其中日記
(十三の続)
種田山頭火



旅日記


八月二日 晴れて暑い、虹ヶ浜。


午後三時の汽車で徳山へ、白船居で北朗君を待ち合せ、同道して虹ヶ浜へ。

北朗君は一家をあげて連れて来てゐる、にぎやかなことである、そしてうるさいことである(それが生活内容を形づくるのだが)。

いつしよに夕潮を浴びる、海はひろ〴〵としてよいなあと思ふ、波に乗つて波のまに〳〵泳ぐのはうれしい、波のリズム、それが私のリズムとなつてゆれる。

松もよい、松風はむろんよろしい、さく〳〵踏みありく砂もよい、自然は何でもいつでもよろしいな。

遠慮がないので、また傾け過ぎた、宿のおばあさん──老マダムとでもいはうか──が酒好きで、のんべいの気持が解るのでうれしかつた、二階に一人のんびりと寝せてもらつた。

海、海、波、波、子供、子供、酒、酒、夢、夢!


八月三日 曇、下関。


早くから起きて松原を散歩する、朝の海はことによろしい、同道して、七時の汽車で徳山へ、昨日も今日も応召兵見送でどの駅も混雑してゐる、涙ぐましい風景である。

白船居で昼食をよばれる、酒のことは書くまでもあるまい。

白船君夫婦は幸福だ、円満な家庭とは君らのそれであらう(不幸な家庭とは私のそれであるやうに)。

十二時の列車で九州へ、四時、門司に着いて銀行の岔水君を訪ね、それから局の黎々火君を訪ねる、ビールを飲んで、いつしよに下関へ渡つて別れる、いつものやうに花屋に泊る、夜は地橙孫君を訪ねて話す、ビールやら酒やら泡盛やら飲みすぎて、ふらついてゐるところを検索されてしまつた(彼は新米巡査だつた、手帖が汚したかつたのだらう!)。

何もかも万歳となつて炎天

 出征兵

これが最後の日本の飯を食べてゐる汗

潮風強く出て征く人が旗が


八月四日 晴、緑平居。


朝やうやく解放されて帰宿、おかみさんが気の毒がつてくれる、ほんたうに馬鹿らしい出来事だつた。

十時、関門海峡を渡る、一杯ひつかける、一時緑平居着、腹から安心して御馳走になる、腹も空つてゐたので、奴豆腐を二丁までも頂戴した。

夜はラヂオを聞きレコードを聞かせてもらつた。

長い長いトンネルをぬけて炎天

 廃坑

日ざかりの煙突また煙吐いてゐる

けふは誰か来てくれさうな昼月がある

親船子船すずしくゆれてゆく

 非常時色

古い葉新らしい葉七夕の竹は立て


八月五日 晴、鏡子居。


早起、香春岳を眺める、忘れられない山だ、緑平老のやうに。

十時のバスで飯塚へ、烏峠の眺望はなか〳〵よい。

伊岐須ではみんなたつしやでほがらかだつた、こゝでも豆腐をたくさんよばれた、健と差向ひで、初孫を寝かせて、愉快なビールを飲んだ、若い人々よ、幸多かれ。

四時のバスで、そして五時の汽車で八幡へ向ふ、何だか寂しくなつて、たへかねて一杯二杯三杯……七時、鏡子居へころげこんだ、そしてまた酒、いつしよに井上さんの宅へ、そしてまたビール、やつと戻つて寝た、弱くなりましたねと鏡子さんに皮肉られながら。

悲しい酒でもあり寂しい酒でもあり、嬉しい酒でもあり、うまい酒でもあつた!

孫──

酒──

旅──

老──

友──


八月六日 岔水居。


朝酒はほんたうにうまい、一滴一杯が五臓六腑にしみわたるやうである。

昼飯は井上さんのところで御馳走になる、一人でゆつくり飲んで食べた、ありがたう〳〵、鏡子さん、ありがたう。

二時電車で戸畑へ、雲平居、星城子居を妨げないで、多々桜君の霊前で回向する、ほんに老少不定だ、奥さんの愁傷は見るに堪へなかつた。

電車で、六時、門司の岔水居をたゝく、しづかな、あたゝかな家庭、岔水君にふさはしい、食後、奥さんもいつしよに散歩して映画を観たが面白くなかつた。

 多々桜君霊前

その桃が実となり、君すでに亡し

てふてふ一つ渦潮のまんなかに

炎天にたへて咲く花のうごいてゐる


八月七日 晴、まさしく大暑、花屋。


起きてまづ一杯。──

九時出発、岔水君夫妻よ、いつまでも今のやうに。

歩く、下関はなつかしい都市である、飲んでは歩く。

支草居徃訪、すぐ退出、地橙孫居徃訪、不在。

花屋のいつもの部屋でぐつすり寝た。


八月八日 晴、華山々麓。


朝ふたゝび支草居を訪ねて、妻君から不快を与へられた、何か誤解してゐるらしい、是非もない事だ、私としては疚しくない。

十一時の汽車に乗つて小月で下りる、一里一杯の元気で岡枝まで歩く、そこから軽便で原町まで、そして西市まで歩く、また一里歩いて、やうやくにして守富さんの家をたづねあてる、ほつとして水を飲ませてもらふ。

家は華山々麓の山里にあつた、まことに清閑な住居であつた、家人がしんせつにもてなして下さる、守富さんが温厚そのものゝやうな詩人であるのも、なるほどとうなづかれた。

久しぶりに蜩を聴いた、何といふよい声だらう。

まことによい夜をおくることが出来た。

華山々麓の一夜

 華山々麓

やうやくたづねあててかなかな

ふと見あげる山から月の出るところ


八月九日 曇、帰庵。


朝の雨すこし、山から山があふれてくる、涼しい風がふきぬける、蜩が鳴く、池の鯉がはねる、うまい酒がます〳〵うまい。

十時半、西市まで送られて、切符までいたゞいて帰途についた。

途中、吉田へまはつて東行庵に拝登した、夕方戻つた。

東行庵

水浴

胡瓜一山十銭!

寝たら餅

柳すずしくお地蔵さまのあたま撫でては


八月九日 晴、立秋。


夕方帰庵。

久しぶりに、自分の寝床で手足を伸ばして安眠熟睡した。


八月十日 晴。


暑い、暑い、忙しい、忙しい。

身辺整理。──

散歩、暮羊居に寄る、やつぱり一人はさびしい。

月がよかつた、満月だつた、踊大鼓が聞える。

がちや〳〵がちや〳〵、にぎやかなことである。

ぐつすりと寝た。

・泥あそび水あそびする子供らの幸福

・戦地より帰隊せる大場部隊長の苦衷


八月十一日 晴。


早く起きて筆を執る。──

暮羊君来庵。

月のよろしさ。

よく睡れた。


八月十二日 日本晴。


終日執筆。

午後散歩して一杯。

柚子盗人が来たやうだ、いつぞやは花盗人が来たが。

近来とかく腹が立つて困る、反省が足らないからだ、腹を立てるほど私は人並らしくないではないか!


八月十三日 晴。


沈静。──

やうやく一篇書きあげて澄太君へ送る。

ポストまで出かける、例によつて一杯。

暑い日であつた、物みなあえいでゐる。

嚢中自無銭!

柿の実が青葉がくれに目立つほど大きくなつた、そしてぽとり〳〵落ちる。

更けるまで寝つかれなかつた。


八月十四日 晴。


暑いとはいつても、朝晩は秋を感じる、一雨来たらめつきり秋めくだらう。

澄太君の好意で稿料を受取る、木郎君から来信、北支はさぞ暑からう。

樹明君から招待される、暮羊君から五十銭借りて理髪、煙草とグリコとを買ふ、椹野川で水浴する、そしてそれから訪ねたが、すこし早すぎた、やがて樹明君帰宅、よく飲みよく食べた、そしてそのあたりをぶらついて帰つて来た。

家庭は、家庭といふものはなつかしいと思つた。


八月十五日 晴。


空々寂々、善哉々々。

良寛和尚は空中習字をしたといふ、よし、私は空へ句を書かう!

散歩、ポストへ、買物。

暮羊居で雑談。

肉体は老いこんでくるが、精神は若返るやうな気がする。……


八月十六日 曇。


──悪日だつた、酔ひつぶれて悔を残すばかりだつた。

たうとう戻れなくて、Iさんの寝床にもぐりこんだ!

・心ゆたかなれば体すこやかなり。


八月十七日 晴。


昨夜の今朝である、堪へがたい憂欝だ。

絶食。──

悪魔が来て私を責め悩ました。……


八月十八日 曇。


身心清掃、今日も絶食。

散歩、酔うて彷徨したけれど。……


八月十九日 曇。


早朝帰庵、ほつとする(昨夜はJさんの寝床に寝せて貰つたので)。

雨、雨よ、私を洗つてくれ。


八月廿日 曇。


不快。──

Tといふ未見の人からうれしい手紙を貰つた(これも澄太君の友情のおかげである)、ありがたう。

一度犯した過失は二度犯すといふ、私はいつもおなじ過失を犯しつゞけてゐる。

酒はやめられない、酒を飲むと脱線する(いつもさうではないが、そして脱線といつても大したことではないけれど)、ほんたうにうまい酒、最初から最後までうまい酒が飲みたい。

悔のない生活、かへりみてやましくない生活がしたい。

私は矛盾だらけだ、それはアルコールがもたらすものである。

或る日はおとなしすぎるほどおとなしく、或る夜はあきれるほどあばれる。

あゝ、かうして私は一生を終へるのか。

ほろ〳〵酔ふたとき、私は天国を逍遙する。

しんじつ句作するとき、私は無何有境の法悦を味ふ。

あゝ、この矛盾! それを克服することが私にあつては生死の問題だ!


八月廿一日 曇、微雨。


身心沈静、専心読書。

たよりさま〴〵、友はなつかしいかな。

自己粛清──自己転換──自殺──私もいよ〳〵どんづまりまで来た。──

まさしく秋、天も地も人も。


八月廿二日 曇──晴。


欝々として。──

戦争の夢を見た、覚めてからも暫らくは身心が重苦しかつた。


八月廿三日 晴れたり曇つたり。


冷々淡々、それでよろしい。

朝はコーヒーだけ、昼は御飯、晩はまたコーヒー。

憂欝にたへきれなくて散歩する、暮羊居に寄つて新聞を借りる。

万葉集を読みつゝ、その素純にうたれる。

身辺整理。

とても寝苦しかつた。


八月廿四日 晴、快晴。


けふもコーヒーだけ。

清丸さんから重ねてたより、召集されて入営するといふ、餞けする物はないので、さつそく一句贈つた。

六日ぶりに街へ、まづW店で一杯また一杯(酒も六日ぶりだ)、そしてS店で半搗米を貸して貰ふ。

けつきよくは飯と水である。

今日はお盆の二十四日、地下はお地蔵さまのおせつたいで賑ふ、ほゝゑましい風景であつた。

午後、また、散歩がてらポストへ、暮羊居に立ち寄つて、久しぶりに会食した、よばれた〳〵、うまかつた〳〵!

夜、暮羊君来庵、杉の青葉で蚊遣して、わざと蝋燭で、コーヒーをおいしくすゝつた。

今夜も寝苦しかつたが、やつと眠れた。


八月廿五日 今日も快晴。


新秋のすが〳〵しさ。

Kから手紙が来ない、何となく不安な気がする。

句稿整理、第六句集孤寒抄刊行の準備。

散歩がてら、学校のIさんを訪ねて、四国霊場奉納経をあげる、彼の妻君は大のお大師信者だから。

陽は熱く風は涼しい。

半搗米がなか〳〵うまい、玄米も試食したい。

すなほにつゝましく、たゞ〳〵すなほにつゝましく、──それが私の生活態度でなければならない。

・一石一鳥がよろしい、それで十分だ。

 たとへ一石二鳥三鳥があつたとしても。

 一石一鳥の態度


・私の浪費──

   酒の浪費──泥酔。

                自分を粗末にする

   身心の浪費──のらくら。


・死期、死処

・残生、余命


・巣立つ鳥

 老いぼれ鳥


八月廿六日 晴。


早起、しづかな朝景色。

緑平老は、忙しくて忙しくて雷のやうな、といふ、私はひまでひまで草のやうだ!

老境。──

草と虫と、そして。──

Kから来書、ありがたう、安心する。

さつそく出かけて、払へるだけ払ひ、買へるだけ買つた。

飲みたいだけ飲み、食べたいだけ食べた、感謝々々。

夕、暮羊居に立ち寄つた、暮羊君とお客さんとが街へ出かけるあとからついていつたのがいけなかつた、とうたう喧嘩わかれに別れて戻るやうなみじめさになつてしまつた。……

今日、真実を語ることが──ほんたうをそのまゝ話すことが必ずしも幸福をもたらすものでないことを事実に於て見せつけられた。……

ついてゆく


馬鹿と罵られても私は怒らない、私は自分が馬鹿であることを知りぬいてゐるから。

私はどんなに見下げられても平気だ、私は人間として無能無力であることを自覚してゐるから、何のねうちもない自分であることを悟つてゐるから。


八月廿七日 曇、微雨。


陰欝、身のまはりをかたづけて読書。

反省して堪へがたいものがある、やつぱり私は一人がよい、一人の愚を守れ

夜、夕立があつた、寝床へまで漏つた、……あゝ、私の身心はやぶれてゐる!


八月廿八日 雨──曇。


落ちついて読書。

短冊を書いてNさんへ送る。

飯あり、酒なし、……銭もなし。


八月廿九日 曇。


夜の明けるのを待ちかねて、水を汲む、水が濁つてゐる、さびしい色だ、何となく心が重苦しい。

午後、Nさん久しぶりに来庵、そこはかとなく話す、コーヒーを御馳走したいが砂糖がない、そこらまで送る、そして私は石油買ひに新町へ、M店で一杯、むろんマイナス也、老主人はいつも嫌な人間なるかな、ついでに米を貰うて戻る。

今日、Nさんに裏の柚子をもいでもらつた、柚味噌をこしらへた、香気ふくいくとして身心さわやかになつた。

あれから暮羊君に逢はない、酒の上とはいひながら、私は感情をぶちまけすぎた、慎むべし、〳〵。

┌誠─┐

││ │

│真心┼無心境

││ │

└無我┘


──我は如何なるさまに居るとも、足ることを学びたればなり。──

パウローピリピ書


八月三十日 曇、時々雨。


暁起、虫声、読書。

樹明君から来書、読んでゐるうちに涙ぐましくなつた、あゝありがたい。

蝶夢和尚文集を読みつゞける。

やうやく花茗荷が咲きだした、私の好きな花である、白い花だ、匂ひのよい花だ(水仙のやうに、くちなしのやうに、泰山木のやうに)。

しづかで、おちつけばます〳〵しづかで。

蚊はともかく、油虫はやりきれない、Nさんから借りた本をなめられて申訳がない、困るぢやないか、油虫め。

健へ手紙を書く、満洲進出についての卑見を申し送つた。

暮れきらないうちに、農学校の宿直室に樹明君を訪ねる、酒とビフテキをよばれた、御馳走々々々、極楽々々。

ほどよく帰つて寝た、ちんちろりん〳〵、いつしか睡つてしまつた。

私はK君との交渉に於て、人間の交際は深入するものでないことを教へられた(親友の場合は特別だ、深入するほど親密なのだ)、浅く交れ──かう事実が教へる、また、かういふ事も知つた、不用意な言行が、時として、どんなに葛藤をひきおこすものであるかを、──つゝましくあれ

┌学んで、そして考へて。

└考へて、そして学んで。


┌生活的事実

└芸術的真実


八月三十一日 晴、まつたく秋。


未明眼覚めて、昨今の自分を省察する、しつかりせよ。

身心平静。

このごろの蚊の鋭さはどうだ。

洗濯をする。

久しぶりに裏山へ行く、もう萩が咲いてゐた。

夕、散歩して銃後の句を一つ拾うた。

白船老に──

……私は身心共にどんづまりに来たやうです、こゝで自己転換をしなければなりませんが、それが出来るかどうか、出来たらお手拍子喝采を願ひます、……お互に還暦も近づきましたね、私はいそいで酒を飲まなければなりません、みつちり句も作らなければなりません、とすれば私もやつぱり忙しいといへますね!……

苔の花

それは私の句、私の文にまことにまことによく似てゐる、──私の文集と句集の名前としてふさはしいではないか。

死ぬることは生れることよりもむつかしいらしい


九月一日 晴、二百十日。


関東大震災記念日。

あれからもう十五年になる、あの頃の私を考へると、まことに感慨無量である。

今年ももう九月になつた!

暮羊居から新聞を借りて来て読む。

柿の葉がまじめに落ちはじめた。

畑仕事をすこしする。

どこかで万歳の声がする。

夕方、暮羊君がやつてきて雑談しばらく。


九月二日 曇。


あかつき、虫の声がふるやうだ。

落ちついて読書。

午後は畑仕事、すばらしい草だ、明日は大根を蒔かう、ふさはしいお天気だ。

新聞を借りて来て読みふける、新聞だけは読まずにはゐられない。

夕方、裏の観音堂で大鼓が鳴り出した、地下のお接待日だ、ぞろ〳〵誰も彼も登つてゆく、──なつかしくもうらやましい事であつた。

夜、風のぐあいで、駅売の声がはつきり聞える、これはなやましいことだつた!


九月三日 曇──晴。


いつとなくいつのまにやら、すつかり秋になつた。

私の好きな晩秋初冬もちかづいた。

散歩、呂竹さんへ花茗荷を持つていつてあげる、句稿を投函する、W店で一杯ひつかける(アルコールのたゝりか、それともマイナスのたゝりか、めつたにない頭痛がした!)。

夕方、大根を蒔く、何と弱い肉体だらう。

父子物語

  一、麦飯

  二、酒

  三、嘘─一銭銅貨


九月四日 曇──雨──風。


厄日前後で雲行何となく不穏。

関東はまた風水禍に見舞はれた、それはむろん災害であるが、それを天地の警告として受入れるところに、人間の省察と発展とがある。

今日は蕪を蒔く、そして洗濯をする。

ポストまで出かけたついでに、暮羊居から新聞と雑誌とを借りる。

雷鳴、時雨、うそ寒かつた。

今晩の御飯はとてもおいしかつた、──いつもおいしく御飯をいたゞくのであるが、とりわけて──しみ〴〵ありがたいと思つた。

いつもかはらずおいしいのは水と飯である

奇抜な夢を見た、奇抜すぎてをかしかつた、夢中、思慮を失はない自分がうれしかつた。


九月五日 風雨。


厄日らしく降つたり吹いたり。

肌寒く、襦袢を重ねた。

やむことをえないで、街へ出かける、まづW店で一杯ひつかけ、その勢ひで、S店で米を借りて戻つた、途上六句拾つた。

御飯! 米といふものについて改めて考へる。

層雲への短かい感想を書きあげる、それを持つて再び街へ、W店でまた飲む、酔うたが乱れなかつた。……

人が恋ひしかつた、友達がなつかしかつた。


九月六日 雨。


胃のぐあいがよくない、今日は節食、昨日は食べすぎ飲みすぎた。

何となく陰欝、井戸の水の濁つてゐるのも。

読書が何よりよい、読書なるかな、読書なるかな。

こほろぎの歌のよろしさ。

澄太君からありがたいたより、あゝ友はありがたいかな。

蚊が蠅が秋風に吹かれて、とてもずるくなつた。

また、嫌な夢を見た、身心の鍛錬が足らない。

感覚を通して魂へ」(ヘルマン・ヘツセ)

感覚の中に魂を。──


九月七日 晴。


夜明けが待ち遠しかつた。

やうやく晴れわたつた、日本晴だつた。

もう大根も蕪も芽生えてゐる。

散歩、まことに秋晴のよろしさであつた。

昨日も今日も半搗飯と塩だけ。

よい月夜であつた、踊大鼓が聞える。

何といふ下らない夢であつたらう!

婦人公論所載、河崎なつ女史の自叙伝はおもしろかつた、鳩山さんの母の伝記も、野口博士の生ひ立ちの記も。


九月八日 晴。


やすらかに今日の太陽を迎へた。

萩も咲かうとし、曼珠沙華が咲きだした。

散歩の季節、散歩日和であつた。

暮雲居から新聞を借りて来て読む、徳安爆撃同乗記に心をひかれた。

句稿整理、第六句集孤寒抄出版のために、──所詮は身すぎ世すぎのみじめさ

今日も三度とも塩かけ飯!

閏七月の十五日、いはゆる芋明月であるが、誰も来てくれなかつた、雲が出て風が出て、月も冴えなかつた、なぜだか頭痛の気味で、早くから寝床にはいつたが、なか〳〵寝つかれなかつた。

Jさんが来ての話では、F老主人が危篤ださうである、此頃は死ぬる人が多いといふ、南無阿弥陀仏。

無駄をせず無理をせず──

強く正しく──

すなほにつゝましく──


九月九日 曇、一時晴。


しづかに──しづかで。──

Nさんから短冊代を頂戴した、ありがたう。

散歩、買物いろ〳〵、やつぱり飲みすぎた、胃は何よりも正直だ

駅で、出征の山口兵を見送る、万歳々々、みんな朗らかで元気で、心強く感じた、万歳々々。

殆んど一ヶ月ぶりに温浴、垢を洗ひ落したが、また、垢がたまつた。

不在中にNさんが来庵されたらしい、すまなかつた。

寝苦しかつた。

・徳安爆撃行、陸の荒鷲、久保編隊長の感嘆。──

 秋晴れや爆煙散つて敵はなし


九月十日 曇──晴。


──省みて恥ぢる

彼岸花を仏前に。

青唐辛佃煮。

今朝から麦飯にする、いつも御飯を食べすぎるから。

散歩、嘉川のポストまで、Iさんを訪ふ、息子さん出征。

日中外出はまだ暑い、山越して汗びつしより。

苅萱を活ける、何の奇もないところが好きだ。

宵から寝た、夜中に眼覚める、良い月夜であつた。

東京の夢を見た、東京の事を考へてもゐないのに。


九月十一日 晴──曇。


日に日に日が短く夜が長くなる、とかく寝覚がちの私は秋をひし〳〵味はなければならない。

よい日曜日、私には日曜も月曜もないけれど。

急いで随筆を書きあげて澄太君へ送る。

ポストまで出かけたついでに、W店で一杯。

途上で暮羊君に邂逅し、先日の短冊の話をして安心。

麦飯がうまい、茄子のどぶ漬がうまい、柚子味噌がうまい、うまいうまい!

午後、散歩、W店でまた一杯、おかげで四句拾ふ。

F老人はたうとう死なれた、森をへだてゝお葬式を見送る、あゝ生々死々去々来々、あはたゞしい人生ではある。

樹明君に招かれて学校へ行く、宿直部屋で、腹いつぱい御馳走になつた、そして悪筆を揮つた、夜おそくまで、庵の事を話したり、伯父さんの話を聞いたり、芥川賞受賞作厚物咲を読んだりして帰つた。

月がよかつた、酔眼に映る月の世界は美しい夢だ。

今日は失策一つしでかした、御飯をしかけて忘れてゐたのである、せつかくの御飯を黒焦げにしてしまつた、私もだいぶ老耄したらしいわい!

衣食住の順序は、私にありては、

私は自然に心をひかれる、人事よりも自然にひきつけられる、それは素質境遇のせゐだらうが。


九月十二日 晴──曇。


身心倦怠。──

昨夜は御馳走になりすぎた、自分の卑しさを恥ぢないではゐられない。

顔を剃る、多少、気分がよくなつた。

Jさんの話では、W老人も死なれたさうな、ああ。

更けてよい月夜だつた。


九月十三日 晴──曇。


朝は晴れきつてゐたが、雲が出て風も出た。

日の出を迎へる気持は何といへない。

茶の木がもう蕾をつけてゐる。

朝、百匹に螫された、彼は雑巾の中にもぐりこんでゐたのである、それをうつかり押へつけたのである、螫した彼には罪はない螫された私の不運である、幸にして折よく有合せの薬を塗つたので、何でもなかつた。

お昼は菜を間引いて味噌汁、おいしかつた、二重の意味で。

めつきり日が短かくなつた、蚊も急に少くなつた。

いろ〳〵考へて寝つかないうちに夜が明けてしまつた。

有明月が遠く細く美しかつた。

自然──自己

必然性──本質性


自己を自然の一部分として観ると共に

自然を自己のひろがりとして観る。


「人得咬菜根百事可做」

「勿躰ないも卑しいから」


九月十四日 晴。


朝寒、袖なしを出して着た。

句稿整理、なか〳〵捗らない。

白い着物を干して仕舞ふ、といつても浴衣一枚肌着一枚だけしかない。

散歩、ポストまで、それから油屋へ。

或る店でラジオを聞かせて貰ふ、欧洲もチヱツコ問題をめぐつて、戦争の前夜らしい雲行、ヒツトラーの獅子吼が強く聞える。……

酒屋の前は眼をつぶり息をしないで通りぬけた!

外を歩けば暑いが、内に居ればそゞろに寒い。

井戸端会議といふものは面白い。

漢口へ、──漢口へ、──日本人はみんな叫ぶ!

お祭の大鼓が響く、ちよつと淋しくなる。

また米がなくなつたので麦だけ炊く、まだ麦でもあるのが仕合せだ。

麦を食べると胃の工合はよろしいけれど、腹が張つて困る(食べすぎるからでもあらうが)、そして放屁がつゞく。

老人の死が多い、近火、近火、用心、用心。

今日は何となく楽しい一日であつた、合掌。

ランプも点けないで宵から寝た。

・その文鎮

   もしもこれが金であつたなら。──

・借金の話


九月十五日 曇。


早寝早起だつた。

今日もまた菜を間引いて、味噌が残つてゐたので、おいしお汁をこしらへた。

澄太君からうれしいたより、私は廿二日を待ちかまへてゐますよ。

散歩、ポストまで、W店で一杯、街はお祭で提灯が飾つてある。

虫が卵子に執着して、鳴きわめいて去らない、彼等の子煩悩をあはれと思ふ。

私は健啖あまりに健啖だ! そのために私はかへつて苦しむあゝ何と大きい強い胃の腑であらう

身心が冴えて、いつまでも睡れなかつた、やうやく睡れたら、すてきに珍妙な夢に襲はれた。

まづ何よりも米と味噌──

それから石油と木炭──

つぎに煙草と酒と魚──

  此順序が狂ふから困ります。


九月十六日 晴。


近在はお祭といふのに、心得の悪い私は、──朝は麦と塩、昼は絶食、──しかし、そのおかげで腹工合よろし、──不幸の幸福とでもいはうか。

空腹をかゝへてポストまで、一杯ひつかけたいのをこらへて!

曼珠沙華がむらがり咲いて美しい、仏華としてはよろしいが、何としても生花にはならない。

午後出かける、学校に寄つて米二升借りてくる、やれやれ、晩食はシヨウユウライス! うまいうまい。

そこらまで散歩、安心して熟睡、夢も見なかつた。

金持金にきたなく酒飲酒にいやしい、しかし金持のきたなさはたまるほどきたないが、酒持のいやしさは酒を惜しむよりも大切にする方で、気持はさつぱりしてゐる。


九月十七日 晴。


暁起、そろ〳〵火が親しくなつて来た。

茶の花を活ける、日本人的のよろしさの一つ。

また青唐辛を佃煮にする、外にお菜は出来ないから。

けさは郵便が来なかつたが、今日は土曜日、或は誰か来てくれるかも知れないと待つてゐたが、やつぱり失望だつた。

茶の若木を見つけて、癈品の火消壺に植ゑる。

風が出て柿の葉をしきりにおとす、座敷の中へまで散りこんでくる。

──急に胸苦しくなつたが、すぐ快くなつた、私の悪運はなか〳〵強いわい! 祝すべきか、弔すべきか!

菜園手入、大根よ、早くふとれ、蕪よ、ぐん〳〵伸びてくれ(することなすことがすべてヱゴイズムのあらはれだ!)。

鶉衣を読みつゞける、也有翁のブル趣味がよく解る、よいところといやなところと、うそとほんたうと。

晩食は一握りの米をお粥にしてすました、とかく食べすぎては身の毒、世間の迷惑である。

今夜は蚊帳を吊らないで、杉青葉をくすべて寝た、風がうそ寒くなつて蚊も蠅もすつかり姿を見せなくなつた、すこし暖かいとすぐ出てくるが。

──私は落ちついたからだはます〳〵すこやかに心はいよ〳〵澄んでくる、──私のやうな人間でも素質を生かして良心的な仕事が出来さうである。──

余盃


 貧閑記

 独楽記(老楽)


 一生の未完成、そして

 一句の完成


蚊帳火燵との

      (晩秋初冬)


九月十八日 晴、朝夕は曇る。


夜が長かつた、とかく寝覚がちの夜は殊に長かつた、夜の明けるのを待ちに待つて、東の空が白みそめるより起きた。

しよう〳〵として秋風が吹く、いろ〳〵の虫が家の中へまで入つてくる。

身辺を清掃して、机を南椽にうつす、気分かろくなる。

秋晴、散歩日和、ちよいと旅がしたいな、おとなしく洗濯、読書、何やかや、なんぼでもすることがある。

満洲事変記念日、十一時頃(時計を持つてゐないので)一人で焼香黙祷。……

身心清澄、仕事も捗つてうれしい一日だつた。

・牡羊の死(暮羊君の話)

  畜魂碑

  ダンベイ


九月十九日 曇──雨。


何となし怏々として楽しまない日。

句集の後記、広告文の原稿は書きあげたが、句の取捨推敲に苦しめられる、自分の事は自分になか〳〵解らないものだもつとも歳月それ自体が淘汰整理してはくれる

暮羊居へ、新聞を借り、そして二句拾ふ。

やうやくよい雨になつた、急に秋冷を覚えた。

寝苦しくて阿呆らしい夢を見つゞけた。──


九月二十日 晴。


今日は二百三十日、厄日を無事平穏に通り越して、めでたしめでたし。

何だかうれしいことがありさうな。──

やつと郵便が来た、澄太君から逓友稿料受取、さつそく街へ出かけて、買へるだけ買ふ、おもに食料品、例によつて二三杯ひつかけることはやめられない!

澄太君の来庵──廿二日の会合──が都合で来月に繰り下げられたことは私に失望を与へた、待たう。

午後また散歩、W店で飲みだしたが、一本の酒が飲みきれなかつた(肉体は飲みきらないのに精神は飲みたがつてゐる、酔ひたいのだ)、十三日ぶりに入浴して帰庵。

夕、また〳〵散歩、ポストまで。

夜は軽い読物を読んで、のんびりと寝た。

緑平老の来信に答へて──

あなたは廃物同様だけれど、非常時だから御奉公させて貰つとるといふが、私は癈品にも値しない存在ですよ、ほんに無能無力、生きてたゞ世の中の邪魔物、片隅にちゞこまつて、なるたけ穀をつぶさないやうにする外ありませんね。


或る種苗会社から見本を送つてくれたがその種子は芽生えなかつた、会社の不注意か、栽培者の不行届か、いづれにしても微苦笑物だつた。


九月廿一日 晴。


身心やゝ重し、昨日のアルコールのせゐだらう。

露草の何と美しいこと。

大根一本四銭、根はおろして、葉は漬けて味ふ、豆腐一丁三銭、ヤツコで味ふ、青しその香のよろしさ。

新らしい俳文、──散文詩を作らう、作らなければならないと思ふ。

まづ何よりも三八九を復活したい。

午後、近郊散歩、五句拾ふ。

味覚の秋、しかも香気の秋だ、紫蘇、柚子、橙、松茸。──

おいしい晩飯であつた、おだやかな夕であつた。

食後、ポストのあるところまで散歩。

・巣居知風、穴居知雨──といふ語句があるさうだが、私はそれに和して独居知己といひたい。


酔へば一切肯定だ

 アルコールは否定を知らない。


独居は人を饒舌にする、パラドツクスめいた文句だが。


・生は寄とは思はない、生は生の生でなければならないと思ふが、死は寄也と思ふ。

 これが現在の私の信念である。


九月廿二日 晴。


早すぎるけれど起きた、うつくしい朝明けだつた。

近所は道普請、すみません。

何ともいへない好晴、まつたく日本晴だ、空に雲がないやうに心に影もない

季節のうつりかはりは、それに気づくと、その正しく早いのに驚かされる、一ヶ月前と今とは何といふ相異だらう。

或る戦争記事を読んで涙を流した、私が涙もろいからばかりではない、それはあまりに痛切であつた。

歩くと草の実がくつついてくるやうになつた。

このごろの蚊はまるで死物狂ひだ!

食べる物、飲む物がいよ〳〵ます〳〵うまくなる。

松茸と酒、酒と松茸、あゝ松茸あゝ酒

石油がなくなつたので、宵から寝た。

作家にとつて、知ることは知らないよりもましだが大したことではない、何よりも味ふことである。

ほんたうに知るには味はなければならない。

どんなに経験を積み重ねても、それが体験として働らかなければ、すべてが徒労である。


貧乏の説。

シユンといふこと


九月廿三日 晴。


早起、──虫声、鶏声、そして鐘声。

多少の憂欝。

朝はお粥で、──今日は節食、──お彼岸団子が食べたいな!

庵は鼠も生活難らしい(此頃また鼠が来てゐる)。

蕪大根を蒔きかへる、種子代四銭、殺虫剤が買へないのであります。

渚同人からたよりがあつた、かなしいたよりだつた、あゝ詢二老、もう一度逢ひたかつた、逢ひたかつた。……

街へ、買物がてら散歩、一杯も飲まなかつた、いや、飲めなかつた。

菜ツ葉一把三銭、野菜もだん〳〵高くなる、何もかも騰る、貧乏人はいよ〳〵困る。

蛇入穴、まだ早いが、今日も裏で数匹のろ〳〵してゐた、蛇は嫌だ、見るとぞつとする。

寝苦しくて下らない夢ばかり。

今日は十九句作つた、多すぎる、ちようど飲みすぎ食べすぎるやうに、──それについて考へる、私の多作は私の大食のやうなものだらう、善悪利害どちらともいへないものだらう、要は無理なしに出来るものなら、それは自然であり、やむをえないことであらう。

・大根葉が伸びない、枯れる、虫がついたのだ、いはゆる害虫だ、だが人間はもつと悪い害虫だらう、大根にとつては。

   小害虫大害虫。


半搗米を食べ慣れて、その美味経済栄養との三調子揃つてゐることが解つた。


二十銭で買つた鋏が十余年前十銭買つた鋏ほどの切味を持つてゐないことは、何といつても皮肉な事実だ。


九月廿四日 晴。


彼岸の中日、清澄。

菜漬のおいしさ、淡々として無量の味。

のどかな朝日をまともに浴びて読書(歳事記)。

顔を剃る(理髪は入浴同様に気分を一新する)。

彼岸団子の味は──食べたいなあ──老楽の一つ

今日明日は誰か来てくれさうなものだと待つてゐる。

暮羊居を訪ねて、新聞を借り梨を貰ふ。

すこし風が出て、柿の葉がしきりに落ちる、熟柿も落ちる、もつたいないな、まだ食べられないかな(とかく年寄はいやしいものですね!)。

宵からぐつすり。──

今日は三句しか拾へなかつた、それも無理に拾つた気味がある、三句だけでよいのだけれど、三句とも駄作では心細い。

・漂泊詩人の三つの型

  芭蕉、良寛

  一茶

  井月


九月廿五日 晴、朝寒、時々曇る。


何とほがらかな、何かよいことでもありさうな。

井師から朱鱗洞遺稿『礼讃』改訂本到着、私からも井師に謝意と敬意とを表する。

あのころの事を追想するとまことに感慨にたへない。

朱君を考へると、何とはなしに、啄木を考へる、或る意味で、朱君は俳壇の啄木らしかつたといへないでもなからう。

煙管掃除、ノンキだね。

昨日も今日も待つともなく待つてゐたが、誰も訪ねて来てくれなかつた(暮羊君がちよつと来たゞけ)、軽い失望を感じて何だか寂しかつた。

それにしても敬君はどうしたのだらう、少し腹が立つ!

歳事記を読みつゞけて、気がついたことは、月の例句は多すぎるほど多いが、さても気に入つた作は殆んど見つからない、一茶の句に多少ある、芭蕉はあまり多く作つてゐないやうである。

門外不出、文字通りの無言行だつた。

今日は十句出来た、どうせ瓦礫みたいな句だけれど、磨いたならば瓦は瓦だけの光を発するだらう磨け磨け光るまで磨きあげることだ

・象徴の世界

  形象から心象へ

  心象から形象へ

  形象即心象の境地


九月廿六日 晴。


夜中の風は多少野分めいてゐた。

白船老から珍らしく来信、水仙花さんからの句集代が封入してあつた(しかも緑平老の句集代だ!)、ありがたう〳〵、すぐ街へ、いつものやうに一杯ひつかけた、七日ぶりのアルコールだが、さほどうまくなかつた、よろしい〳〵、米、麦、油揚、ハガキ、菜葉を買うて戻つた、おかげで絶食のみじめさを免かれました! 白船老よ、水仙花さんよ。

私は支へられて生き残つてゐる

それなのに、このごろ、ともすれば腹が立つ(人間に対して)。

何で腹が立つ、腹を立てるほど私はしつかりしてゐないぢやないか、我儘を捨てろ自己を知れ

今日の菜葉はよかつた、安くもあつた、広島菜は茹でゝ、大根菜は新漬にしておく、おいしいぞ。

チヱツコをめぐつて欧洲の天地はうづまいてゐるらしい。

夕方、ポストまで、途中で三句拾つた。

麦飯もおいしいが半搗米の底味にはたうていかなはない、私は黒い米の堅い飯が好きだ、視覚からも味覚からも、生理的にも心理的にも、たまらない味がある。

今日は九句、句数はちようどころあひだけれど、句品はまだ〳〵、精進努力が足らない〳〵。

過去帳、──〝みんな死んだ、死んでしまつた、死んでゆく〟

・朱鱗洞

・多々桜君

・詢二老

・寸鶏頭

・一平処


九月廿七日 晴。


五時頃起床。──

大根葉の虫をさがしだしてはつぶす、無益の殺生ではないが、憎くもあり可愛想でもある、詮方もない事実だ

予期した通りにKから送金、何とキチヨウメンな息子だらう、ありがたし〳〵。

さつそく街へ、──払へるだけ払ひ(払はなければならない半分も払へない)、買へるだけ買ふ(買ひたい半分も買へない)、何だか寂しくなり悲しくなる、一二杯ひつかけて理髪して貰ふ、農学校に寄つたら、牛がお産をするところだつた。

コスモスが愛らしく咲きだした、向日葵がどう〳〵と咲いてゐた。

昨日今日は萩の花ざかりだ、一人で観るには惜しいが、久しぶりにお茶を飲む(ずゐぶん長く白湯ばかり飲んでゐた)。

午後また街へ、だいぶ飲んだ、──まづS店で、それからW店で、さらにN店で、そしてT店で、──今日は一升近く呷つたらう、酔うた、久しぶりにいゝ気持になつた、それでもおとなしく戻つて来てすぐ寝た──善哉々々、山頭火バンザアイ!

今日はふつと生魚を買つた、一尾十銭(これで昭和十三年に生魚を買ふこと四度目である!)。

今日、出かけるとき、だいぶ出かけてから、財布を忘れてゐたことに気付いて引き返した、私もちかごろ耄碌したらしい、だいぶぼんやりしてゐる、おい、山頭火、しつかりしろよ!

真夜中に眼が覚めた、起きて何やかや片づける、酔うて帰つたと見えて、そこらがとり散らかしてある。

酔郷、そこには地獄もなく天国もない、悪魔もゐなければ仏様もゐられない、まさに酔楽々だ無我飄々だ

四十四日ぶりに理髪して八日ぶりに入浴した、床屋の娘さん、湯屋のお婆さん、どちらも結構々々。

夜が長かつた、なか〳〵明けなかつた。……

・新聞紙の一きれも──

一きれの新聞反古から、私は暗示を受ける場合がちよい〳〵ある。

・言葉──ぴたりとあてはまる言葉といふものは考へ出すよりも拾ひあげる場合が多い。

作家としての苦心、制作のよろこび。


   今日の買物(九月廿六日)

十銭   ハガキ五枚

六銭   揚豆腐二丁

十三銭  酒一杯

五銭   大根菜一把

四銭   広島菜一把

三十五銭 米一升

十八銭  麦一升

  〆金九十一銭也

   今日の買物(九月廿七日)

  午前

二十銭  ハガキ五、切手五

十八銭  酒一杯半

三十銭  理髪賃

一円五銭 米三升

六銭   黒糸一把

七銭   胡麻一袋

五銭   線香一把

  午後

十三銭  飯茶碗一、茶飲碗一

五銭   切昆布一袋

四銭   生薑一束

六十八銭 酒五杯半

十銭   番茶一袋

十銭   生魚

十銭   餅七ツ

十五銭  醤油四合

六十四銭 短冊十四枚

十一銭  巻煙草一

十八銭  煮干五十匁

四十七銭 質屋利子払

  〆金四円九銭也


九月廿八日 曇──晴。


さすがに今朝は腹工合がよくない、嚢中自無銭!

うつくしいかな要の芽、柿の落葉も見れば見るほどうつくしい、あゝ自然は美しい。

歳事記続読。

M君に句稿、N君に短冊を送る。

午後の散歩では失敗した、飲みすぎて、だらしなかつた、W店での焼酎二杯がこたへた、Y店ではまだよかつた、F屋へいつたのがよくなかつた、どろ〳〵で戻ることは戻つた。


九月廿九日 曇──晴。


暁の黙想──悲しかつた。

鳴きたてるこほろぎ、その声が身にしみわたる。

今日から防空訓練週間、──サイレンが鳴りひゞく、爆音がとゞろく。──

山口へ、──三月ぶりに──柳田橋まで歩き、湯田までバス、駅までまた歩く、そこで遺骨を迎へる、かなしい場面だ。……

第三書房へ、図書館へ、博物館へ、清君によばれて、湯田温泉で、そして小郡で、──N店で、W店で、──どろ〳〵どろ〳〵、前後不覚、たうとう倒れてしまつた!


九月三十日 曇、ばら〳〵雨。


早朝帰庵。

自己を検討する、私は酔ふとだらしがなさすぎる、自制が足らない。……

萩が咲きみだれて美しい、それを眺めてゐると、心が落ちついてきて気がやすらかになる。

おちつけおちつけいら〳〵するな

石油もないので、ランプを点けないで、宵から寝る、寝苦しかつた、夜が長かつた、警報サイレンがしきりに鳴つた、妙な夢ばかり見た。……

満腹と脱糞


十月二日 曇。


沈静なり、読書。

酒もうまいが本もおもしろい、わがまゝきまゝの旅がしたい、酒を飲んだり、本を読んだり、女に戯れたり、……歩きたい、〳〵。

敬君来庵、ほんに久しぶり、七十五日ぶりだ、酒、豆腐、おべんたう、うれしい〳〵。

F君は死なれたさうな、彼の死を悼むよりも、彼の妻と子との運命を考へる、彼は東京にゐると聞いてゐたが、冥土にいつたのだつた! あゝ。

手紙を書く、いやな手紙だつた、私にとつても、喜代志君にとつてもまた。

柿買老人が一人また一人来た。

熟柿のうまさよ、柿には柿虫がゐますね。

ポストまで出かける、W店で一杯、N店で一杯、またF店で一杯、方角が解らなくなる、道徳を失ふ、二度誰何された、何しろ防空警戒中だ、満身の瘡痍──たゞしかすり傷だけ、──辛うじて帰庵、前後不覚で寝てしまつた。

アルコール天国、そしてアルコール地獄、よからう、よいとしなければ生きてゐられない。

・秋穂散策


十月二日 曇──雨。


自分のおろかさをあはれみいたはりつゝ。──

いら〳〵するなかれ。

柿の落葉のうつくしさ、そのうつくしさを観るだけのためにも生きてゐたいと思ふ!

可愛い花盗人来襲、彼等は物の私有といふことを知らないほど純でうぶなのだ。

──とうてい、酒はやめられないとすれば、せめて日本酒だけにしよう、焼酎のやうな火酒を飲んで、ろくな事のあつたためしがない、昨夜の場合だつてさうである。

夕方、雷鳴、そして驟雨、夜に入つて本降りになつた。

警戒サイレンがしきりに鳴つた。

昨夜の失敗が今夜の私を睡らせなかつた、苦しかつた。

感動は詩の母胎であるが、

 亢奮からほんたうの詩は生れない。

 戦線の詩なるものがそれを実証してゐる。


・酔境

   自己忘失

   自己脱却

   自己超越

 相対を止揚したる絶対境


十月三日 雨、秋雨らしく降りつゞいた。


おちついて──身心整理

今夜も寝苦しかつた、やつと寝つけば、奇々怪々の悪夢に襲はれた、莫妄想々々々、一切放下々々々々。


十月四日 晴。


早起、天地人清澄。──

五十にして五十年の非を知るといふが、私は六十にして六十年の非、七十にして七十年の非を知る愚人だ!

私は此頃になつてやうやく自分らしい句境を持つことが出来たと思ふ

今朝の郵便はハガキ三枚、手紙二つ、そのいづれもうれしいが、とりわけて鏡君の手紙はうれしかつた、ありがたう、ありがたう。

街へ出かける、払へるだけ払つたり、返せるだけ返したら、買物をするほどは残らなかつた、あはれ〳〵。

途中、O老人に行き逢ふ、さつそく草庵建立の志を話して、配意を願つて置いた。

O家で松茸を少々分配して貰つた、N店へ三本、W店へ二本あげたら、私の食膳には小さいのが三本あまつただけだつたが、おいしかつた。

松茸、松茸の香は追憶をかぎりなくひきいだす。

蕎麦の花がしろ〴〵と咲いてゐる、清楚な花だ、コスモスが赤く或は白く咲きいでゝ揺れてゐる、可憐な花である。

街に出かけたとき、或る店で、不快な事にぶつかつた、ちよつとした、何でもない事だのに、それが神経をいたぶつていつまでも忘れられない。……

午後、延引の手紙を二通認めて、またポストまで。

午前は酒に敗けたが、午後はアルコールに勝つた、といふのは、酒をひつかけたが、焼酎は呷らなかつたといふことである。

今夜は石油が買へたので、六日ぶりにランプを点けて、奥の三畳を締め切つて読書した。

十一日の月が裏藪に傾くまで眠れなかつた、そして明けるのが待ちきれないで起きた。──

井戸の水が濁つてゐる、澄みきつた水が飲みたい、戦地の将士にすまないけれど。

茶の木と梅の木

 樹ぶり枝ぶり(日本的)

 花と葉実(実用的価値)(活花として)


・鱧の膽(老祖母追憶)

 「鱧の皮」


自己他己

 自己を害ふだけでなく他己をも傷めることは苦しい。


・J君の審問に答へて

  不断の精進

  一生の道

  歩々新天地

感動なくして制作するなかれ

ホントウの句は下手でもよろしいが、ウソの句は上手でも駄目。

多作寡作は素質により、その場その時の事情により、慣習によるでせう。

句作より前に詩精神の涵養が大切。

読書、観察、思索。

よい句はよい人からのみ生れる(よい人とは必ずしも道徳的人物を意味しない)、人間として磨かれ練れてゐなければならない。

作りつゝ味はひつゝ、──制作と鑑賞とは両翼の如し。

句は飽くまで推敲すべし、一句に拘泥するは非。

┌古池や蛙とびこむ水の音

│───蛙とびこむ水の音

│────────水の音

└──────────音

芭蕉翁は聴覚型の詩人、音の世界


十月五日 晴。


身心清澄、うつくしい朝焼の日の出。

朝寒夕寒、日中は暑い。

不名誉の負傷がなか〳〵癒えない、恥づかしいことだ。

買物がてら街を散歩したのは近来にない失敗だつた、一杯一杯また一杯、たうとうどん底に落ちこんでしまつた、私の苦悩は詮方ないが、Nの主人には申訳がない、あゝ。

アルコール地獄、そこには何もない、メチヤ〳〵だつた。


十月六日 晴。


暗欝、死がのぞいて来る。……

あまりに暗いしづけさだ。

私は完全に世間学校の落第生だ、人間学校から遂に放逐された。……

酔へば悲しく、酔はないでも悲しく、私も人も。

身のまはりを見わたして、私は堪へきれなくなる。

ちよつとポストまで。──

昨日はアルコールに敗けたが、今日はアルコールに勝つた、勝つた、勝つたがやつぱり苦しい。

・二つの宿願

生きてゐる間は感情をいつはらないこと

わがまゝといへばそれまでだが、私は願ふ。

いやな人から遠ざかつて、好きなことだけしたいのである。

死ぬるときはころりと死にたい、それには脳溢血がいちばんよろしい。


・酔中の思考や行動がいつものそれらと相違するといふことは、自分の平常の生活に嘘偽──不自然があるからではないか。

年寄の物忘れはむしろ恩恵だ、忘れたいのに忘れられないことがどんなに多いことか!


十月七日 晴。


沈静。──

苦しい手紙を書いて、散歩がてらのポスト行がたうとう嘉川まで歩いた、ぼつ〳〵稲刈がはじまり、路傍には私の好きな石蕗の花がちらほら咲いてゐた。

秋晴がつゞく、私の身心もそのやうであれ!

「移民以後」を読む、胸にせまる小説だ。

今日は酒に勝つたぞ!

閏八月十四日の月夜、松虫の声も冴えてゐる、わりあいによくねむれた。


十月八日 晴。


早起、朝寒、平静、執筆。──

まことに日本の秋

今日こそはと頑張つて、一日がゝりで、やつと句集原稿をまとめあげた、さつそくポストへ──ほつとした、うれしい一杯、もう一杯、疲労と安心と喜悦とがこゝろよく酒に融ける。……

夕また月に誘はれて街へ、W店で少し飲む、おとなしく酔うて戻つて、近来にない快眠をめぐまれた。

月もよかつたが、私もよかつた、酒もよかつた!

アルコールを飲まないでサケを飲め


しづかにたたへたる情熱

それが望ましい。


青い花! そして白い花


・卑怯だけれど私は人間から逃避する、そして勇敢に自然の中に沈潜する。

 安易な妥協は私の性情が許さない。

・青年は青年らしく、老人は老人らしく、彼は彼らしく、──それが人間らしい人間であり、人間の姿である。

嘘をいふな、飾るな、自他を欺く勿れ


十月九日 曇。


ぼうぜんとしてやすらかなり!

いつものやうに早く起きたが、御飯が──むろんお米も──ないので絶食、それもかへつてよろしい。

新町方面へ散歩、そしてM店で一杯借り、S店で三升借り(これは米)、さらに局の奥さんからハガキ二枚借りた!

一杯の酒が身ぬちにしみわたり、数椀の御飯がからだいつぱいになつた。……

しぐれらしく微雨をり〳〵。

草紅葉、わけても蓼がうつくしくいろづいてきた。

暮羊君来庵、観そこなつた五人の斥候兵の話などを聞く、娘さんの出生を祝する。

──酔樹明さうらうとして(まんさんとしてではない)来る、何といふ悩ましい姿だらう、どんなに悩んでゐるかは解りすぎるほど解る、すぐ寝た、対座するにはどちらも堪へきれないのである、お茶漬をたべて、すこし元気が出て、帰つていつた、樹明よ、くよ〳〵するなよ、君らしくもないぞ。

おちついてゐてしかもいら〳〵するとは

婦人公論所載、林歌子刀自の自叙伝は感銘深かつた。

更けて良い月夜になつた、いつまでも睡れなかつた、どうしても寝つけなかつた、選句や文案を練つてゐるうちに、たうとう夜が明けてしまつた。

緑平老に──

お引越のよし、たいへんでせう、近いとお手伝するのでが、そしてかへつてお邪魔するのでせうが! 私はぼうぜんとしてゐます、穴の中へでもはいりたい気持です。

軒からぶらりと蓑虫の秋風

虫の方が幸福です、何だかうらやましいやうな!


十月十日 晴──曇──時雨。


何もかも片づいてから、やつと六時のサイレン。

蕪も大根も菜葉はまた駄目になつてしまつた。

害虫はむしろ私の身心の中に巣喰うてゐるのだ

詩三篇作つた、民謡風に私の心持をあらはしたのである。

地主が来て柿をもいでしまつた、食べたいとは思はないけれど、見る眼が淋しくなつてしまつた。

昨夜一睡もしなかつたので、今日は少々ぼんやりしてゐる。

私の胃袋は強い、大きすぎる、食慾もすばらしい、あまりに逞ましい!

よく食べてよく寝た。

十月十五日──信坊の祥月命日だ、忘れないやうに。

・熟柿の話

・酔余録


十月十一日 曇──雨。


原稿を書きつゞける、やうやく約束通り澄太君に──君を満足させはすまいけれど──送ることが出来た。

Kから、予期した如く、来信、あゝすまない〳〵、さつそく出かける、そして払へるだけ払ふ。

恥を忍んで、返金すべく、N店老主人と対面、それから一杯、苦しい一杯ではあつた。

私は近来水の句がだん〳〵出来るやうになつた、善哉々々。

手紙を書いて、またポストへ、ハガキを書いて、さらにまたポストへ、まことに御苦労千万!

虫が火鉢へ寄るやうになつた、寒いからだらう。

ゆつくり夕飯(安心して晩酌をやりたかつた)、うまい味噌汁だつた。

ちつとも睡れない、夜通し考へつゞけた。

・死は誘惑する、生の仮面を脱げ!

・人を離れて一人住んでゐると、ともすれば死にたくなる、といへばいひすぎるかも知れないが、生きてゐたいと思はなくなる──死んでもよいと思ふやうになる、私にはさういふ傾向が強いやうだ。


過去を葬る記


葱一把四銭也。

そして酒四杯四十七銭也。


十月十二日 時雨、曇。


夜明が待ち遠かつたけれど、私は落ちついて、ぢつと空を眺めてゐた、沈静そのものゝやうに。

何となく気持がめいりこんでくる、暗いかげがたゞよふ。……

近郊散策、百間堤まで歩いた。

とびかふ蝗、赤い沢蟹、蓼紅葉、いろ〳〵のものを見たり聞いたりしたが、句にならなかつた、気分が散漫だつたから。

まさに私の転機だ、私はこゝで転換する、句作の上でも、生活の上でも、私全体の上に於て。

愚にかへれ、愚を守れ、愚におちつけ

今夜は熟睡した、ありがたかつた。

空の世界──

┌主観──明鏡止水なり。

└客観──生滅流転の相。


無我無心。

空を観ずるのではない空そのものになる


意味を持たせすぎる。

語りすぎる。

事象よりも景象を。

景象即心象

感覚を通して魂の表現。


説かずして写す。


求むるなかれ、探すなかれ。


おのづからにしておのれのすがた


十月十三日 曇。


平静、身辺を整理する。

どうやら晴れさうな、今日は小学校の運動会、をさない彼等をよろこばしたいと願ふ。

二三日ぬくいので、佃煮にも黴が生えた、黴といふものは有毒無毒にかゝはらずほんたうに嫌なものだ、ちようど油虫のやうに!

三と数は好きだ、飯も三杯酒も三杯といふ風に今日から実行しよう(但し杯の大きさに融通をつけておかう!)。

午後は散歩、石油を買うて、それから財布の底をはたいて酒、酒(といつても十銭しかなかつた! これだけでちよいと虫をなだめておく!)。

途中、ひよつこりWさんの妻君に出会つた、先方も私も見違えてゐた。

私はまさしく転身一路だ、私もこんどはどうやらしんじつ落ちつけるらしい、バンザアイ!

自己矛盾、省みて恥ぢ入る、私のやうに矛盾だらけの老人があらうか!

食べられるので、かへつて困る、食べすぎて困る、必要以上に食べるのは賤しいからだ! 貪る気持があるからだ! どうぞ飲みすぎは御免下さい

今夜は灯がある、ランプのあかりで古典を読むのも一興であることを失はない。

今夜はまた睡れない、隔日徹夜とは困つた。

・詩人は吃がよい、訥々としてうたふのがよい。

 舌の長い唇の薄いのはいやだ。

 おしやべりに悪人もなからうがホンモノもあるまい。


・単純、清澄、温情。

 湧いて湛へて溢れる温泉のやうに句作したい。

・マルグリツト オオドウウ 孤児マリア 光ほのか


十月十四日 曇──晴。


──夜が長かつた、なか〳〵明けなかつた、明けはじめるとたちまち明けた。

夜明けの風が野分らしく吹いた、柿が庵をつゝんだ。

私が仏でもあるかのやうに荘厳してくれた。

徹夜句作で労れたからだを裏山へ持つて行つた。

Nさんから短冊代を送つて来た、ありがたう、これで、澄太君を餓えさせないですむ、明日よ、早う来い〳〵。

街へ出かけて買物。

──たうとう私は爆発した、十日ぶりに毒気悪気を吐いた、ずゐぶん溜つてゐた。──

雨になり、酔ひしれて戻れないのでW店に泊つた。

恥二つ、まへもうしろも恥だつた、何の恥、──恥を恥と感じなければ恥はない、私は恥ぢる、恥を恥として恥ぢないではゐられない、──悲しい矛盾だ、寂しい撞着だ! あゝ。

酒を慎まう、自分から進んで積極的には飲むまい、消極的禁酒ならば私にも可能と思ふ。


      ┌A伯母┐

二人の伯母│   │の一生

      └M伯母┘

祖母の乳房(姉の追憶)

孤貧の記


十月十五日 曇。


早朝帰庵、陰欝たへがたし。

澄太君はほがらかに迎へなければならない。……

仏前にて焼香合掌、懺悔念願。

ぼんやり、阿呆、とんま、ばか、ぼんやり。

章郎君来庵、熟柿をもいでたべたり、御飯を炊いてたべたり。

草、雨、風、──まさに日本の秋だ

いつしよに三時の汽車を待ちうけて、澄太君といつしよに、酒、飯、ユカイユカイ!

夜、Sさんも来庵、私だけ大いに飲んで大いに語る。

あたゝかく、二人ならんで寝る、熟睡だつた。

私の外廓はしば〳〵破れるが、内なる私はなか〳〵破れない、──この点では私は私を堅く持してゐる。

だらしいがない、──これが酔山頭火に対する定評だ、まつたくその通り、ほんたうに、だらしがない!


十月十六日 晴。


まことに秋晴、風が出たのが惜しかつた。

澄太君は七時のバスで山口へ、今夜も泊つてくれることにして。

私はいうぜんとして、一杯また一杯。

ちよいとポストまでが、Iさんを訪ねて、また飲んでうたふことになつた、同席のSさんも変人だ、三変人いつしよに変人ぶりを発揮した。

色紙二枚、新婚祝句を書きなぐつてK嬢にあげる。

二時頃帰庵、樹明君待ちあぐねて帰らうとするところ、引返してもらつて雑談しばらく。

風の中の豆腐一丁(樹明)

と机上のノートに書いてあつた。

風が出て寒くなつた、澄太君なかなか戻つて来ない。

寝床で章君から借りた麦と兵隊を読んでゐるところへ澄太君の足音、もう十時を過ぎてゐた。

お土産の一本をちびり〳〵やつて、おかげでぐつすり。

今夜の対話はよかつた、しみ〴〵触れるものがあつた。


十月十七日 好晴。


神嘗祭、日本晴である。

ゆつくり寝て六時ちかくなつて起床。

澄太君は早朝から街へ買物に(みんな庵のための品々)。

小蕪、白菜、醤油、等々、今日の庵は物資豊富である、ありがたう、すみません。

今朝は最初の寒さ冷たさだつた、足袋が欲しいなと思ふほどであつた、米洗ふ水が身にしみた。

澄太君、腹いつぱい食べて、裏で野糞を垂れて、日向ぼこしてうつらうつら、全澄太発揮

私は私らしくちびりちびり朝酒、うまいな、もつたいないな。

十二時すぎて、農学校に樹明君を訪ねたが不在、ぶら〳〵歩いて嘉川駅まで、途中、うどんを食べ鮨を食べ、かまぼこでコツプ酒を飲んだり、──尽きぬ名残を惜しみつつ、三時の汽車で君は下関へ、私はまた歩いて帰庵、途中、敬君の実家に立ち寄つて暫く雑談(庵のことなど)。

人間が人間に接すると、とかく嫌な思ひをさせられる。

アルコールと散歩とのおかげで、宵からぐう〳〵ぐう〳〵、うれしかつた。

澄太君の好意で──

二十五銭  焼杉下駄

三十銭   家庭用マツチ

壱円    借金二口

米や茶は買へなかつたが。──


十月十八日 快晴。


──頭はかるいが胃が重い!

おちついて読書、麦と兵隊など。

午後、ポストへ、ついでに入浴、半月ぶりだつた! 途上の一杯二杯がたのしかつた。

今年は先日の時ならぬ暖気で、せつかくの松茸が腐つたさうな、酒が売れませんと酒屋がこぼす、飲めないなとのんべいが嘆く。……

──好意に甘えるな(人に対しても自然に対しても)、──とつく〴〵考へる。


十月十九日 晴。


有明の月に起された、早すぎるが起きた。

今日も好いお天気だ、どこへ出かけようかな。

みぞそばの花の野性美。

山から小鳥が下りて来た、ひよどりが啼く。

百舌鳥の声が秋風と共に鋭くなる。

──私は万物に感謝する。──

ポストまで出かける、途中の一杯は忘れない。

蛇が路傍で殺されてゐた、早く穴に入ればよかつたのに。

靖国神社大祭第二日、十時十五分一斉黙祷、私も焼香合掌、天地人に低頭祈念した。

昨日は新聞の出ない日だつた、今日は新聞を読んだ日

うたた寝! それは独身の自由を表現してゐる、無産有閑の余徳である。

紫蘇の穂を採る、すこしおくれたが、香気あたりにたゞよふ。

午後は絶食、米もないし、食傷気味でもあるので。

よく睡れるやうになつたのが何よりもうれしい。

無理のない存在

自然な生死

麦と兵隊を読んで、いろ〳〵感じたが──

・記者の眼と作者の眼

彼等のペンの相違

・実感体験の尊さ

水の如く酒の如く、そして

・記録文学の事

・戦線制作の事


十月廿日 曇。


本格的秋になりつつある、私はまだ用意が出来ない、まだ単衣を着てゐる、……気にかけてはゐないけれど。

しよう〳〵として風がふく。

午前は絶食。──

街へ、ポストまで、いさゝかの稿料を受けて、酒やら茶やら何やら買ふ。

やれ〳〵よい〳〵(といつたやうな生き方だ)。

散歩、こゝで一杯、あちらで一杯、一杯一杯また一杯、──酔つぱらつて、そして戻つて、そのまゝ無何有郷!


十月廿一日 晴、曇、時雨。


早起──反省。

風、風、この風はすこぶる意味深長だ!

Kから来書、日鉄退社、満炭入社といふ、Kよ、行くか、行け、行け。──

──私はぢつとしてゐられない、風を歩いて、──そしてNさんを訪ねたが、予感した如く不在、父君母君と語る、親なるかなの感が深かつた。──

風──酒──雨だつた。

アル中らしくペン持つ手がふるへる。

私は私に希求する、ふさぎの虫よ、どうぞ焼酎だけはやめてくれ!

夕方、Wさんが来て、熟柿を盗んで帰つた、多分、妻君への土産だらう、恋女房と熟柿! 面白いな。

夜、叫びつゝ走る人がある、何となく不安を感じる。

ねむれない、ねむれない、あゝ、ねむれない。

正しく──これが生き方の根本。

やはらかく──これがその運び方。


断層

 (風来坊の感想)


┌個人的反省

└社会的考察


十月廿二日 晴。


身心平静、落ちついて、日向ぼこしつゝ読書。

動いて動かない心──さういふ境地に入りたいと思ふ。

菜漬がおいしい、昨日今日が食べ頃である、澄太君、ありがたう。

午後、Nさん来庵、留守にしてゐないでよかつた、夕方まで雑談、何もありませんが熟柿でももいで食べて下さい!

草雲雀がいよ〳〵ます〳〵さびしくかなしく鳴いて、ゆく秋を惜しんでゐる。

人間にはそれ〴〵嫌なところがある、今日はNさんの嫌なところを見出した(先日はK君の嫌なところを見せつけられたが)、いやなものはいやだから仕方ない!

人間はけつきよく良心的に生きてゆくより外あるまい。

風来坊ニヒリストはうたふ

・風の歌

  (空中散歩)


生活は水の流れるやうに──といふのが私の念願であつたが、今日へう〳〵として風を歩いて、生き方は風のやうに──ありたいとも考へた。


┌凡人──偶然

│常人──当然

└作家──必然

   偶然を必然とする熱意


直感の芸術──詩──句


十月廿三日 晴。


まことに秋晴、日本晴である。

煙草がなくなつたので、何だか手持無沙汰で、──無ければ無いでよろしく有るまで待たう

今日は山口へ行きたいのだが、──詩園会の同人にお詫のハガキを出すより外ない。

待つてゐるやうな、ゐないやうな、よいやうな、わるいやうな。

何とうらゝかな日ざし、私の気分もなごやかである、そこらを逍遙遊、──暮羊居へ、学校へ、田圃の間を歩いたり、林の中をさまよふたり。──

今夜は寝苦しかつたが、やうやくにして寝ついた。

胃の強くない人は、食べすぎてはならない、飲みすぎてはならない、同様に心の弱い人は、知りすぎてはならない、考へすぎてはならない。


たとへ生れ代るにしても、私はやつぱり、日本の、山口の、山頭火でありたい。


笑はれ人種! 私はその人種に属する、あんまりニヤニヤ笑うてくれるなよ!


十月廿四日 晴──曇。


未明、眼覚めてそのまゝ起床。

午前は快晴だつたが、午後は曇り勝だつた。

支那事変俳句(俳句研究十一月号所載)を読む、無慮三千句、そのうち私の身心を動かしたものが何句あるか、戦線句は拙くとも抜きがたい実感味がある、銃後句は造花のつまらなさだ

そこら散歩、学校に寄つてIさんから米三升借りる、M老人の家を尋ねて、借家を見せて貰ふ、その家を借りたいと思ふ。

今日も自分ながら大食に呆れた、何といふ大きい胃袋だらう、私の胃袋は!

夜はロウソクで読書、寝苦しかつた、しぐれの音がわびしかつた。


十月廿五日 時雨──曇──晴。


早すぎるけれど起きて、あれやこれやそゝくさ。

万象ゆく秋らしく、秋色秋声。

好晴になつた、今日は宮市の花御子である。

S君から来信、N君と同道して来訪するといふ、待つてゐる。……

恥を忍んで、暮羊君の奥さんから五十銭玉一つ借りる、五日ぶりに酒を、三日ぶりに煙草を味つた。

夕方また出かけて飲む、C店で一杯、N店で一杯、W店で一杯、Iさんの部屋で樹明君と三人で一升!

樹明君とM老人を訪ねる、家のことである、交渉不成立、あはれ〳〵。

──わが日の本にわが寝床なし

M老人の宅では臼引だつた、新米が盛りあげてあつた、さら〳〵さら、何といふうれしい感触だらう。

酔つぱらつたが、戻つて、寝てゐた!

「騙」

全身全心で生きぬく時、人はになるかになるかである。

たとへば、戦線に立つのやうに。


十月廿六日 晴。


昨日の事が夢のやうだ、今日はぼんやりしてゐる。

漢口が陥落したらしい、万歳!

──私は何かに憑かれてゐる、そんな気がしてならない。

待つてゐる、待つてゐる、来ない、来ない。

日向ぼこしながら読書、これやこの極楽々々。

──天が下にはかくれ家もなし、まつたくね!

待つ身はつらき木の葉ちるかな、だ。

足どめされて、待ちぼけくはされて、ほんに腹が立つ。

裏山をあるく、野も山も秋がにじみ出てゐる。

やりきれない、さびしいなあ!

Fのおばあさんがお墓まゐりのさびしいすがたを見よ。

人間のみじめさ! 私自身のみじめさはいはずもがな。

独り者は怒りつぽいよ、それが解らないS君でもあるまいに、絶交に値するぞ!

すこし曇つたが、また持ち直した、腹を立ててゐる私へ鶲が宥めるやうに啼いて来た(百舌鳥は私を焚きつけるやうに絶叫するが)。

癪にさわるといへば、生きてゐることそのことが癪だ!

メボが出来るらしい、腎臓病らしいぞ。

とにかく、おいしい夕御飯だつた。

腹立まぎれに五十余句作つた、駄作ばかりだ。

案外にもよく眠れた。


十二月十三日 曇──晴──時雨。


思はず朝寝した、私としては。

一浴して来て日向ぼつこ、何とうらゝかなこと!

昨日、F君が約束した如く、福日から写真撮影にやつて来た、めづらしく法衣姿をカメラに入れた。

逓友の選句と感想文とをやつとまとめて送る、ほつとした、大山君、〆切におくれてすみませんでしたね。

しばらく散歩、ポストへ、そしてH君の店に寄り、S屋のおかみさんに古着の縫換を依頼する。

徳重さんから燭台を借りて読む、亡き常夏君を偲ぶ、回顧の感慨に堪へなかつた。

午後また入浴してHさんを訪ねる、いひだしにくかつたが、小遣が一文もないので壱円借りる、……さつそく一杯また一杯、あゝノンベイは助からない!

嚢中自有銭然而自無銭だ。

夜、樹明君酔つぱらつて来訪、すぐ出ていつたが、私をさびしがらせかなしませた、……彼に平安あれ。

ま夜中に眼覚めて時雨を聴いた、そして月光を観た。

今日は南京攻略一周年、いろ〳〵のことを考へさせられた、──日本の事、支那の事、亜細亜の事、そして自分の事。──

──ノウモネー、ノウアルコールデーを覚悟してゐたが、H君の厚意で救はれた、H君ありがたう。

・さびしいところにゐては、さびしさをそれほど強く感じないですむが、にぎやかなところではかへつてさびしさを感じる。

・小郡から湯田へ移つてさう思ふ。


十二月十四日 晴。


早起入浴、身心平静。

夜来の雨に洗はれて空が澄みきつてゐる。

朝湯のありがたさ、窓から昇る陽をまともに飲むことのうれしさ、そして食べることのよろしさ。

聖護院大根一つ二銭也。

まつたく日本晴、蠅も出て来て好日を楽しんでゐる。

読書と散歩、──この二つが私のほんたうの好物だ。

どうやら平常の自分に立ちかへることが出来たらしい。

日あたりがよくてあたゝかすぎる、まぶしいほどだ。

午後、だしぬけに健来訪、或は最後の会合かも知れない。

Y食堂で食事を共にして別れる、行け〳〵、やれ〳〵。

私は私として私の仕事を成し遂げるよ。

宮市のK女の訃を聞かされて驚いた、人生無常といふ外ない、S子の悲嘆が思ひやられる、さつそく弔詞だけ送つた。

福日の記事は私を苦笑せしめた、私そのものがヨタだからヨタくられても仕方がないけれど。

何となく落ちつけなくて、或る店の娘らに御馳走してあげる、そしてさらにY君に奢つた、酔つぱらつて、帰るなり寝てしまつた。……


十二月十五日 晴。


今日から経済戦強調週間。

そしてまた赤穂義士討入の日(昨夜から今朝にかけて)。

私も自戒自粛する。

さみしくなると散歩する、いら〳〵すると読書する、とにかく読書、とにかく散歩。

S君から中外日報を送つて貰つた、なつかしかつた。

日なたで、お隣りの主人、前のおぢいさんと無駄話をする、みんな酒好き酒飲みだから、酒の話ばかり、私はつく〴〵市井の中といふ感じがした、うるさいけれどおもしろい、人生の味を感じる。

酒と餅

市井の中

絹ボロとは


十二月十六日 晴──曇──雨。


降霜結氷、朝湯朝酒、好日好事。

朝晩は冷たいが、日中はほんたうにあたゝかい。

快心事二つ、その一つは履物問題の解決(間違つた下駄を交換した)、その二つは酒の量りのよかつたこと。

夜、和田君来訪、詩園新年号持参。

御飯が足りないからうどん玉で補ふ。

一風呂浴びて一杯やつて、ぐう〳〵ぐう〳〵、極楽々々


十二月十七日 曇──晴。


朝湯、朝酒は遠慮する。

久しぶりに味噌汁、三杯すすつた!

澄太君からのたよりはうれしいよりもありがたかつた(緑平老のそれのやうに)。

身辺整理

あまりあたたかいので蠅が出て来て困る、たうとう蠅捕紙を探して買つたが、皮肉なことには、それは役立たなかつた、現実のをかしさである。

白菜二株七銭、これで当分おいしい菜漬が食べられる、菜漬はほんたうにおいしい。

──破戒、しかも二重の破戒、ノーアルコールのつもりであつたのに、シヨウチユウをひつかけました。

いろ〳〵考へて、いつまでもねむれなかつた。

○生活箴二章

  金銭を大切にすべし

  酒食を慎むべし

○飲酒戒三則

  火酒を飲むべからず

  微酔にて止めること

  現金で飲むべし


十二月十八日 曇──晴。


さすがに日曜日の朝で、おとなりも(六人の子持だ!)ゆつくりとしてにぎやかだ。

雪もよひの空もだん〳〵晴れて来た。

中学生が隣寺境内清掃、善哉々々。

樹明君から嫌なハガキが来た、近来になく不快の念にうたれた、すぐ返事を書く、樹君に罪はない、Iさんがズルイのだ、詮じつめると、私のルーズが悪いのだ。

反省を新たにする、考ふべし、改むべし。

Y君の手紙には好感が持てた。

昼飯を食べすぎたので、そこらを散歩、傷病兵と学生とがコンビでボールを楽しんでゐた、まことにほゝゑましい風景であつた。

塩五銭、何と安く、そして何と尊い塩だ。

夜、縫物をしてゐるところへ、Fさん来訪、新聞経営の話いろ〳〵(彼は小さい郷土新聞を一人でやつてゐる)、誘はれてうどん屋で御馳走になる、酒二本しつぽく二杯、Fさんには気の毒だつたけれど、私はうれしかつた。

・酒飲酒好は──

 鉄のやうに強い意志を持つてゐるか、または貧乏でなければならない、節酒しなければ経済的に破綻する前に肉体的にまゐつてしまう!

・市井にうづもれて市塵に染まず、親しんで狎れず、愛して媚びず、敬うて阿らず。──

・否定の否定、そして肯定。


十二月十九日 半晴半曇。


けさの湯はあつくてことによかつた、ぢつと浸つてゐると、身も心もとろ〳〵とろけるやうだ。

今日も在営部隊出発の廻文がまはつて来た、私はついおくれて見送りそこなつた、ほんたうに申訳ないと思ふ、香を炷いて瞑想にしづむ。

──カラツポになれ、なりきれ、何もかも捨てゝしまへ、いつさいがつさい放下せよ、──そこからほんたうに転一歩することが出来る。──

さすがに市井の中だ、私の入口へもいろ〳〵の物売がやつてくる、小郡ではなかつたことである。

軍神西住大尉の記事、私は胸をうたれた。

妙なことがあるものだ、──炭俵の中から、瓢箪から駒が出るやうに庖丁が出て来た、怪我をしないでよかつた、それは私の庖丁よりもよさゝうだ。

遺産として私に残つてゐるものは何か、──位牌と文鎮と、そして私といふ無用人! 私はまづその文鎮を随筆として書くことにする。

前の路傍で子供が熱心に遊んでゐる、うらやましい生き方だ、あそび! あそぶことが生きることである幸福!

夕方、和田君来訪、詩園二月号は常夏追悼号にするといふ、うれしいことである、私も何か書かう。

私の好きな鰯が今日は高くて四尾五銭だつた、塩漬にして味ふ、たうとう一杯買はされた!

気持がよくないほどあたゝかい、師走といふのにぬくすぎる、袖なしを脱ぎ足袋を脱ぐ、火燵もいらない。

夜、温泉に浸りながら、温泉異変とでもいふやうなものが突発したら、さぞ人間のアラ世間のアラが暴露されるだらうなどゝ埓もないことを考へた、……顔を剃つてさつぱりした、ぬく〳〵と寝て漫読する。

また不眠の鬼が戻つて来たらしい、クワバラ〳〵。

〝かくなればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂〟(松蔭)

・年の瀬流れ渡りの記


Nさんに──

あなたが風邪をひかれたと聞いて、私はしみ〴〵自分の孤寒を感じました、そして風邪もひかない私は幸福なのか不幸なのか解らなくなりました。……


執着のいろ〳〵

銭、酒、女、等々。


鰯のあたま──鰤のあたま

ダシにもならない

鰯のあたまも信仰から


十二月二十日 曇。


あつい湯があふれる中にずんぶり。──

中村さん来訪、近く台台へ旅立たれるさうで、おわかれはかなしいが、門出をよろこぶ、前途に幸福あれ、考へてみれば、先日のふしだらもおもひでの種として、まんざら無意味でもなかつたやうだ。

今日はすこし冷える、といつても節季としてはあたゝかすぎる、木炭の消費が少なくて助かるけれど。

そこらで子供がうよ〳〵、よく泣く児だ、泣いて太るのだらう!

昨日も今日もいちにち机を離れなかつたが、仕事はなか〳〵捗らない、私はほんになまけものだね。

句稿を整理する、秋季の句数何百、そのうちに採るべきものが何句あつたか、──いかに近来の私がだらけてゐたかをまざ〳〵見せつけられた。

句ばかりではない、私の行動はどうだつたか、──ツマラナイの一語で蔽ひつくせるではないか。

反省が足らない、努力が足らない、自重が足らない、すべて足らないものだらけだ!

なけなしの財布の底をはたいて一合買ふ、まつたくの一文なしになつて、かへつてさつぱりした。


十二月廿一日 曇──雨。


──雪か霙かと思うてゐたが、たうとう雨になつた、冬の雨らしくもない雨である、どうして今年はこんなにぬくいのだらう。

子供のあそび──泣く、唄ふ、喧嘩する、──それがみんなあそびだ。

所在なさに火燵をこしらへて読書。

呉郎さんはもう帰つて来られたと思ふが、早くやつて来てくれゝばよいのに。──

今日は誰も来てくれなかつた、誰をも訪ねてゆかなかつた、もく〳〵としてしめやかな一日だつた、ノーマネーそしてノーアルコールの一日でもあつた。

今夜も不眠に苦しんだ、快食快便なのに、なぜ快眠がめぐまれないのか(労働しないことがその主因であらうことは知つてゐるけれど)。

・愚を守る──

・貧乏におちつく──

・無能無力に安んずる

おのれにかへる──


十二月廿二日 曇、時雨、晴。


早起。──

窓の風景、風にもまるゝ枯木、ぽつねんとして待つてゐる老人。……

ずゐぶんあたゝかだつたが、風が出て冷えてくる。──

冬至、短日の短日。

時局の波動が、あるときはひし〳〵と、あるときはしみじみと、私のやうなものにも響く、私は、あゝ私は。──

   ────────────────────────────

白菜の新漬のおいしさ。

久しぶりに山口の街へ出かける、Sさんから読物を借り、S君を見舞ふ、S君よ、ガンバリタマヘ!

寥君のたより、元君のたより、どちらも私を悲しませる。

もつたいないけれど、宵からコタツで読書。

今日も酒なし(煙草もとぼしくなつた)、ガソリンが切れると、ひとしほ寂しい。

底本:「山頭火全集 第九巻」春陽堂書店

   1987(昭和62)年925日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2010年74日作成

2012年55日修正

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