其中日記
(十二)
種田山頭火
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知足安分。
他ノ短ヲ語ル勿レ。
己ノ長ヲ説ク勿レ。
応無所住而生其心。
独慎、俯仰天地に愧ぢず。
色即是空、空即是色。
誠ハ天ノ道ナリ、コレヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ。
一月一日 晴──曇、時雨。
午前中は晴れてあたゝかだつたが、午後は曇つて、時雨が枯草に冷たい音を立てたりした。
──別事なし、つゝましくおだやかな元日であつた(それが私にはふさはしい)。
賀状いろ〳〵、今年は少い、緑平老よ、ありがたう、独酌のよろしさ(鰯の頭をしやぶりながら!)。
餅もある、餅のうまさが酒のうまさを凌がうとする。
終日、独坐無言。──
一月二日 晴れたり曇つたり、しぐれたり。
をり〳〵しぐれてしめやかな一人正月であつた。
今日は新聞のない日(関西の新聞聯合申合で休刊)、そのことだけでもさびしい〳〵。
──求めず(たとへば平安を)、貪らず(たとへばアルコールを)、あるがまゝに、なるがまゝに生きぬかう。
今日も独坐無言だつた!
一月三日 曇。
寒気りんれつ、小雪ちらほら。
炭火のうれしさ、餅のおいしさ(今朝は食べる物がないので、仏壇のお供餅を頂戴した)。
鶲がさびしさうに啼いて遊ぶ、さびしいお正月だ。
午後、米買ひに街へ出かける、寒いことだけが正月風景らしい、今年最初のコツプ酒一杯!
今日も独坐無言のつもりだつたが、夕方になると、たうとうやりきれなくなつて、湯田温泉へ、──S屋に泊る。
途上で、美しい兄妹風景を見た、そして宿屋では、あさましい痴情風景を見せつけられた。
夜は同宿の植木屋老人に誘はれて諸芸大会見物、二十銭の馬鹿笑である。
咳が出て困る、感冒がこぢれてどうやら喘息らしくなる、睡れないのは苦しいが、苦しくてもこらへる外ない。
一月四日 曇。
早朝、入浴して、そして二三杯ひつかける。
身心何となく不調、焼酎のたゝりらしい、慎むべきは火酒を呷ることだ、省みて、自分の不節制に驚く。
午後、無事帰庵。
やつぱり自分の寝床がどこよりもよろしい!
朝湯極楽 朝酒浄土
醒めりや地極の鬼が来る
個人を不幸にするもの、私を意味なく苦悩せしめるものは──
暴飲
借金
今年の私はこの二つの悪徳から脱却しなければならない。
年をとつて、貧乏すると、食意地だけになる、我ながらあさましいけれど疑へない事実だ。
一月五日 時雨。
めづらしく朝寝した、肉身をいたはつて臥床。
喘息らしい、それもよからう、からだが病めば、こゝろがおちつく自信を私は持つてゐる。
一月六日 雪しぐれ。
今にも雪が降りだしさうな、──降りだした。
寒の入、寒らしい寒さだ(一昨冬の旅をおもひだす)。
昨日も今日も独坐無言。──
一月七日 曇。
雪、雪、寒い、寒い、身も心も冷える。……
──人を憎み物を惜しむ執着から抜けきらない自分をあはれむ。──
終日不動、沈黙を守る、落ちついてゐることの幸福感。
煩悩即本能、本性発揚
統制、自律的に、社会国家的に
生活、生活の展開
人間、人間の価値、人生の意義
一月八日 雪時雨。
みそつちよも寒さうにそこらをかさこそ。
煙草がなくなつた、炭もなくならうとしてゐる、石油も乏しくなつた、米も残り少ない、醤油も塩も。……
樹明君からの来書は私の胸を抉るやうに響く、あゝすまない〳〵。
私は肉体的には勿論、精神的にも死の方へ歩いてゐる、生の執着は死の誘惑ほど強くない。
文字通り、門外不出だつた。
一月九日 曇。
粉雪ちら〳〵、寒い〳〵、缺乏〳〵。
午後、ちよつと街へ、六日ぶりに一杯ひつかけたが、酒屋の前を通り過ぎたやうな気分で、はかない〳〵。
米があるならば、炭があるならば、そして石油があるならば、そして、そして、そしてまた、煙草があるならば、酒があるならば、あゝ充分だ、充分すぎる充分だ!(わざと、充の字を用ひる)
夕方、久しぶりに暮羊君来庵。
身心不調、臥床、生きてゐることの幸不幸。
さびしいけれども、──まづしけれども、──おちついてつゝましく。──
けち〳〵するな、──くよ〳〵するな、──いうぜんとしてつゝましく。──
私が若し昨日今日のうちに自殺するとしたならば、そして遺書を書き残すとしたならば、こんな文句があるだらう。──
枯木も山のにぎはひといふ、私は見すぼらしい枯木に過ぎないけれど、山をにぎはさないでもあるまいと考へて、のんべんだら〳〵生き存らへてゐたが、もう生きてゐることが嫌になつた、生きてゆくことが苦しくなつた、私は生きて用のない人間だ、いや邪魔になる人間だ、私が死んでしまへばそれだけ自他共に助かるのである。
枯木は伐つてしまへ、若木がぐい〳〵伸びてきて、そしてまた、どし〳〵芽生えてきて、枯木が邪魔になる、伐つて薪にするがよい。
そこで、私は私自身を伐つた。
一月十日 曇──晴。
東京の榧子さんから、おいしいせんべいを頂戴した。
臥床、しみ〴〵死をおもふ、ねがふところはたゞそれころり徃生である。……
暮れ方から石油買ひに出かける、寒月がよかつた。
一月十一日 曇。
──米がなくなつた、炭もなくなつた、そして口と胃とがある、生きてゐることは辛い。──
さむいな、さびしいな。
今日やうやく賀状のかへしを五六通書いて出した。
昨日今日多少寒さがゆるんだやうで、雪もよひが雪にならないで時雨になつた。
ねむれないので句の推敲をする。
更けて弱震があつた、それも寂しい出来事の一つ。
田舎者には田舎者の句
老人には老人の句
山頭火には山頭火の句
┌素質┐
│年齢┼個性
└環境┘
┌創作的活動
│ 量よりも質
└批判、沈潜、表現
一月十二日 晴──曇──時雨。
霜晴れの太陽を観よ。
風が出て来た、風を聴け。
しようことなしにポストまで(SOSの場合だ!)、途中一杯ひつかけたが、足らないのでまた一杯、折からの空腹で、ほろりとして戻る(のん気なSOSの場合だね!)。
庵中嚢中無一物、寒いこと寒いこと(床中で痛切に自分の無能無力を感じた、私には生活能力がない、そして生活意慾をもなくしつゝある私である)。
一月十三日 曇、折々氷雨。
薄雪、さらさらさら解ける音はわるくない。
今朝は食べるものがなくなつたので、湯だけ沸かして、紫蘇茶数杯、やむをえない絶食(断食とはいへない!)であるが、上海では毎日窮民が何百人も凍死餓死するさうだから、それを考へると、こんなことは何でもない。
午後、寝てゐたけれど、やりきれなくなつて出かける、W店で一杯ひつかけた元気でF店へ行き米を借らうとしたが娘一人で話がまとまらない、さらにN店へ飛びこみ、また一杯ひつかけて、愚痴をならべて主人から米代若干借ることが出来た。……
今年最初の羞恥だ!
米と麦とを持つて戻り、ほつとしてゐるところへ学校の給仕が樹明君の手紙を持つて来た、こたえた、私は何と答へよう、かう書くより外なかつた、それがせいいつぱいの返事だつた。──
……忘れてもゐません、捨てゝもおきません、どうぞあてにしないで待つてゐて下さい。……
あゝ金が敵の世の中である、自他共に誰もが金に苦しめられてゐる、跪いてゐる、あゝ。
うどん一杯、何といふうまいうどんだつたらう!
餅のうまさは何ともいへない!
よく食べてよく睡つた。
事変俳句について
俳句は、ひつきよう、境地の詩であると思ふ、事象乃至景象が境地化せられなければ内容として生きないと思ふ。
戦争の現象だけでは、現象そのものは俳句の対象としてほんたうでない、浅薄である。
感動が内に籠つて感激となつて表現せられるところに俳句の本質がある。
事実の底の真実。──
現象の象徴的表現、──心象。
凝つて溢れるもの。──
一月十四日 晴。
(木炭がないので)焚火しながら、そこはかとなく、とりとめもないことを思ひつゞける、焚火といふものはうれしい。
午後、Nさん久しぶりに来庵、明けてからの第二の来庵者である(第一の訪問者は九日の暮羊君であつた)、焚火をかこんで閑談しばらく、それから連れ立つて近郊を散歩、おとなしく別れた(昨年の新春会合はよくなかつたが)。
夕、S君来訪、樹明君の意を酌んで、──あゝすまない、すまない、義理のつらさには堪へきれない。
夜はねむれないので、おそくまで読書。
今日は愉快な出来事が二つあつた。──
一つは、うたゝ寝の夢に梅花を見たことである、早く梅が咲けばよいと念じてゐたせいでもあらう、夢裏梅花開。
もう一つは、ゆくりなく蕗の薹を見つけたことである(秋田蕗)、日だまりにむくむくとあたまをもたげた蕗の薹のたくましさ、うれしかつた(醤油が買へたら、さつそく佃煮にしよう、そして樹明君を招いて一杯やらう!)。
ふきのとう数句が、ふきのとうそのものゝやうにおのづから作れた。
一月十五日 晴、曇、そして小雨。
めづらしく快晴だつたが、やがてまた曇つた。
──待望の郵便が来ない、私が苦しむのは自業自得だが、樹明君に合せる顔がない、それが切ない。
麦飯のほけり(よい言葉だ)、自分でも呆れるほどの食慾、私の肉体は摩訶不可思議である!
──なんとつゝましく、あまりにつゝましい毎日である!
午後、ぢつとしてはゐられないので歩く、あてもなく歩くのである、さびしいといふよりもかなしい散歩だ(──いかにさびしきものとかは知る、──)、雨が落ちだしたので、濡れて戻る、いよ〳〵さびしく、さらにかなしく。
出かけたついでに石油を買ふ(ハガキや豆腐や醤油は買へなかつた)、そして十三日ぶりに入浴して不精髯を剃る、湯のあたゝかさで少しは憂欝のかたまりがやはらいだやうである。
もう猫柳が光つてゐる、春の先駆者らしい。
──身を以て俳句する、それはよいとかわるいとかの問題ではない、幸不幸の問題ではない、業だ! カルマだ! どうにもならないものだ! そしてそれが私の宿命だ!
小雨があがつて、良い月夜になつた、私は今夜も睡れない。
──私はしだいに行乞流転時代のおちつきとまじめとをとりかへしつゝある、たとへ後退であつても祝福すべき回復である。
此頃は真宗の報恩講、御灯ふかく鐘の声がこもつて、そこには老弱の善男善女が額づいてゐた。
吉田絃二郎さんの身辺秋風を読んで、その至情にうたれた、よいかな純化されたるセンチ!
純なるものは何でもいつでもうつくしい!
第六句集(幸にして刊行がめぐまれるならば)
孤寒抄の広告文案
┌業やれ〳〵
└業だな〳〵
一月十六日 晴──曇。
霜晴れの青空がすぐまた雲で蔽はれてしまつた、冬曇りといへばそれまでだけれど、日和癖でもあらう。
来ない、来ない、来ない、待つてゐるのに、待ちあぐんでゐるのに、待ちきれなくなつてゐるのに、──それは何か!
ぼろぼろの褞袍を着て、焚火してゐると、我ながら佗住居らしく感じるが、他から観たら、山賊執居のていたらくだらう!
午後、樹明君が訪ねてくれた、つゞいてS君もやつて来た、二十日ぶりに快飲歓談した、折から庵中嚢中無一物なので、むろん、酒も魚も野菜も、炭も醤油までもが何もかもお客さんの負担である、うまかつた、うれしかつた、夕方めでたく解散、さよなら、ありがたう。
私はすぐ寝た、今夜は炬燵があるのでぬく〳〵と寝た、真夜中に眼が覚めて、それからはどうしても寝つかれない、本を読んだり句を作つたりしたが、長い長い半夜であつた。
事象の説明であつても、それは同時に景象の描写である句、さういふ句を作りたい、作らなければならない。
┌個性の文学
│ (個人主義を意味しない)
└境地の詩
(隠遁趣味ではない)
私はうたふ、小鳥と共にうたはう。
(私の句作態度としては)
石を磨く。──
(句作の苦しみと歓び)
一月十七日 晴。
日本晴! 天地悠久。
日が照つてあたゝかい、梅の蕾がほころぶだらう。
昨日、政府が発表した歴史的対支重大声明を読む、我々はこゝに日本国民の使命を新たに自覚し大和民族の将来を再認識して再出発したのである。
小鳥をうつな、うつてくれるな、空気銃を持ちあるく青年たちよ、小鳥をおびやかさないで、たのしくうたはせようではないか。
おごそかにしてあたゝかき態度、自他に対して生活的にも世間的にも。
午後は散歩、八方原橋を渡つて北へ北へ、途中で数句拾ふ、W店に寄つて一杯また一杯! 好日、好日!
春が近い、といふよりも、春のやうなうらゝかさであつた、ぽか〳〵あたゝかであつた。
その日その日のくらしが楽であるやうに願ふ、一日の憂は一日にて足れり、一日の幸もまた一日で十分だ。
今夜も炬燵があつてうれしい。
深夜の水を汲みあげて、腹いつぱい飲んだ。
一月十八日 曇──雨。
好晴で爽快だつたが、間もなく曇つて陰欝で、そしてぬくい雨が降りだした。
朝から渋茶ばかりがぶ〳〵飲む、また絶食である、野菜少々食べる。
──寝るより外はなかりけり、といつたあんばいで、寝床の中で漫読。──
餓ほど(死もさうであるが)人間をまじめに立ちかへらせるものはない、餓えたことのない胃は悲しんだことのない心臓のやうに、人間的でない。
何とぬくい寒だらう、炬燵なしでも何ともない。
一月十九日 曇──雨。
あたゝかすぎるほどあたゝかい、炭をなくした寒がりには何よりのうれしさである。
毎日、新聞を読みつゝ、新聞の力を感じる。
Yさんからうれしい手紙が来た(予期しなかつたゞけそれだけうれしさも大きかつた)、助かつた、助かつた、炭代としてあつたけれど、米代にした、炭はなくても米があれば落ちつける。
郵便局で、思ひがけなく藤津君に邂逅、F屋で痛飲する、めでたく和解して、昨年来の感情のもつれも解消してしまつた、酔に乗じて、打連れて、雨の中を中村君徃訪、生憎不在、父君母君と持参の酒と肴をひろげて四方山話(親馬鹿、子外道の情合を味ふ、中村君しつかりしたまへ、孝行をしなさいよ!)。
暮れるころ、ふりしきる雨を衝いて、渡しを渡り、藤津君の宅に転げ込み、勧められるまゝにたうとう泊つてしまつた。
終夜水音、──不眠読書。
酒が料理が、菓子が、飯が水が、すべてが餓え渇いてゐる五臓六腑にしみわたつたことである。
一月廿日 曇、時雨。
ぬくい〳〵、まるで四月ごろのぬくさだ。
しづかな邸宅だ、雨乞山の巌壁もわるくない、水音がよい、枯葦もよい、小鳥が囀りつゝ飛んで、閑寂味をひきたてる。──
送られて戻ると、ぢき、正午のサイレンが鳴りわたつた。
雨漏のあとのわびしさ。
さつそく御飯を炊いて、満腹の幸福、昼寝の安楽をほしいまゝにする(冥加にあまるが、許していたゞかう)。
一月廿一日 曇、小雨。
大寒入、冬がいよ〳〵真剣になる。
何となく憂欝、そのためでもあるまいが、御飯が出来損つた(めつたにないことで、そのことがまた憂欝を強める)。
午後、誘はれて、出張する樹明君のお伴をして山口へ行く、ほどよく飲んで帰つて来たが、それからがいけなかつた、私は樹明君を引き留めることが出来なかつばかりではない、のこ〳〵跟いてまはつて、踏み入つてはならない場所へ踏み入つてしまつた!……何といふ卑しさ、だらしなさ、あゝ。……
彼の酔態は見てゐられない、あさましさのかぎりだ、しつかりしてくれ、せめてもの気休めは夜ふけても戻つたことであつた。
一月廿二日 晴。
寒くなつた、あたりまへの寒さだが、寒がりの私は、炭もなくしたから、寝床にちゞこまつてゐる外ない。
終日不快、よく食べる私も一食したゞけだ。
支那人のやうにメイフアース──没法子──とうそぶいてはゐられない。
一月廿三日 晴。
大寒らしい寒さだ。
正午近く、T女来庵(彼女に感謝しないではないが、歓迎する気分にはなれない)、酒、下物、そして木炭まで持参には恐縮した、間もなく樹明君も来庵、飲みつゝ話す、話しつゝ飲む、酔はない、酔へない、夕方解散、よかつた、よかつた。
今夜は炬燵に寝ることが出来た、ありがたう。
どうでもかうでも、樹明君に苦い手紙を書かなければならない。
一月廿四日 曇。
午前中は晴朗だつたが。──
午後、Nさん来訪、同道して出かける。
貧乏、貧乏、寒い寒い、食慾、食慾、うまいうまい。
食ふや食はずでも句を作らずにはゐられない、業だよ。
一月廿五日 曇。
やゝあたゝかくして小鳥のうた。
手紙を書く、書きたくない手紙だ、自己嫌忌、そして自己憐愍。
枯木を折る拍子に頭部に瘤をこしらへる、私自身が瘤のやうな存在である、ひとり苦笑する。
ポストへ出かける、トンビを質入して米を買ふ。……
私は癈人だ、だが、私は良心的に行動したい。
一月廿六日 曇、小雪。
良心沈静。
Kからうれしいたよりがあつた、ありがたや、めでたや。
うれしいたよりが小鳥のうたが冴えかへる
初孫が生まれて来るさうな! 私もいよ〳〵おぢいさんになる!
……今日はぞんぶんに飲むつもりで出かける、……久しぶりに泥酔して動けなくなり、Wさんの店に泊めて貰ふ。……
一月廿七日 晴曇不明。
朝から飲む、飲む歩いて、酔つぱらつて、暮れて戻る、こんとんとして何物もなし。
酔中、呂竹居に推参してお悔みを申上げたことは覚えてゐる、──この一事だけがせめてもの殊勝さだ、これで重荷が一つ抜けた。
一月廿八日 雪だつたらしい。
こん〳〵眠る。
一月廿九日 晴れたり曇つたりしたのだらう。
食べては眠り、眠りては食べ。──
樹明君から呼びに来たけれど行けなかつた。
一月卅日 雪。
めづらしく婦人客があつた、樹明君を尋ねて奥さんがやつて来られたのである、悲しい事実ではないか、樹明君よ、奥さんをいたはつてあげたまへ。
夕方、暮羊君しばらくぶりに来庵、一杯やらうといふので、酒と牛肉とを買うて来てくれた、愉快な酒だつた。
私には、食べる事飲むことだけが残されてある!
一月卅一日 晴。
霜白く空青し。
旧正月元日。
残つた酒、残つた肴で、めでたしめでたし。
二月一日 晴、曇、雪。
あゝたへがたし。──
八幡同人諸君の友情をしみ〴〵感じる、そして、六日ぶりに床をあげて街へ、ついでに湯田へ、そしてたうとうS屋に泊つてしまつた。
二月二日 雪。
雪がふるふる、雪はふつても、湯があり、飯があり、酒がある、ありがたいことである、もつたいないことである。
十時帰庵、身心安静。
近来にない楽しい一泊の旅であつた。
二月三日 薄曇。
節分、宮市の天神様に詣りたいなあ。
餅を焼いて食べつゝ追憶にふけつた。
二月四日 晴──曇──雨。
立春大吉。
米買ひに街へ出かけて、ついでに一杯。
私がアル中であることは間違はない。
生活必需品と嗜好品との間に微妙な味がある、酒、煙草、新聞、等々。
悲しいかな、身心相食む。
夜は招かれて、宿直室に樹明君を訪ねる、食べて飲んで、しやべつてくたぶれて帰つたのは十二時近かつたらう。
二月五日 曇、小雨。
昨夜の飲みすぎ食べすぎで、胃のぐあいがよくない、何となく身心の重苦しさを覚える。
身辺整理。──
呂竹さん来庵、香奠返しとして砂糖を頂戴する、落ちついてしんみりと亡き妻を語り句を語る呂竹さんはいかにも呂竹さんらしい、私はいつものやうに、山頭火らしく、私自身を語り、そして句を語つた。
樹明君から借りた井月全集を読む。
今日も有耶無耶で暮れてしまつた、それはちようど私の一生が有耶無耶で過ぎるやうに。──
物を広く探るよりも、心を深く究める。
単純にして深遠。
東洋精神、日本精神、俳句精神。
直観。
自我帰投。
二月六日 晴──曇。
めつきり春めいて来た。──
句稿二篇、やうやく書きあげて発送。
夜、買物がてら街へ出かけて、一杯また一杯、すつかり酔つぱらつたが、おとなしく戻つて寝た、めでたしめでたし。
二月七日 晴れたり、曇つたり、雪がふつたり。
寒いことは寒いけれど春寒、身にも心にも天にも地にも春を感じる。
春の小鳥がやつてきて春の歌をうたふ。
藪椿がいよ〳〵うつくしい。
思いがけなく道明寺糒といふものを頂戴した。
おくればせながら、賀状のかへしを書いてポストへ(私のづぼらは救ひがたい)、ついでに油買、途中例によつて、一杯ひつかけたいのをやつとこらへた!
寥平君への返事に──
……お互に老来ます〳〵惑ひ深く恥多き嘆に堪へませんね、……アメリカ行は面白いでせうが、それよりも早く冥土行が実現しさうですね。……
Kさんに──
……万物は在るところのものに成りますが、成るやうに成らせる外ありませんね、……さういふ心がまへで生きて行きませう。……
万葉集より
○かくばかり恋ひつつあらずば高山の磐根しまきて死なましものを 磐姫皇后
○吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり 藤原鎌足
○足引の山のしづくに妹まつと吾たちぬれぬ山のしづくに 大津皇子
○淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしぬに古へおもほゆ 柿本人麿
・○家にあれば笥にもるいひを草枕旅にしあれば椎の葉にもる 有馬皇子
・○鴨山の磐根しまける吾をかも知らにと妹は待ちつつあらむ 柿本人麿
(石見高角、美濃郡海岸)
○憶良らは今はまからむ子泣くらむ其彼母も吾をまつらむ 山上憶良
○昔こそよそにも見しかわぎも子がおくつきと思へばはしき佐保山 大伴家持
○神風の伊勢の浜萩折りふせて旅寝やすらむあらき浜辺に 碁提磯妻
○わが背子は物な思ひそ事あらば火にも水にもわれなけなくに 安倍女郎
○千鳥なく佐保の河瀬のさざれ波やむ時もなし吾が恋ふらくは 大伴坂上女郎
┌○あしびきの山の雫に妹待つと吾立ち濡れぬ山の雫に 大津皇子
└○吾を待つと君が濡れけむあしびきの山の雫にならましものを 石川郎女
○健ら男や片恋せむと歎けども醜の健ら男なほ恋ひにけり 舎人皇子
○小竹の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば 柿本人麿
二月八日 曇、小雪。
いちめんのわすれ雪、思ひ出したやうに降る。
生活力のはかないのに自分ながら呆れる。
机上の梅がやうやく開かうとしてゐる。
讃酒歌 以白酒為賢者 以清酒為聖人
大伴旅人(万葉集)
しるしなき物を思はずは一杯のにごれる酒を飲むべく有らし
賢こみて物いふよりは酒のみて酔泣するしまさりて有らし
言はむすべせむすべ知らに極まりて貴きものは酒にし有るらし
なかなかに人とあらずば酒壺になりてしがも酒にしみなむ
あなみにくさかしらをすと酒のまぬ人をよく見れば猿にかも似む
もだをりて賢しらするは酒のみてゑひ泣するに尚しかずけり
大隈言道(草径集)
なき時はなくて幾日かすぐすらむある日は酒のあるにすきつつ
今日は今日あらむ限はのみくらし明日のうれへは明日ぞうれへむ
・わが如く酒にいふらし音立ててうてはうつ手をまぬる山彦
橘曙覧(志濃夫廼舎集)
・とくとくとたりくる酒のなりひさご嬉しき音をさするものかな
菊かをるまがきの下にゑひたふれ南の山のからうたうたふ
・床になくこほろぎ橋を横に見てゑひたふれたるねごこちのよさ
二月九日 雪。
ずゐぶん冷える、終日臥床、死について考へつゞける、……死ぬることはむつかしい、死場所、死の方法……死の準備、それが私に残された唯一の仕事だ!
道明寺糒を食べる、未知の友の温情を味ふ。
二月十日 曇。
動けない。──
俳句を通して、心と心とが触れ合ふ(来信を読みつゝ)。
二月十一日 晴。
日本晴だ。
紀元節、建国祭、今日から国民総動員第二強調週間。
憲法発布五十年祝賀式典。
天地の間にりんりんたるものがある。
午後、樹明君来庵、同道して暮羊君を見舞ふ、酒肴の御馳走になり、餅を貰うて帰庵。
酒はうまい、餅はうまい……みんなうまい!
二月十二日 晴。
春日和。──
身のまはりをかたづける、いつでも死ねるやうに!
糒と餅と、そして味噌と砂糖と、それだけ!
夕暮、油買ひに街へ、例によつて一杯、あゝ極楽々々。
歯がぬけた、さつぱりした、その歯は残つてゐる四枚の中の一枚で、歯として役立たないばかりでなく、気にかゝる邪魔物であつた。
二月十三日 晴──曇──雨。
まさしく春だ!
あたゝかい飯が食べたい!
今日はとてもあたゝかだつた、夜になつてあたゝかすぎる雨が降りだした。……
二月十四日 曇。
いかにも春雨らしく降つた。
沈欝たへがたし、うつら〳〵昼夜なし。
更けてよい月夜になつた、十五夜らしい。
飢は甘味を要求する、疲れも同様に。
辛味苦味は食慾を増進する。
酸味は──酢物は酒としつくり調和する。
二月十五日 晴──曇。
春が来た、春が来た、空から太陽から、土から草から、いろんな虫が出て来て飛んだり這うたり、──だが、私は冬ごもりの暗い穴から抜け出せない。
今日も糒ばかり食べてゐて苦しかつたけれど、自信のある句がつぎ〳〵に作れてうれしかつた。
夜はいつまでも眠れなくて読書した、米もなくてはならないものだが、本もなくてはならないものだ。
二月十六日 曇──雨。
食養不足、睡眠不足で身心不調。
頭痛、腹痛、そして心痛、──不死身にちかい私も少々弱つた。
専念に句作し推敲する。──
今夜も不眠、読書する外なかつた。
酒よりも飯を、肉よりも野菜を要求する。
利休が茶の湯の心得を説いた言葉の中に、
花はその花のやうに
といふ一項があつた、うれしい言葉である。
物のいのちを生かし、物の徳を尊ぶ心、それが芸術であり道徳であり、宗教でもある。
二月十七日 晴、後、曇。
春寒、身心平静。
風、風、風はやりきれない。
此頃は死ぬる人が多い、用意はよいか!
夕方、街へ出かける、W屋N屋の好意で、たらふく飲んで食べて、そして寝た、近頃にない痛飲、陶酔、熟睡であつた、分別も苦労も何もかもなくなつてしまつた! めでたしめでたし、大いにめでたし。
二月十八日 晴、曇、霙。
寒さが逆戻りした。
九日ぶりに御飯を食べる、しみ〴〵しみ〴〵味つた。
風が吹く。
蕗の薹を二つ見つけた。
自戒自粛、つゝましくおちついて読書。
やすらかに睡つた。
感動こそ詩の母胎である。
沈黙の言葉。
自然の心、人間の心、物のあはれ。
自己に徹して自然に徹するを得。
自然に徹するは自己に徹するなり。
自然をうたふは自己をうたふなり。
民族詩、日本民族詩としての俳句。
ユーモアのある句、
二月十九日 晴、曇。
夜が明けると起き、日が暮れると寝た。
二月廿日 曇。
太陽と共に、──小鳥と共に。──
暮羊君来庵。
草庵無事、たゞ無事。
二月廿一日 晴。
沈欝。──
二月廿二日 曇、雪。
寝苦しくて朝寝。
Kからの手紙はうれしくもありかなしくもあつた、安心と心配とをもたらした。
六日ぶり外出、買物いろ〳〵、米、醤油、茶、等々、払へるだけ払ひ、買へるだけ買ふ。
湯田まで出かけて、二十日ぶりに入浴、二三杯ひつかける、たうとうS屋に泊つた。
二月廿三日 曇。
十時帰庵、自分の寝床がうれしい。
新若布がうまい、高いことも高いが(百目壱円三十銭だつた)。
二月廿四日 晴──曇──霙。
晴れると春、曇れば冬、内は春、外は冬。
おちついて読書。──
二月廿五日 晴。
薄雪薄氷がうらゝかな日光で解けて雫する。
N、Fの二君、汽車辨当持参で来訪、あべこべに御馳走になつた、ありがたう。
樹明君から来信、あゝ私はどうすることも出来ない、すまない、私には何のあてもない。
──炭がなくなつた、米もなくならうとしてゐる、命よ、むしろなくなつてしまへ!
二月廿六日 晴。
春が来たのに。──
おのれを語る
生活能力を持たない私は生活意慾をも失ひつゝある、あたりまへすぎるみじめさだ。
業、業、何事も業であると思ふ、私が苦悩しつゝ酒を飲むことも、食ふや食はずで句を作ることも。──
句を作る、よい句を作る、──その一事に私の存在はつながれてゐる。
酒を飲む、うまい酒を飲む、──その一事に私の生活はさゝへられてゐる。
二月廿七日 好晴。
霜、春の霜、太陽、春の太陽。
午後散歩する、といふよりも彷徨する、あれやこれやと気になつて落ちついてゐられない。
春風しゆう〳〵、雲雀がうたひ草が咲いてゐる、あたゝかすぎるほどあたゝかだつた。
二月廿八日 晴。
春はうれしや、貧乏のつらさ!
炭だけはK店から借りたが、さて米はどうするか、また絶食するか、貧乏はつらいね!
人に教へられたというて、中年の放浪者が訪ねて来た、俳行脚をつゞけてゐるといふ、対談しばらく、短冊一枚書かされた、世間師としては、彼は好感の持てる人柄だつた。
私もいよ〳〵旅に出ようと思ふ、旅のことをいろ〳〵考へてゐるうちに夜が明けてしまつた。
身心が何となくのび〳〵した、あゝ旅と酒とそして句。
省みて疚しくない生活。
プラスマイナスのない世界。
三月一日 晴。
春風春水一時到、といつたやうな風景。
身辺整理。
ありがたや、火鉢に火がある(なさけなや、米桶に米はなくなつてしまつたが)。
句稿二篇書きあげる、さつそくポストへ。
W店で飲む、酔つぱらつて、また泊つてしまつた。
三月二日
酔境に東西なく、酔心に晴曇なし。
三月三日 曇。
さみしくも風が吹く。……
三月四日 曇。
沈欝。──
フアブルの昆虫記を読む。
初蛙が枯草の中で二声鳴いた。
昨日も今日も絶食、そして明日!
たうとう不眠、長い長い夜であつた。
春風の吹くまま咲いて散つて行く(旅出)
わざとかういふ月並一句を作つてこゝに録して置く。
其中雑感
戦争、貧乏、孤独。
散歩、酒、業。
俳諧乞食業。
定型と伝統。
歴史的必然。
旅で拾うた句。
三月五日 曇──雨。
身心平静、今日もまた絶食、落ちついて万葉鑑賞、万葉集は尊い古典である、動かされ、教へられ、考へさせられることが多くて、おのづから頭が下る。
四日ぶりに外出、梅は満開、椿ぽたぽた、今年の梅は厳寒のために蕾が堅かつたが、数日来の暖気でトーチカもたちまちくづれてしまつた。
外出途中、今日はとても飲みたかつたが、ぢだんだ踏んで我慢した、善哉々々!
政府対議会(軍部対議会といつた方が痛切だらう)、その接触交渉がなか〳〵微妙らしい、大西少佐の失言、政党本部占拠事件、右翼(?)の安部党首襲撃、等々、物情何となく騒然としてゐる、上下左右新旧の摩擦相剋は相当深酷らしく考へられる。
日本はどうなるか、どうすればよいか、どうしなければならないかは日本人自身が解決しないではゐられない問題である(私のやうなものでも思案してゐる!)。
……私は遂に無能無才、身心共にやりきれなくなつた、どうでもかうでも旅にでも出て局面を打開しなければならない、行詰つた境地からは真実は生れない、……窮余の一策として俳諧の一筋をたよりに俳諧乞食旅行に踏み出さう!
火燵が入らなくなつた、火鉢も僅かの火ですむやうになつた、ありがたいありがたい、それにしても私のやうに大飲したり大食しないですむやうな生活方法はないものだらうか!
食ふや食はずでも句は出来る、こんなに苦しんでゐて、しかも句が作れることは、何といつてもうれしい。
今夜も眠れない、疲れてはゐるが興奮してゐる、おい山頭火しつかりしろ、おちつけおちつけ!
三月六日 曇、をり〳〵雨。
地久節。
亡母四十七年忌、かなしい、さびしい供養、彼女は定めて、(月並の文句でいへば)草葉の蔭で、私のために泣いてゐるだらう!
今日は仏前に供へたうどんを頂戴したけれど、絶食四日で、さすがの私も少々ひよろ〳〵する、独坐にたへかね横臥して読書思索。
万葉集を味ひ、井月句集を読む、おゝ井月よ。
家のまはりで空気銃の音が絶えない、若者たちよ、無益の殺生をしなさるなよ。
どうしたのか、今朝は新聞が来ない、今日そのものが来ないやうな気がする。
ほんたうに好い季節、障子を開け放つて眺める。
蜘蛛が這ふ、蚊が飛ぶ、あまり温かいので。
裏山で最初の笹鳴を聴いた。
夜は雨風になつた、さびしかつた、寝苦しかつた。
いよ〳〵アブラが切れてしまつた!
いつとなく、ぐつすり睡つた。
(序詩)
天、我を殺さずして詩を作らしむ
我生きて詩を作らむ
まことの詩、我みづからの詩
天そのものの詩を作らむ──作らざるべからず
(逍遙遊)
ほんたうの人間は行きつまる
行きつまつたところに
新らしい世界がひらける
なげくな、さわぐな、おぼるるな
(旅で拾ふ)
のんびり生きたい
ゆつくり歩かう
おいしさうな草の実
一ついただくよ、ありがたう
三月七日 晴れたり曇つたり、そして降つたり。
春寒、あたりまへのよろしさ。
──来ない、来ない、ほんに待つ身はつらい!
しづかに紫蘇茶をすゝる。
とても起きてはゐられない、からだがふら〳〵する、また火燵を出して寝る、そして読書、反省、追想、思索。
今朝はいつのまにやら新聞が来てゐる、新聞を読んで、時事を知り時代を解することは私たちのつとめであり、なぐさめであり、勉強でもある、新聞はありがたいものだ。
寝てゐたが、たまらなくなつて出かける、やうやくにして米と酒と石油とを少々借ることが出来た(日頃の馴染ではあるけれど、家も名も知らない私のやうなものに快く貸して下さつたS店の妻君とM老人とに感謝する)。
六日ぶりに飯を食べ酒を飲んだ、まことにそれは御飯であり、お酒であつた! 味うてゐるうちに眼がくらむやうな心地であつた、ほつとするよりがつかりしたやうに。
雨露のめぐみといつたやうなものをしみ〴〵感ずる、衆生の恩を感ずる。
──泣くな、怒るな、耽るな。……
飯の味、酒の味、人の味、──生活の味。
おかずがないので、鰯のあたまを味ふ。
──私は自覚する、私の句境──といふよりも私の人間性──は飛躍した、私は飛躍し飛躍し飛躍する、しかし私は私自身を飛躍しない、それがよろしい、それで結構だ、私は飽くまで私だ、山頭火はいつでも山頭火だ!
人間至るところ、山あり水あり、飯あり、酒あり、──さういふ人生でなければならない。
ゆつたりとしてしづかなよろこびが湧いて溢れた。
戦争──悲惨なる事実──存在の必然──生物の悲劇。──
よくてもわるくてもほんたう。
先づ何よりもうそのない生活、それから、それから。
物そのものを尊ぶ、物そのものゝために惜しみ、そして愛する。
甘さと旨さとは違ふ。
甘さを表現したゞけでは(旨さが籠つてゐないならば)それはよき芸術ではない。
よき芸術には人生のほんたうのうまさがなければならない。
三月八日 曇──晴。
身辺整理。
宇平さんから旅費を頂戴した、ありがたう、ありがたう。
さつそく街へ出かけて、買はなければならない物だけ買ふ、そして払へるだけ払ふ。
理髪する、そのまゝ湯田へ行く、半月振の入浴。
ほんたうにさつぱりした。
たうとうS屋に泊つて、のんびりと一夜を送つた。
おばあさんおたつしやですね、おいくつですか。
まあなばかりで──はいはい、七十二でございます、いえ、八十二で。……
三月九日 曇。
朝から飲む(悪い癖だがたうてい止まない!)、山口でゆくりなくNさんに逢ひ、いつしよにまた飲む、かうなるとどうにもならない私の性分で、今晩もまたS屋に泊めて貰つた、やれ〳〵、やれ〳〵。
三月十日 雨。
陸軍記念日、意義ふかい今日である。
朝のうち帰庵。
旅立の用意をする。
午後、暮羊君来庵、快飲快談。
三月十一日 晴──曇。
今日は出立するつもりだつたが、天候もはつきりしないし、胃腸のぐあいもよくないので静養した。
旅、旅、旅、──私を救ふものは旅だ、旅の外にはない、旅をしてゐると、人間、詩、自然がよく解る。
さびしくもうれしい旅、かなしくも生きてゐる私!
旅の仕度もすつかり出来た。──(旅へ)
太陽。
空と水。
米と味噌。
炭と油。
本と酒。
三月十二日──四月三日 旅日記
底本:「山頭火全集 第八巻」春陽堂書店
1987(昭和62)年7月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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