お墓のすげかえ
長谷川時雨
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一族の石塔五十幾基をもった、朝散太夫藤木氏の末裔チンコッきりおじさんは、三人の兄弟であったが、揃いもそろった幕末お旗本ならずものの見本で、仲兄は切腹、上の兄は他から帰ってきたところを、襖のかげから跳り出た父親が手にかけたのだった。末子のチンコッきりおじさんが家督をついだ時分には、もうそんな、放蕩児なぞ気にかけていられない世の忙しさだった。
岡本綺堂氏作の『尾上伊太八』という戯曲の中に、伊太八という幕末の江戸武士が吉原の花魁尾上と心中をしそこなって非人におとされてから、非人小屋の床下を掘る場面があるが、あれを見るたびに私は微笑とも苦笑ともなづけがたいほほえみが突上げてくる。伊太八のは根強い悪だが藤木さんのは時代のユーモアがある。この放蕩漢兄弟は金がほしくなると種々な智恵の絞りっこをしたが、だんだんに詰って土を売ることを思いついた。
江戸の下町でよい庭をつくるには、山の手の赤土を土屋から入れさせるのである。今のように富限者が、山の手や郊外に土地をもっても、そこを住居にしていなかったので、蔵と蔵との間へ茶庭をつくり、数寄をこらす風流を楽しんでいた。一木何十両、一石数百両なぞという──無論いまより運搬費にかかりはしたであろうが贅沢を競った。その地面に苔をつけるには下町の焼土では、深山、または幽谷の風趣を求めることは出来ない。植木のためにもよくない、そこで赤土の価がよい。
三人の兄弟がその時ばかりは志が一致する。父親が勤めに出てしまうと、なるたけ坪数のある広間、書院の床下から仕事をはじめる。自分たちでやって見たが、根から遊惰な男たちには、堅い土がいくらも掘りかえされないので、大っぴらに父の留守を狙っては払いさげをやる。売る土がなくなると姉が死んだといって、蔵前の札差しに、来年さらいねんの扶持米を金にして貸せといたぶりに行く。札差し稼業はもとよりそういう放埒な、または貧乏な武士があって太るのだ。貴下には泣かされますといいながら絞る。いくらにでも金にすればよいので、時価なぞにかまっていないよいお得意なのだから、彼らの番頭はうやうやしく町人袴をはき、手代を供につれて香奠をもって悔みにくる。おなじ穴の狢友達が出て殊勝らしく応待して、包んで来た香奠の包みをもってはいると、そんな事は知らない姉じゃ人が、日頃厄介をかける札差の番頭が来たというので挨拶に出て、すっかり巧みの尻が割れ、ならずものたちは裏門から飛出してしまう──
そんな話を藤木さんは自分でも面白そうにはなす。尤もそれは柳橋にすむようになって、昼も酒盃をもっていられるようになった、ずっと晩年のことではあるが──
柳橋の角に、檜づくりの磨きたてた造作の芸妓屋を、姉娘の旦那に建てもらい、またその隣家を買いつぶして、小意気な座敷を妹娘の旦那に建増してもらって、急に××家のおとっさんおとっさんとたてられ、ばかに華々しく彼のキンカン頭が光りだした時、持前の毒舌はいい気になって発揚した。無学で──それは彼もおなじなのだが──平民というと、見下られるものとのみこんでいた無智な仲間は、娘を売るような士族でも偉そうにあつかったので彼は得意だった。例によって彼自身では何一つ楽しみも与えもしないで、苦労ばかりさせた妻にむかっては「ぼていふりの嬶が相当だ」と罵った。朝湯にはいって、講釈の寄席へ昼寝をしにゆくのを毎日の仕事にしていたが、あんまり口やかましいので、佃島の庭の梅が咲いたからお訪ねなさい、桜がよいでしょうから行ってらっしゃいと、私の父の閑居に体よく追払われては来た。生ていたころの木魚のおじいさんと三人、のどかな海に対して碁を打ち暮した。島には木橋の相生橋が懸っていたばかりで、橋の上を通る人は寥々としていた。本佃の住吉の渡船でくるか、永代橋のきわから出て、父の閑居の門前につく渡船に乗るかが多かった。
この渡船は、助さんという前の小屋にいた若い船頭さんのために、父がすこしばかり金で手伝ってやってはじめさせた渡しだった。人通りのない父の家の門の柳が、わたし場の目じるしだった。さて、その三人の幕末の残り者が縁近くに碁盤を据えると、汐潮があげてきて、鼻のさきをいせいのいい押送りの、八丁艪の白帆が通ろうと、相生橋にお盆のような月がのぼろうと、お互が厭がらせをいいながら無中になっている。父は、島人から村長さんと名づけられているほどのんきで飄逸な、長い白い髭をしごいている。木魚の顔のおじいさんはムンヅリと、そのくせゲラゲラと声をださないで崩れた顔を示す。つまみよせたような眼の、キンカン頭の藤木さんは、俳諧でもやりそうな渋仕立の道行き姿になって、宗匠頭巾のような帽子を頭にのせている。そして懐中時計を三十分に一度はきっと出して、ただ眺める。竜頭をいじって耳へもってゆくしぐさを繰返す──
この碁打ちたち、かたちはさも巧者でありそうだが、だが、ある折、妹の婿の若い、海軍のヘッポコ少尉がこの三人の前で、
「とても駄目です、僕は軍艦でも、ものにならない方の、その中の一番しまいです。」
「まあ、やって見な、おれが対手になってやろう。」
父が少尉との最初の盤にむきあってすぐ負けた。若い軍人は言った。
「お父さん負けてくだすったんです、そんなはずはありません。」
「そりゃそうだろうとも、さあお出なさい、こんどは僕だ。」
藤木宗匠が向った。父は変な顔をして黙っていた。勿論チンコッきり宗匠もすぐ負けた。
「妙だね、こりゃおつだよ、以心伝心、若いものに華をもたせようとするのかな。湯川氏はそうはいかないぜ。」
「いや、拙者はどうも。」
木魚のおじいさんは目をクシャクシャとしばたたいて、蟇のようにゆったりしている。だが、結局はやっぱり負けた。若い少尉はころがって笑った。
「僕より拙いものがあるなんて──これじゃ碁じゃない……」
「碁じゃないって? 碁じゃない、碁じゃない、こちゃゴジャゴジャだ。」
藤木さんも黄色い長い歯を出して笑った。
しかし、そうしたのんきな生活──芸妓屋おとっさんの成功も、藤木さんみずから努力した運ではなかった。彼の生涯に恵まれた幸福は、服従心の強い、優しい妻と娘とをもった事だった。木魚の顔のおじいさんの老妻がいしくもいったことがある。
「親不孝者が、親孝行の子をもつなんて、誠に不思議さね。」
清元と踊りで売っていた姉娘お麻に地味な客がついた。丁度年期があいたあとだったので、彼女は地味にひいてしまった。その頃の九段坂上は現今よりグッと野暮な山の手だった──富士見町の花柳界が盛りになったのは、回向院の大角力が幾場所か招魂社の境内へかかってから、メキメキと格が上ったのだ。従って町の雰囲気も違って来た──お麻さんが選んだ妾宅は、朝々年寄った小役員でも出てゆきそうな家だった。母親は台所のためによばれていったので藤木さんの不服は一方ならずであった。
お麻さんがその妾宅で、鬢髱をひっつめた山の手風の大丸髷にいって、短かく着物をきていたのも暫らくで、また柳橋へかえった。こんどは提灯かりの通勤だったので、おなじ芸妓屋町に住居をもった。
地味な気性でも若い芸妓である、雛妓のうちから顔馴染の多い土地で住居をもったから、訪ねてくるものもある。見得の張りたいところを裏長屋で辛棒しているのだから、察してやらなければならないのを、チンコッきりに厭きはてた父親は、一緒に住まわせなければ、晩にいってその家の棟で首をくくってやるといやがらせた。事実そうもしかねないほど思い入っているので、世帯を一つにしたが──娘の心は悲しかったであったろう。芸で売った柳橋だとはいえ、一時に負担が重すぎた。私は従姉をたずねていって、暗澹たる有様に胸をうたれて途方にくれたことがある。これが、あのはなやかに、あでやかに見える、左褄をとる女の背に負う影かと──
平右衛門町の露路裏だった。柳橋の裏河岸に、大代地に、大川の水にゆらぐ紅燈は、幾多の遊人の魂をゆるがすに、この露路裏の黒暗は、彼女の疲労のように重く暗くおどんでいる。一番奥の、人力車夫の長家のような、板戸の家が彼女の巣だった。
更けてはいなかったが戸を叩くと、床の低い四角い家の上りがまちに藤木さんが寐ていて黒っぽくモゾモゾした。奥の壁の隅に島田髷が小さく後向きに寐ている。にぶい燈火にも根に結んだ銀丈長が光っていた。壁にはいろいろなものがさげてあったが、芸妓の住居らしい華やかなものは一品もなかった。
「あの娘は疳のせいか寐出すと一日でも二日でも死んだもののように眠っていて──」
母親は祝いにきてくれたのにと気の毒そうに呟いた。
心の重荷──そんなものが感じられて従姉の苦悩に私は胸をひきしめられていた。この裏家から高褄をとって、切火をかけられて出てゆく芸妓姿はうけとれなかったが、毎日細二子位な木綿ものを着て、以前の抱えられた芸妓屋へゆき、着物をきかえて洗湯にも髪結いさんにもゆくのだと母親が説明した。
とはいえ、そうしたはかない裏は知らず、料亭の二階へよぶ客は、芸妓と見れば自分から陽気になってくれる。彼女にもよい客が出来かけた。今日は何家の裏二階で、昨日はどこの離れでと招ぶ客の名が知れると、妙なことにチンコッきりおじさんが納まらなくなった。前に囲ってくれた旦那と二人して妨害運動をしたりしたが、律気な──鉢植えの欅みたいな生れつきの妓にも芽が出て、だんだんに繁昌して来た。一人だちになり、勝気な負ずぎらいな妹もおなじ水にはいって、どうやら抱妓もおけるようになった時、東京中の盛り場で「旦那」とよぶのはあの人だけだといわれた遊び手の、若い大商人と縁を結んだ。
小山内薫氏の書いた小説『大川端』や『落葉』に出てくる木場の旦那、および多さんがこの二人である。多さんとは藤木麻女のことである。
私はついにそこまで達した彼女の子供の時からの苦労をあんまり知りすぎている。だまって苦悩をになってゆく。痩せた、小柄な、あまりパッとしない彼女の芸妓姿を、いたわり撫でたい気持ちで遠くながめていた。アンポンタンは成長するにしたがい家内のなかの異端者としてみられていたから、どうする事も出来ないで、抱えの時分、流山みりん瓶入の贈物をもってくる彼女の背中を目で撫ていたが、彼女におとずれた幸福は、彼女にはあんまりけばけばしい色彩なので、信実はやっぱり苦労が絶ないであろうと痛々しかった。なぜなら、らんまんたる桜の咲きさかる春のような、または篠つく豪雨のカラリと晴れた、夏のような風情は彼女にはそぐわなかった。もっと地味で、堅実な愛が、彼女を待たなければ真の幸福とはいえないように思えた。私が彼女にあうことはより遠々しくなった。
放蕩児が金を散じる時の所作はまず大同小異である、幇間にきせる羽織が一枚か百枚の差である。芸妓のとりまきが一流と二流の相違は、料亭待合の格式、遊ぶ土地、すべての附合の範囲と広さにおよぼしている。中村鴈治郎が東都の人気を掴得しようとすると歌舞伎座から「まだ旦那のお招きをうけないが──」と頼みこんでくる。摂津大掾が来た、何が来たと東京の盛り場の人たちが大阪でうけるお礼のかえしを、一手に引受けるほど遊びに顔を売った旦那を彼女は旦那にしたのだった。しかも彼女は律気真面目一方で彼をまもった。
彼女は浜町に住んだ。藤木さん夫婦は妹娘を真にして柳橋でパリパリの××家のおとっさんおっかさんになってしまった。手拭ゆかたの立膝で昔話をして、小山内さんや猿之助を煙にまいていた。浜町の家には、近くの中洲の真砂座にたむろしていた、伊井、河合、村田、福島、木村などの新派俳優の下廻りが、どっちが楽屋かわからないほど入込んでいた。藤井六輔とか小堀誠などは自分の家のようにまめに働いていた。芸妓、各遊芸の家元たち、はなしか、幇間、集ればワッワッいう騒ぎだった。お麻さんはいつもそれらの後始末ばかりしていたが、彼女は一中節の都の家元から一稲の名をもらっていたので、その名びろめを旦那が思いたった時は──彼女に対する日頃の謝意というより自分の道楽の方が勝ったであろうが、二日に渡った盛大な催しを柳橋の亀清楼で催した。仕着せ、まきもの、配りもの、飾りもの、ありきたりな凝ようではなかった。芦に都鳥を描いた提灯は、さしもに広い亀清楼の楼上楼下にかけつらねられて、その灯入りの美しさ──岸につないだ家根船にまでおなじ飾りが水にゆれて流れた。
浜町の岡田では、この旦那のために舞台をつくって、あの広い家中を、一間一間楽屋にして素人芝居が開催される。もとより番附その他の設備、楽屋の積物、いうまでもなく人気役者の名題披露の通りにした。とうとう新富座まで借り入れてやったこともある。
お麻さんと旦那の生活はこの位にしておこう。お麻さん夫婦の浜町の家に特記してよいのは、小山内氏のために潮文閣を挙して第一期『新思潮』を出したことである。そのころとしては作家たちを花屋敷の常磐という一流料亭に招待したり、一足飛びに稿料何円かを支払って一般の稿料価上げを促したものである。
姉娘と妹娘との旦那の張合いで、××家は柳橋でもパリパリの芸妓家となった。妹娘の旦那、銀行の頭取りは、事ごとに木場の旦那とは違ったゆきかたで、自分の女にした妹娘の家作に手入れをする、動産、不動産、いずれも消てしまわないものを注ぎ込んだ。その時分の藤木さんの家こそ不思議だ。敷居一つまたぐと次の間は妹の家作で、入口の方の家が姉娘の家作、どっちの道、角家の磨きあげた二階家つづきで、お麻さんの芸妓名をついだ妹が主で、大勢の抱妓がいた。妹は築地のサンマー夫人のところへ会話を習いにいったりして、二階の一間には床の間に花あり、衣桁あり、飾り棚があり、塗机があり、書道の手本と硯が並べてあるという豪奢な貴婦人好みであった。
産むなら女の子をうんでおけと──むべなるかなで、チンコッきりおじさんはその家のお父さんとして死んだので、実に大層もない葬式の列が編上げられて、死に果報なこととなったが、同時にこそばゆい華やかさでもあった。
最もその時分、角力の親方だとか顔役だとか、人気役者とかいえば、そうした突拍子もないお祭りさわぎの葬式もあったが、チンコッきりおじさんを知っているものには不思議な微笑をもって送られた。小禽が何百羽はいっていようかと思われるほどの大鳥籠、万燈のような飾りもの、金、銀、紅、白の蓮の造花、生花はあらゆる種々な格好になってくる。竜燈、旗、天蓋、笙、篳篥、女たちは白無垢、男は編笠をかぶって──清楚な寝棺は一代の麗人か聖人の遺骸をおさめたように、みずみずしい白絹におおわれ、白蓮の花が四方の角を飾って、青い簾が白房で半ば捲上げられ、それを幾町が間か肩にかつぎあげずに静々と柳橋から蔵前通りへと練り歩かれた。
それをまた迎える本堂は花を降らし、衆僧は棺をめぐって和讃の合唱と香の煙りとで人を窒息させた。しかもまた堂にみつる会衆は、片時もだまっていられないたちの種類なので、後側の方は、おとむらいなのかお浚いなのか、ともかく寄合には相違ないが忍び笑いまでする──
私は死んでも、決して自分ひとり所有の、立派なお墓なんていうものを建るものではないと、その時思った。前にもいったが、藤木家一族の墓石は幾十基かならんでいるが、その中に、特によい位置をしめて、四角四面、見上げるほど高く、紋をつけた家根まで一ツ石でとってある、石の質も他のとは違うゆいしょありげな一基は、ずっと前の徳川将軍に昵懇していた女性の墓だということだった。それがまあ、なんと光栄なお見出しに預かったことか、肝心な墓の主に断わりもなく──尤も断わろうにも百万億土にゆかなければならないが──墓主が代ったことである。これがいい、これがいい、そんな風にかんたんにとりかわってしまった。そして、かつてはどんな美女で、将軍の意志、即ち時の天下の意志を動かしたかも知れない女の墓名は、チンコッきりおじさんの名に代ってしまった。尤も、何々院殿という偉そうな名にはなったが──
しかし、もとの墓主だって、私は美女ときめているが、どんな人だったのか、それはわかりはしない。墓石が立派だから、下の人まで立派だといわれない。むしろ藤木さんなどは愛すべき俗人だ。彼は言ってるだろう。
「なんというべらぼうなこったか、干からびた鼠のような俺が──ここにはいるんだって? わしゃ、はずかしいわいなあ。」
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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