藤村の個性
和辻哲郎
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藤村は非常に個性の強い人で、自分の好みによる独自の世界というふうなものを、おのずから自分の周囲に作り上げていた。衣食住のすみずみまでもその独特な好みが行きわたっていたであろう。酒粕に漬けた茄子が好きだというので、冬のうちから、到来物の酒粕をめばりして、台所の片隅に貯えておき、茄子の出る夏を楽しみに待ち受ける、というような、こまかい神経のくばり方が、種々雑多な食物の上に及んでいたばかりでなく、着物や道具についてもそれぞれに細かい好みがあった。そうしてまたそういう好みを実に丹念に守り通していた。
住居についてもそうであった。新片町や飯倉片町の家は、借家であって、藤村の好みによった建築ではないが、しかしああいう場所の借家を選ぶということのなかに、十分に藤村の好みが現われているのである。随筆集の一つを『市井にありて』と名づけている藤村の気持ちのうちには、その好みが動いているように思われる。市井にある庶民の一人としての住居にふさわしい、ささやかな、目だたない、質素な家に住むことを、藤村は欲したのであろう。しかしそういう住居のなかには、市井庶民の好みに合うような、さまざまな凝った道具が並んでいなくてはならなかったであろう。あるとき藤村は、置き物を一つか二つに限った清楚な座敷をながめて、こうきれいに片づいていると、寒々とした感じがしますね、と言ったことがある。
その藤村が自分の家を建てたいと考え始めたのは、たぶん長男の楠雄さんのために郷里で家を買ったころからであろう。「そういう自分は未だに飯倉の借家住居で、四畳半の書斎でも事はたりると思いながら自分の子のために永住の家を建てようとすることは、我ながら矛盾した行為だ」という言葉のうちに、それが察せられる。が、その時に藤村が考えたのは、たぶん、ささやかな質素な家であったであろう。というのは、その家のために藤村が麻布のどこかに買い求めた土地は、六十坪だということであった。この計画は後に変更され、麹町の屋敷はたしか百坪ぐらいだったと思うが、しかしその後にも、大きい住宅に対する嫌悪の感情は続いていた。あるとき藤村は、相当の富豪の息子で、文筆の仕事に携わろうとしている人の住宅の噂をしたことがある。藤村はその住宅の大きく立派であることを話したあとで、あの程度の仕事をしていながら、あんな立派な家に住んでいて、よく恥ずかしくないものだと思いますね、と言った。それは藤村としては珍しくはっきりした言い方であった。私はそれを聞いて、藤村の質素な住宅に対する執着が、なかなか根深いものであることを感じたのである。
藤村は着物でも食物でも独特な凝り方をしていて、その意味で相当ぜいたくであったと思う。飯倉片町の借家をただ外から見ただけの人には、その中でこういう凝った生活が営まれていることをちょっと想像しにくかったであろう。しかしその質素な住宅が、また一つの凝り方であったことを考えないと、藤村の個性は十分に理解されない。
これは衣食住の末に現われたことであるが、しかし同じような態度は、その仕事の全面を支配していたと言ってよい。おのれの好みに忠実であること、おのれの個性を大事にすること、これが藤村の仕事の筋金になっている。『春』『家』『新生』『夜明け前』と続いた藤村の主要作品を押し出して来た力は、そこにあると思う。
ところで右にあげたような藤村の好みのなかにはっきりと現われている独自な性格は、それが無遠慮に発揮されないで、何となく人の気を兼ねるという色合いを持っていることである。
昔の日本人は、他人に見える着物の表面を質素なものにし、見えない裏に贅をつくす、というようなやり方を好んだ。これはもと幕府の奢侈禁止令に対して起こったことであるかもしれぬが、やがてそれが一つの好みになってくると、奢侈をなし得る能力のあるものでも、それを遠慮した形で、他人に見せびらかさない形でやることが、奥ゆかしいように感ぜられて来た。これは欧米人が、その奢侈をありのままに露呈してはばからないのに比べると、非常に異なった好みである。世間をはばかり、控え目にするという態度そのものが、その好みの核心になっているのである。こういう好みは日本でももう古風であるかもしれないが、藤村にはそれが強く働いていたと思う。金持ちの息子が立派な住居に住んでいるのを批評して、あれでよく恥ずかしくないものだと言った藤村の気持ちには、それがあったであろう。彼はそういう住居を建てる資力を持っているかもしれない、しかしそれは彼自身が自分の仕事から得た資力ではないであろう、それならば彼は世間の手前そういう家に住むのを恥ずべきである。そう藤村は考えたのであろう。美しい住居そのものが無意義なのではない。彼自身も、「あのウイリアム・モリスのように、自分の心の世界と言ってもいいような家を作って、そして、そういうところに住んでみることは、決してぜいたくとは思いません。そこには生活というものと芸術とのおもしろい一致もあると思いますが、けれども私などの境涯では、そんなことは及びもつきませんね」と言っている。問題は「境涯」なのであるが、大正の末、五十幾つかになっていた藤村は、その数々の名篇をもってしても、なお自分の境涯がそれにふさわしいとは認めなかったのである。そうすればどんな人が、生活と芸術との一致した家に住んでよいと認められたのであろうか。
が、他の人の気を兼ねるという傾向は、右のような好みにのみ基づくのではあるまい。物心がついて以後の藤村の生い立ちの苦労が、この傾向と深く結びついているであろう。『桜の実の熟する時』や『春』などで見ると、藤村はその少年時代や青年時代を他人の庇護のもとに送り、その年ごろに普通のわがままをほとんど発揮することができなかったのである。それに加えておのれの生家のいろいろな不幸をも早くから経験しなくてはならなかった。無邪気な少年の心に、わがままを抑えるとか、他人の気を兼ねるとかの必要が、冷厳な現実としてのしかかってくる。これは一人の人の生涯にとっては非常に大きい事件だと言わなくてはなるまい。こうして、ありのままのおのれを卒直に露呈するという道は、早くから藤村の前にふさがれたのである。内からもり上がってくる青春の情熱は、それにもかかわらず、ありのままのおのれを露呈するように迫ってくるが、しかしそういう激発があっても、普通の場合ならば傷痕を残さずにすむような出来事が、ここでは冷厳な現実のために、生涯癒えることのない大きい傷あとを残すことになる。従って青春の情熱そのものがここでは非常な不幸の原因になるのである。『春』は私が一高にいたころに発表されたものであるが、最初それを読んだ時には、この作の主人公を苦しめている根本の原因が、よくのみ込めなかった。私ばかりでなく、私の仲間も大抵そうであった。私たちには、「少年の時分から他人の中で育った」ということの意味が、一向にわかっていなかった。私たちはありのままを露呈するということを少しもはばからなかったし、またそれを妨げようとする力をも骨身に徹するほどには経験していなかった。地方の農村で育った私でさえそうであったから、東京の山の手で育った連中は、一層そうであったであろう。ちょうどそのころに、文芸ではありのままの現実を描写すると称する自然主義がはやり始めたし、思想の上では個人主義が私たちを捕えた。他人の気を兼ねるという気持ちは、そういう所へ押しつけられる体験を持たないわれわれには、単に因襲的なものとして、あるいは無性格のしるしとして、排斥されてしまったのである。
しかし少年時代からこの苦労をなめて来た藤村にとっては、それは、思想的遊戯の問題などではなかった。おそらく藤村自身それをはっきりと反省の材料となし得ないほどに、それは藤村のなかに深くしみ込んでいたであろう。藤村は、無性格などということとはおよそ縁遠い、個性の強い人であった。その強い個性によっておのれの独自の世界をきり開いて行こうとする努力と、遠慮深い、他人の気を兼ねる習癖とが、藤村においてはいや応なしに結びついてしまったのである。
芥川龍之介が自殺したときに、藤村は一文を書いた。それを書かせる機縁となったのは、芥川の『或阿呆の一生』のなかにある次の一句である。「彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出逢ったことはなかった」。藤村はそれを取り上げて、「私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろう」と嘆いている。
ところで私もまた、『新生』が出始めた時分に、主人公が女主人公の妊娠を知って急に苦しみ始める個所を読んで、それから先を読み続けるのをやめた一人である。世間に知れるという怖れが主人公の苦しみの原因であって、初めに女主人公と関係したことは何の苦しみをもひき起こしていないように見えたからである。この点はその後ゆっくりこの作を読み返してみても、やはりそうだと思った。最初関係するところは非常に注意深く伏せてあった。従ってこの作の主人公は、世間の思わくの前に苦しんでいるのであって、おのれの良心の前に苦しんでいるのではない。もし『菊と刀』の著者がこの作を読んだのであったならば、この個所を有名な証拠として引用したであろう。
が、そこにこそ問題があるのであることを、私は久しい間気づかなかった。世間の思わくの前に苦しむのであって、自分の良心の前に苦しむのでない、と言われ得るほど、他人の気を兼ねる習癖が、作者藤村の個性にこびりついていればこそ、藤村は『新生』のために悪戦苦闘したのである。少年時代以来の藤村の苦労を、作品を通じて通観し得たときに、私にはやっとこのことがわかった。この苦労が次の苦労を生んだのである。ありのままのおのれを卒直に投げ出すような気持ちになれるために、作者も主人公もあのような苦労を積み重ねなくてはならなかったのである。
しかし『新生』を書いたことによって藤村があの習癖を完全に脱却したというのではない。『新生』は藤村があの習癖を自覚したということの証拠なのであって、脱却の運動はそこに始まったばかりなのである。少年のころから深く植えつけられた習癖が、そう簡単に抜き去られるものではない。
藤村の文体の特徴も、おそらくここに関係があるであろう。ありのままを卒直に言ってしまうということは、実際にありのままを表現し得るかどうかは別問題として、一つの性格的な態度である。その態度のもとに、素直な卒直な表現の仕方を作り出して行くためには、いろいろな苦心をしなくてはなるまいが、しかしその態度そのものは、割合に早く固定するもののように思われる。しかるに幼少のころから、他人の感情を害すまい、他人の誤解を受けまいというふうな用心によって、卒直な感情の表出を統制するように訓練されて来たとなると、右のような態度そのものが、何となく浅はかなような、奥ゆかしさを欠いたものとして感ぜられるようになるであろう。そこには卒直な物言いの人の知らないような、細かいセンスが働くであろう。私はそういうセンスが藤村の文体と密接に関係しているように感じる。一例をあげると、藤村のしばしば使っている「……と言って見せた」という言い回しである。前後の連関から見て、他の作者なら単純に「……と言った」としてしまうところに、藤村はわざわざこの言い方を使っているのである。ところで、「言ってみせる」という言葉は、「言う」というのと同じ意味ではない。してみせるとか、着てみせるとかと同じように、言ってみせるのもまた「試みに言う」のであって、取りかえしのつかない実践的な人格の発動としての「言う」行為なのではない。人が笑いながら「殺すぞ、と言ってみせた」としても、相手は殺意などを感じはしない。しかるに藤村は、作中の人物がまじめに相手に対して言葉によって働きかけている場合にも、「と言って見せた」という描写をやっているのである。同情なしに見る人は、ここに思わせぶりな態度とか、特殊な癖とかを認めるであろう。しかし藤村がわざわざこういう言い回しをするには、何かそう言わずにいられないものがあるのだと考えなくてはならぬ。それは、この人物がこの場合、言葉に現わしきれない、どういっていいかわからない気持ちを抱きながら、何とかいわずにいられなくて、試みにこうでも言い現わしたらどうであろうかという態度で、そう言った、ということなのであろう。そういう気持ちが、「……と言って見せた」という言い回しで十分現わされているかどうかは、別問題である。が、とにかくそういうセンスが働いてあの文体ができているということは、認めなくてはなるまい。
藤村自身も『言葉の術』のなかで言っている。「言葉というものに重きを置けば置くほど、私は言葉の力なさ、不自由さを感ずる。自分等の思うことがいくらも言葉で書きあらわせるものでないと感ずる。そこで私には、物が言い切れない」。岩野泡鳴のように、あけ放しに物の言える人から見ると、藤村の書いたものは思わせぶりに感じられたかもしれぬが、物の言い切れない藤村から見ると、泡鳴のように物を言い切ってしまう人は、話せないように感じられる、というのである。つまり藤村は、自分の文体が物の言い切れない文体、「……と言って見せる」文体であることを認めているのである。
幼少のころから他人の気を兼ねて育ったということは、それほどまでに深く藤村のなかに食い入っていると思う。
が、この幼少以来の苦労のおかげで、藤村の描いた世界のなかには、一つの非常にはっきりとした特徴が結晶している。
私は『夜明け前』を読んだ時にそれを痛切に感じたのである。この作にはかなりいろいろな人物が現われてくるが、作者はどの人物をも同情をもって描き、それぞれにその所を得させるように努めている。従っていろいろないやな事件が起こるにかかわらず、いやな人物は一人も出て来ない。作の世界全体に叙情詩的な気分が行きわたり、不幸や苦しみのなかにもほのぼのとした暖かみが感ぜられる。これは全く独特な光景だと私は思ったのである。
しかし考えてみると、この特徴はすでに『春』や『家』や『新生』などにも現われている。作者はどの人物をも責める態度で描くということがない。ちょうど「物が言い切れない」と言われていると同様に、人物をも一つの性格に片づけ切れないという趣が見える。苦労した人の目から見れば、人生はそういうふうに見えるかもしれない。遠くから見て、不埒な、怪しからぬ人物に見えていても、その人の立場に立てば、そうでないいろいろな点がある、ということになるのであろう。それを思いやり、そういう人の気をも兼ねるということになれば、作中の人物をくっきりと浮き彫りにし、それぞれにあらわな特徴を与えるということは、ちょっとやりにくくなる。どの人物の言行にも、はっきりと片づいた動機づけをすることができない。それが作の世界全体に叙情的な色調を与えるゆえんなのであろう。
私はこの態度が作者として取るべき唯一の道だとは思っていない。ありのままを卒直に言おうとする態度の人、物を言い切る人、人の気を兼ねるということをしない人でも、その態度によってひき起こすいろいろな苦労をしなくてはならないのである。またその苦労によって得た体験を書き現わそうとする場合には、この態度につきまとう独特な困難、すなわち主観的見方のなかに落ち込んでしまうという困難を切りぬけるために、特に烈しい苦心をしなくてはならないであろう。しかしそれを切りぬけて出た作者は、その卒直な態度のゆえに、また物を言い切る明快さのゆえに、物の形のくっきりとした、明澄な世界を作り出すことができるであろう。そういう作の中には、非常によい人物と、非常にいやな人物とが、並んで現われるかも知れない。作者は作中の人物を平等に愛するのではなく、一を愛し他を憎むのであるが、そういう愛憎の卒直な表現からでも、我々は優れた作品を期待することができる。
しかし藤村の個性はそうでない態度の上に立っているのである。だから藤村の作品からその個性にないようなものを求めるのは、見当違いだと思う。藤村の作品からは我々は苦労人の目から見たしみじみとした人生の味を味わい取ることができる。特に藤村が全力を集注して書いた数篇の長篇は、くり返して読むに価する滋味に富んだものである。またくり返して読ませるだけの力を持った作品である。
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新潮」
1951(昭和26)年3月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
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