影
(一幕)
岡本綺堂
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現代。秋の夜。
相模国、石橋山の古戦場に近き杉山の一部。うしろに小高き山を負いて、その裾の低地に藁葺きの炭焼小屋。家内は土間にて、まん中に炉を切り、切株又は石などの腰かけ三脚ほどあり。正面は粗末なる板戸の出入口。下のかたには土竈、バケツ、焚物用の枯枝などあり。その上の棚には膳、碗、皿、小鉢、茶を入れたる罐、土瓶、茶碗などが載せてあり。ほかに簑笠なども掛けてあり。上のかたには寝室用の狭き一間、それに破れ障子を閉めてあり。下のかたには型ばかりの竹窓あり。炭焼の竈は家の外、上のかたの奥にある心にて、家の左右には杉の大樹、薄なども生い茂っている。
月明るく、梟の声。
(棚には小さきランプを置き、炭焼男の重兵衛、四十五六歳、炉の前で焚火をしている。やがて大きい湯沸しにバケツの水を汲み入れて、炉の上の自在にかける。障子の内にて子供の声。)
太吉 おとっさん、お父さん……。
重兵衛 (みかえる。)なんだ、なんだ。
太吉 怖いよう。
重兵衛 なにが怖い。(立上る。)夢でも見たのか。
(重兵衛は笑いながら、上のかたの障子をあけると、七歳の太吉が寝床から這い出して来る。)
重兵衛 はは、どうした、どうした。
太吉 (父に縋り付く。)怖いよう。
重兵衛 なにが怖いのだと云うのに……。おとっさんはここにいるから大丈夫だ。(笑いながら叱る。)弱虫め。しっかりしろ。
太吉 でも、なんだか怖いよ。おとっさん。
重兵衛 なにを云やあがるんだ、馬鹿野郎……。(声がやや暴くなる。)そんな弱虫で、おとっさんと一緒にここにいられるか。あしたはもう家へ追いかえして仕舞うから、そう思え。いいか。
(太吉はだまっている。)
重兵衛 それだから家にいろと云うのに、お父さんと一緒ならさびしくねえと云って、無理にここへ附いて来たんじゃあねえか。お父さんは年中この山の中の一軒家に住んでいるが、唯の一度だって怖いと思った事なんぞありゃあしねえ。(云いかけて肩をすくめる。)ああ、夜になったら薄ら寒くなって来た。さあ、おまえも火のそばへ来て、よく暖まって寝ろ。怖いのじゃあねえ、寒いのだ。よく暖まって、好い心持にぐっすり寝ろ。
(太吉はやはり無言で炉の前に来る。重兵衛は更に枯枝をくべる。梟の声。)
太吉 (怖ろしそうに耳を傾ける。)お父さん。あれ、あんな声が……。
重兵衛 あれは梟だ。梟が啼くのだ。めずらしくもねえ。(笑う。)おまえは今夜、どうかしているな。
(二人は向い合って焚火にあたっている。薄く山風の音。小唄の声遠く聞ゆ。)
〽惚れて通うに何怖かろう。
(太吉は俄に立上りて、再び父に取縋る。)
太吉 怖いよう。おとっさん。
重兵衛 また始めやあがった。意気地無しめ。いよいよあしたは家へ帰してしまうぞ。
太吉 (恐怖の眼を表へ向けて。)あれ、来たよ、来たよ。
〽今宵も逢おうと、闇の夜道を唯ひとり。
重兵衛 成ほど、だれか歌いながら来るようだ。聞き慣れねえ声だから、ここらの若え者じゃあるめえ。旅の人でも迷って来たかな。
〽先や左程にも思やせぬのに、こちゃ登りつめ、山を越えて逢いにゆく。
(重兵衛は唄を聴いている。太吉は顫えながら父に獅噛み付いている。やがて重兵衛は立って、下のかたの窓から覗く。)
重兵衛 ああ。こっちへ来た、来た。
太吉 怖いよう。
(太吉はもう堪らなくなって奥へ逃げ込み、一生懸命に障子をがたがたと閉める。重兵衛は表をながめている。下のかたより二十五六歳の旅人、旅やつれは見えながらも人柄は賤しからず、洋服を着て登山帽をかぶり、足にはゲートルを着け、リュックサックを背負い、木の枝を杖にして出づ。)
旅人 (重兵衛に声をかける。)済みませんが、少し休ませて貰えませんか。
重兵衛 はい、はい。どうぞお這入り下さい。
旅人 這入っても構いませんか。
重兵衛 かまいませんよ。(正面の戸をあける。)さあ、さあ……。
旅人 (内に入る。)とんだお邪魔をします。
重兵衛 焚火も丁度燃え付いた所だ。さあ、おあたりなさい。
旅人 ありがとうございます。(リュックサックをおろして、炉の前に腰をかける。)まだ十月のなかばだと云うのに、山の中は随分寒うござんすね。
重兵衛 (笑う。)山の中という程でもないが、それでも夜になると、里よりは滅切り冷えて来るようですよ。あなたは夜道をかけて、今頃どうしてこんな所へお出でなすったのだね。
旅人 箱根を越して甲州へ出る積りです。
重兵衛 はあ、甲州へ……。
旅人 行かれるでしょうね。
重兵衛 わたしも行ったことは無いが、行かれる筈ですよ。それじゃあ今夜は箱根泊りですね。
旅人 さあ、箱根に泊るか、夜通し歩くか、まだはっきりとは決めていないんですが……。ここらの山に獣が出ますか。
重兵衛 むかしは狼が出たとか、猪や熊も出たとか云うことですが、今じゃあ何が出るもんですか。唯ときどきに猿が出て来て、油断をしていると食い物を盗んで行く位のことですよ。
旅人 (安心したように。)そうですか。それじゃあ夜道も安心だ。(窓のかたを見かえる。)今夜は好い月ですね。
重兵衛 旧暦の十三夜ですよ。(思い出したように笑う。)眼の前に薄は沢山生えていながら、今夜は供えるのを忘れてしまった。
旅人 十三夜ですか。(考える。)先月の十五夜は……ここらも好い月でしたか。
重兵衛 いい月でしたよ。
旅人 (何かの感慨に耽るように。)東京もいい月でした。
重兵衛 あなたは東京でしょうね。
旅人 ええ、まあ、そうです。
重兵衛 今歌って来たのはあなたでしょう。
旅人 聞えましたか。いや、どうも……。(きまりが悪そうに頭を撫でる。)実はあんまり寂しいので、聞きかじりの小唄を出たらめに、はははははは。
重兵衛 わたしは田舎者でなんにも判りませんが、あなたは中々いい喉のようですね。
旅人 冗談でしょう。人通りのない山の中だから遠慮なしに大きな声を出したので……。東京のまん中じゃあ気恥かしくって歌えませんよ。
重兵衛 (同じく笑いながら。)その東京の人がここらへ来て、それから甲州へ行く……。どこかのお帰りですか。
旅人 (少し躊躇しながら。)ええ。わたしは旅行好きで、それからそれへと飛び歩いているんです。
重兵衛 それはお楽みですね。
旅人 一月ほど前、丁度十五夜の晩から家を飛び出して、方々をあるいて来ました。
重兵衛 どっちの方をあるいてお出でなすった。
旅人 初めは東北地方へ出かけて、那須の方へ行きました。それから福島の飯坂へ行って、会津へ行って……。それから越後へ出て、北国の方をまわって……。東海道を汽車で帰って来て、今夜は熱海で降りました。
重兵衛 (おどろいたように。)ほう、随分あるきましたね。
旅人 熱海から山道伝いにここまで来たんですが、夜ではあり、道の案内を知らないので、今もいう通り、出たらめの小唄を呶鳴りながら、無茶苦茶に歩いて……。(苦笑いする。)ここは一体なんと云う所ですね。
重兵衛 あなたは湯河原の温泉を御存じでしょう。
旅人 湯河原……。知っています。
重兵衛 その温泉場から遠くない、土肥の杉山という所です。頼朝が隠れたという大杉が先頃まで残っていましたが、今はもう枯れてしまいました。
旅人 それじゃあ里から遠くないんですね。
重兵衛 山の中と云っても、里は近いのです。わたしの家も直ぐ下の村で、女房や娘は百姓をしていますよ。
旅人 ひとりでここに住んでいるんですか。
重兵衛 ここは炭焼小屋ですから、わたしだけが住んでいるのです。
旅人 (あたりを見まわして。)ああ、炭焼小屋ですか。
重兵衛 (上のかたを指さす。)竈はこの小屋のうしろにあります。
旅人 成程。(うなずいて。)それにしても、ひとりて寂しくはありませんか。
重兵衛 馴れているから別に寂しいとも思いません。それに村が近いので、家の者も時々にたずねて来ますからね。今夜も子供がひとり泊りに来ています。
旅人 子供さんは幾つです。
重兵衛 年弱の七つですから、まだ本当の子供ですよ。
旅人 子供さんがいるなら、ここに好い物があります。(リュックサックの中から鮓の折詰を取出す。)これは汽車の中で買ったんですが、ここで蓋を明けることにしましょう。(折の蓋をあける。)
重兵衛 やあ、それは御馳走ですね。子供はさぞ喜ぶでしょう。(奥に向って呼ぶ。)おい、太吉。ここへ来い、ここへ来い。お客様が好い物を下さるぞ。早く出て来い。
(障子の内では答えず。重兵衛は立って、障子をあけて覗く。)
重兵衛 これ、何をしているのだ。お客さまが旨いものを下さると云うのだ。(笑いながら。)まあ、だまされたと思って来てみろ。
旅人 もう寝てしまったんですか。
重兵衛 なに、起きているのですが……。これ、太吉。なぜ隅の方に小さくなっているのだ。さあ、出て来い。ええ、出て来ねえか。
太吉 (泣声で。)忌だよ、忌だよ。怖いよ。
重兵衛 又そんなことを……。この弱虫め。まあ来てみろと云うのに……。この野郎、ぐずぐずしていると、襟ッ首をつかんで引摺り出すぞ。
(重兵衛は太吉の腕をつかんで、無理に引摺り出して来る。太吉は旅人を一目見るや、更に恐怖の念を増したる如く、身をすくめて土間の隅に小さくなっている。)
重兵衛 さあ、お客様に御挨拶をしねえか。
旅人 (笑いながら。)今晩は……。
(太吉は答えず、いよいよ身を竦めている。)
重兵衛 (舌打ちして。)仕様のねえ奴だな。まあ、折角の御馳走ですから、番茶でも淹れましょう。湯ももう沸いたようです。
(重兵衛は太吉を横目に睨みながら、自在の湯沸しを取って下のかたへ行き、棚から土瓶をおろして茶の支度をする。梟の声。)
旅人 (これもやや恐怖を感じたように。)あ。あの声はなんですか。
重兵衛 梟ですよ。
旅人 忌な声ですね。
重兵衛 あなた、聞いた事はありませんか。
旅人 下町に住んでいたので、聞いたことがありません。いや、どこかで聞いた事があるかも知れないが、あんな忌な声だとは思いませんでした。(梟の声つづけて聞ゆ。)ああ、又啼いている……。なんだか人を呼んでいるようですね。
重兵衛 わたし達は年中聞き慣れているので、なんとも思いませんが、たまに聞く人には忌な声かも知れませんね。
(重兵衛は盆の上に土瓶と茶碗を乗せて、再び炉の前に来る。)
重兵衛 こんな所ですから穢い茶碗で、まあ御勘弁ください。
旅人 色々御厄介になります。(茶をのみながら。)さあ、遠慮なしに喰べて下さい。(鮓の折を差出す。)子供さんは嫌いですか。
重兵衛 嫌いどころか大好きで、飛び付いて喰べるのですよ。(太吉に。)これ見ろ。おまえが大好きな玉子もあるぞ。海苔巻きもあるぞ。早くここへ来て御馳走になれ。おまえは鮓は嫌いか。
(太吉は首をのばしてそっと覗いたが、旅人を見ると又俄に小さくなる。重兵衛は客の手前もあり、わが子の意気地のないのが腹立たしくもあり、声を暴くして叱り付ける。)
重兵衛 やい、何をぐずぐずしているのだ。ここへ来い、ここへ来い。
太吉 (低い声で。)あい。
重兵衛 あいじゃあねえ。お客様がいるのに行儀の悪い奴だ。早く来い、この野郎……。(炉のそばにある枯枝を把って、太吉に叩き付ける。)
旅人 (あわてて遮る。)あ、あぶない。怪我でもさせると、いけない。
重兵衛 なに、云うことを肯かない時には、いつでも斯うして引っぱたくのです。野郎、まだ来ねえか。(又もや枯枝をふり上げる。)
(太吉も今は引込んでもいられず、恐る恐る這い出して来て、父のうしろに寄添うと、重兵衛は鮓の折を把って、その眼さきに突き付ける。)
重兵衛 どうだ。旨そうだろう。お客さまにお辞儀をして、どれでも好いのを喰べてみろ。
(太吉は父のうしろに隠れたままで答えず。)
旅人 (笑いながら。)早くおあがんなさい。
(その声を聞くや、太吉は又ふるえ上って、父の背中に獅噛み付く。)
重兵衛 今夜に限って変な奴だな。おまえが喰べなければ、お父さんが皆んな喰べてしまうぞ。いいか。
(太吉は無言で首肯く。重兵衛は鮓を一つ取って旨そうに食い、茶をのむ。旅人は巻烟草を出して吸いはじめる。梟の声。)
重兵衛 わたしばかりが遠慮なしに喰べていちゃあ失礼だ。あなたもどうぞ上って下さい。
旅人 いえ、わたしは烟草の方が好い。あなたもどうです、烟草は……。(巻烟草を出す。)
重兵衛 やあ、これは色々御馳走さまで……。じゃあ、一本頂戴します。(烟草を貰って吸いながら、太吉をみかえる。)こいつはわたしの末ッ子で、始終ここへ遊びに来たり、泊りに来たりして、さびしいのには慣れているのに、今夜に限ってさびしいの、怖いのと云うのです。ここはこの通りの一軒家ですから、山道に迷った人なんぞが時々にたずねて来ることもありますが、こいつは馬鹿に人なつッこい奴で、識らない人でも直ぐにお友達のようになって、おじさんおじさんと云っているのですが、どう云うわけだか今夜のあなたに限って、お辞儀もしないし、口も利かないで、私のうしろに小さくなっているばかりで……。まったく変な奴ですよ。
旅人 (笑う。)わたしがよっぽど嫌われたと見える……。いや、わたしはこの子ばかりじゃあない、誰にでも嫌われるような人間に出来ているんです。
重兵衛 それこそ御冗談でしょう。御馳走になったからお世辞をいうのじゃあねえが、あなたのような人を嫌う者はありますまい。はははははは。
旅人 (力強く。)いえ、嫌われますよ。取分けて女には嫌われたり、だまされたり……。まったく哀れな人間です。
重兵衛 (笑いながら。)あなたは裏を云っているのじゃありませんか。
旅人 裏も表もない。ほんとうのことですよ。現に今度の旅行でも、ゆく先々で忌がられたり、嫌われたり、どこでも好い顔をされませんでした。
重兵衛 なぜでしょう。
旅人 わたしがそういう人間に出来ているんでしょう。
重兵衛 そうですかねえ。
(話に継穂がなく、二人は黙って烟草を吸っている。下のかたよりおつや、二十四五歳、熱海あたりの芸妓とおぼしき風俗にて出づ。おつやは頗る威勢のいい女、少し酔っている。)
おつや (窓の外より呼ぶ。)おじさん。黒い小父さん。
重兵衛 誰だ。(覗いて。)おお、おつやか。今頃どうして来た。
おつや (少し躊躇しながら。)お客様じゃあない……。
重兵衛 むむ、お客様だが……。まあ、遠慮なしに這入れよ。
旅人 どうぞお構いなく……。
おつや じゃあ、御免なさい。
(おつやは正面の戸をあけて内に入り、炉のまえに来て旅人に会釈する。旅人も無言で会釈する。)
おつや (馴々しく。)今晩はなかなか冷えますね。
旅人 急に寒くなったようです。
重兵衛 (おつやをじろじろ見て。)今頃ここへどうして来たんだよ。
おつや (旅人を見返りながら。)お客さまの前で云っても好いの。
重兵衛 悪い事をしたのでなけりゃあ、誰の前でも遠慮はねえ筈だ。まさかに警察から追っ掛けられている訳でもあるめえ。
(旅人は少しく顔の色を動かしたが、やはり冷静に聴いている。)
おつや 仕舞にゃあ追っ掛けられるような事になるかも知れないが……。(笑う。)実は……あたし、主人と衝突してね。
重兵衛 (顔をしかめながら笑う。)また飛び出したのか。困った阿婆摺れ女だな。今度でもう三度目じゃあねえか。おめえの主人は熱海でも評判の好い家だと云うのに、どうしてそう喧嘩をするのかな。
おつや どうしてと云って……。つまりは性が合わないんでしょうね。十月に這入って、土地も一としきり繁昌する時節だから、その稼ぎ時に五六日も家をあけて、些っと主人を困らせて遣りたいのさ。黒いおじさん、だしぬけで済みませんが、五六日の間ここへ隠まって呉れない……。
重兵衛 隠れるなら小田原へ行くがいいじゃあねえか。自分の家がある筈だ。
おつや 自分の家じゃあ直ぐに追手がかかるのは知れている。と云って、懐ろは秋風だから、東京や横浜までのして行って、ぶらぶら遊んでいるほどの元気も無し、ここなら誰も気が注く気づかいも無いから、まあ五六日隠まって貰って、好い時分に天から降ったようにのっそりと帰る積り……。ねえ、後生だから置いて頂戴よ。
重兵衛 飛んでもねえ主人泣かせだな。稼ぎ時に稼がなけりゃあ、主人が困るばかりでなく、第一自分の損にもなるじゃあねえか。そのくらいの理屈が判らねえのか。
おつや あら、忌だ。損得なんぞを考えて、主人と喧嘩が出来るかって云うんだ。はははははは。(笑いながら旅人に。)ねえ、あなた。そうでしょう。
旅人 (同じく笑いながら。)そうかも知れませんね。
おつや (重兵衛に。)そら御覧なさいな。こちらだって、あたしに同情して下さるわ。黒いおじさんだって、女ひとりが斯うして駆け込んで来た以上、いざ縄打って代官所へなんて、野暮なことを云やあしないでしょう。
重兵衛 どうでおれは野暮な人間だが……。(苦笑いして。)まったくお前は女ひとり……。いくら月夜でも、これから夜道を追い返すわけにも行くめえ。今夜だけはまあ泊めて遣るから、あしたになったら何処へでも勝手に出て行ってくれ。長く泊めて置くことは出来ねえぞ。いいか。
おつや はい、はい。あしたになれば又あしたの風が吹きます。行き暮らしたる旅の修行者、一夜の宿をお貸し下されば結構でございます。まあ、まあ、これで安心した。あはははははは。(云いながら太吉に眼をつける。)あら、太ァちゃん、そこにいたの。あんまりおとなしいので、些っとも気が注かなかった。さあ、おばさんのとこへお出でよ。
(おつやに招かれて、太吉はその傍へ寄って行くが、やはり気味悪そうに旅人の顔色をうかがっている。)
おつや 太ァちゃん、お前どうしたの。木から落っこちた猿さんのように、今夜は忌にぼんやりだね。もう眠くなったのかい。
重兵衛 さっき寝かし付けたのだが、何か魘されたように怖い怖いと云って、又ここへ這い出して来たのだ。
おつや あら、なにが怖いのさ。太ァちゃんは不断から強い強いと自慢して、将来は拳闘家になると威張っているんじゃないか。ここにはこの通り、おとっさんもいるし、あたしも居るし、このお客様もおいでなさるし……。狐が来たって、狸が来たって、なにが来たって、びくとする事があるもんかね。
(おつやが「このお客様」と云った時、太吉はまた悸えておつやに獅噛み付く。おつやも気がついて、旅人をみかえる。)
おつや おかしいね、この子は……。(笑う。)こちらが知らない方だもんだから、お前は人みしりをするんだね。こちらは立派な紳士さんで、なんにも怖いことは無いんだよ。
旅人 わたしはさっきから其の子に嫌われているんですよ。
重兵衛 こうして鮓を下すったりなんかするのに、そいつは手も出さなければ、お辞儀もしねえ。仕様のねえ馬鹿野郎だ。
おつや ほんとうに仕様のないお馬鹿さんだね。(鮓を見て。)じゃあ、これはこちらが下すったの。太ァちゃんの代りに、あたしが一つ御馳走になっても好いかしら。
旅人 どうで旨くはありますまいが、さあ、さあ、遠慮なしに食べて下さい。
おつや 行儀の悪い千松でございます。どうぞ御勘弁を……。
(おつやは笑いながら鮓を一つ摘んで食う。重兵衛もまた食う。旅人は烟草を吸いながら眺めている。)
おつや おじさん。後生だからお湯を一杯……。
重兵衛 そうか、そうか。はは、忘れていた。(膳棚へ茶碗を取りにゆく。)
旅人 (思い出したように。)いや、わたしも忘れていた。お茶よりもここに好い飲み物がありますよ。(リュックサックより大罎の酒を取出す。)これはどうです。
おつや あら、お酒……。まあ、素敵だわ。あなたは色々の物を仕込んでお出でなすったのね。
旅人 どこで野宿をするかも知れないと思って、途中で買って来たんですよ。さあ、飲んで下さい。
おつや あたしがお酌をしますから、あなたもお飲みなさいよ。ちょいと、黒いおじさん。
重兵衛 一々黒いおじさんと云うなよ。
おつや だって、おじさんは炭を焼く人じゃあないの。
重兵衛 なるほど炭焼にゃあ相違ねえが、御叮嚀に黒と断るにゃあ及ばねえ。口の悪い奴だ。
おつや 黒がそんなに悪いかしら。天下を望む大伴の黒主と来りゃあ、黒だって役がいいわ。まあ、そんなことより、これ、これ……。(罎をみせる。)又こんなものを頂いたのよ。
重兵衛 ほう、酒か。(顔をくずして。)いよいよ御馳走だな。
おつや さあ、さあ、これから宴会を開きます。幹事諸君もお席へお着きください。はははははは。
(おつやは膳棚の下へ行って罎の口を抜き、小さい盆に乗せて来る。太吉はうろうろして、そのあとへ附いてゆく。)
おつや うるさいねえ、この子は……。糸の切れた奴凧のように、なぜそうからみ付くんだよ。(旅人に。)まあ、あなたから……。こんながらッ八のサアビスじゃあお気に入りますまいけれど……。
旅人 いや、どうも……。(自分の茶碗に受けて少し飲む。)
おつや さあ、おじさん。
重兵衛 (旅人に会釈する。)じゃあ頂きます。(おつやに注がせて飲む。)ああ、結構な酒だ。おまえも御馳走になれよ。
旅人 わたしがお酌をしましょう。
おつや あら、あなたが……。どうも済みません。(旅人の酌で飲む。)ねえ、黒……。おっと、白いおじさん。こうなると、あたし今夜は馬鹿に愉快になっちまったよ。主人と衝突して、さっきから無暗にむしゃくしゃして……。そら、何んとか云うでしょう。ああ、憂欝、憂欝……。その憂欝になっていたのが、ここで斯うして一杯飲んだら、胸がすうとして、急に朗かになって……。ああ、好い心持だ。トテモ愉快だわ。
(おつやは再び重兵衛に酌をする。重兵衛も好い心持そうに飲む。旅人は無言でおつやに酌をする。)
おつや まだ飲ませて下さるの。はい、はい、恐れ入りました。(又飲む。)ねえ、あなた。まだ御挨拶も致しませんでしたが、あたくしはこのおじさんの遠縁にあたる者で、生れは相州小田原在、餓鬼の折から手癖が悪く……じゃあ大変だが、まあ些っとばかりペンペンを仕込まれたのが因果で、先ず小田原を振出しに、東海道を股にかけという程でもございませんが、大磯箱根や湯河原を流れ渡って、唯今では熱海の松の家に巣を食って居ります。俗名はおつや、芸名は金八、あだ名はがらッ八又はがら金……。若しインチキだと思召すなら、念のために役場へ行って、戸籍の謄本をお取りください。あはははははは。
旅人 (羨むように。)あなたは全く朗かですね。
おつや (いよいよ調子が崩れて来る。)ええ、ええ、大いに朗かよ。この頃の流行り言葉で、明朗とか云うんですよ。それでも月に村雲、朗かな人間にも時々に虫の居所の悪いことがあって、主人とも衝突いたします。電車だって自動車だって屡々衝突する世の中に、芸妓が主人と衝突するのも不思議はないでしょう。ねえ、あんた……。あたしはあんたの名を知らないから、まあアンちゃんにして置くわ。ねえ、アンちゃん、そうでしょう。君以て如何となす。あはははははは。
重兵衛 (苦々しそうに。)どうも騒々しいな。好い加減に喋って置け。一杯や二杯の酒で調子の狂うお前じゃあねえが、今夜はよっぽど下地があるな。
おつや おじさんの千里眼は偉い。実は熱海の駅で汽車を待っているあいだに、休み茶屋へ飛び込んで、ビール一本と何だかの罎詰一本、まさかに喇叭は遣らないけれども、息もつかずにぐっと聞こし召して、その勢いで猛烈に、かかる山路へ突貫して来たのよ。そのくらいのアルコールは途中で醒めてしまった筈だが、この狭いところへ這入って、焚火にかッかとあぶられたら、又その酔が一度に発して来て、いよいよ朗かになって来たのよ。なんだか知らないが、今夜はトテモ愉快で嬉しくってならない。さあ、アンちゃん。もう一つお酌をして下さいよ。
(旅人は無言で酌をすれば、おつやは続けて飲む。)
重兵衛 まあ、お客さん。失礼は勘弁して遣ってください。こいつは自分でもいう通り、がら金のがらッ八で……。それだから行く先々で主人と喧嘩の絶え間がないのですよ。商売が商売だから、丸ッきり飲まねえわけにも行くめえが、女のくせに大酒をのむ、掴み合いの喧嘩をする……。
おつや およしなさいよ、他人様の前でそんな色消しなお噂は……。そういうのを流言蜚語とか云って、この頃は警察の取締りが非常にやかましいんですよ。さあ、口塞げに、白いおじさんにももう一杯……。(重兵衛に酌をする。)あたし達ばかり勝手なことを云って飲んでいちゃあ、それこそ失礼だわ。(旅人に。)さあ、あんたも召上れ。何を陰気らしく考えているのよ。
旅人 いや、わたしは飲まないんです。
おつや 飲まないのに、どうしてこんな大罎を買い込んだの。
旅人 水の代りに買ったんです。
おつや 水の代りなら、サイダーでも買えばいいじゃありませんか。嘘、嘘……。あんた屹と飲むのよ。さあ、がら金に恥を掻かせないで、愉快にサアビスをさせて頂戴よ。
旅人 いや、せいぜいが一杯ぐらいで、その上はまったく飲めないんです。わたしは野暮な人間で……。
おつや 嘘つき……。(睨む。)あんたが野暮天か道楽者か、その見分けが付かないようで、憚りながら芸妓の鑑札を持っていられるかって云うんだ。モダンの富士詣でのような風をしていても、あんたがどんな人間か、眼力ひからす松王丸がちゃんと睨んでいるわ。ねえ、アンちゃん。あんたは随分芸妓なんぞに可愛がられたことがあるでしょう。
旅人 (冷かに。)ありませんね。
おつや それじゃあカフェー……。
旅人 (やはり冷かに。)いいえ。
おつや 芸妓にも女給さんにも御縁がないの。
旅人 ありません。(重兵衛をさして。)今もこちらに話したんですが、わたしは我ながら哀れな男ですよ。
おつや あんたの御商売は……。
旅人 東京でつまらない商いをしていましたが、それももう止めてしまって……。(我を嘲るように。)まあ、与太者かルンペンだと思ってください。
おつや ルンペンはよかったね。まあ、なんとでも猫をかぶっていらっしゃい。(笑う。)あんたは野暮な人間で、哀れな男で、与太者で、ルンペンで、まことにお羨ましゅうございます。そうして、あんたはどっちへいらっしゃるの。そんな拵えをして山登りでもなさるの。
(旅人は無言で焚火をみつめている。)
重兵衛 これから箱根へ出て、山越しに甲州の方へ行きなさるのだとよ。
おつや あら……。(仰山らしく。)まあ、冒険だわねえ。それにしても、これから夜通しで山越しは、どうかと思うわ。木賃ホテル御一泊のつもりで、今夜はここへお泊りなさいよ。
重兵衛 むむ。おれもそう思っていたのだ。何も怖い物は出やあしめえと思うけれど、なにしろ山の中の夜道は不用心で、足を一つ踏みはずしても大変だ。(旅人に。)この通りの狭い小屋で、寝る所も無し、貸してあげる夜具もありませんが、焚火のそばで居眠りでもして、夜が明けてからお立ちなすったら何うですね。
旅人 さあ。(かんがえている。)
おつや あんた。素直にオーケーとお云いなさいよ。邪魔なおじさん達を先へ寝かして仕舞って、あんたとあたしと差向いで、ゆっくり夜明しをしましょうよ。なにしろ舞台がこんな所で、ふくろの鳴き声や狸囃子の鳴物じゃあ、しんみりしたお芝居にゃあなりませんけれど、漫才の掛合だと思えばいいでしょう。
(旅人は無言で考えている。)
おつや (摺り寄る。)あたしがだんだん陽気になるのに、あんたはだんだん陰気になっちゃあ、お附合いが出来ないじゃありませんか。ねえ、あんた。袖ふり合うも他生の縁とかいうから、そんなにあたしを嫌わなくっても好いでしょう。今夜はここで仲好くお話をしましょうよ。(笑いながら。)あんたはこんな唄を御存じ……。あの時が無かったら、あなたはあたしの物じゃない──。(旅人の背中を軽く打つ。)はははははは。
重兵衛 よく笑う女だな。お前ひとりで喋っているので、騒々しくてならねえ。いくら山の中の一軒家でも、ちっとは遠慮するものだ。おれはお客様と静に話をしているから、おまえのようながらッ八は、太吉と一緒に奥へ行って、早く寝てしまえよ。
おつや あら、あたしを先へ寝かそうと云うの。この夜の長いのに、独り者が今から寝られますかよ。(旅人に。)あんた、何時……。
旅人 (腕時計をみる。)九時二十分過ぎです。
おつや 九時二十分……。あたし達にはまだ宵の口だわ。それにしても太ァちゃんは眠いだろうね。(うしろを見かえる。)あら、おかしな子だねえ。さっきから何だか邪魔だと思ったら、あたしの帯にしっかりと獅噛み付いて、これが本当の腰巾着というんだね。(鮓を指さして。)お前、これを食べないのかい。さあ、おたべよ。
(おつやは海苔巻を一つ取って遣る。太吉は旅人の顔をぬすみ視ながら頭を振る。)
おつや 忌かい。たべないのかい。(これも旅人をみかえる。)この子はやっぱり人みしりをしているんだねえ。じゃあ、もうお寝な。
重兵衛 そんな奴はあっちへ連れて行って、寝かしてくれ。
おつや (太吉に。)さあ、お客さまにお休みなさいをしておいでよ。
(おつやは太吉の手を取って、旅人の前へ引出そうとすれば、太吉は顫えておつやに縋りつく。)
太吉 怖いよう。
おつや なにが怖いんだよ。意気地無しだねえ。
重兵衛 (客の手前、気の毒になって。)ええ、もう好いから早く連れて行け、連れて行け。
おつや さあ、お出で、お出で……。
(おつやは太吉を引立てて、上のかたの障子の中に入る。山風の音。)
旅人 (ひとり言のように。)風が出て来た。
重兵衛 おお、窓から風が這入る……。道理で、さっきから薄ら寒いと思った。
(重兵衛は立って、下のかたの窓を閉めようとする時、一としきり強い山風の音。ランプの火が消える。)
重兵衛 (窓をしめながら。)ああ、いけねえ。灯を消されてしまった。
おつや (障子の中にて。)あら、ランプが消えたの。
(土間は暗く、焚火の光もやや薄くなる。山風の音。その薄暗い中で、おつやは障子をあけて出かかりしが、俄にぞっとしたように、框に腰をおろしたまま暫く無言。重兵衛は再びランプを点せば、土間は明るくなる。)
重兵衛 (炉の前に戻る。)ここらの癖で、ときどきに強い山風が吹き出して来るのですが、又すぐに止みますよ。(炉に枝をくべる。)併し風が出ると寒くなります。馴れない方はかぜを引かないように気をつけて下さい。
旅人 (肩をすくめる。)まったく寒くなりましたね。
重兵衛 (酒を把る。)どうです、寒さ凌ぎに……。
旅人 いや、わたしは……。(頭をふる。)あなた、みんな飲んでください。
重兵衛 そうですか。お客様をそっち退けにして、こっちばかりが勝手に飲んだり食ったり……。はは、どうも済みません。(手酌で飲む。)
(このあいだに、おつやは何か思案し、そっと正面の出入口のかたへ行く。)
おつや (小声で。)おじさん。
重兵衛 なんだ。
おつや (入口の戸をあけながら。)ちょいと……。
(重兵衛をよび出して、おつやは逃げるように小屋の外へ出る。重兵衛も出て、下のかたへ行く。舞台は半廻しになりて、小屋の外。月のひかりに照されたおつやの顔、今までとは別人のように蒼ざめている。)
重兵衛 わざわざ表へ呼び出して、なんの用だ。
(おつやは内を指さして囁けば、重兵衛は笑い出す。)
重兵衛 はは、ばかを云え。
おつや (小声に力を籠めて。)でも、あの人はどうも可怪いわ。太ァちゃんが無暗にあの人を怖がるのは、なぜだろうと思っていたんだが、あたしも今、急に怖くなったわ。
重兵衛 なぜだ。
おつや (異常の恐怖に襲われたように。)あのランプが風で消えて……。家のなかが急に薄暗くなったでしょう。
重兵衛 むむ。
おつや その時にあたしは障子をあけて出ようとすると、焚火の前にいるあの人の影が……。トテモ凄いんで、ぞっとしたのよ。
重兵衛 影が……。(首をかしげる。)影が薄いというのか。
おつや 影が薄いんじゃない、凄いのよ。太ァちゃんの怖がるのも無理はない。あの人、確に唯の人じゃあないわ。
重兵衛 でも、まさかに化物じゃあるめえ。ここらで狐や狸が化けたという話は聞かねえからな。はははははは。
おつや 叱っ、叱っ。(制して。)なにしろ気味が悪いから、早く追い出して頂戴よ。
重兵衛 おまえも泊れと云ったじゃあねえか。
おつや (あわてて。)取消し、取消し……。そんな事はもう断然取消しょ。あんな人と一緒に泊るのは真平だわ。あたしも商売で、今まで色々の人にも出逢ったけれど、あんな凄い人を唯の一度も見たことがない。まさかに化物でもないだろうけれど、どうしても唯の人間じゃあないわ。
重兵衛 (まだ疑うように。)そんな人には見えねえが……。凄い凄いと云って、一体どんなに凄いんだよ。
おつや それがさ。どうと云って、口じゃあ話が出来ないけれど……。なにしろトテモ凄いのよ。さすがのがら金も総身に水を浴びせられたように、ぞっとしたわ。太ァちゃんだって、怖い怖いと云って、蒲団をかぶって顫えているのよ。
重兵衛 子供は兎も角も、お前までが顫え声になって……。(又かんがえる。)あんなおとなしやかな人がどうして凄いのか、おれにゃあさっぱり呑み込めねぇ。
おつや おじさんは無神経だから、なんにも感じないのよ。じれったいねぇ。
重兵衛 そう騒ぐな。まあ、内へ這入って様子を見届けよう。
おつや じゃあ、おじさんだけお這入んなさいよ。あたしはここにいるから……。
重兵衛 ここに立っていられるものか。まあ、這入れよ。(手を把る。)
おつや (身ぶるいして。)忌よ、忌よ。どうしてあんな人のそばへ行かれるもんか。夜が明けけるまでここに立っているわ。
重兵衛 こんな所にいると、かぜを引くよ。
おつや (泣声になって。)かぜを引いても、死んでも、かまわないと云うのに……。(重兵衛を突き飛ばす。)
重兵衛 (呆れたように。)まるで気違げえのようだな。じゃあ、まあ、勝手にしろ。
(重兵衛はそのまま内へ引込むと、舞台は元に戻る。おつやは抜き足をして窓の下にゆき、閉めたる戸の外から、内の会話をぬすみ聴くように耳をすましている。山風の音。旅人は炉のまえを動かず、何かじっと考えていたるが、重兵衛の入り来りしを知りて顔をあげる。)
旅人 風はまだ吹いているようですね。
重兵衛 まだ吹いていますよ。(炉のまえに腰をかける。)
旅人 おつやさんとか云う人はどうしました。
重兵衛 おつやは……。(すこし云い淀んで。)そこらをうろうろしているようです。
旅人 月を見ているんですか。
重兵衛 そうかも知れません。あいつも気まぐれ者ですからね。
旅人 (重兵衛の顔をみつめる。)里へ下ったんじゃありませんか。
重兵衛 いいえ、そんな事はありません。直ぐに帰って来ますよ。(云いながら旅人に眼をつける。)
旅人 そうですか。(考える。)あなたもおつやさんもここへ泊れと云って下すったが、ほんとうに泊めてくれますか。
重兵衛 (曖昧に。)ええ。
旅人 だんだんに夜は更ける、風は寒くなる。これから山越しをするのも難儀ですから、いっそ今夜は御厄介になりましょうか。
重兵衛 (やはり曖昧に。)そうですか。
(おつやはそれを洩れ聞いて俄に決心し、正面の入口へまわって、戸を少し明けながら内を窺っている。)
旅人 (遠慮勝に。)泊めて貰えませんか。御迷惑ですか。
重兵衛 迷惑というわけでも無いのですが……。
おつや (思い切って、戸をあけて入る。)おじさん。あたしもさっきお泊んなさいと云ったけれど、いけないわ。
旅人 いけませんか。
おつや (努めて勇気を振い起して。)いけませんわ。よく考えてみると、警察がやかましいんですよ。
旅人 (眼をかがやかして。)警察が……。
おつや ええ。宿屋でもない家で、知らない人をうっかり泊めると、警察が非常にやかましいんです。ねえ、おじさん。(眼で知らせる。)そうだわねえ。
重兵衛 (曖昧に。)むむ。
おつや それですから、折角ですがお断り申しますよ。
(おつやの態度が一変したのに、旅人もやや意外らしく、だまって何か考えている。障子の内にて太吉の声。)
太吉 怖いよ。怖いよう。
おつや (ぞっとしたように。)あれ、太ァちゃんが又うなされている……。どうしたんだろうねえ。
(おつやは重兵衛に向って、早く旅人を追い出せと眼で催促する。重兵衛はまだ気の毒そうに躊躇している。それを覚ったように、旅人は炉の前を離れる。)
旅人 いや、判りました。警察がやかましいと云うのでは仕方がありません。これから直ぐに出かけましょう。
重兵衛 (いよいよ気の毒そうに。)お出かけですか。
おつや (追い出すように。)箱根には宿屋が幾軒もありますから、夜の更けないうちに早くおいでなさるが好うござんすよ。
旅人 (さびしく笑う。)宿屋へも泊らずに、夜通し歩くことにしましょう。(リュックサックを背負いて身支度する。)いや、どうもお邪魔をしました。
重兵衛 わたし達こそ御馳走になりました。じゃあ、よく気をつけてお出でなさい。
おつや 左様なら。
旅人 どなたもお休みなさい。
(旅人は小屋を出て、上のかたの奥へ去る。重兵衛も送り出して見送る。梟の声。)
おつや (小声で。)おじさん……。もう行ってしまったの。
重兵衛 むむ。(炉の前へ引返して来る。)おまえは無暗に追い出したが、おれは何だか気の毒でならねえ。
おつや 冗談じゃあない。あんな人に、いつまでも居据わっていられて堪るもんか。(土瓶の茶をついで飲む。)ああ、忌だ、忌だ。ほんとうに寿命を縮めてしまった。
太吉 (そっと障子をあける。)怖い人、行っちまったかい。
おつや あら、また起きて来たの。、もう大丈夫だから、こっちへおいでよ。
(太吉は土間へ出て来る。重兵衛は無言で考えている。)
おつや 真逆これに毒が這入っているわけでもあるまい。もう誰もいないから、安心しておたべよ。
(おつやは海苔巻の鮓を取ってやれば、太吉は平気で食う。)
おつや 太ァちゃん。お前どうして、あんなに怖がったの。あの人がなぜ怖いの。
太吉 怖いよ。
おつや どうして怖かったんだよ。
太吉 怖かったよ。
重兵衛 (おつやに。)そういうお前はどうして怖かったのだ。
おつや さあ、なんと云っていいか。あたしにもはっきりとは云えないけれど……。ねえ。太ァちゃん。怖かったねえ。
太吉 むむ。怖かったよ。
重兵衛 (腹立たしそうに。)どっちも夢を見ているようで、何がなんだか云うことが判らねえ。泊めて遣ってもいいものを、怖い怖いと無理に追い出してしまって、あの人も今頃は山道で困っていなさるだろう。気の毒を通り越して、悪いことをしたような気がしてならねえ。
おつや 好いことか悪いことか知らないけれど、あんな気味の悪い人はジャンジャン追っ払ってしまった方が無事だわ。
重兵衛 不人情なことを云うなよ。
(重兵衛は気が済まないような顔をして、炉に枝をくべている。おつやは太吉に茶を飲ませている。梟の声。下のかたより村の青年団員二人、詰襟の洋服に巻ゲートルの姿にて、灯を入れない提灯を持ちて出づ。)
青年甲 今晩は……。
おつや あら、又だれか来たよ。
重兵衛 (立って戸をあける。)おお、青年団の人達か。まあ、こっちへ這入りなさい。
(青年団二人は内に入る。)
おつや いらっしゃい。皆さんはどうして今頃……。
青年甲 実は駐在所から頼まれてね。
青年乙 こっちの方へ捜索に来たんだ。
重兵衛 だれか家出でもしたのかね。
青年甲 人殺しの犯人が今夜この山へ入り込んだと云うのだ。
重兵衛 (おどろいて。)人殺しか。そりゃあ大変だ。
おつや あ、ちょいと……。(進み出る。)名前は知らないけれども、その人は洋服を着た二十五六の、色の蒼白いような、ちょいと様子の好い人じゃあないの。
青年甲 そう、そう。なんでもそんな男だそうだ。
重兵衛 一体どこで人殺しをしたのだ。
青年甲 その男は東京の日本橋で稲川という酒屋の息子だが、先月の十七日、旧暦の十五夜の晩に、なじみのカフェーの女給を向嶋へ連れ出して、ピストルで撃ち殺したんだ。
重兵衛 カフェーの女給を……。ピストルで殺した……。
おつや まあ呆れたわねえ。なんで女給を殺したんだろう。いずれ色恋のいきさつでしょうね。
青年乙 まあ、そうだろうな。男は自分の店から千円ほどの金を持ち出して、女を殺すと直ぐに姿を変えて、どこへか逃亡してしまったので、東京の警察から逮捕の依頼が来ていたんだ。
青年甲 それが一月ほども立ってから、その犯人がここらへ立廻ったらしい形跡があるので、警察の方でも注意していると、それによく似た若い男が今夜この山へ這入ったのを見た者があると云うんで、駐在所の吉村さんが直ぐに出かけたから、わたし達も手分けをして捜索に来たんだが、そんな男はここへ来なかったね。
重兵衛 え。(返事に躊躇する。)
青年乙 今の話の様子じゃあ、つうちゃんはそれらしい男を見たんだろう。
おつや ええ、見ましたよ。山づたいに箱根へまわると云って、たった今ここを出て行ったんだから、まだ遠くは行かないでしょうよ。
青年甲 重さん、ほんとうかい。
重兵衛 (仕方なしに。)むむ、そうだ。
おつや (亢奮して。)パチンコなんぞを振りまわして、むやみに女を撃ち殺すなんて、そんな乱暴な奴は早く取ッつかまえて遣る方がいいわ。逃がして仕舞うといけないから、直ぐに追っかけてお出でなさいよ。さあ、早くおいでなさいよ。
青年甲 じゃあ、行こう。
青年乙 むむ。行こう。
(甲乙は行こうとする時、奥のかたにてピストルの音きこゆ。人々は顔をみあわせる。)
青年甲 あ、ピストルだ。
青年乙 いよいよあいつに違いないぞ。
(甲乙は外へ出て、上のかたの奥へ走り去る。おつやは入口から見送る。つづいてピストルの音。おつやは慌てて戸をしめる。)
おつや あら、また撃った……。どこに隠していたか知らないが、あの人がパチンコなんぞを持っていようとは思わなかったが……。
重兵衛 むむ。おれも気が注かなかった。いや、それよりも……。(考える。)あんなおとなしい人が人殺しのお尋ね者とは、今まで些っとも気が注かなかった。
おつや それだから、あたしがトテモ凄いと云ったのよ。(思い出したようにぞっとして。)ねえ、おじさん。あたし達の眼にはなんにも見えなかったけれど……。あの人のうしろには殺された女の魂が、影のように附き纏っていたのかも知れないわ。
重兵衛 (又かんがえる。)そんな事もあるまいよ。
おつや それでなけりゃあ死神だわ。あの人、いくら逃げまわっても、どうせ助からない人ですもの。行く先々へ死神が附いて廻っているのよ。
重兵衛 女の魂だの、死神だのと……。ここらでも今時そんな事をいう者はねえが……。
おつや いいえ、そうよ。屹とそうよ。あの人は何かに執り着かれているに相違ないわ。(太吉の手を把る。)太ァちゃん。お前、なにか見なかったかい。あの人のうしろに……何かぼんやりと……影のような物でも見えやあしなかったかい。
太吉 (頭をふる。)知らないよ。
おつや それでも怖かったろう。
太吉 (うなずく。)ああ、怖かったよ。あの人、屹とお化けだよ。
おつや そうだ、そうだ。おじさんは今でも平気でいるようだけれど、どう考えてもあの人は唯の人じゃあない。太ァちゃんとあたしは本当に怖い思いをしたねえ。
重兵衛 (だんだんに釣込まれて。)今夜にかぎって、太吉が無暗にあの人を怖がるのは、なんだか不思議だと思っていたが……。やっぱりあの人には……。何かの影が附いていたのかなあ。
おつや ああ、忌だ、忌だ。(そこらを見まわして。)あたしはまだ気味が悪いわ。
(暫しの沈黙。梟の声。やがて入口の戸をたたく音。おつやはぎょっとしたように、太吉の手をぐいと曳いて、上のかたに身を寄せる。)
重兵衛 (これも少し警戒して。)だれだ……。どなた……。
巡査 僕だ、吉村だ。
重兵衛 ああ、吉村さん……。(直ぐに戸をあける。)
巡査 (内に入る。)今ここへ負傷者を運んで来るから、兎もかくも土間へ入れて置いてくれないか。
重兵衛 怪我人ですか。
巡査 むむ。怪我人と云っても、実はもう死んでいるのだ。
おつや だれが死んだんですの。
巡査 人殺しの犯人だ。東京でカフェーの女給を殺して、方々を逃げまわっていた奴を、そこで見つけて取押えようとすると、僕にむかってピストルを一発……。
おつや まあ。
巡査 幸いに弾は外れたが……。当人ももう覚悟したらしい。今度は自分の額を撃って倒れた。
重兵衛 (顔をしかめて。)もう助かりませんか。
巡査 駄目だ。(頭をふる。)急所だからね。なにしろ青年団の人達がここへ運び込んで来るから、些っとのあいだ頼むよ。
(云いすてて巡査は出てゆく。重兵衛とおつやは云い知れぬ恐怖に囚われたように、暫く無言。梟の声。)
おつや (小声で。)おじさん。あの人はやっぱり何かに執り着かれていたのよ。
重兵衛 そうかなあ。(嘆息して。)ああ、なんにしても忌な晩だ。
(二人は顔をみあわせる。薄く山風の音。梟の声。焚火はだんだんに薄暗くなる。)
底本:「飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選」メディアファクトリー
2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
初出:「舞台」
1936(昭和11)年7月号
入力:川山隆
校正:江村秀之
2013年7月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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