矢はずぐさ
永井荷風
|
『矢筈草』と題しておもひ出るままにおのが身の古疵かたり出でて筆とる家業の責ふさがばや。
さる頃も或人の戯にわれを捉へて詰りたまひけるは今の世に小説家といふものほど仕合せなるはなし。昼の日中も誰憚るおそれもなく茶屋小屋に出入りして女に戯れ遊ぶこと、これのみにても堅気の若きものの目には羨しきかぎりなるべきに、世の常のものなれば強ひても包みかくすべき身の恥身の不始末、乱行狼藉勝手次第のたはけをば尾に鰭添へて大袈裟にかき立つれば世の人これを読みて打興じ遂にはほめたたへて先生と敬ふ。実にや人倫五常の道に背きてかへつて世に迎へられ人に敬はるる卿らが渡世こそ目出度けれ。かく戯れたまひし人もし深き心ありてのことならんか。この『矢筈草』目にせば遂にはまことに憤りたまふべし。『矢筈草』とは過つる年わが大久保の家にありける八重といふ妓の事を記すものなれば。
八重その頃は家の妻となり朝餉夕餉の仕度はおろか、聊かの暇あればわが心付かざる中に机の塵を払ひ硯を清め筆を洗ひ、あるいは蘭の鉢物の虫を取り、あるいは古書の綴糸の切れしをつくろふなど、余所の見る目もいと殊勝に立働きてゐたりしが、故あつて再び身を新橋の教坊に置き藤間某と名乗りて児女に歌舞を教ゆ。浄瑠璃の言葉に琴三味線の指南して「後家の操も立つ月日」と。八重かくてその身の晩節を全うせんとするの心か。我不レ知。
そもそも小説家のおのれが身の上にかかはる事どもそのままに書綴りて一篇の物語となすこと西洋にては十九世紀の始つ方より漸く世に行はれ、ロマンペルソネルなどと称へられて今にすたれず。即ちゲーテが作『若きウェルテルの愁』、シャトオブリヤンが作『ルネエ』の類なり。わが国にては紅葉山人が『青葡萄』なぞをやその権輿とすべきか。近き頃森田草平が『煤煙』小粟風葉が『耽溺』なぞ殊の外世に迎へられしよりこの体を取れる名篇佳什漸く数ふるに遑なからんとす。わけても最近の『文芸倶楽部』大正四年
十一月号に出でし江見水蔭が『水さび』と題せし一篇の如き我身には取分けて興深し。されば我今更となりて八重にかかはる我身のことを種として長き一篇の小説を編み出さん事かへつてたやすき業ならず。小説を綴らんには是非にも篇中人物の性格を究め物語の筋道もあらかじめは定め置く要あり。かかる苦心は近頃病多く気力乏しきわが身の堪ふる処ならねば、むしろ随筆の気儘なる体裁をかるに如かじとてかくは取留めもなく書出したり。小説たるも随筆たるも旨とする処は男女の仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬も喰はぬ話をするなり。犬は喰はねど煩悩の何とやら血気の方々これを読みたまひてその人もし殿方ならばお客となりて芸者を見ん時、その人もし芸者衆ならばお座敷かかりてお客の前に出でん時、前車の覆轍以てそれぞれ身の用心ともなしたまはばこの一篇の『矢筈草』豈徒に男女の痴情を種とする売文とのみ蔑むを得んや。
矢筈草は俗に現の証拠といふ薬草なること、江戸の人山崎美成が『海録』といふ随筆第五巻目に見えたり。曰く、「矢筈草俗に現の証拠といふこの草をとりみそ汁にて食する時は痢病に甚妙なり又瘧病及び疫病等にも甚効あり云々」。
この草また御輿草と呼ぶ。萩の家先生が辞典『ことばのいづみ』を見るに、「げんのしようこ牻牛児。植物。草の名。野生にして葉は五つに分れ鋸歯の如き刻みありて長さ一寸ばかり、対生す。夏のころ梅の如き淡紅の花を開き後莢をむすび熟するときは裂けて御輿のわらびでの如く巻きあがる。茎も葉も痢病の妙薬なりといふ。みこしぐさ。」とあり。我この草のことをば八重より聞きて始めて知りしなり。八重その頃明治四十
三、四年新橋の旗亭花月の裏手に巴家といふ看板かかげて左褄とりてゐたり。好まぬ酒も家業なれば是非もなく呑過して腹いたむる折々日本橋通一丁目反魂丹売る老舗その名失
念したりに人を遣して矢筈草購はせ土瓶に煎じて茶の代りに呑みゐたりき。われ生来多病なりしかどその頃は腹痛む事稀なりしかば八重が頻にかの草の効験あること語出でても更に心に留むる事もなくて打過ぎぬ。然るをそれより三、四年にして一夜激しき痢病に襲はれ一時は快くなりしかど春より夏秋より冬にと時候の変り目に雨多く降る頃ともなれば必ず腹痛み出で鬱ぎがちとはなりにけり。かつては寒夜客来テ茶当ツレ酒ニ竹罏湯沸テ火初メテ紅ナリ〔寒夜に客来りて茶を酒に当つ 竹罏に湯沸きて火初て紅なり〕といへる杜小山が絶句なぞ口ずさみて殊更煎茶のにがきを好みし朱泥の茶缾、今は矢筈草押込みて煎じつめ夜ごと眠につく時持薬にする身とはなり果てけり。
八重近頃は身もいとすこやかになりしと聞く。さらば今は矢筈草も用なきこそ目出度けれ。
およそ人の一生血気の盛を過ぎて、その身はさまざまの病に冒されその心はくさぐさの思に悩みて今日は咋日にまして日一日と老い衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし。
宿昔青雲ノ志、蹉跎ス白髪ノ年、誰カ知ル明鏡裏、形影自ラ相憐ム〔宿昔 青雲の志。蹉跎す 白髪の年。誰か知る明鏡の裏。形影自ら相憐む〕とはこれ人口に膾炙する唐詩なり。鏡に照して白髪に驚くさまは仏蘭西の小説家モオパサンが『終局』といふ短篇にも書綴られたり。
われ髪いまだ白からず。しかも既にわれながら老いたりと感ずること昨日今日のことにはあらず。父を喪ひてその一週忌も過ぎける翌年の夏の初、突然烈しき痢病に冒され半月あまり枕につきぬ。元来酒を嗜まざれば従つて日頃悪食せし覚えもなし。強ひて罪を他に負はしむれば慶応義塾にて取寄する弁当の洋食にあてられしがためともいはんか。そも三田の校内にては奢侈の風をいましめんとて校内に取寄すべき弁当にはいづれもきびしく代価を制限したり。されば料理の材料おのづから粗悪となりてこれを食へば終日胸苦しきを覚ゆ。紅がらにて染めたるジャム鬢付のやうなるバタなんぞ見る折々いつも気味わるしと思ひながら雨降る日なぞはつい門外の三田通まで出で行くに懶く、その日も何心なく一皿の中少しばかり食べしがやがて二日目の暁方突然腸搾らるるが如き痛に目ざむるや、それよりは夜の明放るるころまで幾度となく廁に走りき。
その頃わが住める家はいと広かりき。われは二階なる南の六畳に机を置き北の八畳を客間、梯子段に臨む西向の三畳を寝間と定めければ、幾度となき昇降りに疲れ果て両手にて痛む下腹押へながらもいつしかうとうととまどろみぬ。目覚れば早や午に近し。召使ふものの知らせにて離れの一間に住み給ひける母上捨て置きてはよろしからずと直様医師を呼迎へられけり。われは心窃に赤痢に感染せしなるべしと思ひ付くや人の話にてこの病の苦しさを知り心は戦々兢々たり。幸にして医師の診断によればわが病はかかる恐しきものにてはなかりしかど、昼夜絶る間なく蒟蒻にて腹をあたためよ。肉汁とおも湯の外は何物も食ふべからず。毎朝不浄のもの検査すべければ薬局に送り届けよなぞ、医師はおごそかにいひ置きて帰り行きぬ。わが家には父いませし頃より二十年あまりも召使ふ老婆あり。このもの医師の命ぜし如く早速蒟蒻あたためて持来りしかばそれをば下腹におし当てて再びうとうとと眠りき。
南向の小窓に雀の子の母鳥呼ぶ声頻なり。梯子段に誰れやら昇り来る足音聞付け目覚むれば老婆の蒟蒻取換へに来りしにはあらで、唐桟縞のお召の半纏に襟付の袷前掛締めたる八重なりけり。根下りの丸髷思ふさま髱後に突出し前髪を短く切りて額の上に垂らしたり。こは過る日八重わが書斎に来りける折書棚の草双紙絵本の類取卸して見せける中に豊国が絵本『時勢粧』に「それ者」とことわり書したる女の前髪切りて黄楊の横櫛さしたる姿の仇なる、今時の芸者もかうありたしとわれの戯れにいひけるを、何事も気早の八重、机の上にありける西洋鋏手に取るより早く前髪ぷツつり切落し、鏡よ鏡よとて喜びさわぎしその名残りなりかし。
八重その年二月の頃よりリウマチスにかかりて舞ふ事叶はずなりしかば一時山下町の妓家をたたみ心静に養生せんとて殊更山の手の辺鄙を選び四谷荒木町に隠れ住みけるなり。わが家とは市ヶ谷谷町の窪地を隔てしのみなれば日ごと二階なるわが書斎に来りてそこらに積載せたる新古の小説雑書のたぐひ何くれとなく読みあさりぬ。彼女元北地の産。年十三にして既に名をその地の教坊に留めき。生来文墨の戯を愛しよく風流を解せり。読書に倦めば後庭に出で菜圃を歩み、花を摘みて我机上を飾る。今わが家蔵の古書法帖のたぐひその破れし表紙切れし綴糸の大方は見事に取つぐなはれたる、皆その頃八重が心づくしの形見ぞかし。八重かくの如く日ごとわが家に来りて夕暮近くなる時は、われと共に連れ立ちて芝口の哥沢芝加津といふ師匠の許まで端唄ならひに行くを常としたり。
前の夜も哥沢節の稽古に出でて初夜過る頃四ツ谷宇の丸横町の角にて別れたり。さればわが病臥すとは夢にも知らず、八重は襖引明けて始めて打驚きたるさまなり。
八重申しけるはわが身かつて伊香保に遊びし頃谷間の小流掬み取りて山道の渇きをいやせし故か図らず痢病に襲はれて命も危き目に逢ひたる事あり。その後は幾年月人の酒興を助くる家業の哀れはかなき、その身の害とは知りながら客の勧むる盃はいなまれず、家に帰らば今宵もまた苦しみ明すべしと心に泣きつつも酒呑みてくらせし故腹の病はよく知りたり。養生の法とても、わが身かへつて医師にまさりて明ならん。医のととのへ勧むる薬は元より怠り給ふな。さりながら古老の昔よりいひ伝ふるものには何事に限らず霊験ある事あり。わが身いまだ妓籍を脱せざりし頃絶えず用ひたるかの矢筈草今も四谷の家にあり。煎じて参らすべければ聊かその匂ひの悪しきを忍びたまへとて、直に人を走せて矢筈草取寄せ煎じけり。
われ生れて煎薬といふもの呑みたるはこれが始めてなり。この薬たしかに効能あるやうに覚えければその後は風邪心地の折とてもアンチフェブリンよりは葛根湯妙振出しなぞあがなひて煎じる事となしぬ。例へば雪みぞれの廂を打つ時なぞ田村屋好みの唐桟の褞袍に辛くも身の悪寒を凌ぎつつ消えかかりたる炭火吹起し孤燈の下に煎薬煮立つれば、夜気沈々たる書斎の中に薬烟漲り渡りて深けし夜のさらにも深け渡りしが如き心地、何となく我身ながらも涙ぐまるるやうにてよし。
八重が心づくしにて病はほどもなく癒えけり。芍薬の花散りて世は早くも夏となりぬ。梅雨のあくるを待ち兼ねてその年の土用に入るやわれは朝な朝な八重に誘はれて其処此処と草ある処に赴きかの薬草摘むにいそがしかりけり。
矢筈草はちよつと見たる時その葉蓬に似たり。覆盆子の如くその茎蔓のやうに延びてはびこる。四谷見附より赤坂喰違の土手に沢山あり。青山兵営の裏手より千駄ヶ谷へ下る道のほとりにも露草車前草なぞと打交りて多く生ず。採り来りてよく土を洗ひ茎もろともにほどよく刻みて影干にするなり。
われは東京市中の閑地追々土木工事のために伐り開かるべきことを憂ひて止まざるものなれば、やがては矢筈草生ずる土手もなくなるべしと思ひ、その一束をわが家の庭に移し植ゑぬ。われその年の秋母の許を得て始めて八重を迎へ家を修めしめしが、それとても僅半歳の夢なりけり。その人去りて庭の籬には摘むものもなくて矢筈草徒に生ひはびこりぬ。万事傷心の種ならざるはなし。その翌年草の芽再び萌出る頃なるを、われも一夜大久保を去りて築地に独棲しければかの矢筈草もその後はいかがなりけん。近頃新に住む人ありと聞けば廃園の雑草と共に大方は刈除かれしや知るべからず。
事新らしく自然主義の理論説き出づるにも及ぶまじ。この世をよしと言ひあしと観る十人十色の考その人々によりて異り行くも、一つにはその人々の健康によることなり。われその身の衰行くを知るにつけて世をいとふの念押へがたく日に日に弥増さり行くこそ是非なけれ。
わが知れる人々の中にはいかにもして我国の演劇を改良なし意味ある芸術を起さんものをと家人の誤解世上の誹謗もものかは、今になほ十年の宿志をまげざるものあり。聞くだに涙こぼるる美談ぞかし。然るにわれは早くも心挫けてひたすら隠栖の安きを求めんとす。しかもそは取立てていふべきほどの絶望あるにもあらず将悲憤慷慨のためにもあらず。唯劇場の燈火あまりにあかるく目を射るに堪へざるが如き心地したるがためのみ。それに引換へて父の世より住古せし我家の内の薄暗く書斎の青燈影もおぼろに床の花を照すさま何事にもかへがたく覚初めたるがためのみ。茶屋といふものなくなりて、劇場内の食堂の料理何となく気味わるき心地せられしがためのみ。雨の降る夜なぞとぼとぼと遠道を帰り行くことの苦しくなりしがためのみ。これらのことその身すこやかなれば元よりいふにも足らぬことなれど、寒さを恐れて春も彼岸近くまで外出の折には必ず懐炉入れ歩くほどの果敢なき身には、以上の事皆観劇のために払ふべき大なる犠牲の如くに感ぜらる。新聞屋の種取りにと尋来るに逢ひてもその身丈夫にて人の顔さへ見れば臆面なく大風呂敷ひろぐる勇気あらば願うてもなき自慢話の相手たるべきに、しからざる身には唯々うるさく辛きものとなるなり。世上の文学雑誌にわが身のことども口ぎたなく悪しざまに書立つるを見てさへ反駁の筆執るに懶きほどなれば、見当違ひの議論する人ありとて何事もただ首肯くのみにてその非をあぐる勇気もなし。いはんやその誤を正さん親切気においてをや。時折遠国の見知らぬ人よりこまごまと我が拙き著作の面白き節々書きこさるるに逢ひてもこれまたそのままに打過して厚き志を無にすること度々なり。
心地すぐれざるも打臥すほどにもあらねば病めりとはいひがたし。病なくして病あるが如き身のさまこそいぶかしけれ。下谷の外祖父毅堂先生の詩に小病無クレ名怯ル二暮寒ヲ一〔小病に名無く 暮寒を怯る〕といはれしもかくの如き心地にや。老杜が登高の七律にも万里ノ悲秋常ニ作レ客ト百年ノ多病独登ルレ台ニ〔万里の悲秋 常に客と作る、百年の多病 独り台に登る〕の句あり。
正月二月の寒風に吹かれて家に入れば、眼くるめくばかり頭痛を催し、八月の炎天を歩み汗を拭はんとて物かげに憩ひ風を迎ふれば凉しと思ふ間もなく、忽ち肌ひやひやとして気味わるき寒さを覚ゆ。冬の日はわれ人共に寒きものなればさして悲しとも思はねど夏はつくづく情なき事のみなり。夕方の行水にも湯ざめを恐れ、咽喉の渇きも冷きものは口に入るること能はざれば、これのみにても人並の交りは出来ぬなり。人にさそはれ夕凉に出る時もわれのみは予め夜露の肌を冒さん事を慮りて気のきかぬメリヤスの襯衣を着込み常に足袋をはく。酒楼に上りても夜少しく深けかかると見れば欄干に近き座を離れて我のみ一人葭戸のかげに露持つ風を避けんとす。をちこちに夜番の拍子木聞えて空には銀河の流漸く鮮ならんとするになほもあつしあつしと打叫びて電気扇正面に置据ゑ貸浴衣の襟ひきはだけて胸毛を吹きなびかせ麦酒の盃に投入るるブツカキの氷ばりばりと石を割るやうに噛砕く当代紳士の豪興、われこれを以て野蛮なる哉や没趣味なる哉やと嘆息するも誠はわが虚弱の妬みに過ぎず。何事に限らずわが言ふ処生まじめの議論と思給はば飛でもなき買冠なるべし。
慶応義塾のつとめもかくては日に日に退儀となりぬ。朝早く出掛間際に腹痛み出ることも度々にて、それ懐中の湯婆子よ懐炉よ温石よと立騒ぐほどに、大久保より札の辻までの遠道とかくに出勤の時間おくれがちとはなるなり。時雨そぼふる午下火の気乏しき西洋間の教授会議または編輯会議も唯々わけなくつらきものの中に数へられぬ。何時の幾日には遊びに行かんと親しき友より軽き約束申出でられてももしやその日に腹痛まば如何にせん、雨降らば出にくからんなぞ取越苦労のみ重れば折角の興もとく消えがちなるこそ悲しけれ。
心柄とはいひながら強ひて自ら世をせばめ人の交を断ち、家にのみ引籠れば気随気儘の空想も門外世上の声に妨げ覚まさるる事なければ、いつとしもなくわれは誠に背も円く前にかがみ頭に霜置く翁となりけるやうの心とはなりにけり。
八重も女の身の既に三十路を越えたり。始めのほどはリウマチスの病さへ癒えて舞ふに苦しからずなりなば再び新橋にや帰らん新に柳橋にや出でんあるひは地を選びて師匠の札をや掲げんなぞ思ひ企つる処さまざまなりしかども、いつか我が懶惰の習ひにや馴れ染めけん、かつは日頃親しく尋来る向島の隠居金子翁といふ老人のすすめもありてや、浮世の夢をよそに、思出多き一生を大久保の里に埋め、早衰のわが身が朝夕の世話する事とはなりぬ。そは甲寅の年も早や秋立ち初めし八月末の日なりけり。目出度き相談まとまりて金子翁を八重が仮の親元に市川左団次夫妻を仲人にたのみ山谷の八百屋にて形ばかりの盃事いたしけり。金子翁名元助天保御趣意の前年江戸和蘭陀屋敷御同心の家に生るといふ清元の三絃をよくしまた宇治の太夫となりて金紫と
号す瓦解の後商となり横浜に出で産を起し濹上に有馬温泉を建つ二子あり坂東秀調はその長子藤間金之助はその次子なり八百屋善四郎が家はその時庭の地揚げ土台の根つぎなぞ致すため客をことわりてゐたりしかど金子翁かつて八百屋が先代の主人とは懇意なりける由にて事の次第を咄して頼みければ今の若き主人心よく承知して池に臨む下座敷を清め床の間の軸も光琳が松竹梅の三幅対をかけその日のみわれらがために一日商売の面倒をいとはざりけり。
この日残暑の夕陽烈しきに山谷の遠路をいとはずしてわが母上も席に連り給ひぬ。母は既に父在せし頃よりわが身の八重といふ妓に狎れそめける事を知り玉ひき。去歳わが病伏しける折日々看護に来りしより追々に言葉もかけ給ふやうになりて窃にその立居振舞を見たまひけるが、癇癖強く我儘なるわれに事へて何事も意にさからはぬ心立の殊勝なるに加へて、殊に或日わが居間の軸を掛替ゆる折滬上当今の書家高邕といふ人の書きける小杜が茶煙禅榻の七絶すらすらと読下しける才識に母上このもの全く世の常の女にあらじと感じたまひてこの度の婚儀につきては深くその身元のあしよしを問ひたまはざりき。
八重竹柏園に遊びて和歌を学びしは久しき以前の事なり。近頃四谷に移住みてよりはふと東坡が酔余の手跡を見その飄逸豪邁の筆勢を憬慕し法帖多く購求めて手習致しける故唐人が行草の書体訳もなく読得しなり。何事も日頃の心掛によるぞかし。
八重家に来りてよりわれはこの世の清福限無き身とはなりにけり。人は老を嘆ずるが常なり。然るにわれは俄に老の楽の新なるを誇らんとす。人生の哀楽唯その人の心一ツによる。木枯さけぶ夜すがら手摺れし火桶かこみて影もおぼろなる燈火の下に煮る茶の味は紅楼の緑酒にのみ酔ふものの知らざる所なり。寝屋の屏風太鼓張の襖なぞ破れたるを、妻と二人して今までは互に秘置きける古き文反古取出して読返しながら張りつくろふ楽しみもまた大厦高楼を家とする富貴の人の窺知るべからざる所なるべし。菊植ゆる籬または廁の窓の竹格子なぞの損じたるを自ら庭の竹藪より竹切来りて結びつくろふ戯もまた家を外なる白馬銀鞍の公子たちが知る所にあらざるべし。わが物書くべき草稿の罫紙は日頃暇ある折々われ自らバレン持ちて板木にて摺りてゐたりしが、八重今は襷がけの手先墨にまみるるをも厭はず幾帖となくこれを摺る。かかる楽しみも近頃西洋紙に万年筆走らせて議論する文士の知らざる所とやいはん。
わが家には亡父の遺し給ひし書籍盆栽文房の器具尠からず。八重はわれを助けて家を修めんがため『林園月令』、『雅遊漫録』、『草木育種』、『庭造秘伝鈔』、『日本家居秘用』なぞいふ類の和漢の書取出して読みあさり、硯の海の底深う巌のやうにこびりつきたる墨のかす洗ひ落すには如何にすればよき。蒔絵の金銀のくもりを拭清むるには如何にせばよきや。堆朱の盆香合などその彫の間の塵を取るには如何にすべきや。盆栽の梅は土用の中に肥料やらねば来春花多からず。山百合は花終らば根を掘りて乾ける砂の中に入れ置けかし。あれはかくせよ。これはかうせよと終日襷はづす暇だになかりけり。
わが父はこの上なく物堅き人なりき。然れども生前自ら選みたまひしその詩稿『来青閣集』といふを見れば
良辰佳会古難並 〔良き辰と佳き会は古より並び難し
玉手摻摻酒幾巡 玉手摻摻として酒幾たびか巡る
休道詩人無艶分 道う休れ詩人に艶分無しと
先従花国賦迎春 先ず花国従り賦して春を迎えん
新歳竹枝 新歳 竹枝〕
春鳥無心喚友啼 〔春鳥は無心に友を喚びて啼き
蘭舟繋在水祠西 蘭舟は繋がれて水祠の西に在り
暖波一面花三面 暖波は一面 花は三面
真個温柔郷此堤 真個の温柔郷なり 此の堤
看花七絶 看花 七絶〕
の如き艶体の詩を誦し得るなり。またかつて中国に遊び給ひける時姑蘇城外を過ぎて妓に贈り給ひし作多きが中に
麗質嬌姿本絶羣 〔麗質 嬌姿 本より羣を絶す
蘭房別占四時春 蘭房は別ても占む四時の春
相逢無語翻多恨 相い逢いて語無く翻って多恨し
桃葉桃根画裏人 桃葉 桃根 画裏の人
如在沉香亭北看 〔沈香亭の北に在りて看るが如く
妖姿冶態正春闌 妖姿 冶態 正に春闌なり
多情卿是傾城種 多情の卿は是れ傾城の種
不信小名呼墨蘭 信ぜず 小名に墨蘭と呼べるを〕
の如き能くわが記憶する所なり。現に城南新橋の畔南鍋街の一旗亭にも銀屏に酔余の筆を残したまへるがあり。
われ家を継ぎいくばくもなくして妓を妻とす。家名を辱しむるの罪元より軽きにあらざれど、如何にせんこの妓心ざま素直にて唯我に事へて過ちあらんことをのみ憂ふるを。何事も宿世の因縁なりかし。初手は唯かりそめの契も年経ぬれば人にいはれぬ深きわけ重なりてまことの涙さそはるる事も出で来ぬるなり。これらをや迷の夢と悟りし人はいふなるべし。世の誚人の蔑も迷へるものは顧ず。われは唯この迷ありしがためにいはゆる当世の教育なるもの受けし女学生上りの新夫人を迎ふる災厄を免れたり。盃持つ妓女が繊手は女学生が体操仕込の腕力なければ、朝夕の掃除に主人が愛玩の什器を損はず、縁先の盆栽も裾袂に枝引折らるる虞なかりき。世の中一度に二つよき事はなし。
親しき友にも八重との婚儀は改めて披露せず。祝儀の心配なぞかけまじとてなり。物堅き親戚一同へはわれら両人が身分を省みて無論披露は遠慮致しけり。人のいやがる小説家と世の卑しむ妓女との野合、事々しく通知致されなば親類の奥様や御嬢様方かへつて御迷惑なるべしと察したればなり。然れども世は情知らぬ人のみにはあらず。我らがこの度の事目出度しとて物祝ひ賜はる向も尠からざりしかば、八重は口やかましき我が身が世話の手すきを見計らひて諸処方々返礼に出歩きけり。秋も忽過ぎ去りぬ。菊の花萎るる籬には石蕗花咲き出で落葉の梢に百舌鳥の声早や珍しからず。裏庭の井のほとりに栗熟りて落ち縁先には南天の実、石燈籠のかげには梅疑色づき初めぬ。
初冬の山の手ほどわが家の庭なつかしく思はるる折はなし。人は樹木多ければ山の手は夏のさかりにしくはなけんなど思ふべけれど、藪蚊の苦しみなき町中の住居こそ夏はかへつて物干台の夜凉縁日のそぞろ歩きなぞ興多けれ。簾捲上げし二階の窓に夕栄の鱗雲打眺め夕河岸の小鰺売行く声聞きつけて俄に夕餉の仕度待兼る心地するも町中なればこそ。翻つて冬となりぬる町の住居を思へば建込む家にさらでも短き日脚の更に短く長火鉢置く茶の間は不断の宵闇なるべきに、山の手の庭は木々の葉落尽すが故に夏よりも明く晴々しく、書斎の丸窓も芭蕉朽ちて穏なる日の光終日斜にさすなり。露時雨夜ごとにしげくなり行くほどに落葉朽ち腐るる植込のかげよりは絶えず土の香薫じて、鶺鴒四十雀藪鶯なぞ小鳥の声は春にもまして賑し。げに山の手は十一月十二月かけての折ほど忘れがたく住心地よき時はなきぞかし。
八重諸処への礼歩きもすまして今は家にのみあり。障子は皆新しう張替へられたり。家の柱縁側なぞ時代つきて飴色に黒みて輝りたるに障子の紙のいと白く糊の匂も失せざるほどに新しきは何となくよきものなり。座敷も常よりは明くなりたるやうにて庭樹の影小鳥の飛ぶ影の穏かなる夕日に映りたるもまた常よりは鮮なる心地す。夕風裏窓の竹を鳴して日暮るれば、新しき障子の紙に燈火の光もまた清く澄みて見ゆ。冬となりてここにまた何よりも嬉しき心地せらるるは桐の火桶、炉、置炬燵、枕屏風なぞ春より冬にかけて久しく見ざりし家具に再び遇ふ事なり。去年の冬より今年も春なほ寒き折までは毎朝つやぶきん掛けてよく拭き込みたる火鉢、夏の中仕舞ひ込みたる押入の塵に大分光沢うせながら然も見馴れたる昔のままの形して去年ありける同じき処に置据ゑられたる宛ら旧知の友に逢ふが如し。君もすこやかなりしか。我もまた幸に余生を保ちぬと言葉もかけたき心地なり。寔に初冬の朝初めて火鉢見るほど、何ともつかず思出多き心地するものはなし。わが友江戸庵が句に
冬来るやまたなつかしき古火桶
これ聊かも巧む所なくして然もその意を尽したる名吟ならずや。去歳の冬江戸庵主人画帖一折携へ来られ是非にも何か絵をかき句を題せよとせめ給ひければ我止む事を得ず机の側にありける桐の丸火鉢を見てその形を写しけるが、俳想乏しくて即興の句出でざる苦しさに、何やら訳もわからぬ文句左の如く書流したる事あり。
折かがむ背中もやがて円火鉢
かどのとれたる老を待つかな
それはさて置き、八重わが家に来りてよりはわが稚き時より見覚えたるさまざまの手道具皆手入よく綺麗にふき清められて、昨日まではとかく家を外なる楽しみのみ追ひ究めんとしける放蕩の児も此に漸く家居の楽を知り父なき後の家を守る身となりしこそうれしけれ。
おほよその人は詩を賦し絵をかく事をのみ芸術なりとす。われも今まではかく思ひゐたり。わが芸術を愛する心は小説を作り劇を評し声楽を聴くことを以て足れりとなしき。然れども人間の欲情もと極る処なし。我は遂に棲むべき家着るべき衣服食ふべき料理までをも芸術の中に数へずば止まざらんとす。進んで我生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事能はざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻はその最も大切なる製作の一要件なるべし。
人はかかる言草を耳にせば直に栄耀の餅の皮といひ捨つべし。されど芸術を味ひ楽しむ心はもと貧富の別に関せず。深刻の情致は何事によらずかへつて富者の知らざる処なり。わが衣食住とわが生涯を以て活きたる詩活きたる芸術の作品となすに何の費をか要せん。裏路地の佗住居も自ら安ずる処あらばまた全く画興詩情なしといふべからず、金殿玉楼も心なくんば春花秋月なほ瓦礫に均しかるべし。
わが家山の手のはづれにあり。三月春泥容易に乾かず。五月早くも蚊に襲はる。市ヶ谷の喇叭は入相の鐘の余韻を乱し往来の軍馬は門前の草を食み塀を蹴破る。昔は貧乏御家人の跋扈せし処今は田舎紳士の奥様でこでこ丸髷を聳かすの地、元より何の風情あらんや。然れどもわが書庫に蜀山人が文集あり『山手閑居の記』はよくわれを慰む。わが庭広からず然れども屋後なほ数歩の菜圃を余さしむ。款冬、芹、蓼、葱、苺、薑荷、独活、芋、百合、紫蘇、山椒、枸杞の類時に従つて皆厨房の料となすに足る。八重日々菜園に出で繊手よくこれを摘み調味してわが日頃好みて集めたる器に盛りぬ。
つらつら按ふに我国の料理ほど野菜に富めるはなかるべし。西洋にては巴里に赴きて初めて菜蔬の味称美すべきものに遇ふといへどもその種類なほ我国の多きに比すべくもあらず。支那には果実の珍しきもの多けれど菜蔬に至つては白菜菱角藕子嫩筍等の外われまた多くその他を知らず、菜蔬と魚介の味美なるもの多きはこれ日本料理の特色ならずとせんや。
食器の清洒風雅なるまた大に誇るに足るべし。西洋支那の食器金銀珠玉を以てこれを製するあり、その質堅牢にしてその形の壮麗なる元より我国の及ぶ処ならず。洋人銀の肉叉を用ひ漢人翡翠の箸を把る。しかして我俗杉の丸箸を以て最上の礼式とす。万事皆かくの如し。また思ふに西洋支那の食卓共に華麗荘厳の趣あれども四時を通じてその模様大抵同じきが如く、その料理とこれを盛る食器との調和対照に意を用ゆる事我国の如く甚しからざるに似たり。我国の膳部におけるや食器の質とその色彩紋様の如何によりてその趣全く変化す。夏には夏冬には冬らしき盃盤を要す。誰か鮪の刺身を赤き九谷の皿に盛り新漬の香物を蒔絵の椀に盛るものあらんや。日本料理は器物の選択を最も緊要となす。ここにおいてその法全く特殊の芸術たり。盃盤の選択は酒楼にあつては直に主人が風懐の如何を窺はしめ一家にあつては主婦が心掛の如何を推知せしむ。八重多年教坊にあり都下の酒楼旗亭にして知らざるものなし。加るに骨董の鑑識浅しとせず。わが晩餐の膳をして常に詩趣俳味に富ましめたる敢て喋々の弁を要せず。いつも痒いところに手が届きけり。されば八重去つてよりわれ復肴饌のことを云々せず。机上の花瓶永へにまた花なし。
八重何が故に我家を去れるや。われまた何が故にその後を追はざりしや。『矢筈草』の一篇もとこの事を書綴りて愛読者諸君のお慰みにせんと欲せしなり。新聞紙三面の記事は世人の喜ぶ所なり。実録とさへ銘打てば下手な小説もよく売れるなり。作者くだらぬ長談義にのみ耽りて容易に本題に入らざる所以のものそれ果して何ぞ。
目出度き甲寅の年は暮れて新しき年もいつか鶯の初音待つ頃とはなりけり。一日われ芝辺に所用あつて朝早くより家を出で帰途築地の庭後庵をおとづれしにいつもながら四方山の話にそのまま夜をふかし車を頂戴して帰りけり。門の戸あく音に主人の帰りを待つ飼犬の裾にまつはる事のみ常に変らざりしが家の内何となく寂然として、召使ふ子女一人のみ残りて八重は既に家にはあらざりき。八畳の茶の間に燈火煌々と輝きて、二人が日頃食卓に用ひし紫檀の大きなる唐机の上に、箪笥の鍵を添へて一通の手紙置きてあり。初め小婢のわが帰るを見るや御新造様は御風呂めして九時頃お出掛になりやがて何処よりとも知らず電話にて今夜はおそくなる故帰らぬ由申越されぬと告げけるが、その折にはわれさまでは驚かず、大方新橋あたりの妓家ならずば藤間が弟子のもとに遊べるならんと思ひしに、唐机の上の封書開くに及び初めて事の容易ならぬを知りけり。
『矢筈草』いよいよこれより本題に入らざるべからざる所となりぬ。然るに作者俄に惑うて思案投首煙管銜へて腕こまねくのみ。
その年の桜咲く頃八重は五年振りにて再び舞扇取つて立つ身とはなれるなり。好奇の粋客もしわが『矢筈草』の後篇を知らんことを望み玉はば喜楽可なり香雪軒可なり緑屋またあしからざるべし随処の旗亭に八重を聘して親しく問ひ玉へかし。八重唯舞ふ事を能くするのみにあらず哥沢節は既に名取なり近頃また河東を修むと聞く。彼女もし問ふものに向つてあらはに事の仔細を語る事を欲せずとせんか、代るに低唱微吟以てその所思を託せしむべき歌曲に乏しからざるべし。凡そ人その思ふ所を伝へんとするや必ずしも田舎議員の如く怒号する事を要せざるべし。何ぞまた新しき女に傚つてやたらに告白しむやみに懺悔するに及ばんや。われ近頃人より小唄なるものを教へらる。
〽三ツの車に法の道ソウラ出た……悋気と金貸や罪なもの
また以てわが一時の情懐を託するに足りき。
昨日となれば何事もただなつかし。何ぞ事の是非を究めて彼我の過を明にするの要あらんや。青春まことに一夢。老の寝覚めに思出の種一つにても多からんこそせめての慰めなるべけれ。活きがひありしといふべけれ。石橋をたたいて五十年無事に世を渡り得しものは誠に結構と申すの外なし。一度足踏みすべらせて橋下の激流に陥れば渾身の力尽して泳がんのみ。彼岸に達せんとすれども流急なれば速に横断すべくもあらず。あるひは流に従つて漂ひあるひは巌角に攀ぢて憩ひ、徐にその道を求めざるべからず。ここにおいてか無事石橋を歩むものの知らざる処を知る。話の種多く持つ身とはなるなり。
芸者その朋輩の丸髷結ふを見ればわたしもどうぞ一度はと茶断塩断神かけて念ずるが多し。芸者も女なり。いやな旦那をつとめて好きな役者狂ひの口直しにも少し飽きが来れば、定まる男一人にかしづいて見たい殊勝の願ひを起す。これ波瀾より平坦に入るものけだし自然の人情なるべし、決して咎むべきにあらず。さればそんじよそこらの姐さんたちそれぞれよい客見付けて足を洗ひ、中には鳥子餅くばるもあれど、その噂朋輩の口よりまだ消えもやらぬに、早くもああくさくさしちまつたよと、泣いたり笑つたりした揚句の果は復旧の古巣に還るもの甚頻々。去就出没常ならず。さればお上にては一度芸者の鑑札返上致せしものには半歳を経ざれば再びこれを下げ渡さざるの制を設くといふ。けだし役人衆の繁忙を防がんがためなるべし。
そんな事はどうでもよいとして、芸者何が故にかくは出たり引込んだり致すぞや。通人いふ。一度商売したものは辛抱の置き処が違ふ故当人いかほど殊勝の覚悟ありても素人のやうには行かぬなり。これを巧みに使つて身を落ちつかせてやるは亭主となつた男の思遣り一ツによる事なり。年増盛を過ぎて一度商売を止めた女、また二度出るは気の毒なものと察してやるが訳知つた人の情なり。男の顔に泥塗るやうな事さへせぬかぎり大抵のことは大目に見てやるがよし。漢学者のやうに子曰くで何か事あれば直ぐに七去の教楯に取るやうな野暮な心ならば初めから芸者引かせて女房にするなぞは大きな間違ならんと。
駁するものは言ふ。芸者したものは酸いも甘いも知つてゐるはずなり。栄耀栄華の味を知つたもの故芝居も着物もさして珍らしくは思はぬはずなり。何があつても素人のやうには立騒がずともすむ咄なり。万事さばけて呑込み早かるべきはずなり。亭主の癇癪も巧にそらして気嫌を直さすべきはずなり。素人では気のつかぬ処に気がつく故にそれ者はそれ者たる値打があるなり。もしそれ持参金つきの箱入娘貰つたやうに万事遠慮我慢して連添ふ位ならば何も世間親類に後指さされてまでそれ者を家に入るるの要あらんや。
いやに済ました人おつに咳払ひして進み出でて曰く両君の宣ふ所各理あり。皆その人とその場合とに因つてこれを施して可なるべし。素人も芸者も元これ女なり。生れて女となる。女の身を全うするの道古来唯従ふの一語のみ。従はざれば今の処日本にては女の身は立ちがたし。芸者気随気儘勝手次第にその日を送り得るやうに見ゆれどもさにあらず。元これ愛嬌商売なれば第一に世間に従つて行かねばならぬなり。お客に従はねばならぬなり。出先の茶屋の女中に従はねばならぬなり。足を洗つて素人となる。則旦那に従はねばならぬなり。その家に従はねばならぬなり。同じく皆従ふなり。一人に従ふと諸人に従ふとの相違のみ。そのいづれかを選ぶべきやはこれその人の任意なり。素人となれば素人の苦楽共にあり商売に出れば商売の苦楽また共に生ず。無事平坦を望まば素人たるべし。変化を欲せば芸者たるべし。これまたその人とその場合によつて論ずべきなり。孔明兵を祁山に出す事七度なり。匹婦の七現七退何ぞ改めて怪しむに及ばんや。唯その身の事よりして人に累を及しために後生の障となる事なくんばよし。皆時の運なり。素人とならばその日その日の金銭出入帳書く事怠らぬがよし。商売に出でなば勤めべき処よく勤むべし。朝起きた時奥歯に物のはさまつたやうな心持する事なくその日その日を送り得ば妓となるも妻となるも何ぞ選ばん。あれも一生これも一生ぞかし。いづれにしても柔和は女徳の第一なり。加ふるに悋気を慎まば妓となるとも人に愛され立てられて身を全うし得べし。いはんや正路の妻となるにおいてをや。
おつにすました人弁出して尽くる所を知らず。これでは作者よりも皆様が御迷惑とここに横槍を入れて『矢筈草』を終る。
底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。