お末の死
有島武郎
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お末はその頃誰から習ひ覚えたともなく、不景気と云ふ言葉を云ひ〳〵した。
「何しろ不景気だから、兄さんも困つてるんだよ。おまけに四月から九月までにお葬式を四つも出したんだもの」
お末は朋輩にこんな物の云ひ方をした。十四の小娘の云ひ草としては、小ましやくれて居るけれども、仮面に似た平べつたい、而して少し中のしやくれた顔を見ると、側で聞いて居る人は思はずほゝゑませられてしまつた。
お末には不景気と云ふ言葉の意味は、固よりはつきりは判つて居なかつた。唯その界隈では、誰でも顔さへ合はせれば、さう挨拶しあふので、お末にもそんな事を云ふのが時宜にかなつた事のやうに思ひなされて居たのだつた。尤もこの頃は、あのこつ〳〵と丹念に働く兄の鶴吉の顔にも快からぬ黒ずんだ影が浮んだ。それが晩飯の後までも取れずにこびりついて居る事があるし、流元で働く母がてつくひ(魚の名)のあらを側にどけたのを、黒にやるんだなと思つて居ると又考へ直したらしく、それを一緒に鍋に入れて煮てしまふのを見た事もあつた。さう云ふ時にお末は何だか淋しいやうな、後から追ひ迫るものでもあるやうな気持にはなつた。なつたけれども、それと不景気としつかり結び附ける程の痛ましさは、まだ持つて居よう筈がない。
お末の家で四月から追つかけ〳〵死に続いた人達の真先きに立つたのは、長病ひをした父だつた。一年半も半身不随になつて、どつと臥つたなりであつたから、小さな床屋の世帯としては、手にあまる重荷だつた。長命をさせたいのは山々だけれども、齢も齢だし、あの体では所在もないし、手と云つてはねつから届かないんだから、あゝして生きてゐるのが却つて因業だと、兄は来る客ごとにお世辞の一つのやうに云ひ慣はして居た。極く一克な質で尊大で家一杯ひろがつて我儘を通して居た習慣が、病みついてからは更に募つて、家のものに一日三界あたり散らすので、末の弟の哲と云ふのなぞは、何時ぞや母の云つた悪口をそのまゝに、父の面前で「やい父つちやんの鼻つまみ」とからかつたりした。病人はそれを聞くと病気も忘れて床の上で跳り上つた。果てはその荒んだ気分が家中に伝はつて、互に睨み合ふやうな一日が過ごされたりした。それでも父が居なくなると、家の中は楔がゆるんだやうになつた。どうかして、思ひ切り引きちぎつてやりたいやうな、気をいら〳〵させる喘息の声も、無くなつて見るとお末には物足りなかつた。父の背中をもう一度さすつてやりたかつた。大地こそ雪解の悪路なれ、からつと晴れ渡つた青空は、気持よくぬくまつて、いくつかの凧が窓のやうにあちこちに嵌められて居る或る日の午後に、父の死骸は小さな店先から担ぎ出された。
その次に亡くなつたのは二番目の兄だつた。ひねくれる事さへ出来ない位、気も体も力のない十九になる若者で、お末にはこの兄の家に居る時と居ない時とが判らない位だつた。遊び過ごしたりして小言を待ち設けながら敷居を跨ぐ時なぞには殊に、誰と誰とが家に居て、どう云ふ風に坐つて居ると云ふ事すら眼に見えるやうに判つて居たけれども、この兄だけは居るやら居ないやら見当がつかなかつた。又この兄の居る事は何んの足しにも邪魔にもならなかつた。誰か一寸まづい顔でもすると、自分の事のやうにこの兄は座を外して、姿を隠してしまつた。それが脚気を煩つて、二週間程の間に眼もふさがる位の水腫れがして、心臓麻痺で誰も知らないうちに亡くなつて居た。この弱々しい兄がこんなに肥つて死ぬと云ふ事が、お末には可なり滑稽に思はれた。而してお末は平気でその翌日から例の不景気を云ひふらして歩いた。それは北海道にも珍らしく五月雨じみた長雨がじと〳〵と薄ら寒く降り続いた六月半ばの事だつた。
八月も半ば過ぎと云ふ頃になつて、急に暑気が北国を襲つて来た。お末の店もさすがにいくらか暑気づいて来た。朝早く隣りの風呂屋で風呂の栓を打ちこむ音も乾いた響きをたてゝ、人々の軟らかな夢をゆり動かした。晴天五日を打つと云ふ東京相撲の画びらの眼ざましさは、お末はじめ近所合壁の少年少女の小さな眼を驚かした。札幌座からは菊五郎一座のびらが来るし、活動写真の広告は壁も狭しと店先に張りならべられた。父が死んでから、兄は兄だけの才覚をして店の体裁を変へて見たりした。而してお末の非常な誇りとして、表戸が青いペンキで塗り代へられ、球ボヤに鶴床と赤く書いた軒ランプが看板の前に吊された。おまけに電灯がひかれたので、お末が嫌つたランプ掃除と云ふ役目は煙のやうに消えて無くなつた。その代り今年からは張物と云ふ新しい仕事が加へられるやうになつたが、お末は唯もう眼前の変化を喜んで、張物がどうあらうと構はなかつた。
「家では電灯をひいたんだよ、そりや明るいよ、掃除もいらないんだよ」
さう云つて小娘の間に鉄棒を引いて歩いた。
お末の眼には父が死んでから兄が急にえらくなつたやうに見えた。店をペンキで塗つたのも、電灯をひいたのも兄だと思ふと、お末は如何にも頼もしいものに思つた。近所に住む或る大工に片づいて、可愛いゝ二つになる赤坊をもつた一番の姉が作つてよこした毛繻子の襷をきりつとかけて、兄は実体な小柄な体をまめ〳〵しく動かして働いた。兄弟の誰にも似ず、まる〳〵と肥つた十二になるお末の弟の力三は、高い歯の足駄を器用に履いて、お客のふけを落したり頭を分けたりした。客足も夏に向くと段々繁くなつて来る。夜も晩くまで店は賑はつて、笑ひ声や将棋をうつ音が更けてまで聞こえた。兄は何処までも理髪師らしくない、おぼこな態度で客あしらひをした。それが却つて客をよろこばせた。
斯う華やか立つた一家の中で何時までもくすぶり返つてゐるのは母一人だつた。夫に先き立たれるまでは、口小言一つ云はず、はき〳〵と立ち働いて、病人が何か口やかましく註文事をした時でも、黙つたまゝでおいそれと手取早く用事を足してやつたが、夫はそれを余り喜ぶ風は見えなかつた。却つて病死した息子なぞから介抱を受けるのを楽しんで居る様子だつた。この女には何処か冷たい所があつたせゐか、暖かい気分を持つた人を、行火でも親しむやうに親しむらしく見えた。まる〳〵と肥つた力三が一番秘蔵で、お末はその次に大事にされて居た。二人の兄などは疎々しく取りあつかはれて居た。
父が亡くなつてからは、母の様子はお末にもはつきり見える程変つてしまつた。今まで何事につけても滅多に心の裏を見せた事のない気丈者が、急におせつかいな愚痴つぽい機嫌買ひになつて、好き嫌ひが段々はげしくなつた。総領の鶴吉に当り散らす具合などは、お末も見て居られない位だつた。お末は愛せられて居る割合に母を好まなかつたから、時々はこつちからもすねた事をしたり云つたりすると、母は火のやうに怒つて火箸などを取り上げて店先まで逐ひかけて来るやうな事があつた。お末は素早く逃げおほせて、他所に遊びに行つて他愛もなく日を暮して帰つて来ると、店の外に兄が出て待つて居たりした。茶の間では母がまた口惜し泣きをして居た。而してそれはもうお末に対してゞはなく、兄が家の事も碌々片づかない中に、かみさんを迎へる算段ばかりして居ると云ふやうな事を毒々しく云ひつのつて居るのだつた。かと思ふとけろつとして、お末が帰ると機嫌を取るやうな眼付をして、夕飯前なのも構はず、店に居る力三もその又下の跛足な哲も呼び入れて、何処にしまつてあつたのか美味しい煎餅の馳走をしてくれたりした。
それでもこの一家は近所からは羨まれる方の一家だつた。鶴さんは気がやさしいのに働き手だから、いまに裏店から表に羽根をのすと皆んなが云つた。鶴吉は実際人の蔭口にも讃め言葉にも耳を仮さずにまめ〳〵しく働きつゞけた。
八月の三十一日は二度目の天長節だが、初めての時は諒闇でお祝ひをしなかつたからと云つて、鶴吉は一日店を休んだ。而して絶えて久しく構はないであつた家中の大掃除をやつた。普段は鶴吉のする事とさへ云へば妙にひがんで出る母も今日は気を入れて働いた。お末や力三も面白半分朝の涼しい中にせつせと手助けをした。棚の上なぞを片付ける時には、まだ見た事もないものや、忘れ果てゝ居たものなどが、ひよつこり出て来るので、お末と力三とは塵だらけになつて隅々を尋ね廻つた。
「ほれ見ろやい、末ちやんこんな絵本が出て来たぞ」
「それや私んだよ、力三、何処へ行つたかと思つて居たよ、おくれよ」
「何、やつけえ」
と云つて力三は悪戯者らしくそれを見せびらかしながらひねくつて居る。お末はふと棚の隅から袂糞のやうな塵をかぶつたガラス壜を三本取出した。大きな壜の一つには透明な水が這入つて居て、残りの大壜と共口の小壜とには三盆白のやうな白い粉が這入つて居た。お末はいきなり白い粉の這入つた大壜の蓋を明けて、中のものをつまんで口に入れる仮為をしながら、
「力三是れ御覧よ。意地悪にはやらないよ」
と云つて居ると、突然後ろで兄の鶴吉が普段にない鋭い声を立てた。
「何をして居るんだお末、馬鹿野郎、そんなものを嘗めやがつて……嘗めたのか本当に」
あまりの権幕にお末は実を吐いて、嘗める仮為をしたんだと云つた。
「その小さい壜の方を耳の垢ほどでも嘗めて見ろ、見て居る中にくたばつて仕舞ふんだぞ、危ねえ」
「危ねえ」と云ふ時どもるやうになつて、兄は何か見えない恐ろしいものでも見つめるやうに怖い眼をして室の内を見廻した。お末も妙にぎよつとした。而してそこ〳〵に踏台から降りて、手伝ひに来てくれた姉の児を引きとつておんぶした。
昼過ぎに力三は裏の豊平川に神棚のものを洗ひに出された。暑さがつのるにつれて働くのに厭きて来たお末は、その後からついて行つた。広い小砂利の洲の中を紫紺の帯でも捨てたやうに流れて行く水の中には、真裸になつた子供達が遊び戯れて居た。力三はそれを見るとたまらなさうに眼を輝かして、洗物をお末に押しつけて置いたまゝ、友と呼びかはしながら水の中へ這入つて行つた。お末はお末で洗物をするでもなく、川柳の小蔭に腰を据ゑて、ぎら〳〵と光る河原を見やりながら、背の子に守り唄を歌つてやつて居たが、段々自分の歌に引き入れられて、ぎごちなささうに坐つたまゝ、二人とも他愛なく眠入つてしまつた。
ほつと何かに驚かされて眼をさますと、力三が体中水にぬれたまゝでてら〳〵光りながら、お末の前に立つて居た。手には三四本ほど、熟し切らない胡瓜を持つて居た。
「やらうか」
「毒だよそんなものを」
然し働いた挙句、ぐつすり睡入つたお末の喉は焼け付く程乾いて居た。札幌の貧民窟と云はれるその界隈で流行り出した赤痢と云ふ恐ろしい病気の事を薄々気味悪くは思ひながら、お末は力三の手から真青な胡瓜を受取つた。背の子も眼をさましてそれを見ると泣きわめいて欲しがつた。
「うるさい子だよてば、ほれツ喰へ」
と云つてお末はその一つをつきつけた。力三は呑むやうにして幾本も食つた。
その夕方は一家珍らしく打揃つて賑はしい晩食を食べた。今日は母もいつになくくつろいで、姉と面白げに世間話をしたりした。鶴吉は綺麗に片づいた茶の間を心地よげに見廻して、棚の上などに眼をやつて居たが、その上に載つて居る薬壜を見ると、朝の事を思ひ出して笑ひながら、
「危いの怖いのつて、子供にはうつかりして居られやしない。お末の奴、今朝あぶなく昇汞を飲む所さ……あれを飲んで居て見ろ、今頃はもうお陀仏様なんだ」
とさも可愛げにお末の顔をぢつと見てくれた。お末にはそれが何とも云はれない程嬉しかつた。兄であれ誰であれ、男から来る力を嗅ぎわける機能の段々と熟して来るのをお末はどうする事も出来なかつた。恐ろしいものだか、嬉しいものだか、兎に角強い刃向ひも出来ないやうな力が、不意に、ぶつかつて来るのだと思ふと、お末は心臓の血が急にどき〳〵と湧き上つて来て、かつとはち切れるほど顔のほてるのを覚えた。さう云ふ時のお末の眼つきは鶴床の隅から隅までを春のやうにした。若しその時お末が立つて居たら、いきなり坐りこんで、哲でも居るとそれを抱きかゝへて、うるさい程頬ずりをしたり、締め附けたりして、面白いお話をしてやつた。又若し坐つて居たら、思ひ出し事でもしたやうに立上つて、甲斐々々しく母の手伝ひをしたり、茶の間や店の掃除をしたりした。
お末は今も兄の愛撫に遇ふと、気もそは〳〵と立上つた。而して姉から赤坊を受取つて、思ひ存分頬ぺたを吸つてやりながら店を出た。北国の夏の夜は水をうつたやうに涼しくなつて居て、青い光をまき散らしながら夕月がぽつかりと川の向うに上りかゝつて居た。お末は何んとなく歌でも歌ひたい気分になつていそ〳〵と河原に出た。堤には月見草が処まだらに生えて居た。お末はそれを折り取つて燐のやうな蕾をながめながら、小さい声で「旅泊の歌」を口ずさみ出した。お末は顔に似合はぬいゝ声を持つた子だつた。
「あゝ我が父母いかにおはす」
と歌ひ終へると、花の一つがその声にゆり起されたやうに、眠むさうな花びらをじわりと開いた。お末はそれに興を催して歌ひつゞけた。花は歌声につれて音をたてんばかりにする〳〵と咲きまさつていつた。
「あゝ我がはらから誰と遊ぶ」
ふと薄寒い感じが体の中をすつと抜けて通るやうに思ふと、お末は腹の隅にちくりと針を刺すやうな痛みを覚えた。初めは何んとも思はなかつたが、それが二度三度と続けて来ると突然今日食べた胡瓜の事を思ひ出した。胡瓜の事を思ひ出すにつけて、赤痢の事や、今朝の昇汞の事がぐら〳〵と一緒くたになつて、頭の中をかき廻したので、今までの透きとほつた気分は滅茶苦茶にされて、力三も今時分はきつと腹痛を起して、皆んなに心配をかけて居はしないかと云ふ予感、さては力三が胡瓜を食べた事、お末も赤坊も食べた事を苦しまぎれに白状して居はしないかと云ふ不安にも襲はれながら、恐る〳〵家に帰つて来た。と、ありがたい事には力三は平気な顔で兄と居相撲か何か取つて、大きな声で笑つて居た。お末はほつと安心して敷居を跨いだ。
然しお末の腹の痛みは治らなかつた。その中に姉の膝の上で眠入つて居た赤坊が突然けたゝましく泣き出した。お末は又ぎよつとしてそれを見守つた。姉が乳房を出してつき附けても飲まうとはしなかつた。家が違ふからいけないんだらうと云つて姉はそこ〳〵に帰つて行つた。お末は戸口まで送つて出て、自分の腹の痛みを気にしながら、赤坊の泣き声が涼しい月の光の中を遠ざかつて行くのに耳をそばだてゝ居た。
お末は横になつてからも、何時赤痢が取つゝくかと思ふと、寝ては居られない位だつた。力三は遊び疲れて、死んだやうに眠ては居るが、何時眼をさまして腹が痛いと云ひ出すかも知れないと云ふ事まで気をまはして、何時までも暗い中で眼をぱちくりさせて居た。
朝になつて見るとお末は何時の間にか寝入つて居た。而して昨日の事はけろりと忘れてしまつて居た。
その日の昼頃突然姉の所から赤坊が大変な下痢だと云ふ知らせが来た。孫に眼のない母は直ぐ飛んで行つた。が、その夕方可愛いゝ赤坊はもうこの世のものではなくなつて居た。お末は心の中で震へ上つた。而して急に力三の挙動に恐る〳〵気を附け出した。
朝からぶつッとして居た力三は、夕方になつてそつと姉を風呂屋と店との小路に呼び込んだ。而して何を入れてゐるのか、一杯ふくれあがつてゐる懐ろを探つて白墨を取出して、それではめ板に大正二年八月三十一日と繰返して書きながら、
「己りや今朝から腹が痛くつて四度も六度もうんこに行つた。お母さんは居ないし、兄やに云へばどなられるし……末ちやん後生だから昨日の事黙つて居ておくれ」
とおろ〳〵声になつた。お末はもうどうしていゝか判らなかつた。力三も自分も明日位の中に死ぬんだと思ふと、頼みのない心細さが、ひし〳〵と胸に逼つて来て、力三より先に声を立てゝ泣き出した。それが兄に聞こえた。
お末はそれでもその後少しも腹痛を覚えずにしまつたが、力三はどつと寝ついて猛烈な下痢に攻めさいなまれた挙句、骨と皮ばかりになつて、九月の六日には他愛なく死んでしまつた。
お末はまるで夢を見てゐるやうだつた。続けて秘蔵の孫と子に先立たれた母は、高度のヒステリーにかゝつて、一時性の躁狂に陥つた。死んだ力三の枕許に坐つてきよろつとお末を睨み据ゑた眼付は、夢の中の物の怪のやうに、総てがぼんやりした中に、はつきりお末の頭の中に焼き附けられた。
「何か悪いものを食べさせて、二人まで殺したに、手前だけしやあ〳〵して居くさる、覚えて居ろ」
お末はその眼を思ひ出すと、何時でも是れだけの言葉をまざ〳〵と耳に聞くやうな気がした。
お末はよく露地に這入つて、力三の残した白墨の跡を指の先でいぢくりながら淋しい思ひをして泣いた。
折角鶴吉の骨折りで、泥の中から頭を持ち上げかけた鶴床は、他愛もなくずる〳〵と元にも増した不景気の深みに引きずり込まれた。力三のまる〳〵肥えた顔のなくなつた丈けでも、この店に取つては致命的な損失だつた。ヒステリーは治つたが、左の口尻がつり上つたきりになつて、底意地悪い顔付に見える母も、頬だけは美しい血の色を見せながら、痩せて蝋のやうな皮膚の色の兄も、跛足でしなびた小さい哲も、家の中に暖かみと繁盛とを齎らす相ではなかつた。病身ながら、鶴吉は若い丈けに気を取り直して、前よりも勉強して店をしたが、籠められるだけの力を籠め切つて余裕のない様子が見るに痛ましかつた。姉は姉で、お末に対して殊に怒りつぽくなつた。
その中にお末だけは力三のないのをこの上なく悲しみはしたけれども、内部からはち切れるやうに湧き出て来る命の力は、他人の事ばかり思つて居させなかつた。露地のはめ板の白墨が跡かたもなくなる時分には、お末は前の通りな賑やかな子になつて居た。朝なんぞ東向きの窓の所に後ろを向いて、唱歌を歌ひながら洗物をして居ると、襦袢と帯との赤い色が、先づ家中の単調を破つた。物ばかり喰つてしかたがないからと云つて、黒と云ふ犬を皮屋にやつてしまはうときめた時でも、お末はどうしてもやるのを厭がつた。張物と雑巾さしとに精を出して収入の足しにするからと云つて、黒の頸を抱いて離さなかつた。
お末は実際まめ〳〵しく働くやうになつた。心の中には、どうかして胡瓜を食べたのを隠して居る償ひをしようと云ふ気がつきまとつて居た。何より楽しみに行きつけた夜学校の日曜日の会にも行くのをやめて、力三の高下駄を少し低くしてもらつて、それをはいて兄を助けた。眼に這入りさうに哲も可愛がつてやつた。哲はおそくなつてもお末の寝るのを待つて居た。お末は仕事をしまふと、白い仕事着を釘に引つかけて、帯をぐる〳〵と解いて、いきなり哲に添寝をした。鶴吉が店を片づけながら聞いて居ると、お末のする昔話の声がひそ〳〵と聞こえて居た。母はそれを聞きながら睡入つた風をして泣いて居た。
お末が単衣の上に羽織を着て、メレンスの結び下げの男帯の代りに、後ろの見えないのを幸ひに一とまはりしかない短い女帯をしめるやうになつた頃から、不景気不景気と云ふ声がうるさい程聞こえ出した。義理のやうに一寸募つた暑さも直ぐ涼しくなつて、是れでは北海道中種籾一粒取れまいと云ふのに、薄気味悪く米の値段が下つたりした。お末はよくこの不景気と云ふ事と、四月から九月までに四人も身内が死んだと云ふ事を云ひふらしたが、実際お末を困らしたのは、不景気につけて母や兄の気分の荒くなる事だつた。母ががみ〳〵とお末を叱りつける事は前にもないではなかつたが、どうかすると母と兄とが嘗てない激しい口いさかひをする事があつた。お末は母が可なり手厳しく兄にやられるのを胸の中で快く思つた事もあつた。さうかと思ふと、母が不憫で不憫でたまらないやうな事もあつた。
十月の二十四日は力三の四十九日に当つて居た。四五日前に赤坊の命日をすました姉は、その日縫物の事か何かで鶴床に来て、店で兄と何か話をして居た。
お末は今朝寝おきから母にやさしくされて、大変機嫌がよかつた。姉に向つても姉さん〳〵となついて、何か頻りと独言を云ひながら洗面台の掃除をして居た。
「どうぞ又是れをお頼み申します──是れはちよつぴりですが、一つ使つて御覧なすつて下さい」
その声にお末がふり返つて見ると、エンゼル香油の広告と、小壜入りの標品とが配達されて居た。お末はいきなり駈けよつて、姉の手からその小壜を奪ひ取つた。
「エンゼル香油だよ、私明日姉さんとこへ髪を上げてもらひに行くから、半分私がつけるよ、半分は姉さんおつけ」
「ずるいよこの子は」
と姉も笑つた。
お末がこんな冗談を云つてると、今まで黙つて茶の間で何かして居た母が、急に打つて変つて怒り出した。早く洗面台を綺麗にして、こんな天気の日に張物でもしないと、雪が降り出したらどうすると、毒を持つた云ひ方で、小言を云ひながら店に顔を出した。今まで泣いて居たらしく眼をはらして、充血した白眼が気味悪い程光つて居た。
「お母さん今日はまあ力三の為めにもさう怒らないでやつておくんなさいよ」
姉がなだめる積りでかうやさしく云つて見た。
「力三力三つて手前のもののやうに云ふが、あれは一体誰が育てた。力三がどうならうと手前共が知つたこんで無えぞ。鶴も鶴だ、不景気不景気だと己ら事ぶつ死ぬまでこき使ふがに、末を見ろ毎日々々のらくらと背丈ばかり延ばしやがつて」
姉はこの口ぎたない雑言を聞くと、妙にぶッつりして、碌々挨拶もしないで帰つて行つてしまつた。お末は所在なささうにして居る兄を一寸見て、黙つたまゝせつせと働き出した。母は何時までも入口に立つてぶつ〳〵云つて居た。鉛の塊のやうな鈍い悒鬱がこの家の軒端まで漲つた。
お末は洗面台の掃除をすますと、表に出て張物にかゝつた。冷えはするが日本晴とも云ふべき晩秋の日が、斜に店の引戸に射して、幽かにペンキの匂も立てた。お末は仕事に興味を催した様子で、少し上気しながらせつせと、色々な模様の切れを板に張りつけて居た。先きだけ赤らんだ小さい指が器用に、黒ずんだ板の上を走つて、かゞんだり立つたりする度に、お末の体は女らしい優しい曲線の綾を織つた。店で新聞を読んで居た鶴吉は美しい心になつて、飽かずそれを眺めて居た。
組合に用事があるので、早昼をやつた鶴吉が、店を出る時にも、お末は懸命で仕事をして居た。
「一と休みしろ、よ、飯でも喰へや」
優しく云ふと、お末は一寸顔を上げてにつこりしたが、直ぐ快活げに仕事を続けて行つた。曲り角に来て振返つて見ると、お末も立上つて兄を見送つて居た。可愛いゝ奴だと鶴吉は思ひながら道を急いだ。
母が昼飯だと呼んでも構はずに、お末は仕事に身を入れて居た。そこに朋輩が三人程やつて来て、遊園地に無限軌道の試験があるから見に行かないかと誘つてくれた。無限軌道──その名がお末の好奇心を恐ろしく動かした。お末は一寸行つて見る積りで、襷を外して袂に入れて三人と一緒になつた。
厳めしく道庁や鉄道管理局や区役所の役人が見て居る前で、少し型の変つた荷馬車が、わざと造つた障害物をがたん〳〵音を立てながら動いて行くのは、面白くも何ともなかつたけれども、久し振りで野原に出て学校友達と心置きなく遊ぶのは、近頃にない保養だつた。まだ碌々遊びもしないと思ふ頃、ふと薄寒いのに気がついて空を見ると、何時の間にか灰色の雲の一面にかゝつた夕暮の暮色になつて居た。
お末はどきんとして立ちすくんだ。朋輩の子供達はお末の顔色の急に変つたのを見て、三人とも眼をまるくした。
帰つて見ると、頼みにして居た兄はまだ帰らないので、母一人が火のやうにふるへて居た。
「穀つぶし奴、何処に出てうせた。何だつてくたばつて来なかつたんだ、是れ」
と云つて、一こづきこづいて、
「生きて居ばいゝ力三は死んで、くたばつても大事ない手前べのさばりくさる。手前に用は無え、出てうせべし」
と突放した。さすがにお末もかつとなつた。「死ねと云つても死ぬものか」と腹の中で反抗しながら、母が剥してたゝんで置いた張物を風呂敷に包むと、直ぐ店を出た。お末はその時腹の空いたのを感じて居たが、飯を食つて出る程の勇気はなかつた。然し出がけに鏡のそばに置いてあるエンゼル香油の小壜を取つて、袂にひそますだけの余裕は持つて居た。「姉さんの所に行つたら散々云ひつけてやるからいゝ。死ねと云つたつて、人、誰が死ぬものか」さうお末は道々も思ひながら姉の家に着いた。
何時でも姉はいそ〳〵と出迎へてくれるのに、今日は近所から預かつてある十許りの女の子が淋しさうな顔をして、入口に出て来たばかりなので、少し気先きを折られながら奥の間に通つて見ると、姉は黙つて針仕事をして居た。勝手がちがつてお末はもぢ〳〵そこいらに立つて居た。
「まあお坐り」
姉は剣のある上眼遣ひをして、お末を見据ゑた。お末は坐ると姉をなだめる積りで、袂から香油を出して見せたが、姉は見かへりもしなかつた。
「お前お母さんから何んとか云はれたらう。先刻姉さん所にもお前を探しに来たんだよ」
と云ふのを冒頭に、裏に怒りを潜めながら、表は優しい口調で、お末に因果を含めだした。お末は初めの中は何がと云ふ気で聞いて居たが、段々姉の言葉に引入れられて行つた。兄の商売は落目になつて、月々の実入りだけでは暮しが立たないから、姉の夫がいくらかづゝ面倒を見て居たけれども、大工の方も雪が降り出すと仕事が丸潰れになるから、是れから朝の中だけ才取りのやうな事でもして行く積りだが、それが思ふやうに行くかどうか怪しい。力三も亡くなつて見ると、行く行くは一人小僧も置かなければならない。お母さんはあの通りで、時々臥もするから薬価だつて積れば大きい。哲は哲で片輪者故、小学校を卒業したつて何の足しにもならない。隣り近所にだつて、十月になつてから、家賃も払へないで追ひ立てを喰つた家が何軒あるか位は判つて居さうなものだ。他人事だと思つて居ると大間違ひだ。それに力三の命日と云ふのに、朝つぱらから何んと思へば一人だけ気楽な真似が出来るんだらう。足りないながらせめては家に居て、仏壇の掃除なり、精進物の煮付けなりして、母を手伝つたら、母も喜んだらうに、不人情にも程がある。十四と云へば、二三年経てばお嫁に行く齢だ。そんなお嫁さんは誰ももらひ手がありはしない。何時までも兄の所の荷厄介になつて、世間から後指をさゝれて、一生涯面白い眼も見ずに暮すんだらう。勝手な真似をしていまに皆んなに愛想をつかされるがいゝ。そんな具合に姉はたゝみかけて、お末を責めて行つた。而して仕舞ひには自分までがほろりとなつて、
「いゝさ暢気者は長命するつて云ふからね、お母さんはもう長くもあるまいし、兄さんだつてあゝ身をくだいちや何時病気になるかも分らない。おまけに私はね独りぽつちの赤坊に死なれてから、もう生きる空はないんだから、お前一人後に残つてしやあ〳〵してお出……さう云へば、何時から聞かうと思つて居たが、あの時お前、豊平川で赤坊に何か悪いものでも食べさせはしなかつたかい」
「何を食べさすもんか」
今まで黙つてうつむいて居たお末は、追ひすがるやうにかう答へて、又うつむいてしまつた。
「力三だつて一緒に居たんだもの……私はお腹も下しはしなかつたんだもの」
と暫くしてから訳の判らない事を、申訳らしく云ひ足した。姉は疑深い眼をして鞭つやうにお末を見た。
かうしてお末は押し黙つて居る中に、ふつと腹のどん底から悲しくなつて来た。唯悲しくなつて来た。何んだか搾りつけられるやうに胸がせまつて来ると、止めても〳〵気息がはずんで、火のやうに熱い涙が二粒三粒ほてり切つた頬を軽くくすぐるやうにたら〳〵と流れ下つたと思ふと、たまらなくなつて無我夢中にわつと泣き伏した。
而してお末は一時間程ひた泣きに泣いた。力三のいたづら〳〵した愛嬌のある顔だの、姉の赤坊の舌なめずりする無邪気な顔だのが、一寸覗きこむと思ふと、それが父の顔に変つたり、母の顔に変つたり、特別になつかしく思ふ鶴吉の顔に変つたりした。その度毎にお末は涙が自分ながら面白い程流れ出るのを感じて泣きつゞけた。今度は姉が心配し出して、色々に言ひ慰めて見たけれども甲斐がないので、仕舞ひにはするまゝに放つて置いた。
お末は泣きたいだけ泣いてそつと顔を上げて見ると、割合に頭は軽くなつて、心が深く淋しく押し静まつて、はつきりした考へがたつた一つその底に沈んで居た。もうお末の頭からはあらゆる執着が綺麗に無くなつて居た。「死んでしまはう」お末は悲壮な気分で、胸の中にふか〴〵とかううなづいた。而して「姉さんもう帰ります」としとやかに云つて姉の家を出た。
用事に暇どつた為めに、灯がついてから程たつて鶴吉は帰つて来た。店には電灯がかん〳〵照つて居るが、茶の間はその光だけで間に合はして居た。その暗い処に母とお末とが離れ合つて孑然と坐つて居た。戸棚の側には哲が小掻巻にくるまつて、小さな鼾をかいて居た。鶴吉はすぐ又喧嘩があつたのだなと思つて、あたりさはりのない世間話に口を切つて見たが、母は碌々返事もしないで布巾をかけた精進の膳を出してすゝめた。見るとお末の膳にも手がつけてなかつた。
「お末何んだつて食べないんだ」
「食べたくないもの」
何んと云ふ可憐ななつッこい声だらうと鶴吉は思つた。
鶴吉は箸をつける前に立上つて、仏壇の前に行つて、小つぽけな白木の位牌に形ばかりの御辞儀をすると、しんみりとした淋しい気持になつた。余り気分が滅入るので、電灯をひねつて見た。ぱつと部屋は一時明るくなつて、哲が一寸眼を覚ましさうになつたが、そのまゝ又静まつて行つて淋しさが増すばかりだつた。
お末は黙つたまゝで兄の膳を流元にもつて行つて洗ひ出した。明日にしろと云つても、聴かないで黙つたまゝ洗つてしまつた。帰りがけに仏壇に行つて、灯心を代へて、位牌に一寸御辞儀をした。而して下駄をつッかけて店から外に出ようとする。
鶴吉は何んとなく胸騒ぎがして、お末の後から声をかけた。お末は外で、
「姉さん所に忘れた用があるから」
と云つて居た。鶴吉は急に怒りたくなつた。
「馬鹿、こんなに晩く行かなくとも、明日寝起きに行けばいゝぢやないか」
云つてる中に母に肩を持つて見せる気で、
「わがまゝな事ばかししやがつて」
と附け加へた。お末は素直に返つて来た。
三人とも寝てから鶴吉は「わがまゝな事ばかししやがつて」と云つた言葉が、どうしても云ひ過ぎのやうに思はれて、気になつてしかたがなかつた。お末はこちんと石のやうに押し黙つて、哲に添寝をして向うむきになつて居た。
外では今年の初雪が降つて居るらしく、めり込むやうな静かさの中に夜が更けて行つた。
案の定その翌日は雪に夜があけた。鶴吉が起き出た頃には、お末は店の掃除をして、母は台所の片附けをやつて居た。哲は学校の風呂敷を店火鉢の傍で結んで居た。お末は甲斐々々しくそれを手伝つてやつて居た。暫くしてから、
「哲」
とお末が云つた。
「う?」
と哲が返事をしても、お末が何んとも言葉をつがないので、
「姉や何んだ」
と催促したが、お末は黙つたまゝだつた。鶴吉は歯楊枝を取上げようとして鏡の前の棚を見ると、そこには店先にある筈のない小皿が一枚載つて居た。
七時頃になつてお末は姉の所に行くと云つて家を出た。丁度客の顔をあたつて居た鶴吉は碌々見返りもしなかつた。
客が帰つてからふと見ると、さつきの皿がなくなつて居た。
「おやお母さん、こゝに載つてた皿はお母さんがしまつたのかい」
「何、皿だ?」
母が奥から顔だけ出した。而してそんなものは知らないと云つた。鶴吉は「お末の奴何んだつてあんなものを持出しやがつたんだらう」と思つて見まはすと、洗面所の側の水甕の上にそれが載つてゐた。皿の中には水が少し残つて白い粉のやうなものがこびりついてゐた。鶴吉は何んの気なしにそれを母に渡して始末させた。
九時頃になつてもお末が帰らないので、母はまたぶつ〳〵云ひ始めた。鶴吉も、帰つて来たら少し性根のゆくだけ云つてやらなければならないと思つて居ると、姉の所で預つてゐる女の子がせきこんで戸を開けて這入つて来た。
「叔父さん、今、今」
と気息をはずまして居る。鶴吉はそれが可笑しくて笑ひながら、
「どうしたい、そんなに慌てゝ……伯母さんでも死んだか」
と云ふと、
「うん、叔父さんとこの末ちやんが死ぬんだよ、直ぐお出でよ」
鶴吉はそれを聞くと妙に不自然な笑ひかたがしたくなつた。
「何んだつて」
もう一度聞きなほした。
「末ちやんが死ぬよ」
鶴吉はとう〳〵本当に笑ひ出してしまつた。而していゝ加減にあしらつて、女の子を返してやつた。
鶴吉は笑ひながら奥に居る母に大きな声でその事を話した。母はそれを聞くと面相をかへて跣足で店に降りて来た。
「何、お末が死ぬ?……」
而して母も突然不自然極まる笑ひ方をした。と思ふと又真面目になつて、
「よんべ、お末は精進も食はず哲を抱いて泣いたゞが……はゝゝ、何そんな事あるもんで、はゝゝゝ」
と云ひながら又不自然に笑つた。鶴吉はその笑ひ声を聞くと、思はず胸が妙にわく〳〵したが、自分もそれにまき込まれて、
「はゝゝゝあの娘つ子が何を云ふだか」
と合槌を打つて居た。母は茶の間に上らうともせず、きよとんとしてそこに立つたまゝになつて居た。
そこに姉が跣足で飛んで来た。鶴吉はそれを見ると、先刻の皿の事が突然頭に浮んだ──はりなぐられるやうに。而して何んの訳もなく「しまつた」と思つて、煙草入れを取つて腰にさした。
その朝早く一度お末は姉の所に来た。而して母が散薬を飲みづらがつて居るから、赤坊の病気の時のオブラートが残つてゐるならくれろと云つた。姉は何んの気なしにそれを渡してやつた。と七時頃に又縫物を持つて来て、入口の隣の三畳でそれを拡げた。その部屋の戸棚の中にはこま〳〵したものが入れてあるので、姉はちよい〳〵そこに行つたが、お末には別に変つた様子も見えなかつた。唯羽織の下に何か隠して居るらしかつたけれども、是れはいつもの隠し食ひでもと思へば聞いても見なかつた。
三十分程経つたと思ふ頃、お末が立つて台所で水を飲むらしいけはひがした。赤坊を亡くしてから生水を毒のやうに思ふ姉は、飲むなと襖ごしにお末を叱つた。お末は直ぐやめて姉の部屋に這入つて来た。姉はこの頃仏いぢりにかまけて居るのであの時も真鍮の仏具を磨いて居た。お末もそれを手伝つた。而して三十分程の読経の間も殊勝げに後ろに坐つて聴いて居た、が、いきなり立つて三畳に這入つた。姉は暫くしてからふと隣りで物をもどすやうな声を聞きつけたので、急いで襖を開けて見ると、お末はもう苦しんで打伏して居た。いくら聞いても黙りこくつたまゝ苦しんでゐるだけだ。仕舞ひに姉は腹を立てゝ背中を二三度痛く打つたら、初めて家の棚の上にある毒を飲んだと云つた。而して姉の家で死んで迷惑をかけるのがすまないと詫びをした。
鶴吉の店にかけこんで来た姉は前後も乱れた話振りで、気息をせき〳〵是れだけの事を鶴吉に話した。鶴吉が行つて見ると姉の家の三畳に床を取つてお末が案外平気な顔をして、這入つて来た兄を見守りながら寝て居た。鶴吉はとても妹の顔を見る事が出来なかつた。
医者をと思つて姉の家を出た鶴吉は、直ぐ近所の病院にかけつけた。薬局と受附とは今眼をさましたばかりだつた。直ぐ来るやうにと再三駄目を押して帰つて待つたけれども、四十分も待つのに来てくれさうにはなかつた。一旦鎮まりかゝつた嘔気は又激しく催して来た。お末が枕に顔を伏せて深い呼吸をして居るのを見ると、鶴吉は居ても立つても居られなかつた。四十分待つた為めに手おくれになりはしなかつたか、さう思つて鶴吉は又かけ出した。
五六丁駈けて来てから見ると足駄をはいて居た。馬鹿なこんな時足駄をはいて駈ける奴があるものかと思つて跣足になつて、而して又五六丁雪の中を駈けた。ふと自分の傍を人力車が通るのに気がついて又馬鹿をしたと思ひながら車宿を尋ねる為めに二三丁引きかへした。人力車はあつたが車夫は老人で鶴吉の駈けるのよりも余程おそく思はれた。引返した所から一丁も行かない中に尋ねる医師の家があつた。総ての準備をして待つて居るから直ぐ連れて来いとの事であつた。
鶴吉は人力車に頓着なく姉の家に駈けつけて様子を聞くと、まださう騒ぐに及ばぬらしいとの事であつた。鶴吉は思はずしめたと思つた。お末は壜の大小を間違へて、大壜の方のものを飲んだに違ひない。大壜の方には苛性加里を粉にして入れてあるのだ。それに違ひないと思つたが、それをまのあたり聞く勇気はなかつた。
人力車を待つのに又暫くかゝつた。軈て鶴吉は車に乗つてお末を膝の上にかゝへて居た。お末は兄に抱かれながら幽かに微笑んだ。骨肉の執着が喰ひ込むやうに鶴吉の心を引きしめた。どうかして生かさう、鶴吉はたゞさう思ふだけだつた。
やがてお末は医師の家の二階の手広い一室に運ばれて、雪白のシーツの上に移された。お末は喘ぐやうにして水を求めて居た。
「よし〳〵今渇かないやうにして上げるからね」
如何にも人情の厚さうな医師は、診察衣に手を通しながら、お末から眼を放さずに静かにかう云つた。お末はおとなしく首肯いた。医師はやがてお末の額に手をあてゝしげ〳〵と患者を見て居たが鶴吉を見返つて、
「昇汞をどの位飲んだんでせう」
と聞いた。鶴吉はこゝで運命の境目が来たと思つた。而して恐る〳〵お末に近づいて、耳に口をよせた。
「お末、お前の飲んだのは大きい壜か小さい壜か」
と云ひながら手真似で大小をやつて見せた。お末は熱のある眼で兄を見やりながら、はつきりした言葉で、
「小さい方の壜だよ」
と答へた。鶴吉は雷にでも撃たれたやうに思つた。
「ど、どれ位飲んだ」
予て大人でも十分の二グラム飲めば命はないと聞かされて居るので、無益とは知りながらかう聞いて見た。お末は黙つたまゝで、食指を丸めて拇指の附根の辺につけて、五銭銅貨程の円を示した。
それを見た医師は疑はしげに首を傾けたが、
「少し時期がおくれたやうだが」
と云ひながら、用意してある薬を持つて来さした。劇薬らしい鋭い匂ひが室中に漲つた。鶴吉はその為めに今までの事は夢だつたかと思ふほど気はたしかになつた。
「飲みづらいよ、我慢してお飲み」
お末は抵抗もせずに眼をつぶつてぐつと飲み乾した。それから暫くの間昏々として苦しさうな仮睡に落ちた。助手は手を握つて脈を取りつゞけて居た。而して医師との間に低い声で会話を取りかはした。
十五分程経つたと思ふと、お末はひどく驚いたやうにかつと眼を開いて、助けを求めるやうにあたりを見まはしながら頭を枕から上げたが、いきなりひどい嘔吐を始めた。昨日の昼から何んにも食べない胃は、泡と粘液とをもどすばかりだつた。
「胸が苦しいよ、兄さん」
鶴吉は背中をさすりながら、黙つて深々とうなづくだけだつた。
「お便所」
さう云つて立上らうとするので皆がさゝへると、案外丈夫で起き直つた。便器と云つてもどうしても聞かない。鶴吉に肩の所を支へてもらつて歩いて行つた。階段も自分で降りると云ふのを、鶴吉が無理に背負つて、
「梯子段を一人で降りるなんて、落ちて死んぢまふぞ」
と云ふと、お末は顔の何処かに幽かに笑ひの影を宿して、
「死んでもいゝよ」
と云つた。
下痢は可なりあつた。吐瀉の是れだけあると云ふことが、せめてもの望みだつた。お末は苦しみに背中を大波のやうに動かしながら、はつ〳〵と熱い気息を吐いて居た。唇はかさ〳〵に乾破れて、頬には美しい紅みを漲らして。
お末は胸の苦しみを訴へるのがやむと、激しく腹の痛みを訴へ出した。それは惨めな苦悶であつた。それでもお末は気丈にも、もう一度便所に立つと云つたが、実際は力が衰へて床の中でしたゝか血を下した。鼻からも鼻血が多量に出た。而して空をつかみシーツを引きさく無残な苦悶の間には、ぞつとする程恐ろしい昏睡の静かさが続いた。
そこに金の調達を奔走して居た姉もやつて来た。而して麻のやうに乱れたお末の黒髪を、根元から堅く崩れぬやうに結び直してやつたりした。お末を生かしたいと思はないものはなかつた。その間にお末は一秒々々に死んで行つた。
でもお末には生にすがると云ふやうな風は露ほども見えなかつた。その可愛いゝ堅い覚悟が今更に人々の胸をゑぐつた。
ふとお末は昏睡から覚めて「兄さん」と呼んだ。室の隅でさめ〴〵と泣いて居た鶴吉は、慌てゝ眼を拭ひながら枕許に近づいた。
「哲は」
「哲はな」
兄の声はそこで途絶えてしまつた。
「哲は学校に行つてるよ。呼んでやらうか」
お末は兄に顔を背けながら、かすかに
「学校なら呼ばなくもいゝよ」
と云つた。是れがお末の最後の言葉だつた。
それでも哲は呼び迎へられた。然しお末の意識はもう働かなくなつて、哲を見分ける事が出来なかつた。──強ひて家に留守させて置かうとした母も、狂乱のやうになつてやつて来た。母はお末の一番好きな晴れ着を持つて来た。而してどうしてもそれを着せると云つて承知しなかつた。傍の人がとめると、それならかうさせてくれと云つて、その着物をお末にかけて、自分はその傍に添寝をした。お末の知覚はなくなつてゐたから、医師も母のするまゝに任せて置いた。
「おゝよし〳〵。それでよし。ようした〳〵。ようしたぞよ。お母さん居るぞ泣くな。おゝよしおゝよし」
と云ひながら母はそこいらを撫で廻して居た。而してかうしたまゝで午後の三時半頃に、お末は十四年の短い命に別れて行つた。
次の日の午後に鶴床は五人目の葬式を出した。降りたての真白な雪の中に小さい棺と、それにふさはしい一群の送り手とが汚いしみを作つた。鶴吉と姉とは店の入口に立つて小さな行列を見送つた。棺の後ろには位牌を持つた跛足の哲が、力三とお末とのはき古した足駄をはいて、ひよこり〳〵と高くなり低くなりして歩いて行くのがよく見えた。
姉は珠数をもみ〳〵黙念した。逆縁に遇つた姉と鶴吉との念仏の掌に、雪が後から〳〵降りかゝつた。
底本:「三代名作全集・有島武郎集」河出書房
1942(昭和17)年12月15日初版発行
初出:「白樺」
1914(大正3)年1月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。
※底本では振り仮名が付されていない以下の字に、入力者が振り仮名を付しました。
長命(段落一)、昇汞、齎、軈。
入力:mono
校正:松永佳代
2013年6月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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