向嶋
永井荷風
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向島は久しい以前から既に雅遊の地ではない。しかしわたくしは大正壬戌の年の夏森先生を喪ってから、毎年の忌辰にその墓を拝すべく弘福寺の墳苑に赴くので、一年に一回向島の堤を過らぬことはない。そのたびたびわたくしは河を隔てて浅草寺の塔尖を望み上流の空遥に筑波の山影を眺める時、今なお詩興のおのずから胸中に満ち来るを禁じ得ない。そして悵然として江戸徃昔の文化を追慕し、また併せてわが青春の当時を回想するのである。
震災の後わたくしは多く家にのみ引籠っているので、市中繁華の街の景況については、そのいわゆる復興の如何を見ることが稀である。それに反して向島災後の状況に関しては、少くとも一年一回来り見るところから、ややこれについて語ることが出来るような気がしている。吾妻橋を渡ると久しく麦酒製造会社の庭園になっていた旧佐竹氏の浩養園がある。しかしこの名園は災禍の未だ起らざる以前既に荒廃して殆その跡を留めていなかった。枕橋のほとりなる水戸家の林泉は焦土と化した後、一時土砂石材の置場になっていたが、今や日ならずして洋式の新公園となるべき形勢を示している。吾人は日比谷青山辺に見るが如き鉄鎖とセメントの新公園をここにもまた見るに至るのであろう。三囲の堤に架せられべき鉄橋の工事も去年あたりから、大に進捗したようである。世の噂をきくに、隅田川の沿岸は向島のみならず浅草花川戸の岸もやがて公園になされるとかいう事である。思うに紐育市ハドソン河畔の公園に似て非なるが如きものが、ここに経営せられるのではなかろうか。とにかく隅田川両岸の光景は遠からずして全く一変し、徃昔の風致は遂に前代の絵画文学について見るの外全く想像しがたきものとなってしまうのである。
隅田川に関する既徃の文献は幸にして甚豊富である。しかし疎懶なるわたくしは今日の所いまだその蒐集に着手したわけではない。折々の散歩から家に帰った後唯机辺に散乱している二、三の雑著を見て足れりとしている。これら座右の乱帙中に風俗画報社の明治三十一年に刊行した『新撰東京名所図会』なるものがあるが、この書はその考証の洽博にして記事もまた忠実なること、能く古今にわたって向島の状況を知らしむるものである。明治三十一年の頃には向島の地はなお全く幽雅の趣を失わず、依然として都人観花の勝地となされていた。それより三年の後明治三
十四年平出鏗二郎氏が『東京風俗志』三巻を著した時にも著者は向嶋桜花の状を叙して下の如く言っている。「桜は向嶋最も盛なり。中略三囲の鳥居前より牛ノ御前長命寺の辺までいと盛りに白鬚梅若の辺まで咲きに咲きたり。側は漂渺たる隅田の川水青うして白帆に風を孕み波に眠れる都鳥の艪楫に夢を破られて飛び立つ羽音も物たるげなり。待乳山の森浅草寺の塔の影いづれか春の景色ならざる。実に帝都第一の眺めなり。懸茶屋には絹被の芋慈姑の串団子を陳ね栄螺の壼焼などをも鬻ぐ。百眼売つけ髭売蝶〻売花簪売風船売などあるいは屋台を据ゑあるいは立ちながらに売る。花見の客の雑沓狼藉は筆にも記しがたし。明治三十三年四月十五日の日曜日に向嶋にて警察官の厄介となりし者酩酊者二百五人喧嘩九十六件、内負傷者六人、違警罪一人、迷児十四人と聞く。雑沓狼藉の状察すべし。」云〻
わたくしはこれらの記事を見て当時の向嶋を回想するや、ここにおのずから露伴幸田先生の事に思到らなければならない。
そもそも享保のむかし服部南郭が一夜月明に隅田川を下り「金竜山畔江月浮」の名吟を世に残してより、明治に至るまで凡二百有余年、墨水の風月を愛してここに居を卜した文雅の士は勝げるに堪えない。しかしてそが最終の殿をなした者を誰かと問えば、それは実に幸田先生であろう。先生は震災の後まで向嶋の旧居を守っておられた。今日その人はなお矍鑠としておられるが、その人の日夜見て娯みとなした風景は既に亡びて存在していない。先生の名著『讕言長語』の二巻は明治三十二、三年の頃に公刊せられた。同書に載せられた春の墨堤という一篇を見るに、
「一、塵いまだたたず、土なほ湿りたる暁方、花の下行く風の襟元に冷やかなる頃のそぞろあるき。
一、夜ややふけて、よその笑ひ声も絶る頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交番所の燈のちらつくも静なるおもむきを添ふる折ふし五位鷺などの鳴きたる。
一、何心もなくあるきゐたる夜、あたりの物淋しきにふと初蛙の声聞きつけたる。
一、雨に名所の春も悲しき闇の中を街燈遠く吾妻橋まで花がくれに連なれるが見えたる。
一、日ごろは打絶えたる人の花に催されてなど打興じながら柴の戸を排き入り来りたる。
一、裏道づたひいづくへともなく行くに、いけがきのさま、折戸のかかりもいやしげならず、また物々しくもあらぬ一構の奥に物の音のしたる。
右いづれかをかしからざるべき。」
明治三十一、二年の頃隅田堤の桜樹は枕橋より遠く梅若塚のあたりまで間隙なく列植されていたので、花時の盛観は江戸時代よりも遥に優っていたと言わなければならない。江戸時代にあっては堤上の桜花はそれほど綿密に連続してはいなかったのである。堤上桜花の沿革については今なお言問の岡に建っている植桜之碑を見ればこれを審にすることができる。碑文の撰者浜村蔵六の言う所に従えば幕府が始て隅田堤に桜樹を植えさせたのは享保二年である。ついで享保十一年に再び桜桃柳百五十株を植えさせたが、その場所は梅若塚に近いあたりの堤に限られていたというので、今日の言問や三囲の堤には桜はなかったわけである。文化年間に至って百花園の創業者佐原菊塢が八重桜百五十本を白髭神社の南北に植えた。それから凡三十年を経て天保二年に隅田村の庄家阪田氏が二百本ほどの桜を寺島須崎小梅三村の堤に植えた。弘化三年七月洪水のために桜樹の害せられたものが多かったので、須崎村の植木師宇田川総兵衛なる者が独力で百五十株ほどを長命寺の堤上に植つけた。それから安政元年に至って更に二百株を補植した。ここにおいて隅田堤の桜花は始て木母寺の辺より三囲堤に至るまで連続することになったという。しかしこの時にはまだ枕橋には及ばなかった。それは明治七年其角堂永機の寄附と明治十三年水戸徳川家の増植とを俟って始て果されたのである。以後向島居住の有志者は常に桜樹の培養を怠らず、時々これが補植をなし、永くこの堤上を以て都人観花の勝地たらしむべく、明治二十年に植桜之碑を建てて紀念となした。建碑について尽力した人の重なるものは、その時には既に世を去っていた成島柳北と今日なお健在の富商大倉某らであった事が碑文に言われている。かくの如く堤上の桜花が梅若塚の辺より枕橋に至るまで雲か霞の如く咲きつらなったのは、江戸時代ではなくしてかえって明治十年以後のことであったのだ。梅若神社の堂宇の新に建立せられたのもその頃のことである。長命寺門前の地を新に言問ヶ岡と称してここに言問団子を売る店のできたのもまたこの時分である。言問団子の主人は明治十一年の夏七月より秋八月の末まで、都鳥の形をなした数多の燈籠を夜々河に流して都人の観覧に供した。成島柳北は三たびこの夜の光景を記述して『朝野新聞』に掲げた。大沼枕山が長命寺の門外に墨水観花の碑を建てたのも思うにまたこの時分であろう。
かつてわたくしはこの時分の俗曲演劇等の事を論評した時明治十年前後の時代を以て江戸文芸再興の期となしたが、今向島桜花のことを陳るに及んで更にまたその感がある。
明治年間向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者は尠くない。思出るがままにわたくしの知るものを挙れば、華族には榎本梁川がある。学者には依田学海、成島柳北がある。詩人には伊藤聴秋、瓜生梅村、関根癡堂がある。書家には西川春洞、篆刻家には浜村大澥、画家には小林永濯がある。俳諧師には其角堂永機、小説家には饗庭篁村、幸田露伴、好事家には淡島寒月がある。皆一時の名士である。しかし明治四十三年八月初旬の水害以後永くその旧居に留ったものは幸田淡島其角堂の三家のみで、その他はこれより先既に世を去ったものが多かった。堤上の桜花もまた水害の後は時勢の変遷するに従い、近郊の開拓せらるるにつれて次第に枯死し、大正の初に至っては三囲堤のあたりには纔に二、三の病樹を留むるばかりとなった。浜村蔵六が植桜之碑には堤上桜樹の生命は大抵人間と同じであるが故に絶えずこれが補植に力を竭さなければならぬと言われている。しかし大正の都人士に対しては石碑の文の如きは全く顧る所とならなかった。
江戸時代隅田堤看花の盛況を述るものは、大抵寺門静軒が『江戸繁昌記』を引用してこれが例証となしている。風俗画報社の『新撰東京名所図会』もまた『江戸繁昌記』を引きこれを補うに加藤善庵が『墨水観花記』を以てしている。わたくしは塩谷宕陰の文集に載っている「遊墨水記」を以て更にこれを補うであろう。
静軒の文は天保に成ったもの、宕陰の記は慶応改元の春に作られたものである。宕陰が記の一節に曰く、「凡ソ墨堤十里、両畔皆桜ナリ。淡紅濃白、歩ムニ随テ人ニ媚ブ。遠キハ招クガ如ク近キハ語ラントス。間少シク曲折アリ。第一曲ヨリ東北ニ行クコト三、四曲ニシテ、以テ木母寺ニ至ツテ窮ル。曲曲回顧スレバ花幔地ヲ蔽ヒ恍トシテ路ナキカト疑フ。排イテ進メバ則白雲ノ坌湧スルガ如ク、杳トシテ際涯ヲ見ズ。低回スルコト頃クニシテ肌骨皆香シク、人ヲシテ蒼仙ニ化セシメントス。既ニシテ夕陽林梢ニアリ、落霞飛鳧、垂柳疎松ノ間ニ閃閃タリ。長流ハ滾滾トシテ潮ハ満チ石ハ鳴ル。西ニ芙蓉ヲ仰ゲバ突兀万仞。東ニ波山ヲ瞻レバ翠鬟拭フガ如シ。マタ宇内ノ絶観ナリ。先師慊叟カツテ予ニ語ツテ、吾京師及芳山ノ花ヲ歴覧シキ。然レドモ風趣ノ墨水ニ及ブモノナシト。洵ニ然リ。」云〻
江戸名家の文にして墨水桜花の美を賞したものは枚挙するに遑がない。しかし京師および吉野山の花よりも優っていると言ったものは恐らく松崎慊堂のみであろう。慊堂は昌平黌の教授で弘化元年に歿した事は識者の知る所。その略伝の如きはここに言わない。
隅田川を書するに江戸の文人は多く墨水または墨江の文字を用いている。その拠るところは『伊勢物語』に墨多あるいは墨田の文字を用いているにあるという。また新に濹という字をつくったのは林家を再興した述斎であって、後に明治年間に至って成島柳北が頻にこの濹字を用いた。これらのことはいずれも風俗画報社の『新撰東京名所図会』に説かれている。
林述斎が隅田川の風景を愛して橋場の辺に別墅を築きこれを鴎窼と命名したのは文化六年である。その詩集『濹上漁謡』に花時の雑沓を厭って次の如くに言ったものがある。
花時濹上佳 〔花時 濹上佳し
雖レ佳慵レ命レ駕 佳しと雖も駕を命ずるに慵し
都人何雑沓 都人何ぞ雑沓して
来往無二昼夜一 来往すること昼夜を無するや
或連レ袂歌呼 或は袂を連ねて歌呼し
或謔浪笑罵 或は謔浪笑罵す
或拗レ枝妄抛 或は枝を拗りて妄りに抛て
或被レ酒僵臥 或は酒に被いて僵臥す
游禽尽驚飛 游禽は尽く驚きて飛び
不レ聞綿蛮和 聞かず 綿蛮の和するを
何若延二日時一 何若か日時を延ばせば
暫遅春花謝 暫く遅く春花謝せん
花謝人絶レ踪 花謝し人踪を絶ちて
羸驂始可レ跨 羸驂始めて跨る可し
高樹緑陰敷 高き樹は緑の陰を敷き
草嫩堪レ充レ茵 草は嫩く茵に充るに堪う
葭短不レ碍レ舸 葭は短く舸も碍げず
撥二百冗一以遊 百冗を撥りて以て遊ぶ
中略 中略
清和属二首夏一 清和は首夏に属す
境勝固天真 境の勝ることは固より天真にして
芳葩及外仮 芳しき葩は及に外仮なり
惟当下遭二斯辰一 惟だ当に斯の辰に遭いて
屡倚中水畔榭上 屡ば水畔の榭に倚るべし〕
云〻。
述斎は濹上に遊ぶべき時節の最も佳きは花の散った後若葉の頃であるとなした。これは柳北が『花月新誌』に言うところと全く符合している。明治十年五月の『花月新誌』載する所の「詰二濹上遊客一文」に曰く、「ソレ我ガ濹上ノ桜花ヲ以テ鳴ルヤ久シ。故ニ花候ニ当テハ輪蹄陸続トシテ文士雅流俗子婦女ノ別ナク麕集シ蟻列シ、繽紛狼藉人ヲシテ大ニ厭ハシムルニ至ル。シカシテ風雨一過香雲地ニ委ヌレバ十里ノ長堤寂トシテ人ナキナリ。知ラズ我ガ濹上ノ勝ハ桜花ニ非ズシテ実ニ緑陰幽草ノ候ニアルヲ。モシソレ薫風南ヨリ来ツテ水波紋ヲ生ジ、新樹空ニ連ツテ風露香ヲ送ル。渡頭人稀ニ白鷺雙々、舟ヲ掠メテ飛ビ、楼外花尽キ、黄鸝悄々、柳ヲ穿ツテ啼ク。籊々ノ竿、漁翁雨ニ釣リ、井々ノ田、村女烟ニ鋤ス。一檐ノ彩錦斜陽ニ映ズルハ槖駝ノ芍薬ヲ売ルナリ。満園ノ奇香微風ニ動クハ菟裘ノ薔薇ヲ栽ルナリ。ソノ清幽ノ情景幾ンド画図モ描ク能ハズ。文詩モ写ス能ハザル者アリ。シカシテ遊客寥々トシテ尽日舟車ノ影ヲ見ザルハ何ゾヤ。」およそ水村の風光初夏の時節に至って最佳なる所以のものは、依々たる楊柳と萋々たる蒹葭とのあるがためであろう。往時隅田川の沿岸に柳と蘆との多く繁茂していたことは今日の江戸川や中川と異る所がなかった。啻に河岸のみならず灌田のために穿った溝渠の中、または人家の園池にも蒹葭は萋々と繁茂していた。蜀山人が作にも
金竜山下起二金波一 〔金竜山下に金波を起こし
砕二作千金一散二墨河一 千金を砕作して墨河に散る
別有三幽荘引二剰水一 別に幽荘の剰水を引ける有りて
蒹葭深処月明多 蒹葭深き処月明らかなること多れり〕
という絶句がある。然るに今日に至っては隅田川の沿岸には上流綾瀬の河口から千住に至るあたりの沮洳の地にさえ既に蒹葭蘆荻を見ることが少くなった。わたくしはかつて『夏の町』と題する拙稾に明治三十年の頃には両国橋の下流本所御船倉の岸に浮洲があって蘆荻のなお繁茂していたことを述べた。それより凡十年を経て、わたくしは外国から帰って来た当時、橋場の渡のあたりから綾瀬の川口にはむかしのままになお蘆荻の茂っているのを見てしばしばここに杖を曳き、初夏の午後には葭切りの鳴くを聴き、月のあきらかな夜には風露の蕭蕭と音する響を聞いて楽んだ。当時隅田川上流の蒹葭と楊柳とはわたくしをして、セーヌ河上の風光と、並せてまたアンリ・ド・レニエーが抒情詩を追想せしめる便りとなったからである。今日文壇の士に向って仏蘭西の風光とその詩篇とを説くのは徒に遼豕の嗤を招ぐに過ぎないであろう。しかしわたくしは隅田川の蒹葭を説いて適レニエーの詩に思及ぶや、その詩中の景物に蒹葭を用いたものの尠からぬことを言わねばならない。
ヂェー・ワルクの編輯した『仏蘭西現代抒情詩選』の中、レニエーの部の冒頭に追憶の意を唱った Vers le passé の一篇が掲げられている。その初の一節に、
Sur ĺétang endormi palpitent les roseaux.
Et ĺon entend passer en subites boufféeş
Comme le vol craintif l'invisibles oiseaux,
Le léger tremblement de brises etouffées.
静なる池のおもてに蘆は俄に打ちそよぎつ。
そは遮ぎられたる風の静なる顫動
さながら隠れし小禽のひそかに飛去るごとく
さとむらがり立ちて起ると見れば消え去るなり。
また Odelettes と題せられた小曲の中にも、次の如きものがある。
Un petit roseau m'a suffi
Pour faire frémir ĺherbe haute
Et tout le pré
Et les doux saules
Et le ruisseau qui chante aussi;
Un petit roseau m'a suffi
A faire chanter la forêt.
蘆の細茎。その一条をとりてわれかつて笛吹きし時
たけたかく伸びし野の草はおろかや
牧場は端より端にいたるまで
あるいはしなやかなる柳の木
ささやかなる音して流るる小川さへ
皆一時に応へてふるへをののぎぬ。
蘆の細茎の一すぢは過ぎし日かつてわれをして
深き林にも歌うたはしめき。
かくの如きパストラルの情趣は日本に帰って来た後に至っても、久しくわたくしの忘れ得ぬものであったので、わたくしはいつも蘆荻の繁った地を捜めて散歩した。しかし蘆荻蒹葭は日と共に都市の周囲より遠けられ、今日では荒川放水路の堤防から更に江戸川の沿岸まで行かねば見られぬようになった。中川の両岸も既に隅田川と同じく一帯に工場の地となり小松川の辺は殊に繁華な市街となっている。
蒹葭は秋より冬に至って白葦黄茅の景を作る時殊に文雅の人を喜ばす。流行唄にも「枯野ゆかしき隅田堤」というのがある。「心も晴るる夜半の月、田面にうつる人影にぱつと立つのは、アレ雁金の女夫づれ。」これは畢竟枯荻落雁の画趣を取って俗謡に移し入れたもので、寺門静軒が『江頭百詠』の中に
漁舟丿乀影西東 〔漁舟丿乀して影西東
白葦黄茅画軸中 白葦黄茅 画軸の中
忽地何人加二点筆一 忽地として何人か点筆を加え
一縄寒雁下二秋空一 一縄の寒雁 秋空を下る〕
と言った絶句と同工異曲というべきである。
『江頭百詠』は静軒が天保八年『江戸繁昌記』のために罪を獲て江戸払となってから諸方に流浪し、十三年の後隅田川のほとりなる知人某氏の別荘に始めておちつく事を得た時、日々見る所の江上の風光を吟じたもので、嘉永二年に刊刻せられた一冊子である。『江頭百詠』は詼謔を旨とした『繁昌記』の文とは異って静軒が詩才の清雅なる事を窺知らしむるものである。静軒は花も既に散尽した晩春の静なる日、対岸に啼く鶯の声の水の上を渡ってかすかに聞えてくる事のいかに幽趣あるかを説いて下の如くに言っている。「凡ソ物ノ声、大抵隔ツテ聴クヲ好シトス。読書木魚琴瑟等ノ声最然リトナス。鳩ノ雨ヲ林中ニ喚ビ、雁ノ霜ヲ月辺ニ警シメ、棊声ノ竹ヲ隔テ、雪声ノ窓ヲ隔ツ。皆愛スベキナリ。山行伐木ノ声、渓行水車ノ声並ニ遠ク聴クベシ。遊舫ノ笙、漁浦ノ笛モ遠ケレバ自ラ韻アリ。寺鐘、城鼓モ遠ケレバマタ趣キナキニアラズ。蛙声ノ枕ニ近クシテ喧聒ニ堪ヘザルガ如キモ、隔ツレバ則チ聴クベシ。大声モト聴クニ悪シ。林ヲ隔ツレバ則チ趣ホボ水車ニ等シ。カツ村ノアルコトヲ報ズルヤ山行中人ヲシテ喜意ヲ生ゼシム。コレマタ愛シテ聴クベキナリ。馬ノ蒭ヲ食フ。モトヨリ何ノ趣アランヤ。独寒駅ノ泊リ壁ヲ隔テテコレヲ聞ケバ大ニ趣ヲ成ス。晁氏ガ小雨暗々トシテ人寐ネズ。臥シテ聴ク羸馬ノ残蔬ヲ齕ムトイフトコロコレナリ。鶯声ノ耳ニ上ル近キモマタ愛スベシ。今水ヲ隔テテコレヲ聴ク。殊ニ趣アルヲ覚ユ。」
寺門静軒が『江頭百詠』を刻した翌年嘉永
三年遠山雲如が『墨水四時雑詠』を刊布した。雲如は江戸の商家に生れたが初文章を長野豊山に学び、後に詩を梁川星巌に学び、家産を蕩尽した後一生を旅寓に送った奇人である。晩年京師に留り遂にその地に終った。雲如の一生は寛政詩学の四大家中に数えられた柏木如亭に酷似している。如亭も江戸の人で生涯家なく山水の間に放吟し、文政の初に平安の客寓に死したのである。
遠山雲如の『墨水四時雑詠』には風俗史の資料となるべきものがある。島田筑波さんは既に何かの考証に関してこの詩集中の一律詩を引用しておられたのを、わたくしは記憶している。それは
年年秋月与二春花一 〔年年 秋の月と春の花と
行楽何知鬢欲レ華 行楽して何ぞ知らん鬢華らんと欲するを
隔レ水唯開川口店 水を隔てて唯だ開く川口の店
背レ隄空鎖葛西家 隄を背にして空しく鎖す葛西の家
紅裙翠黛人終老 紅裙翠黛 人は終に老い
冷蜨寒烟路自賒 冷蜨寒烟 路は自ずから賒し
憔悴一般楊柳在 憔悴一般の 楊柳在りて
風前猶剰旧夭斜 風前に猶お剰す旧夭の斜めなり〕
の一篇である。これによって三囲堤の下にあった葛西太郎という有名な料理屋は三下りの俗謡に、「夕立や田をみめぐりの神ならば、葛西太郎の洗鯉、ささがかうじて狐拳。」と唱われていたほどであったのが、嘉永三年の頃には既に閉店し、対岸山谷堀の入口なる川口屋お直の店のみなお昔日に変らず繁昌していたことが知られる。
川口屋の女主お直というは吉原の芸妓であったが、酒楼川口屋を開いて後天保七年に隅田堤に楓樹を植えて秋もなお春日桜花の時節の如くに遊客を誘おうと試みた。この事は風俗画報『新撰名所図会』に『好古叢誌』の記事を転載して説いているから茲に贅せない。
わたくしの言わむと欲する所は、隅田川の水流は既に溝涜の汚水に等しきものとなったが、それにもかかわらず旧時代の芸術あるがために今もなお一部の人には時として幾分の興趣を催させる事である。わが旧時代の芸文はいずれか支那の模倣に非らざるはない。そはあたかも大正昭和の文化全般の西洋におけるものと異るところがない。我国の文化は今も昔と同じく他国文化の仮借に外ならないのである。唯仔細に研究し来って今と昔との間にやや差異のあるが如く思われるのは、仮借の方法と模倣の精神とに関して、一はあくまで真率であり、一は甚しく軽浮である。一は能く他国の文化を咀嚼玩味して自己薬籠中の物となしたるに反して、一は徒に新奇を迎うるにのみ急しく全く己れを省る遑なきことである。これそも何が故に然るや。今人の智能古人に比して劣れるが故か。将また時勢の累するところか。わたくしは知らない。わたくしは唯墨堤の処々に今なお残存している石碑の文字を見る時鵬斎米庵らが書風の支那古今の名家に比して遜色なきが如くなるに反して、東京市中に立てる銅像の製作西洋の市街に見る彫刻に比して遥に劣れるが如き思をなすのみである。江戸旧文化の支那模倣は当代の西洋模倣に比較して、誰か優劣なしと言い得るものがあろう。
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風隨筆 四」岩波書店
1982(昭和57)年2月17日第1刷発行
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、旧仮名部分のルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2019年12月12日修正
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