落葉降る下にて
高浜虚子
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私は今或る温泉に来て居る。此の温泉には二十年程前に一度来たことがある。其れは或る大病をした揚句であつて、其の時は医者から一度見放された位であつたのが幸いに快方に向つて、其の恢復期を此の温泉で過ごしたのであつた。二十年程前といふとまだ私は二十を沢山越してゐなかつたので、私は早婚ではあつたが、其の頃はまだ乳呑児が一人ある位のものであつた。
其の頃私はこゝの温泉につかりながら心は歓喜に充ちてゐた。すんでの事で死ぬるのであつたのが命をとりとめた、といふ喜びは喩へるにものが無かつた。私は毎日何をするといふ事無く、唯ぼんやりと温泉につかつて、洋々たる春のやうな前途を自分で祝福してゐた。家庭には漸く此の頃片言交りに喋り出した子供を抱いて若い妻は私の帰るのを待つてゐたし、其の頃私のやりかけて居つた事業も予想したよりは都合よく運びかけてゐたので、其れも此の際一発展すべく私の帰京を待つてゐるやうな始末であつた。此の際半月や一月帰るのが遅れたところで家庭の方も仕事の方もさうたいした不都合があるといふでは無し、其れよりも十二分に健康を恢復して、今後素晴らしい活動をせなければならぬといふやうな、何事につけても前途にのみ希望を繋いだ心の張りを持つて悠悠と此の温泉に漬つてゐたことを私は稍々古い昔の事のやうに思ひ出すのである。十年や二十年昔の事でも、恰も昨日の事のやうに思ふといふのが世間の常であるが、私はどういふものだか、其れが十年や二十年よりも、もつと古い事のやうに思ふのである。今此の宿に来て見ると、矢張り温泉は昔の通りの温泉、庭の大木は昔の通りの大木、裏を流るゝ川は昔の通りの川、周囲を取囲んでゐる山も昔の通りの山、温泉客を此処に運んで来る乗合馬車のラツパの響さへ昔の通りの響である。が、其れでゐて、其の二十年前の事を思ひ出して見ると、其れはもう古い〳〵昔の事のやうに思はれて、何だか違つた世の中の出来事のやうな心持さへするのである。隔世の感といふのは大方斯ういふ心持をいふのであらう。
今度来た私は鞄に一杯詰め込んで来た仕事の事のみを気にしてゐるのである。今の私に前途といふやうなものがあるであらうか。考へて見れば無いことも無いやうであるが、其れを考へてゐるよりも目の前に迫つて来てゐる仕事の方が強く自分を圧迫して来て、唯其れにのみあくせくしてゐるのである。此の宿の一間に陣取つて、此処で愈々若干日を過ごすことゝ極めた時も第一其の山の形も水の形も余り眼に入らなかつた。唯私の眼の前には仕事を詰め込んだ鞄が聳えてゐる許りであつた。
同じ温泉を浴びながらも私は昔の心持を呼び起こさうとさへ思はなかつた。あの頃唯一人の乳呑児を抱へてゐた妻も今はもう六人の子持ちである。もう皮膚にも光沢が無くなり髪の毛も薄くなつた中婆さんである。其の頃緒につきかけて有望なるものゝ如く思はれてゐた事業はどうであつたか、幾多の波瀾を経た後格別目ざましい事も無しに現在ある通りの状態である。今になつて見るとあの当時若い心を躍らした程のものでは無く、元来事業其のものが平々凡々たる詰ら無い事業であつたことが判るのである。其れでゐて私は毎日々々其の仕事に逐はれて、其の積り〳〵滞り〳〵した仕事を此の鞄の中に詰め込んで此の温泉に落延びて来た始末である。温泉に這入るのも余り運動を欠いて腹が空かぬので仕方無しに、運動代りに這入るのである。出て来るとすぐ日受のいゝ座敷に陣取つて仕事に取りかゝる。流石に山間であるから朝晩は冷えるけれども昼中は暖か過ぎる程暖い。
私の部屋の前には大きな槻の木がある。其れが盛んに落葉してをるのが明け暮れ眼に入る。風の吹く時などは目覚しい勢ひで大空から降つて来る。私の部屋の畳の上にもいつもから〳〵になつた奴が転げて居る。
私の部屋は川に臨んでゐて、部屋と川との間に狭い往来があるので、其処を通る人が私の部屋から見下ろされる。──私の部屋は往来より少し高くなつてゐる──或る時見るとも無しに見てゐると別に変つた風体といふでは無いけれども、何となく一目見て忘れることの出来ぬやうな四十四五の神経質らしい男がふと目に留まつた。其の日浴場に行つて見るとちやんと此の宿の湯風呂の中に首だけ出して漬つてゐた。別に人の顔を見るでも無く、同じ方を見詰めて静かにぢつと漬つてゐた。が、忽ち非常な勢ひではね上るやうに湯壺から出て、石鹸を頭の先から足の尖迄一度に塗つて、手桶に酌んだ湯を脳天からぶつかける容子などが余程せつかちのやうに見えた。かと思ふと又湯壺の中に漬つて極めて悠長に手足を伸ばしてゐた。稍痩せ地の皮膚のかさ〳〵してゐるのが目に立つて見えた。
其の日はそれぎりで物も言はなかつたが二三日して又同じ浴場で出逢つた。少し湯がぬるかつたので熱い元湯を出さうと思つて私は其の人に一寸断つた。
「少し熱い湯を出しますがよろしいでせうか。」
「よろしうございます。」
其の男は早口であつた。其れから大分熱くなつた湯に漬つた時其の男はそのかさ〳〵した皮膚を真赤にしてゐた。
「少し熱くし過ぎましたか知ら?」
「いえ、結構です。」
其の男は矢張り口数が少なかつた。其の日は其れ限りで物も言はなかつた。
仕事が運びかけたので少し落着きが出来て来た。其処で仕事の合間々々に私は此の文章を書いて見る気になつたのである。私は何を書くか判らぬが、唯考へ出した事、見聞した事などを順序も無く書いて見ようと思ふ。
私は十八の年に父を亡くしたのであつたが、其の時医師は何故に此の父を殺したのかと唯医師を怨めしく思つた。父は胃癌であつたのだから如何なる名医が出て来ても助かる筈は無かつたのであるが、其の当時の私は父は死ぬべき人で無かつたのを医師の不行届から殺したのだと考へた。理窟では人は死ぬるものだといふ事位百も承知してゐたのであるが、感情上どうしても自分の父が死ぬるものだとは考へられなかつた。其の時医師が私の顔色を見て其の座を外したのも尤もであつた。私は其の医師を撲り殺して遣り度い位に考へたのだもの。血相の変つた青年の顔を見て医師が恐れを為したのも尤もな次第であつた。其れから後私は随分親戚のものや友人の死ぬるのを見た。母が死んだ時には仕事の都合で帰省することが出来なかつて、其の死に目に逢はなかつた。神田の牛肉屋で友人と一緒に酒を飲んだあと飯を食つてゐる所へ死去の電報が来たので私は飯を吐き出して泣いた。長病であつたので、いつ死ぬるかといふ事は固より予期されなかつた。しかし折も折、牛肉で酒を飲んだ揚句飯を食つてゐるところへ此の報知を得たので私は自分の浅ましさを振り返つて口惜しかつた。私は友人に礼を失することなど忘れてしまつて、自分が主人であり乍ら、自分と一緒に牛肉を食つて酒を飲んだ友人が腹立たしくなつて、碌に友人には物も言はずに自分の家へ帰つて来て独りで足りるだけ泣いた。其れ程ではあつたけれどももう此の時は医師を恨むやうな心持は無くつて、母は早いか遅いか死なゝければならなかつたもの、其れが死んだのだとすぐあきらめてしまつた。沢山自分に親しいものが死んだ揚句、もう感情上にも自分の骨肉の死も世間の人の死と同様抗むことが出来ぬものと観念したのであつた。ところが其の考へが、自分の子供の上には又一応後戻りがして、私は殆ど最近に至るまで自分の子供は死ぬるもので無いやうな心持がしてゐた。私の第二女は壮健に生れついたのが、生れて間も無く百日咳に取つゝかれ其の揚句が肺炎になつたので、一時はもう助からぬものゝやうに医師は言つてゐた。親戚のものなども、もう私にあきらめた方がよからうなどゝ言つたが私はどうしても自分の子は死ぬるものでは無いと思つた。慥かに死なゝいといふ自信があつた。其れで私は自分一人が其の子を引受けて夜の目も寝ずに介抱した。医師は私の気違ひ染みたのに少しあきれてゐた。けれども其の結果其の子は助かつた。それから随分長い間病弱の児であつたが、もう尋常を卒業するのも間も無い昨今の年になつて余程強健になつた。其れから後に生れた児も、強健に生れて置きながら兎角風邪がもとで肺炎などになつて、又か〳〵と思ふ位であつたが、矢張り、自分の子供は死ぬるものか、といふ自信は強烈であつた。さうして又実際皆助かつた。皆相当に強健な児に育ち行つた。ところが此の自信も最近に至つて崩れてしまつた。といふのは私の六番目の子、其れは女にすると四番目に当るのであるが、其の第四女が、これは他の子供と違つて少し月足らずに生れたらしく、生れ乍ら弱かつた上に又例の肺炎にかゝつて、其の結果脳も少し悪くしたらしく、三つになつてまだ足も立たず首も据わらぬ位であつたが、其れが到頭梨の花の咲いてゐる時分に死んでしまつた。其の前から私は此の子供はもう到底助からぬものだと観念してしまつた。其れでも初めて肺炎になつた時は、矢張り前の多くの子供と同じやうに是非助ける積りで火鉢を入れて一室をぬくめたり、湿布をしたり、吸入をしたり、あらゆる手段を尽くしたが、其の結果脳を悪くしたらしく、肺炎はなほつても低能児みたやうな風になつてしまつた。其の後医者に聞いて見ると、もう斯かる肺炎の療法は旧式になつてゐるので、矢張り換気法をよくして、なるべく自然に則る方が、あとの結果がよいやうだと言つた。骨肉も尚ほ死ぬるものだといふ事は父母の死以来一応合点されてゐ乍ら、其れが自分の子供の上になると、何の理窟無しに決して死なぬといふ堅い自信を持つてゐたものが此の時以来がらりと崩れてしまつたのである。春になつてから肺炎が再発して、呼吸の数が四十になり六十になり八十になり、脈の数が百になり百二十になり百五六十になり、まだ歯も十分に生えてゐなかつた歯ぐきで苦痛の余り母の手に食ひついた、といふやうな事を聞いた時、私はもう其の子の顔を見るに忍びなかつた。其の子の介抱は妻に任せつきりにして表から帰つた儘すぐ座敷の机の前に坐つてしまつた。
「相変らず苦しさうです。少し見てやつて下さい。」と妻は言つた。其れには私の冷淡を怨むやうな語気が見えた。私は机の前を立上つて奥の間に行つて見た。其の子は睡つてゐるのであらう、呼吸の度に頭の動くのが見えて、見るからに苦しさうである。斯かる時小鼻を出来るだけ膨らませて、腫れ塞がつた肺臓に一生懸命に空気を吸込まうとする努力は私の幾度となく他の子供の肺炎の時に実見したところで、それは見てゐる方が一層苦痛を覚えるのであつた。が、此の時は正面に廻つて最早其れを見るに忍びなかつた。私は其の儘又座敷の机の前に坐つてしまつた。
此の態度が妻には不平であつた。其れも尤もの事であつた。今迄の子供の病気の時には殆ど妻には関係させない位にして私一人で介抱に当つて来たものであつた。それが此の子供に限つて、妻に一任して振り返らうともしないといふ事は随分惨酷な事のやうに解せられたであらう。又惨酷なことかも知れなかつたのである。けれども此の時分からの私には、もう死ぬるものを強ひて抱き止めようといふやうなそんな熱は無くなりかけてゐたのである。
「凡てのものゝ氓びて行く姿を見よう。」私はそんな事を考へてぢつと我慢して其の子供の死を待受けてゐたのである。呼吸を引取る朝は大分咳が楽さうで、肺部の腫が減じかけて痰が分解しかけたのだらうと思つた。けれども脈がだん〳〵と微弱になつて来て頼み少なく思はれた。医者はヂキタリスを用ゐてゐたので、もう其れが今日位から利くだらうと言つた。それがせめてもの頼みであつた。子供は此の日から私の机の置いてある座敷の方に移された。暫くの間非常に静かに眠つてゐるので私は妻に勧めて二人で表の空気を吸ひに出た。豆の花の咲いてゐる田圃路を一町許り歩いて帰つて見ると、病児の傍には長女が坐つてゐた。
「時々妙な声を出しますよ。」と長女は気味悪さうに言つた。成程丁度風が空洞に当つて鳴るやうな不思議な声を出した。呼吸を引取つたのはそれから間も無い事であつた。抱き上げると一層苦しげに体を藻掻くので此の一両日は抱かなかつた。其の為呼吸を引取る時も別に抱き上げようといふ心持が妻にも起らぬらしかつた。私も抱き上げてやれと妻に言はなかつた。三歳の少女は父母にも抱かれずに、風の空洞を吹くやうな声を残して其の儘瞑目してしまつたのである。
葬儀万端は私一人でした。人に頼んでやつて貰はねばならぬといふ程私の心は取乱してゐなかつたのである。
私は其の後度々墓参をした。
凡てのものゝ亡び行く姿、中にも自分の亡び行く姿が鏡に映るやうに此の墓表に映つて見えた。「これから自分を中心として自分の世界が徐々として亡びて行く其の有様を見て行かう。」私はぢつと墓表の前に立つていつもそんな事を考へた。
「何が善か何が悪か。」
「善悪不二」と言つたり「不思善不思悪」と言つたりする仏家の言を自分勝手に解釈して其の頃の自分の心持にぴつたりとはまるやうに思つたのも其の頃であつた。「善人すら成仏す、況んや悪人をや」と言つた親鸞上人の言葉が流石に達者の言として染々と受取れたのも其の頃であつた。
ぢつと考へて見ると私の頭の中には種々葛藤があつた。之を明るみに出して見たら自分乍ら鼻持ちのならぬやうなものが沢山ありさうに思へた。「さながら成仏の姿なり」と言つた仏家の言をこゝでも思ひ出して、即ち此の善悪混淆、薫蕕同居の現状其のままが成仏の姿だと解釈した。頭の中許りで無く、私の世間で遣つてゐる仕事が善か悪か正か邪か。凡て其れ等も疑問とせなければならなかつた。私は其れをも同じやうな考への下に正とも邪とも善とも悪とも考へようとはしなかつた。諸法実相といふのはこゝの事だ、唯ありの儘をありの儘として考へるより外は無いと思つた。
月給を貰つて会社の社員になつてゐる以上其の会社の規則に背いたら免職されるのは当然の事である。それと同じく社会、国家の一員である以上、其の社会、国家の種々の規則に背いた時其の制裁を受けるのは是亦当然の事といはねばならぬ。けれども私は私の考へてゐる事遣つてゐる事をすぐ其の世の中の規則で律し度いとは思はなかつた。世の中の規則で律しられるのは固より当然の事として恨まないが、自分で其れを律して見る気にはなれなかつたのである。自分は自由に考へよう、自由に遣らう、さうして善ければ社会的、国家的に栄えるであらう。悪ければ社会的、国家的に亡びるであらう、さながら山の起伏、水の流れ、それを眺めるのと同じやうに自分の事を眺めて見よう。私はそんな事を考へてゐた。
子供が死んでからもう一年半にもなる。自然私がそんな考へに住してからももう一年半になる訳である。さうしてどちらかといふと、私の事業は其の一年半の間にいくらか歩を進めた。一向栄えない仕事も此の一年半の間には比較的成功をした。が、たとひ幾ら成功しようともいくら繁昌しようとも、私は一人の子供の死によつて初めて亡び行く自分の姿を鏡の裏に認めたことはどうすることも出来無い。栄えるのも結構である。亡びるのも結構である。私は唯ありの儘の自分の姿をぢつと眺めてゐるのである。
仕事は相当に運んで行つた。
或る夕方私は窓に肱を凭せてぢつと其の辺の景色を眺めてゐた。部屋の前の槻の落葉は此の二三日最も盛んに降り注いでゐたと思つたが、もう梢に残つてゐる葉は余程少くなつてゐた。それでも風が吹く度に其の残り少ない葉を尚ほ見事に振り落すのであつた。それから此の槻の隣に今迄は殆ど常磐木かと思はれる程な青い色をしてゐた榎の葉が此の頃少し黄色を帯びて来た事が明らかに看取された。槻や榎は殆ど同時に落葉するものかと考へてゐたが、之で見ると大分遅速があるといふ事が判つた。
槻の残りの落葉が川面におつかぶさるやうに降り込む。其の川を隔てた向う岸の一軒の板葺屋には壁に「おもちや御土産いろ〳〵」などゝ書いた板が打つけてあつた、其れはおもちや屋の裏手になるのであるが私の泊つてゐる此の宿の客に見えるやうに其処に板が打ちつけてあるのであつた。其の隣りは芸者屋で、これも裏側だけが見えるのであるが、時々三味や太鼓が鳴るといふ外、一見してどうしても芸者屋とは思へなかつた。庭には霜枯れのした菊のあるのが破れた垣の間からちらついて、其の上には洗濯物が干してあつた。其の三味や太鼓も滅多には鳴らなかつた。少し川上の方には水車があつて、それは休む時無しに絶えず回転してゐた。霜の沢山降る朝などは其の辺の板葺屋も庭も畑も橋も石も、凡て天地一面に真白になるのであるが、其の中で此の水車だけはいつも水に濡れて黒い色をして廻つてゐた。私は草臥れた仕事の手を休めてぼんやり其れ等の景色を眺めてゐると、其の水車の手前の板橋の上を足早に歩いて来る一人の男が目に入つた。其の男は彼の湯風呂の中で逢つた男であつた。
丁度私のゐる部屋の前に来た時一寸帽子を取つて辞儀をした。
「私の座敷はこゝです。お立寄り下さいませんか。」と私から声をかけた。
「有難う。」と言つて其の男は其処に立ちどまつた儘私の方に背を向けて矢張り私の見て居つた方向を見た。
「貴方は何処にお泊りですか。」と私は其の男の宿をたづねた。
「私は一軒家を借りて家族と一緒に住まつてゐます。」
「今橋を渡つてお出のやうでしたが、川向うにお住居ですか。」
「さうです。あの水車の向う側の家を借りてゐます。」
日がだん〳〵と落つるに従つて南の山の上の雲は真赤な夕焼がし始めて、毎日続く此の頃の天気が、明日も又好晴であることを堅実に保証するやうに見えた。其の夕焼を見上げた其の男の顔はいつもよりは赤く彩られてゐた。
「一寸温泉に這入つて来ます。左様なら。」と言つて其の男はさつさと足早に行つた。宿の温泉に来るのかと思つたら、川中に在る外湯に這入つて行つた。
「兎に角変つてゐる。」と私は思つた。職業は何だらう。官吏の非職とか、会社を辞職して慰労金を貰つたとか、そんな風の人かも知れぬが、どうもさうらしく無いところもある。何だらう。と一寸判断がつかなかつた。
それから数日経つて私は夕飯後山腹の梅林のところを散歩した序に一つの径を尚ほ辿つて登つて行くと、其処に怪しげな或る場所のあるのが眼にとまつた。遠方からでも其の臭気で其れがすぐ火葬場だといふ事が判つた。私はどういふものだか火葬場には非常に縁が多い。流行病で亡くなつた私の兄を初めとして親戚のものや友人などを大分火葬場に連れて行つた。現に去年亡くした私の子も矢張り火葬場に連れて行つたのである。いくら設備がよく出来てゐるにしてもあの一種の臭気だけは遠方から鼻につく。況して此処の火葬場は全く野天で、松林の蔭になつてゐる或る空地に溝が掘つてあつて、其の辺は灰ともつかず人の脂ともつかぬやうなものが黒ずんだ色をして一面に土地を染めてゐる許りであるので、其の臭気は大分遠い処から私の鼻に伝つて来たのである。
「こんな所に火葬場があるのか。」と私は東京近傍の設備の十分に出来て居る火葬場許りを見て居つたので、此の荒寥たる光景を見て凄愴の感に打たれた。其の時ふと眼にとまつたのは其の溝のやうに掘つた穴の一方に小さい棺の置かれてあることであつた。「おや棺が置いてある。」と私は其れを凝視した。人も何もゐない此の火葬場に唯棺が裸の儘で一つ置かれてあるといふ事は少なからず私の心を脅かしたのであつた。
「どうしたのであらう。」
さう思ひ乍ら私は近づいて見た。其れは小さい棺であつた。まだ生後一二ヶ月しか経たない位の赤ん坊を入れたものと受取れた。其れにしても此棺を此の処に持つて来た人はゐないのだらうか。隠坊はゐないのだらうか。私は再び其辺を見廻して見たが、其れらしい人はゐなかつた。
私は心を落着けて四辺の容子を見た。其処に小さい一つの建物があつた。建物といふよりは盆の聖霊棚のやうな簡単なものに屋根だけはついてゐた。さうして其の棚の上に一つの位牌のやうなものが置いてあつた。夕暮の光にすかして見ると「釈迦牟尼仏」と書いてあつた。其の辺は埃だらけであつたが、其れでも其の前には線香立てがあつて、其れに一束の線香が燻つてゐた。これで見ると今は人がゐないけれども、此処に此の線香を供へた人が最近迄居たことだけはたしかに想像された。線香は硬い湿つた灰の中に乱雑に立てられたので、おもひ〳〵の方向に向いて、其の中には消えたのもあつた。
私はぢつとその「釈迦牟尼仏」といふ字に見入つた。其れは誰が書いたのか下手な粗末な字であつたが、其の場合いかにも権威ある貴い字に見られた。此の棺の中に這入つてゐる子供は誰の子供か、どういふわけで斯く淋しく此処に棄てられてあるのか、其れはどうであらうとも、兎に角此処に居る釈迦牟尼仏は其の絶対の権威で此のあはれな子供の亡骸を護つて居るやうな心持がした。万巻の経文の中に出て来る釈迦牟尼仏よりも、此の場合此の位牌の上に現はれて来てゐる釈迦牟尼仏は絶大の力があるものゝやうに私には受取れた。
暮れやすい日はもう大分其の辺を薄暗くして来たのであつたが、其の時片方の手に提灯をさげ片方の手に一束の薪を持つてひよつこり其処に現はれた一人の人があつた。提灯はまだ灯がともつてゐないので近よる迄其れがどんな人であるか判らなかつたが、近よつて見て初めて五十余りの男であることが判つた。
「今晩は。」と男は私の顔をしげ〳〵見乍ら挨拶した。一体私が何者かといふ事を余程不審に思つてゐるらしい容子であつた。
「こゝは火葬場だね。」と私は態とそんな事を言つて見た。其れが此の憐れな男の不安を打消すことにならうかと考へたからであつた。
「さうです。焼場ですよ。」
果たして男は、私が散歩の序に偶然斯んな処に来会はせた浴客であるといふ事を合点したらしく、落着いてさう答へた。
私は何処迄も散歩客のやうな風を見せようとして当ても無く其の辺をぶら〳〵してゐた。さうして見るとも無く其の男のすることを見てゐた。
男は先づ片方の手に提げてゐた薪を地上に下ろして、提灯を松の木にぶら下げた。其れから其の薪をほどきかけたが大分手許が暗くなつて来てゐるのに気が附いたらしく立上つて其の松の枝にかけた提灯を取り下ろして其れに火をつけ始めた。マツチをするその時大きな鼻と頑丈な手とが明かに照らし出された。
火のともつた提灯は置場所に困つて又もとの松の枝にかけられた。其れは大分距離があるので其の男の手許を照らすには十分で無かつた。
それでも其の覚束無い光の下に其の男は万事を取運ぶのであつた。先づ懐から二三本の蝋燭を取り出して地上に置いた。其れは此の提灯の蝋燭が尽きた時の準備と思はれた。それから先にほどきかけた薪の処ににじり寄つて其の中から蓆の切を四五枚選り出して傍に置いた。薪許りかと思つたら其の蓆の切も一緒に縛られてあつたのである。男はそれから溝の所に置いてあつた棺を抱くやうにして片側によせて、其の溝の底に先づ蓆の切を三枚許り置き、其の上に薪を交叉するやうに積重ね、其の上に又彼の棺を抱くやうにして載せ、更に其の上に残つた薪を積重ね、其の上に最後に蓆の切れの残りをかぶせた。
併し男は一向火をつける容子が無かつた。さうして尚ほ其の近処を立去らずにゐる私を又不審さうに眺め始めた。
「お前は頼まれて焼くのかね。」と私は又近よつて行つてたづねた。
「いゝえお前さん、これは私の孫の仏様です。」と其の男は不興さうに言つた。
「さうか、お前の孫さんなのか。可哀さうに、何病で死んだのかね。」
「矢張り脳の病気だね。僅か三日許りの患ひで取られました。」と声を曇らせた。
私は線香がもう燃え切つてしまつてゐる彼の建物の方を見た。提灯の光りは其処迄届かぬので、唯黒い小さな建物がぼんやりと見える許りであつたが、其の暗闇の中にも彼の釈迦牟尼仏と書かれた文字が明らかに目に映るやうに思はれた。
私は此の哀れなる男が其の棺の下の蓆の切れに火をつける前に其松林の蔭を出て帰路についた。山を下りながら後をふりかへつて見ると淋しい提灯の火影がものゝ陰になつたり現はれたりした。
彼の湯壺で逢つた男には其の後逢はなかつた。或る時又散歩の序に彼の水車小屋の処へ出て其れらしい家を心当てに探して見た。門や柱は大破の儘になつてゐる一軒の家に萱原といふ門標が出てゐた。門内には彼の芸者屋の裏庭に在るやうな霜枯れの菊が五六株あつた。私は大方此の内であらうと思ひ乍ら通り過ぎた。
その日部屋へ話しに来た番頭に彼の萱原の事を聞いて見た。何事をも早呑込する番頭は、私が彼の湯壺の中で逢つた男が萱原其人であるかどうかを慥かめる前に、滔々と萱原の事に就いて話した。
「あの萱原さんは何です。奥さんに関係したことか、それとも何か金銭上の事か、どうもあの方には何か秘密があるのだらう、といふ評判です。退役軍人だとかいふ噂がありますが、どう見てもさういふ柄には見えません。初め御夫婦連れで手前方へお見えになりまして半月位御逗留でしたが、一先御帰京になつて、そから又お見えになつて、今度はあの家を借りてお住居になつたのです。もう半年もゐらつしやいますでせう。奥様はよほどお美くしい方です。……」
そんな事を立てつゞけに喋つたが、つい彼の湯壺の中の男が萱原であるかどうかは聞くことが出来なかつた。けれども何か秘密のある男のやうだといふことが、ふと彼の男の神経質らしい顔に一層暗い影を投げた。
その晩の事であつた。警鐘が鳴つて「火事だ〳〵」と騒ぐ声が聞こえた。雨戸を開けて見ると水車場のすぐ向側と覚ゆるところに火が燃え上つてゐた。
「萱原の家に相違無い。」と私は直感的に思つた。「秘密のある男」と言つた番頭の言葉がすぐ其の火事と結びついて、其処に何か変事が無けりやならぬやうに思はれたのである。萱原夫婦の屍が火中から出る事をも想像して見た。夫婦は已に逃走して此の地にゐない事をも想像して見た。
が、翌朝になつて聞いて見ると、それは萱原の家では無かつたさうである。水車場の向うのやうに見えた火は夜だから近く見えたので半町も離れてゐたのださうである。
私はふと萱原の上にこちらから強ひて異変を待ち設けつゝあつたのだといふ事に気がついてをかしくなつた。其の上彼の湯壺の中で出逢つた男が果して萱原かどうか、それさへ確定したわけでは無いのだと思ふと噴き出しさうにをかしくなつて来た。
その後又萱原の門を通つたが、菊が一層霜枯れてゐる許りで門標にも其他にも何の異変も無かつた。又彼の男の無事な後ろ姿をも二三度見かけた。
却つて一つの変事ともいふべきは、いつも私の部屋の前を手拭をさげて通つて居た三十七八の正直さうな少し足の悪い一人の男が或る日巡査に腰縄を打たれて引張られて行つた。聞けば近処の百姓で、彼の水車場の向うにあつた火事の放火犯人といふ嫌疑でつかまつたのださうである。それも何か遺恨の放火であるらしいといふ事であつた。
槻はもう夙くに枯木になつてしまつて僅に茶殻のやうな葉が二三枚宛枝の尖にへばりついてゐる許りであるが、彼の遅れて黄葉した榎が、もう二三日前から落葉しはじめて、今日あたりは少しの風にも持ちこたへられ無いで、網を投げるやうに降りそゝぐ。
前の山の櫟林ももう赤つ茶けた色になつて、半分許り落葉した木の間には汚ない山の地膚を見せてをる。山脈はそれから左へも右へも延びてゐて、其の右に延びた、中腹迄畑になつてゐる辺の梅林の向うに彼の火葬場の松林は見える。
すぐ川向うには例のおもちや屋、芸者屋の裏側が並んで、其の隣の空地には四五匹雄犬が一匹の雌犬を取り囲んで今朝から喧しく吠え立てゝゐる。よく見ると其の中にも雌の歓心を得てゐる犬とゐない犬とがあつて、怪しげな遠吼のやうな声を出して吠え立てゝゐるのは其のゐない方の犬であることが判る。
川上の水車は相変らず廻つてをる。其の水車小屋の蔭に彼の萱原の家はある。
午前七時頃に漸く山を離れた太陽はだん〳〵と中天に昇りつゝある。
私は是等の景色を眺めながら近頃妻の私に言つた言葉を思ひ出してゐた。
「私はそれが不平なのです。」
それは私が、
「僕は此の頃子供が病気した場合に以前程一生懸命に介抱する気にはなれない。」と言つた時に言つた言葉であつた。
眼の前の山川は其の上に芸者屋やおもちや屋や水車小屋や萱原の家や、あの湯壺の中に居た男や、拘引された男や、火葬場や、其の火葬場にゐた男や、赤つ茶けた櫟林や、坊主になつた槻や、落葉を降らす榎や、其れ等のものを静かに載せて、凡て時の移り行くのに任してをる。
「何が善か何が悪か。」
山川が静かにありの儘を其の掌の上に載せて居れば時は唯静かに其れ等のものゝ亡び行く姿を見せるのみである。其処に善も無ければ悪も無い。私はたゆまうとする心を振ひ起こして鞄の中の用事を片づけるより外に道はなかつた。
底本:「近代浪漫派文庫 7 正岡子規 高浜虚子」新学社
2006(平成18)年9月11日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高瀬竜一
2017年3月11日作成
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