「世界文学大系58 カフカ」年譜
原田義人
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一八八三年
七月三日、当時オーストリア帝国領であったプラーク(現在のチェコ首都プラハ)に生まれる。一家はチェコ土着のドイツ語を使うユダヤ系商人であった。父ヘルマン・カフカはシュトラコニッツ在の小村に生まれ、奮闘してプラークで手広く小間物卸商を営むにいたった人物。この父は、生来敏感でこまやかな気質のフランツの感嘆の的であったが、同時に嫌悪と違和感をも抱かずにはいられなかった。母ユーリエ・カフカ(旧姓レーヴィー)は、プラークの相当な家柄の出身で、スペインやアフリカで成功した兄弟がある。母の異母弟の一人はトリーシュで田舎医師となったが、風変りな人物で、カフカにかなりな影響を与えたと思われる。一家の住居はカフカが生まれてからプラーク市内の一画で六回も変ったが、一九〇七年からやっと固定した。
一八八五年
九月、弟ゲオルク生まれる(生後半年で死亡)。
一八八七年
九月、弟ハインリヒ生まれる(生後一年半で死亡)。
一八八九年
市内フライシュマルクトの小学校へ入学。九月、妹エリー(ガブリエーレ)が生まれる。
一八九〇年
九月、妹ヴァリー(ヴァレーリエ)が生まれる。
一八九二年
十月、妹オトラ(オッティーリエ)が生まれる。カフカは妹たちと比較的年齢の差があったためか、あまり親しまなかったが、この末の妹オトラとは成人後気持が近かった。三人の妹はのちにみなナチスの強制収容所に投じられ、殺された。
一八九三年
市内アルトシュタットの国立ドイツ・ギムナジウムに入学。一九〇一年までの在学期間中、クラスでもよくできる生徒の一人であった。一八九八年(十五歳)のころ、何人かの親しい友人がいたが、そのうちとくにオスカー・ポラクとの交友は一九〇四年初めまでつづき、少年時代のカフカに影響があった。ポラクはのちに重要な美術史家となったが、第一次大戦で戦死した。カフカが高校時代に愛読した文学者は、ゲーテ、クライスト、グリルパルツァー、シュティフターなどであった。
一八九九年
「クンストワルト」という芸術雑誌に影響を受けるところが大きかった。このころ、早くも初期作品を書いたが、失われた。
一九〇〇年
夏季休暇をロツトクで過ごす。ニーチェを読み、その影響はしばらくつづいた。
一九〇一年
七月、ギムナジウム卒業試験(大学入学資格試験)に合格。夏期休暇に単独で北海のノルデルナイ、ヘルゴラント両島へ旅行。秋からプラーク大学(カルル・フェルディナント皇帝大学)に入学。初め二週間だけ化学を学んだが、次に法学を選んだ。父の希望もあったようである。
一九〇二年
夏学期にはアウグスト・ザウアーという教授の下でドイツ文学を学んだ。ことにヘッベルを研究した。冬学期からミュンヘン大学でドイツ文学研究をつづける計画を立てたが、父は文学のような無用なものを学ぶことに賛成しなかった。冬学期からふたたびプラーク大学で法学専攻をつづけることになった。
八月、エルベ河畔リボッホ(おそらく親戚の家であろう)で暮らし、八月末にメーレン地方のイグラウに近いトリーシュの叔父ジークフリート・レーヴィー(田舎医師)のところに滞在。
大学でドイツ人学生クラブに出入するうち、マクス・ブロートのショーペンハウエルに関する講演を聞き、ニーチェを攻撃したブロートにおだやかに反論しようとして彼を訪ねた。ブロートは一八八四年生れでカフカより一歳年下の法科学生であったが、早くから文学的才能が光っていた。ここに両者の宿命的な交友関係が始まる。
一九〇三年
七月、ローマ法、教会法、ドイツ法、オーストリア法制史に関する国家試験(前半二年間の修了試験に相当)を好成績ですます。このころ、『子供と町』と題する長編の一部分と、すでに書いていたと思われる詩・散文を友人ポラクに送ったが、これらはことごとく散佚してしまった。
一九〇四年
秋から翌五年春まで『ある戦いの手記』を執筆。この作品にはホフマンスタールの「詩についての対話」の影響がみとめられるとされている。この年から翌年にかけて日記・回想記の類をしきりと読む。たとえばバイロン、アミエル、グリルパルツァーなどの日記、ゲーテの書簡や対話などである。
一九〇五年
七、八月に単独でシュレージェンのツックマンテルのサナトリウムに滞在。ここである年上の人妻と接近したらしい。その体験の反映を断片『田舎での婚礼準備』に見る説もある。つづいて妹たちとシュトラコニッツの父方の叔母のところにいく。
このころから、オスカー・バウム、マクス・ブロート、フェーリクス・ヴェルチュらと定期的に会い始める。
十一月七日、第一次卒業試験(民法・刑法)をすませる。
一九〇六年
三月十六日、第二次卒業試験。四月から九月まで叔父リヒァルト・レーヴィーの弁護士事務所で実務見習を行いながら試験勉強を行う。
六月十三日、第三次卒業試験(前半二年間の総復習)をすませ、七月十八日、法学士の称号を受ける。指導教官は社会学者アルフレート・ウェーバー教授であった。
夏期休暇中、ふたたび単独でツックマンテルに滞在。十月から満一カ年間、初め刑事裁判所、次に民事裁判所において「法務実習」にたずさわる。
このころから断片『田舎での婚礼準備』を執筆、一九〇七年にもつづける。
一九〇七年
八月をトリーシュの叔父のところで過ごす。
そこでヘードウィヒ・Wという娘(十九歳)と会う。一九〇九年四月までに彼女にあてた十数通の手紙が残っている。
ウィーンのエクスポルトアカデミーで学ぶ計画を立てたが、これは母方の叔父の影響で、海外で働く意図をもっていたものと考えられる。十月、「見習助手」として「一般保険会社」に入社。
一九〇八年
二月から五月まで、プラーク商科大学で労働保険に関する講座を受講。七月十五日、「一般保険会社」をやめ、七月三十日、「臨時職員」として半官半民の「労働者傷害保険協会」に採用される。ここの勤務は時間的にも楽であったので選んだらしいが、カフカは職務にかなり熱心で、地位も累進していった。この年に早くも北部ベーメン(ボヘミア)に公用旅行を何回か行なっている。
このころからマクス・ブロートとの交友が深まり、ユイスマン、フローベールなどをいっしょに読んだり、遠足に出かけたりするようになった。ワルザー、クライスト、ハムスンなどの作品を読む。
一九〇九年
「ヒュペーリオン」誌に最初の発表(『ある戦いの手記』からの二つの対話)。
休暇で九月四日から十日間、ブロート兄弟とともに北イタリアのガルダ湖畔リーヴァにいく。近くのブレッシアで当時はまだめずらしかった飛行機の実演会を見る。その感想を数日後プラークの日刊紙「ボヘミア」に掲載。このころ、プラークのアナーキストたちと交際があった。
一九一〇年
この年から日記を書き始めた。これは単なるメモや省察を書きとめるためのものではなく、スケッチ、寓話、物語を含めて創作上の自己訓練を行おうとするものであった。このころから、東ユダヤ人のユダヤドイツ語(ドイツ語、スラヴ語、ヘブライ語の混合した地方語)で演じる劇団の民衆劇に興味をもち始めた。またプラークの薬剤師の夫人ベルタ・ファンタの文学サロンの常連の一人となった。
十月八日からブロート兄弟とともにパリにいったが、急病のため十月十七日にはプラークにもどった。このパリ滞在はあまり印象を残さなかった。十二月上旬には、単独でベルリンへ旅行した。
一九一一年
一月末から二月下旬まで公用でフリートラント、ひきつづき二月末にはライヒェンベルクに旅行。四月末にも同じく公用でワルンスドルフへ旅行。このとき、シュニッツァーという金持の工場主と会い、自然療法をすすめられた。元来カフカは菜食主義者でこのころには酒類も飲まなかったという。なお、これらの場所はカフカの公務上の監督地域であった。夏季休暇を取り、八月二十六日からブロートと二人で旅行に出た。チューリヒ、ルーツェルン、ルガーノ、ミラノ、ストレサ、パリと周遊して、九月十三日、プラークにもどり、ひきつづき単独でスイスのエルレンバッハの自然療法サナトリウムに一週間滞在した。前年につづいてこの年の十月から翌年にかけての冬にも東ユダヤ人劇団をしばしば見ている。
一九一二年
このころからユダヤ史、ユダヤ教、ユダヤ文学などに興味をもち、研究するようになった。
二月十八日、東ユダヤ人劇団の俳優イーザーク・レーヴィーの朗読の夕べに先立ち、解説的講演を行なった。
初夏から『失踪者』(『アメリカ』)の執筆に着手する。六月二十八日からブロートとともに旅に出て、ライプツィヒに立ち寄ったのち、二十九日よりワイマルに滞在、ゲーテ、シラーの遺蹟を訪ねた。ブロートと別れ、七月八日から二十九日まで単独でハルツ山中のユングボルンの自然療法サナトリウムに滞在。
八月十三日、ブロートのところでベルリン出身のいわゆるF・Bと会う。この女性とカフカはすこぶる奇妙な関係をもち、のちに二度婚約して、二度とも解消している。カフカ独特の結婚観、男女観に基因したものであろうが、彼はこの恋愛にすこぶる悩んだ。カフカがこの女性に書き送った手紙はニューヨークのカフカ全集出版者がすでに入手しているが、おそらく個人の秘密を尊重するためであろう、まだ公刊されていない。カフカ研究中、資料的に十分わかっていない重要な部分である。
小品集『観察』(一〇年─一二年に執筆)をまとめ、八月十四日付で原稿をローヴォールト出版社へ送る。九月二十二日─二十三日の夜に短編『判決』を執筆。まだディケンズ流の手法によって書いていた『失踪者』とはちがい、この『判決』は新しくカフカ独自の方法を拓く作品となった。友人ウィリー・ハースのすすめで、彼の編集する「ヘルダー・ブレッター」誌の同人会でこの『判決』の朗読を行なった模様だが、時日は不明。このころに『変身』を執筆、十一月二十四日に友人バウム宅で朗読を行う。
一九一三年
一月、『観察』をローヴォールト社から出版。『判決』をブロートの発行していた「アルカーディア年鑑」に発表。二月十一日、友人ヴェルチュ宅で『判決』を朗読。三月、『火夫』(『アメリカ』の第一章)をクルト・ウォルフ出版社から刊行。この年および翌一四年には前述の女性F・Bに関する個所が目立つ。五月ごろから、内面的危機を克服するためか、プラーク郊外トロヤで園芸の仕事をやる。
九月、単独でウィーン、ヴェネチアを経て、リーヴァへ旅行。リーヴァで一人のスイス娘と知り合ったが、このエピソードに関してはブロートにも語らなかった。
十二月十一日、トインビー・ホールでクライストの中編小説『ミヒァエル・コールハウス』の冒頭部分を朗読。
一九一四年
五月末にベルリンへいき、F・Bと婚約。六月末に友人ピックとヘレナウ、ライプツィヒに旅行。七月二十三日、ベルリンで婚約解消。つづいてリューベックに旅し、詩人エルンスト・ワイスとともにデンマークのマリーエンリストにいく。第一次大戦始まる。
「ノイエ・ルントシャウ」誌八月号に作家ローベルト・ムージルの『観察』および『火夫』についての書評掲載される。
十月、執筆のため二週間の休暇をとる。『流刑地で』を完成。この作品は十二月初めにウュルフェル宅で朗読している。『流刑地で』と同時に長編『審判』に着手。十二月十三日にはそのなかに入れられている「掟」を完成。十二月十八日─十九日の夜には『村の学校教師』(別名『大もぐらもち』)を書く。クリスマスのあと、ブロート夫妻とクッテンベルク・モラヴェッツに四日間滞在。
一九一五年
一月、ボーデンバッハでF・Bと再会。前年夏から両親の家を出たが、このころには借間を何度か変えながら仕事をつづけたようである。四月、軍隊に入った義弟を訪ねるため、妹エリーとともにウィーン、ブダペスト、ナッジミハーユ(現チェコ領)へ旅行。このあとで徴兵検査に合格したが、重要職務に服しているという理由で兵役免除。
「ディ・ワイセン・ブレッター」誌十月号に『変身』を発表。十月、『火夫』によってフォンターネ賞を受けた。
一九一六年
七月、F・Bとマリーエンバートに滞在。
『判決』および『変身』をクルト・ウォルフ出版社から刊行。『田舎医師』の諸短編を書く(一七年まで続行)。十一月、ミュンヘンのゴルツ書店で『流刑地で』を朗読。この冬からアルヒミステン街に借間。
一九一七年
アルヒミステン街の借間からパレ・シェーンボルンに移る。
七月、F・Bと二度目の婚約をしたが、十二月にプラークでまたもや解消した。九月四日、肺結核と確認され、勤務は休暇を取り、九月中旬からツューラウの妹オトラのそばに移り住む。
この年、シオニズム週刊誌「自衛」に短編『夢』、月刊「ユダヤ人」誌に『あるアカデミーへの報告』を発表(両者とも『田舎医師』所収)。
一九一八年
ツューラウにおいてキエルケゴールの宗教観の研究を始める。キエルケゴールの著書はもっと前から読んでいたが、本格的に考えるようになったのはこのころとするのが最近の定説である。夏、プラークにもどる。九月にトゥルナウに滞在、十月、十一月はプラークにあり、十二月はリボッホに近いシェーレゼンに滞在。『支那の長城が築かれたとき』をこの年から翌一九年まで書く。
一九一九年
前年末からひきつづきシェーレゼンに滞在したが、このあいだにユーリエ・ヴォーリツェクという女性と知り合い、少しあとで婚約にまでいたった。この関係は、父の反対があったためか、あるいは次に現われた女性ミレナの要求のためか、いずれにもせよ長続きはせず、短く終った。この年に『田舎医師』および『流刑地で』をクルト・ウォルフ出版社から刊行。
夏はプラークにもどったが、十一月にブロートとともにふたたびシェーレゼンにいった。
同じ十一月に、自伝的な試み『父への手紙』を書く。
一九二〇年
前年中にプラークに帰っていたカフカは、四月十日からメラーンに滞在し、静養につとめた。メラーンからミレナ・イェセンスカ=ポラクにさかんに手紙を送り、彼女とのあいだは恋愛関係にまで深まった。カフカがミレナを知ったのは、彼女が自分の初期作品をチェコ語に翻訳したからである。この関係もきわめて変ったもので、二二年に破れるが、その記録が『ミレナへの手紙』である。ミレナはすこぶる特異な生粋のチェコ女性であったが、のちに四四年五月十七日、ナチスのラーヴェンスブリュック強制収容所で病死している。カフカはこの年の六月二十日からウィーンに三、四日滞在し、ミレナと会った。
七月五日、プラークに到着し、夏から秋にかけて労働者傷害保険協会の勤務に復した。
十二月、タトラ(カルパティア山脈中)の療養所にいく。ここで同じく療養中の医学生ローベルト・クロップシュトックと知り合い、カフカが死ぬまで両者の友情はつづいた。
一九二一年
八月、喀血。九月初めタトラよりプラークへ帰る。十月十五日の日記以降、ミレナとの関係の深まりを示している。
この年から二二年にわたって『城』執筆。
一九二二年
一月二十七日からシュピンドラーミューレに住む。二月下旬、ウィーンを経てプラークへもどる。三月十五日、ブロートに『城』の冒頭部分を朗読して聞かせる。
五月、ミレナとの関係、最後的に絶たれる。
六月下旬、妹オトラの世話でチェコの田舎プラナーに滞在、九月中旬にプラークへもどる。この間、七月一日付で労働者傷害保険協会を退職、年金を受ける。
一九二三年
三月、『女歌手ヨゼフィーネ』(短編集『断食芸人』のうち)を執筆。
七月、バルト海岸ミュリッツに妹とその子供たちをつれて滞在。そこで東ユダヤ系の若い娘ドーラ・ディマントと知り合い、恋愛関係に入る。八月、ベルリンを経て、シェーレゼンに移る。
九月末、プラークを経て、ドーラとともにベルリン郊外シュテーグリッツに住む。初めは間借り生活であったが、六週間後に近くの小別荘にささやかな一家を構えた。この同棲生活は幸福であったようである。ドーラはヘブライ語をよくし、カフカは彼女から学んだ。
一九二四年
二月一日よりベルリン郊外ツェーレンドルフに移る。この家の家主は、詩人カルル・ブッセの未亡人であった。
三月十七日、プラークへもどったが、衰弱はなはだしく、四月上旬、ウィーナー・ワルトのサナトリウムに入る。中旬、ウィーン大学病院のハイェク教授の医局に入院、喉頭結核と診断される。つづいてウィーン郊外のキールリング療養所に入る。ドーラおよびクロップシュトックがつき添った。喉を使わないようにするため、主として筆談を行なった。
六月三日、同サナトリウムで逝く。六月一日、プラークのシュトラースニッツ・ユダヤ人墓地に埋葬された。
死後まもなく、カフカが生前に初校を見た短編集『断食芸人』がシュミーデ出版社より刊行。
一八二五年
『審判』初版出版。
一九二六年
『城』初版出版。
一九二七年
『アメリカ』初版出版。
一九三一年
短編・遺稿集『支那の長城が築かれたとき』出版。
一九三五─三七年
マクス・ブロート=ハインツ・ポリッツァー共編で六巻本『カフカ全集』、ベルリンおよびプラークで出版。
一九四六年
ブロート編『カフカ全集』五巻、ニューヨークで出版。
一九五一年
『日記 一九一〇年─二三年』(全集第八巻)出版。
一九五二年
ウィリー・ハース編で『ミレナへの手紙』(全集第七巻)出版。
一九五三年
『田舎での婚礼準備』(全集第六巻)出版。
一九五八年
『書簡集 一九〇二年─二四年』(全集第九巻)出版。
底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
1960(昭和35)年4月10日発行
※底本における表題「年譜」に、底本名を補い、作品名を「「世界文学大系58 カフカ」年譜」としました。
入力:kompass
校正:米田
2011年1月29日作成
2016年2月22日修正
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