材料か料理か
北大路魯山人
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おいしいごちそうを作るにはどうしたらよいでしょうか? などという声をよく聞く。
おいしいものとはなにか、ということをまず考えてみよう。人間は習慣の動物である。
毎日、必ずコーヒーを飲まねばいられぬ、というひとがいる。また、たばこを止められぬひともいる。そんなひとにコーヒーはそんなにおいしいですか、と聞いてみる。おいしいから止められないのではなく、たいていは習い性になっていて止められないひとが多い。人間は習慣になったために、その習慣から抜け切れない場合と、毎日重なったために、かえってそれが鼻につく場合とがある。わたしがいおうとするのは、習慣は習慣として、誰でもおいしいと思うものの味の話である。
十人十色といって、そのたばこにもコーヒーにも、うまいまずいがあるらしい。それぞれ好みが違うかもしれない。だが、この場合のおいしいということは味つけの話で、わたしのいうところはものそのもの、本来の味の話なのだ。つまり、材料の原味そのものの話である。
だからおいしいごちそうというのは、上手な料理法ということは第二義で、実に材料だけだ、ということである。中国では料理の功は材料が六、料理の腕前が四といわれたが、日本は中国と違って、料理材料が段違いにすぐれているから、材料の功が九、料理の腕前はその一しか受け持っていなかった。要は材料の質が中国に勝っているからである。
甘い料理が好きなひともあり、からい料理の好きなひともあるが、甘いからいのおいしさではなく、ごちそうの味の「九」までを受け持っている材料のおいしさのことを話したい。
うまいすきやきは、うまい牛肉がもとであり、うまいそばはそば粉の品質のよさであろう。うまいスパゲッティは小麦粉の良質にある。
えびといってもいろいろある。同じえびでも、本場のえびは大分味が違う。なるほどと思うまでにうまい。場違いのえびを、いくら巧みに料理しようと工夫しても、本場の手頃のえびにはかなわない。
このように、各地各国には、それぞれの土地においしいものがあるに違いない。各人はせめて自分のいる場所の近くで、魚ではなにがいちばんおいしいか、また、同じ魚を手にしてもその魚のいちばんおいしいところはどの部分か、ということを知らねばならぬ。
一切れの魚を買うにも、魚屋はだいたいどの一切れを売ってもいいのだから、その魚のいちばんおいしいところを買う手もある。ある魚はしっぽの方がうまいが、また他の魚は腹の薄身がいちばんおいしいというふうに吟味するがよろしい。同時に一目見て、この魚は時を経ているか、新鮮かを見分けることができなければならぬ。それを発見するのは、目で見るだけでなく、心の目で見分けるのである。数多い経験の目である。
こういうことは、料理をする者にとって、まずいちばん大切な心がけである。骨董屋でも、目が利くということがいちばん大切なのと同じである。骨董屋は商売だから、目が利くのはあたりまえではないか。われわれは骨董屋ではないから、そんなに一目見て、味のよしあしまではわからぬというひとがあれば心得違いだ。
料理をする料理人は、骨董屋が骨董を扱うのと同じく、料理をするのが商売ではないか。女房は料理をつくって、主人においしいものを食べさせ、働かせるのが任務ではないか。そのくらいの熱心さと誠意がなくては、よい料理人とはいえず、また責任を知る主婦とはいえぬ。
「料理の美味不味は、十中九まで材料の質の選択にあり」と解してよい。いうなら種を選ぶことに、ベストを尽くすべきである。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
1953(昭和28)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月3日作成
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