夏の町
永井荷風
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枇杷の実は熟して百合の花は既に散り、昼も蚊の鳴く植込の蔭には、七度も色を変えるという盛りの長い紫陽花の花さえ早や萎れてしまった。梅雨が過ぎて盆芝居の興行も千秋楽に近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑の明い寂寞が都会を占領する。
しかし自分は子供の時から、毎年の七、八月をば大概何処へも旅行せずに東京で費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れた自分の身には何処へも行くべき郷里がないからである。第二には、両親は逗子とか箱根とかへ家中のものを連れて行くけれど、自分はその頃から文学とか音楽とかとにかく中学生の身としては監督者の眼を忍ばねばならぬ不正の娯楽に耽りたい必要から、留守番という体のいい名義の下に自ら辞退して夏三月をば両親の眼から遠ざかる事を無上の幸福としていたからである。
たしか中学を卒業する前の年の事かと記憶する。どういう訳か逗子へ半月ばかり行っていた時の事を半紙二帖ほどに書いたものが、今だに自分の手篋の底に保存されてある。成島柳北が仮名交りの文体をそのままに模倣したり剽窃したりした間々に漢詩の七言絶句を挿み、自叙体の主人公をば遊子とか小史とか名付けて、薄倖多病の才人が都門の栄華を外にして海辺の茅屋に松風を聴くという仮設的哀愁の生活をば、いかにも稚気を帯びた調子でかつ厭味らしく飾って書いてある。全篇の題は紅蓼白蘋録というので挿入した絶句の中には、
已見秋風上二白蘋一。 〔已に見る秋風 白蘋に上り
青衫又汚二馬蹄塵一。 青衫又た馬蹄の塵に汚る
月明今夜消魂客。 月明るく 今夜 消魂の客
昨日紅楼爛酔人。 昨日は紅楼に爛酔するの人
年来多病感二前因一。 年来 多病にして前因を感じ
旧恨纏綿夢不レ真。 旧恨 纏綿として夢真ならず
今夜水楼先得レ月。 今夜 水楼 先ず月を得て
清光偏照善愁人。 清光 偏えに照らす 善だ愁うの人〕
なぞいうのがあった。今日読返して見ると覚えず噴飯するほどである。わずか十四、五歳の少年が「昨日は紅楼に爛酔するの人」といっているに至っては、文字上の遊戯もまた驚くべきではないか。しかし自分は近頃十九世紀の最も正直なる告白の詩人だといわれたポオル・ヴェルレエヌの詳伝を読み、
Les sanglots longs
Des violons
De l'automne……
「秋の胡弓の長き咽び泣き」という彼の有名な La chanson d'automne(秋の歌)の一篇の如きはヴェルレエヌが高踏派の詩人として最も幸福なる時代の作で、その時分には妻もあり友達もあり一定の職業もあった事を伝記の著者から教えられた。して見ると、「過ぎし日の事思出でて泣く、」といったりあるいは末節の、「われは此処彼処にさまよう落葉」といったのはやはり詩人の Jeux d'esprit(心の遊戯)であったのだ。しかし自分は無論己れを一世の大詩人に比して弁解しようというのではない。唯晩年には Sagesse の如き懺悔の詩を書いた人にも或時はかかる事実があったものかと不思議に感じた事を語るに過ぎぬのである。
私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の両月を大川端の水練場に送った事である。
自分は今日になっても大川の流のどの辺が最も浅くどの辺が最も深く、そして上汐下汐の潮流がどの辺において最も急激であるかを、もし質問する人でもあったら一々明細に説明する事の出来るのは皆当時の経験の賜物である。
午後に夕立を降して去った雷鳴の名残が遠く幽に聞えて、真白な大きな雲の峰の一面が夕日の反映に染められたまま見渡す水神の森の彼方に浮んでいるというような時分、試に吾妻橋の欄干に佇立み上汐に逆って河を下りて来る舟を見よ。舟は大概右岸の浅草に沿うてその艪を操っているであろう。これは浅草の岸一帯が浅瀬になっていて上汐の流が幾分か緩であるからだ。しかし中洲の河沿いの二階からでも下を見下したなら大概の下り船は反対にこの度は左側なる深川本所の岸に近く動いて行く。それは大川口から真面に日本橋区の岸へと吹き付けて来る風を避けようがためで、されば水死人の屍が風と夕汐とに流れ寄るのはきまって中洲の方の岸である。
自分が水泳を習い覚えたのは神伝流の稽古場である。神伝流の稽古場は毎年本所御舟蔵の岸に近い浮洲の上に建てられる。浮洲には一面蘆が茂っていて汐の引いた時には雨の日なぞにも本所辺の貧い女たちが蜆を取りに出て来たものであるが今では石垣を築いた埋立地になってしまったので、浜町河岸には今以て昔のように毎年水練場が出来ながら、わが神伝流の小屋のみは他所に取払われ、浮洲に茂った蘆の葉は二度と見られぬものとなった。
一通遊泳術の免許を取ってしまった後は全く教師の監督を離れるので、朝早く自分たちは蘆のかげなる稽古場に衣服を脱ぎ捨て肌襦袢のような短い水着一枚になって大川筋をば汐の流に任して上流は向島下流は佃のあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に這上って犬のように川端を歩き廻る。
濡れた水着のままでよく真砂座の立見をした事があった。永代の橋の上で巡査に咎められた結果、散々に悪口をついて捕えられるなら捕えて見ろといいながら四、五人一度に橋の欄干から真逆様になって水中へ飛込み、暫くして四、五間も先きの水面にぽっくり浮み出して、一同わアいと囃し立てた事なぞもあった。
泳ぐ事もできず裸体で川端を横行する事も出来ぬ時節になっても、自分はやはり川好きの友達と一緒に中学校の教場以外の大抵な時間をば舟遊びに費した。
われわれは無論ボオトも漕いだ。しかしボオトは少くとも四、五人の人数を要する上に、一度櫂を揃えて漕出せば、疲れたからとて一人勝手に止める訳には行かないので、横着で我儘な連中は、ずっと気楽で旧式な荷足舟の方を選んだ。その時分にはボオトの事をバッテラという人も多かった。浅草橋の野田屋や築地の丁字屋から借舟をするにしても、バッテラと荷足とは一日の借賃に非常な相違があった。
土曜といわず日曜といわず学校の帰り掛けに書物の包を抱えたまま舟へ飛乗ってしまうのでわれわれは蔵前の水門、本所の百本杭、代地の料理屋の桟橋、橋場の別荘の石垣、あるいはまた小松島、鐘ヶ淵、綾瀬川なぞの蘆の茂りの蔭に舟をつないで、代数や幾何学の宿題を考えた事もあった。同時にまた、教科書の間に隠した『梅暦』や小三金五郎の叙景文をば目の当りに見る川筋の実景に対照させて喜んだ事も度々であった。
かかる少年時代の感化によって、自分は一生涯たとえ如何なる激しい新思想の襲来を受けても、恐らく江戸文学を離れて隅田川なる自然の風景に対する事は出来ないであろう。
鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出来ていたものである。それらの新しい勢力は事実において日に日に土手や畠や河岸や蘆の茂りを取払って行きつつあるが、しかし何らの感化をも自分の心の上には及ぼさなかったのだ。黒煙を吐く煉瓦づくりの製造場よりも人情本の文章の方が面白く美しく、乃ち遥に強い印象を与えたがためであろう。十年十五年と過ぎた今日になっても、自分は一度び竹屋橋場今戸の如き地名の発音を耳にしてさえ、忽然として現在を離れ、自分の生れた時代よりも更に遠い時代へと思いを馳するのである。
いかに自然主義がその理論を強いたにしても、自分だけには現在あるがままに隅田川を見よという事は不可能である。
自然主義時代の仏蘭西文学は自分にはかえって隅田川に対する空想を豊富ならしめた傾がある。
モオパッサンはその短篇中に描いたセエヌ河の舟遊びによって、漫にわれわれの過ぎ去った学生時代を意味深く回想させ、ゴンクウル兄弟が En 18… の篇中に書いた月夜ムウドンの麗しい叙景は、蘆と水楊の多い綾瀬あたりの風景をよろこぶ自分に対して更に新しく繊巧なる芸術的感受性を洗練せしめた。ゾラは『田園(Aux champs)』と題する興味ある小品によって、近頃の巴里人が都会の直ぐ外なるセエヌ河畔の風景を愛するようになったその来歴を委しく語って、偶然にも自分をして巴里人と江戸の人との風流を比較せしめた。
ゾラの所論によると昔の巴里人は郊外の風景に対して今日の巴里人が日曜日といえば必ず遊びに出掛るような熱心な興味を感じてはいなかった。その証拠は時代風俗の反映たるべき文学を見ても、十七、八世紀の文学上には一ツとして今日の抒情詩人が歌っているような「自然」に対する感想を窺う事は出来ない。ルッソオ出でて始めて思想は一変し、シャトオブリアンやラマルチンやユウゴオらの感激によって自然は始めて人間に近付けられた。最初希臘芸術によって、divinisée(神らしく)された自然、仏蘭西古典文学によって度外視された自然は、ロマンチズムの熱情によって始めて humanisée(人間らしく)せられた。しかしユウゴオやラマルチンはまだ一度も巴里郊外の自然をそが抒情詩の直接の題材にして歌った事はない。それはかの通俗小説の作家として今では最う忘れられようとしている Paul de Kock を以て嚆矢と見做さなければならぬ。ポオル・ド・コックは何も郊外の風景その物を写生する目的ではないが、今から五、六十年前 Louis-Philippe 王政時代の巴里の市民が狭苦しい都会の城壁を越えて郊外の森陰を散歩し青草の上で食事をする態をば滑稽なる誇張の筆致を以てその小説中に描いたのである。その時代から一般の風俗は次第に変って来てポオル・ド・コックの後には画家の一団体が盛に巴里郊外の勝地を跋渉し始めた。今日では誰も知っている彼の Meudon の佳景を発見したのは自然を写生するために古典の形式を破棄した Français 一派の画工である。それからずっと上流の Mantes までを探ったのは Daubigny である。今まではその地名さえも知られなかったセエヌの河畔は忽ちの間に散歩の人の雑沓を来すようになって、最初の発見者 Daubigny はとうとうセエヌ河の本流を見捨て Oise の支流を溯って Anvers の遠方へ逃げ込み、Corot はやっと水溜りや大木の多い、Ville d'Avray に踏み留るようになった。
この記事から飜て向島と江戸文学との関係を見ると、江戸の人は時代からいえば巴里人よりももっと早くから郊外の佳景に心附いていたのだ。俳諧師の群は瓢箪を下げて江東の梅花に「稍とゝのふ春の景色」を探って歩き、蔵前の旦那衆は屋根舟に芸者と美酒とを載せて、「ほんに田舎もましば焚く橋場今戸」の河景色を眺めて喜んだ。
最初河水の汎濫を防ぐために築いた向島の土手に、桜花の装飾を施す事を忘れなかった江戸人の度量は、都会を電信柱の大森林たらしめた明治人の経営に比して何たる相違であろう。
巴里の人たちは今でも日曜日には家族を引連れて郊外の青草の上で葡萄酒を飲む。しかしわれわれの新しき時代は絵のような美しい伝統を破棄するの急務に追われているばかりである。
この二、三日方々から頻に絵葉書が来る。谷川を前にした温泉宿や松の生えた海辺の写真が来る。友達は皆例の如く避暑に出かけたのだ。しかし自分はまだ何処へも行こうという心持にはならない。
縁先の萩が長く延びて、柔かそうな葉の面に朝露が水晶の玉を綴っている。石榴の花と百日紅とは燃えるような強い色彩を午後の炎天に輝し、眠むそうな薄色の合歓の花はぼやけた紅の刷毛をば植込みの蔭なる夕方の微風にゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの風鈴の音──自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。
モオパッサンの短篇小説 Les Sœurs Rondoli(ロンドリ姉妹)の初めに旅行の不愉快な事が書いてある。
「……転地ほど無益なものはない。汽車で明す夜といえば動揺する睡眠に身体も頭も散々な目に逢う。動いて行く箱の中で腰の痛さに目が覚める。皮膚が垢だらけになったような気がする。いろいろな塵が髪と眼の中へ飛込む。すうすう風の這入って来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせると旅行と称する娯楽の嫌悪すべき序開である。
先この急行列車の序開があった後には旅館の淋しさ。人が一ぱいいながら如何にもがらんとした広い旅館。見も知らぬ気味悪い部屋、怪気な寝床の淋しさが続いて来る。私には何がさて置き自分の寝床ほど大切なものはない。寝床は人生の神聖なる殿堂である。人は生活を赤裸々にして羽毛蒲団の暖さと敷布の真白きが中に疲れたる肉を活気付けまた安息させねばならぬ。
恋愛と睡眠の時間。われわれが生存の最も楽しい時間を知るのは寝床である。寝床は神聖だ。地上の最も楽しく最も好いものとして敬い尊び愛さねばならぬものだ。
それ故私は旅館の寝床の毛布を引捲る時にはいつも嫌悪の情に身を顫わす。ここで昨夜は誰れが何をした。どんな不潔な忌わしい奴がこの蒲団の上に寝たであろう。私は人がよく後指さして厭がる醜い傴僂や疥癬掻や、その手の真黒な事から足や身体中はさぞかしと推量されるように諸有る汚い人間、または面と向うと蒜や汗の鼻持ちならぬ悪臭を吹きかける人たちの事を想像するし、不具者や伝染病や病人の寝汗や、人間の身体の汚いという汚いもの、醜いという醜いものを想像する。
自分が寝ようとする寝床にはそういう醜いものが寝たかも知れぬ、と思うと、私は其処へ片足を踏入れるのが何ともいいようのないほど厭である。」
これは無論西洋の旅館の話だ。日本の旅館にはそれに優るとも敢て劣らぬ同じ蒲団の気味悪さに、便所とそれから毎朝顔を洗う流し場の不潔が景物として附加えられてある。
便所の事はいうまい。もしこれが自分の家であったら、見知らぬ人に寝起のままの乱れた髪や汚れた顔を見せずとも済むものを、宿屋に泊る是非なさは、皺だらけになった寝衣に細いシゴキを締めたままで、こそこそと共同の顔洗い場へ行かねばならない。
洗場の流は乾く間のない水のために青苔が生えて、触ったらぬらぬらしそうに輝っている。そして其処には使捨てた草楊枝の折れたのに、青いのや鼠色の啖唾が流れきらずに引掛っている。腐りかけた板ばめの上には蛞蝓の匐た跡がついている。何処からともなく便所の臭気が漲る。
衛生を重ずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事様でもお泊りになるべきその土地最上等の旅館へ上って大に茶代を奮発せねばならぬ。単に茶代の奮発だけで済む事なら大した苦痛ではないが、一度び奮発すると、そのお礼としてはいざ汽車へ乗って帰ろうという間際なぞに極って要りもせぬ見掛ばかり大きな土産物をば、まさか見る前で捨てられもせず、帰りの道中の荷厄介にと背負い込せられる。日本の旅館の不快なる事は毎朝毎晩番頭や内儀の挨拶、散歩の度々に女中の送迎、旅の寂しさを愛するものに取ってはこれ以上の煩累はあるまい。
何処へ行こうかと避暑の行先を思案している中、土用半には早くも秋風が立ち初める。蚊遣の烟になお更薄暗く思われる有明の灯影に、打水の乾かぬ小庭を眺め、隣の二階の三味線を簾越しに聴く心持……東京という町の生活を最も美しくさせるものは夏であろう。一帯に熱帯風な日本の生活が、最も活々として心持よく、決して他人種の生活に見られぬ特徴を示すのは夏の夕だと自分は信じている。
虫籠、絵団扇、蚊帳、青簾、風鈴、葭簀、燈籠、盆景のような洒々たる器物や装飾品が何処の国に見られよう。平素は余りに単白で色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺㦸的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧する夏の夕を除いて他にはあるまい。
町中の堀割に沿うて夏の夕を歩む時、自分は黙阿弥翁の書いた『島鵆月白浪』に雁金に結びし蚊帳もきのふけふ──と清元の出語がある妾宅の場を見るような三味線的情調に酔う事がしばしばある。
観潮楼の先生もかつて『染めちがえ』と題する短篇小説に、西鶴のような文章で浴衣と柳橋の女の恋を書かれた事があった。それをば正直正太夫という当時の批評家が得意の Calembour を用いて「先生の染めちがえは染ちがえなり。」と罵った事をも私は明治小説史上の逸話として面白く記憶している。
いつぞや(二十三、四の頃であった)柳橋の裏路地の二階に真夏の日盛りを過した事があった。その時分知っていたこの家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外の物干台へ照付ける日の光の眩さに辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には音羽屋格子や水玉や麻の葉つなぎなど、昔からなる流行の浴衣が新形と相交って幾枚となく川風に飜っている。其処から窓の方へ下る踏板の上には花の萎れた朝顔や石菖やその他の植木鉢が、硝子の金魚鉢と共に置かれてある。八畳ほどの座敷はすっかり渋紙が敷いてあって、押入のない一方の壁には立派な箪笥が順序よく引手のカンを并べ、路地の方へ向いた表の窓際には四、五台の化粧鏡が据えられてあった。折々吹く風がバタリと窓の簾を動すと、その間から狭い路地を隔てて向側の家の同じような二階の櫺子窓が見える。
鏡台の数だけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに戯いかける。揚句の果に誰かが「髪へ触っちゃ厭だっていうのに。」と癇癪声を張り上げるが口喧嘩にならぬ先に窓下を通る蜜豆屋の呼び声に紛らされて、一人が立って慌ただしく呼止める、一人が柱にもたれて爪弾の三味線に他の一人を呼びかけて、「おやどうするんだっけ。二から這入るんだッけね。」と訊く。
坐るかと思うと寝転ぶ。寝転ぶかと思うと立つ。其処には舟底枕がひっくり返っている。其処には貸本の小説や稽古本が投出してある。寵愛の小猫が鈴を鳴しながら梯子段を上って来るので、皆が落ちていた誰かの赤いしごきを振って戯らす。
自分は唯黙って皆のなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろの艶しい身の投げ態をした若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自分をして丁度、宮殿の敷瓦の上に集う土耳其美人の群を描いたオリヤンタリストの油絵に対するような、あるいはまた歌麿の浮世絵から味うような甘い優しい情趣に酔わせるからであった。
自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している……
これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉造りの運送問屋のつづいた堀留あたりを親父橋の方へと、商家の軒下の僅かなる日陰を択って歩いて行った時、あたりの景色と調和して立去るに忍びないほど心持よく、倉の間から聞える長唄の三味線に聞取れた事がある。
歌は若い娘の声、絃は高音を入れた連奏である。この音楽があったために倉続きの横町の景色が生きて来たものか、あるいは横町の景色が自分の空想を刺㦸していたために長唄がかくも心持よく聞かれたのか、今ではいずれとも断言する事はできない。真正の音楽狂はワグネルの音楽をばオペラの舞台的装置を取除いて聴く事をかえって喜ぶ。しかしそれとは全然性質を異にする三味線はいわば極めて原始的な単純なもので、決して楽器の音色からのみでは純然たる音楽的幻想を起させる力を持っていない。それ故日本の音楽にはいつも周囲の情景がその音楽的効果の上に欠くべからざる必要を生ぜしめるのはやむをえぬ事であろう。
その日は照り続いた八月の日盛りの事で、限りもなく晴渡った青空の藍色は滴り落つるが如くに濃く、乾いて汚れた倉の屋根の上に高く広がっていた。横町は真直なようでも不規則に迂曲っていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の桟橋から下る堀割の水の面が丁度洞穴の中から外を覗いたように、暗い倉の中を透してギラギラ輝って見える。荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞んで凉んでいると、往来際には荷車の馬が鬣を垂して眼を細くし、蠅の群れを追払う元気もないようにじっとしている。運送屋の広い間口の店先には帳場格子と金庫の間に若い者が算盤を弾いていたが人の出入りは更に見えない。鼠色した鳩が二、三羽高慢らしく胸を突出して炎天の屋根を歩いていると、荷馬の口へ結びつけた秣桶から麦殻のこぼれ落ちるのを何処から迷って来たのか痩せた鶏が一、二羽、馬の脚の間をば恐る恐る歩きながら啄んでいた。人通は全くない。空気は乾いて緩に凉しく動いている。
自分はいつも忙しかるべきこの横町の思いもかけぬ夜のような寂寞と沈滞とに、新しい強い興味に誘われながら歩いて来た時、立続く倉の屋根に遮られて見えない奥の方から勢よく長唄の三味線の響いて来るのを聞いたのである。炎天の明い寂寞の中に二挺の三味線は実によくその撥音を響かした。
自分は「長唄」という三味線の心持をばこの瞬間ほどよく味い得た事はないような気がした。長唄の趣味は一中清元などに含まれていない江戸気質の他の一面を現したものであろう。拍子はいくら早く手はいくら細くても真直で単調で、極めて執着に乏しく情緒の粘って纏綿たる処が少い。しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に越すものはあるまい。
端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の娘の姿をば自分は長唄の三味線の音につれてありありと空想中に描き出した。そして八月の炎天にもかかわらず、わが空想のその乙女は襟附の黄八丈に赤い匹田絞の帯を締めているのであった。
順序なく筆の行くがままに、最う一ツ我が夏の記憶を茲に語らしめよ。
山の手の深い堀井戸の水を浴びようとかいうので、夏は水道の水の生温きを喞つ下町の女たち二、三人づれで目黒の大黒屋へ遊びに行く途中であった。茂った竹藪や木立の蔭なぞに古びた小家の続く場末の町の小径を歩いて行く時、自分はふいと半ば枯れかかった杉垣の間から、少しばかり草花を植えた小庭の竹竿に、女の浴衣が一枚干し忘れられたように下っているのを目にした。
下町でも特別の土地へ行かねば決して見られぬあらい肩抜の模様の浴衣である。それが洗い晒されて昔を忍ぶ染色は見るかげなく剥げていた。青いものは川端の柳ばかり、蝉の声をも珍しがる下町の女の身の末が、汽車でも電車でも出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に、突然人間の零落、老衰、病死なぞいう特種の悲惨を附加えて見ずにはいられなかった。
下町の女の浴衣をば燈火の光と植木や草花の色の鮮な間に眺め賞すべく、東京の町には縁日がある。カンテラの油煙に籠められた縁日の夜の空は堀割に近き町において殊に色美しく見られる。自分は毎年のようにこの年の夏も東京に居残りはしまいか。
もう八月も十日近くなった……
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風隨筆 一」岩波書店
1981(昭和56)年11月17日第1刷発行
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2019年12月12日修正
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