和辻哲郎



 大地震以後東京に高層建築のえて行った速度は、かなり早かったと言ってよい。毎日その進行を傍で見ていた人たちはそれほどにも感じなかったであろうが、地方からまれに上京する者にはそれが顕著に感ぜられた。六、七年前銀座裏で食事をして外へ出たとき、痛切にシンガポールの場末を思い出したことがある。往来から夜の空の見える具合がそういう連想を呼び起こしたのかと思われるが、その時には新しく建設せられる東京がいかにも植民地的であるのを情けなく思った。しかしその後二年もたつとシンガポールの場末という感じはなくなった。おいおい高層建築が立ち並ぶに従って、部分的には堂々とした通りもできあがって来た。全体としては恐ろしく乱雑な、半出来の町でありながら、しかもどこかに力を感じさせる不思議な都会が出現したのである。

 この復興の経過の間に自分を非常に驚かせたものが一つある。二、三年前の初夏、久しぶりに上京して東京駅から丸の内の高層建築街を抜けて濠側ほりがわへ出たときであった。濠に面して新しい高層建築が建てそろっている。ここがあの荒れ果てた三菱が原であった時分から思うと、全く隔世の感がある。しかし自分を驚かせたのはこの建て並んだ西洋建築ではない。これらはまことに平凡をきわめたものである。そうではなくしてこれらの建築に対し静かに眠っているようなお濠の石垣と和田倉門とが、実に鮮やかな印象をもって自分を驚かせたのである。柔らかに枝を垂れている濠側の柳、よどんだ濠の水、さびた石垣の色、そうして古風な門の建築、──それらは一つのまとまった芸術品として、対岸の高層建築を威圧し切るほどの品位を見せている。自分は以前に幾度となくこの門の前を通ったのであるが、しかしここにこれほどまで鮮やかな芸術を見いだしたことはなかった。その後この門が修築せられたにもしろ、以前とさほど形を変えたわけではない。何がこのように事情を変ぜしめたのであろうか。ほかでもない、濠側に並んだ高層建築なのである。それが明白に異なった様式をもって石垣と門とに対立したとき、石垣や門はいわば額縁がくぶちの中に入れられた。すなわちそれらは für sich になった。そこで石垣や門の持っている固有の様式がまた明白に己れ自身を見せ始めたのである。石垣や門の屋根などの持っている彎曲わんきょく線は、対岸の西洋建築には全然見いだされないものである。石垣の石の積み方も、規格の統一とはおよそ縁のない、また機械的という形容の全然通用しない、従ってそれぞれの大きさ、それぞれの形の石に、それぞれその場所を与えたあの悠長なやり方である。それらはもはや現代には用いられ得ぬものであるかもしれない。しかしそれによって形成せられた一つの様式がその特殊の美を持つことは、消し去るわけには行かないのである。

 復興された東京を見て回って感じさせられたことも、結局はこれと同じであった。巨大な欧米風建築に取り囲まれた宮城前の広場に立ってしみじみと感ぜさせられることは、江戸時代の遺構が実に強い底力を持っているということである。それは周囲に対立者のない時にはさほど目立たなかった。それほど何げのない、なだらかな、当たり前の形をしているからである。しかるにその、「なんにもない」と思われていた形の中から、対立者に応じて溌剌はつらつとしたものがき出て来る。たとえば桜田門がそれである。あの門外でながめられるお濠の土手はかなりに高い。しかしそれは穏やかな、またなだらかな形の土手であって、必ずしも偉大さ力強さを印象するものではなかった。しかるに今この門外に立って見ると、大正昭和の日本を記念する巨大な議事堂が丘の上から見おろしている。そうして間近には警視庁の大建築がそそり立っている。そうなるとあのなだらかな土手が不思議にも偉大さを印象し始めるのである。あの濠と土手とによる大きい空間の区切り方には、異様に力強い壮大なものがある。しばらく議事堂や警視庁の建築をながめたあとで、眼を返してお濠と土手とをながめるならば、刺激的な芸のあとに無言の腹芸を見るような、もしくは巧言令色こうげんれいしょくの人に接したあとで無為に化する人に逢ったような、深い喜びを感ずるであろう。そうしてさらに門内に歩み入って、古風な二つの門と、さびた石垣と、お濠と土手とだけでできている静寂な世界の中に立つと、我々の離れて行こうとする世界にもどれほど真実なもの偉大なものがあったかを感ぜずにはいられないであろう。

 少し感じは異なるが、大阪城もまた古い時代を記念する大きい遺跡である。中の嶋あたりに高層建築が殖えれば殖えるほど、大阪城の偉大さは増して来る。そうしてそれは、江戸城の場合とは異なって、まず何よりもあの石垣の巨石にかかっている。あの巨石は決して「何げのない」「当たり前」のものとは言えぬ。のしかかるように人を威圧する意志があそこには表現せられている。ただ石垣に並べただけの石にそんな表現があるものかと言う人があるかもしれない。しかし大阪城を見る人は誰だってあの石には驚くのである。何ゆえに驚くか。山の上の巨岩を見ても同じ驚きは起こらない。そういう巨岩を大阪まで持って来て石垣の石として使いこなしているその力に驚くのである。自分はああいう巨石運搬についての詳しい事情は知らないが、専門家の研究を瞥見べっけんしたところによると、結局は多衆の力によるらしい。しかしその多衆の力というものが個々の力を累計したものでなく一つの全体的な力に統一されなくては巨石は動かないのである。煉瓦を積んで大伽藍だいがらんを造る場合にも多衆の力は働いているが、その力は煉瓦を運ぶ個々の力の集積であってよい。巨石運搬の場合には大綱に取りついた無数の群衆と、その群衆の力を一つにまとめる指導者とが必要である。絵で見ると巨石の上には扇をかざした人が踊っている。というのは、全身を指揮棒に代えて群衆の呼吸を合わせているのである。京都の祇園祭ぎおんまつりのほこ山車だしの引き方はそのかすかな遺習であるかもしれない。大阪城の巨石のごときは何百人何千人の力を一つの気合いに合わせなくては一尺を動かすこともできなかったであろう。それでもまだどうして動かせたか見当のつかないほどの巨石がある。そういう巨石を数多くあの丘の上まで運んで来るためには、どれほどの人力を要したかわからない。その巨大な人力が凝ってあの城壁となっているのである。その点においてはエジプトのピラミッドもローマのコロセウムも大阪城に及ばない。しかもそういう巨大な人力をあの城壁に結晶させた豊太閤は、現代に至るまで三百余年間、京都大阪の市民から「偉い奴」であるとして讃美され続けて来たのである。そうしてこの「偉い奴」を記念する酔舞の行列は、欧米風の高層建築の並んだ通りをもなお練って行くのである。

 お城を讃えると人はすぐに封建時代の讃美として非難するかもしれない。しかしお城が偉大さを印象すると主張することは、封建時代を呼び返そうとすることでもなければ、また、封建時代的な営造物を新しく作るように要求することでもない。それぞれの時代はその弊害や弱点を持つとともにまたその時代固有の偉大さを持っている。江戸時代の文化の偉大な側面に対して色盲となりつつ、ただその矮小を嘆くということは、この文化に対する正しい態度とは言えない。お城はただその一例であるが、他になおいくらでも例をあげることができよう。たとえば街路樹である。日本の古い都会には街路樹がなかった。だから西洋の都会をまねて街路樹を植え、しかもその樹にプラタヌスを選ぶなどということも、確かによいことではあったろう。しかしそれとともにあたかも日本に街路樹がなかったかのごとくに考えてしまうということは、前に言った色盲である。東海道の松並み木や日光の杉並み木などは、世界に類例のないほど豪壮な街路樹ではないか。松の幹が大きくうねって整列していないということは街路樹たる資格をごうさまたげるものではない。もし街路樹の必要を感ずるならば、すでにかくのごとき壮大な街路樹の存することを認識し、またそれを尊重しなくてはならない。そうすれば電線の下にすくんでいる矮小な樹が街路樹であると考えるような大きな見当違いをしなくても済んだであろう。欧州の都市においてはこのように小さな街路樹はただ新開の街にしか見ることができない。少しく立派な街ならば街路樹は風土相応の大木となっている。また大木とならなければ美しい街になることはできぬのである。街路から電線を取り除くことが不可能であるならば、電線は街路樹の枝の下に来べきものであって、梢を抑えるべきものではない。従って街路樹が電線の高さを乗り超え得るように工夫してやるべきである。そうでない限りいわゆる街路樹なるものは、松並み木、杉並み木などと呼ばれる古来の街路樹に対して、比較にさえもならないお茶番に過ぎぬ。そうして松並み木や杉並み木の街路樹としての壮大さを讃美することは、封建時代を呼び返そうとすることなどでは決してないのである。

 これらのことを思うとき、それぞれの文化産物が、それに固有な様式の理解のもとに鑑賞されねばならぬことを痛感する。街路樹もそれぞれに様式を持っている。城のごときモニュメンタルな営造物は一層そうである。人はそれぞれの時代的、風土的な特殊の様式に対して、眼鏡の度を合わせることを学ばねばならない。そうすることによってそれぞれの物が鮮明に見え、その物の持つ意義が読み取られ得るのである。自分にとって鮮明でないからといってその物を無意義とするのは単なる主観主義に過ぎない。それはまた幼稚の異名である。我々は日本の文化の現状がまだこの幼稚の段階にとどまっているのではないかを恐れる。欧州文化の咀嚼そしゃくにおいても、また自国文化の自覚においても。


(注)浜田耕作はまだこうさく氏によると、大阪城大手門入り口の大石の一は横三十五尺七寸高さ十七尺五寸に達し、その他これに伯仲するものが少なくない(『京大考古学研究報告』第十四冊、六〇ページ)。かりにこの石の厚さを八尺とし、一立方尺の石の重さを十九貫四百匁とすれば、この石の重さは約十万貫、三七五トンとなる。なお梅原末治うめはらすえじ氏によれば、大阪城には四間に八間の大石もあるそうである。またエジプトの大ピラミッドの石は三フィート角、重さ二英トン半、石の数約二百三十万個だそうである。

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店

   1995(平成7)年918日第1刷発行

   2006(平成18)年1122日第6刷発行

初出:「思想」

   1935(昭和10)年7月号

入力:門田裕志

校正:米田

2010年1214日作成

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