いなせな縞の初鰹
北大路魯山人
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鎌倉を生きて出でけん初鰹 芭蕉
目には青葉山ほととぎすはつ鰹 素堂
初がつおが出だしたと聞いては、江戸っ子など、もう矢も楯もたまらずやりくり算段……、いや借金してまで、その生きのいいところをさっとおろして、なにはさておき、まず一杯という段取りに出ないではいられなかったらしく、未だに葉桜ごろの人の頭にピンと来るものがある。ところで初がつおというもの、いったいそんなにまで騒ぎたてられるゆえんはなにか。前掲の句の作者は元禄時代の人だから、その時代に江戸っ子が初がつおを珍重したのはうかがえるが、今日これは通用しない。
「鎌倉を生きて出でけん」と想像しつつ当年の江戸で歓迎された初がつおは、海路を三崎廻りで通ったものではあるまい。陸路を威勢よく走って運ばれたものであろうが、それにしても日本橋の魚河岸に着く時分は、もはや新鮮ではあり得なかったろう。それでも江戸っ子は狂喜して、それがために質まで置いたというから大したものだ。
私の経験では、初がつおは鎌倉小坪(漁師町)の浜に、小舟からわずかばかり揚がるそれを第一とする。その見所は、今人と昔人と一致している。鎌倉小坪のかつお、これは大東京などと、いかに威張ってみても及ぶところではない。
現今、東京に集まるかつおは漁場が遠く、時間がかかりすぎている。それはそれとして、初がつおというもの、それほど美味いものかという問題になるが、私は江戸っ子どもが大ゲサにいうほどのものではないと思う。
ここでいう江戸っ子というのは、どれほどの身分の人であるかを考えるがよい。富者でも貴族でもなかろう。質を置いてでも食おうというのだから、身分の低い人たちであったろう。それが跳び上がるほど美味がるのであるが、およそ人物の程度を考えて、ハンディキャップをつけて話を聞かなければなるまい。
冬から春にかけて、しびまぐろに飽きはてた江戸人、酒の肴に不向きなまぐろで辛抱してきたであろう江戸人……、肉のいたみやすいめじまぐろに飽きはてた江戸人が、目に生新な青葉を見て爽快となり、なにがなと望むところへ、さっと外題を取り換え、いなせな縞の衣をつけた軽快な味の持ち主、初がつお君が打って出たからたまらない。なにはおいても……と、なったのではなかろうか。
初がつおに舌鼓を打ったのは、煮たのでも、焼いたのでもない。それは刺身と決まっている。この刺身、皮付きと皮を剥ぐ手法とがある。皮の口に残るのを嫌って、皮だけを早く焼く方法が工夫された。土佐の叩きがそれである。しかし、土佐の叩きは、都会の美味い料理に通じない土地っ子が、やたらに名物として宣伝したので、私の目にはグロであり、下手ものである。焼きたての生暖かいのを出されては、なんとなく生臭い感じがして参ってしまう。しかし、土佐づくりは皮付きを手早く焼き、皮ごと食うところに意義があるのだろう。
元来、どんな魚類であっても、皮と肉の中間に美味層を有するものである。それゆえ、皮を剥ぎ、骨を去ってしまっては、魚の持ち味は半減する。物によっては、全減するとまでいっても過言ではなかろう。それはもとよりかつおだけにかぎったことではない。たいのあら煮が美味いというのも、実は皮も骨もいっしょに煮られているからなのである。
昔は春先の初がつおを、やかましくいったが、今日では夏から秋にかけてのかつおが一番美味い。これは輸送、冷凍、冷蔵の便が発達したことによるものと思われる。大きさは五百匁から一貫匁ぐらいまでを上々とする。
底本:「魯山人の食卓」グルメ文庫、角川春樹事務所
2004(平成16)年10月18日第1刷発行
2008(平成20)年4月18日第5刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「朝日新聞」
1938(昭和13)年
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月4日作成
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