発行所の庭木
高浜虚子
|
発行所の庭には先づ一本の棕梠の木がある。春になつて粟粒を固めた袋のやうな花の簇出したのを見て驚いたのは、もう五六年も前の事である。それ迄棕梠の花といふものは、私は見た事がなかつたのである。見た事はあつても心に留まらなかつたのである。それがこの家に移り住むやうになつて新しく毎日見る棕梠の梢から、黄いろい若干の袋が日に増し大きくなつて来るのを見て始めて棕梠の花といふものを知つた時は一つの驚異であつた。その後の棕梠には格別の変化も無い。梢から矢の如く新しい沢山の葉が放出すると同時に、下葉の方は葉先から赤くなつて来て幹に添ふて垂下して段々と枯れて行く。この新陳代謝は絶えず行はれつつある。或時私は座敷の机にもたれて仕事をして居ると、軒端に何か物影がさして其処に烈しい羽搏きの音が聞えたので驚いて見ると、それは半ば枯れて下つてゐる一本の棕梠の葉に止まつた烏が、自分の重みで其の葉を踏折つた、それに驚いて羽搏いてゐる処であつた。丁度私が見上げた時は、其折れた棕梠の葉を踏み外しながら、烏は羽搏いて他の簇出してゐる棕梠の葉の間から大空へ逃げて行かうとする処であつた。
そこには二本の松の木があつたが、其一本は枯れてしまつた。此松の木が緑を吹く事が年々少なくなつて来て、頼み少なくなつて来た時は何となく厭な心持であつた。どうかして蘇生さして遣りたいと思つて、植木屋に頼んで或る薬を根本に濺がした。それから二升ばかりの酒を惜し気もなく呉れて遣つた事もあつた。それでも勢を盛り返さなかつた。植木屋の説によるとこれは隣の楓が余りはびこる為めであらうとの事であつたので、其楓を坊主に切つた事もあつた。又た植木屋が云ふには、これは此処にある塗池が破損してゐて水が漏る為めに松が痛むのである、この池を潰してしまつたならば助かるかも知れないと。私は又た容易に植木屋の言葉を信じて、その池を潰してしまつた。年とつた植木屋は何日か続けて遣つて来て相当の賃銀を握つて帰つたが、それは全く徒労であつた。其次に植木屋の来た時に、愈々その松には望を絶つてそれを掘り起して、雪隠の蔭になつてゐた一本の槙をそこに移し植ゑた。この槙は十両とか二十両とかの値打があると植木屋が讃めた程あつて、今迄雪隠の蔭にあつた時は気がつかなかつたが明るみに出して見ると品格のある木となつた。今一本の松の木は枯れた松よりは古木であつて枝振りも面白いから大事になさいと植木屋が言つたが、其後手が届かぬのでこれも段々下枝から枯れて行くやうだ。それでもまだ可なりな緑を吹いて此の方は大丈夫らしい。
その外には二本の青桐と金目が五六本と柘榴などがある。長さ五間の板塀にくつついて是等の木は並べて植ゑられてある。さうしてそれらの木は皆共同の一つの目的を持つて居る。其は外でもない。発行所の前は駄菓子などを売つてゐる小さい店屋が並んでゐて、それらの店屋は皆二階を持つて居る。始めは只一つの店屋が二階を持つて居つただけであるが、其後段々殖えて来て、発行所の前に並んでゐる四五軒の店屋は悉く二階を作つた。それはめいめいの家が有福になつて作つたのでは無く、だんだん暮しが苦しくなつて来るにつれて、各々二階を建て増して間貸をしてそれを暮しの足しにして行くのである。其二階に来て住まふ人は大概夫婦暮しで、若い夫婦もあれば老人夫婦もあり、商売人らしいのもあれば腰弁らしいのもあつた。僅か六畳か八畳の一間と思はれるのに、割合大勢の人が住まつてゐる。二階を建て増して間貸しをするのも生活の苦しいのが原因であらうが、さう云ふ二階に来て住まつてゐるのも同じく生活の容易でない事を思はせる。それは兎も角として、それらの二階から我が発行所の仕事場を一と目に見下ろすのが不愉快である処から、私はすべてこれらの庭木をして、ただ二階の人々の眼を遮る障壁代りの働きをせしめる事に苦心してゐるのである。その目的に最もよく適つてゐるものは、嘗て松を枯らす原因と認められて坊主にされた楓の木であつて、これは一回や二回の乱伐には臆する色もなく、丈夫さうな枝を縦横に延べてそれに細かい葉を塗抹したやうにつけて居る。自然十両か二十両の槙をも犯せば枝振りの面白いといふ松をも犯して居る。楓に次いで繁茂してゐるのは二本の青桐で、其も松の上におつ被さるやうに葉を垂らしてゐる。
私はこの発行所を大工の工場の如きものだといつも人に言つて居る。私は此処に来ると只仕事をするばかりである。他の諸君も皆その通りである。もとこの発行所になつてゐる家を建てた人は、相当に建築道楽の人であつたと見えて、木柱なども可也贅沢なものが使つてある。然しそれらは私達の心を慰める程有効に役立つては居らぬ。木柱に罪があるわけではない。そこに住まつて仕事をして居る我等の心にゆとりが無くつて、それを愛賞する余裕を見出さないのである。我等が行き詰まるやうな心持で椅子に腰をかけて仕事をしてゐると、彼の貸二階の人々は同じくその狭い二階に膝をかがめ低い天井に背ぐくまつて、ゆとりの無い暮しをしてゐる様である。宜しく同病相憐れむべきであるが、其二階の人が高いところから我等を見下ろしてゐると気がつくと癪に障らざるを得ない。私は庭に様々な木を植ゑ並べてそれを防がうと苦心して居る。
俳句や文章を載せてゐる「ホトトギス」は読者に取つて息苦しいものではないであらう。けれどもそれを作るほととぎす発行所は相当に息苦しい場所である。我等は我等の力にあり余る位の仕事を此処でやつて行かねばならぬ。さうして気が飢ゑ神が疲れた時には仕事をするのが厭になつて、半ば眠つたやうな心持で時間を費すことも少くない。さう云ふ時に我等の気を引き立たせ我等の精神に鞭うつ或るものがある。それは外でもない、門前の小さい家に群生してゐる子供等で、此子供等は傍若無人に大きな声をして往来に活動して居る。往来は異論の申し立てやうもないが、我が発行所の門の所に四五人は愚か十人余りも佇んでゐて、それが喧々囂々として騒ぎ立てて居る。其中の三四人は並んで敷居に腰を掛けてゐるので、内から表の戸を開けようとしても開かぬ事がある。外から入つて来る時でもなかなかそこを退かうとはせぬ。いくら退けと云つても彼等は平然として腰を掛けてゐながら、じろじろと軽蔑の眼を以て人の顔を見て居る。時には表の戸を開けて庭の中まで闖入して来る事もある。彼等の親達はそれを見てゐて叱らうともしない。此方が表の戸を開けかねて困つてゐるのを見ても知らぬふりをしてゐる。発行所は六十坪足らずの地面に四十坪ばかりの建坪があるに過ぎないが、それがこの借家の並んでゐる中にあつては比較的大きい家なので、その小さい家に住まつてゐる人々の眼には、去年の嵐で倒れたのを仮修繕してゐる古びた板塀の発行所が余り愉快なものにうつつてゐないに相違ない。我等が神飢ゑ気疲れてテーブルの前に茫然としてゐる時に、気持よく我等の眠りを覚まし気分を引き立たせてくれるものは、この子供等の投げる石の音である。其石は丁度我等の頭の上の瓦に当つて戛と鳴つたと思ふと屋根を転げる音がして庭に落ちる。と思ふ間に又た第二の奴が気持よく頭上の瓦に当つて痛快に脳天に響く。と同時に歓声が門前で起る。此場合「石を投げてはいけない。」と社員の一人が怒鳴る。その声が寧ろ間が抜けて聞える。これらの子供の親達は矢張り門辺に立つて其子供のする事を見て居るのであるが、例によつてそれを止めようとはしない。それよりも「石を投げてはいかぬ。」と云ふ、発行所の中から響く声の聞えた時に其眼は異様に輝く。
これらの人々が発行所の我等に対して何事をか危害を与へて遣りたいと云ふ様な、そんな気の利いた考を持つてゐるとは見えぬ。我等はそれらの店で煙草を買ふこともある。それらの家の者に使を頼む事もある。或時は物を与へる事もある。私達が表を通る時には愛嬌よく彼等は辞儀をする。彼等が自ら手を下して貧しき者から富める者──其実発行所は富める者ではない。その住める家も十人並より小さき者である。只不幸にして彼等よりも富み、彼等よりも大きい家に住み、さうして彼等に近く位置してゐる。──に鬱憤を漏らさうと云ふ程の考も無い。唯それが子供の手によつてなさるる斯る悪戯は彼等に於て痛快な事であるに相違ない。我等は又た時々頭上に響く其礫の音を甘受しながら漸く眠りに落ちようとする心から覚醒して仕事にとりかかるのである。その礫の音、人の往来を妨げる人垣、それらは我等に我慢が出来る。唯我慢が出来ないのは彼の建て並べられた貸二階から栄養不良な眼を光らせてぎろぎろと見下ろされることである。斯る意味に於て私は植木屋が枝ぶりの面白いと云つた松にも、これは十両とか二十両とかの値打ちがあると云つた槙にも、格別の執着を持たぬ。唯冀ふところのものは総べての木が目隠しの役目を全うして呉れることである。
但し貸二階は発行所の前面ばかりではなく、裏側にも横側にもある。発行所は殆ど二階に取り巻かれて包囲攻撃を受けてゐるやうなものである。其中に在つて発行所は独り平屋で頑張つて居る。
底本:「近代浪漫派文庫 7 正岡子規 高浜虚子」新学社
2006(平成18)年9月11日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。