安吾新日本風土記
第一回 高千穂に冬雨ふれり《宮崎県の巻》
坂口安吾
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私たちが羽田をたつ日、東京は濃霧であった。私が東京で経験した最も深い霧。半マイルの視界がないと飛行機の離着陸ができないそうで、八時にでるはずの福岡直行便が十二時ちかくようやく飛びたった。しかし乗客一同出発をうながしたり怒ったりする者が一人もいなかったのはイノチの問題だからやむをえない。むろん私も怒らない。待合室で待っていられる私たちはむしろ幸福なのだ。着陸できない飛行機が何時間も上空を旋回している。さぞ辛いだろうなと思った。私はこのDC6型という飛行機で東京上空を旋回し、たった十分間で乗客全員がのびた経験があるのだ。半数以上ゲロをはいたものだった。
出発がおくれたので、宮崎行きの旅客機に乗りおくれ、汽車にもおくれて、その日は小倉で一泊しなければならなかった。こんな旅もまた面白いものだ。
私がこの仕事の第一回目に日向を選んだのは、旧友の中村地平君が宮崎の図書館長をしているからだ。本も借りられるし、土地の話も教えてもらえるし、こんな便利なことはないというわけで、一も二もなく日向にきめた。それに冬の旅は南に限る。
宮崎は小ヂンマリした明るい町。非常に道路の幅がひろいけれども、小ヂンマリという以外に言いようがないほど可愛いい町だ。私が小学生のころ、県庁所在地で市でないのが二つあった。宮崎と浦和だ。いまもってそんな感じの町。十二月中旬だったが、町の中に冬の気配が何一ツ見られない。図書館の前に県庁があった。県庁の庭に三百人ほどの自由労働者が赤旗をふってデモをやってる。神話の国へきていきなりデモにぶつかったのにはおどろいたが、さすがにノンビリしたもので、警官なぞ一名も出動していない。殺気だったところがなくて、南国はデモも明るかった。
日向は天孫降臨の伝説の地。しかし日向の高千穂町を主張する宮崎県と霧島山の高千穂峯を主張する鹿児島県とが高天原の本家争いをしているのでも分るように、伝説を史実化しようとするのが無理だ。伝説はこれを伝説だけのものとして受けとるのが健全だ。先祖の残した文化的遺産として軽く受けとれば足るのである。
伝説として受けとれば日向のそれは南国にふさわしい明るさにみちている。山の幸、海の幸の話。竜宮へ行って結婚する話。また十六歳の日本武尊が女装して熊襲を退治する話。この熊襲がいまわの言葉に、あなたのような強い人にははじめて会った。あなたの強さは日本一だからヤマトタケルと名のりなさいと云って死ぬ。いまの九州にもこういう無邪気な豪傑が居そうな感じではないか。
阿蘇から日向に入る古い道筋に高千穂の町がある。ここには岩戸村があったり、天の岩戸があったり、高天原も天安河原もみんな揃いすぎるほど揃っている。しかし実際に土地の神様と目される高千穂神社は一応祭神が神武天皇の兄三毛入野命となっているけれども、実際は土地の豪族高千穂太郎を祭ったものらしく、太郎の子孫は三田井姓を名のって後ながくこの地の首領となり今も高千穂の中心は三田井を地名としているのである。
日向の山間の村々には今も神楽を伝承し、それが彼らの主要な娯楽であること今も昔と変らない。その夜神楽は昔は三日三晩もつづいたものだそうだ。神楽歌には土地の人々も意味を知らない国籍不明の文句が多々あって、たとえばトウトウタラリトウタラリというようなのを河口慧海という人がチベット語だと云った。この説は眉ツバモノだと他のチベット学者の説もあって真偽は知らないが、高千穂神楽の日の舞いにはシバ荒神などというのが現れてなんとなく印度の荒れ神様との関連などを感じさせるものがあり、むかし神宮寺のあった地名をセ別当と云いならわしており、セの字に当る漢字は古老も知らない。高千穂神社の御神体は奈良朝以前の作とつたえられる素人の手づくりのような木彫で、女神の像は着物が左前であったり、ここには大陸から流れてきた流浪の遊芸人がかなり土着したのではないかと見られるフシがあるようだ。神楽と同じぐらい古いという熊襲踊りというのもある。
高千穂には穴居の土グモが住みついていたという。また熊襲は退治されるばかりで朝廷の味方になったという記事はないらしいが、大隅薩摩の隼人族は古い昔のころから朝廷に招かれて遊芸に奉仕しており、飛騨のタクミが大工の奉仕をするように遊芸を専門に招かれて演じていたのである。遊芸のダシモノが神話などにふれるのは当然であるから、大隅日向の遊芸人が天孫降臨の地を自分のふるさとの話として演じても不思議はない。天孫降臨の伝説が日向に結びついてしまったのは、案外こんなわけではないかと思うのである。
高千穂の人々はむしろ甚しく温和で素直で熊襲的な気風はないのである。熊襲的なところをあげれば三日三晩も夜神楽をぶッ通しで踊りぬく遊び好きなところと、色情に対して開放的な明るさであろう。神楽にも熊襲踊りにも交接を直接踊りにとりいれた痛快で陽気なものが少からぬ由で、見物衆が眠む気を催したり退屈を表しはじめるとちょいとその踊りを用い、また女子や子供にはそれをもって人生案内とし、彼らの人生が豊かであるように指導の役目を果しているのだそうだ。
「ヒエツキ唄」で有名な椎葉は高千穂から山越えして十八里の隣村であるが、ここは女の里として名高いところ。高千穂の若い衆は神楽など見せに行って椎葉の娘を見そめると、往復三十六里の山道を物ともせず夜道をいそいでランデブーに通うのは昔も今も変らぬ由。疲れるとその場にゴロ寝して休み、また道を急いで女のもとに通う。今も昔と変らずもっぱら山越えで、バスで通うような者はない。またバスではいったん海へでて別の谷川沿いにまた山中深くわけいるのだから歩く方が時間的にも早いぐらい。この土地の人々の生活は太古さながら、大自然さながらだ。椎葉では客人に娘を伽につけてもてなす風習が残っているのである。「ヒエツキ唄」は流行歌では哀調切々だが、実はアイビキの唄だ。男の合図がきこえるから馬に水をやるとごまかして男のところへ行きましょうという唄だ。土地の人々の唄い方では哀調よりも豪快なものの方が強くでている。高千穂にのこる「刈干切り唄」の方がむしろ哀調が高いが、これは唄い方がむずかしいからそのままでは流行歌になりそうもない。
往復三十六里の山道をアイビキに通う風習というものも日本ではスケールの大きいアイビキであろう。彼らは天性的に健脚なのである。彼らの農家は屋根に千木をつけている。これは熊本県の阿蘇山中の村々においてもそうであるが、彼らが本来このような住居をしていた種族と断じることは危険であろう。彼らにそのような住居を教えた人を想定することもできるからだ。彼らの気質は素直で温和であり、人の教えをよくきいて、そして自力で改良することを知らないようなノンキな風格があるように見える。体形は概して小柄で一見弱々しく、三十六里のアイビキや、夜通しの神楽や、開放的で豪快な色おどりなどは想像できないようなところがおもしろい。この神楽は高千穂ばかりでなく、日向の山中の部落には所々に行われているのである。
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天孫降臨や神武天皇の説話についてはこれを神話もしくは伝説という以上に云うべき筋合のことではないが、日向に豪族が住んでいたことはその多くの古墳群によって知ることができる。群馬県にも日向に劣らぬぐらい古墳が多くお隣りの足利にはいくつかの山々が全部小古墳でおおわれているような大密集地帯もあって、おしなべて諸国の多くが昔はそのようであったろうと私は考えているのだ。
大和朝廷の勢力が定まるまでは日本いたるところに豪族同士の争いや戦いが行われ、私の考えでは勝者は必ず敵の祖先の墓などをあばいて敵方の荘厳の絶滅をはかったに相違ないと思うのだ。三輪神社は山が御神体であるが、私はそこに大国主命の墓があって敵方に破壊されたのではないかと考える。大国主命が負けた神様であることからその想像をしてみるのだが、日本では山上墳がないと云われているけれども、飛騨にも日向にも山上の古墳はあるし、赤城山中にはヒツギ石という巨石があってここには明かにヒツギの字を用い、赤城神社の神様の墓の石だろうと土地の人々は云い伝えている。破壊された墓である。蘇我入鹿やエミシが巨大な墓をつくったことは分っているがそれは今日どこにも見ることができないことなぞによっても、負けた豪族の墓があばかれ破壊されてその種族の荘厳の絶滅がはかられたであろうことは考えられるであろう。私は諸国の山上に祭祀趾と伝えられる石組み様のものの中には破壊された古墳がかなり多いのではないかと考えているのである。たとえば信州なぞにはその国の伝説や歴史なぞから当然大古墳がなければならぬと思われるところにそれがないということも、信州が負けて亡ぼされた人の国であり、今日伝わるものが少いということが、むしろその帝国が相手にとって大敵だったアカシになるのではないかと考える。
その逆に、今日古墳群が数多く残っているところは勝った側の国であり、つまりは天皇家に関係のある国、天皇家に直接ではなくともその天皇家の功臣等に関係の深い国、そういうように見てとってよろしいのではなかろうか。今の日本に古い時代の古墳が見られないということは、勝ったり負けたりのうちに全部亡び、ちょうど野球の勝抜戦と同じように全部亡び、天皇家といえども勝ちのこる前には一再ならず負けたこともあって、大和朝廷の勢力が定まる前の全ての豪族の残した荘厳が全滅したのではないかと思う。
日向の古墳群はどうやら四五世紀をさかのぼることができないらしいが、そして大和の古墳群もそれ以上にさかのぼることができないらしいが、それが天皇家の勢力が定まった年代でもあって、そして日向が天皇家に浅からぬ関係があるであろうことは神話よりも古墳群が無事のこっていることで想定してよいのではないかと考えるのだ。
私のこの種の考え方は一文士のあまりにも文学的な歴史観にすぎないのだが、人間が為すであろうこと、行うであろうことの考察から歴史を考えてみることも、一つの試みとして有ってもよかろうと思うのである。
いったいに日向は山の国である。しかし古代の文化は洪水の難がないような山中からひらけてきたもので、神武天皇誕生の地と伝えられる狭野神社のあたり高原の地も、高千穂の村々もいずれも洪水の難がなく、しかし水利も悪くないようなわりに恵まれたところであり、それは大和の飛鳥などについても特に云えることであろう。
私が今度の九州旅行で呆れたのは、どこへ行っても水害のあとが生々しいことであった。高千穂へ行く道などは特にひどくて自動車は難行に難行したが、山奥の高千穂へくると、ここにはもう水害がない。田畑はいかにもみのりゆたかな感じで、それは高原の地についても同じであった。これらの山地では最高千二百ミリから千ミリの降雨があったそうだが、それでもさしたる被害はなかったという。めぐまれた土地なのだ。西都原古墳群のあたりも台地がつづき、ここは平野の中央に位しての台地だから相当な豪族が住んでいたのは当然で、気候から云っても日本で一等といってよいほど住みよい土地だ。私も中村地平君のようなノンキな仕事があれば日向へ土着したいと思ったほどである。
なんといっても、日向の旅では高千穂がおもしろかった。高天原の伝説のせいではなくて、そういう伝説の地に住んでいる人々の生態が独特のものであったからである。それは天孫とも関係がなければ、伝説中の熊襲にも似ておらぬからである。一番似ていることは流浪の遊芸人が土着したような面影である。
伝説による天皇家の家来の中で日向もしくはその附近の出の種族かも知れないと考えられるものに共通した一ツのことがあるのである。たとえば兵隊の久米部である。または夜間皇居を守ったという佐伯である。または遊芸に奉仕した隼人である。彼らに共通の一ツは身分は低いけれども皇居の守護とか遊芸とか料理人等に奉仕し、直接天皇の身辺のことに従事してその安危を支えるような奉仕についていることだ。しかも身分は低いのである。そして異形であり、しかし温和もしくは勇敢であるが忠誠で、その心ばえを愛されているのである。
この伝説は旅行者が日向の土地をふんでみると実感として感じられるからおもしろい。まさに熊襲の武勇も荒々しさもこの土地にはなくて、あるとすれば熊襲の愛嬌の方だけである。南国の開放的な色情が漲っているがそこに動物的なものが感じられず愛嬌と明るさと清潔さがむしろ感じられるのはそれが常に遊芸と結びついているからかも知れない。しかしまた伝説的に異形とマゴコロを愛され天皇の身辺に召されて奉仕したが、その身分は大そう低かったというような愛嬌が一貫して今も日向の地の性格をなしているからだ。
隼人も時に反逆したような史実はあるが、それは日向の性格ではないのである。熊襲踊りは怖ろしい熊襲の面をかぶって性交の身ぶりのあげくぶっ倒れ悶絶の様を示すような珍妙な踊りだそうであるが、それが日向では自嘲とかデカダンを感じさせず、純粋に人生の幸、生きることの幸を感じさせるところに明るさや大らかさや清潔さがにじみでてくるのかも知れない。しかも日向の男の感覚や神経は案外女性的で、開放的ではあるがデリケートであり、そんなところにも古い世からの遊芸人の血筋を見ることができるような気がするのだ。
高天原の伝説なぞというものはこういうノンキでクッタクのすくない連中が、いつのまにか自分のふるさとの伝説につくりあげてしまったばかりでなく、一々地名をつくりあわせ、天の岩戸をつくったり、念には念を入れて悦に入っていた連中の残した仕業のような気がするのだ。そういう風に人生をたのしむことにかけては邪念がなくて一生懸命の気風であり、要するに彼らは芸術家だ。そういう土地柄という感じである。
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私たちが宮崎から青島をへて鵜戸神宮にいたる間のタクシーには自動車会社がバスガールを同乗させて説明させてくれた。たぶん自慢のバスガールなのだろう。容姿も美しかったが、声も美しく、そして何より感心したことは、その説明の抑揚に案内口調のイヤ味が少いことであった。つまりそれはこのバスガール個人の特技ではなく、宮崎のバスガール全体がそういう説明の仕方を教えられていることになるわけだが、この県のバスガールがコンクールで全国の一等になったそうだが、それが当然とうなずけるほど、イヤ味の少い口調なのである。こういう口調を発明するということは困難なことでもあるし賞讃すべきことでもある。案内ガールの抑揚なぞというものは相場がきまっていて、たいてい中にはさむ唄かなんかで腕をきそい、口調の方を変えることは気がつかないのが自然であろう。ところが口調を自然に近いもの、イヤ味の少いものに変えた。こういうところにもこの土地の人々の音に対する敏感さ、また音楽とともに生きてきた歴史の古さが感じられるように思ったのである。
タクシーにバスガールをつけて廻っていたのは私たちだけではなかった。青島で三人づれがバスガールをつれて廻っているのを目撃したが、してみると宮崎では一般に行われていることかも知れない。こういうところも日向的なサービスぶりであるが、会社側に自信がなければやれない業であり、彼らは自分らの発明したバスガールの案内口調や文句が優秀であることをよほど自負しているもののようだ。しかしより以上自然な口調にもう一改良の余地はあるように思った。
日向の海岸は雄大で美しいが、鵜戸神宮が別して雄大だ。ウガヤフキアエズノミコトの誕生地と伝えられ、神社は海に面した岩窟の中にあるが、その中で誕生したとの伝え、ただしこれも本家を争う同類の洞窟が他にもいくつかあるようだ。この神様は神武天皇のお父さんと伝えられている。この神様は岩窟の中でワニから生れたことになっているのである。
この神様の誕生の話は美しい。山幸と海幸の兄弟が狩と漁の仕事を交換してやる話。そして兄の釣針をなくした弟が竜宮へつれて行かれて海神の娘と結婚し、ともに日向へ戻ってきてその娘がウガヤフキアエズノミコトを生むのであるが、産室をのぞいてみるとワニの姿でお産をしていたという話である。そのお産の岩窟が鵜戸神宮という伝えになっているのだが、風光は類を絶して雄大であり、いかにも伝説にふさわしいような美しく荒々しい幻想的な神社である。日向の伝説ではこのへんの物語が特に美しく私は好きであるが、神社の風光がいかにもそれにふさわしい点で日向では指折りの観光地と云えよう。日向の旅は神様の伝説地で食傷気味であり、それは概ね旅人を納得させるに力不足であるが、この神社だけは幻想的な伝説が風光の中に生きているのである。
そのうえ神社まで降りてゆく長い参道がちょうど江の島のように茶店が立ち並んでいて神宮なぞというモッタイぶったところがなく甚しく庶民的なのがよい。バスガールの説明によると、日向では結婚すると女房を鵜戸神宮へつれて行くのが習慣になっており、あの野郎まだ女房に鵜戸詣りをさせないと人に云われるのは男の大の恥となっているのだそうである。
その晩私たちは霧島の山麓高原の地まで車を急がせ神武天皇誕生の地という狭野神社の社務所に泊めてもらった。海辺の山々ではかなり高いところでもまだススキが一面に白い穂をうちふっているような南国日向であるが、奥地になるとさすがに寒く神社での夜明けは一面に霜がおりていた。
神武天皇についても神話もしくは伝説として受けとる以外に仕方がないものであるが、この地方の霧島の一峯たる高千穂峯にも高天原の伝説があり、ここと高千穂町とで高天原の本家争いをしたのは江戸の頃からであったらしい。そしてそれは明治初年にも大そうな論争になって文部省から役人が出張したりしたそうだが、伝説を史実とみての争いであるから両者にそれぞれ大きな無理があって、論争それ自身が日本の悲劇を物語るかのようである。ついには戦時に八紘一宇の塔というものができて宮崎は戦争中の聖地ともなった。
この塔が戦後には平和の塔と改称して八紘一宇の字をけずり、また四方に立つ四つの神像のうち武神の像をおろしたが、その工事中あやまって武神の首が落ち修理不能で今もってその像は姿を現すことができないことになってしまった。
鵜戸神宮が神々の伝説を幻想的な風光の中に生かし庶民の生活の中にも生き生きと息づいている大らかな様相にくらべて、強いて伝説を史実化したりすることの無理は伝説のもつ大らかな生命すらも殺してしまう。八紘一宇の塔が平和の塔に変り、それがまたぞろ八紘一宇の塔になりかねないような危なさ悲しさ。それは日向の悲しさではなくて明治の悲しさであり、日本の悲しさだ。
日向それ自身はもっと奔放で快活で明るくて無邪気である。高天原を諸方にでッちあげたのも日向の無邪気な土着民たちであったには相違ないが、その起りはきわめて軽く罪のないものであったろう。彼らのお家の芸たる神楽歌というものや遊芸吟唱のたぐいが朝廷に召され、そのダシモノが自然神話に結びつくことになって、神話の大物をオラがふるさとの物語に仕立てて唄ったり踊ったりするようになった。その無邪気な神話のとりいれは人々にも無邪気なものとして認容されいつか公認されるようになった。そのへんのところが日向神話発祥のイワレじゃないかなぞと私は想像しているのだが、それに合せて高天原や神陵なぞというものを銘々がつくった。銘々の部落に似たものがたくさんできたということも、それをつくった彼らの無邪気さ、ノンキさと見ることができようではないか。それを史実化しようという無理が日向の無邪気で大らかな説話を殺してしまい、そして日本を悲劇の国にしてしまったのだ。
阿蘇にちかい高千穂の町にしても、高千穂神社の祭神は高千穂太郎という郷土的な神であって、それがいわば高千穂族とでも云うべき日向山中の神楽を伝承する村々の本来の神であったことは、この山中へ来てみれば分ることだ。御神体(グラビヤ参照)は非常に古く奈良朝以前の作と考えられ、尚それよりも時代が古くてこわれたものもある由で、御神体なぞと云っても里人が勝手につくって奉納しただけのものではないかなぞと古老は考えているようだ。最も古いのは神社の縁の下にほおりこまれていて見るもムザンに朽ちているような有様であり、そういうものが昔は年々奉納されてあまり大事にもされず大方が縁の下あたりで朽ちて失われてしまったのではないかと土地の人々は考えている。そういう神がこの土地本来の神様だったのである。こういうようにノンビリした信仰や神をもっていたこの土地の人々が大和朝廷へ召されて遊芸を奉仕しているうちに、日本でも一番ありがたいような高天原の神様をオレの里の神様にしようじゃないかなぞと思いついて、お前の村がやるならオレの村でもというように似たものが所々にできた、そんなノドカな昔を考えてみることはできないであろうか。
この地方の神楽歌の場合でも国籍不明の意味の分らぬ歌も少い数ではなく主としてそれは卑猥な踊りの場合に歌われるものであるらしいのは、それが彼ら本来の言葉で、高貴の前でそれを歌うためには高貴な人に通用しない言葉で歌う必要があったからかも知れない。彼らが日本人になるとともに日常の言葉も日本語を用いるようになって彼ら本来の言葉は歌の形でだけ残った。そしてその意味も失われた。こういう見方も単に甚しく文学的な歴史観にすぎないのであるが、この地方ではこの意味不明の言葉も後世になって強いて日本語と結びつけようと試みられたことが多くその原形が甚だそこなわれたらしいのは残念だ。古く文献にのこった大和朝廷の神楽歌にその原形にちかいものが残っていると見てよかろう。土地の古老が採集したこの地の神楽歌の刷り物をもらってきたが、意味不明の言葉は土地土地で銘々勝手に変えてしまったような部分も多く原形の見当もつかないし、どれが正しいかも分らないと云う話であった。もっとも、この意味不明の言葉が彼ら本来の言葉ではないかということは私の想像にすぎないのである。
要するに太古から朝廷に召されて神楽歌その他の遊芸を奉仕したのがこの地の人々ではないかということは想像してみることもできるが、彼ら自身が天孫の血に関係があるということは想像の根拠になるような何物もない。屋根に千木をいただく農家に住んではいるがそれが彼ら本来の住居だと断ずる根拠もない。所詮神代のことは分らない。神話や伝説はそれを神話であり伝説であるとだけ受けとっておくのが何より健全というものだ。
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高千穂では竹の筒に酒を入れて焚火でわかして野天で酒をのむ。これをカッポ酒という。この肴には鶏の丸焼を主として用いるということだ。しかしカッポ酒というのは里人が常用するものではなく、土地の農家の人々が竹の筒に入れて焚火でわかして野良の休息にたのしむのは主としてお茶だということだ。カッポは酒よりもたしかにお茶に適しているようだ。野良の休息に酒をのむということも日常においては考えられず、土地の人々の常用するカッポがお茶だということの方がこの土地のノドカな風物にもふさわしい。もっとも夜神楽の時には猛烈に酒をのむそうであるが、それはカッポではないそうだ。ショーチューが主だということである。
カッポは竹の味が酒や茶にしみて独特の味をだすところに妙味があるということで、そのシーズンになると、客が遠い土地から集って国見の丘というところでカッポをやる。それで近ごろは竹も取りつくして大そう残り少くなってしまったそうだ。
私は鵜戸神宮の岩窟の中にチョロチョロと流れて溜っている神様の水をのんで以来猛烈に下痢をして弱っていた。それでカッポも一口しか味わうことができなかったが、観光客は国見の丘という風景のよいところでカッポ酒をのんで刈干切り唄という土地の唄を実演入りで聞くことになっているらしい。カヤを切りながら土地の農民が唄うもので椎葉のヒエツキ唄にやや似ているが、非常に唄い方がむずかしくて、バスガールもこれを唄うのが非常に困難な様子であった。
カッポ酒がいかに観光客にうけているかということは、この国見の丘という神話の地に大そう近代的な公衆便所ができていることで察せられたのである。その日の私は下痢で苦悶していたから便所が必需品なのだ。その公衆便所は高千穂町全体のうちでどの建物よりも近代建築といってよいぐらい。私はそこに便所の設備を見出して大そう感謝もし便利もしたが、四方の山また山の風景とあまりくいちがったものでもある。グラビヤの最初の写真はこの国見の丘から見おろした高千穂の長崎という部落の風景であるが、四方にこれに類似の山また山、そして屋根に千木をのせた小さな部落風景を見はるかす地に洋風の共同便所がチョコンと建っているのである。天孫降臨の説話を自分の土地にとりいれてしまったノンキな連中が、カッポ酒で商法をはじめるについて、国見の丘ともあろう山上にデンとコンクリの便所を構えた勇気の程と神をも怖れぬサービスぶりは痛快ではないか。かくの如くに日向の里人の神様信仰というものは首尾一貫を欠いている。多くの有りがたい神様を自分の里へ降りてきた神様に見立てて、天の岩戸だ、高天原だ、国見の丘だとせっせと聖地を仕立てながら、その聖地ともあろうところでカッポ酒をのませ小便をたれさせる。しかし、これがまさに神楽歌の精神でもあろう。神様が常に最も卑小な人間と同居し人間の生活と重なりあっている。最も卑小な人の生活と重なりあっている。神域を俗をはなれ不浄をたった聖地化しようとするような精神は明治までこの土地では見られなかったものらしく、宮崎神宮なぞが聖地化されたのも明治以後においてであり、天の岩戸で神々が笑いどよめいて、ストリップに打ち興じるようなところが、里人たちの神によせる愛であり、また神々に見出したおのれのふるさとでもあるわけだ。彼らは山上の聖地にデンと便所をかまえることなぞに不都合を感じるイワレを知らないのだろう。このノンキで大らかなのが高千穂族本来の精神というものなのだろう。この土地では飯干にコーロギという変った姓が多く、高天原伝説地の中にただ一ツ「コーロギ」という高天原説話に無関係らしい聖地のまじっているのが異様であるが、これが里人古来の聖地に当るのかも知れない。
ともかく天孫降臨の伝説の地に行って見いだすものは、八紘一宇の塔なぞとはおよそちがった大らかな平和郷と荒々しい熊襲や武神たちとは類のちがった温和で素直な住民たちとである。高天原伝説を史実に合せた窮屈さはここでも充満している如くであり、また事実その不合理も充満しているのであるが、その基盤をなしている里人の生活というものには窮屈も不合理も見ることができない。天真ランマンで温和でノンキであるというだけだ。
たとえば彼らの神楽に岩戸神楽というのもある。そして岩戸村もあれば天の岩戸神社もあって岩戸神楽ならば岩戸神社で演ずるのが何より適していそうなものであるが、そういうことは行われた例がないのである。彼らの神楽は必ず部落々々の農家を選んで行われる。彼らの祖先は朝廷に召されて神前で神楽を奉仕する例があったにも拘らず、神に神楽を奉仕するということが彼ら自身の生活としては全然行われていないのだ。岩戸神楽があり岩戸神社があってすらそうなのだ。神楽は彼らにとって人間同士の娯楽であり、またあわよくばそれによって美女の心をひき美女に愛されたいための必需品的なものなのだ。神楽の成り立ちから彼らにとってはそうであり神楽を神に奉仕するという観念は昔から一貫して欠けているのだ。こういう点についてみても、彼らが自分の村に所有している高天原や岩戸神社と実は精神的に結びついているものがないことが分るし、この村におけるそれらの聖地の発生というものが案外無邪気な理由からなんとなく出来上ったにすぎないものではないかということが察せられるのである。しかも彼らの生活にはそういう根本的な矛盾を合理化しようとし、旧来の習慣を変えて岩戸神社で神楽をしてみようというような無理な努力については考えられた跡もない。観光客へのサービスのために国見の丘という聖地にコンクリの便所を設けることにも一向に不都合を感じておらぬのである。心底から天真ランマンであるにすぎないのである。
私は残念ながら彼らの神楽を見ることができなかった。夜神楽は私の到着一日前に行われ、私の滞在中には日神楽だけが一ツの部落で行われていた。その部落には自動車が行かないので、彼らの脚で往復一時間歩かなければならないということであった。私がバスにのるにはあと二時間半しかなかった。私はまだ明るいうちに阿蘇山麓を熊本県へでたいと思っており車窓からの眺めに期待をもっていたのでそのバスに乗りおくれるわけにいかなかった。そのために、せっかく案内にきてくれた部落の若い人ともすげない別れ方をしなければならなくなってしまった。それは旅の終りであったし下痢もひどかったので私は疲れきってもいたのだ。往復一時間の山道というのがもう私には堪えられない状態であった。夜神楽を見ることができなかったこと、また熊襲踊りなぞも見る機会がなかったことは今でも残念でたまらない。しかし私が残念ながら神楽見物は中止にしようと云ったとき同行の記者三名はワッと歓声をあげてよろこびイソイソと自動車にバックを命じたのである。それほど彼らも疲れきっていたのだ。しかし予定のプランを完了したなかで一ツだけ不足があったということは寝ざめのわるいものである。
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さて日向に多いのは古墳群である。もっとも私はこれも古墳の多い群馬県に三年越し住んでいるのでそう驚きもしなかったが、群馬の古墳が大方盗掘されているのにくらべて、この地のものに盗掘のあとがほとんど見られないということに、この地方の特色を見ないわけにいかなかった。
持統天皇が天皇火葬のはじめとしてそれが仏教信仰のせいのように云われているが、天皇の詔をよむと決してそうでないことが分るのである。天皇は女帝である。そのころ山陵というものは葬って一、二年もたたないうちに盗掘されてしまう。葬って一、二年といえばまだ白骨にもならず肉は腐っているかも知れない。そういう醜いものを人に見られるのはイヤだから、というのが天皇が火葬を選んだ本当の原因のようである。
大和朝廷の勢力がどうやら定まりはじめた当時において、山陵はすでにそういう危険にさらされていたのである。天皇の陵ともなれば副葬品も一財産であろうから、盗人にとっては大仕事というわけだ。盗むなら品物のいたまぬ早いうち人に盗まれぬ早いうちがよいことは当然だから、泥棒も仕事を急いだであろう。
日向の古墳がほとんど盗掘されていないということは、日向が盗人の手のとどかない田舎だからという理由だけではすまされないように思われる。日向は南国でわりあい物資にめぐまれているかも知れないが、とにかく日本には万人が泥棒せずにすむような本当に豊かな土地というものはないのである。そして時間というものはおのずから全てを変えるものなのだ。山陵の山林は焚木に好適なものであるし、山林をとりはらえば古墳のゆるやかな山の形そのままで畑にすることもできる。それが時間というものである。その時間の魔手も盗人の魔手も日向の古墳にだけは及ばなかったということは、やはりそこに神々の土地という伝説があってそれが支えとなっておのずから郷土がまもられてきた、またおのずから郷土をまもってきた、そのはたらきと認めるのが至当ではないかと思う。
しかし日向の人々がわがふるさとを神々の土地として愛し護ってきた在り方というものは今日の日向が聖域として俗をたち伊勢の聖域のようにまもられようとしているのに比べて、彼らのウブスナ、むしろ彼ら人間と表裏をなす神格として親しまれるような愛され方であり、それは鵜戸神宮などの俗に徹した信仰の在り方なぞによく表されている。参道の茶店の婆さんたちはよその土地のパンパンのタックルと同じぐらいの勢いでつかみかからんばかり、あるいは哀願して泣訴のおもかげあるものもあり、だいたい日向もはずれのこの鵜戸の地にこれだけの茶店が参道に並ぶというのが意外なことだ。大都会を近隣にひかえた江の島や日光などとちがって鵜戸は主として他県にまして人口のすくない郷土の信仰にまもられなければならないはずだが、それがともかく天下に名高い観光地青島と同じぐらい茶店が並んでいるのである。青島ならば宮崎から三十分の時間だが、鵜戸となるとそう簡単には参らない。元来土地の信仰だけでまもられてきたところなのである。
茶店の婆さんの哀願泣訴のいたいたしさに私は一ツの日向を見た思いがした。パンパンなみのタックルもやりかねまじいすさまじさ。どの土地のどのような人間でも、生きるためには同じことをしなければならないのである。鵜戸の豪快な神話と風光の中においてもそうなのだ。日向のノンキな熊襲族でも生きるためには婆さんがパンパンなみに客引きせざるを得なくなるのである。
要するに生活の条件は全国おしなべて同じことなのだが、日向の古墳だけが盗掘されなかったということは、生活の条件をこえた神話の支えがあったということ、私は結局その力を感ぜざるを得なかったのである。
しかし日向の古墳群は土地の人々が過大に考えているほど日本に類の少いものではない。群馬県では土地の人々があまり関心をもたないけれども日向に匹敵できるぐらい相当な古墳が散在しており数も少くない。お隣りの足利では私が去年山上の日当りのよい土地を借りて、小さなイオリをつくろうかと思った。地主はお寺であった。案内されて行ってみると、私のイオリの庭になるはずの空地に七ツの古墳がはいることになるのである。むろん盗掘されていて古墳の台帳みたいなものにも盗掘ずみと記録のあるものではあったが、ともかく古墳をくずすわけにはいかないし、七ツの古墳にかこまれてデコボコの中にイオリをつくっても心気爽快になりそうもないからそこへ移住することはとりやめにしたのである。これらの土地では古墳なぞというものをあまり念頭においていない。そして住民の多くはあまり自分の土地を知らないし、多少心得のある百姓たちがさかんに盗掘するのである。古墳から何かがでるということは彼らが自然に知ることであるから、足利の毛利田というところの大集団古墳では戦争中に誰かがすっかり掘り荒してしまったと土地の人が云っていた。キノコがりなどのついでに古墳がりもしてくるのだそうだ。焚木びろいのついでに古墳びろいもしてくるのである。
日向と群馬のあたりではやはりそれだけのちがいがある。その違いの最大なものは要するに神話の支えだ。群馬には神話や土地の歴史の支えが住民たちの心にないのである。そして全国有数の古墳群をもちながら、それが全国有数のものだということについてすらも関心をもとうとしない。それもまた土地柄でそれだけ独特の土地風があって一概に甲乙はつけがたいが、日向の人々が自分たちの古墳群を過大に考えすぎるのにくらべて、群馬の人々が全然古墳なぞ念頭におかないのはおもしろい対照である。
日向の諸地方を旅行すると、たとえば神武天皇生誕の地とつたえられる狭野神社の宮司は、あいにくこのあたりには古墳が少いので、と云って残念がっておったし、また高千穂の町では、この山中には古墳がたくさんあります、この奥の米良にも集団的にあります、と云って威張っていた。とにかく自分の村に古墳があるかないかということが自慢のタネになるという土地風は珍しい。私がそれを訊いたわけではないのに、彼らのお国自慢が自然そこへ行くのである。もっともそれは古来からのことではないらしい。大正初年に日向の古墳群の大調査があって、考古学的に歴史を大修正をするような方法が確立した。その影響が土地の自慢、再評価ということになって宿の客ひきまでがおらが村の古墳の自慢をすることになったらしいが、しかしその素地は日向古来のものなのだ。たとえば群馬なぞではどんなに古墳の調査が行われてもそんな気風が新しく現れる見込みはないのである。要するに日向は神話の国だ。
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私のような碁好きな者にとっては日向はなつかしい国なのである。碁盤の最上のものはカヤの木でつくられる。カヤの大木というものは少いものだが、その産地が日向の小林の奥だ。また碁石の最良のものは日向蛤に那智黒と云って、白石が日向の蛤でつくられ、黒石が那智の黒石でつくられる。日向の日向市のあたり、伊勢ガ浜というところでこの白石がつくられているのである。大きな工場というものはなく、家庭工業で、大きな蛤を筒でくりぬく。自動車の窓からその作業の風景が見えたが、私にとっては懐しいものであった。
最良のカヤ盤と白石。神話の国には大そうピッタリした産物だが、もっとも神様や昔の天皇がそういうものを使っていたわけではない。正倉院御物でも見られるように昔は盤も石も鉱石宝石の類いであったらしい。しかし私が面白いと思うのはカヤ盤の発見はとにかくとして、白石を蛤でつくりだした誰かの独創である。こういう独創というものはラムネのタマを発明した人や、コンニャクをはじめて作ったり食ったりした人と同じぐらいバカバカしくてなつかしいものだ。こういう独創的な大人物の名前などはいかなる本にもとどまるはずがないものだが、その独創は長く後世に生きのこり、恐らく数千数万年のイノチをもって尚つきることを知らないのかも知れないのだが、これがまことの文化というものなのだろう。
この蛤の碁石がいつか日向蛤というものに定着したのはどういう次第か知らないが、たぶん大きな蛤が日向に多いせいかも知れない。蛤というものは食物だ。厚さ四分五分という碁石がとれるような蛤ならよほど大きいに相違なく、貝殻を碁石にすれば当然その肉は食べなければならないわけで、私はその大蛤を食ってみたいと思っていたのだが、あいにくの下痢で諦めなければならなかった。
日向では土地の人が見せたがるものよりも忘れているものの方に心をひかれるものが多い。たとえば大蛤の場合にはその肉がどうなっているのだろう、うまい料理を発明して食わせる人がいないのかなぞということが大そう旅人の気懸りになるのである。神様の場合でもそうだ。土地の人が見せたがる神々よりも高千穂太郎なぞが心をひかれるのである。それというのも、土地の本当のイノチというものがその方に籠っているからに相違ない。
いったいに九州は駅弁がすばらしいところで、私たちは駅弁を食うのが楽しみであった。宮崎県内を自動車で走りながらも中食は駅弁を買って食うのを楽しみにしていたものだが、山中へはいると旅館が土地の食べ物を食べさせてくれないので残念だった。こういう特色のある土地ではその土地の人たちが日常たべているものを食べさせてくれるのが何よりのサービスだ。高千穂の山中へ行って都会なみの料理を食いたいとは誰も考えていないのだ。土地の人が食べあいている平凡なものが実は旅行者をよろこばせるものである。こういうところに私は一つの日向の気風を見るのである。自分たちが日常たべたり行ったりしているような平凡なそしてイノチのこもったものに対外的な価値を見出すことを知らないのである。そして神様は高天原の神様でなければいけないことになってしまい、高千穂太郎の御神体は縁の下に朽ちてしまうのである。しかしそのような気風に、日向山中の人々の歴史が語られているのかも知れない。温和で素直で陽気な漂泊芸人の歴史が。
私は日向山中で彼らの独特の顔を見ることができないかとそれを甚だ期待していたのであったが、そういう特別な顔は見出すことができなかった。私を案内してくれた町の人は土地生粋の人で母方は椎葉の方の人だと云っていたが、その顔は群馬あたりでもざらに見ることのできるタイプであった。概して高千穂の人々は山中の人たち同士で血族結婚的になりやすいので、純粋の顔が残りやすいはずであるが、実は日本のどこにも見かける顔が主であった。
この山中ですら独特の顔を見ることができないほど日本全土に顔が交流しているということは、私にとっては力強い発見でもあった。こんなことも日本の歴史を見る目の基礎として重要な一ツだろうと思ったのだ。独特な顔はむしろ思わぬひらけたところにたとえば練馬のような東京近郊に小区域があったりするが、日本の顔はおしなべてほぼ完全な交流を経てきていると見てよいようだ。私は今後の旅行にも人間の顔には特に注意を怠らぬつもりであるが、日向ではむしろ海手の方に日向的な顔がのこっているようだった。しかし日向的な顔というものも、大きく云えば九州的な顔として総括できるものであるし、それはまた日本的な顔として他にその類似を認めることもできるものだ。
私たちが高千穂を出発するとき、この旅行ではじめての雨がふりだしていた。山中であるから、雨がふるとさすがに寒い。私は下痢で悩んでいたので、熊本まで五時間のバスの中で便意を催したらどうしたらいいのかと人に云えない苦労のために意気銷沈していたのである。
「阿蘇の方では雪かも知れません」
雨中にバスまで見送ってくれた古老が云った。私はこのへんでも雪という言葉があるということに──それは当然なことであるにも拘らず、ふと胸をつかれたのである。私の生れたところは雪国だ。雪、雪、雪。いつも暗い冬空。しかし、ふと雪の言葉で気がつくと雨の高千穂も暗いのだ。空も暗い。山も暗い。町も暗い。人顔もやっぱり暗い。日向の明るさというものも、空がくもって冬雨がふると、やっぱり暗くなるのだなという単純な事実に降参したような気持であった。人間の小ささ、哀れさがつくづくせつなかったのだ。
バスは雨の中を走りつづけ、やがて山中で濃霧になった。
「カーブの標識が全然見えない」
運転手は苦悶の呻きを発した。彼は必死であった。私は濃霧にはじまって濃霧に終ったこの旅行が、高千穂の地の宿命かも知れないと思ったりしたのだ。霧のはれまはあるが、霧のはれまに昔ながらの自分を見出して安堵することが宿命の人々。霧がふり、霧がはれ、もとの自分を見出して一生を子孫につないできた温和で素直な漂泊の遊芸人たち。まだ車窓に見ることのできる屋根に千木をいただいた家々が非常に物悲しいものに映じたのであった。
底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「中央公論 第七〇年第二号」中央公論社
1955(昭和30)年2月1日発行
初出:「中央公論 第七〇年第二号」中央公論社
1955(昭和30)年2月1日発行
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入力:砂場清隆
校正:塚本由紀
2014年11月14日作成
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