お米の話
北大路魯山人
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近頃は以前のように、やれ播州の米がうまいとか、越後米にかぎるとかいうような話はあまり聞かない。ただ米でありさえすればあり難がるご時世ではあるが、しかし以前でも、米の味に詳しいというひとは少なかった。
うまい米といえば、その昔、朝鮮で李王さまにあげるために作っていた米がある。これはすこぶるうまかった。収穫は非常に少ないが、米粒の形もよく、見たところもきれいな米であった。ただし、あまりうますぎて、副食物がご馳走の目的の場合には使えない。うますぎるというと変に聞こえるかも知れないが、元来米というものはうまいものである。うまいものの極致は米なのである。うまいからこそ毎日食べていられるわけなのである。特にうまい米は、もうそれだけで充分で、ほかになにもいらなくなってしまう。
殊にライスカレーなんてものに使う米は、少しまずい米でないといけない。たとえば玄米だ。
玄米は白米とは別な意味で非常にうまい。玄米のごはんにご馳走をつけて出すのは蛇足である。漬けものでもあれば充分である。だから、いくらうまいといっても、料理の後では邪魔になる。
ところが、一般の家庭はもちろんのこと、多数の料理屋がこのごはんというものについて、とても注意が足りない。
料理屋がそうだから、料理人はみなそうである。料理長というものは板前といって、俎板の前に坐って刺身ばかり作っている。本当の料理人ならば、仮に自分で飯を炊かなくとも、飯がうまく炊けたかどうかということについて、相当気になるはずである。なぜなら、せっかくいい料理を作っても締めくくりに出る飯がだめだったら、すべてがぶちこわしになってしまうからである。
ところが、料理屋というものの多くは、酒飲み本位に工夫されているために、たいていの料理人は自分の受け持ちの料理さえ出してしまうと、後の飯がどうであろうと、一切お構いなしで帰ってしまう。それでは料理人としての資格はゼロに等しいといわれても、彼らは一向に頓着しない。理想がないからだ。
一般に飯炊きというと、料理人ではなく、雑用人として、一段と下った仕事として扱い、ろくな給料も出していないが、ずいぶん間違った話である。
だから、星岡茶寮時代、わたしのところへ料理人が来ると、君は飯が炊けるかと第一に聞いてみる。なかなか自信をもって、答えのできる者はいなかった。
とにかく、飯は最後のとどめを刺すものであり、下戸には大事な料理である。料理をするほどの者が、自信をもって飯が炊けないということは、無茶苦茶な振舞いであり、親切者とはいえないことになる。
それにもかかわらず、料理人は自分の苦労の足りなさを棚に上げて、飯を炊くということは、なにか自分の沽券にかかわるもののごとく考えているらしい。浅ましい話だが、それでは先生はごはんをお炊きになりますか、と聞くものがあった。わたしは言下に炊けると答えた。
料理人は飯なんてものは、無意識のうちに料理ではないと考えているらしい。ところが、飯は料理のいちばん大切なものなのである。料理ではないと思うところに根本的に間違いがあり、まずい飯ができるのである。
洋食でパンの良否を問題にしたり、焼き方を問題にしたりするのとまったく同じなのである。だから、飯は料理ではないという考えを改め、立派な料理だと考えなければならない。
この意味で、料理人は飯の炊き方に注意しなければならない。わたしは断言する。飯の炊けない料理人は一流の料理人ではない。主婦、女中、飯炊きについても、同じことがいえるのである。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「日常美食の秘訣」
1947(昭和22)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月3日作成
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