猥褻独問答
永井荷風
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○猥䙝なる文学絵画の世を害する事元より論なし。書生猥䙝なる小説を手にすれば学問をそつちのけにして下女の尻を追ふべく、親爺猥䙝なる画を見れば忽ち養女に手を出すべし。懼れざるべけんや。
○然らば何を以てか猥䙝なる文学絵画といふや。人をして淫慾を興さしむるものをいふなり。人とは如何なる人を指せるや。社会一般を指すなり、十人が十人の事をいふなり。然らばここに一冊子あり。これを読みて十中五人はあぢな気を興し五人は一向平気ならば如何となす。十中の五人をして気を悪くせしむるものはこれ明に猥䙝のものなり。然らば十中の一人独り春情を催したりとせば如何。これ猥䙝の嫌ひあるものなり。猥䙝の嫌ひあるもの果して全く猥䙝なるや否や。凡そ徳を尚ぶものは悪の大小を問はざる也。凡て不善に近きものを遠ざく。何ぞ猥䙝の真偽を究むるの要あらんや。
○文学美術にして猥䙝の嫌ひあるもの甚だ多し。恋愛を描ける小説、婦女の裸体を描ける絵画の類、悉くこれを排くべき歟。悉くこれを排けて可なり。善を喜ぶのあまり時に悪を憎む事甚しきに過ぐると、悪を憐みて遂に悪に染むと、その弊いづれか大なるや。猥䙝に近きものを排くるは人をして危きに近よらしめざるなり。
○危きに近よらざるは好し。然れども危きを恐れて常に遠ざかる事の甚しきに過ぎんか。一度誤つて近けば忽陥つて復救ふべからざるに至るの虞なからんか。厳に過ぐるの弊寛に流るるの弊に比して決して小なりといふを得んや。
○およそ事の利害にして相伴はざるは稀なり。倹約は吝嗇に傾きやすく文華は淫肆に陥りやすく尚武はとかくお釜をねらひたがるなり。尚武の人は言ふおかまは武士道の弊の一端なり。白璧の微瑕なり。一の弊あるも九の徳あらばその弊何ぞ言ふに足らんや。風流の人は言ふ風流人の淫行は人間の淫行にして野獣の淫に非らず、人情の美を基とするを忘れざるなり。文明の人は淫するも時あれば必ず悟る。悟れば再びその愚を反復する事なし。武骨一片の野暮一度淫すれば必ず溺る。溺れて後大に憤つて治郎左衛門をきめるなり。淫事の恐るべきは武骨一片の野暮なるが故にして淫の淫たるが故に非らざる也と。それ果していづれか是なる。
○世界中猥䙝の恐れられたる我国の如く甚しきは稀なるべし。公設展覧会出品の裸体画は絵葉書とする事を禁ぜられ、心中情死の文字ある狂言の外題は劇場に出す事を許さず。当路の有司衆庶のこれがために春情を催す事を慮るが故なり。然ればかくの如きの禁令は日本国民の世界中最助兵衛なる事を証するものならずや。忠君愛国は久しく日本国民の特徴なり茲にまた助兵衛の特徴を加へんか余りに特徴の多きに堪えざるの観あり。
○市中電車の雑沓と動揺に乗じ女客に対して種々なる戯をなすものあるは人の知る処なり。釣皮にぶらさがる女の袖口より脇の下をそつと覗いて独り悦に入るものあり。隣の女の肩にわざと憑り掛りあるいは窃に肩の後または尻の方へ手を廻して抱くとも抱かぬともつかぬ変な事をするものあり。女の前に立ちて両足の間に女の膝を入れて時々締めにかかる奴あり。これらの例数ふるに遑あらず。これ助兵衛の致す処か。飢ゑたるの致す処か。助兵衛は飽きてなほ欲するものをいふなり。飢ゑたるものは食を選ばず唯無暗にがつがつするなり。飽けば案外おとなしくなるなり。
○縁日の夜、摺違ひに若き女のお尻を抓つたりなんぞしてからかふ者あり。これからかふにして何もその女を姦せんと欲するがために非ず。さういふ男は女郎屋なぞに上ればかへつてさつぱりしたものなり。江戸児の職人なぞにこの類多し。助兵衛にあらず飢ゑたるにもあらずして女をからかふは何の故ぞや。唯面白ければなり。猥䙝は上下万民に了解せらるる興味なり。かくの如く平民的平等的なる興味また他に求むべからず。救世軍の日本に来るやまづ吉原の娼妓によつて事をなす。天下普く喜んでその事の是非を論ぜり。当路の官吏しばしば治績を世に示さんとするや必ず文学美術演劇の取締を厳にし加ふるに淫売狩を以てす。皆策の得たるものといふべきなり。
○人猥䙝を好まば宜しく猥䙝の戒むべき事を論ずべし。これを奨励するとこれを禁圧するとけだしその結果や一たり。共にその事を口にして常にその事に親しむ事を得ればなり。改良といひ矯正と称し進化と号するは当今の流行なり。欠点を挙げ弊害を論ずる事を好むはまたこれ日本人の特徴なり。猥䙝の害は論じやすし。論ずれば聴くもの必ず悦んで堵をなす。誰か強いてその利を論ずるの愚をなさんや。然れども害あるものもし用ゆる事宜しければ転じて利となる事無きに非らず。煙草にも徳あり酒にも功あり。
○猥䙝を転じて滑稽となせしは天明の狂歌なり。寄筍恋下女恋等の題目について看るべし。猥䙝をして一味いひがたき哀愁の美たらしめしは為永一派の人情本なり。猥䙝を基礎として人生と社会を達観したるは川柳『末摘花』なり。我国木版術の精巧は春画を措きて他に看るべからず。毛刻りは鼠の歯を以てなすものなりといふ。されど記者いまだ真偽を確めしにあらず。かかる事は確めざるをよしとす。
底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月8日作成
2011年11月27日修正
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