旅日記
昭和十四年
種田山頭火



道中記


三月卅一日 曇。


夕方になつてやうやく出立、藤井さんに駅まで送つて貰つて。──

春三君の芳志万謝、S屋で一献!

白船居訪問、とめられるのを辞して、待合室で夜明の汽車を待つて広島へ。

春の夜の明日は知らない

かたすみで寝る

句はまづいが真情也。


四月一日 曇、澄太居


澄太居のよさを満喫する、澄太君には大人の風格がある、私は友人として澄太君をめぐまれてゐることを感謝する、考へて見ると、私のやうなぐうたらに澄太君のやうな人物が配せられたといふ事実はまことに意義深遠なものがあると思ふ。

私は友達にさゝへられて今日まで生きて来た、ありがたいことではないか、私は低頭し合掌して私の幸福を祝福せずにはゐられない、澄太居の前にはよい柊がある、といふわけで柊屋といふ。

朝の鏡にうつりて花の大きく白く

旅の或る日の鼻毛ぬくことも


四月二日 雨、仏通寺(豊田郡高坂村)。


澄太君に導かれて仏通寺へ拝登する。

山声水声雨声、しづかにもしづかなるかな、幸にして山崎益道老師在院、お目にかゝることが出来た。

精進料理をいたゞきつゝ、対談なんと六時間、隠寮はきよらかにしてあかるし。

杉本中佐の話は襟を正さしむるものがあつた、夜が更けたので泊めてもらつた、澄太君はやすらかな寝息で睡れているのに、私はいつまでも眠れなかつた、ぢつとして裏山で啼く梟の声を聴いてゐた、ここにも私の修業未熟があらはれてゐる、恥づべし。

  仏通寺(許山一宿

・あけはなつや満山のみどり

 水音の若竹のそよがず

・山のみどりのふか〴〵雲がながれつゝ

・塔をかすめてながるゝ雲のちぎれては

・ほんにお山はしづかなふくろう


四月三日 曇──晴れさうな、尾ノ道にて。


朝早くお暇乞して本郷へ。

朝御飯はおいしかつた、道々の風景もよかつた。

澄太君は広島へ、私は三原へ。

やうやく黙壺居をたづねあてたが誰も不在(黙壺君の周囲を何か蔽うてゐるやうな気がする、どうか私の勘のあやまりであるやうに)。

私はいろ〳〵考へたが、船で広島へひきかへすことにして汽車で尾道へ。

淡々居を訪ふ、在宅、さつそく一杯よばれる、それからいつしよに──坊ちやんも連れて──市中散歩、別れて私は一人で中学校に阿弥坊君寒太君を訪ねて逢へた、しばらく話し、阿弥坊君の宅で夕飯の御馳走になつた、……どうしても旅費が足りないので、淡々君を電話で呼出し、或る家に泊つた、その家がよくなかつた、昨日のよさがまつたく今日のよくなさになつてしまつた、淡々君よ、すまなかつた、すまなかつた。

淡々居には生れたばかりの赤ン坊がゐた、阿弥坊居では奥さんが産むばかりの前で寝てゐられた、とにかく、めでたしめでたし。

  すこし寝忘れのてふてふいそぐ

 ・春の服着て春風吹きます

水の誘惑、死の誘惑

一切時一切事


四月四日 曇、澄太居、晴。


朝の汽船で帰つて来た、心中のやましさ、気がとがめて困つた。

柊屋の雰囲気がしだい〳〵に私をなごやかにしてくれる、くつろいで飲んだり話したりするやうになれた。

悪筆の乱筆を揮ふ。

・さざなみの島はまことに菜の花ざかり

 涙ながれて春の夜のかなしくはないけれど

・春風のうごくさかなを売りあるく

 春は船でとんだりはねたり

 テープうつくしく春のさざなみ

残月余生


四月五日 晴れたり曇つたり、船中。


朝出立、宇品で浪切丸に乗り込む。

好々爺と隣り合せて都合がよかつた。

一二杯ひつかけて、ぐつすりと寝た。


四月六日 曇、大阪


八時、川口上陸、久しぶりに大阪の土を踏んだ。

比古君の厄介になる、いつものやうに。

千日前の盛り場をぶらつく。

夜は比古君の好意で、琴人君に案内されて、カフヱーヴヰナスにとぐろを巻く、酔つぱらつて比古居には帰れなくなつたので、裏町の宿屋に泊つた。

  比古居にて

 電話いそがしく籠のカナリヤも

・春の夜のうそとまこととこんがらがつて

  大大阪はさすがに

 景気インフレ街は更けるとへどばかり

  春樹居で主人に代りて

・たまたま鶯が来て妻と二人


四月七日 曇、天六


比古君不在で逢へない。

市中ところ〴〵を見物して歩きまはる、そしてとうたう天六へいつてやうやく安い宿を見つけることが出来たのは仕合せだつた。

・散つたり咲いたりやうやう逢へた

  (この句は雄和尚にあげたいと思ふ)


四月八日 曇、春樹画房。


電車賃がないから歩いて街はづれの春樹君を訪ねる、折よく在宅、ほつとした。

春樹君はおとなしい画家である、そして閑静な住居である、古風な武家屋敷はだいぶ荒廃してはゐるが、なんともいへない寂をつけてゐる。

夜は家族の方々と共に御馳走になつた、ゆつたりと落ちついて頂戴した。

夢もやすらかであつた。


四月九日 半晴半曇、京都


頼みにくかつたが、押して頼んで旅費を借りた。

電車で梅田へ、そしてまた電車で京都へ。

豊田君を訪ねる、不在、仙酔楼君を訪ねる、在宅、ちよつと話して、それから充夫居の句会へ。

一杯機嫌でしやべつた、しやべつた。

更けて一人で京都駅へ。

待合室で意外にも北朗君に逢つた。

腰掛に寝て夜を明かした、朝になつたので歩いて豊田君を工場舎に訪ねる、だいぶ待つてやうやく逢つた、共に市中を散歩し山中を逍遙した。

鰊屋で昼飯を食べ、そして中外社に寄つた、涙骨先生にお目にかゝることができたのはうれしかつた。

まことに万年青年のおもかげがある、どことなく人をひきつける徳がある、大いに話して大いに笑つた。

色紙二三枚寄せ書きした。

過分の草鞋銭を頂戴して恐縮した。

駅まで送つてもらつて、豊田君に別れる、豊田君とは初対面だつたのに、──ありがたう〳〵ありがたう。

〝旅日記ところ〴〵〟


四月十日 晴、京都。


──昨夜はよくなかつた、京極を歩いたのがまづよくなかつた、酒を飯んだのがよくなかつた、夜のふけるまでぶら〳〵したのがよくなかつた、金を持つてゐたのが(私としては)さらによくなかつた、──所詮私といふ人間がよくなかつたのだ

豊田君に対してすまない、涙骨先生に対してすまない、私自身に対してもすまないではないか。

私は何をしたか、さしたることはしてゐない、恥づかしいと思ううちにも慰めるところがないでもない、だが、私は恥ぢる、恥ぢないではゐられない。

朝の汽車で近江路を通る。

近江の春はうつくしい。

石塔の雄和尚に初見参。

和尚はなつかしい人だ、逢へばすぐ友達になれる。

たよりを通して知つている和尚は向き合うて話している和尚そのままだ。

和尚さん、今夜は泊めてもらひますよ、とも何ともいはないで、一二本いたゞいて寝てしまつた。


四月十一日 晴、雄郎居、極楽寺。


お寺の一夜はおちついてよかつた。


四月十二日 曇、極楽寺──雄郎居


四月十三日 雨、風、リンゴ舎


  リンゴ舎庭園

・塀はコンクリートの蔦よ芽を吹け

 しばらく夕日がいちぢくの芽

  熱田神宮参拝、林伍君と共に

 ならんでぬかづいて二千五百九十九年の春


四月十四日 晴、魚眠洞居


 旅も一人の春風に吹きまくられ

 波音の菜の花の花ざかり

 春まだ寒いたんぽゝたんぽゝ

 指のしなやかさ春の日ざしの

 杉菜そよぐのも春はまだ寒い風

 かすんでとほく爆音のうつりゆくを

 山羊鳴いて山羊をひつぱつてくる女

・うらうらやうやうたづねあてた

・椿は落ちつくして落ちたまゝ


四月十五日 花ぐもり。


・この旅死の旅であらうほほけたんぽぽ

 虫がぢつとガラス戸のうちとそとと

 たんぽぽひらく立つことにする

・吹きつめて行きどころがない風

・これがおわかれのたんぽぽひらいて


四月十六日 曇、吟行


・青麦ひろ〴〵ひらけるこゝろ

  業平塚

・はこべ花さく旅のある日のすなほにも

 枯草にかすかな風がある旅で

  無量寿寺

 くもりおそく落ちる椿の白や赤や

  明治用水々源池

 さくらがちれば酒がこぼれます

 緋桃白桃お嫁さんに逢ふ

  依佐美無電局

 花ぐもりの無電塔はがつちりとして


四月十七日 曇。


・逢うて菜の花わかれて菜の花ざかり

 いちめんの菜の花の花ざかりをゆく

 さくらちりかゝる旅とたつたよ

・旅もいつしかおたまじやくしが泳いでゐる

  途上


未定稿(作品そのものは──)

未完成稿(芸術家その人は)

旅やけ! ルンペンの色


四月十八日 晴。


・とめられて泊つて海の音(帰城子居)

・大きいのが小さいのが招き猫が春の夜

 役場のさくらのいそがしくもちるか

 水の上はまだ寒い火を焚いて朝早く

 そこら人声のして明けてくる春の波

 朝の海からどしどし運びこんでゐる

・ほろりと最後の歯もぬけてうらゝか

・水にうつりて散つてゐるのは山ざくら

・山ふところの山さくら花ざかり

・芽ぶいて山はあふれてさゞなみ

・啼いて鴉の、飛んで鴉の、かへるところがない(述懐)

・伊勢は志摩はかすんで遠く近く白波

・波音の松風となる水のうまさは(半月庵蛤水)

 ひとり兎を飼うてひつそり(健三居)


四月十九日 曇つたり晴れたり、花ぐもりだ。


八時出立、礫浦まで送られて別れる、健三君よ、ありがたう、どうぞ幸福であつて下さい。

旅立つてから、初めて私の旅らしくなつた。

師崎まで海岸づたひに三里強。

至るところ、てんぐさが干してある、わかめがほしてある、いかなごが干してある。

いたどりの若芽が旅情をそゝる。

おかめさん──龍亀大菩薩の墓標。

遍路シーズンなので、おへんろさんの群がつゞく。

師崎は物価の高い場所らしい、二三杯ひつかける。

新四国第三十六番、遍照寺、いやな風景の一つ。

三時の船で福江へ、海上二時間の眺望はよかつた。

島へ帰る人々、港の女!

やうやく福江に着いて、あちこち探して、よさゝうな宿を見つけた、吉良屋

おとなしくやすらかな一夜であつた。

・浦波おだやかなてんぐさ干しひろげ

 右も左も網干してある花のちる道を

・春の山からころころ石ころ

・大魚籠ビクはからつぽな春風

・歩きつづけて荒波に足を洗はせてまた

・春風の声張りあげて何でも十銭

 花ぐもりの、病人島から載せて来た

 出船入船春はたけなわ

・島へ花ぐもりの、嫁の道具積んで漕ぐ

・島島人が乗り人が下り春らんまん

 やつと一人となり私が旅人らしく

・波の上をゆきちがふ挨拶投げかはしつつ

 春の夜の寝言ながなが聞かされてゐる


四月二十日 曇──雨。


早々出発、伊良湖崎へ、──二里。

若葉のうつくしさ、雀のしたしさ。

街はづれの潮音寺境内に杜国の墓があつた、芭蕉翁らの句碑もあつた、なつかしかつた。

沿道は木立が多い、豌豆の産地である、家はみな相当の大きさで防風林をめぐらしてゐる。

伊良湖明神はありがたかつた、閑静なのが何よりだ、御手洗は汲上井戸だがわるくなかつた、磯丸霊神社とあるのもうれしかつた、芭蕉句碑もあつた、例の句──鷹一つが刻んであつた。

岬の景観はすばらしい、句作どころぢやない、我れ人の小ささを痛感するだけだ!

なまめかしい女の群に出逢つたのは意外だつた、芭蕉翁は鷹を見つけてうれしがつたけれど、私は鳶に啼かれてさびしがる外なかつた。

易者さんですか、俳諧師ですよ!

──砲声爆音がたえない、風、波、──時勢を感じる、──非常時日本である。

今日は道すがら、生きてゐてよかつたとも思ひ、また、生き伸びる切なさをも考へた。

岬おこし、磯丸糖、──芭蕉飴などはいかが!

伊良湖から日出ヒイ、堀切、小塩津、和地と歩いた、豌豆の外に花を作つている、金盞花が多かつた、養鶏も盛んである。

途中からバスに乗つて、赤羽根といふ漁村のM屋に地下足袋をぬいだ(昨夜の吉良屋老人に教へられた通りに)、予想したよりも、さびしい寒村であつた、宿も何だか変な宿だつたが、それでもアルコールのおかげで、ぐつたり寝た。

──たうとう雨になつた。

伊良湖の荒磯で貝穀を拾ひ若布を拾うたことは忘れられない。

 穂麦まつすぐな道が伊良湖へ

 鳶啼くや花ぐもり明るうなる

・風が出て来てからたちの芽や花や

 道しるべやつと読める花がちるちる

 松のみどりの山のむかうの波音

・とんびしきりに鳴いて舞ふいらござき

・風は海から吹きぬける葱坊主

 芽吹いて白く花のよな一枝を

・岩鼻ひとり吹きとばされまいぞ

                 (伊良湖岬)

 吹きまくる風のなか咲いてむらさき

 潮騒の椿ぽとぽと

・波音の墓のひそかにも

・風のてふてふいつ消えた

 波音のたえずして一人(赤羽根の宿)

 花ぐもり砂ほこり立てていつてしまつた

  ──(或る日或る時)──

・麦に穂が出るふるさとへいそぐ

  伊良湖岬

 荒磯ちぎれ若布を噛みしめる

 風吹きつのる汽車はゆきちがふ

・若葉へ看板塗りかへてビールあります


四月廿一日 雨、風。


早く眼が覚める、雨が降つている、だが、私は晴雨にかゝはらないで歩くのである。

まづ一杯傾ける、アルコールは私のホルモンだ、さすがに豌豆どころ、安宿の膳の上にも豌豆が載せてある。

──高松──黒川原、こゝで電車に乗る、風がさわがしくて歩いてはゐられない、十一時だつた、一時には早くも豊橋着、すぐ折嶺居を探しあてる、学校まで出かけて面会する、久しぶりの再会であつた。

折嶺居のよろしさ、折嶺君その人のやうに。

夜は僊一郎君治君来訪、方々へ寄せ書きなどした。

顔を剃つてさつぱりした、私自身も驚くほどの長湯、それほどよい湯であつた。

道を訊ねて誠意のない返事を聞くと腹が立つ。

・風のなか野糞する草の青々

・風がさわがしい木の芽草の芽おちつけない

  折嶺

 ほんに生れて来たばかりの眼をあけて

 さめざめ濡れてかたすみのシクラメン

・風をあるいて来てふたたび逢へた

 水たまり花びらたまり霽れそうもない雨の


四月廿二日 雨──曇。


八時の電車で豊川へ、そして鳳来寺へ。

水筒には護摩水がいつぱい、辨当行李には御飯がいつぱい、ありがたう〳〵。

豊川稲荷は名高いだけあつて、その堂塔は堂々たるものである、豊川閣へは朝から自動車が横付けになつてゐる、金持がもつと金持になりたくて祈願するのだろう、私などにはおよそ縁のないところだ。

街筋は飲食店と土産物店との連続である。

お寺では小僧さんが流行唄をうたひながら、何だかなまめかしく掃除してゐた。

狐の像が多い、読経の調子も煽動的である。

さらに電車で鳳来山へ。──

駅からお山まで一キロ、そこからお寺(本堂)まで一キロ。

石段──その古風なのがよろしい──何千段、老杉しん〳〵と並び立つてゐる、水音が絶えない、霧、折からの鐘声もありがたかつた。

本堂前の広場でおべんたうをひらいて一杯いただいた。

ゆつくりして、二時半の電車で、四時すぎ帰来、よい湯に入れて貰い、おいしい御飯を戴いた。

夜は句会、主人、私、僊君、K君。

いつしよに出かけて一献酌んで別れた。

とかく飲みすぎ食べすぎ、そしてしやべりすぎる自分をあはれむ、あはれまないではゐられない!

・しみじみ濡れて若葉も麦も旅人わたしも

 雨ふりそゝぐ窓がらすのおぼろ〳〵に

  豊川稲荷

 春雨しとゞ私もまゐります

 どしやぶりの電車満員まつしぐら

  鳳来寺

 トンネルいくつおりたところが木の芽の雨

・ここからお山のさくらまんかい

 たたずめは山気しんしんせまる

 春雨の石仏みんな濡れたまふ

・石段のぼりつくしてほつと水をいたゞく

・人声もなく散りしいて白椿(薬師院)

・霧雨のお山は濡れてのぼる

・お山しづくする真実不虚

・山の青さ大いなる御仏おはす

 水があふれて水が音たてゝ、しづか

・山霧のふかくも苔の花

 ずんぶりぬれてならんで石仏たちは

 水が龍となる頂ちかくも

・水音の千年万年ながるる

・石だん一だん一だんの水音

 霽れるよりお山のてふてふ


四月廿三日 曇──晴、野蕗居


朝早く出立した、折嶺君同行、何とかいふ女教師も共に。

いはゞ、浜松へ東海道のハイキングである。

旧東海道の松並木、その下蔭で暫時休憩観賞。

岩屋観音は通り過ぎながら拝む。

二川からバス、文字通りの鮨詰、臭い〳〵!

白須賀公園、潮見坂の眺望、こゝで折君が自身をも入れて撮影する。

平洋の壮観、そこでちよつと昼寝する。

新井まで徒歩、新井関阯。

僊君乗車の汽車を待ち合せて共に野蕗居へ。

野蕗君は駅まで出迎へて下さつた、奥さんは娘さんのお産で満洲行の不在。

一同で別れるまで句会、良谷君も来訪。

私は何の遠慮もなく悠々として、──よい日でありよい夜でありました。

・なづなやはこべや春ふかく

 蝶も出てゐる昔ながらの松並木

・松風春風振袖ひらひらさせてくる(自転車)

 よせてはかへす白波のなごやかな三人

・椎の若葉のもりあがる空は雲なし

・道ははるかな松蝉が鳴きだした

 のびのびと寝せていただいて鼠のさわぎまはるのも

 まつたく雲がないピントをあはせる

 爆音むくむく雲わく

  野蕗居

 小松四五本みどりして奥さんはお留守

・声高くお話することもいくねんぶりの春

 鉢植たくさん子供たくさんの春


四月廿四日 晴、春寒、風、野蕗居滞在。


  野蕗居昨今

・こどもら学校へいつてしまうと花ぐもりのカナリヤ

・妻を満洲に、留守居の豌豆咲きつづく

 ふと三日月を旅空に

 ちよつぴり芽ぶかせて人を待つてゐる

  青蓋句屋

・花ぐもりピアノのおけいこがはじまりました

・どこの山の蕨だらうと噛みしめて旅


四月廿五日


  黙祷

・松のみどりのすなほな掌をあはす

 若葉へあけはなちだまつてゐる

・雀のおしやべり借りたものが返せない

・春寒抜けさうで抜けない歯だ

・天龍さかのぼらう浜松の蠅をふりはらふ

  浜名街道

・水のまんなかの道がまつすぐ


四月廿六日 曇、雨、風。


  浜名湖めぐり

・いのちありて浜名湖ウミは花くもりのさざなみ

・遠江春まだ寒い焼鮒買はう

・旅もやうやく一人になりて白い花

 まいにちあるくぼつぼつ茶摘もはじまつた

 低空飛行その下の畑打つ

・若葉わけのぼるちかみちうまい水があつた

 一足千里の地下足袋ふんで春ふかく

・花ぐもりの湖が見えたりかくれたり、歩く

 旅空はるかに飛行機のゆくへ

・春ふかき家を解く

 若葉を分け入りてうんこすること

 筍ぢいさんまた売れた

・晴れてうれしい曇つてよろしい水の上ゆく

 どしやぶりの桜若葉のそよぎやう


四月廿七日


・燕したしく今日の店をひろげる

・風の中うごいて蛙がつるんで蛙が

 ひなた伸びあがつてそよいでいたどり

 波音ばかりの空家ばかりで

・すみれたんぽぽゆつくりあるく

 崖藤のうつくしさ仰いでは行く

 山肌にじみでる水の飲むだけは

 犬がいたづらに吠えて大樟の若葉かげ

 髪を梳く女あり牡丹かがやかに

 牡丹ちるや鬢のほつれを掻きあげる

 お客といへば私一人の牡丹燃ゆる

・旅はおちつかない蘭竹の風

 それそれみどりして親松子松

 芥をあさるせなかのひなたあたたかく


四月廿八日 野蕗居、紅日書楼句会、晴。


連日の酒で、さすがの私も少々閉口してゐる! もつたいないことだが。

一杯機嫌で悪筆の乱筆を揮ふ。

野蕗老に導かれて、みどりさんを訪ねた、病臥中で気の毒だつたけれど、私たちの訪問が彼女を喜ばし慰めたことは疑へない。

西来院の紫雲藤は咲きそらうてはゐなかつたが見事なものであつた、折から幼稚園の生徒が遠足で来てゐたのもうれしい風景であつた。

普済寺拝登、市中漫歩。

S食堂で中食、刺身で飲んで野菜で食べて、腹いつぱい詰めこんで五十五銭! 安いな。

街頭所見の一つとして、しんこ細工は珍らしくもまた懐かしいものだつた。

蕨を買つて来て煮て貰つて味つた。

夜は紅日書楼で句会、会者九人、私のやうな者でも歓迎していたゞいて恐縮した。

十二時近く帰宅して快眠。

 裁判所の桜若葉がうつくしくて

 すつかり葉桜となり別れる

 バスのとまつたところが刑務所の若葉

 八ツ手若葉のひつそりとして

・お留守らしい青木の実の二つ三つ

                  (みどりさんを訪ねて)

 雲かげもない日のあなたを訪ねて来た

・藤棚の下いつせいにおべんたうをひらいて(紫雲藤、幼稚園生)

 六地蔵さんぽかぽか陽がさした

・幾山河あてなくあるいて藤の花ざかり

・ぼうたんや咲いてゐるのも散つてゐるのも

 枯れきつて何の若葉かそよいでゐる(家康鎧掛松)

・しんこ細工のうらうら鳥がうまれサカナうまれ

 蔓ばら咲かせてようはやるお医者

 くわう〳〵鳴くや屋上の鶴は二羽(松菱デパート)

 木馬に乗せられて乗つて春風

 ぼうしよこちよに、ハイ七階であります、春(エレベーターガール)

一階二階五階七階春らんまん


〝浜松の印象〟


  紅日書楼

 おとなへば薬くさいのも春の宵

  句会帰途

・一人へり二人へり月は十日ごろ

 芽ぶいて風が重い足で行く

・茶碗は北朗、徳利も酒盃も、酔ふ

 北朗作るところの壺があつて花が咲いて


四月廿九日 晴、肌寒く、二俣町


天長節。

早起、今朝はいよ〳〵出立である、浜松では滞在しすぎた。……

……私としては滞在しすぎました、これから秋葉山拝登、天龍を溯つて信濃路を歩きます、……どこへ行つても山は青いけれど、なか〳〵落ちつけません。……

野蕗老のまめ〳〵しさよ、おべんたうを詰めて貰ひ、残りの酒を酌んで別れる、なが〳〵お世話になりました、さよなら、ごきげんよう。

八時の電車で二俣まで、山の町らしく感じがよい。

初めて天龍川を渡つた、途中、樟の老樹の若葉が美しかつた。

身心何となく労れたので、今日一日はゆつくり休養することにして、M屋に泊つた、感じのよい宿であつた。

ぐつすり昼寝した、寝たいだけ寝た、睡りたいだけ睡つた。

・今日のよき日の柿若葉なり

 石ころに陽がしみる水のない川

 はじめて天龍を、つんばくろとびちがふ

・若葉ふかく山のむかうから流れくる

・老いては旅は寝ざめがてなる水音ぞ


四月三十日 晴、曇、雨、秋葉山麓。


身心軽快、早朝をふみしめて立つた。

光明山参拝、祭神は摩利支天、近く山奥から人里近くお出ましになつたらしい、それも時代のせいだ、豚の石像は珍らしかつた(だろう)。

途上、小学生が恤兵献金の函を抱へて立つてゐる、私も心ばかり寄附する、自分を省みて恥ぢ入るばかりだつた。

山越は断念して本街道を二俣川ぞひに登つて行く、鶯がしきりに啼いて、河鹿も時々鳴いてくれた。

今日の道はよい道、好きな道だ、予期したよりも早く雨になつて濡れたけれど、それも悪くない。

光明村では処々にむつかしい立札を見せつけられた。

秋葉橋あたりのながめはよい、気田川を下つて来る筏も面白い。

六里位しか歩かないが、こゝに泊りたくなつたので、秋葉山麓のN屋に泊つた、まつたくの山の宿、閑静此上なしである、よい一夜であつた。

月あかりがして水声がどこからともきこえる。……

  途上所見

・若葉つゝまれて今日は入営式

 山のよさを水のうまさをからだいつぱい

 何やら花ざかりなり河鹿鳴くなり

 山うぐひすしきりに啼けば河鹿も鳴いて

・山をふかめて河鹿しきりに

・水のあかるくながれてくれば河鹿なく

 しばし谷間で、辨当行李も洗ふ

・道しるべ立たせたまふは南無地蔵尊

・ほほけて蕗のとうよい宿だな

・あつまりて音たてるほどの谷川となり

・山はしぐれて濡れるもよかろ

・若葉わけのぼるお山はけふもしぐれて

・山の宿としいやなラヂオが春の曲

・我れここに花ありて蝶

 何となく人のなつかしく歩く

  述懐

・母よ、しみ〴〵首に頭陀袋フクロをかけるとき


  〝山の宿〟

「山坊の暮色静春の雨」とは!

山層々  お茶菓子!    その坐蒲団

水淙々           鼻緒の赤さが

雲去来  湯上り      大きい暗い家

      とてらなし

              おばあさん

霧朦朧  廊下鳴る     おかみさん 主人は不在?

              むすめさん

     古色蒼然!

〝朝は           お風呂こゆつくり

タマゴに          地酒! みかんとは!

ヤリノリ          オムレツ!

   定石〟            たくあん

破れて縫うてあるもの

閑古鳥よ啼け

古雑誌を読みつゝ

水声山色

老人──

〝得何和〟

〝一人を楽しむ〟

旅していると、一期一会をしみ〴〵感じる、山を歩いてゐると和敬清寂を考へる。


五月一日 曇──晴、晴──曇、西渡泊


──旅中でまた月があらたまつた。──

おのづから眼覚める、また早すぎる、しづかだな。

かすかに水音、小鳥が啼く〳〵。

電燈を消して、朝のひかりでおもむろに一服(実は一杯やりたいのだけれど、酒が悪い、バツが悪い、等々!)。

自然そのものの合唱

あゝ生きてることのよろこび!

私も宿の人ものんきにかまへてゐたので出発したときは八時すぎてゐた、おべんたうはこしらへてもらつたが、宿銭はちよいと高いな!

古風な参道──うれしいな──をゆつくりとのぼる、いそいではのぼれません、わたくしのやうなものは。

古風な常夜燈はよろしいな、町標はくづれてしまつてゐる。

迦具工はなつかしい!

中腹のお休みどころのまへに、何と大きな樹、それは山桜!

やすみ〳〵あえぎ〳〵のぼる、ほんたうに山麓で泊つてよかつたと思ひつゝ。

富士見晴らし台、おんなかしまし!

仏に首なし杓に底なし、とにかく異風景。

一の鳥居(五丁位)──二の鳥居(四十丁位)──三の鳥居(五十丁位)。

さらにより見晴らし台(気田川)。

秋葉寺──三尺坊、秋葉大権現とよ!

大荷を負うて、醤油樽、おゝ酒樽もあるよ

大杉、神杉、六根清浄。

秋葉神社境内はよろしい、機織井まじない。

売店、ポスト、電話、無料休憩所、

何のかのとうるさいけれど。──

裏道を信州街道へ。──

八丁茶屋はくづれるまゝにしてある。

好々爺と道づれ、平山部落まで、ありがたかつた。

七十才、乗物ぎらひの酒ずきとよ

下り阪でも急だから骨が折れた。

咲かない馬酔木の芽のうつくしさ

平山から瀬尻へ。──

〝天龍のぼれば〟小唄二つ三つ

天龍のぼればのぼれば

逢ひたい若葉がせまる若葉がせまる

(酔余の一ふし二ふし)

おれのこころは

天龍の水よ

わがまゝきまゝ

流れてゆかう

下る筏に上る帆。……

かつと天龍が──おゝ天龍! よいな〳〵。

うんと水を飲みました。

瀬尻平山橋、それから架設中の大和橋、渡船で、大井橋、そして西ニシ(三味線が鳴りラヂオが叫ぶ!)。

山香といふ地名はゆかしい、そしてまた天龍の水はうまい、〳〵、〳〵。

西ニシといふ一筋町を歩いてI屋といふ宿に泊る、予期したよりもよかつた、万事が宿屋らしい(昨夜の坂下のN屋はどうだ! なつてゐなかつたぢやないか、たゞ秋葉山麓といふことがよいだけで──)。

 朝霧晴るゝお山おりる人のぼる人

・ゆつくりのぼる馬酔木まつしろ

 つかれてうづくまるところしやがさきみだれ

・ぬれていたどりのさてもさびしくなつかしく

・すゝめられてこれやこのあんころ餅を一つ

・切株に腰かけて遠い遠い昔

・杉山しんしんしよんべんしよう

・霧、大いなる巌あらはれる

 道しるべ倒れたまゝの山しぐれ

・山苺咲いてゐてつゝましくも花

・石に腰かけると墓であつた

・なんとこんなに大きい火道具が春山のいたゞきに(秋葉神社)

  秋葉山──

 いのちをはりて枯れたる株の苔むして

・大杉仰げばはるかなる太陽

 お山はさくらちりのこり啼くは鶯

 どうだんも咲かうとしてお山

  機織井

・水湧けば鳴く蛙

 谷のふかさで鯉幟うごく(平山部落)

・水はみな瀧となり天龍へ音たかく

・天龍ましたにしておべんたうは飯ばかり

 ぼうたんゆらぐや天龍はさかまく

・茶畑下れば飛び立つ鳥や何といふ鳥

・水音けふもひとり旅行く

 何といふ花の赤さがゆらいでゐるよ

・春ふかきゆふべのわたしをわたしてもらふ

・橋をわたると谷は暮れ早い街のともしび


五月二日 西渡にて。


アルコールの力! そのおかげで熟睡することが出来たけれど、飲み過ぎの罰は覿面テキメン、胃腸の工合が悪い、がぶ〳〵水を飲んでごまかす。……

水を飲むこと

歩くこと

これが私の健康法だ、そして──

好きな物を、好きな事を

好きなだけ──

これが私の生き方だ。

色即是空空即是色いひかへると現象と実在とが不即不離になつて私の身心其物として表現せられる境地その境地に没入することが私の志である

煩悩を煩悩するなかれ、こだはるなかれ、とゞまるなかれ、疑ふなかれ、佞ねるなかれ、…………そして、流れるままに流れるところまで流れてゆけ

(夜半、感ずるところありて、記し置く。)

友へのたよりにその一節として次のやうに書き添へることは忘れなかつた。──

……秋葉山の上り一里、下り二里は私としては悩みましたけれど、悩んだだけお山のよろしさも味いました、明日はいよ〳〵信州入、伊那へ向ひます、天龍川はさすがにすばらしい、ようこそ来たと思ひました。……

とかく飲みすぎ食べすぎ、そしてしやべりすぎる、かへりみて情なくなる、捨てゝも捨てゝも捨てきれない貪慾、あゝ、やりきれなくなる。

西渡の印象として──

こぢんまりとまとまつてゐる。

料理屋、仕立屋、床屋、食料品店、宿屋が多い。

物価は割合に安い、商人も一手だ。

若い女の肌が白く美しい。

宿の扁額に曰く〝故郷難忘


五月二日 曇、夕立、晴、満島泊


朝早く起きて散歩、山も水も人も快い。

七時出立、まことによい宿だつた、昨日の宿にひきかへて安くもあつた、何となく気持がよろしい。

行けるところまで歩くつもりで、水窪ミサクボ川(天龍の支流の一つ)にそうて行く、河鹿がしきりに鳴く、右側の山には山吹、馬酔木、もちつゝじの花が或は黄ろく、或は白く赤く咲きつゞいてゐる、行き逢う山をとめもきよらかである、──今日の道この道はよいなあと思ひ思ひつゝ歩いて行く。

──山急にして水はみな瀧欝蒼として声あり、──とでも形容したい。

山の水で顔を洗ひ辨当行李を洗ふ、むろん、腹いつぱい飲んで。

水を堰き流木を整理してゐる、〝や〟と呼ぶさうな、路傍の石仏を昔から在つたまゝにコンクリートの壁をわざ〳〵拵らへて祀つてある、うれしい心づかひである、私も立ちどまつて心経一巻諷誦する。

風物がしだいに信州らしくなる、屋根にたくさん石をのせてある、訛が解りにくい。

ぼたん、藤、つゝじの花がうつくしい。

十二時近く水窪町へ着く、さびしい街だ、ここで酒屋の若主人から、これからは難路であることを教へられ、逆に電鉄のある方──天龍本流へ戻ることにした、やかまし食堂といふ家で、大豆腐一丁(何と大きな豆腐であつたよ)、酒一本、飯一碗を詰めこんだ、そしてむつかしい、あぶない峠を登りはじめた、間もなく雨が降りだした、やうやく登りつくして、いそいで下る途中で雷雨にたゝかれた、白神シラナミ駅に辿りついた時は五時を過ぎてゐた(二里あまりに五時間を費したのだ)、駅といつても駅員はゐない、粗末な小屋があるばかりである、それでも乗る人はあつて数人あつまつた、椎茸買出商人、出稼人、山住神社参詣人、等々で、みんな親しく賑やかに話し合ふ、私は言葉がよく通じないことを残念に思うた、発電所に落雷したとかで停電、電車がおくれて、最も近くて宿屋がある駅といふ満島へ下車して、T屋に落ちついた時は七時半、山峡は早くもとつぷり暮れてゐた、途中は苦しかつたけれど、風景は申分なかつた、殊に峠を下りつゝ、天龍を見はるかす山のすがたは何ともいへなかつた、絶景絶叫だつた。

山ぐみ、苺ばら、どちらもさみしいつゝましい花だな。

この宿は可もなく不可もなし、あたりまへといふところ、料理は塩辛いが夜具は悪くない。

今夜も昨夜のやうに、給仕してくれるのに閉口した(断つても聞いてくれないのである)。

どうも関東地方は一般に、酒が高くてしかも悪い、夏はビールにした方が安全であらう。

一風呂浴びて一杯ひつかける気持はまさに千両万両!

障子をあけたら、山が月が、瀬音が、──良い月夜になつた。

なぜだか、労れてゐるのに寝苦しかつた。

今日の話題(旅のエピソードいろ〳〵)

小娘がどうしてもヅロースを穿かしてくれとせびる。

木樵の老人が鉈を拾うたら解るやうに置いていつてくれといふ。

山住様を脊負つてるから雷も恐くないといふ。

雷獣を捕へて煮て食べた話。

白神長者の家。

地名の読み方の珍らしさ、大嵐オホゾレなど。

電車では天龍川は味へない、トンネルばかりだから。

抜ける前の歯の悩ましさよ。

・朝の水のおもむろに筏ながれくる

・山の上まで家があつて畑があつて青々

 岩が落ちてきさうな山吹のちる

 朝風河鹿ほんによろしいな

・水があふるゝ山のをとめのうつくしさ

・郵便やさん藤の花を持ちあるく

 山がせまる谷がちゞまつてまつさを

・旅人の身ぬちしみとほる水なり

 水をひいてこんなところにも一軒屋

・足もと蕨が生えてゐてのびやかな

・歩いてまいにちいたどりが伸び伸びて

・屋根に石置いて春のうれしく

・伐つては流す木を水に水に木を

・曇りてしづかな河鹿しきり鳴く

・いちにち木を伐り木を挽きひとり

 けふも一つのよい事をしてあげて歩く

(杣人に斧を拾うてあげた)

 いたゞきちかい若葉となり雨となり

 ちよいと雨をよけたのが葉桜のかげ

 山を越えると天龍見えてくると

・のぼりつくして一本松晴れてきた

 はじめて人に逢ふ山のしぐれて

・山蟻山のしづけさを這うてくる

 立ち枯れの樹の大きくて山ざくら花

 山の高さへわきあがる雲で

・若葉がくれの瀬音はまさしく天龍川

・こそこそ逃げるもかなしからずや山のとかげは

 峯をへだててたまたま啼くは筒鳥か

 山はしづけく鳥もうたへば人もうたふ

 山また山の、声が涸れたよ

・山ふかくして白い花

 夕立晴れて夕焼けて雲が湧いて

 天龍はすつかり暮れて山の灯ちんがり

・山が月が水音をちこち


五月三日 晴、うららかな日であつた、若水居。


私も鶯も早起き、そこらを散歩する。

今朝はなか〳〵肌寒い、どの家にもまだ火燵があけてある、だんだらの家並、さすがに山の町らしい、お休所と書いた店が多い(平岡には限らないけれど)。

男は法被を女はモンペを穿いてゐる。

上りたり下つたりするうちに、神代榎(天然記念物)の大木を見つけた。

今日は足が痛い、衰へたりな山頭火、旅をつゞけてゐると、さらに老を感じる。

九時の電車で、いよ〳〵伊那へ。

トンネル、トンネル、トンネル、天龍川がちらり〳〵。

十時、天龍峡駅下車、姑射橋附近の眺望がすぐれてゐる、枝垂桜、朴の若葉がよかつた、遠く連峯には雪がかがやいてゐる。

何となく憂欝、コツプ酒をひつかけてごまかす外なかつた。

十二時の電車で私は伊那へ運ばれていつた、電車はこゝろよく走る。──

赤石連山の壮観、家々の五月幟、時に満員、乗客の漫談(二十六人の徴兵検査で二十五人合格したとか)、車掌が声高く〝高遠原〟、このあたりは高原らしい蕭条たるものがあつた。

飯田を通過する時は感慨無量であつた、私は胸の中で、飯田よ飯田よ蛙堂老よ蛙堂老よ、と感謝の合掌を捧げるばかりだつた。

伊那地方に入ると、天龍川は平凡化する、天龍が天龍の天龍たるところを失うてしまうのである、天龍は天龍峡の下流となつて、山が迫り谷が蹙つてその本質を発揮すると思ふ、もとり伊那の天龍はそれとしての味もあらうが。

一時、伊那町着、あちらで訊ね、こちらで訊ねて、やうやく若水居をたづねあてた、荷物──といふほどのものでもない──だけは預けて置いて、女学校に若水君を訪ねる、初対面だが初対面らしくもなく。

伯先桜、天然記念物、樹齢二百年位、堂々たる大木。

駒ヶ岳の偉容(東駒、西駒、南駒)。

女学校々庭には、桜(山桜)、山吹が咲きみだれてゐた。

白樺、満天星の若芽もなつかしかつた。

同道してバスで井月の墓に参詣した(記事は前の頁に)、それから歩いたり乗つたりして高遠城址を観た、月が月蔵山から昇つた(満月に近い、ほんたうに信濃の月だつた)、アメの魚がおいしかつた。

葉桜の水たまりでは蛙がしんみり鳴き、料理屋では名残の花見客がドンチヤン騒いでゐた、私たちも酔ふた、酔歩まんさんとして、自動車に揺られて戻つた、戻るなり前後不覚でぐつすりと睡つたのである、ありがたし〳〵。

今日初めて斑鳩イカルといふ鳥を聴いた、ほがらかな声音である。

このあたりではまだ桑の芽も固い、夜風もひえびえとしてゐる。

炬燵で話したり食べたりするのは楽しい。

山国のよろしさ、ほんに山国のよろしさに触れる。

〝いろ〳〵〟

私の旅とお産──

淡々居、阿弥坊居、折嶺居、そして若水居。

無縁塚。

木曽では、麺類魚類は高いが酒類は割合に安い、よい酒ではないけれど飲めない酒ではない。

都会の娘は一眼二眼見たときは美しいと思ふが、よく見ていると、醜さがだん〳〵見えてくる、田舎の女はその反対である。

中年の都会女には嫌な人間が多い。

  天龍川を前に

 向ふ岸へは日がさしてうそ寒い二三軒

・屋根に石を、春もまだまだ寒い

  平岡の神代榎

・なんと大きな木の芽ぶかうともしない

 遠山の雪うららかに晴れきつた

・桑の若葉のその中の家と墓と

・うらうら残つたのがちる

 おぢいさんも戦闘帽でハイキング

 裏門、訪ね来て山羊に鳴かれる

  高遠

・なるほど信濃の月が出てゐる

 飲んでもうたうても蛙鳴く

 さくらはすつかり葉桜となりて月夜

・旅の月夜のふくろう啼くか

 水音の月がのぼれば葉桜の花びら

・ポストはそこに旅の月夜で

  五月三日の月蝕

・旅の月夜のだんだんげてくる

  アメのウヲ

・みすゞかる信濃の水のすがたとも

  井月の墓前にて

・お墓したしくお酒をそゝぐ

・お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました

 駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね

・供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝

 〝井月の墓〟

伊那町から東へ(高遠への途中)一里余、美篶ミスズ村六道原、漬大根の産地、墓域は一畝位、檜の垣、二俣松一本立つ(入口に)、野木瓜椋鳥

┌ツツジ

├ヒノキ苗

└散松葉

墓碑、(自然石)〝降るとまで人には見せて花曇り〟

(井月にふさはしい)

墓石、〝塩翁斎柳家井月居士〟俗名塩原清助

位牌、〝塩翁院柳家井月居士〟

夕日をまともに、明るく清く。

駒ヶ嶽、仙丈ヶ岳。

新しい盛土、石がのせてあつた。

モンペ姿の少女。

鳩のうた

〝苧環をくりかけてあり梅の宿〟

〝何処やらに鶴の声きく霞かな〟

〝駒ヶ嶽に日和さだめて稲の花〟

井月の偽筆! 彼は地下で微苦笑してゐることだろう!

┌塩原本家 軸、屏風、短冊

└塩原新家 愛瓢

・ぶらぶらぬけさうな歯をつけて旅をつゞける

・わが旅のつゞくほどにお産オサンのつゞき


五月四日 晴、若水居


春、山国の春、高原の春、山の色、空の色、土の色、何も彼も春だ。

若水居のしたしさ、若水君その人のあらはれだ。

独活の粕漬うまいな、御幣餅(飯団子の田楽)はめずらしい。

火燵で落ちついて身辺整理、──日記、手紙、等々。

ほろ酔機嫌で、色紙や短冊や半折を書きとばす。

午后、理髪して入浴、伊那銀座を散歩する。

夜は酒と話と蕎麦と、…………そして夜中にはどこかに火事があつた!

・こどもなかよくあたゝかく芽ぶく

・大鼓たたいてさくらちるばかり(高遠)

 みすゞかる信濃の国の御幣餅です

・ぬけさうな歯がぬけてほつと信濃の月

  (信濃木曽になる!)

・春の夜ふけるとぬけるまへの歯のなやみ

・あの水この水の天龍となる水音(伊那)

 ひるからは風が出て西駒東駒の残雪(望嶽居)

・月あかりして山が山がどつしり( 〃 )


五月五日 晴、今日は端午奈良井


若水君ありがたう、皆さんごきげんよう、伊那よ、さよなら、──七時出立。

小沢川にそうて権兵衛峠へ、山桜が咲いてこゝに一本、そこに一本、山吹、野木瓜、落葉松若葉、櫟の芽、小鳥の唄、谷川の声。……

山の家では──そこに三軒あつたが──娘さんが手臼をまはして何かの粉を挽いてゐた、珍らしい風景だ。

峠路がはつきりしなくなつて(そこに古い道標があつたけれど、あまりはつきりしてゐなかつた)、不安でなくもなかつたが、馬糞をあてに送電線をたどつて登つていつたら、幸にして本当の一軒家があつた、そのおかみさんに道が間違つてゐないこと、頂上まで二十数丁であることをはつきり教へられて安心した。

その家の前に彼岸桜が一本、咲きも残らず散りも始めぬ豪華版をひろげてゐた。

──右を見たり左を眺めたり、見下したり見上げたりして、ゆつくり〳〵登る、心臓のよくない私は、平地は平気だが、上りとなると三倍の時間を要する。

谷間のところ〴〵には残雪がある、蕗のとうのよいのを見つけて袂に二つ三つ、今晩のお汁にいれようといふのである、白樺のよろしさ、落葉松のよろしさ、中腹の落葉松は今が見頃だ、辛夷が咲いてゐた、木賊が生えてゐるのも珍らしかつた。

山の子供は行き逢ふ人々に挨拶する、私にも。

奈良井川といつしよに、トロのレールを伝うて奈良井へ出たが、なか〳〵遠かつた(今日の行程は八里)、着くより、一杯ひつかけ一服やつた、今日は一日、酒飢饉煙草飢饉だつたから。

桜は満開、さびれた街並だ、家は木曽流の惣二階、風がうすら寒い。

M屋といふ家を見つけて泊つた、古い暗い宿であつた、さつそく火燵に火を入れてくれてうれしかつた。

山の湯へ行く、帰りみちに酒店に寄つたら、下物として冬菜を一皿御馳走してくれた、ほうれん草に似てゐてうまい、宿ではオコギのおひたしがうまかつた。

今夜は飲み過した、しかしよく睡れた。

酒屋の主人曰く〝──お泊りになりましたな〟、それほど通行人が少なく、旅客が稀なのである。

落葉松は林立したのがうつくしい、若葉の下にゐると夢みるこゝちがする。

白樺は若木が数本並んでゐるのがうつくしい、彼は無用の気高さといつたやうなものを持つてゐる。

  若水君よ

・わかれてひとり朝のながれをさかのぼる

・水はおのづから里へわたしも若葉ふみわけて

・山国の山ふところで昼寝する

・ながれがこゝであつまる音の山ざくら

 こども山吹を折つて来て揷していつた(若水居)

・てふてふとまらう石をめぐりて水

・寝ころべば信濃の空のふかいかな

 咲きみちてうごくともなくうごいてさくら

 すくすく伸びてはからまつ若葉

・てふてふついてくる山はしづけし

・てふてふ峠をおりてきた

 岩に口つけてかつかつ飯める水で

 電線はまつすぐにわたしはうねうね峠が長い

・おぢいさんおばあさん炭を焼くけむり

・月夜しろいのは白樺で


五月六日 曇──雨、福島町


よい水がこん〳〵あふれてゐる、この家のよさの一つ、朝酒、それは花見酒でもあつた、裏から桜の花片がしきりに散りこんでくる。

ゆつくりする、火燵といふものはなつかしい。

八時を過ぎてから出発する、木曽旧道をたどる、道はくづれたまゝ、通る人はない、茫々たる道である、歩いてゐるうちに、人生のやりきれないものを感じる!

老樹のかげに水が流れてゐる、飲むによく休むによい、こゝに幾とせ幾たりの旅人が立ち寄つたであらうか!

木曽はよいとこ水のゆたかさきよさうまさ

木曽山中の野糞は近来の傑作

鳥居峠、古戦場、御野立所、遊園地、句碑二つ。

雲雀よりうへにやすらふ山路かな(ばせを翁)

木曽の栃うき世の人の土産かな(凡兆隠人)

今日の道が此旅の第一だと思ふ。

十一時、藪原に入つた、一杯元気で福島へ急ぐ、途上、下げ髪モンペ姿の少女を見たとき、薙刀の一本をあげたいと思つた。

道は木曽川に沿うて下る、昔風の旅姿の中年女に逢うた、自分も髷物映画中の一人であるやうな気がした。

自動車の通らないのが何よりだ(わがまゝな私を許していたゞきたい)、福島町に入るまではバスもタクシーもトラツクも往来しなかつた。

岩上で一人、岩魚か山魚を釣つてゐる、うらやましい。

山吹橋巴ヶ渕、清冽閑寂。

沿道は山吹、連翹、李の花がめざましかつた、河鹿も鳴いてゐた。

水神、二十三夜菩薩の石塔はおもしろい。

あちらこちらにさうずがことん〳〵。

清流あり、腰巻を洗ふ。

駒ヶ岳の全貌はすばらしかつた。

木曽河原の大石小石しろ〴〵としぐれる。

夕方福島着、一わたり歩いて、S屋といふ商人宿に泊つた。

名物お六櫛、買うたところであげる人がない。

今晩は酒よりも蕎麦を味いたかつたが果さなかつた、残念ながら、──酒飲はつらい

宿のおかみさんが気をきかしすぎて、よい方の丹前を貸してくれたけれど、赤いので外出してきまりが悪かつた、さういへば部屋もこゝの最上室だ!

終夜水声。……

・草ぼうぼうとしてこのみちのつゞくなり

 たゝずめば水音のはてもなし

 誰も通らない道とて鴉啼く

 ぼう〳〵として今日の陽は照る

 みちはくづれたまゝとぼとぼあるく

 みちばたの石に腰かけ南無虚空蔵如来

・誰も通らない草萌ゆる

・水音のとほくちかくなりて道は

・誰も通らない山みちの電信棒

 道がわからない石仏に首なし

・山のふかさを小鳥それ〴〵のうたを

・このみちいくねんの栃若葉

 けふもいちにち山また山のさくらちる

・水を飲んでは水をながめて木曽は花ざかり

・山をふかめてあの声は筒鳥か

 木曽は南へ水もわたしも南へ行く

 山路ふかうして汽車の音の高うして

・山や川や家や橋がある

 芽ぶいて雑木はうつくしいトンネル山

 さくらちるやびつこで重荷を負うてくる

 春風の水音の何を織るのか

・春風の長い橋を架けかへてゐる

 分け入るやまいにちふんどし洗ふ

・花ぐもり道とへばつんぼだつたか

 流れて水が街にあふるるや春

  上田、明治大帝御野立所

 お姿たふとくも大杉そそり立つ

 木曽はいま芽ぶくさかりのしぐれして

 母子オヤコそれ〴〵薪を負うて山から戻る

・たまたま詣でゝ木曽は花まつり


五月七日 曇──雨──曇、坂下


まだ明けないのに、木曽川を河原雀がしきりに啼いて飛ぶ、私も起きて日記を書く。

山のうつくしさ、水のきよらかさ。

身心何となく不調、雨もふりだしたので、滞在して休養したかつたけれど、財布が合点しないので、八時をすぎてから出発する、まづ興禅寺に詣つて義仲廟を展する、それから蝙蝠傘をさしてぼつ〳〵歩いた、歩いてゐるうちに、だいぶ身心も軽くなるやうである、歩くことは私には一種の服薬である

福島を離れると、水のない木曽川になる、ダム工事のためだ、しみ〴〵みじめさを覚える。

木曽御嶽の遠望といふ立札があつたが、雨霧にその山容は見えない。

二里ばかりで、有名な木曽の桟道がある。芭蕉の句碑二つ、明治天皇聖績碑(東郷大将題)。

かけはしや命をからむ蔦かつら(芭蕉翁)

傍に見すぼらしい家があつて、見すぼらしい老人が何やら拾うてゐた、これこそまことに、命をからむかけはし

十一時、上松町に着く、そこから半里位で、名だゝる寝覚の床、臨川寺からの眺望はすぐれてゐる、娘の子が二人せつせといたどりを採つてゐた。

或るお休所、それはぐず〳〵してゐて、そして高すぎた、木曽の店は総じて商売振がまだるこい。

寝覚の床は清閑境であるが、鉄道線路がその上を走つてをり、前方に送電塔がそびえてゐるのはふさはしくない。

滑川橋附近は好景である、歩けるだけ歩くつもりで歩きつゞける、だん〳〵憂欝になる。……

小野の瀧、とう〳〵と落下する水を眺めてゐて、少しは気がまぎれた。

木戸沢橋、穴沢橋、桟沢橋、大沢橋、枇杷沢橋、──その附近のながめはよかつた。

風越山も忘れられない。

須原駅に着いたら四時近かつた、待つより外ないので、そこらを歩いて見る、子供等がわい〳〵青大将を料理してゐた、神経痛の薬として小母さんに頼まれたのださうな、おや〳〵、おや〳〵。

子供に駅を訊ねたら、桜の木のあるところと指さしてくれた、この子は賢い。

五時の列車に乗り込む、名古屋へ通すつもりだつたけれど、十時頃に林五君の家庭をみだすに忍びないので、六時、坂下下車、そして藪下屋といふ宿に落ちついた、こゝは先年一泊した土地、いろ〳〵の事がおもいだされる。

雨はふつたりやんだり、憂欝を払ふべく一杯ひつかけた、かういふ場合のアルコールは殊によろしくないのだけれど。──

日の出湯といふのへ出かける、暗い湯だ、月の湯とでも名づけたらよからうに。

総じて山国の人々は暗さになれて気にかけないらしい。

汽車が、乗つてゐて耳を傾けると、残つた残つたと響くやうだ、意味ふかい言葉ではある。

──早く寝よう、早く帰ろう、早く死なう!

  興禅寺の義仲廟

 さくらちりをへたるところ朝日将軍の墓

・かけはしふめば旅のこゝろのゆるゝとも

 おべんたうを食べて洗うて寝覚の床で

 筧の水のあふるれば誰もひとくち

・苔むしてよい墓のぬしはわからないが

・日が落ちる山のあなたへ雲のゆく

 たちまち暗くたちまち明るく青い山(トンネルつゞけば)

・旅のこゝろのふとんおもたく寝る


  (寝覚の床の句碑二つ)

筏士に何とか問む青あらし   也有翁

ひるがほに昼寝せうもの床の山   芭蕉翁

三留野──坂下、その間の木曽川。

まことに山高く谷深し。


五月八日 曇、リンゴ舎


朝早くから裏藪で雀共が会議を開いてゐる、なるほど、坂下の藪下屋だ。

朝のお茶受はどこでも梅干、たいへんよろしい、日本人は梅干のありがたさを味解しなければウソだ。

──なぜこんなに気が滅入るのだらう、くよ〳〵するな、とにかく一杯やりたまへ、──朝から鯖の酢漬をつけてくれてるではないか。──

よい宿だつた、安くもあるし気楽でもあつた、どこでもこんなだと私も助かるのだが。

旅愁──といつたやうなものがほのかにたゞようてくる、したがつて不機嫌になる、それをごまかすためにそこらを歩きまはる。……

八時頃出発、九時乗車、名古屋へ、リンゴ舎へ。

落合川のダム風景は悪くない、葉桜の長い列はよかつた。

遠足の小学生と同車、腰かける余地がない、ずゐぶん騒がしかつたけれど、その騒がしさが私に数句めぐんでくれた。

子供は動く、いつも動いてゐる、食べる〳〵、しやべる〳〵。

バツトの空函を拾ひ集めてゐた一人が、一本残つてゐたのを見つけて私に差出した、ありがたう、よい子だな!

子供が騒げば騒ぐほど先生は微笑する、先生はありがたいな!

名古屋近くなつて、彼等は昼飯、それ〴〵握飯にかぶりついた、親心子心、私は涙ぐましくなつた。

光寺上流の山は水はよかつた、よかつた。

十二時、何日ぶりかで名古屋の駅に下り立つた、或る食堂で酒と飯、しばらく広小路ブラ、それから電車でリンゴ舎に地下足袋を脱いだ。

林五君の家庭はほんたうにむつまじい、みんなが心が心をあはせつないでゐる、うらやましくもありがたくもある、私もその雰囲気につゝまれて、なごやかな私となる。……

夜、武朗君白々君来訪、坊ちやん二人も参加して句会、十二時近くまで話し会つた、うれしいあつまりであつた。

連日のつかれで熟睡(妙な夢におそはれたが!)。

未明、後架に起きたら、よい有明月夜だつた。

・ここに咲いてこゝに散る花のしづか

 水の青さへ山のみどりがさかさまに

 山から町へ、重荷がどつさり蕨で

 子供が兵隊さんによびかける葉桜の濃く

 山が青く青く女はおしやべり

 夏めく山のまつくろなけむり

  小学生の男と同車して

 大きな小さな、とり〴〵のおむすびをそれ〴〵

・こどもら手をあげつゝ五月の風を

・帽子ぬげば大きい禿が春の風

・汽車は裏町のしばらくはおしめ風景です

  名古屋へまた

 いくにちぶりのプラタナスすつかり若葉

・見えてお城が煤煙のむかう

・こころおちつかない水は濁りて

  リンゴ舎小庭

 いちぢく若葉となりふたゝび逢へたよろこび

・あを〳〵しげりゆくおとなりの塀がかくれるほどにも

・家内むつまじくばらの蕾に傘さしかけてある

 夜のばらのしろくしづかな


五月九日 快晴、リンゴ舎、名古屋。


眼ざめ楽しく、空青く、草木青く、風快く。

鋏を借りて手足の爪を切る、こんなことにも旅情が湧く、弱い人間である。

八時から主人に案内されて、名古屋見物と出かける、歩いてお城まで、天主閣拝観、堂々として暗くて、封建の力ともいふべきものを痛感する、清正公石には清正の人格が残つてゐる。

陸軍病院に敬意を表し、護国神社に合掌する、青銅の大鳥居は尊い、大厚皮香の木ぶりをよろこんだ。

行楽日和、掃除日、風の日。

デパートを見物する、十一屋で展観中の上海陸戦隊のスチールには頭が下るばかりだつた。

松坂屋は感じのよい百貨店、賑うて居た、食料品部を通りぬけるとき、人間の胃袋の大きく強いことを考へさせられた!

途上、めしやに寄つて昼食をしたゝめる、安かつたが、それだけ粗末だつたが、私はそれで十分だつた。

ついでに蓴蓮亭を訪ねる、幸にして夫妻とも在宅、折からの平手前に招ぜられたが、それは私たち二人にとつては有難迷惑だつた!

労れて、動物園行は止めて戻つた、乗物をちつとも利用しなかつたので、四里か五里かしか歩かないけれど、ずゐぶん労れた、山や水の間よりも人間の中ではほんたうに労れるやうだ。

おいしく夕飯をいただく、晩酌三本はおめでたすぎるぞ、リンゴ舎小庭に雪の下のひろがるやうなものか!

今夜も句会、白々武朗二君来訪、おそくまで句評して、さよなら〳〵。

よく睡れたが、恥づかしい夢を見た。

  名古屋城

・青葉若葉大いなる石垣に日の照りて

・天守閣はがつちり風の中をのぼる

・鯱のひかりも初夏の風のかがやく

・若葉のひかりに触れつゝ行く

  デパートのエレヹーターガール

・上つたり下つたりおなじ言葉をくりかへして永い永い日


デパート所見

鯰をひつかける、傷ける鯰の群

亀の昼寝

便所内の一日、便所婆さん

開店分列式(男女店員数百名の)

 (三星デパートのビルデング)


五月十日 晴、曇、比古居、大阪。


家庭の朝の空気のしたしさ、なつかしさ。

朝酒を頂戴する、今朝はお別れだ、林五君、奥さん、坊ちやん、ありがたう、ごきげんよう。

八時出立、電車で駅へ、八時の列車には乗りおくれたので十時を待つ。

名古屋駅の建物設備はすばらしい、日本一、東洋一だ。

十時半の列車で大阪へ(京都へは立ち寄らないことにした、湖辺の逍遙も出来なくなつた)。

或老夫婦、慾が多いと見つともないな!

車中うつら〳〵。

近江の国は春闌けて暑い〳〵。

石山駅頭の歓送風景、小学生の万歳々々を聞いて涙ぐましく。

南へ南へ、春がだん〳〵夏めいてくる。

或る中年の男女、彼等はたしかに秘密を持つてゐる、情痴の臭味が彼等をつゝんでゐる。

四時梅田着、入浴してから電車で湊町へ、牧句人君は旅行中、それから歩いて比古さんを訪ねる、在宅、お客さんにまじつていろ〳〵の話を聞く、カフヱーの話、人と人との交渉破裂の話、或る事業の話、等々、──それがみんな裏面の打明話だから興味ふかい。

大阪は騒々しいと今更のやうに感じる、私は騒音には堪へられない。

比古居で泊めてもらふ、いつぞやうに、蔵の中で寝た、お染のゐない久松といつたやうな風に!

アルコールなしですこしさびしかつたが、こゝろよく睡ることが出来た。


  林五君に

・くもりおもたくつひのわかれか

  名古屋駅

 夜もなく昼もない地下室の人々

  車中

 うらうらここはどこだらう

・おべんたうはおむすびをわけてたべておわかれ

 春風の汽車が汽車を追ひ抜く

・関ヶ原は青葉若葉がせまるとトンネル

琵琶湖ウミはまさに春こまやかなさざなみ

・初夏のそよそよコンパクトにほふ

 暮れゆくビルのたかくも飛ぶは何鳥

・街のゆうぐれ猫鳴いて逢ひに来た

 ゆく春の夜の水のんで寝た


五月十一日 晴──曇、奈良


  畝傍御陵

・松老いて鴉啼くなり

  橿原神宮

・この松の千代に八千代の芽吹いてみどり

・みたらし噴く水のしづかなる声

・旅もをはりの尿の赤く

 枯れきつてあたゝかな風ふく

 あすは雨らしい風が麦の穂の列

 ぽろり歯がぬけてくれて大阪の月あかり

 ぬけた歯はそこら朝風に抜け捨てゝ

 一人もよろしい大和国原そこはかとなく

 若い人々のその中に私もまじり春の旅

白船君からのたよりでは、大連の坂田君が十年ぶりに帰郷、三人相会して談笑することが出来なかつたのはまことに残念千万、ぢだんだふんで口惜しがつたけれど、諦める外ない、命があるならば、縁があるならば、また逢ふこともあらう。

坂田君よ、御機嫌よう!(十二日夜)


五月十二日 雨、神戸、詩外楼居


朝早く嫌な宿屋から離れて雨中散歩。

  奈良公園

 塔は五重いういうとして鹿

・生きもののくさいくさい雨のふりそゝぐ

・雨がふる大阪城の若葉かな


五月十三日 雨──曇──晴、詩外楼居。


こゝろよくねむれた朝のこゝろよさ。

朝酒! もつたいなかつたけれど。──

詩君の好意で新東亜建設博覧会見物に出かけることにして、九時の電車で三宮へ、一時まで場内をぶらついた、くたびれるためにはいつたやうなものだけれど、武漢攻略パノラマ武勲室満洲開拓村光景は身にしみて観てまはつた。

何となく身心が重苦しい。

三時、戻つて入浴して、書いたり考へたり、しづかに暮らした。

 けふは霽れさうな雲が切れると煤煙

・ここに旅の一夜がまた明けて雀のおしやべり

 晴れるとどこかで街の河鹿

・出水のあとのくづれたままの芽ぶいてゐる

  博覧会場にて

 眼とづれば涙ながるゝ人々戦ふ

・春雨に濡れてラクダは動かない

底本:「山頭火全集 第九巻」春陽堂書店

   1987(昭和62)年925日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2010年76日作成

2011年117日修正

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