牢屋の原
長谷川時雨
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金持ちになれる真理となれない真理──転がりこんで来た金玉を、これは正当な所得ではございませんとかえして貧乏する。いまどきそんなことはないかもしれないが、私のうちがそれだった。
御維新のあとのごたごたが納まっても、なかなか細かしいことは何時までも残っていたのであろう。転がりこんで来た金玉を押返してしまった人たちが、ある日こんなことをいっていた。
「たいした土地になった。」
「だからとっておおきになればいいのに。」
それは小伝馬町に面した大牢の一角を、無償で父にくれようといった当時のことを母が詰ったのだ。
丁度首斬り場のあたりだったというところの柳の木が、厠の小窓から見える古帳面屋の友達のうちから帰って来て、あたしが話したつづきからだった。
「西島屋のならびをずっとくれるといったのだが、おら不快だからな。」
「お父さんは欲がないから、断ってしまったのだとお言いなのだよ。今じゃたいした土地なのにねえ。」
母は、土一升金一升のまんなかで、しかもめぬきの土地の角地面の地主さんになれなかった怨みを時たまこぼす。
「あすこはな、不浄場といってたが、悪い奴ばかりはいないのだ。今と違ってどんなに無実の罪で死んだものがあるかしれやしない。おれは斬罪になる者の号泣を聞いているからいやだ。逃れよう、逃れようという気が、首を斬られてからも、ヒョイと前へ出るのだ。しでえことをしたもんで、後から縄をひっぱっている。前からは、髷をひっぱって、引っぱる。いやでも首を伸す時に、ちょいとやるんだ。まあ、あんな場処はほしくねえな。」
父が流行の長い刀をぶっこんでいた時分、明渡された江戸城の守備についていた時、苑内紅葉山に配置してある鹿の置物を狙い撃にしたものもあるとかいうほどだから、乱暴者に違いなかったであろうに、その人がそういうのだ。その後打首が廃され、絞首になる時その器具を造るのを調べさせられて用いた夜、どうしても寝具合がわるく、三晩もうなったので、役人なんざまっぴらごめんだと、噛りつきたがるはずの椅子を投りだしてしまった。そんな折の関係と土地ッ子なので、あの広大な土地を無償でくれようというのだったろう。無償とはいわないで、長谷川この土地はお前の名にしておけといわれたのだったそうだ。その当時の政府要路に深い縁のない父でさえそうだったから、その他の懐が、ふくれほうだいだったのは言うまでもなかろう。岩崎は丸の内一帯の大地主だ、丸の内といえば諸大名の官宅のあった土地だ。
その時、祖母も言った。
「浜町の三河様の邸あとも、くれるといったのだそうだよ。」
その時の断りかたがまたふるっている。折角ですが老母がいやがりますから──あすこは糞船の一ぱい寄るところで──と。三河様の邸跡は大樹が森々として、細川邸とつづき塀越しに大川の水がすぐ目の前にあり、月見に有名な土地で、中洲は繁華になった。
大橋と、両国橋の間の中洲には、懲役人が赤い着物を着て、小船にのって土運びをしていた。女橋と男橋がかかって、土地開きをしたころの夏の人気は、人形町通りから、埋たての中洲へと集っていた。ただもうめちゃくちゃに賑かだった。おでんやは鍋の廻りに真黒に人が立ち、氷やは腰をかける席がないほどの繁昌だ。氷やといっても今のように小体な店ではない。なかなか広い店で、巾の広い牀几が沢山並んでいた。涼しげな、大きな滝を忍ばせる硝子の簾──聯がさがって提灯や、花瓦斯の光りが映りゆらめき、いせいのよいビラが張りわたされ、ねじ鉢巻のあにいが二、三人手を揃えてガリガリ氷を掻きとばしていた。小女が赤いたすきで忙しそうに客の間を走っていた。
いま、デパートの食堂へゆくと、ふと思出すのは、様子はかわっているが、あたしの子供の時分の、えびすやとか、ほていやとかいった呉服屋や、そのわきにあった、おしるこや萩の餅の店のことで、店さきの高いところから、長い暖簾がかけてあって、紺地に大きく彩色したえびすだのほていだのがついていた。その頃流行たてだったであろう噴水があって大きな金魚がいた。だが、食ものは簡単だ。お餅か、お団子位だ。浅草の金竜山にしてもあんと、きなこと、ごまのついた餅、芝の太々餅もおなじくであり、大橋ぎわのおだんご、谷中芋坂のおだんご、そのほか数えたらいくらでもあるが──
中洲は納涼にもってこいだから、川開きの時分の賑いは別段だった。夏祭りと両国の花火は夏の年中行事と市民にはなっていたのだろう、あんぽんたんも昼寝からむりに覚されて、行水の盥のなかへ入れられ、お船へのせて花火を見せるからと、だましだましいやがるのに着物をきせられた。
あたしの家で船を仕立るのか──たぶん、前出の金兵衛おじさんの船が来ていたのだったろうと思う。まだ日の高いうちから、金兵衛さんが紺の透通った着物を着て、白扇であおいで風通しのいい座敷に座っていると、顔見知りの老船頭だの、大工の棟梁のところの伊三という甥だのがかわるがわるに、一升樽だのその他のものを運んだ。ものわかりのいいその人たちが、庭の、敷石のところに立って、座敷の人と応対していたのが、ばかにクッキリと今の私の目にも浮かぶ。
船のつけてあるところは、三河様よりこっちよりの細川邸の清正公様のそとのところだった。夕潮が猪牙船の横っぱらをザブンザブンとゆすっていた。
「まず! 一杯!」
おとなたちはおいしそうにお猪口を口にもっていった。と、河の中の交際がはじまる。
「いよ──」
遠くの方から挨拶をしあうと、両方の船頭が腕に力をギイッと入れる。
「あれは材木町の船だ。」
竹河岸の材木やは、家内中で派手な船遊山をやっている。暮れないうちの花火は、この船遊山の景物なのである。人々は水をたのしみ、空を仰ぎ、せまい家内や、近所の目から開放された気保養を、涼風とともに満々とうけ入れ、ゆるゆると楽しむのだった。
河上の方から出てきた船は、下流の佃の方まで流してゆく。下流の方から出てきた船は竹屋を越えて綾瀬の方まで涼風におしおくられてゆく。そして夕暗といっしょに両方がまた漕ぎよせてくる。両国橋の上下に──
そのころ、五、六歳のアンポンタンの感想は──というとむずかしいが、おしっこのことだった。小船にはそういう設備がない。男の人は簡単にすませるが、といっても、まだ暮れきらない大川に、一ぱい船があってはそう勇敢な人ばかりはない。まして謹ましいその時代の女たちの困りようは察しられる。岸近い船はわたりをかけて、尾上河岸あたりのいきな家にたのむが、河心のはそうはいかない。気のきいた船頭が、幕や苫で囲いをして用をたさせると、まるで、源平両陣から那須与一の扇の的でも見るように、は入る人が代るたびごとにヤアヤアと囃す。人間て、なんて癪なものだと、いって見ればそんな風にアンポンタンは片腹痛かった。
「おや? この子は笑ったよ、何がおかしかったのだ。」
おじさんたちにはわからない。ちいさな、てんしんらんまんたる幼子だからこそ、赤ン坊でいえば虫が笑わせるといった笑い──この場合では嘲笑を禁じ得なかったのだ。
「ヤア爺さん!」
とかなんとか、笑った男が笑われて幕の囲いにはいり、テレくさそうに出てくるのだ。ばかな奴ら! その水で盃をそそぎ、その流れで手拭をしぼって頭や胸を拭く、三尺へだたれば清しなんて、いい気なものだ。
「玉や──」
みんなが口をあいて空を仰ぎ見る。だがなんと、暗い河の水の油のように重くぎらぎらすることぞ! 水面を見ると怖い。
アンポンタンは父親の膝を枕にしてボンヤリしていた。もう、そろそろ船が動きだした。あたしは大きくなってからもそうだが、賑やかなあとのさびしさがたまらなくきらいだった。ことに川開きは、空の火も家々の燈も、船の灯も、バタバタと消えて、即ちにして如法暗夜の沈黙がくるからたまらなく嫌だ。遠くの方へ流れてゆく小さなさびしい火影と三味線の音──小さい者は泣くにもなけない不思議なわびしさに閉じこめられてしまう。
そのまだ、それほど船がバラバラにならない前、すっと摺れちがった屋根船から、
「あら──さんだ!」
というと、これをお着せなさい、川風はさむいわとでもいったのであろう、艶な声がしてフワリと私の上に投りこまれたものは、軽いフワフワした薄綿のねんねこだった。多分帰りの夜風を用心して入れてきたものだろう。私はピョコンと父の膝から頭をあげた。先方は紅提燈が沢山ぶらさがっているので船の中はあかるい。私たちよりずっと高いところにいるように、膝の方まで見えた。意気な年増というのだろう、女ばかりがいた。みんなはでな声を出した。
あたしは終りの花火なんか、あとがさびしいから見ないで、そのねんねこにふっさりと包まれて父の膝に狸寝をしていた。子供というもの案外ばかにならないと思うのは、今の自分よりよっぽど不正直で要領を得ている。そして元柳ばしぎわに船をつけてもらうと、抱っこしたまま、いい匂いのものにくるまれて、薬研堀の囲いものの家へ投りこまれた。
話はそれたが三河様というのは、
風ふくな、ナア吹くな、
三河様の屋根で、
銀羽根ひろって……
と羽根つきながら風が出てくると呪いに唄う大川端の下邸跡である。向岸には大橋の火の見櫓があって、江戸風景にはなじみ深い景色である。細川下邸の清正公門前の大きな椎の木の並んだ下には、少壮時代の前かけがけ姿の清方さんが長く住まわれて、門柱に「かぶらき」と書いた仮名文字の表札がかけてあった。それより前のことだが、清正公様の傍に歯をいたくなく抜いてくれる家があるというのでいったら、小さな家で、古い障子を二枚たてて、歯みがきを売っている汚いおじいさんが抜いてくれた。大きな樹のうれに、小さい蚊虫がフヨフヨと飛んでいる夕暮れでうす暗い障子のかげで、はげた黒ぬりの耳盥を片手にもたせて、上をむきなさいといわれた。おじいさんの膝頭に頭のうしろをもたせかけ、仰向けにさせられると、その腐ったような顔とむきあった。おじいさんはやっとこみたいなものをもっている。怖いから眼をつぶったら、ガクリと音がして揺いていた歯がぬけた。ポコンと穴があいて、血がいくらでも出る。口もゆすがせないで、きたない手でおじいさんは白い粉の薬りをつけてくれた。残りを小袋に入れて渡して、血がとまらなかったらつけろといった。お代が弐銭だというので、なんぼなんでも安くってびっくりした。蔵前の長井兵助の家は、店で歯磨きや楊子を売っていて、大きな長い刀が飾ってあった。ヤッと掛声してすぐに抜いた。代は五銭の時と十銭の時があった。浅草公園でお馴染だから、大概長井兵助へゆくのだが、お友達におしえられてこの汚いおじいさんの家へいってしまった。
花火の晩といえば、ある年、丁度花火の盛りな時刻に光りものが通った。二升もはいる大薬缶ほどの、鈍く光ったものが、地の上二、三尺の高さで、プカリプカリと流れていった。アンポンタンの家の小さい女中は、裏の方にある厠から出たとき、すぐそばをスーッと流れていったのでキャッと声をたてた。祖母は金玉だといった。金盥か鍋でふせなければだめなのだといった。都会の夏の夜でさえ無気味なものが、人里はなれた原っぱなんぞでぶつかったらどんなだろう。
花火の風船のように飛んでしまった。はじめの牢屋の原へ帰ろう。中洲に賑いをとられない前は、牢屋の原が小屋がけ見世もの場でさかっていた。つとめて土地の不浄を払おうとしたのであろう。表通りの鉄道馬車路を商家にし、不浄門(死体をかつぎ出した裏門)のあった通りと、大牢のあった方の溝を埋めて、その側の表に面した方へ、新高野山大安楽寺と身延山久遠寺と、村雲別院と、円光大師寺の四ツの寺院を建立し、以前の表門の口が憲兵屯所で、ぐるりをとりまいたが、寺院がそう立揃わないうちは、真中の空地に綱わたりや、野天の軽業がかかっていた。
その中でも、蝋燭屋一蝶という仕掛け怪談話が非常にうけた。そまつなつくりではあったが、寄席在よりも広いくらいな地どりで、だんだん半永久に造り直していって、すっかり座れるようになっていた。寄席と違うのは、客席の前の方──入口近くでも曲芸をやり高座でもやるのだ。籠抜け──あるいは白刃を縦横に突通し、ある時は蝋燭の灯を透間なく、横筒の蛇籠のように長い籠にならべて、その中を桃色の鉢巻きをした子供が、繻子の着物に袴をつけて、掛声もろとも難なく飛抜ける。その鮮かな曲芸と、曲芸師の身なりが、漸くポツポツ拾いよみしていた、曲亭馬琴の『八犬伝』のなかの犬阪毛野を思わせて、アンポンタンの空想ずきを非常に楽しませてくれた。もとより寄席ではない見世ものだから、その曲芸は客を誘うために、あるていどまで、外に立見する客へも見せるから、人気はすばらしかった。怪談の前になると、立っているものも続々はいってきた。
高座の仕掛けは、その頃はやった何段返しとかいうので、後景が幾段にも変るのだった。場内が暗くなると行燈のそばに幽霊が立っている。青テルの人魂が燃えゆれる──
「かあいやそなたは迷うたナァ」
と真打ちの一蝶親方が舞台がかりでいうと、
「うらめしや……」
なんとかと幽霊がいうていた。だが、あたしはぞくぞく怖がった。いま考えると、なかなか策師だったといえる。江戸人の──いえ、当時の日本人の誰にも感じられる、厭な連想をもった、場処がらである。江戸三百年、どんなに無辜の民が泣いたか知れない、脅やかされた牢屋のあとだ。ことに世の中が変動する前には、安政の大疑獄以来、幾多有為の士を、再び天日の下にかえさず呑んでしまった牢屋の所在地だ。鬼哭啾々、人の心は、そこの土を踏むだけで傷みに顫える。その心理を利用したのだ。たねはどんなチャチなものでもかまわない。掴んだものが生きている。見る方、聴く方の、お客の方から働らきかけてくる神経の戦きがある──そして、下座にはおあつらえむきの禅のつとめ(鳴ものの名称)和讃やらお題目やら、お線香の匂いはひとりでに流れてくる。
人情の弱点の怖いもの見たさ、客は昼も夜も満員──夜は通りの四つ角の夜店と、陽気な桜湯の縁台が、若衆たちのちぢまった肝ったまをホッと救う──
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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