欧米料理と日本
北大路魯山人
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四月上旬(注・昭和二十九年)には日本を発って、アメリカからヨーロッパを回ってくる予定で、いま準備中である。自作陶芸の展示会を欧州各地で開き、文化交流のために一役買って出るというのが一応の目的になっているが、ヨーロッパ旅行の魅力は本場フランス料理、イタリア料理、ベルギー料理などをつぶさに吟味して来るということにある。
パリに着いたら、新聞に広告でもして、料理に関する古本や食器など集めてみたいと思っている。
しかし、わたしはフランスその他の料理にあまり多くのものを期待してはいない。"欧米諸国の料理に失望す"というようなことになるであろう。まずい魚介、まずい肉、まずい蔬菜といった材料ではなにができるものでなし、心に楽しむ料理など、もとよりでき得るものではない。しかし、なんとかものにしようと苦心し、工夫しているのが、ヨーロッパや中国の名料理であるようだ。そこには無理がともない、愚劣が生じ、人意の単調もうかがわれて怪しいものである。かりに口になじむとしても、目に訴えて、心を喜びに導くような美しさは望むべくもないようだ。
アメリカの人工料理、これはテストするまでもなさそうだが、ヨーロッパ料理は一応テストに価しよう。
今までの国外にのみ心酔する輩は、多く日本を知らない。体当たりの経験の乏しいために、日本の料理の神髄を知らない。スープはできても、みそ汁はできない。パンの良否は分っても、飯のうまさはわかっていない。これが今の日本人であろう。わたしは日本人に、日本の食べ物に目を開かせ、日本の持つよさを理解してもらいたい一念からヨーロッパに食行脚するのだともいえる。もとより欧米料理を正しく理解し、誤って買い被りのないよう、毛嫌いして本質を見失うことのないよう、わたしの口で直接テストしたところ、わたしの目で見たところをいずれは披露したいと思っている。
食べ物というものは、人間の体を作る餌であり、心にもひびき、おおらかにもなり、貧しさをも作る原動力として生きるからである。
日本料理の場合は、あり難いもので、材料は数知れないまでに豊富、その美味はいわゆる山海に満ちている。どう工夫しなくても、まず目が喜ぶ。鼻も口も楽しみきる。日本は食べ物に恵まれている。日本の魚介、こんなものが仏・伊にあるであろうか。これをじかに自分の目でテストし、吟味しに出かけるのである。わたしの渡欧の楽しみはこの一点にあるといいたい。欧米人が日本のように、刺身を食う習慣のない理由は、いうまでもなく、生で賞味できる魚がないからであろう。米人でさえ生のオイスターを自慢で食うところをみると、うまければ生でも食う証拠である。今に諸外国の人間が日本に来ることは、日本の刺身が食いたいためである、といわれるまでに至るであろうことが想像される。
しかし、わたしがこういうことを考えていることが当たっているか、あるいはまったく誤っているか、今のところあまり偉そうにはいえない。それだけに楽しみがある。
今からはっきりいっておいて間違いなしとするところは、美の点である。フランス、ルーブル美術館長ジョルジュ・サール氏も同じことをわたしにいっていたが、日本料理の目に訴えてくる美しさは絶対のもので、まことに美しい。食器の美しさ、盛り方のデザイン、居室の美しさは、世界無比といえよう。この点はとうてい欧米では窺えないというのである。料理文化の進歩を認める話しぶりであった。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「芸術新潮」
1954(昭和29)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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