掘る洗う煮るという具合に続けますと、その芋が少々性のよくないものでも、相当に食べられる。性がよければ、この上、美味いことはないのであります。今は松茸の時節でありますが、松茸にしましても、この頃の山へ行って、採った場所ですぐさま食べるのが一番美味いのです。京都あたりから、たくさん送られて来るのですが、途中籠の中で変育して、届いたときは発送時より大きく育っています。栄養を摂取しなくて育つのですから、痩せるに決っています。従って変味します。筍にしましても、送ったときに五寸のものが、届いたときは六寸になっているという現象があります。これは野菜が生きたようで、実は死味に近づきつつある証拠です。ですから、ほんとうに生きているものを食べる──という心がけが美食には必要となります。生きた野菜でなければ、真の美味は摂取できないわけです。
さかなや野菜の生きているか死んでいるかを見分けるには、さかなでは容易に分っても、野菜では簡単に判りません。だから野菜では採りたてがよい、採りたてに近いほどよいとしてあります。たいなど大きいものになりますと、一日二日おいた方が、かえって味がよいこともありますが、野菜は採りましてからも、ある期間、不自然な発育をしていますから、その処理に工夫を要します。例えば、ねぎにしますなら、青いところを摘んでしまって、白根だけにしておきます。それでないと、青い部分を育てて白根の養分をなくしますから、そうしないようにする。また、だいこんでありましたら、葉をつけたままだと、葉を育てるためにだいこんの方から養分がとられますから、葉を切り放して、葉はすぐ糠味噌に入れるなどした方がよろしいのです。
野菜を扱うのには、このようなちょっとしたコツがあると思います。けれども、なんといっても、採りたての野菜を、すぐさま使うよりよいことはないのであります。
魚も鳥も大は、ある時を経てよし、小は、新鮮にかぎると知ること
魚とか鳥とかの大きいものは、相当時間が経過して味のよくなるものがあります。けれども小さいもの、鳥でいえば、鶫とか鶉とか雀とか、魚でなら、いわしとかあじとかいいますものは、獲りたて、または締めたてでなくては美味くありません。
大きいものならば、海から山から得て、五日あるいは三日を経過して、かえって味がよいものがあります。
生きた食器、死んだ食器
そこで食器のことになりますが、せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、まったくどうにもなりません。料理がいくらよくても、容器が変な容器では、快感を得ることができません。私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。茶人という者になりますと、向付に五千円、なにに五百円という具合に、よい器を欲します。それは生きた食器だからであります。食器が下らぬものでは料理まで生きませんから、料理と食器とが一致し、調和するように心がけるのであります。
その食器を選ぶということも、ただやかましくいうだけのことではなく、食器そのものを愛し、取り扱うことが楽しみであり、その食器をいたわりいたわり扱うというところに、料理との不二の契りが結ばれるのです。食器が楽しいものになれば、必然、料理が楽しいものになるのです。それはあたかも、車の両輪のようなものでありましょう。
結局、料理は好きでつくる以上の名法はない
実際、料理といいますのは、好きでつくるというのでなくてはなりません。それが趣味であります。ただ知って美味くつくるという知識だけではなく、温かい愛情で楽しみながらやるという気持であります。だから、食器のことなども心がけることによって、美術の趣味を深くすることができます。そうしてだんだんと調子の高いものを求めることです。みなさんが帝展をごらんになれば、いいお気持になられましょう。それは美術に対する要求が満足するからです。ところが、さらに高くなると、博物館へ行くということになります。食器の美的鑑賞も向上してくるのでありますし、食物の上にも美をそういうふうに表わすようになります。すなわち、切り方だとか、盛り方だとか、色だとか、いろいろなことに心が届くようになるのであります。結局、料理というものは、好きでやるのでなくてはだめだということになるのであります。主人がやかましいから一応知っておかなければ、というような了見では高の知れたものであります。好きでおもしろく、楽しんで料理をおやりになられるまで進まれるように希望いたします。
終わりに、醤油について、ひと言申し上げておきたいと存じます。濃口醤油ではどうもよい料理ができないのです。薄口というのがあります。これは播州竜野でできるのですが、関西では昔から使われています。東京にはこれまでありませんでした。近頃、山城屋には置いています。実際、薄口でなければ、ほんとうによい料理はできません。色はつきませんし、しかも、値段は安く、塩分が多いからよくのびて、経済からいっても大いに安いし、まったく料理には薄口がなければならないといってもよいでしょう。
それから、刃物のことなどもお話しいたしたいのですが、時間もございませんので、簡単にいいますが、どうか刃物もよく切れるのをお使いになっていただきたい。そしてよく切れると、切るのがおもしろいから、自然、料理に興味が持てるということになるのであります。
底本:「魯山人の食卓」グルメ文庫、角川春樹事務所
2004(平成16)年10月18日第1刷発行
2008(平成20)年4月18日第5刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
1933(昭和8)年
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月14日作成
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