享楽人
和辻哲郎
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五、六年前のことと記憶する。ある夜自分は木下杢太郎と、東京停車場のそのころ開かれてまだ間のない待合室で、深い腰掛けに身を埋めて永い間論じ合った。何を論じたかは忘れたが、熱心に論じ合った。二人の意見がなかなか近寄って来なかった。そこを出て大手町から小川町の方へ歩いて行く間も、なお論じ続けた。日ごろになく木下が興奮しているように思えた。小川町の交叉点で──たしかそこで別れたように思うが──木下は腹立たしい心持ちを言葉に響かせてこう言った。
──結局僕が Genußmensch で、君がそうでない、ということに帰着するんだな。
この Genußmensch(それを試みに享楽人と訳した)という言葉を、木下は誇らしく発音した。そうでないと言われるのが自分には不満に感じられたほどに。でその時はこういう結論で物別れになったのが、気持ちよくなかった。しかしこの言葉が自分の頭に残って、幾度か反復せられている間に、だんだんそれが木下と離し難いものとなり、木下の特性を示すもののように思われて来た。今度彼の『地下一尺集』を読んで最初に頭に浮かんだのも、実はこの言葉である。
「享楽人」を単に「享楽する人」、「味わう人」の意に解するならば、人間は総じて何ほどかずつは享楽人である。が、特に一つの類型として認められる享楽人は、一定の特性を持ったものでなくてはならない。その特性は、第一に「享楽」すなわち「味わうこと」を他の何ものよりも重んじ、それによって彼の生活に統一を求めることである。第二に、味わう能力の特にすぐれていることである。
第一の特性は、美に浸る心持ちを善にいそしむ心持ちよりも重んずることを意味する。従って善への関心がないのではない。ただそれが美への関心の下位に立ちさえすればよいのである。むしろ善への関心の強く存在する方がこの特性を一層明らかにするだろう。なぜなら、善への関心が強まるほど美への関心は一層強まり、従って後者を「ヨリ重んずる」ことがきわ立って来るからである。
たとえば我々が人の苦しみに面した場合には、その苦しみを味わうのみでなくさらに実際的にその苦しみを取り除こうとする衝動を感ずる。この場合我々は味わう態度にとどまっていることができない。味わう態度にいることは、ふまじめな、たわけたことにさえも感ぜられる。しかし我々は、苦しみを取り除こうとする衝動がいかに強く起こったにしても、必ずしもそれを取り除き得るとは限らない。その際には我々はさらに一層の苦しみを感ずる。この衝動が強ければ強いほどこの苦しみもまたはなはだしい。その時我々はどこに落ちつき場所を求めるか。落ちつけないという断念に──すなわちこの世を苦渋の世界と観ずることに、落ちつきを求めるか。あるいは絶対の力にすがるか。あるいはなすべきことをなし切らない自己を鞭うつか。あるいは社会の改造に活路を認めるか。──それらはおのおの一つの道である。がこの場合、美の陶酔に自己の安んずる場所を認めるとすれば、それは右の諸種の道と異なった一つの特殊な道である。ここでは美への関心が善への関心の上に置かれる。そうしてあの苦しみが強ければ強いほど、この安心の方法もまたその意味を深めるのである。
木下杢太郎は傷つきやすい心を持っている。悲哀にも沈みやすい。こうもりが光を恐れるように倫理的な苦しみを恐れる。それゆえに、「一生を旅行で暮らすような」彼は、「生の流転をはかなむ心持ちに纏絡する煩わしい感情から脱したい、乃至時々それから避けて休みたい、ある土台を得たい」という心を起こすのである。そうしてそれが、たとい時に彼を宗教へ向かわせるにしても、結局宗教芸術に現われた、「永久味」の味到に落ちつかせる。彼においては美の享楽が救いである。彼の求める「土台」は美において、最も深い「美」において、得られるのである。彼からこの「享楽」を奪えば、彼は破滅するであろう。
『地下一尺集』に収められた警抜な諸篇は、生の重心をこの「享楽」に置いた作者の人格を、きわめてよく反映している。彼の描く人と自然とは、常に彼の「享楽」の光に照らされて、一種独特な釣合をもって現われてくる。非常に広濶な、偏執のない心が、あらゆる対象へ差別のない愛を注ぎながら、静かに、和やかに、それらを見まもっている、──そういう印象を与える。しかしそれは、木下杢太郎が実際生活においてそういう博大な心を持っている、という印象ではない。彼は享楽人であるために、その享楽の世界において無礙の愛を持っているのである。それだけにまたその愛には物足りないところもないではない。深く胸を刺すというような趣は少ない。無限の深い神秘へ人をいや応なしに引きずり込んで行こうとするような趣も乏しい。彼はかつて老いたる偏盲に嗟嘆させた、「いやしかし俺は自然の美しさに見とれていてはならぬ。いかな時といえども俺はただ俺の考察の対象としてよりほかに外象をながめてはならないのだ」。さよう、それが木下の享楽の一つの特徴である。彼は白墨で線を画して、その中で美を享楽する。その享楽は実によく行き届いている。が、その線の外に出ることを彼は不思議に恐ろしがるのである。
享楽人の第二の特性として、自分は味わう力の豊富なことをあげた。享楽人が、「味わうこと」を生活原理とする以上は、味わう能力の貧弱は畢竟人としての貧弱である。が、総じて一つの類型たり得るためには、彼は人として豊富でなくてはならぬ。すなわち享楽人はその享楽において広汎かつ強大な能力を持たなくてはならぬ。
享楽の対象は自然と人生の一切である。従って享楽はどの隅にもあり得る。しかし我々は金をためること、肉欲にふけることを無上の悦楽とする「高利貸的人間」が、広汎な享楽の力を持つとは思わない。むしろ彼らは貪欲と肉欲とのゆえに、自然と人生との限りなき価値に対して盲目なのである。彼らが一つの古雅な壺を見る。その形と色と触感との不思議な美しさは彼らには無関係である。彼らはただその壺の値段を見る。その壺で儲けたある骨董屋の事を考える。同様にまた彼らが一人の美女を見る場合にも、この女の容姿に盛られた生命の美しさは彼らには無関係である。彼らはただ肉欲の対象として、牛肉のいい悪いを評価すると同じ心持ちで、評価する。この種の享楽の能力は、嗅覚と味覚の鈍麻した人が美味を食う時と同じく、零に近いほどに貧弱である。
放蕩者は一般に享楽人と認められる。しかし放蕩者のうちに右のごとき貧弱な享楽人の多いことは疑えない。芸妓の芸が音曲舞踊の芸ではなくして枕席の技巧を意味せられる時代には、通人はもはや昔のように優れた享楽人であることを要しないのである。
享楽の能力が豊富であるとは、物象に現われた生命の価値を十分に味わい得るということである。そのためにはあらゆる種類の物象に対して常に生命の共鳴を感じ得るほどに自己の生命が広く豊かでなくてはならない。
木下杢太郎はその享楽の力の広汎豊富な点において確かに現代に傑出した男である。彼はその触れる物象に対して類まれなほど活発に反応する。そうしてその美を新鮮な味わいにおいてすくい取る。しかも彼は少数の物象にとどまることをしないで、彼を取り巻く無数の物象に、多情と思えるほどな愛情をふり撒く。『地下一尺集』の諸篇はこの多情な、自然及び芸術との「情事」の輝かしい記録である。伊豆の海岸。(そこで彼はゲエテの『イタリア紀行』の向こうを張って、「日本」の海岸を描き出す。)江戸。京、大阪。長崎。(この三地方が江戸時代の日本文化の三つの中心である。元禄の享楽人にとってこの三地方が重大であったように、彼もまた祖国日本をこの三基点の上で鑑賞する。)奈良。(ここで故国が世界的な背景の前に味わわれる。)北京。徐州。洛陽。(ここで彼は東洋人になる。東京の裏街で昔の江戸の匂いを嗅いでうっとりとしていた彼とは思えないほどに、「茫乎として暗澹たる」シナの風物をおもしろがっている。)これらの郷土の風景と住民と芸術との一切が、ここにはあたかも交響楽に取り入れられた数知れぬ音のようにおのおのその所を得、おのおのその微妙な響きを立てているのである。
木下はこれらの物象を描くに当たって、その物象の「美しさ」以外に何ものにも囚われない心を示している。彼は色道修行者のように女の享楽を焦点として国々を見て歩くのではない。また彼は美術史家のように、ただ古美術の遺品をのみ目ざして旅行するのでもない。彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えられたあらゆる物象に対して偏執なく愛を投げ掛ける。その愛が酪駝の隊商にも向かえば、梅蘭芳にも向かい、陶器にも向かえば、仏像にも向かう。特に色彩と輪郭と音響とは、彼から敏感な注意をうける。この心の自由さと享楽の力の豊かさとが、『地下一尺集』の諸篇をして、一種独特な、美しい製作たらしめるのである。
木下は青年のころゲエテの『イタリア紀行』を聖書のごとく尊んでいた。この書が彼にいかに強く影響しているかは、『地下一尺集』の諸篇を読む人の直ちに認めるところであろう。確かに『イタリア紀行』のゲエテは彼のよき師であった。しかし彼はこの師によって彼の内のよき芽を培われたのであって、単に師を模倣しているのではない。彼の自由な、余裕ある、落ちついた態度は、ゲエテを模するまでもなく、彼の享楽人としての素質から生まれ出るのである。がゲエテは、きわめて享楽人らしいにかかわらず、根本において享楽人でなかった。彼は『ファウスト』においてそのしからざる真面目を呈露している。従って彼の自由な、余裕ある、落ちついた鑑賞の態度は、彼の「人」としての大いさから出ているのである。ここに木下がこの師からさらに深く学ぶべきものがある。そうして自分の木下に対する友情は、木下に向かって「この師にさらに深く学ぶ」ことを忠告させようとする。彼はさまざまの近代芸術に心を魅せられたが、しかし結局彼の師は、彼がその早い青年時代に感じたごとく、ゲエテでなくてはならない。彼の内にさらにこの師に培わるべき、重大な芽がひそんでいることを、自分は明らかに感じている。自分はこのことを彼の外遊の発途に当たってあえていう。彼はおそらくイタリアにおいて、フランスにおいて、故郷に帰ったような心の落ちつきを感ずるであろう。そうしてそれは彼を再び十年前の夢に引き戻すであろう。そこで昔の師が再び彼の心を捕えなくてはならぬ。自分は彼のヨーロッパ紀行に楽しい望みをかける点において、人後に落つるものでない。しかしその「望み」のうちには右のごとき期待と祈りが強く混じているのである。
付記。この文章は十七年前に書かれたものであるが、その後の年月はこの文章の誤謬をはっきりと示している。木下は確乎としたフマニストであって享楽人ではない。
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「人間」
1921(大正10)年5月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
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