霊的本能主義
和辻哲郎
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荒漠たる秋の野に立つ。星は月の御座を囲み月は清らかに地の花を輝らす。花は紅と咲き黄と匂い紫と輝いて秋の野を飾る。花の上月の下、潺湲の流れに和して秋の楽匠が技を尽くし巧みを極めたる神秘の声はひびく。遊子茫然としてこの境にたたずむ時胸には無量の悲哀がある。この堪え難き悲哀は何をか悲しみ何をか哀れむ。虫の音は、花の色は、すべての宇宙の美は、虚無でない、虚無でない「美」の底に悲哀が包まれたるは何の意味であるか。銀座の通りを行く。数十百の電車は石火の一刹那に駛せ違う。数百千の男女はエジプトの野を覆うという蝗の群れのように動いている。貴公は何ゆえに歩いてるかと問うと用事があるからだと言う、何ゆえに用事があるかと問うと、おれは商売をしている、遊んでるのじゃないと答える。商売は金のためで金は欲のためである。生きるだけで満足する者はない。すべての欲を充たさねばならぬ、欲は変現限りなし。限りなき本能の欲の前には限りある「人の命」は無益である。銀座の人は無益に歩いているのか。
人生は複雑である、むずかしい問題である。スフィンクスが眼をむいて出現して以来、人間が羽なき二足獣であって以来の問題である。高橋氏の「人生観」が人生を解き、黒岩氏の天人論が天と人との神秘を開いたる今日にも依然としてむずかしい。むずかしければこそ藤村君は巌頭に立ち、幾万の人は神経衰弱になる、新渡戸先生でさえ神経衰弱である、鮪のさし身に舌鼓を打ったところで解ける問題でない。魚河岸の兄いは向こう鉢巻をもって、勉強家は字書をもってこの問題を超越している。ある人は「粋」の小盾に隠れてこの悶を野暮と呼び、ある人は「理想」の塹壕に身を沈めてこの煩を病的と呼ぶ。
人生問題はすべての歴史の根底に横たわる。星を数えつつ井戸に落ちた人、骨と皮とになるまで黙然として考えた人は史上の立て物ではない。しかしながら過去数千年の人類の経路は一日としてこの問題から離るるを許さなかった。西行はために健脚となり信長は武骨な舞いを舞った。神農もソクラテスもカントもランスロットもエレーンも乃至はお染久松もこの問題に触れた。釈尊やイエスはこれを解いて、多くの精霊を救う。この救われたる衆生が真の人生を現わしたか。救われずして地獄の九圏の中に阿鼻叫喚しているはずの、たとえば歴山大王や奈翁一世のごとき人間がかえって人生究竟の地を示したか。これは未決問題である。宗教の信仰に救われて全能者の存在を霊妙の間に意識し断乎たる歩武を進めて Im schöneņ Im guteņ Im ganzeņ に生くべく猛進するわが理想であると言ったら、ある人は嘲笑した。我れに取っては最も明白合理なる信念である。その人は笑うべき思想だと言う。公平に見れば水掛け論に過ぎぬ。社会主義が奮然として赤旗を翻す時、帝国主義は冷然として進水式をやっている。電車のただ乗りを発明する人と半農主義者とは同じ米を食っている。身のとろけるような艶な境地にすべての肉の欲を充たす人がうらやまれている時、道学先生はいやな眼つきで人を睨め回す。
いずれが善、いずれが悪、人の世は不可解である。この人の世に生まれて「人」として第一義に活動せんとするものは、一度は人生問題の関門に到達せねばならぬ。
眼を人生の百般に放つ。光明なる表面は暗黒なる罪悪を包む。闇の中には爆裂弾をくれてやりたい金持ちや馬糞を食わしてやりたい学者が住んでいる。万事はただ物質に執着する現象である。執着の反面には超越がある。酒に執着するものは饅頭を超越し、肉体に執着するものは心霊を超越す。この二つが長となり短となり千種万種の波紋を画く、人事はこの波紋を織り出した刺繍に過ぎぬ。
社会には美しい方面がある。しかしこれを汚さんとする悪の勢力ははなはだ強い。一人の遊冶郎の美的生活は家庭の荒寥となり母の涙となり妻の絶望となる。冷たき家庭に生い立つ子供は未来に希望の輝きがない。また安逸に執着する欲情を見よ。勉強するはいやである。勉強を強うる教師は学生の自負と悦楽を奪略するものである。寄席にあるべき時間に字書をさし付けらるるは「自己」を侮辱されたと認めてよい。かくして朝寝に耽り学校を牢獄と見る。「自己」を救うために学校を飛び出す。友は騒ぎ母は泣く。保証人はまっかになって怒鳴る。
生命の執着はまた人生に大変調を来たす。恋の怨みに世を去り、悲痛なる反抗心に死する人が世に遺す凄き呪い。一念の凝った生き霊。藤村操君の魂魄が百数十人の精霊を華厳の巌頭に誘うたごとく生命の執着は「人生」を忘れ「自己」の存在を失いたる凡俗の心胸に一種異様の反響を与う。小さき胸より胸へと三を数え七十を数え九百を数え千万に至るまで伝わって行く。この波紋が伝説となり神話となり口碑となっていつまでも残る。生命の執着はさらに形を変じ姿を化して日常生活に刻々現われている。勇気といい剛毅というもすべてこの執着を離れたる現象である。肉体! 肉体の存在が何である。物質の執着は霊の権威を無視し肉の欲の前に卑しき屈従をなす。米と肉と野菜とで養う肉体はこの尊ぶべき心霊を欠く時一疋の豕に過ぎない、野を行く牛の兄弟である。塵よりいでて塵に返る有限の人の身に光明に充つる霊を宿し、肉と霊との円満なる調和を見る時羽なき二足獣は、威厳ある「人」に進化する。肉は袋であり霊は珠玉である。袋が水に投げらるる時は珠もともに沈まねばならぬ。されど袋が土に汚れ岩に破らるるとも珠玉は依然として輝く、この光が尊いのである。珠を九仞の深きに投げ棄ててもただ皮相の袋の安き地にあらん事を願う衆人の心は無智のきわみである。さはあれわが保つ宝石の尊さを知らぬ人は気の毒を通り越して悲惨である、ただ己が命を保たんため、己が肉欲を充たさんために内的生命を失い内的欲求を枯らし果つるは不幸である。この哀れむべき人の中にさらに歩を進めたる労働者を見よ。尊き内的生命を放棄してただ懸命にすがる命の綱が一筋切れ二筋絶ち、まさに絶望に瀕している。社会主義の叫喚はたちまち響きわたる。「わが細き生命の綱を哀れめ、安全を保する太き綱を与えよ」と叫ぶ。冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀れなる労働者を見下す。惨酷である。咫尺を解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。彼らを危うしと見ながら悠々とエジプトの葉巻咽草を吹かすは逆自然である、悪逆である、さらに無道の極みである。
「絶望」に面して立つ雄々しき労働者は無情なる世人を見て憤怒の念を起こす。綱の切れるはかまわない。ただかの冷ややけき笑いを唇辺に漂わす人の頭に猛烈なる爆烈弾を投げたい。かの嘲笑に報いんためにはあえて数千の兄弟の血を賭する、吾人の憤怒は血に喝く。「人生は虚無、ただこの怒りあるのみ、来たれ兄弟、虚無なる人生に何の執着ぞ。」虚栄と獣性に充ちたる貴族のため霊を地に委し、さらに生命の危険を覚ゆる時、仏国の革命は声を一つにして起こった。憤怒は血を見て快哉を叫ぶ。ここに人生は華麗なる波紋を画き出した、執着の反動は恐ろしきものである。
憤怒があり哀願があるのは「自己」の存在を認識して後に起こる現象である。己が不遇を知らずして天を楽しみ地を喜び平然として生きるものはさらに憐れむに足る。深山に人跡を探れ、太古の民は木の実を食って躍っている。ロビンフッドは熊の皮を着て落ち葉を焚いている、彼らの胸には執着なく善なく悪なし、ただ鈍き情がある。情が動くままに体が動く、花が散ると眠り鳥がさえずると飛び上がる。詩人ジョン・キーツはこの生活を憧憬して歌う、
No, the bugle sounds no more,
And twanging bow no more ;
Silent is the irony shrill
Past the heath and up the hill ;
There is no mid-forest laugh,
Where lone echo gives the half
To some wight amazed to hear
Jesting deep in forest drear.
春の一夜、日光の下に七つの星を頂いて森をさすらう時、キーツの胸には悪に満ちたる現世に対して激烈なる憎悪の念が起こる。やがて古えの憂いなき森の人がそぞろに恋しくなる。ああなつかしきその代の人となりたい。しかし、今、此宵の月に角笛は響かず。キーツは憧憬の眼を月に向けた。
キーツが何と言おうともこの「自我」なき「山の人」は憐れむべき者である。霊活の詩人が山の奥に山の人の衣を着る時、山の人は「人」として第一義に活動する。すべてを超越した山の人はついに心霊をも超越し去った。最も鹿と猪とに近くなって第十義に堕落したのである。キーツが山の人の衣を着くる時ウィルヘルム・テルは弓矢を持って出現する。テルは詩人の理想に生まれた第一義の人である。
霊の権威を知り、多少内的生命を有する人にしてなお虚栄に沈湎して哀れむべき境地に身を置く人がある。虚栄は果てなき砂の文字である。「自己」を誤解されまじとするは恕す、「自己」を真価以上に広告し、すべての他人を凌駕し得たりと自負するに至ッては最も醜怪、最も卑怯なる人格の発露である。虚栄の権化は時に人を威圧して崇敬の念を起こさしむ。神にも近しと尊ぶ人格は時に空虚である。真の偉人は飾らずして偉である。付け焼き刃に白眼をくるる者は虚栄の仮面を脱がねばならぬ、高き地にあってすべてを洞察する時、虚栄は実に笑うに堪えぬ悪戯である。美を装い艶を競うを命とする女、カラーの高さに経営惨憺たる男、吾人は面に唾したい、食を粗にしてフェザーショールを買う人がある。家庭を破壊してズボンの細きを追う人がある。雪隠に烟草を吹かし帽子の型に執着する子供を「人」たらしむべき教育は実に難中の難である、ああ、かくして虚栄は人を魔境にさそい堕落の暗礁に誘うローレライである。
人生は混沌。肉の執着といい生命虚栄の執着という、すべて人生を乱す魔道である。数億の人類が数億の眼を白うして睨み合う。睨み合う果てに噛み合いを初める。この地獄に似る混沌海の波を縫うて走る一道の光明は「道徳」である。吾人はここにおいて現代の道徳に眼を向ける。
現代の因襲的道徳と機械的教育は吾人の人格に型を強いるものである。「人」として何らの霊的自覚なく、命ぜらるるがままに右に向かい左に動く。かくて忠も孝も無意味なる身体の活動となる。徳の根底に横たわるべき源泉なくして善といい悪と呼ぶがゆえに反哺の孝と三枝の礼は人生の第一義だと言われる。烏と鳩とに比べらるるのは吾人の耻である。吾人は自覚ある「人」として孝たるを欲す。愛なき孝は冷たき虚礼に過ぎぬ。人格の共鳴なき信は水の面の字である。犠牲心なき忠は偽善である。
現代の道徳は霊的根底を超越して偽善を奨励す。冷ややけき顔に自ら「理性の権化」と銘する人はこの偽善を社会に強い、この虚礼をもって人生を清くせんとす。人生は厳格である。人間の向上はまじめなる努力を要する。仮面に精髄を抜き去ったる肉骸を覆うてごまかさんとするは醜の極みである。血なき大理石の像にも崇高と艶美はある。冷たきながらも血ある「理性権化」先生は蝦蟇と不景気を争う。この道徳の上に立つ教育主義は無垢なる天人を偽善の牢獄に閉じこむ。人格の光にあらず、霊のひらめきにあらず、人生の暁を彩どる東天の色は病毒の汚濁である。
日本民族が頭高くささぐる信条は命を毫毛の軽きに比して君の馬前に討ち死にする「忠君」である。武士道の第一条件、二千五百年の青史はあらゆるページにこの華麗なる波紋の跡を残す。君は絶対の権威を持ってその前には人間の平等なく思想の自由がない。肉体に黄金に狂的執着なす者も「君のため」にはこれを超越した。そこに義の人ができる。しかしながら因襲的道徳に鋳られし者が習慣性によって壕の埋め草となり蹄の塵となるのは豕が丸焼きにされて食卓に上るのと択ぶところがない。吾人はこの意味なき「忠君」に敬意を表したくない。同じく人としてこの世に実在するならば吾人の霊的出発点は一つである、神の前に同じ権威を有する精霊である。君主と高ぶり奴隷と卑しめらるるは習慣の覊絆に縛されて一つは薔薇の前に据えられ他は荊棘の中に棄てられたにほかならぬ、吾人相互の尊卑はただ内的生命の美醜に定まる。心霊の大なるものが英傑である。幾千万の心霊を清きに救いその霊の住み家たる肉体を汚れより導き出すために誠心の興奮は吾人の肉骸を犠牲に供す。「愛国心」はこの見地に立つ。「愛国心」は変体して忠君となった。
忠君の血を灑ぎ愛国の血を流したる旅順には凶変を象どる烏の群れが骸骨の山をめぐって飛ぶ。田吾作も八公も肉体の執着を離れて愛国の士になった。烏は績を謳歌してカアカアと鳴く、ただ願わくば田吾作と八公が身の不運を嘆き命惜しの怨みを呑んで浮世を去った事を永しえに烏には知らさないでいたい。
孝は東洋倫理の根本である、神も人もこれを讃美する。寒夜裸になって氷の上に寝たら鯉までが感心して躍り上がったという。故郷に遺せる老いたる母を慰めたいとて狂的に奮闘せる一青年は一念のために江知勝を超越しカフェーを超越す。菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき母の胸より短刀のひらめきを見た。氷のごときその光は一瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがてこの光が恩賜の時計の光となった。この美しい情は「愛」の上にたつ人の身の霊的興奮である。吾人は「愛」に重きを置く、公爵家の若君は母堂を自動車に載せて上野に散策し、山奥の炭焼きは父の屍を葬らんがために盗みを働いた。いずれが孝子であるか、今の社会にはわからぬ。親の酒代のために節操を棄て霊を離るる女が孝子であるならば吾人はむしろ「孝」を呪う。
八犬伝は「浜路が信乃のもとへ忍ぶ」個所などを除く時、トルストイの芸術観に適合する作物となるそうである。現代徳育の理想もまた八犬士の境地である。この理想はよい。よいには相違ないがこの理想によって「虚栄を根本より覆せ」と叫ぶものは過激だとお叱りを蒙る。「不徳の人間を社会より放逐せよ」と言うと僭越だとてお目玉を頂戴する。「すべての不正を打破して社会を原始の純粋に返せ」と叫ぶ者は狂人をもって目せらる。姑息なる思想! 安逸に耽る教育者! 見よ汝が造れる人の世は執着を虚栄の皮に包んだる偽善の塊に過ぎぬじゃないか。要するに現代の道徳は本義として「物質的超越と霊的執着とをもって自ら処決せよ」と求む。言い変うれば「利己」を脱して精神的自覚の上に立ち汝の義務をなし果たせというにある。しかるに外面に表われたる道徳は形式と因襲に伝えられてその精神を忘れ去った。
現代にもたとえば「家庭」のごとく比較的清きものがある。あの大きなストーブを囲み祖父さんが孫に取り巻かれて昔話に興をやる。夫婦はこの一日の物語に疲れを忘れて互いに笑みかわす。楽しき家庭があればこそ朝より夕まで一息に働いた。暖かき家庭には愛が充つ。愛の充つ所にはすべての徳がある。宇宙の第一者に意識してさらに真善美に突進するの勇を振るい起こす。この境地は現世の理想郷である。ディッキンスのクリスマスカロルはおもしろい小説である。愛なく情なく血なく肉なくしてただ黄金にのみ執着する獰猛なスクルジは過去現在未来の幽霊に引っ張り回されて一夜の間に昔の夢のようなホームの楽しさと冷酷なる今と身近く迫れる暗き死の領とを痛切に見せられた。翌朝はクリスマスである。スクルジはなんとなく愉快でたまらぬ。犬がころげてもおかしい、子供が通っても嬉しい。スクルジは黄金の執着を脱して perfect life of love and peacefulness(Dante)に一歩踏み入った。現代に清きはただ家庭である。暖かき円満なる家庭を有するものは人生に幾分の同情を有し悲哀の興趣を味わい自己を自覚せる人である。多くの富豪や華族は真に「家庭」と呼び得べき者を有せぬ。彼らは経済学の見地に立てば社会の宝玉である。精神的観察よりすれば社会の悪毒である。皮相なる形式的道徳は「金持ち」にとって最も破りやすい。金持ちはついに人道を踏みはずす。吾人は自覚ある平和な農夫の家庭のむしろ尊きを思う。
かくのごとく一二の例外を除いて現代の道徳はすべて混沌、すべて闇濁、最も悲観すべき半面を有す。文明の発達に従いて肉の欲望はますます大となり、虚栄の渇仰はいよいよ強となる。吾人は浅薄なる皮相の下に真精神を発見したい。時代思潮に革命を起こし新時代の光明を彼岸に認めねばならぬ。「吾人は絶対に物質を超越し絶対に心霊に執着せざるべからず」。これを名づけて霊的本能主義と言う。
浮世は住みにくい。ウルサイ人間とばかな人間との群れに悪党が出没して、真面目に生きようとすると神経衰弱になる。樗牛は「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」とて神経衰弱に縄を張った。あに計らんやからめ手は肺病に破られて、樗牛はどうしても真面目に生きねばならなくなった。晩年の煩悶はこれがためである。宗教の要求はこれがためである。若い時から「どこまでも世人をばかにして暮らすべきものに候」と言いながら樗牛全集五巻を世人に遺したのはこれがためである。たとえ有能なる影響を吾人の心霊に与えずとも少なくとも彼の霊的努力は彼がばかにしていた「小児輩」にかなりの勢力がある。この霊的執着の半面には物質を超越せんがために強烈なる煩悶があった。
「草枕」の画かきさんはこの世を「住みにくい国」と言う。画かきさんは芸術をもってこの世を住みよくし浮世の有象無象を神経衰弱より救うつもりである。春の、ホコホコと暖かい心持ちのよい日に、春の海を眺め春の山を望みボケの花の中で茫然として無我の境に無我の詩を造る。画工さんはまず自己を救った。すべての物質的人事を超越している。この画かきさんが大なる決心と気概とをもって、霊の権威のために、人道のために、はた宇宙の美のために断々乎として歩むならば吾人は霊的本能主義の一戦士として喜んで彼を迎えたい。も少し精を出して大作を作り、も少し力を入れてウルサイ世人をばかにしたら吾人は双手に彼を擁したく思う。画かきさんはさらに煩わしい人事の渦中、平然としてボケ花中に眠る心持ちを保たねばならぬ。他人の神経衰弱を癒すにはまず陰気な顔をした患者を自由に操縦せねばならぬ。
西行法師はこの点に一種の解決を与えた男である。一朝浮世のはかなさを悟っては直ちに現世の覊絆を絶ち物質界を超越して山を行き河を渉る。飄然として岫をいずる白雲のごとく東に漂い西に泊す。自然の美に酔いては宇宙に磅礴たる悲哀を感得し、自然の寂寥に泣いては人の世の虚無を想い来世の華麗に憧憬す。胸に残るただ一つは花の下にて春死なんの願いである。西行はかく超越を極めた。しかれども霊的執着は薄弱である。彼の蹈む人道は誠に責任を無視している。彼の信仰は問わず、彼に空海の才腕と日蓮の熱烈なきはかれの霊的価値を無に近からしむ。わずかに和歌に隠れて詩人を気取るとも「自己」をのみ目的とする彼に何の価値があろう。
かつてはなはだ奇体な旅の僧に逢った事がある。ハンモックと毛布を負うて無人の山奥へ平然として分け入る。阿蘇ではハンモックにぶら下がったまま凍死しようとした、妙義では頂に近き岩窟に一夜を明かした。肉体と社会を超越してのこのこと日本じゅう歩きめぐっている。旅は人を自然に近づかしめて、峨々たる日本アルプスの連峰が蜿々として横たわるを見れば胸には宇宙の荘厳が湧然として現われる。この美この壮はもっとも強烈に霊を震〓(「雨かんむり/湯」)してそぞろに人生の真面目に想いを駛す。ただ惜しむらくは西行と同じ誤りに陥っている。隠者仙人は人生と没交渉なると同時に社会の人として価値がない。一己の心霊の満足は目的でない。霊水に凡俗を浴せしめ凡界を洗うの信念が無ければ仙人は鶴と類を同じゅうせる生物に過ぎない。
真と義と愛と荘とに対する絶対の執着即神の憧憬と悪の憎悪は「人」たるべき最大要件である。この自覚に立ってすべての人が奮闘したならば人生は理想化せられ人類は向上す。獣性と虚栄と悪習慣とを超越して「全き人格」に憧るる時はクリアハートとクリンヘッドとをもって「人格」を形づくる刹那である。吾人が真正の社会主義の理想に歩を進め、ダンテの楽園に到達すべき出発点である。世人がすべてこれに傾向する時 To thee be all man Hero の境地はますます明らかになるであろう。ソシアリティの本義も恐らくはここである。深山に俗塵を離れて燎乱と咲く桜花が一片散り二片散り清けき谷の流れに浮かびて山をめぐり野を越え茫々たる平野に拡がる。深山桜は初めてありがたい。人の世を超越して宇宙の神秘を直覚したる心霊は衆を化し群を悟らす時初めて完全である。吾人の心は安逸を貪るべきでない。真と義と愛と荘とのためにあらゆる必死の奮闘を要す。精神が「義」に猛烈なる執着をなせば犠牲の念は忽然として翼をのぶ。ニュウトンといいワシントンといいルーテルという、彼らが大建設の時代は満身犠牲の念に充つ。心霊は神の摂理の真と人道の義と美の愛と宇宙の荘厳とに烈しく動かされて物質的世界を全く超越する。生活が何である! 苦痛が何である! わが心霊は肉の痛苦に感触しない。ただ霊の本能に従って思うがままに動く。かの熱烈なる殉教者に見よ。バイロンは「シーヨンの囚人」に七人の雄大なる兄弟を画いた。物暗き牢獄に鉄鎖の鏽となりつつ十数年の長きを「道義」のために平然として忍ぶ。荘厳なる心霊の発現である。兄弟は一人と死に二人と斃る。愛する同胞の可憐なる瞳より「生命」の光が今消え去らんとする一瞬にも彼らは互いに二間の距離を越えて見かわすのみである。ただ一度かの暖かき手を握りたい、ああ玉の緒の絶え行く前に今一度彼の膝に……と狂人のように猛り立つ。鏽びたる鉄鎖はただ重げに音するのみである。かくて兄弟の膝に怨みの涙、憤怒の涙は流るるとも「道義」のために彼らは断乎として嘆かぬ。吾人はレマン湖畔シーヨンの城にこの七人の猛き霊的本能主義者の足跡の残れるを知る。
さらにルーテルを見よ、クリストを見よ、霊の高翔する時物質の苦を忍ぶはやすい事である。一生を衆人救済と贖罪とに送って十字架に血を流したる主エスはわが主義の証明者である。要するに吾人は肉体を超越して宇宙の悲哀に恍惚たる心霊が雄壮に触れ真を憧憬し義に熱し愛に酔いて無我の境に入る時高潮に達する。Im Schöneņ Im Guteņ Im Ganzen resolbt zu leben の境地、神にあくがれて全きものたらんとする渇望、人を全能なる人格に Converge し、厳粛なる宇宙の真趣に歩一歩迫るが理想である。肉体の満足に尊き心霊を没するものは豕の一種である。吾人は豕と伍するを恥ず。同時に耻を忍んで豕を洗い清めてやらねばならぬ。吾人が昂々然として向上する前に「愛」が活きて哀憐となり「雄壮」が動いて犠牲となってこの事業に執着せしめる。かくのごとくして吾人は心霊の命ずるがままに現世に行動したい、これが吾人の主義である。
「絶対に物質を超越し絶対に霊に執着せよ」との主義はあまりに漠然たるものである。絶対の物質超越は死に至る。吾人は死を辞せない、死を恐れない。ただ霊的執着のために此世に活き此界に動く。ゆえに吾人の生活は心霊の光彩を帯びなければならぬ。生活の困難に嘆かず黄金に屈服せざるは死を恐るる人にできる事でない。しかしながら吾人は生きるために食物を要する、食物のためには働く義務がある。世人がすべて仙人となり隠者となってははなはだ迷惑だ。トルストイ伯はかるがゆえに半農主義を唱えた、すでに半農主義ある以上半商主義も可なり、半教師主義もよし。否、余裕があるなら全農も全商もよい。要は「人間の本領」を失わない事である。この決心のもとに虚栄と獣性と罪悪との渦巻く淵を彼岸に泳ぎ切る。若きダンテはビアトリースの弔いの鐘に胸を砕かれてこの淵に躍り入った。フロレンスの門の永久に彼に向かって閉じられてよりはさらに荒き浮世の波に乗る。彼の魂は世の汚れたる群れより離れて天堂と地獄に行く。この不覊の魂を宿したる骸は憂き現し世の鬼の手に落ちた。
Yea, thou shalt learn how salt his food who bdres
Upon another's bread, ─ how steep his path
Who treads up and down another's stairs.
とは烈しき迫害に逢うて霊が思わずもあげたる悲痛の叫びである。されどダンテはいかなる迫害にも堪えた。この「不覊なる想いと繋がれたる意志」との二様生活こそダンテの真髄である。ヴェロナにありて、森の奥深くさまよいては栄ある天堂を思い、街を歩みては「あれこそ地獄より帰りし人よ」と指さされる。この悲境にあって詩人は深厳なる人世の批評をなしつつ断乎として悪を斥けた、黄金と虚栄とを怒罵の下に葬った。吾人はこの自信と信念とを渇仰する。
吾人の生活にかくのごとき信念を与うる者は芸術である。芸術は吾人を瑣細なる世事より救いて無我の境に達せしめる。枝葉よりさらに枝葉に、末節よりさらに末節に移りたる顕し世の煩いを離れたる時、人は初めてその本体に帰る。本体に帰りたる人は自己の心霊を見神を見、向上の奮闘に思い至る。かの芸術が真義愛荘の高き理想を対象として「人生」を表現するはこれがためである。吾人はこの真義愛荘を通じて「全き者」を見たい。「全能」なるある者に接したい。荘厳なる華厳の滝万仞の絶壁に立つ時、堂々たる大蓮華が空を突いて聳だつ絶頂に白雲の皚々たるを望む時、吾人の胸はただ大なる手に圧せらるるを覚ゆ。これ吾人の心胸にひそむ「全き人格」の片影がその本体と共鳴するのである。しかしながら内心にひそむ芸術心なきもの、審美の情なき者は自然の大景よりこの啓示を得ない。彼らには滝は珍であり山は奇たるにとどまる。その境地に誘うためには霊を開拓せねばならぬ。開拓の鍵となるものは芸術である。芸術はかくして吾人の渇仰を充たすべきものである。
宇宙の森羅万象の根底にひそむ悲哀を悟得し芸術にその糧を得て現世の渦中に身を置く。信念の下に働けば事業は尊い。かくして二十世紀の今日に確乎たる二様生活を行なわんがため、霊的本能主義は神により感得したる信念とその実行とをまっこうに振りかざし堂々として歩むものである。実行は霊的興奮により自然に表わるる肉体の活動である。吾人の渇仰する天才力ーライルは三階の屋根裏からはるかに樽の中の蛇を眺めながら星とともに超越していた。しかも彼には星とともに下界を輝らす信念がある。「身に近き義務と信ぜらるるものをまずなし果たせ。第二義務は直ちに明らかならん。霊的解脱はここにあり。かくてすべての人が漠然として欲求し、茫然として不可達に苦しむ理想の境はたちまちにして汝の前に開かれん。汝のアメリカはここにあるのみ、他にあらざるなり。実に汝が今立てる地はすなわち理想の郷たるべき地なり。」という。このアメリカはワシントンが豚の焼き肉をうまそうに食った時代、リップ・ヴァン・ウィンクルが妻君に牛耳られて山に逃げ込んだ時代のアメリカである。この美しい理想郷を得るは「自覚」の下に立てばやすい事だと狂気のように力ーライルは説く。一生懸命のけんか腰で説く。霊的本能主義はここに出発点を得たのである。
吾人は自らの人格を想い、自らの行為を省み慨嘆に堪えないものである。されどこの主義の下に奮闘するは辞するところでない。吾人の胸には親愛義荘の権化たる「全き者」の影を抱き、その反影たる犠牲の念の下に力ーライルの言う「義務」をなし果たさん事を思う。かくて吾人は厳々乎として現実の社会を歩みたい。
吾人はさらに進んで一言付加したい事がある。日本の武士道は種々なる徳の形を取れどその根本は真義愛荘に啓示を得て物質を超越し霊的人生に執着するにある。勇気、仁恵、礼譲、真誠、忠義、克己、これすべてこの執着の現象である。ただ末世に至って真の精神を忘れ形式に拘泥して卑しむべき武士道を作った。吾人は豪快なる英雄信玄を愛し謙信を好む。白馬の連嶺は謙信の胸に雄荘を養い八つが岳、富士の霊容は信玄の胸に深厳を悟らす。この武士道の美しい花は物質を越えて輝く。しかれども豪壮を酒飲と乱舞に衒い正義を偏狭と腕力との間に生むに至っては吾人はこれを呪う。
吾人はこの例を一高校風に適用し得べしと思う。吾人の四綱領は武士道の真髄でありソシアリティの変態であろう。しかれどもこの美名の下に隠れたる「美ならざる」者ははたして存在せざるか。向陵の歴史は栄あるものであろう。しかれどもこの影に潜める悪習慣を見よ! 吾人はあえて一二の例を取る。そもそもかのストームは何であるか。かつて初めて向陵の人となり今村先生に醇々として飲酒の戒を聞いたその夜、紛々たる酒気と囂々たる騒擾とをもって眠りを驚かす一群を見て嫌悪の念に堪えなかった。ああ暴飲と狂跳! 人はこれを充実せる元気の発露と言う。吾人は最も下劣なる肉的執着の表現と呼ぶをはばからぬ。さらにまたかの卑猥なる言語を弄して横行する一群を見る時、吾人は一高校風の前途を危ぶまざるを得ない。校風の暗黒面にみなぎる悪思潮は門鑑制度、上草履制度の無視ではない、尊き心霊に対する肉的侮辱である。吾人は口に豪壮を語る輩が女々しく肉に降服せるを見て憐れまざるを得ない。吾人は社会に罪悪の絶えぬ以上校友の思想に欠点あるを怪しまぬ。ただ願わくばこの悪潮流が光栄ある四綱領を汚さざらん事を望むのである。
底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「交友会雑誌」
1907(明治40)年11、12月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
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