安吾新日本風土記
第二回 富山の薬と越後の毒消し《富山県・新潟県の巻》
坂口安吾
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先月日向を旅行したとき、宮崎市内の鉄道沿線に「クスリは富山の広貫堂」という広告板を見た。富山の薬は販売員が各地の家庭を一々訪問して薬袋を預けて行く特別な商法であるが、南の果の日向にまでその行商の足がのびているのかと思うと、本拠地を訪問したい意欲がうごいたのである。
私もずいぶん富山の薬をのんだものだ。ちょッとした病気になる。壁や柱に富山の薬袋がぶらさがっているとつい飲むようになるのは人情だ。カゼ薬。よく胃痛腹痛をやったから熊の胆と赤玉。通算すれば相当の量をのんでいる。販売員が年に一度やってきて、袋をしらべ、薬をつめかえ、去年の代金を受けとって行くのも目になれた姿だった。そんなわけで富山の薬は私の生活史に浅からぬ因縁もあるものだから、戦争前にふと古本屋の店頭に「富山売薬業史資料集」という三冊つづきの本をみつけて、特別の必要があるわけでもないのに買いもとめたこともあった。もっとも先年税務署に本を持って行かれてしまったので、いまは手もとにない。
行商は商業の最も原始的な形態だ。現今でも押売りという行商が横行しているが、富山の薬は一風変っていて、代金は後廻しだ。まず薬袋を預けて行く。翌年見廻りにきて、のんだ分の代金をうけとって行くという仕組みである。代金後払いというところが一般の行商と類を異にしているから、どこの家庭でも押売りとは区別して考える。一つは歴史のせいもあろう。夏の金魚売りなぞと同じように、なくてはならぬ土地の風物化している親しさもあって、関東の農村では村々の入口に「押売りの村内立入りお断り」という高札がかかげてあるが、富山の薬売りと越後の毒消し売りは特別だ。毒消し売りは現金引き換えであるが、これもその歴史と、売り子が女という点に親しみがあるのであろう。毒消し売りはちょッとした美人系で、その伝説によっても名物化しているようだ。
私は越後の生れだ。ふるさとは書きづらいもので、よく云うぶんにはキリがないし、欠点は知りすぎているから悪く云うぶんにもキリがない。過不足なく見たり書くにはヤッカイなシロモノだ。だからこの仕事では敬して遠ざけていたのであったが、富山の薬と思いついた瞬間に、ついでに越後の毒消しもやるとふるさとが好便に処置できるということに気がついた。
越後の女はよく働く、と云われている。しかし、よく働く女は越後女とは限らない。日本ではどこの土地でも女が牛馬なみに働いているのである。
越後女の特例といえば、越後には農村にすらも芸者がいる。いわゆるダルマとはちがって、むろんその方の勤めもするが、立派に三味線も踊りもできる芸者である。そして越後の芸者は総じて「私は越後の生れです」ということを誇りとしているのである。他国では誰しも生れた土地で芸者や女郎にでたがらないものだ。ところが越後では土地の女でないと芸者や女郎のハバがきかない。親子代々芸者というのがザラであり誇りですらもあるのである。生れた土地で芸者にでるのが誇りやかである風さえなきにしもあらずである。
越後の聖山を弥彦山という。ここに一の宮弥彦神社がある。越後平野の中央、日本海の海岸に弥彦角田という一連の二ツの山が孤立している。この聖山の裏側、日本海に面した孤島のようなところが毒消しの本拠だ。また表側の越後平野に面して聖山をとりまく山麓の穀倉地帯が越後芸者の本拠、産地なのである。裏と表に毒消しと芸者の本拠地が土地の聖山のまわりを蟻の這いでる隙間もなく取りまいているのだ。越後の国は西蒲原郡という。越後獅子の本拠もここにある。歴史的に独特な越後はここだ。
「来月は富山の薬と越後の毒消しだよ」
と私は日向の高千穂の山奥の宿で宣言した。その高千穂にその日は氷雨が降っていた。冬の越路。私の聯想はいささか物悲しいものがあった。それがこの旅の発端だった。
しかし、この旅の終りは意外であった。読者にとっても、おそらくあまりにも意外であろう。私が北国の旅の終りで目にしたものが、日向に劣らぬ南国風景であったからだ。越後の国の人々すら、その土地の神秘については誰も知っていないのである。私は新潟へつくと、まず新聞社を訪れて、毒消し部落の所在地をきいた。私はほとんど知識がなかったからだ。この新聞の副社長は生ッ粋の新潟ッ子で、少年時代は私と甲乙ないぐらい悪名高いキカンボーで、土地の悪所や名物どころには掌をさすように通じている人物である。ところがこの先生も私の質問には目を白黒させて、
「毒消しはこれを一握りほどグッとのむとフツカヨイにはよくきくねえ。しかし、毒消しの本拠はどこだろうな。たぶん、巻だろう」
と云った。しかし、巻(西蒲原の元郡役所所在地)が毒消しの本拠でないことは私が心得ていた。
「それはちがうね。巻でないことだけは確かだよ。誰か知ってる人はいないかね」
「そうかなア。調べてみよう」
この新聞社きっての土地通、調査部長という人物が現れてようやく解決した。角田村というところであった。しかし、その村を見てきたという人物は誰もいなかった。土地の新聞がそうである。芸者の本拠地を訪れる人は多いが、その裏側の毒消し部落へ足をのばす人はいないのだ。むろんそこには宿屋もない。毒消しは日本の村々を訪れる渡り鳥だ。その鳥の巣は誰も知らない。人は渡り鳥の本拠へ旅行する必要がないのである。そして私がこの旅の終りに辿りついた渡り鳥の本拠は意外きわまるものであったが、旅の順序にしたがって、まず富山の薬から語りはじめることにしよう。
富山に七十いくつの製薬会社があるうちで、いまはもうこの反魂丹というものを造っているのは一二しかないそうだが、元来富山の薬は反魂丹という名であった。そもそもこの一ツで売りだしたものである。
私は反魂丹の名を落語できいていた。ちかごろ聞いたことがないが、高尾の幽霊が現れる話である。八サンの隣り長屋に住んでいる浪人者が夜な夜な美女とアイビキしているのを知って、八サンが浪人者を訪ねてワケをきくと、この美女実は高尾の幽霊だ。云い交した浪人者に操をたてて高尾は仙台公に殺される。ところが高尾が浪人者に与えた反魂丹があって、これを一粒火にくべると高尾の幽霊が現れて語り合うことができる。八サン話だけで信用しなかったが、しからば、というので浪人者が実演してみせる。一粒の反魂丹を火にくべると、煙の中から高尾が姿を現す。これを見て浪人者が「そちゃ女房高尾じゃないか」と芝居がかって云うところが良いところで、この落語の灸所なのである。高尾の幽霊は睦言を云ったあげく、魂かえす反魂丹残り少なになったからムダに使ってくだしゃんすな、と云って姿を消す。八サンびっくりして深夜に薬屋を叩き起して品定めのあげく万金丹を山の如くに買いこむ。死んだ女房お梅に会って語り合おうというわけだ。そこで一袋の万金丹を全部火にくべたが女房の幽霊が現れない。モウモウたる煙にめげず必死にバタバタ火を煽いでいると、裏で戸を叩く女の声がする。さては女房の幽霊め、あんまり煙たいから表をまわって来やがったな、と八サン大そうよろこんで裏戸をガラリとあけて、
「そちゃア女房お梅じゃないか」
「わたしゃ隣のお竹だがね、さっきからいぶっているのお前さんのウチじゃないかい」
というのがオチである。オチがよくできている。そちゃア女房お梅じゃないか、という気取った文句に、わたしゃ隣りのお竹だがね、という長屋言葉の対照と、お梅お竹の対照がいかにも巧みで、またオチが言葉の駄洒落でなく自然なのがよい。私はこのオチが好きであるから、したがってこの落語も大好きであり、魂かえす反魂丹、というものを忘れられずに記憶していたのである。中学生のころから忘れない落語であったが、この反魂丹というものがむかし実在し流行した富山の薬の実名だということは富山売薬史を読むまで知らなかった。してみると、この落語の作られたのは案外近年で、富山の反魂丹というものがすたれて売れなくなり、万金丹なぞだけがハバをきかすようになったころの作なのだろう。
富山の名薬反魂丹が世上に知られたのは富山城二代目前田正甫という殿様のときで、延宝年間のことだという。ざっと二百八十年ほどの歴史である。この殿様が江戸城へ出仕中、よその殿様が急病になって殿中で死にそうになった。そのとき富山の殿様がかねて懐中していた富山の名薬反魂丹をとりだして服用させたところたちまちよくなったので、諸大名からもとめられて諸国へ売りだすようになったものだそうだ。
しかし反魂丹の由来は、富山の家元松井家が宝暦九年に奉行所へ差上げた由緒書によると、富山本来のものではない。もとは備前岡山の医師浄閑が所持した薬だ。これを富山の者が製法の伝授をうけて帰国し、やがて殿様が愛用するようになって繁昌したに反し、本家本元岡山の方では亡びたという。
また一説では、泉州堺万代村の浄閑が岡山に移りすんで医を業として反魂丹を造り、のち子孫が富山へ移住して代々反魂丹を製造して今日に至ったという。とにかく富山の薬の製法はもと岡山であることには変りがない。もとより魂かえす反魂丹は落語のように幽霊を現す反魂丹の意味ではない。イノチをかえす反魂丹。このまま失われるには惜しい名称である。私が広貫堂でもらった記念の薬包みの一番底に反魂丹がはいっていた。奉書包みのようなちょッと物々しい包みでさすがに外形は歴史的な威風を示していたが、いまどきこういう骨董的な薬は、旅行者が富山ミヤゲに買ってく以外には注文がないそうで、熊の胆、赤玉も忘れられつつあるらしい。目下女工の流し作業で盛大に製産されているのはペニシリン軟膏とかサロメチールまがいの薬であり、高貴薬では六神丸以上にB12である。しかし最も売れるのはカゼ薬と鎮痛剤のケロリンだそうだ。私たちが富山を案内していただいた堀田善衞君のお母さんは、
「ケロリンはよくききますよ。あれだけは富山の人もみんなのんでいますね。私たちの同窓会でハンドバッグにケロリンいれてない人がなかったほどです」
と云った。「富山の人も──」というのは、富山の人はあんまり富山の薬をのんでませんという意味だ。もっとも富山の人が富山の薬をのまないのではなく、日本全体に富山の薬が行きわたっているとはいえ、薬全体の中で富山の薬がのまれている割合は何程のものでもない。富山の人が富山の薬をのまないのではなくて、彼らも全国なみにしか自分の薬をのんでいないという意味だ。それは富山の薬に限ったことではなく、各地の製品が自由に流通している今日に於ては、同じ現象はどの土地のどの製品についても云えることだ。したがって富山でケロリンがのまれているということは、全国的にケロリンがのまれているという意味でもある。しかし私は堀田君のお母さんの言葉だけでは信用していなかった。ケロリンがそんなにきくはずはないと思ったのだ。やっぱり土地ビイキのせいだろうと考えた。第一ケロリンという名前に私の感覚が反撥するのである。私もタメシにケロリンをのんでみたいと思ったが、薬屋へ行って「ケロリン下さい」と云ってみる勇気がなかったのである。私は旅から戻ると女房に云った。
「富山の薬じゃケロリンというのが一番売れるんだってさ。タメシにのんでみたいと思ったが、薬屋へ行って、まさかケロリン下さいとも云えないじゃないか」
すると女房が言下に答えた。
「ケロリンならウチにありますよ。私は毎日のんでるのよ。ほかに鎮痛剤もたくさんあるけど、これも、これも、これも(と茶ダンスの中から色々な鎮痛剤の箱をとりだして)みんなダメ。ケロリンが何よりきくのよ。皆さん、そう仰有るのよ」
女房というものは亭主の知らないうちに何をしているか見当がつかないものだ。毎日ケロリンをのんでいるとは知らなかったね。薬屋へ行って「ケロリン下さい」と云うにはよほどの度胸がいるものと思っていたのだが、女というものは実は大そう度胸のよい動物に相違ない。すくなくとも私の友達でケロリンのんでる男というのは一人もいませんね。男の方が見栄坊なのかも知れない。しかし、女のケロリン的実質主義というものはどうも肉体的な厭味があって妖怪じみているようだ。私は一生ケロリンをのまない。ケロリンに反魂丹という名をつけると私はのむかも知れない。売薬と迷信は同じようなものだ。
ケロリンのように富山の薬を人々が薬屋で買ってのむようになったのは、富山の薬業の進歩かどうか分らない。大方の薬業が経費の大半を広告に用いているときに、なんの宣伝も必要とせず、薬袋を配置して代金をとりたてに行くだけで営業できるというのは恵まれているのである。行商というといかにも原始的にきこえるけれども、見方によると、町の商店の営業と同じことで、御用聞きにまわって品物をおさめて掛け売りしているのと同じことだ。全国的に御用聞きにまわって掛け売りして、年に何回か代金を回収していると思えばよろしい。こう考えてみれば富山の薬の置き売りは普通の町の商店にくらべて、競争者がないだけ恵まれているわけだ。すくなくとも、御用聞きにまわる競争相手はないのである。これで商売が成功しなければどうかしていると考えなければならない。要するに、富山薬業の進歩発達という点で彼らが研究しなければならないことは、薬の研究以上に御用聞き商法の研究でなければならないわけだ。おしむらくは富山の御用聞きには有力な競争相手がないから(大和や岡山なぞにも薬の置き売りをしている業者があるそうだが、富山が脅威を感じるほど盛大なものではないそうだ)彼らはまだ自分の業態の真骨頂をはっきり掴んでいないようだ。御用聞きの教育、育成ということに主眼がおかれていないから、かほど有利な地盤をもちながら案外不振な業者がすくなくないのである。彼らは曰く、「どうも当節の売人(行商の売子のこと)はダメですよ。まるでアルバイトの心がけですからね。売人まかせじゃ商売ができませんよ」と。
売人(御用聞き)まかせだから有利であるはずの富山薬業が売人まかせのために不振をかこつというのは、根本が狂いはじめているせいだ。それは富山薬業が自分の本質を見失っているせいであろう。
私は富山へ行ってみるまで考えちがいをしていたのだが、行商人は製造業者が派遣しているのではないのである。中間に帳主というものがあるのだ。これが売り子を使っているのである。
つまり富山の製薬業者は置き売りには直接従事していない。帳主というのが製薬業者から薬を大量に仕入れるのである。そして売り子(売人もしくは配置員という)を使って全国を行商させる。もっとも帳主自身も行商に歩くのが多い。帳主の数は七千人であり、売人は一万二千人だそうだ。帳主の一番大きいので売人を五十人使っているそうだ。
売人は売掛帳というものを持って行商にでる。(写真参照)つまり何県何町の何某がいくら薬をのみ、その代金いくら受けとり、新たにしかじかの薬を袋につめかえてきた、という帳面である。この帳面の本当の所有主が帳主である。つまり御用聞きを使っている町の商店の旦那に当るわけだ。
帳主になるには非常に資本がいる。なぜなら、まず製薬業者から現金で大量に薬を仕入れなければならない。おまけにその仕入れた薬はその年には配置するばかりで翌年にならなければ現金にならないのである。おまけに翌年のはじめにはまだ去年配置した薬が現金にならないうちに再び大量に仕入れをして、これを売人が配置に歩いて、ようやく去年の代金を受けとってくるのである。つまりまる二年はでる一方で、二年目の終りにならなければ一年目の代金が戻ってこないのである。
これだけ資本がかかるから、この帳面は財産だ。富山に於ては田地と同じように財産で、この帳面が高額に売買されているのである。八十万売り上げのある帳面なら約三倍、二百万円ぐらいに取り引きされる。これを買って新しく帳主になった人は、その帳面を売子に持たせてその土地へ行商にやるわけだ。
ところが富山に製薬者、帳主、売人、と三ツあるうち、最も業態の不安定なのは帳主だそうだ。帳主はしょッちゅう変っているらしい。つまりお金持ちがひとつ薬もやってみようと考えて人の帳面を買って新しい帳主になる。ところが売人にいい加減にやられて失敗してしまう。帳面に資本をかけるだけで、売人の育成ということにこの商法の根本があることを忘れているからである。帳主自身が売人になって行商にでなければダメだと云われている。要するに帳主というものが無意味な存在なのであろう。
富山薬業の特色は宣伝費の代りに売人という御用聞きが全国の家庭と直結しているという点にあるのだ。もしも製薬業者が直接御用聞きを使っておって、この御用聞きが宣伝費の代りだと自覚しておれば、御用聞きの素質の向上に何より金も努力もかけ販路拡張につとめるに相違ない。しかるに中間に帳主というものがいてこれが御用聞きを使って商いをしているものだから、製薬業者は他国の製薬業者なみの宣伝や全国の薬屋への売りこみの方に心がけ、富山薬業本来の有利な地盤を忘れがちになっている。
売人が孤立してはただの行商人である。全国的に押し売りお断りの声やかましい当節、ともかく富山の薬売りはどの家庭でも木戸御免なのだ。つまり新聞やラジオと同じように、富山の売人は各家庭を訪れることができるのである。新聞やラジオと同じように、否、肉声で宣伝広告することができるばかりでなく、直接各家庭で店をひろげて見せることもできるのである。こういう特権にメーカー自身が着目しないというのは間の抜けた話ではないかと思う。
しかし富山ではこういう特権は忘れられようとしている。広貫堂の社長は、
「富山の薬業も近代化されまして、むろん富山本来の置き売りも大切にしなければなりませんが、近年は宣伝にも意を用いております」
反歴史的ということが近代化だと考えて、その方向に当然進まなければならないと考えている。進歩とはそういうものだときめているのだ。そして自分たちの売人というものが見本をもって直接各家庭を訪れることのできる宣伝兵器だということは見落している様子である。売人は各家庭の主婦の前で直接店を開いて効能を述べたてる宣伝カーでもありうるのだ。おそらく他の製薬業者にとってはヨダレのたれるところであろう。よその製薬業者というものは、もしも自分で直接各家庭を訪問できるなら、ただちに活動を開始したいに相違ない。なぜなら、私たち小説家のところへだけでも、各製薬業者からしッきりなしに新薬や流行薬の見本が送られてくるほどだからである。ところが富山のメーカーはわれわれに見本を送る必要もないのだ。彼らの売人は、人に厭がられずに、直接品物を持ってあらゆる家庭を訪問できる宣伝カーであり移動商店でありうるからだ。
しかし富山のメーカーと同じように富山の帳主や売人たちも、自分たちの特権についてはそれだけの自覚をもたない。彼らは自分たちの営業が旧式なものだと卑下しており、町内まわりの御用聞きを全国的にしたほどのものだという程度の積極的な見解すらも見出すことができないのである。
「薬が売れるのは都会です。農村では売れませんね。なぜなら、農村では薬をのむことを知らないからです」
と富山の売人はただこぼすのである。都会の人たちは薬について一応の知識がある。自分の病気を判断して薬を選んでのむことを知っており、その際富山の薬袋が自宅にあるのに気がつくと、その薬をのんでくれる可能性が多いというのである。ところが農村の人々は病気の時には薬をのむものだという習慣すらも持たないとこぼすのだ。
「広島県の国境にちかい山中に山県郡加計という寒村がありましてね。二十何年の昔になりますが、身の丈よりも高いような草を押しわけて私がその山奥まで売りこみに行ったものです。冬になると何尺も雪がつもるような山奥です。ところが寒いさかりの二月のことでしたが、農家に泊めてもらったところ、家のどこにもタタミというものがなく、板敷の上にムシロをたった一枚しいて、それが寝床なんですね。センベイのようなフトンを一枚ひッかけて寝るのです。これにはおどろきました。しかし日本の農村は概してそんなものです。薬どころではありません」
売人はこう嘆く。ところが私が東京へ戻って新聞をひらいてみると、朝鮮の怪飛行機着陸という記事があって、これがなんと広島県山県郡は加計という山中ではないか。積雪七尺とある。今でも寒い山中なのだ。朝鮮の怪飛行機と同じように富山の売人もそういう山中へでかけているのである。よその国の怪飛行機が着陸し、飛行士が民家に寝泊りして東京と往復しておって、それが半年間も世間に気がつかれないほど人跡まれな山中なのである。ともかく富山の売人は一応それほどの山中まで足をのばす努力は忘れていない。
「私は昔は北海道から青森の方を歩いていました。これは青森の農村での話ですが、宿屋がないので農家にたのんで泊めてもらったのです。ところがたまたま農家の主人がカゼをひいているのですね。カゼをひけばねて汗をだすのが普通ですが、ここの主人は冬だというのにわざと素ッ裸になっているのです。そして背中にはドテラをひッかけましてね。炉にカッカと火を焚いて、腹を突きだしてあぶっているのです。炉には湯がたぎっているものですから、大きなドンブリにお湯をついで、これに一つかみの味噌を入れて、しきりに飲んでいるのです。カゼの療法はこれに限ると云うのですよ。私が富山の薬売りだということを知っていながら、私の薬を一服買ってのもうなぞとは全然考えないのですからね。私を目の前において、そうなんですよ」
「そんな土地でもこりずに売りに歩くわけですね」
「そうなんですよ。こういう土地ではまた特別の薬が売れましてね。彼らはドブロクを密造してガブガブ飲んでるものですから、年中腹をこわしているのです。そこで下痢どめの神薬という薬がでるのです。それと万能薬の仁丹ですね。何病気でも仁丹で治してしまうのですよ。ですから農村では薬はダメなんです。とにかく薬をのんでくれるのは都会ですよ。知識が普及しているからです。病気を治すには薬を飲まなければならないと知っていてくれるからです」
病気には薬を飲むということを知っていてくれる限り、その人の家へ薬袋を預けておけば病気の時にその薬をのんでくれる。そこが富山のツケメだと云うのである。そこに細々と依存して命脈をつないでいるのが富山の売人というわけだ。積極的な組織や大資本を背景にした売りこみ作業はないのである。
つまりメーカーは近代化を志し、売人は骨董的にただ命脈をつなぎつつ各々孤立の道を歩きかけているのが富山薬業の現状である。そしてメーカーの近代化もタカの知れたものであるし、売人も当節は背広に靴のイデタチになったが、その新しい服装代を稼ぎだすのが精一パイというほどの業績であるらしい。商業のハツラツたる生気というものを感じることができなかったのである。すくなくとも富山本来の商法たる置き売りの業態には生気がなかった。薬九層倍の旺盛な商魂によって宣伝これつとめている他国の業者のめざましい生気にくらべて、シンは強いのかも知れないが、表情は暗い富山の行商の姿であった。
私が富山へ行った日は、この地方でも珍しい荒れであった。吹雪のために汽車もおくれたほどだ。終戦後、日本海は荒れることが少くなったそうだが、この日は海が大荒れで、私たちは伏木港外の雨晴という海岸へ義経の古蹟を見に行くはずであったが、海岸の路上に波がうちあげるために一時は通行ができなかった。その荒波がしずまりかけて、どうやら通行できるようになったころの風景がグラビヤにのせた日本海の写真である。
伏木港外の日本海だ。伏木は裏日本では新潟をしのぐ良港である。しかし北鮮や樺太との航路を失った現在では全然開店休業の寂しさで、港には一隻の船の姿も見出すことができない。その寂しさは新潟の港も同じことである。北鮮と樺太の航路がなければ用のない港なのだ。一隻も船の姿がなく、クレーンは動かず、人影すらもない港の風景というものは、まことにやりきれない寂しさに充されているものだ。満目死の色である。戦前は軽く六尺は積った雪が戦後は一尺すらも積らなくなったというが、それに反比例して生気の失われた裏日本であった。
「この旅行は侘しすぎるね」
私たちの旅の足は重かった。こうして重い足をひきずりながら、予定にしたがって越後の毒消し部落へ向ったのだが、気持は滅入るばかりで、明るさを考えることができなくなっていた。
「せめて食うことだね」
私たちはどの宿でも日本海の鱈場ガニを注文した。また鱈の子の吸物に舌つづみを打った。冬の裏日本は美食にみたされている。今晩はあれが食いたい、これが食いたいと、せめて私の考えているのは食べ物のことばかりであった。
毒消し部落についても私がきいた知識は暗いことばかりだ。新潟や巻できいたことばかりでなく、毒消し部落の村役場で村長さんから得た知識すら暗いことばかりなのである。
この角田村というのは全部が砂でできている。それも砂丘だ。海から一里余にわたって何段かの高い砂丘のヒダが角田村である。
しかし砂といえば、蒲原平野の大半がもともと砂でできたものなのだ。六百年前ほどの地図によると、いまの新潟市なぞは全然存在しておらぬのである。わずかに沼垂をのこして海は深く新津まで湾入している。それが六百年前だ。新津とあるから、新津も新出来の港で、もとの港はどこまで湾入していたか見当がつかない。この大きな湾が信濃川と阿賀之川の押しだす砂とまた海の押しもどす砂とで自然に埋めたてられたのが蒲原平野だ。角田村がその埋めたてられた西端に当っている。ここからは角田山で、古い越後のわけである。蒲原平野はこの六百年後に於ても時代時代で地図は大変動を示しており、それは信濃川、阿賀之川の二大河がぶつかりあっているためだ。時には河口が合流して長年月を経たこともあり、諸方に水溜りのような潟をのこして今日の蒲原平野をきずいたのである。
ここに私に一ツ見当がつかないのは千何百年の古い昔に沼垂に柵を築いたことである。六百年前の地図によっても沼垂は孤島のような突端で、どの方面の何を防ぐための柵なのか見当がつかないのだ。これは秋田市の海辺寄りにある能代の柵と地形的に近似しており、この地形からの解釈で古代史の謎がいくらか判じられるのではないかと思っている。
角田村の砂丘がいつごろできて、いつごろから人が住みつくようになったかは、今日では分らない。しかし、非常に高い砂丘だ。砂丘としては最高と云ってよいほど雄大な砂丘で、今では山の形のままテッペンまで水瓜畑やイモ畑である。これを二山ぐらい乗りこえて角田の部落へはいると、もう一ツ砂丘があっていよいよ日本海である。向うは佐渡だ。佐渡もこのあたりが本土との最短距離で、この村から海底電線が通じている。
村のほぼ全部が砂丘であるから、この村には現在でも水田が八十町歩しかない。昔は全然水田がなかったであろう。この八十町歩から現に二俵供出しているそうだが、供出は水田の所有者が個人的な所有量に応じて為すものであるから、むろん村人の多くは水田を所有しておらず、八十町歩を村人全体に割れば供出どころか二三ヵ月の食い扶持にしかならない。つまり村人は昔から百姓でありながら自分の食う米を作ることができなかった。エンエンたる大砂丘にとぼしい畑を耕しつつ、主食を買うか、買う金がなければ米を食わずに生きて行くか、どちらかの貧しい生活をしなければならなかったのである。
百姓ではどうしても生活がたたないために、村の女が毒消しという行商にでるようになった。この事情は今日でも同じである。米のない貧乏村。村長すらもそう説明する。百姓が今でも米を買って食わなきゃならないのですから、女が毒消し売らなければやってかれやしませんよ、と。
この村役場が部落の入口にあって、旅人が最初に見る建物が村役場なのだ。これがまた世にも汚いボロ建物で、一押しでつぶれそうなボロ小屋だ。だから村役場を訪問して村長の話をきいて、それで毒消し部落の事情がよく分りましたと戻ってしまえば、この旅人はとんでもない錯覚をしたことになるのである。なぜなら、この村全体でボロ小屋といえば、この役場と役場につづく小学校の建物だけなのだ。
部落の中へ踏みこむ。奥へ踏みこめば踏みこむほど、ものすごい。貧乏たらしいボロ小屋や貧しそうな農家なぞは見当らない。半数は農家という構えですらない。邸宅というべきだ。それらは門構えをもち、土蔵や倉をもち、石組みの塀をめぐらし、庄屋の屋敷かと思うのが無尽蔵に次から次へ現れ出でてくるのである。
これらの部落の周辺へ行くと、なるほど畑はいよいよ物悲しくなる。急斜面の砂丘までみんなキレイに耕して、食うために猫の額まで必死に畑にしているような悲しい村の歴史が感じられないことはないが、それは堂々たる邸宅まがいの農家がなければの話である。堂々たる民家の点在したそれらの傾面の畑はいわば美の境地である。金持の旦那方が人工の庭なぞでは物足りなくなって、砂丘の斜面を畑にして、その盆景を楽しみ味っている雅風の境地の如きものを感じさせる。(グラビヤ参照)一部の風景がそうではなくて、部落全体がそうなのだ。行けども行けども、ますますそうだ。煙草屋がある。農村の煙草屋ならば、煙草はせいぜいバットか新生だが、ここでは店頭に山とつまれているのがピースであり光である。
役場から三十分も歩いた部落のどんづまりに寺がある。山門に陽明門のような彫刻をほどこした、しかも落ちつきのある立派な寺。寒村の貧乏百姓に建てられる寺ではなく、成金の建てる寺でもない。何代かの裕福な生活がうちつづいた旦那衆の集まりが建てることのできる落着きのある寺である。寺の裏はもう海で、そこが部落の行きづまりであった。そして寺の角に毒消しの薬を製造している家があった。二人の年配の婦人が毒消しを製造している。(グラビヤ参照)この部落で私が見かけた唯一の工場だ。そこの主人は私たちを快く迎えてくれた。
「代々薬をおつくりですか」
「いえ。百二十年ぐらいのものです。いまの機械が明治二十二年に富山から買って用いはじめたと父が語っていましたが、その昔は手でまるめたものですね。以前は年に六トンつくっていましたが、いまは年に二トン」
五十五六の主人。初対面の私たちと百年の旧知のように隔てのない打ちとけた態度で、薪をくべ、茶をついでくれながらポツリポツリと語る。落ちついたものだ。客に対するという気取りもなければ、東京からの旅人と話をしているという特別の意識もまったく感じとることができない。つまりそういうことに意を用いる必要のない一生をすごしてきた落着きがひしひしと感じられるのである。
むろん他の村でなら堂々たる邸宅であるが、この村ではさしたる邸宅ではない。私は役場で、毒消し組合の組合長から聞いた言葉を思いだした。この村もちかごろゼイタクになってよほどの貧乏者でないと薪をたかないというのだ。みなみなイロリに炭をカッカとついでいるという。してみると、薪をたいているここの主人は、いまでは村では貧乏人の方なのかも知れない。組合長の話でも、毒消しの製造者が一番割が合わない商売だと云っていた。しかしこの主人は万事につけて態度にこだわりなく悠々たるものである。ただもう世俗の雑念をはなれたていである。
「このずッと奥に角海という部落があります。角田山と弥彦山の真裏に当る海岸で、そこへ行くには今でも道らしい道がない。木の根によじながら山をこえて行くようなところです。その部落に称名寺という寺があって、この寺が毒消しを造りはじめた元祖です。もとは角海の部落の者が毒消しを売ってたのですが、いまは角海の者はやらなくなって、角田の者だけが売りにでるのですね。そうさなア、今でも道のないような山の底の海岸だが、あそこには畑すら在りようがないのだし、角海の部落は昔は何をしていたのだろうね。大昔は海賊部落じゃなかろうかねえ」
主人は茶をついでくれながら静かに呟く。問わず語りである。私も全然浮世ばなれた気持になるばかりである。主人の問わず語りは静かにつづく。
「私のうちが庄屋をしていたものだから、ま、称名寺の檀家総代というわけで、毒消しの製法を教えてもらって、それで毒消しをつくるようになったらしいが、その称名寺はいまは角海にはありません。巻へ引越しております。この寺も二三年前まで毒消しをつくっていたが、いまはやめてるようです。だんだん毒消しをつくる者が少くなりますね。毒消しの歴史については伝説めいたものがあるばかりで、はッきりしたことは私は知りません」
超越した言葉である。その彼の口から、角海の部落はもとは海賊じゃアなかろうかねえ、ときたものだから、私も妖しい気持になって鳥ならば角海へ行きたいとひたすらに思った。同行の記者も同じ思いらしく、
「角海へ行ってみましょう」
と、すでに立ち上りかけたが、主人は静かに制して、
「とても、とても。いまでも道らしい道がないのです。ま、舟で行くより仕方がないが、冬の海ではそれもできません」
道らしい道がないということについては、私にも一ツ思い当る記憶があった。弥彦角田は越後の聖山であるから、小学生、中学生の修学旅行で一度は登山に行ったものだ。弥彦の方は山上にホコラがあって山頂が聖地になっているから立派な登山道があったが、角田山には道がなかった。山頂まで木の根にすがってよじ登らなければならなかった。一口に弥彦角田とよばれ親しまれている土地の聖山にして角田には登山道がなかったのだ。その山裏の角海の部落に道がないのも怪しむに足らないかもしれない。
称名寺というのは慶長初年に能登から辿りついた坊さんの開いた寺だ。もちろん角海にはすでに部落があった。それが昔は海賊部落かもしれないというわけだ。そこは砂丘の角田浜とちがって、山裏の古い古い土地であり、しかもその山は大彦の命を祀った古い社のある山だ。そしてその山際の寺泊のあたりが佐渡と結ぶ昔の舟路であったし、直江津から北へのぼるにも概ね海路を辿っていた往昔、ちょうどこの角海のあたりに海賊部落があったと考えるのはむしろ非常に適切だ。地理的に、地形的に、まさにその唯一のところという感さえする。この超越した主人の言葉は、非常に現実的でもあったのである。
毒消し部落も美人系という伝説がある。また弥彦角田をめぐる麓の村々はすべて美人系であり、越後美人の産地という伝説がある。しかし、この土地の人々はさらに云う。角海だけが特別だ、と。角海は別して美人系だというのである。
ともかく角海という部落は今でも昔ながらに往来の道すらもない置き残された土地であるが、昔はこのあたりが人里の元祖なのかも知れないのである。
つまり角田村は云うまでもなく、弥彦角田周辺の平野が概ね信濃川の土砂によって後年に至って土地をなし、後年に至って人々が移り住んだにひきかえ、角海にはそれ以前の太古から人間が住んでいたと考えられるからである。その理由として、慶長年間に称名寺というものが角海にできた。ところが、平野側の村々がこの道もない角海の称名寺の檀家になっており、角海の方が往昔に於ては文化の中心の観を呈しているのである。今日称名寺が巻へ引越したのも、そっちに檀家が多いからであった。この称名寺が毒消しをつくりはじめたのは初代の和尚からであり、つまり慶長年間からと伝えられている。今から三百五十年ほどの昔である。気候のよい季節に私は改めて角海に行ってみるつもりだ。この部落は今は石を切りだして生計をたてているそうだ。毒消し部落の旦那方はこの角海の石で塀を立てているのが少くない。
私もかなり日本の諸国を旅行した。しかしどれほど気候のよい南国に於ても、この北国の毒消し部落ほど裕福らしい農家がそろっているところは見たことがなかった。時は雪国の真冬であるというのに、私がこの部落でひしひしと感じたものは南国の情緒である。どこにも暗さがないのだ。村全体にはりつめているのは明るさだけだ。この村の貧乏のシンボルだという砂丘の斜面の畑までがただもう明るく爽やかな景観に見えるのだから仕方がない。
それというのも部落の家々の裕富そのものの建物のせいである。それを見るまでは、同じ砂丘の畑が雪国でも別して悲しい畑のようにしか目に映じなかったのである。ボロ小屋の役場で村長の話をきいてる時もそうだった。部落の奥へ踏みこみ、次々に現れてくる邸宅のような農家を見て、同じ砂丘の景観が一変してしまったのである。
このおびただしい邸宅がまだなかった昔、砂丘の畑があるだけだった昔はたしかに悲しい部落であったに相違ない。そして部落の女は否応なく毒消しの行商にでかけなければならなかったに相違ない。米を食うためにである。事の起りはそうであったに違いないが、今ではあまりにも違うのである。
毒消し売りの女が私に云った。
「毒消し売りの流行歌ね。あれ癪にさわるね。あれのおかげで町や村の子供たちが私たちをバカにして、毒消しいらんかネエ、なんてわいわい後を追ってくるし、大人は大人で歌を唄えば買ってやるなんて云いやがるさ。なんだこの野郎と思うわね。お金と友達だからジッと我慢しているろもね。こんげのボッコレ小屋に住んでるくせに威張るな。毒消しは売っていても、オレがくにへ帰ればオラトコには土蔵もあれば倉もあるがんだと思うわね」
腹立ちまぎれのせいで、終りの方は方言でまくしたてた。お金と友達だから我慢しているが、こんな破れ小屋に住んでるくせに威張るな、私がくにへ帰れば私のうちには土蔵も倉もあるわいという意味である。こんなタンカは誰しもちょッと切ってみたいであろうが、ざらに切れるタンカじゃない。われわれがくにへ帰ってみても土蔵も倉もないのだから、残念ながら仕様がなかろう。とにかくこういう村である。彼女らは土蔵も倉もあり、門構えもあって石の塀をめぐらした邸宅から毒消しを売りにでてくるのだ。
そして彼女らにとっては、毒消し売りの流行歌が彼女らの商売の宣伝になって好都合だというような考え方がまったく在り得ないのである。ただ口惜しいのだ。なぜならこの小さな部落から、十六七から四十五六までの女という女が一千人の余も毒消し売りに歩いている。出るべき女はすべて毒消し売りに出つくしてこれ以上商売のひろげようがないのであるし、彼女らの現在の商売は上乗でつまり土蔵も倉も建つ一方であり、流行歌なぞの宣伝はしてもらっても意味がないのだ。この村の心境ばかりは日本の常識で見当がつけられない。越後の西蒲原といえば小作争議発祥の地で日本一の貧農地帯であった。その中でも別して貧農の故に毒消しを売りにでた部落が今では日本で最も堂々たる邸宅のそろった村なのだ。そしていかなる南国といえども、これほど南国的な豊かさ明るさ爽やかさのみなぎる村は見ることができないのである。
富山の薬売りと越後の毒消し売りは表面似たようでありながら、内実は非常にちがっているのである。
まず富山の薬売りが薬だけ商うに反して、毒消し売りは毒消しが看板にすぎない。毒消し売りと称しながら他の物品を主として売り歩いているのである。大は反物、オムツカバー、メリヤスシャツの類からポマード、オシロイ等の化粧品、シャボン、ブラシ、鋏、ナイフ、ヘアピン等の日用品一切にわたって売り歩く。彼女らは自ら移動百貨店と称しているのである。
したがって、富山の薬のオトクイが都会地であるに反し、毒消しは農村専門だ。云うまでもなく商店で自由に物の買える都会地は彼女らの商売する余地がない。もっとも彼女らは都会地に合宿している。それは農村へ分散して往復するに交通の便がよいからで、つまり都会は合宿の拠点であるが商売する場所ではないのだ。
富山の薬売りは一泊三百円もだして商人宿へ泊るが、毒消しはそういうムダはしない。小さな一部屋を借りて何人かが下宿しているのが普通であるが、なかには小さな家を一軒持っていて、そこに十数名泊りこんで、年中そこを拠点にしている一団もある。
毒消し売りは年配の女が一団の隊長となっていて、これを親方とよんでいる。一人の親方には何名かの子供とよばれる弟子格の売り子が属している。これがそれぞれ隊をなして、各々の拠点にあるいは家をもち、あるいは下宿して連日行商に農村を往復するのである。だから生活費は安くつく。彼女らが土蔵や倉をたてることができるのも、モウケが莫大である理由のうちに生活費を格安にあげているのが含まれているわけだ。彼女らにとっては富山の薬売りが旅館を泊り歩いているのが驚きでもあり不可解でもあって、
「女はこまかいからね。土蔵や倉が建つのも女の強み」
と内実は甚しく自負している。彼女らにとっては男は眼中にない。彼女らは結婚して後も行商にでる。結婚したその年すらも、子供を生んだ直後ですらも、その場合には乳飲み子を連れて行商にでる。もっとも拠点まで連れては行くが昼は人にたのんで行商にでる。朝晩乳をやるだけだ。
昔は五月半ばに行商にでて十月には帰ったものだが、今では年中である。正月とお盆と四月と十月の村祭りに帰るだけで、村にいるのは通算して約二ヵ月。十ヵ月は行商にでているのだ。全員例外なくそうである。個人行動は許されない。むろん新婚の妻も古女房も例外ではなく、年に十ヵ月は旅にでているのである。常に団体をなして合宿しているのであるから身持ちの方は当然まちがいが少いが、なかには男をつくる女の場合がないでもない。女房の方が多いそうだ。それが亭主に分っても女の働きが大きいから亭主はジッと我慢するばかり、家庭不和が生じる例はほとんどないという話である。まさに平和なる村である。女が胸をさすってジッと我慢するうちは落第なのである。男がジッと我慢するようにならないと本当の平和は到来しないものなのである。なぜなら、女房がジッと我慢するのは破産型の平和で、土蔵や倉がたつどころか土蔵や倉がつぶれる平和であるに反し、亭主がジッと我慢する平和は土蔵や倉がたつ平和だからである。長の戦乱の最後にきたるべき世界平和のためには亭主は我慢をムネとしなければならないものだ。角田村の如くに。まさに毒消し村は世界平和のモデル村だ。
しかし彼女らにとって本当の男は自分の村の男だけだ。他国の男は男の中にははいらない。そのよい例が、彼女らは自分の村の男たちには決して毒消し売りの姿を見せないということだ。処女が裸体を男に見せたがらないよりも、もっと極端に商売姿を村の男に見せたがらないのだ。彼女らは村をでる時と、村へ戻ってくるときはパリッとした洋装にハイヒール、どこの姫君かとまごう姿で出発し、戻ってくるのだ。手には立派なハンドバッグをもってるだけだ。荷物一切は先に貨物で送りだして、いつも手ブラで、美しい姿で、村をでて、また村へ戻ってくる。
富山の薬売りにも昔は一定した姿があった。すくなくとも戦前まではまだ富山の一定した姿があったのである。しかし今では彼らは背広姿に変った。ところが毒消し売りの女たちは、村の男たちには死んでも見せたくないほどの商売姿でありながら、商売のためにはあくまでその姿を守らねばならぬことを知っている。毒消し売りの流行歌のおかげでよその子供にバカにされて後を追われるのもその商売姿のせいであると知りながらも、しかしこの姿を守らねばならぬことを身にしみて自覚しているのだ。「金と友達である」がためにである。「金と友達だから」というこの言葉は、部落でも指折りの優秀な親方で率いる子供も十五六人もいるという三十五六の姐御が実に平然と私に向って呟いた言葉なのである。
角田村では正月が一ト月おくれの二月である。私がこの村を訪れたのは一月半ばで、彼女らにとっては暮にあたる時であり、少しでもよけい稼いで帰りたい多忙な時期であった。もう十日もたてばドッと戻ってくるのだが、と組合長が帰村している毒消し売りを探すのに大そう苦労したほど村には女の姿が見当らなかった。それでもちょうど一日前に帰村した一組があって、それが私の懇願もだしがたく死んでも村では見せたくないという毒消し姿をしてくれたのだが(グラビヤ参照)、たまたま農閑期であるから、村の若者が五六人役場の一室で集りを催していた。この連中が異様に珍しそうに窓から首をだして私たちの撮影するのを眺めたから、たまらない。娘は本当にキャッという叫びをあげて、首の附け根から真ッ赤になってフラフラしたのである。私は娘の心根がいじらしいと思った。彼女にとってはこの村の男だけが本当の男なのだろう。私はそれをしみじみ感じたのである。今どき温泉へ行けば男に肌を見せるのをなんとも思わぬ娘たちの姿はいつでも見出すことができるのである。そういう時世にこの娘の逆上的な羞恥は、いじらしくもあれば、また異様になまめかしいものでもあったのである。
しかしさすがに千軍万馬の行商に胆をきたえてもいるから、撮影が終ると、再びポッとあからみながらも、男たちが首をつきだしている窓の下へツと駈け寄って、
「ポマードいらんかね」
と云った。男たちはポカンとしているだけで、このユーモアに応じることができなかったが、それもここが地上の終点的な平和郷であってみれば仕方がない。男が社交界に出入して洒落やユーモアをもてあそぶのは戦国時代の風習である。絶対の平和国家ともなれば、文化も貴族精神も女だけのものである。そしてまた毒消し部落の男たちの悠々たる無能ぶりはこれまた私なぞの遠く及ばざる見上げた風格に富んでいた。
この村の鎮守様というのが村の風格によく合っていて面白い。鳥の子神社というのである。
「鳥の子、つまり卵だね」
と村長が云った。
「卵が神様ですか」
「祭っている神様はアマテラスオオミカミ」
村長の御返事は川の流れのようにサラサラしたものであった。そして彼は川が笑うようにアハアハアハとひとり笑った。
「しかし、なんだね。この村では鳥も卵も食べてはいけないとなっているね。旅先では料理の中にちょッと見た目には分らぬように鳥や卵を使っているのがあるね。それを食べてあとで気がつくと、村へ手紙がくるね。卵を知らずに食べたから罰が当らぬように神様にあやまってくれと云ってね。アハアハアハ」
私は鳥の子神社を見物に行った。この神社はこの地のお寺に比べれば大そう小さかった。社殿のキザハシに奉納の石の雞がたくさん並んでいた。実物大の雞だ。イケニエのように見えた。ガラス箱をかぶせると、料理屋のショーウィンドのようなものだ。雞を食べてはいけないどころか、食慾をそそるような陳列ぶりであったのである。社殿の方向に直線をひくと、真うしろは角田山の山頂に当っていた。その原ッぱに焚き火をして雞の丸焼きが食いたくなるようなノンビリした風景だったのである。
娘が二人そのへんをぶらぶらしていた。大そう手もち無沙汰の恰好だ。彼女らも毒消し売りから帰ったばかりなのである。彼女らは私の商売と私が村を訪問した目的とを聞き知っていたらしく、チラと色っぽく私を睨んで、
「変なこと、書きなんなやア」
と云った。変なことを書きなさるな、という意味だ。普段着だからハイヒールははいていない。セーターにズボン。そして下駄ばき。垣根にもたれて、下駄で雞が地を蹴るように、砂をうしろへ蹴っていたのである。
毒消し部落は角田山の海寄りであるが、角田と弥彦をとりまく平野側には蟻のはいでる隙もなく新潟芸者の産地がギッシリたてこんでいるのである。その代表的なのが岩室と地蔵堂だ。そして芸者の産地にかこまれた山の手に良寛さまの住んでた部落もあるのである。新潟古町のミヤゲ物屋へ行くと、良寛さまの書いた木の額の模型が売られている。
天上
大風
という文句である。このあたり、たしかに地上は風静かである。天上は大騒動に相違ない。
地蔵堂の方は町であるが、岩室は村だ。小さな村である。それで芸者が七十人もいるのである。昔は「岩室のタンボ芸者」という言葉があった。
「お客がきたよオー」
と怒鳴ると、
「ハーイ」
と答えて、タンボに働いていた娘が野良からあがって着替えをしてお座敷へでたという伝説である。しかし、これは伝説であろうか。今だって、実はそんなものではないか。旅館の裏も芸者屋の裏も、見はるかす越後平野であり、また反対側は山である。チョロチョロと家並は百軒ばかりあるだけだ。グラビヤの巻頭写真は芸者屋の裏の畑で朝のお掃除中の半玉のたくまざる姿なのである。写真をとるために八九人の芸者をよんだ。タンボからあがってきたわけではなかったが、ま、同じようなものだ。
「生れは?」
「この村」
「お百姓?」
「床屋」
この村でなければ、隣りの村か、せいぜいそのまた隣の村ぐらい。新潟出身の女学校卒業の娘らしいと人が噂していた半玉がきたから、
「キミ、女学校出?」
「嘘らて。パーマネントの学校らがね」
どの子も率直そのものである。必らず方言で答えるから、方言の心得がないと意味が分らない。新潟では「た」を「ら」と発音するのである。
昭和のはじめごろまで、この岩室から半玉ででた娘の中で美しいのが新潟へよばれて一流の芸者になり、その中からまた新橋の一流がでるというように、ここは美人芸者の産地として名高かったのである。タンボからあがっていって一流になったわけだ。近ごろはここの芸者もここから動かなくなり、したがって天下の一流がここからでたということは絶えてきかなくなったそうだ。いま代表的という半玉を全部よんでみたが、美人というほどの美人はいなかった。ただ率直で、開放的で、気持がよかっただけである。このあたりの娘たちの開放性は、南国の、たとえば日向あたりの開放性とよく似ている。北と南は案外似ているのである。気取りがないのだ。
新潟県に限ってその土地の生れでないと芸者のハバがきかないのは、ちょッと面白い現象だ。あるいは貧乏のせいかも知れない。美しい娘はその土地で芸者にひろわれ、美しくない娘は他国へ働きにでなければならなかったような理由によって、土地で芸者にでられたということが選ばれた誇りになりえたのかも知れない。芸者に限って他国者はほとんど入りこむ余地がない。土地の女でなければ一流とは見なされないのだ。
しかし越後の農家が貧乏だというのも今ではガラリと変っている。貧乏どころではなくなったのだ。戦前の越後平野というものは、田地は少数の大地主の持物で、農民のほとんど全部が小作人であった。自分の農地を持たない百姓である。だから天下にこれぐらい貧乏な農村はなくて、農民の住居は荒壁のままの屋根に石をのせたもの、しかも小さくて、穴だらけで、よその農村の馬小屋よりもひどかったものである。ほとんど全農家がそんなものだった。ところが戦争中から一変した。戦後には農地解放となり、全農家が自作農になるに及んでさらに大変化が起った。もはや昔日のような(昔日といってもたった十年前の昔日だ)荒壁のままの馬小屋のような農家は完全に一軒も見出すことができない。みんな然るべき瓦屋根の壁も本式の農家を持つようになり、電気冷蔵庫やスクーター持ちの農家はザラだということだ。
終戦後、昭和二十三年ごろから雪国の冬の天候が一変した。それまでは十月なかばからシグレやミゾレが降りはじめて太陽を見ることができなくなり、やがてそのまま丈余の大雪になるのであったが、今では十一月十二月になっても太陽が照りつづき、一月十五日ごろからはじめて昔の冬模様になるようになったという。一月十五日ごろからはじめて雪を見るようになるのは関東平野でも同じことだ。山地ではさすがにそのころから二三メートルの積雪を見るが、海寄りの平地では十年前まで二三メートル積った雪がせいぜい一尺だという。つまり越後平野は一月十五日以後にせいぜい一尺の積雪を見るにすぎない程度となったのである。一尺の雪といえば東京だって年に一二度はそれぐらい積ることがあるのだ。関東平野も奥地の方はむしろ越後平野よりも寒いぐらいだ。
してみれば越後平野に二毛作をすることは可能のはずだと私は考えた。昔は秋のなかばから雨がずッと降りつづくので水田は湖水のように満々と水があふれ農民は小舟で稲の取り入れをしていたものだが、その雨が降らなくなったから冬の水田にも水がないのだ。二毛作の条件はそろっている。しかるに二毛作を試みている一段歩の試作すら見ることができないのである。なにか他に二毛作をはばむ悪条件があるのか、それとも農民が天候異変を一時的なものとあきらめて二毛作を断念しているのか、と私はいぶかしく思った。私はこの旅行で、なぜ二毛作ができないのか、それを調べてみる予定をたてていた。
私は農業の専門の学者に伺いをたててみるつもりにしていたが、そういう大先生にきくまでもなく、土地の人があっさり答えてくれたものである。
「二毛作はできますとも。ただ誰もやらないだけですよ」
「なぜ?」
「二毛作をやらなくとも生活が楽だからですよ。いや、むしろ、二毛作をやらない方が生活が楽だと内々考えているかも知れません。とにかく米が不足で統制されてるために百姓が裕福だということは彼らの身にしみていますから、主食の絶対量が不足めの方が自分たちの身のためだと踏んでるかも知れません。この土地は小作争議の本場で社会党の地盤だったものですが、同じ百姓がいまはどんどん自由党一辺倒に転向中ですからな。それに雪国の農民はナマケ者ですよ。楽に生活できれば二毛作なんぞ絶対やりはせんです」
越後平野では平野のマンナカへ農学校をつくるぐらい無意味なことはないそうだ。農地のマンナカにつくられた農学校は生徒がいなくてガラあきだというのである。
「農村から農学校へ行く者の何倍という数が遠い町の商業学校や工業や高校へ出ているのです。百姓が百姓の勉強して何になるかという考えです。百姓のことは百姓が知ってるものだ。学校で習う必要はない。改良なんぞクソくらえという考えですよ。越後の農村には商業学校をつくれば満員うたがいなしというものです。だから二毛作なんてえものは、百姓が元のように貧乏にならないと考えられないことなんです」
そして商業や工業を卒業しても、その方面へすぐ就職するというのは稀れで、たいがい家の手伝いをして農閑期にはブラブラしている。さて嫁をもらって一軒もつ年齢になるとはじめて慌てて就職さがしをやってみるが、その年齢ではおいそれと職がなく、それでも二男三男が労力を提供するかぎり現状では農家は一応生活にこまらない。二毛作をするまでもないというのである。
その反面に、芸者にでる娘の種はつきないのである。そしてその娘たちは天真ランマンで明るいのだ。これはいったいどういうわけだか、もう私には見当がつかない。この土地の伝統かな。土蔵も倉もありながら、年のうち十ヵ月も故郷をはなれて毒消し売りをする境地や伝統と同じものなのだろうか。たぶん同じようなものではないかと私は思う。新婚そうそうですら亭主と別れて年に十ヵ月の毒消し売りをする。しかも家には土蔵も倉もある。四十四五に至るまで人生の花やかな盛りを強いて孤独な行商につぶしてしまう根拠がいまでは全く失われているはずなのだ。越後平野の農家が荒壁の馬小屋作りから立派な瓦屋根に変ったといっても、とても、とても、毒消し部落の邸宅の足もとにも及ぶものではないのだ。その邸宅の女たちが一様に青春の全てを毒消しにつぶして平然たるものなのだ。それはまた越後の蒲原芸者の境地と通じるものであるかも知れない。ここまでくると、もはや俗物には見当がつかないと云うべきかも知れない。
良寛さまの曰く
天上
大風
である。
底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「中央公論 第七〇年第三号」中央公論社
1955(昭和30)年3月1日発行
初出:「中央公論 第七〇年第三号」中央公論社
1955(昭和30)年3月1日発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「《」(非常に小さい、2-67)と「》」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:砂場清隆
校正:塚本由紀
2014年11月14日作成
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