農民文化といふこと
有島武郎



 農民文化に就て話せといふことですが、私は文化といふ言葉に就いてさへ、ある疑ひを持つてゐるのでありまして、所謂今日文化と云はれてゐるのは、極く小数の人が享受してゐるに過ぎないのであつて、大多数者には何等及ぼす処の無いものであります。殊に農民文化と云ふに至つては、断然無いと云はなければならぬと思ひます。今日農民のおかれてゐる悲惨な境遇に、どうして文化などを生む余裕があり得ませう。


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 話は横道へ入るかも知れませぬが、農民に文化が無いと云ふのは、農民に文化を生む力が無いと云ふのとは自づと意味が異りまして、只今日の文化に何等交渉をもたないと云ふまでゝあります。真の文化と云ふものは、人類的なものでなくてはならぬのですが、今日のそれは一部の独占的なものに過ぎないのであります。そこで今日は真の文化と云ふものを大いに普及する必要があるのですが、これまた一朝一夕に容易になし得る事業ではありませぬ。理論的に云つても実際的に云つても、深く突き進んで行けば行く程難関があつて、終極は現在の社会制度、社会生活の欠陥に突き当るのであります。


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 然らば社会制度の欠陥とは何か、それは近代の社会思想家達の指摘した如く、資本の私有と云ふ誤れる制度に帰すると思ひます。この当然に共有であらねばならぬ筈の資本が、私有されるやうになり、それがために種々の弊害が生じて、当然人類的に進むべき筈の文化が、今日の如き変態的な姿となつて現れるやうになつたのであります。ですからこの制度を改めるに非ずんば、千万言を費しても文化の普及と云ふことは駄目であります。勿論其時代を迎へずして農民文化の問題を取扱ふと云ふことは、早計たるを免れませぬ。


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 ではこの私有財産制度から、如何にして解放せらるべきかと云ふことが問題でありますが、これは先づ私達が機械化された生活から自由を囘復しなくてはなりませぬ。自由の囘復と云ふことは容易なことでなく、それは多くの学者や実際家が各自に究めようとしてゐる処で、私共門外漢には正しい解決は困難であります。けれども兎に角今日の私有制度を滅さねばならぬと云ふこと丈けは云ひ得ると思ひます。


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 この私有制度を滅すに就ては、漸進的解放と、急進的革命の二つの方法があると思ひますが、漸進的にしろ、急進的にしろ、自由は与へられた処に獲得し得るものではなく、掴得する処に与へられるものであります。恩恵的に与へられる処に自由はなく、自ら掴得する処に真の自由があるのであります。急進主義者にはこれはよく解つてゐるのでありますが、漸進主義者の間にはこれが解らず往々恩情主義だとか、協調主義だとか云つて、無意義な政策に骨を折る人があります。例へ漸進主義的方法を採用するにしても、恩情的に文化を或は自由を与へようとするやうなことなく自由を持たざる人が自己に目醒めて、進んで自由を掴得したいと頭を擡げて来た時に、その気勢を看取して、それに充分の力を添へてやると云ふ方法を採ることが大切であると思ひます。

 斯くして私有制度を滅して後、初めて人類的な文化に到達し得るのであつて、農民文化と云ふものもつまり其時に於て始めて建設されるのでありますから、今日農民文化を云々すると云ふことは当を得ざる云分であらうと思ひます。(述)

(『文化生活の基礎』大正十二年六月)

底本:「有島武郎全集第九卷」筑摩書房

   1981(昭和56)年430日初版発行

   2002(平成14)年210日初版第3刷発行

初出:「文化生活の基礎 第三卷第六號(六月號)」

   1923(大正12)年61日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。

※「やう」と「よう」の混用は、底本のままとしました。

入力:mono

校正:田中敬三

2009年1020日作成

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