鮟鱇一夕話
北大路魯山人
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獅子文六氏との対談で、熱海の福島慶子女史は「アメリカのパン、あんなもの問題じゃない。金魚の餌でしょう」とタンカを切っておられたが、その味覚識見はさすが見上げたものだ。そうはっきりいってのけられるだけのパン食通は、ざらにあるものではない。「うちの親爺(夫君のこと)はタマネギや肉の一杯はいっているオムレツが大好きなのよ」と田舎者扱いするところなど、女史もなかなか隅におけないおひとだ。
ところで、このわたしは、幼年時代から七十年の長期に渉って、日本料理を研究し続けているので、普通人とは少しばかり違うなにかを持っている。さて、そのうぬぼれで女史の日本料理観を随筆から探ると、まるっきり外人の日本料理観としか受け取れない。憶えざかりを十三年、日本を留守にしたひとのことであるから無理もないが、それにしても経験の浅さが、なに恐れるところなく筆を走らせているかのようだ。元来日本のことは何事によらずむずかしいことであるが、とりわけ美術と料理はむずかしく、位人臣をきわめたとて、美術と料理は分りにくいようである。その難問題をいとも簡単に勘所を掴んで説き起こし、説き去られるということは女史の聡明さを証明するものであろう。欲をいえば、今少し急がず落ち着き払って経験を積まれたら、味覚界で末恐ろしいひとになるのではないかと思っている。だが、熱海でのわにの話のようなものは、猿も樹から落ちる譬えのように福島女史の図らざりし不覚であろう。
女史がKさんというわに屋からもらったという偽あんこうの件はまったく外人的で、あんこうに対する彼女の無知、無経験が生んだナンセンス。おかしくておかしくて、その無邪気さに一時笑いがとまらなかった。
偽あんこうを贈ったKさんは、もとよりわにのつもりで女史の不在中においていったらしい。Kさんはわにの死肉だけを一片持って、相手をたぶらかさんものとなめてかかり、彼女も一応ひっかかってしまったのであるからおもしろい。「そのひとを知らんと欲せば、まずその友を見よ」というところである。
わには知らないが、もともとあんこうという魚は、鍋料理にするとすてきにうまい魚である。脂肪、ゼラチンに富んでいて、なかなかしゃれた食べ物である。ざらにある魚でありながら、鍋料理中もっとも乙なものとされ、高級層にも下級層にも賞味されている。しかも、それが骨以外捨てどころのないという魚で、肉を除いてはことごとくうまいところだらけである。この点、珍しく雅俗混合の趣味を有し、味にも、見た目にも、ユーモアたっぷりで、親しめることおびただしい。
ところで、問題の白色なるあんこうの肉、食って食えないこともない故に、殊さらに捨てられもせず食用に供されてはいるものの、とびついて食うほどの者はいない。いわんや肉だけを好んで食う者など一人もあるまい。わたしの経験からいえば、魚屋に前もって「肉はいらないよ」と断っているくらいだ。その代わり、他の部分は全部所望する。他の部分とは、吊り切りにした皮、鰭、臓物、とりわけ肝である。というわけで、肉が食いたくてあんこうを買う者はまずないであろう。Kさんが鰐の肉塊をあんこうと称して贈ったかどうか知らないが、この話はてんで問題にならないのだ。
あんこうとして家中の者に与えるなど、いよいよ問題にならない。一見して変だとは疑いながらも、庖丁したというところが、いささか外人的である。彼女があんこう料理に少しでも知識をもっていれば、いきなりKさんに電話して「馬鹿」の一喝を食わしたはずである。「皮はどうした、肝は、鰭は、臓物は」とたたみかけて問いかけるに違いない。「Kさん、あんたは馬鹿だよ。あんこうの肉なんか、あんこう食いは昔から食わないと決まっていますよ」と叱りつけるところだろう。
さてあんこうかな……などと思ってみる余地はないはずだ。済んだことは仕方がない。それよりは身近な日本料理、まずそれを知ってほしい。お気に入ること請け合いだ。手初めにわたしがあんこう料理をして、御賞味願いましょうか。冬がいささか待ち遠しいけれど。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「独歩」
1952(昭和27)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
2010年1月13日修正
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