西川小りん
長谷川時雨
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夏の朝、水をたっぷりつかって、ざぶざぶと浴衣をあらう気軽さ。十月、秋晴れの日に張りものをする、のんびりした心持は、若さと、健康に恵まれた女ばかりが知る、軽い愉快さである。親しいもののために手軽くつくる炊事の楽しさと共に、男や、貴人の知らない心地であろう。
私はときものの興味を、今でも多分にもっている。背筋の上から、ずっと下の針止めに鋏を入れておいて、ツーと一筋に糸をぬくのがすきだ。それは空想好きの私のよろこんで引きうけた、娘時代の仕事のひとつであった習慣からでもあろう。ときものの糸と共に、つきない空想を、とりとめもなく手ぐりだし楽しんでいたのである。だが、その習慣がまた、ずっと昔の、あんぽんたん時代の家庭行事の一つに、夜ごと養われていたのでもある。
奥蔵前の、大長火鉢をかこみ、お夜食のすんだ行燈の許の集りは、八十八で死ぬ日まで祖母が中心だった。ある年は、行燈の影絵を写してよろこんだ私だった。ある年は、小切れをもらってお手玉をつくる小豆を、お盆の上で選っていた。ある年はお手習いしていた。またある年は、燈心を丸めて、紙で包んだ鞠を、色糸で麻の葉や三升にかがっていた。ある年は、妹たちときしゃごをはじき、ある年はくさ草紙を見ていた。母はつぎものをする時もある、歌舞伎(芝居雑誌、二六通や水魚連という連中から贈ってきた)の似顔絵を見ている事もあるが、かき餅を焼いたり蕎麦がきをこしらえてくれたりした。女中たちは雑巾をさしたり、自分のじゅばんの筒袖をぬったりした。
思えば、そういう時に、祖母は修身談をきかせたのであった。だが、それが、どんなに面白かったろう。後にきく種々な修身談は、はじめから偉そうに、吃々と、味のない、型にはまりきったことをいうのばかりだ。それは、語るものが、自ら教えるという賢人面、または博識顔をするからだ。そして、いう事が非凡人のことばかりだからだ。
ところが、祖母は面白い凡人なのだ。この祖母、前にも言ったかも知れないが字を知らない。きくところによると無学文盲とは、落語家などにいわせると馬鹿の代名詞だが、決してそうでないので、ただ、学をまなばず、字に暗しであるので、文盲とは、文字だけに盲目であるというのだ。この祖母はまさにそれを証拠だてている。心の眼は甚だ明らかであるのに、文字だけが見えないのだ。気の勝った人だったから、あるいは文字をよく空んじていたら、おそらくあんぽんたんの祖母ではなかったろう。
だが、この祖母、一市井人として、八十八の老婆で死んだのだが、手習師匠へもってゆく、お彼岸の牡丹餅をお墓場へ埋めてしまったのから運命が定まったのだといえば、人間の一生なんて実に変なものだ。とはいえ環境が人をつくるというが、祖母自身も、好学心がなかったのだともいえる。しかし、徳川文明の爛熟の結果、でかたんになった文化の昔、伊勢のお百姓の娘にそれをのぞむのは無理であろう。
──大庄家の娘小りんの、美目のすぐれていたことも、領主藤堂家に腰元づとめをしていた花の十八、疱痘になって、許婚の男に断わられようとしたのを、自分の方から先手をうって断わったのは幾章か前に書いた。江戸の兄をたよって江戸で暮し、東京で死んだ六十九年、彼女は三十三に私の父を抱いて、通し駕籠で故郷を訪れたきり二度とゆかない。
子供を理解しない親──それはこの現代にもざらにありすぎる。男性的気象をもったものにも赤い襟をかけ、島田髷に結わせ、箱入りの人形のように玩器物として造りあげようとする一方、白粉をつけて、しなしなしたがるような女性的稟質男子を、鉄砲をかつがせたり調練をさせたりして、此子はなんでも陸軍大将にすると力んでいるのもある。
小りんさんは男性的だった。手習いがいやなのではなく、寺院の夫人さんが、針ばかりもたせようとするのが嫌だったのだ。もっとも、近松や西鶴の生ていた時代に遠くなく、もっとも義太夫節の膾炙していた京阪地方である。女子に文字を教えると艶文ばかり書くと、文字を教えたがらなかったという土地がら、文盲をつくるのに骨を折ったのであろう。
彼女はお寺の墓地で、竹の棒をもって男童たちと遊びくらした。お彼岸の蒔絵の重箱の中にはお寺さんへもってゆくお萩餅が沢山はいっている。寺の門近くくると、重箱をもって来た下男を帰してしまって、遊び友達の一日の食料をもっている事に満足した。犬蓼の赤い花の上に座ってお萩をたべる子供たちの、にこやかな頭の上には高い空があった。文化の昔の女団長の頭の、やっと結わえた蝶々髷には、赤トンボがとまっている。
「もっと食べよ。」
「もうこんなにお腹大きくなってしまった。」
あぶらやさんをかけた男の子が胸をのしてみせる。あんこのついた指をしゃぶるものもある。鼻の頭へ黄豆粉をつけているものもある。上唇についた黒ごまと鼻汁とを一緒になめているものもある。
そこで困った事は、残ったお萩の始末で、食べ残しをお寺へもってゆけない。
「投げちゃえばいい。有難うございましたって、からっぽにしてゆけばいい。」
小りんさんはそうしなかった。穴を掘って重箱ごと捨ててしまった。
家へかえって訊かれると、「捨てたよ」とはっきり自分でした通りをいった。家のものがいって見ると、黒ぬり蒔絵の重箱が、残ったお萩のはいったまま土中にあったので、かえって本当だったのに呆れた。
女らしくないといって、糺命のため味噌蔵にいれられた小りんちゃんは、大人たちの不当な仕置きに腹を立てた。あやまることなんぞ考えもしなかった。自分のしたことのいいかわるいかは子供だから知らないが、つねづね親たち師匠から、人間は正直が第一だ、ことに神宮の御鎮座ある伊勢は「伊勢子正直」と名のあるのを誇りにしているといましめるのに、なぜ正直に言ったことが悪い──それが不足だった。
彼女は、自分をこんなに困らせる家人を、自分も困らしてやろうとばかり考えた。暗い陽の遠い味噌蔵に這っている、青大将も怖くなければ、いたずらに出てくる鼠にも馴れた。
仕かえしは味噌樽の中へときまった。彼女は自家用の幾個かの樽のなかへおしっこが出たくなると、穴をあけておいてした。味噌を掻廻しておいて知らん顔をして、それからおわびをして蔵から出してもらった。
おや? この樽の味噌は──あら? この樽のも──
やがて、日がたってから、家のものが変な顔をして、味噌汁を吸うのを、彼女は小躍りしてよろこんだ。
「私のしっこを飲んでいる──」
大人たちは、はじめは何をいっているのかとりあわなかったが、彼女があんまり伊勢子は正直だ、伊勢子は正直だ、私のしっこを飲んでいる──と小躍りするので、やっと彼女の悪戯が、味噌をだいなしにしてしまったのだと感じた。
この祖母、江戸へ来て嫁入って、すぐ大火事にあって、救米のおむすびをもらった時、傍にいた者がお腹がすきすぎて、とうてい一個の握飯では辛棒がなりかねるとなげくと、さっそくに抱えていた風呂敷包に手拭をかむせ、袖の下に寝させたかたちにして、
「お役人様、ここにも一人おります。」
と、まんまと一人分握飯をせしめた。花婿だった祖父びっくりして、
「お前はおそろしい女だ」
と嘆息したそうだ。昔の町人の考えでは、大胆でも、機智があっても、女らしくない女としたものと見える。メソメソ、グズグズ、ブツブツ、ウジウジしているのが女らしい女としたのであろう。女の人のすべてが低下したのは(祖父をわるくいってはすまないが)、こういう男に、扶養されなければならない位置に長く長くおかれたからであろう。そしてそういう善人といっていいか、グズ男といっていいか、ともかくそんな男どもの好みにあった女をつくり、その女が、そういう男の子を生んできたのだと思うと、家の子はどうしてこう低能なんだ、なぞと、学校の試験や親の思う通りにならなかった場合に、そんな勝手なことはいえないはずだ。
祖母、ある日、
「古道具屋で御櫃を決して買ってはいけない。」
と変な教訓を垂れた。聴いていた壮士荻野六郎が、赤黒い、ズングリ肥った腕を撫上げながらへえと腑におちない声で返事をした。
「飯櫃だけ古道具屋で買ってはいけないのですか。」
「お前が出世前だからいうのだよ。」
毬栗のような男は大いによろこばされた。
「僕が出世前だからでしょう、御教訓によって米櫃も買いません。」
「馬鹿なことは言いなさんな。お前の身分で、古道具屋からでも米櫃が買えればたいしたものではないか、米櫃というものは、入れておける米が買いおけるから入用なので、買いおきの出来ない米なら米櫃は入りはしない。古道具屋のでも結構だから、入れるだけの米が買えるようになったら米櫃もお買いなさい。」
「へえ? どうもそれは、ちと腑におちませんが──」
彼女の嫁女がそばから吹出していった。
「それはね、家で売った飯櫃が、廻り廻って、何処で売ってるかわからないので、気にしてらっしゃるのですよ。」
壮士荻野六郎にはなおさら話がわからなくなった。すると、彼女の息子も笑って言った。
「俺の失敗でね、おっかさん、子供の時の味噌樽式をやったのだよ。」
こんどは荻野六郎にもほぼ解った。彼も吹出したい気持ちで話を誘った。
「俺が酒に酔って帰って来ると、ツベコベいやがって面倒くさいから、蔵ン中へ叩きこんで大戸を閉めちゃったら、阿母まで締めこんでしまって──」
父はそれがくせの、左の手でやぞうをきめて、新進的代言人らしくもなく、ならずもののような巻舌で言った。
「祖母さんが厠へゆきたくなったとお言いだから、開けてもらいましょうというと、なに頼みなんぞおしなさんな、先方から悪かったと開けにくるまで投ったらかしておおき、干乾しにすれば親殺しになるから、だまっていても明日の朝は開けにくるよって──」
荻野六郎は、それで飯櫃へやったのだなと、フ、とも、ウともつかないフウーという笑らいをうなった。用心のいい祖母は、他家へ火事見舞に、握飯ごと入れておくる新しい大きな飯櫃をつくらせておくのだった。それが、蔵の三階の棚にあるのを、勝手を知った彼はよく知っていた。
「だが、売ったのはしどいな。」
そうはいったが、彼もそのほかの所置はおもいつかなかった。
「なるほど、孫子の代まで、古道具屋の新らしい飯櫃は買うなと申しつけます。」
彼は笑い笑い頭をさげた。
世の中の物騒な時分、祖父母夫婦は奥蔵の二階に寝ていた。ある夜押込みがはいって、祖父の頬っぺたを白刃で叩いて起した。祖母は小さな声でみんな出してやれといった。祖父は階下におりて金函の前にすわったが、手が顫えて手燭へなかなか火がつかなかった。
祖母はその間に厠へゆくふりをして、すっかり家中を見てきた。外に見張が一人いるのが蔵の二階の窓から月の光りで見えた。祖母がすっかりすましてきても、金箱の鍵があかないで、祖父は盗人におどしつけられていた。
だが、祖父は祖母を信頼している。早く出してやれといったが──祖父は頭の上の、階下から荷物をあげおろしするためにつくってある簾の子に、階下の様子を覗いている祖母の眼を感じた。一枚一枚丁寧に小判を出してやっていたが、そのうちに盗人の方が焦燥ってきて早くしろといった。
昔の金は重い。盗人が一足外へ出たと同時に、奥蔵の二階の窓から、激しく、せわしなく「火事だ火事だ」と金盥を叩きたてた。それに応じて店でも騒ぎだした。火事早い江戸だから間髪を入れず近所の表戸が開く、人が飛出す──
盗人も火事だ火事だと怒鳴って逃げようとしたが、火元の方から逃出すものはない、取りかこんでくる人たちに、ものしたものを投げつけて逃げていった。
その祖母が女のたしなみを、いかにも簡明に女中たちにも、子供たちにも共通にはなしてきかせるのだ。その中で、あんぽんたんの耳に残っているのは、祖父が蔵を建てようといった時に一戸前の金が出来たからと悦んでいったのを、
「も一戸前分の金が出来てからになさい。」
と祖母はいった。自分たちの働きの成績を、一日も早く、黒塗りの土蔵にして眺めたいと願っていた祖父は、明らかによろこばなかった。
二戸前分の金が集まった時に、祖母はまたいった。
「も一戸前分出来たらにしましょう。」
さすが温順な祖父も、なぜだと訳をきかないうちは承知しなかった。
「ものは、思っていたより倍かかるものです。まして、長く残そうと思う土蔵を、金がかかりすぎるからといって、途中で手をぬくようなことがあるといけないから、どうしても二ツ建てるだけの用意をしておかないとちゃんとしたものが出来ますまい。」
それは理由のある理窟だから、祖父は頷いた。けれど、三戸前分なければというのには不服だった。
「それがなぜ、もう一ツ分入るのだ。」
「では、万一、蔵の出来かかった時に天災が来たらどうします。土蔵は出来ましたが、蔵に入れる何にもなくって人手に渡しますとは、まさか言えますまい。」
なるほどと思った祖父はうなった。現今のように金融機関のそなわらない時代のことである。空手で、他人の助力をかりずに働かなければならないものには、それほど手固い用意も必用だったであろうが、その場合の祖母の意見は、もうここまで来たという祖父の気のゆるみを、見通していたものと私は考える。
私という人間は、また、そうした祖母の教訓をうけながら、利にうとく、空手でものごとをはじめる、赤ン坊のような勇気? 時折自ら苦笑する、『女人芸術』にしてからが、この祖母の諭めを服用していたならば、秋風寒しなんて、しなびはしないであろうに──祖母は十九で自己を建設のために遠く出て来た人、私は時代の激しい潮流に押流された江戸人の、残物の、アブクのようなものをうけて生れて来て、文学をよく知らずに、文学でお金をもらうことを覚えた不覚者、そこの相違である。だが、服用していることもある。
「芝居などにゆくのは三度を一度にして、そのかわりものを惜むな。」
芝居──それより娯楽をしらなかった昔の女は、芝居といったが、それは旅行にも、その他のこともおなじである。これは、当今の、いかに安価に、いかに手軽にというのと、違いすぎる言いかただが、私はいい教えだと思っている。チビチビ、ケチケチ、ならしにしてなまけているのはいけない。自分ばかり愛すと物惜みにもなる。私の母はよく呟いた。
「あのやかましい祖母さんに、十八年も仕えるなんて、なまやさしい辛棒じゃない。」
けれど、また静かに祖母の長い間の教えを思出すと、
「だけれど、あの方にやかましく言われなければ、私なんぞは、それこそなんにも分らなかったろう。」
それはたしかにそうで御座いましょうと私は言う。あの木魚のおじいさん(前出)と、そのおかみさん(前出)の子で、十三、四に、お前浜一帯、お旗本、士族といわず、漁師までびっくりさせた勇敢な汐汲み少女(前出)のおたきさんである。むちゃくちゃな勇気と働きは、愛されもしたであろうが、辛棒は、祖母の方が多くしたかもしれない。
祖母のお友達は変っていた。御隠居さんにちょいとお願いがと、やってくるものは、家へくる客とは違って、木綿ものを着て、大層遠慮がちに訪ずれた。だが、
「まあよくお出だ。」
と祖母が元気よく玄関に現われると、彼女たちは雄弁になって奥へ通る。
あんぽんたんは夜泣きをして、父母の室から襖の外へ投りだされて、寒い室に丸くなって泣寝入りして、祖母に抱いていかれた夜から、ちゃんと心得てしまって、泣いて室外へ投りだされると、蔵の網戸のとこまで、そっと這ってゆくことを覚えた。すこし大きくなってから、夜半に祖母におこされて、お灸を毎夜すえてあげる役目をもった。高齢の人には、心のおけないお伽坊主ですこしは慰めにもなったのであろう、何処へゆくにもお供をさせられるのだった。
夕御飯がすむと、お気に入りの松さんの車で、ソロソロと、牢屋の原の弘法大師へ祖母は参詣にゆく。ある時は毎晩のように出かける。あんぽんたんと女中とは、ブラ提灯をさげて車のわきを歩いてゆく。送りこむと松さんと女中は帰っていった。
大安楽寺の門前までゆくと、文字焼やのおばさんと、ほおずきやの媼さんが声をかける。下足のお爺さんは、待っていたように援けおろしてくれる。本堂にはお説経の壇が出来て、赤地錦のきれが燦爛としている。広い場処に、定連の人たちがちらほらいて、低い声で読経していた。
祖母は広い廊下を通って、おさい銭函の横の一角の、参詣人が「お蝋燭」と階下から怒鳴ると、おーと返事をする坊さんたちの溜りの方へいった。そこには大きな角火鉢や、大きな鑵子があって世話人や、顔の売れた信者の、団欒する場処だった。
時々高野山から説教師が派出されてきた。その坊さんが若くて、学僧らしい顔付きをしていると人気があった。お婆さんたちがはしゃいだ声を出して御寄附の相談をする。麦酒なら水だから召上るだろうとか、白足袋を差上げようとか、褌におこまりだろうとか──すると、番僧が大火鉢で、肘まで赤いたこをこしらえて、ガンばってあたりながら、拙僧にもくれよとか、雑巾の寄附がすけなくなったのという。食物をつけとどける人も少くない、毎晩くる中にも、お茶菓子をかかさずもってくるので、火鉢の辺りは有福だった。
大店の内儀さんたちは嫁をそしる。中年になったお嫁さんは、いつまでも姑が意地わるく生きていると悪口しあうのを、番僧たちはうまく口を合せていた。そんな時、祖母は口を決してださなかった。傍のものが、あんぽんたんの顔をみいみい、円曲に、母のことに話をむけてゆくと、
「心の鬼の角をおりに来て、ざんげなさるのはよいが、後生がようござりますまい。家の嫁は孝行で、孝行であんなよいものはござりませぬ。」
とやるので、合手は苦い顔をしてだまってしまう。私はそこにも厭きて、錫の大壺に酌みいれてあるお水をもらって、飲んだり、眼につけていたりする人を眺めていた。
やがて和讃がはじまる。叩鉦の音が揃って、声自慢の男女が集ると、
有転輪廻の車より、
三毒五慾の糸をだし
生死のかせわのひまいらぬ
さあてもとうとき、おんあぼきゃ、
べいろしゃの、なかもふだらに、はんどく、
じんばら、はらはりたや、うん──
じんばら、はらはりたや、うんが面白くて、いい気になって高音にうたった。
そのうちに、香染の衣を着た、青白い顔の、人気のあった坊さんが静々と奥院の方から仄にゆらぎだして来て、衆生には背中を見せ、本尊菩薩に跪座立礼三拝して、説経壇の上に登ると、先刻嫁を罵り、姑をこきおろした女たちが、殊勝らしく、なんまいだなんまいだと数珠を繰っておがむ。
お坊さんは、壇の上の独鈷をとって押頂き、長い線香を一本たて、捻香をねんじ、五種の抹香を長い柄のついた、真ちゅうの香炉にくやらす。そして徐ろに、衣の袖を掻きあわせ、瞑目合掌の後、しずかに水晶の数珠をすりあげ、呟くようにひくく、
ぢん未来さい──
帰依仏
帰依法経──
とかなんとか、涼しい、低くよく通る声で、だんだんに皆をひっぱってゆく。
祖母は、有難い御僧に、褌の布施をする時は、高僧から下足のおじいさんにまで、おなじように二締ずつやった。祖母は別段、和讃歌もお経も覚えようとしなかった。松さんがその事を帰りに訊いたら、
「空念仏だ。」
といった。では、なぜ毎晩参詣なさいますといったら、こう答えた。
「老人は家もすこしはあけてやるものだよ。」
門前の汁粉屋は、人の帰り足をきくと、毎晩かかさず立寄る祖母と、その仲間のために、おしるこを熱くし、おぞう煮もつくっておいた。もんじやきやのお婆さん、ほおずきやのおかみさん下足のおじいさんといった仲間が、そのほかにも三、四人はきっとくる。そして車夫の松さんと、迎えにくる女中と、あんぽんたんと、それだけが、あまり上等でないおしるこを振舞ってもらう。
あたしは「長吉」という、まっ黒な古人形を持っている。長吉はねずみちりめん無垢の上衣、緋ぢりめん無垢の下着、白の浜縮緬のゆまき、緋鹿の子のじゅばんを着ている。それらは古びきっているが、祖母が江戸へ来てから新らしく縫って着せたものだ、祖母はその長吉人形を抱いて十九の年に下向したのだ。
なんで江戸まで出てきたのかというと、疱瘡を病らっているとき、あんまり許嫁の息子とその母親が、顔を気にして見舞いに来るので、ある日、赤木綿の着物に、赤木綿の手拭で鉢まきをし熱にうかされたふりをして、紅提灯をさげて踊り出し気の弱い許嫁母子を脅かして、自分の方から愛想ずかしをさき廻りにしてしまった。こんなところは面白くないと、江戸の兄をたよって出て来たのだった。小りんという名も、よい容貌も疱瘡でお安くなったというのと、屋寿と祝って、祖父と家をもつときに取りかえたのだ。
祖父は九歳の年に、他の子供たちと一緒に、長い年期で大丸呉服店へ小僧奉公に下ったのだ。父親はもう亡なっていた。足弱は三人ずつ、三方荒神という乗りかたで小荷駄馬へ乗せられて来たのだ。子供の旅立ちを見送りに来た親たちに、顔を見せると、すぐに桐油布を被せてしまって、子供たちに里心を起させないようにしたという、みじめさだ。父親に早く別れなければ、祖父もそんな辛棒が出来たかどうか、祖父の母も手離しはしなかったであろう。彼女はそのまま、九ツで江戸へよこした息子に逢わないで死んだのだ。その女は、あきらめきった悲しい手紙を息子へよこしている。
残暑つよくおはし候へども、いよいよ御無事にお勤めなされ候や嬉しくさつしまゐらせ候。私も五月末つかたより病気にて、大きにこまり入申候、なれども、二、三日づつはよひ日もあり、またまたあしきこともおほく御座候へども、当月に相成り、いつかう少々もたへまなく打ふし居申候。命の限りはわかり不申候へども、まづ今の病気の様子にては、あまり長いきも出来不申と心得、もはや、ていはつ(剃髪)いたし、なむあみだ仏のみ心がけふして居申候。しかしながら、このたびは栄吉が至つてていねいに世話しくれ候ゆへ、何も不自由もなし、誠に嬉しく仕合に存候。
こんな手紙を見た、年期中の親孝行な忰はどんな心持ちであったろう。そうした習慣が、祖父を辛棒つよい、模範的な町人にしてしまったのであろう。祖父の母は歌人で、千町といったというのだが、千町とは聴きあやまりであったのか、千蔭の門人にその名はないという。祖父も手跡はよく、近所の町の祭礼の大幟など頼まれて書いた。
そうした優しい男と、生れた時に祝ってもらった、京人形長吉を抱いて、振袖で、通し駕籠で江戸まできて、生涯に一度、また通し駕籠で郷里を訪れただけの祖母との新世帯は、それでも琴瑟相和したものと見えて、長吉のしめている帯は、祖父が仕立て、時の将軍様のもちいた錦のきれはじであり、腰にさげている猩々緋の巾着は、おなじく将軍火事頭巾の残り裂れだという。その時の将軍は十一代徳川家斉であろう。奢侈を極めた子福者、子女数十人、娘を大名へ嫁さした御守殿ばかりもたいした数だという。後に大御所とよばれ、徳川幕府をひへいさせた近因だともよばれたほど、派手な時世だった。
アンポンタンはこの祖父の歿後、母が嫁して来たので、生きていた日は知らないが、善良な小市民の見本であったらしい。長い間には、気がさな細君に、どんなにハラハラさせられたかしれないであろう。水野越前の勤倹御趣意のときも、鼈甲の笄をさしていて、外出するときは白紙を巻いて平気で歩いたが、連合卯兵衛が代ってお咎めをうけたのだ。
小りんさんが卯兵衛旦那の、浮気の穴を探しだしたゆきさつは面白い。初春のことで、かねて此邸だと思う、武家の後家の住居をつきとめると、流していた一文獅子を引っぱってきて、賑わしく窓下で、あるっかぎりの芸当をさせ、自分は離れた向う角にいた。近所からあつまった見物や子供たちはよろこんで騒ぐので、思わず卯兵衛さんが顔を出し、目的の女も顔を見せた。そこで騒ぐのでも訪れるのでもなく、小りん女房はニッコリと帰って来てしまうという手だ。卯兵衛さんの閉口したことはいうまでもなかろう。
二人の間に二人の男の子があって、上は(前出テンコツサン)出走人となってしまった。わたしの父はいたずらッ子で、お母さんを困らせようとして、叱られたときに、大事にしていた長吉人形の前髪と、奴さんと、ジジッ毛を、鋏ではさんでしまった。大きくなってからも、両親が蔵の縁の下に、金を埋てあるのを、いつの間にか虎太郎五十両拝借と書いた、附木一枚を手形がわりにして持っていったりしたことを、風通しのよい、青い林檎の実ったのが目のさきにある奥二階の明り窓のきわで、小粒や二朱金を金盥で洗ったり、糠袋のような小さい麻の袋に入れかえるとき、そばにかしこまっているアンポンタンに、
「いたずらもせぬような男の子はだめだ。」
というふうなことを言った。町ではのれんをはずす忙しい夕暮れかた、褄をとって、小路の角に祖母は時折佇んで、どこともなく眺めていた。祖母の箪笥の引出しには、そっくり手のつかない、男ものの衣服が、したおびまで揃えてしまってあるのを、誰も気がつかないふりをするのだった。自分の死後の白小袖もちゃんと羽二重でつくってある人だった。見すぼらしくしてかえる年老いた息を心に描いていたものと見える。そんな時、あわれげな人が通ると、懐に入れて出た小金を、みんな、その人の掌にあけてやってしまうのだった。
忰虎太郎はあたしの父の若いおりの名で、祖母が老てからは実によく孝養した。
小りんさんは檀家頭なので、お寺へゆくと、和尚たちが心置きなく、
「御隠居さんはこの位までかな。」
と畳へ米という字を書くと、坊主は金がほしくなったので、ひとの葬式を待っていると笑ったが、八十八歳の三月、明治天皇銀婚の御祝いに、養老金を頂いて、感激して、みんなにお赤飯をふるまい、ずらりと並べて箸をとらせ、見ていて死ぬともしらずに死んでいった。
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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