流れた唾き
長谷川時雨



 神田のクリスチャンの伯母おばさんのうちの家風が、あんぽんたんをしどくよろこばせた。この伯母さんは、女学校を出て、行燈袴あんどんばかま穿いて、四円の月給の小学教師になったので、私の母から姉妹きょうだいの縁を切るといわれたひとだ。でも、当時を風靡ふうびした官員さんの細君になったので、また縁がつながったものと見える。思うに私の母はちとしゃくだったに違いない。家業は自分の夫の方が小粋こいきで、モダンなんだが、家風がばかに古くって、伯母の家とはてんでおはなしにならない、違いかただった。

 それも八十になるおばあさんがいるからだ──そう思ったことであったろう。今考えると、月琴げっきんをかかえたり、眉毛まゆげをたてたりしたのは、時代の風潮ばかりではなく、このおばさんの、近代生活モダンライフグッとしたのかもしれない。

 しかし、その時分のモダンは、四布風呂敷よのぶろしきほどの大きさの肩掛けをかけたり、十八世紀風のボンネットや肩にあてものをしたり、おちちにもあてものをして、胸のところで紐を編上げたりするシミズを着て、腰にはユラユラブカブカする、今なら襁褓おしめ干しにつかうような格好のものを入れて洋服を着ていた時代である。江の島か鎌倉へゆくと、近所知己からお留守見舞というものをくれて帰ってくるとあの子は洋行をして来た──うそではない。洋行という新時代語と、道中とか旅とかいっていたのを、洋行というむずかしい言語ことばで言いあらわそうとした間違いを平気で、いってみれば、あの方がダラ幹さんという方? ときく人がある、ああしたなまはんかな、物知り──そんな位なところなのだったのだ。もっとあとだって、昨夜ゆうべは大財産をなすったなんて、財産と散財と、とんちんかんなのを、どうしてもとく出来なかったものさえある。

 私の家族うちは御飯のとき、向側の角が祖母、火鉢をはさんで父、すこしはなれて母、母の横から小さい姉妹が折曲おりまがって、祖母の前が丁度私の居場所になる。みんな、各自めいめいのお膳を行儀よくひかえる。祖母は何もかも一番早くゆくから一番さきにしまいになる。すると、長い煙管キセルをついて監視人と早がわり、御飯粒ひとつでもこぼすと、その始末をしてしまわないうちは食べさせない。あたしは味噌汁おみおつけが嫌いなので、ぽっちりとおわんの底の方へよそってもらってもつい残す。とにかく祖母の目はあたしにばかりそそがれているからたまらない、最後に、小言こごとはいわずに、

越中立山えっちゅうたてやま、無限地獄におちるぞよ。」

と、あたしのお残りへ白湯さゆをさして飲んでくれる。あんぽんたんながら、それには恐縮して、老人としよりの眼は悪かろうからと、だんだん後へさがって座るのだが、お豆腐ぎらいのために母が内密ないしょ半片はんぺんにしてくれると、ちゃんと知っている。だから私はすべてふすまのそとへ手をついて──只今という機械人形のようなおとなしさだ。この祖母は、ぞんざいな者が傍へくると、近よらないさきから足を踏まれない用心に、あいたあいたと言った。と、いかなぞん気ものでも吃驚びっくりして立止まるか静かにあるくかする。一挙両得、叱らずに叱られずにすむ妙諦みょうていである。

 そんな家から小官員こかんいんさんの新家庭へゆくと、伯母さんは多い毛をお釜敷かましきのような束髪にねじって、襟なしの着物で、おかみさんでもひっかけ(帯の結びよう)でなしに、ちりめんの前掛けも締めないで、机のような大きなお膳へ白い布をかけて、夕飯の時には若い牧師さんも来て座って、いろんなお皿が出てもすぐ食べないで、鉄ぶちの眼鏡をかけたその若い牧師さんが、小さな本を開いて、なんだかブツブツ言うと、みんな頭を垂れていて、しまいにアーメンとつぶやいて額と胸とに三度十字をきる。でも、大人でも、よっぽど待どおしいと見えて十字は実に早くやる、お茶碗もすぐ口にもってゆく。食物たべものは家のよりまずいが牛乳のかんは毎朝台所にぶらさがっている。伯母さんは鶏卵たまご黄身きみをまん中にして白身を四角や三角に焼くのが上手だ、駿河台へニコライ堂が建つとき連れてってくれたのもこの伯母さんだ。ヴィオリンのや、ピアノや、オルガンの音をはじめて耳にしたのも伯母さんの住居へとまりにいったからだった。そのころ下町でそんな音色ねいろも、楽器も知っているものはなかった。あんぽんたんは外国のにおいを、ここではじめていだのだ。なぜなら神田は学問をする書生さんの巣窟そうくつであり、いまでいうインテリゲンチャの群である。帽子をかむった人なんか、めったに見ない下町ッ子は、通る人がみんな白金巾しろかなきん兵児帯へこおびをしめているのに溜息ためいきした。夕方は下宿屋の二階三階に、書生さんたちが大勢てすりに腰をかけていた。私は女がそういうふうをしているのを新宿(妓楼)で見たことを伯母さんにはなした。

 南校なんこはらでバッタやオートをつかまえて、牛が淵でおたまじゃくしをすくった。従弟いとことおまっちゃんと三人で、炎天ぼしになって掬ったが、いれものをもたないで、土に掬いあげたのはすぐ消たようにかたまってしまった。三人はつばきをした。川の水に唾をして唾が散れば肺病ではないと、なにが肺病なのかよく知らないのに、幾度も幾度も唾をいた。すぐに散ってしまうと手をたたいて歓声をあげる。

 帰るとたらいを出して水をあびる。どぶに糸みみずのウヨウヨ動いているのを見つけて、家の金魚のおみやげだと掻廻かきまわす。邸町やしきまちの昼は静かで、座敷を大きな揚羽蝶あげはちょうが舞いぬけてゆく。お砂糖水をこしらえようと砂糖つぼをあけたら、ここにも大きな蝶がじっとして卵をしている──私たちはウワッと叫んだ、なにもかもが珍しいのだった。

 だが、ふと、自分の家の午後も思出さないではない。みんなして板塀へいがドッと音のするほど水をいて、樹木から金のしずくがこぼれ、青苔あおごけが生々した庭石の上に、細かく土のはねた、健康そうな素足を揃えて、手拭で胸の汗をきながら冷たいお茶受けを待っている。女中さんは堀井戸からひやっこいのを、これも素足で、天びん棒をギチギチならして両桶にんでくる。大きな桶に入れた麩麺そうめんが持ちだされる時もあるし、寒天やトコロテンのこともあるし、白玉をすくって白砂糖をかけることもある。

 ──そのころの人は水の味をよく知っていた。どこの井戸はくせがある。この水は甘い、あそこのはたちが細かい──女中さんは自慢で手桶のふたをとる。今日のは何処どこのですかおあてになってごらんなさいと──

 金魚も水をとりかえてもらって跳上おどりあがっているのであろう。私の鉢のまるっこの子は、大きくなったかしら、背中がはげてきたかしら、目高めだかがつッつきゃしないかしら──

「ねえおまっちゃん、弁慶蟹べんけいがにね、なにを食べてるだろう。」

 おまっちゃんもちょっと不安な顔をする。つくばいの吸込みの小さな穴へもぐってしまった弁慶蟹の子が、年々大きくなって、片っぽのはさみだけがやっと穴から出せる位に、吸込みの穴の中で成長してしまった。右の手をだして、穴のまわりの青苔をはさんで食べていたが、もう手のとどくところには苔がなくなっていたのだ。根の赤い、ギザギザのある奇麗な、そして不具な片手が穴の中から差出されると、小さい時分にはよくつまみ出してやった大人たちは、意固地いこじに逃込むのを憎がって、この頃は手をだすのを見つけるたんびにざまあみやがれと言って笑った。子供はその大人を憎んだ。誰もがいないと、おまんまつぶを持っていってやった。好きな沢庵たくあんもやった。沢庵を裂いてやるとよく知っていてはさんだ。此方からは見えなくっても、穴の中からは見えるのかも知れない、小さな眼がのぞいていたのでもあろう。

 私たちは小さな亀の子をほしがった事がある。壱銭銅貨位のや天保銭位の大きさのを買ってもらって悦んだが、蚯蚓みみずをやるので嫌いになった。私は蛇より蚯蚓が厭だ。蛇は下町にはいないから話以上伝説化した恐怖をもちはするが、見たことがないから蚯蚓の方が気味がわるかった。その蚯蚓の太いのを、小さな亀が食べる。しかも、背中を突ッついても石っころのように堅くねむってでもいたようなのが、餌を見ると猛然と首を伸してかぶりつき、ひろげておさえる。大きさからいえばあんぽんたんが大蛇にむかったようなのに、蚯蚓の胴中からは濁った血──しるが出てくる。亀の子はおじいさんのようなしわだらけなくびすじをのばし、口は横まで一ぱいに裂け、冷やかな眼をうごかさずによせている。不思議なことに、後年よく見たのだが、その眼が蛇の目とおなじであり、口のかたちも似ている。もしもし亀よ亀さんよの唄を、可愛らしい子供の口からきいても、なんだか亀が陰険でいやだ。

 夏の下町の風情ふぜいは大川から、夕風が上潮あげしおと一緒に押上げてくる。洗髪、素足すあし盆提灯ぼんちょうちん涼台すずみだい桜湯さくらゆ──お邸方や大店おおだなの歴々には味えない町つづきの、星空の下での懇親会だ。湯屋ゆやより、もちっとのびのびした自由の天地だ。まず各自めいめいの家が──家並が後景はいけいになって天下の往来が会場だ。その時は、もし、お長屋に警官さんがいても、その人もまたほんとの人間にかえって、胸毛を出して、尻をまくりあげて、渋団扇しぶうちわでバタバタやって来会される。おかみさんの肌抜ぎもとがめなければ、となりのお父さんのててら一つなのも当り前なのだ、真に天真爛漫てんしんらんまん、更けるほど話ははずむ。何処どこでもする怪談ばなし、新聞がいまほど行き渡らないから旧幕時代の、あかのつききった「お岩様」で声をひそめている。夜六時すぎてから「お岩様」のはなしをすると怪異があるというのだ。そら引窓があいた! なんて、年甲斐がいもなく妙な声を出すのもある。

 新内しんないが来る、義太夫ぎだゆうがくる。琴と三味線を合せてくるのがある。みんな下手へたではない、巧者こうしゃが揃っているからだ。向う新道の縁台でやらせている遠く流れてくる音を、みな神妙に聴入っている。生活に幾分余裕があったのでもあろうが、お三日さんじつに──朔日ついたち、十五日、廿八日──門に立つ物乞おもらいも、大概顔がきまっていた。ことに門附かどづけの芸人はもらいをきめているようだった。女太夫の名残りもあったのだろう。家によっては煙草タバコの火をもらって話してゆくのもあった。琴三味線の合奏は老女が多かった。みなといってもよいほど旧幕臣のゆかりだった。縁日えんにちのはずれの方に、小さく敷ものをして、紙がとばないように小石をおいて、お家流の美事な筆跡で、すらすら和歌や詩を書いては、一枚書くと丁寧にお辞儀をする品のよい老女がいた。落泊おちぶれても手や顔にあかをつけていなかった。その前にしゃがんで、表札を書いてもらっているものや、手紙の上封ふうを頼んでいるものもあった。私はよく言われた、お前は、書籍ほんばかりすきだと、ああいう人になるよと。

 小伝馬町の、現今いま電車の交叉点こうさてんになっている四辻に、夕方になると桜湯の店が赤い毛布ケットをかけた牀床しょうぎをだした。麦湯、甘酒、香煎こうせん、なんでもある。このごろの芝居ではお盆でだすが、一人だと茶台ちゃぶだい──真中に穴のあるものでも出した。その廻りには、りたて豆だの、赤に紫の葡萄ぶどうの絵を描いた行燈あんどんのぶどうもちだの、あめやが並んだ。金米糖こんぺとうやもあった。金花糖やも人形町に店があって、招き猫は大小となく出来ていた。かじるとガランドウとムクとあった。廻り燈籠どうろうや、ほおずきやが夜の色どりで、娘たちが宵暗よいやみにくっきりと浮いてにおった。

 浴衣ゆかた行水ぎょうずい終日いちにちつかれを洗濯して、ぶらぶら歩きの目的は活動もなくカフェもない、舞台装置のひながたと、絵でいった芝居見たままの、切組み燈籠どうろうが人を寄せた。

 横山町や、薬研堀やげんぼりあたりの大店では荒い格子戸の、よく拭き込んだのをたてて、大戸を半分だけおろして、打水をして見せていた。わざと店はあまり明るくはなかった。そして店はキチンと取りかたづけられて、誰も──小僧一人いはしなかった。そういう家の前を離れると、すぐ傍が黒い蔵であったり、木口のよい板塀であったりして、天水桶てんすいおけや、金網をかけた常夜燈じょうやとうともっていたように覚えている。日本橋にはそういう古風なところが多く、いつまでも残されていた。

 燈籠の中味は、背景も人物も何もかもが切りぬいた錦絵にしきえなのである。三枚つづき五枚つづき、似顔絵のうまい絵師のが絵草紙屋えぞうしやの店前にさがると、何町のどこでは自来也じらいやが出来たとか、どこでは和唐内わとうない紅流べにながしだとか、気の早い涼台すずみだいのはなしの種になった。そしてよく覚えていないが、脚光フットライトなどの工合もうまく出来ていた、遠見へは一々上手に光りがあててあった。曾我の討入りの狩屋かりやのところなどの雨は、後に白滝しらたきという名で売出した、銀紙のジリジリした細い根がけ(白滝として売出したのは、今の左団次さだんじのお父さんが白滝とかいう織姫になった狂言の時だったと思う)を、上から下へ抜いて、画心に雨を面白く現わしたりしていた。白い菅糸すがいと(これもバラバラした根がけ)でこしらえたのもあった。

 何処どこの家で、今年は素晴らしい切り組みが出来たとうわさされるほどなので、なかなか手を尽して、横長角よこながかくな遠見を、深くせまくした、丁度舞台の額縁がくぶちの通りなのが、三面ある家も、四角にして四面あるうちもある。一幕目二幕目と続いたのや、または廻り舞台のつづきや、一番目の呼物と中幕と、二番目のを選んだり、更にまたその家の贔屓ひいき役者の当り役ばかりを選んで幾場もつくったりした。前に言ったような、動かして見せるのではなく、三尺からのものを四ツも五ツも飾って見せるのもあった。職人衆のうちのは景気よくあけっぱなしで、店さきへ並べて、奥の人たちも自慢そうにすだれのかげで団扇うちわづかいをしながら語りあっているのもあった。その上にも景気をつけて新内しんないをやらせたり、声色こわいろつかいを呼込んでいるのもあった。

 絵双紙屋の店には新版ものがぶらさがる。そぞろあるきの見物はプロマイド屋の店さきにたつ心と、しばいきと、合せて絵画の観賞者でもあるのだ。

 子供というものは、ふとした時にきいたことを生涯忘れぬものである。あんぽんたんの幼心にしみついたのは、前にも書いたかもしれないが、太胡たこさんという、何か不平を蔵していたらしい酒のみの壮士が、私がほおずきをふくんでいるのを見て、たった一言激しくたしなめたことがある。それからフッツリほおずきを鳴らさない、器用に何でも鳴るのだが──出たての空豆の皮などを、ついふッと吹きはするが、すぐ苦さがこみあげてくる。も一つは父のいったことばで、ある時、父はしみじみと、幼い私に言うような事でない言葉をもらした。よほど胸につまっていたのであろう。

「四民平等の世の中なのに──おれはいけない。なあんだ、当り前だと思いながら、なさけないことに町人根生こんじょうがぬけないのだな、心ではそう思いながら、つまらない奴に、自然と頭が下がりやがる。ひどいもので、代々植付けられて来た卑屈だ。いめいましいが理屈じゃどうにもならない。お前なんぞは、そこへゆくと、生れた時から自由の子だ、どんな奴にも、頭ぁさげるな、おんなじ人間だぞ。」

 私は父を愛す。晩年に近く失敗したけれど、それはほとんど父の仕業しわざではないほど私の知る父とは矛盾した事だった。私の筆はやがて其方へも進んでゆくであろうが、そこでは弁護しないが、父の壮年時代を知り、晩年を知るものは、なにのためにかを考えさせられる。父は後にいった。長く考えていたことを、ふと迷って、そしてまた長く悔ゆると──

 父の人格ひとがらがすこし変ったのは、中年過ぎて男の子が出来てから、母の狂愛に捲込まきこまれてからだった。私につぶやいてきかせたころは、実に好きな父だった。夜、客のない時、おぜんを前にしてチビチビやりながら書籍しょもつを読んでいる。私を前におくのがくせだった。ふと気がついて書物から眼を離すと、おとなしく膳の前に座っている私に、おさかなをつまんで口に入れてくれた。(それは四つ五歳いつつのころのことだが──)私は父が傍見わきみをしながら猪口おちょこを口にはこんで、このわた咽喉のどにつかえたのを見てから、いつもはさみをもって座っていた。

 父は私を友達のように、とんでもない場所ところへまで連れてゆく。薬研堀やげんぼりのおめかけさんのところへ連れていったまま、自分は用達ようたしに出てしまうので、私は二、三日して送りかえされる。ついて来た老婢ろうひが、なにかと告口つげぐちをするのに、私は何も言わないので母に大層折檻せっかんされたりした。

 またある時は吉原へ連れてゆく。桜の仲之町の道中も、仁和加にわかも見た。金屏風きんびょうぶを後にして、アカデミックな椅子いすに、洋装の花魁おいらんや、芝居で見るような太夫たゆうは厚いふきを重ねて、椅子の上に座り前に立派な広帯を垂らしているのを見た。せまい道巾みちはばのところへいったら、小さな店に、さびしげにいた黒い白粉おしろいをつけたようなお女郎が「おちゃびんだ」とどなって、煙管キセルを畳に投げつけたので、私はびっくりして、格子にぶるさがっていた手をはずしてベソをかいた。ある時は芝居につれていった。よわむしな私は芝居がこわくて、大きらいだったのに連れていっては失敗していた。新富座しんとみざに時の大名優九世市川団十郎が「渡辺崋山わたなべかざん」をして、切腹の正念場の時、私は泣出したのだそうだ。父は私をかかえて家まで送って来て、折角のところを見そくなったとこぼしていた。そんな事は度々であった。私はかなり大きくなってからでも、芝居茶屋の二階に、ポツネンと、あねさまを飾ったり、ボンヤリ考えたりして一人で居残っていたことが多かった。

 それより困るのは撃剣げっけん大会というようなところへ連れてゆかれる事だ。私のめいおいがボート選手の古いのをお父さんにもって、その季節シーズンに連れてゆかれると、お父さんの熱狂奔走ぶりに悲しくなるといったが、私の父の撃剣の場合もそうだった。っぽけな子供なんぞ袖の下にはいってしまって、父は桟敷さじきにがんばる。吃驚びっくりするような気合をかける。ト、ト、ト、ト、トッ、そら突け! 呶鳴どなる。私は縮みあがってしまって、父は殺されはしないかと思った。やがて自分も引っぱり出されてゆく。ゴチャゴチャになると、どれが誰だか分らないので、私は帰れるのかしらとベソをがまんしている。

 国会開設前の時流は、三多摩の壮士が竹やりで、何百人押寄せてくるのなんのと、殺伐な空気であったと見える。政談演説会や討論会もよく開かれた。ある折両国の福本という講談席亭で、講談師なのか壮士なのか、あるいは弁士なのか、またはそれらの交りなのかそこの処は記憶が誠にはっきりしていないが、擬国会みたいなものが催うされたらしい。例によって私は父に連れられていった。自由党の人たちが多く来ていたのであろう。あれは中島だよとか、あれは誰だよとかいろんな名をきいたが覚えてはいなかった。ただ、父と論じあったので板倉中いたくらちゅうという人の、赤ら顔の、小肥こぶとりの顎髭あごひげのある顔と、ずんずら短い姿と名を覚えている。この時も、正面の桟敷さじきにいたが、大きな声をするので私は閉口していた。それに、どこでも呶鳴るので溜息が出た。

 父は刀が好きだった。暇があるとぬぐいをかけたりこなを打ったりして、いつまでもあきずに眺めていた。とぎに出したりするのも好きだった。燈火の下でやる時もあるが、昼間でもしずかなときには一室を締めきってとじこもっていた。そんな時、母は大きらいで自分からさきに避けた。

「そらお父さんがはじめた、みんな退いておいでよ。」

 私はなんとなしに、父の仕事に興味をもった。よくそばにいた。父はあごであっちへいっていろと指し示した。私は室のそとからのぞいていると、父は居合を──声もかけずに、すらりと座ったままぬくのを試している。二ふり三振り刀を振って、またれぼれと見ている。みだれとか、焼刃の匂いとかいうものを教えてもらったのもそのころだ。

 私と父との静な問答がはじまる。

「お父さん剣術つかいがいい?」

「うん。」

「絵かきがいい?」

「うん。」

「なにがいの?」

「お父さんはな、八歳か九歳の時分手習師匠が大変可愛がってくれた。するとな、かみなり師匠といわれた手習のおしょさんの近所に国年くにとしという絵かきがいてな、絵を教えてくれて、これも大変可愛がった。その時分東両国むこうりょうごくに、万八という料理おちゃやがあって、書画の会があると亀田鵬斎かめだほうさいという書家ひとや有名な絵かきたちが来てな、おれを弟子にしようとみんなが可愛がってくれた。その頃の人たちが、紙へかいてくれた絵話えばなしのような絵が沢山あったのを、祖父おじいさんが丹念にとっておいてくれたのだが、どうしてしまったかなあ。どっちかになっておけばよかったのを、祖母おふくろが、商人あきんどがいいといって丁銀ちょうぎんという大問屋へ小僧にやられた。」

 それがな、といって父は私のおかっぱの頭に手をおいた。

「丁銀のおばあさんも八釜やかましやで、きゅうが大好きだから、祖母おふくろの気が合ってたんでやられたのだ。」

「では小僧さんでもお灸を据えられたの!」

 あたしは大きな父が痛ましかった。私とおなじように、やっぱりお灸を据えられたのかと──そして祖母がよくはなす、

「祖父が丸の内のお出入り屋敷へゆくと、向うから、薬包紙やくたいしのように日にやけた小僧が、白い歯をだしてニヤニヤ笑いながら来るので、よく見たら家の息子だった。」

と。

 父は色が黒くて菊石あばたがあったから、この上黒く干しかためた小僧だったら、どんなに汚なかったろうと思った。

 ──父はよく言った。菊石という号をつけようと思ったが、渓石けいせきの方がよかろうと、なんとかねぎという人がつけたのだと。

 だが、父の若い血は算盤そろばんをはじくまで辛棒しかねて、お玉ヶ池の先生千葉氏の門下になって、先生には可愛がられたが、親や近所から鼻っつまみになった。

底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店

   1983(昭和58)年816日第1刷発行

   2000(平成12)年817日第6刷発行

底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房

   1935(昭和10)年刊行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:松永正敏

2003年74日作成

青空文庫作成ファイル:

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