鉄くそぶとり
続旧聞日本橋・その二
長谷川時雨
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あんぽんたんとよばれた少女のおぼつかない記憶にすぎないが、時が、明治十六年ごろから多く廿年代のことであり、偶然にも童女の周囲が、旧江戸の残存者層であって、新文明の進展がおくれがちであったことなど、幾分記録されてよいものであったためか、先輩の推賞を得た拙著『旧聞日本橋』の稿を、ここにつづけることをよろこびといたします。
お夜食におくれて、遅く帰って来た人のお菜に、天ぷらをとりにいった女中が、岡持のふたをあけながら、近所の金持ちの主人が、立食をしていたということを、
「お薬缶のようにテラテラ光って──」
といったので、台所に湯気をあげている銅薬缶の大きいのを見て、天ぷらやの屋台に立っていた、恰幅のいい、額の長く光った、金物問屋の旦那さんの顔を、あんぽんたんまでが思出して、一緒に笑った。
堅気な町には、出前を重な蕎麦やがあるくらいなもので、田所町に蒲焼の和田平、小伝馬町三丁目にも蒲焼の近三、うまや新道から小伝馬町三丁目通りにぬける露地に、牛肉の伊勢重があるだけだった。
現今は、人形町通りに電車が通り、道幅が広がっているが、人形町通りは大門通りと平行して竪に二筋ならんでいたのだが、大門通りの気風と、人形町とはまるで違っていた。人形町通りは、昔の三座や、その他の盛り場のあった名残りで、日本橋区中の繁華な場処なのに、大門通りは大商家が、暖簾をはずし、土に箒目をたてて、打水をすましてしまうと、何処もひっそりしてしまって、大戸をおろした店蔵の中では、帳合がすむと通いの番頭さんは住居に帰り、あとは夜学──小僧たちが居ねむりをしながら、手習や珠算の練習をやる。尤も、大門通りは名のごとく万治の昔、新吉原へ廓が移けない前の、遊女町への道筋の名であるゆえか、大伝馬町、油町、田所町、長谷川町、富沢町と横筋にも大問屋を持つ五、六町間の一角だけがことに堅気な竪筋なので、住吉町、和泉町、浪花町となると、葭町の方に属し、人形町系統に包含され、柔らいだ調子になって、向う側の角から変ってくるのが目にたっていた。そして、劃然とではないが、もうそのあたりは大門通りとはよばなかった。大門通りの突当りといった。突当りの感じのするように和泉町が押出していてそれから道幅がせまくなり、ゴミゴミした裏に、松島町の長屋があったのだ。
大門通りでは、屋台店も、表筋の道路へは遠慮して出なかった。横町の、人形町側へ出はずれかける場所に、信用されている品のよい店が秋から春まで一、二軒出た。
屋台店の立食は、湯がえりの職人か、お店の人の内密食、そのほかは、夜長の、夜業をしまったあとで時折買うものだと、大問屋町の家庭では下女たちまで、そんなふうに堅気にしこまれていたので、大所の旦那さんの天ぷらの立食は、なんとまあ呆れたものだというわけだったのだ。示しがつかないでございましょうとお爨どんでさえいうのだ。
立食旦那の家は、店蔵、中蔵、奥蔵、荷蔵と、鍵の手につらなって、何処もかも暗い大きな家だった。奥深い店の、奥の方の棚に、真鍮の火鉢の見本が並べてあるのが、陽の光がどこからさすのか、朝の間のある時、通りがかりに覗きこむと、黄色くキラキラ光っていて、黄昏に御仏壇を覗いたような店の家だった。
ああいう家は、金がうなってるんだと、よく、町の細かい人たちは噂していた。庭は、横の新道までぬけた広いのだのに、住居にしている中蔵の前に、コチョコチョと石を積上げた築山をつくり、風入れや、日光をわざと遮ってしまって、漆喰の池に金魚を入れ、夏は、硝子の管で吹きあげる噴水のおもちゃを釣るした。
湯がえりの下駄の歯がカラカラ鳴って、星が光る霜夜に、
「ま、め──煎りたてま、め──」
と火をぱたぱた煽ぐ音をさせたり、
「いなりさん──」
と、十軒店の治郎さんの、稲荷鮨が流してくるようにならなければ、おでんやや、蠑螺の壺焼やも出なかった。夜になると、人力車さえ通らない、この大店ばかりの町は、田舎のように静かで、夜が更け冴えて、足袋やさんが打つ砧が──股引や、腹掛けや、足袋地の木綿を打つ音が、タン、タン、タン、タン、カッツン、カッツンと遠くまで響き、鼈甲屋さんも祝月が近づくので、職人を増し、灯を明るくして、カラン、カン、カン、カランカンカンと、鼈甲を合せる焼ゴテの鐶を、特長のある叩きかたで、鋭く金属の音を打ち響かせている。そんな晩、らんぷや行燈の下で、てんでの夜業をしていた家々の奥のものが、夜のお茶受けに、近所にはばかりながら買いにやるのだが──
立食旦那の家内では、総出で、夜更けの屋台店に立並んでいる。暖かげな、ねんねこばんてんへくるまって、襟巻きをして、お嬢っちゃんも坊さんも──お内儀さんが、懐から大きな、ちりめんの、巾着を出して、ぐるぐると、巻いた紐を解いてお鳥目をつかみ出して払うのを、家の者に気がつかれないように、そっと女中にくっ附いていって、女中の袖の下から、小さな梟のように覗いていたあんぽんたんは、吃驚して眼を丸めた。
あんぽんたんは、自由に外へ出して遊ばせて貰えないので、物干にあがって空を見たりとんぼと話したり、瓦の間から、わらじ虫がゆっくり出てくるのを見ていたり、てんと虫を見つけたりする。そんなときに、ずっと向うの、蔵と蔵との間の低い屋根に、小さな小僧が這出して来て、重そうな布団をひっぱり出して干すのをよく見た。あの金物やの小僧は、なんで毎日ふとんをほすのかと、祖母にきくと、「寝しなに、お餅を煮て、あったかいのを、一切食べさせてやればよいのだが──としよりもいるのに。」
といったが、その年よりも、小僧も、景気のいい立食には並ばない。あたしは、すこし大きくなってから、また訊いた。
「なんで、あんなことをするの、みっともないのにね。」
いつまでも、立食にこだわるようだが、問は、やっぱりそれだった。
「お金があるのにおかしい。」
女中さんが笑ったのとは違って、子供には、家内そろって、みんな一緒でないのが訝しかったのだ。
「あすこは、古いお家だから、お精進日が多いのだろう。」
ああ、なるほど──と、ちいっぽけな者にも、その意味がわかるほど、古風な紙が台所にさげてある家があったのだ。
精進日覚、
×日 朝
×日 昼まで
×日 終日しょうじん
そんなふうに書いて張ってあるが、三十日間に、幾日もあきのない家もあった。御先祖さまの日、御先代の日、誰の日、彼の日、等々と、精進日つづきで、どんなけちんぼのとこでもお魚をつけるおさんじつ(一日、十五日、廿八日)まで、お精進が繰込んでいる。時によりものによって、魚の方が野菜ものより安価なことのある今日とは、魚の相場が大変違うので、大勢の人をつかう大家内では、巾着と相談の上から考慮された仏心であったかもしれないが、土地がらに似合わない、洋服を着て抱え車に乗る、代言人の、わたしの父の家でさえ、毎月晦日そうじがすむと、井戸やおへっついを法印さんがおがみに来て、ほうろくへ塩を盛り御幣をたてたりしても、父も別段やめろともいわなかったようだ。
その法印さんは眼のくぼんだ、色の黒い人で、小柄で、髪の毛をチョンボリ結んでいたようだったが、はっきりとしない。神田今川小路の方の河岸つきの、引っこんだところに閑寂な小庭を持って、茶席めいた四枚障子の室がとっ附きにあって、その室のうしろは土蔵で、蔵住居らしかった。かなり物好な住居であったのであろうが、あんぽんたんがわすれないのは、法印さんではなくって、娘のお染さんという女だった。
娘といっても、お染さんは、三十を越していたかと思うがその頃のおつくりは地味ゆえもっと若かったのかも知れない。大柄な、色の白い人で、別段別嬪とは思わないが、『源氏物語』の中の花散る里──柳亭種彦の『田舎源氏』では中空のような、腰がふといようで柔らげで、すんなりしていて、裾さばきのきれいなのが、眼にしみて消えないのだった。花散る里を、後日お染さんによそえたのは、お染さんを忘れない日に見たその庭に、一本の梅の木があって、花が咲いていたのが、そんなふうに思わせる種だったのかも知れない。
お染さんのことで、母が、こんなことをいったのを、子供は耳をとめていたのだ。
「お染さんが手拭を出すのに、どれにしようかって、葛籠をあけると、役者の手拭ばかりが一ぱいはいっていて──」
あきらかに、驚嘆しているうちに、お染さんの何かを語っていたが、法印さんが死にでもしたのか、それきり家とは縁のない人になってしまった。
「乾山の皿はどっさりあったのだが、みんな、法印に賺かされて、もってってしまわれやがった。」
父は巻舌で、晩酌をやりながら、そんなことを言った。法印さんは、そんな品も見る眼があったのだろう。
「おたきは、法印が仲人だもんだから。」
と、母が遠慮して、ほしがると何んでもやったというふうにいったが、母は、深川の豪商、石川屋という廻船問屋の御新造で、花菊といった自分の伯母さんの手許に、小間使をしていたのだから、法印さんは、その廻船問屋のかまどさまもお払いをしていたわけなのであろう。
ある日、お宅に法印さんが来るなら、宅でも御祈祷してもらいたいと頼んで来たのは、横浜の弗相場で資産をこしらえ、メキメキと派手な暮しを展開してきた、古鉄から鉄物問屋になった四ツ岸だった。
鉄物問屋はみんな景気がよかった。古鉄をあつかった店なんかでも、すっかり紳商になってしまって、古い暖簾の多い金物店通りでも、成上りが多かった。裸一貫で仕上げて来た人だけに、お精進日ばかりが重なることはないから、陽気な跳返った、人間欲望をまる出しに剥き出した、傍若無人な生活態度が、古い伝統の町に際立って見えた。
四ツ岸のおおかめさんは、関取のような巨大な体を、小川湯にまでもってゆくのに、角力とりが小屋入りするような騒ぎで、謹しい町を行列して通る。小僧が二人、箒と衣裳籠と時によると敷蓙の巻いたのを担いでゆく。女中が浴衣を抱え、おとのさんという赤熊のような縮れ毛をした、ブルドック型の色の黒いお附女中が、七ツ道具を金盥へ入れて捧げてゆく。今日日は、花柳界もどきの、そんなふうな磨き道具を素人でも持つが、町家の女房ではまずない図だった。
おおかめさんは、何時も、大勢の娘のうち二、三人を連れていた。娘たちは醜くかったが、父親に似て色の白いのや、母親似で太く逞ましいので、とにかく四隣を圧し、押えに番頭さんの女房である痩せた、ヒョロヒョロの青黄ろい、皺の多い、髪の毛が一本ならべの女が附いてゆくのだ。
その番頭さんの女房も、お附女中のおとのさんも、おおかめさんの近親であるから、おおかめさんの豪勢ぶりも粗豪で異色があり、せまい小川湯は、たちまちこの一群に占領され特設のお風呂場のごとくなってしまう。
元来、大所は、みんな自宅風呂があるのだが、土一升、金一升の土地に、急にのさばり出したものには、金づくだけではその設備をする場所がないのだ。で、豪気な、おおかめさん一家は、けちけち町湯にゆくのが業腹で、白昼大門通りを異風行列で練りだすのだった。ときによると、あんぽんたんまで、その人数に加えようと、借にくるのだった。
あんぽんたんが可愛いから、売に来てやるんだと、たんかを切る、深川浜の蛤町からくる、倶梨伽羅紋々で、チョン髷にゆっているというと威勢がいいが、七十五歳のおじいさん江戸ッ子の小魚売は、やせても昔の型を追って、寒中でも素体に半纏一枚、空脛、すこし暑いと肌ぬぎで銀ぐさりをかけて、紺の腹掛と、真白い晒布の腹巻、トンボほどな小さな丁字髷が、滑りそうな頭へ、捻じ鉢巻で、負けない気でも年は年だけに、小盤台を二つ位しか重ねていないが、ちいさな鰈や、鯒がピチピチ跳ねていたり、生きた蟹や芝海老や、手長や、海の匂いをそのままの紫海苔と、水のように透いて見える抄いたての白魚の間から、ちいさなちいさな小蟹だのふぐだのを選出してくれる、皺の自来也の、年代のついたいさみの与三爺が、
「げッ、鉄屑ぶとりめ。」
と唾きを吐きかけたが、おおかめさんは、それほど豊やかに肥っている。顔は艶やかだが赤黒く、体の肉は襞ごとつまみあげて、そこここを切りとれば、美事な肉片が出来ると思われるほどだった。だから、その面積もたいへんなもので、体を拭くのに二人かかった。
ともかく、二人の先触れ小僧が、小川湯へつくと、他に浴客があろうがなかろうが、衣類の脱ぎ場をパッパッと掃きはじめ、蓙を敷く、よきところへ着物を脱ぐ入れものをおく。それから尻っぱしょりになって、流し場へ、お湯を酌んだ桶を積みあげ、ほどよく配置して、中央へその一党の場席を大きく陣取って待ちかまえるのだ。馴らされた小者は、他への気兼や、きまりのわるさなど、忘れてしまっているほど、おおかめさんが怖いのだ。口の中へ一ぱいに大福餅を押込まれたり、あの肥った体で踏んまたがれて、青坊主に剃りたてられるのが愁いのだった。
そうだっけ、小僧の一人、亀吉は剥身売りだったのだ。父親のない、深川ッ子の剥身売りが、おおかめさんの台所の障子口から顔を突ッこんで、買っとくれようといったのが縁で、この連中が面白がって小僧にしたのだから、気に入らないと、剥身を売っていたときの、着物きせて、大門通りを歩かせるぞと言われるのが、よっぽど恥かしかったものと見える。
も一人の平三は、車力の親方の子で『菅原伝授手習鑑』の寺子屋、武部源造の弟子ならば、こいつうろんと引っとらえと、玄蕃が眼を剥きそうな、ひよわげで、泥亀に似た顔をしている。亀吉の精悍さが眼立ちもしたが、平三の背景は亀吉とちがって、おおかめさんの連合が若い時分、吉原の年明けの女郎が尋ねてきたのを、車力宿で隠囲ってやっていたというのが、不心得で、親たちがおおかめさんに忠義でないといわれるぐらいだった。
おおかめさんの風貌を、もすこし委しくいえば、体の大きさと眼との釣合は鯨を思えばよかった。鼻は、眼との均衡がよいほどだが、竪に見えるほどの穴が実に大きい。私は古面展覧会で鎌倉期の、だれだかの作で、笑った女の面が、眼も鼻もなく、顔の真中につぼまって、お出額と、頬っぺたと、大きな腭に埋まってしまって、鼻の穴だけが竪に上をむいた、いかにも親しみやすい平民の女の顔を見たとき、ふっと、おおかめさん一族の女に共通だったものを見て、お面に笑いかけてしまった。けれど、古面の方は眼が糸目なので──開いても柔らかいであろうが──おおかめさんは、小さな眼が、奥のほうで濁った鋭さをもっていた。
おおかめさんとは、大旦那に対する、大内儀さんの意味で尊称なのであろうが、自分でいうとおおかみさんになり、出入りの相撲さん×山関がいうとおおかめさんとなる。狼がいいというものと、大お亀の方が縁起がいいというものと、どっちもごっちゃだ。
おおかめさんの御機嫌にさからうと、
「どいつもこいつも、みんな出ていけ。」
と家中のものが、一集めに頭から怒鳴られる。お品よく、お品よくと、お附女中から、大番頭さんの女房まで揃えても、ともすると夏は諸はだぬぎになったりして、当り屋仲間の細君が、以前から大家だったように勿体ぶっているのと、歩調が合わなくなると、
「あのお虎婆め、常磐津もろくに弾けない、もぐり師匠だったのを、わすれやがったか。」
と自分のおさとまでぶちわって、向う角の、蔵造りで、店は格子を閉めてある、由緒ありげに磨きあげて、構えこんでいる黒光りの角蔵を睨んで、その奥座敷におさまる比丘尼婆の、絽の十徳を着た女隠居に当りちらすのだった。
おおかめさんは八丁堀の古着屋の娘、近所の古鉄商の若い衆で、田舎出だが色白で、眼鼻立のはっきりしたのに惚れこんだのだ。若い衆の方は、金がなくても、夜寝床から裸でぬけだして、駕籠で飛ばして行くと、吉原で花魁がたてひいたんだと、紳士になってからも、湯上りにはすっかり形式をかなぐりすてて、裸になって、手拭を肩へかけ、立膝でお酒をのんで、土用のうちでも、蔵前のどじょう汁だとか、薬研堀の鯨汁好みが、汗をふきふき、すっかり紳士面になりきってしまった仲間をこきおろすのだった。平日は重い口が、顔が赤銅色に染まると、
「××屋は、すっかり殿さまぶっちまやがって、芸妓が来ても、おお、来たか、近う近うなんていやがる。夜っぴてよ、蝋燭でよ、銭勘定したり、横浜までゆくのに、旅費がなくって、宿場の牛太郎までしやがったことわすれてやがる。」
それは横浜に居ついて、旧大名の真似をした暮しをしている、輸入商になった、当り屋仲間のことだった。そのまがい殿様の奥さまは、大柄な、毛の多い、顔色の悪い女で、つとめをしていた女の上りだった。
××屋は広い店と、広い住居をもっていて、主人は白い長い腭鬚をひっぱり、黒ちりめんの羽織で、大きな茵に坐り、銀の長ぎせるで煙草をのみ、曲彔をおき、床わきには蒔絵の琵琶を飾り、金屏の前の大瓶に桜の枝を投げ入れ、馥郁と香を炷くというおさまりかたなので、
「いやな奴だ。」
と、くさしながら、どじょう汁の大旦那も、古道具やから、高価な偽物をつかませられる好いお顧客だった。
おおかめさんは、家では金が出来てしかたがないのだといった。いつでも、せまいほど家のなかがウザウザして、騒々しい家だった。樽づめのお酒を誰かしら飲口を廻していた。放縦だった。娘たちは、夜になるとねんねこを着た襟を、背中の見えるまでグッと抜衣紋にして、真白に塗った頸にマガレットに結って、薔薇の簪を挿したり、結綿島田に結って、赤と水浅黄の鹿の子をねじりがけにしたりして、お酒をのんでいた。おおかめさんが寝間着に寛袍をはおって、大座ぶとんに坐り、それをとり巻いて振り将棋みたいなことをして、みんなが賭けた小銭を、ザクザクと、おおかめさんは座ぶとんや、膝の間に押入れて、忽ちのうちに勝ってしまう遊びをした。パースでも、みんながかけた。おはなもした。
束髪の娘は英語の教師に走り、結綿は駈落ちするところを、小僧の亀どんが見つけて騒ぎ出したので、かえっておおかめさんに叱られたのだといったが──末の子の、おっちゃちゃんが亡くなると、思い出してしようがないから、おないどしのあんぽんたんに遊びに来てくれと、贈りものをよこしては迎いにきた。
「あれで、鬼子母神さまなんだ。」
使いに来た、先方とも此方とも共通の、近所の出入りの者がいうほど、足のわるい末っ子を可哀がっていたのかどうかわからないが、あんぽんたんが借りられなければならないわけは、別にあったのだ。
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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