其中日記
(十一)
種田山頭火



   自省自戒

節度ある生活、省みて疚しくない生活、悔のない生活。


孤独に落ちつけ。──

物事を考へるはよろしい、考へなければならない、しかしクヨクヨするなかれ。

貧乏に敗けるな。──

物を粗末にしないことは尊い、しかも、ケチケチすることはみじめである、卑しくなるな。

酒を味へ。──

うまいと思ふかぎりは飲め、酔ひたいと思うて飲むのは嘘である。


水の流れるやうに、雲の行くやうに、咲いて枯れる雑草のやうに。


自然観賞、人生観照、時代認識、自己把握、沈潜思索、読書鑑賞。


句作、作つた句でなくして生れた句、空の句


『身に反みて誠あれば楽これより大なるはなし』(孟子)


 八月一日 晴。


早起して散歩した、夏山の朝のよろしさ。

省みて恥多く悔多し

借金ほど嫌なものはない、その嫌なものから、私はいつまでも離れることが出来ない。

午後また散歩、W店でまた一杯。

暑い暑い、うまいうまい、ありがたいありがたい。

モウパツサンを読む、彼の不幸を思ふ。


 八月二日 晴。


けさも早起して散歩。

おちつけ、おちつけ。

身辺整理、といふよりも身心整理

ライクロフトの手記を読みなほす、ギツシングと私との間には共通なものがあるらしい。

夜、しみ〴〵秋を感じた。

どうやらかうやら私はスランプから抜け出たらしい。

とにかく銭がないことはさみしい、いや、悩ましい、払はなければならないものが払へないのはほんたうに苦しい。


 八月三日 晴。


早起、仰いで雲を観、俯して草を観る。

Sへ。──

汽車賃がないから歩いて行く、樹明君に事情を話して、手土産としてラツカース二罎借りる。……

寂しい悲しい訪問だつた。

泊る、東京から小さいお客さんが数人来てゐてうるさかつた。

酒はうまかつた。


 八月四日 晴。


朝早く防府へ。──

佐波川で泳ぐ。

M君を訪ねる。

午後、徳山へ。──

途中、富海に下車して、追憶をあらたにした。

酔うてゐる間だけ楽しい。

白船君を訪ふ、忙しいので宿屋に泊めて貰ふ、たゞ〳〵酔うてゐる間だけが楽しい。


 八月五日 晴。


午近くなつて帰途につく。

再び富海に下車して海に浸る。

白船君は落ちついてゐる、漣月君は元気いつぱいだ、さて私は。──

三田尻駅で、東路君に逢ふ、飲む、酔ふ、泊る。


 八月六日 晴。


東路君来訪、朝から飲む、そして酔ふ。

夕方の汽車で帰庵。


 八月七日 晴。


終日臥床、沈欝たへがたし。


 八月八日 晴、立秋。


身心不安、たへきれなくなつて街へ、酔ひつぶれた。


 八月九日 晴。


茫々として。──


 八月十日 晴。


おなじく。


 八月十一日 晴。


暑い〳〵。

街の米屋へ出かける、死なゝいかぎりは食べなければならない。

途上で暮羊君に出くわす、午後、同君がビールやら何やら持ちこんで来て、IさんJさんもやつて来て、愉快に飲む語る。

がちや〳〵が鳴き初めた。


 八月十二日 晴。


だいぶ落ちついた、身のまはりをかたづける。

夜、Nさん来庵。

生死に迷ふ。──


 八月十三日 晴。


空々寂々。


 八月十四日 晴。


捨身、一切を捨てろ、捨身には生も死もない

──日暮而道遠、吾生既蹉跎、──放逸無慚の過去がひし〳〵と迫る、ああ。

欝々として今日も過ぎ去るか。

マツチがなくなつたので──マツチのありがたさを今更のやうに感じる、──四日ぶりに街へ出かけた、S屋で一杯ひつかけたが、うまくなかつた、うまくない筈だ。

最後のものがやつてくる。……


 八月十五日 晴。


今日も暑いことだらう、朝から汗が出る。

沈欝、ああたへがたいかな。

上海爆発! 爆発すべくして、たうとう爆発した。

午後、招待されて、宿直室に樹明君徃訪、久しぶりの会合であつた、酒とそうめん、風呂、ラヂオと新聞、いろ〳〵御馳走になつた。

おかげで熟睡。


 八月十六日 晴。


暑い〳〵、朝、はだかで御飯を炊いてゐるところへ、ひよつこりと斎藤さん来庵、閑談半日のよろこびを味ふ。

つく〳〵ぼうし、つく〳〵ぼうし。

泣菫の随筆を読む、おもしろいけれど、どことなく堅苦しい。


 八月十七日 晴──曇。


暗いうちに眼覚めて、すぐ起きる、しみ〴〵秋を感じる。

私の秋だ

駅から万歳々々の喊声が聞える、ほんたうにすみません、すみません。

右の胸が痛い、先夜、酔うて転んだためである。

私を救ふものはたゞ疾病か

寝苦しかつた、切ない夢の連続だつた。


 八月十八日 曇──晴。


けさも早起。

あぢきない日々(この言葉は適切だ)がつゞく。

中支空爆の記事を読んでゐると、私の血も湧く。

ばら〳〵と日照雨、夕立はなか〳〵やつて来ない。

死の用意、いつ死んでもよいやうに、いつでも死ねるやうに用意しておけ。

私は穀つぶし虫に過ぎない、省みて恥ぢ入るばかりである。

一切が無くなつた、──ひかり、のぞみ、ちからのすべてが無くなつてしまつた。

午後、暮羊君来訪、ついていつて新聞を読ませて貰ふ、そうめんの御馳走になつた。

文藝春秋、婦人公論を読む。

今夜も寝苦しかつた。


 八月十九日 晴。


たうぶん降りさうにもない、毎日、夕立が来さうで来ない、今日もばら〳〵の日照雨と遠雷だけだつた。

米がなくなつたので、六日ぶりに街へ、──M屋でコツプ酒二杯弐十四銭、I店で白米四升壱円四十銭、S屋で豆腐二十六銭。

胸が痛い、痛ければ痛いほど私は落ちつく、悲しい矛盾である。

ずゐぶん暑苦しい日であつた、そして寝苦しい夜であつた。


 八月廿日 晴。


朝はまつたく秋だ、癈墟をさまよふやうな生存だ。

陰暦七月十五日、せつかくの月も雲があつて冴えなかつた、嫌な夢ばかり見つゞけた。

酔境、無是非、没得失。

生死空々、去来寂々。


水があれば、──米があれば、──そして酒があれば。──


 八月廿一日 曇──雨──晴。


さびしくかなしく(銭がないせいばかりではない)。

久しぶりのよい雨であつた、めつきり涼しくなつた。

澄太君から、句集柿の葉発送の通知、澄太君ありがたう、ありがたう。

よい月夜、たうとうランプをつけないですました。


 八月廿二日 曇──晴。


悪夢から覚めて直ぐ起きた、あまりに早かつたが。

語録を読む、先聖古徳の行持綿々密々なるにうたれる、省みて私は。──

文字通りの、米と塩だけになつた。

夕方、孤愁に堪へかねて四日ぶりに外出、散歩がてら駅まで行く、句集はまだ来てゐない、帰途M屋で一杯ひつかけ、折から昇る月を背負うて戻る。

徹夜不眠、幸にして三時頃新聞が来た。


 八月廿三日 晴。


身心が暑苦しい。

句集到着、澄太君の友情そのものにぶつつかつたやうに、ありがたくうれしかつた。

午後、樹明君と暮羊君と来庵、酒を買うて祝して下さる。

句集を銭に代へて、久しぶりに山口へ行く、酔うて泊る。


 八月廿四日 晴。


午前帰庵。

アルコールのおかげで動けない。……


 八月廿五日 晴。


Kから来信、ありがたう。

句集刊行自祝の意味で、そしてまた、小郡に於ける最後の遊楽のつもりで、私としては贅沢に飲む、酔ふ、たうとう酔ひつぶれてしまつた、ぼうぼう、ばくばく、自我もなく天地もなし、一切空。


 八月廿六日 晴。


急に思ひ立つて(旅費が出来たので)、九時の列車で九州へ下る。──

十二時、門司の銀行に岔水君を訪ねる、いつもかはらぬ岔水君、なつかしい岔水君だ、黎々火君にも逢うて食事を共にする、三時、警察署に青城子君を訪ねる、不在、堤さんも不在、さらに井上さんを訪ねて御馳走になる、鏡子居訪問、こゝでも御馳走になる、井上さんも鏡子君もしんせつにして下さる。

夜は三人で市街散歩、氷汁粉には閉口した、井上さんの宅にひきかへして、ビールを飲んで、泊めて貰ふ。


 八月廿七日 晴。


暑い〳〵、朝湯朝酒。

青城子君、堤さん、鏡子君来訪、会談会食。

青城子君とは半年ぶりにうちとけて話し合つた、どうやらワダカマリも解けたらしい、青城子君よ、すまなかつた。

三時、お暇乞して、ぶら〳〵戸畑へ向ふ、途中、雲平居を訪ねる、夕飯をよばれる、雲平君の厚誼に感謝する。

多々桜君は折あしく宿直、そして子供さんが病気、早々辞去して駅前の宿屋に泊る。

関門地方は燈火管制で真暗だ、その闇の中を出征する光景はまことに戦時気分いつぱいだ。

至るところで友情が私の放逸を恥ぢ入らせる私は何といふ愚劣な人間だらう


 八月廿八日 曇。


早朝出立、朝酒をひつかけた元気で八幡まで歩く。

十二時前に飯塚着、伊岐須の健を訪ねる、二時間ばかり話して別れる。

三時すぎ、緑平居の客となる、病中の奥さんにはお気の毒だけれど泊めて貰ふ。

緑平老としみ〴〵話す。……


 八月廿九日 晴。


早起、話しても、話しても、話しきれないものがある。

十時の汽車で門司へ、岔水居に立ち寄る、若い奥さんがこゝろよく迎へて下さる。

飲む、話す、そして泊る、岔水君はいつもかはらぬ人だとつくづく思ふ、洗練された都会人だ。


 八月卅日 曇。


あまり品行方正だつたからか、たうとうからだをいためたらしい!

朝、お暇乞する。

埠頭で青島避難民を満載した泰山丸を迎へる、どこへ行つても戦時風景だが、関門はとりわけてその色彩が濃く眼にしみ入る。

役所に黎君徃訪。

正午、下関に渡り、映画見物はやめにして、唐戸から電車で長府の楽園地へ、一浴して一睡。

夕を待つて黎々火居を敲く、泊めて貰ふ。

今日も暑苦しかった。

さぞや戦地は辛からう。──


 八月卅一日 晴。


黎君は早朝出勤、私はゆつくりして、歩いて長府駅から乗車、途中嘉川で下車、伊藤さんの宅に寄つて少憩、句集を発送する。

夕方帰庵、暮羊君ビールを持つて来庵。


 九月一日 曇。


二百十日、関東大震災記念日。

アルコールなしで謹慎、追憶、懺愧。


 九月二日──九月十日 晴曇。──


彷徨、身心落ちつかず、やるせなさたへがたし。


 九月十一日 曇。


身辺整理。

人間を再認識すべく市井の中へ飛びこむ覚悟を固める、恐らくは私の最後のあがきであらう。

五時の汽車で、樹明君と共に下関へ、──嬉しいやうな、悲しいやうな、淋しいやうな、切ない気持だつた。

七時すぎ下関着、雨が降るのでタクシーで、N家へ行く、こゝで私は人間を観やうとするのである。

老主人といつしよに飲む、第一印象はよくもなかつたがわるくもなかつた。

私は急転直下した、山から市井へ、草の中から人間の巷へ。……

樹明君と枕をならべて寝る、君は間もなく寝入つたが、私はいつまでも眠れなかつた、万感交々至るとは今夜の私の胸中だ。


 九月十二日 曇。


朝早く起きる、新生活の第一日である。

三人同道して彦島へ渡る、材木の受渡方計算法を教へて貰ふ、それから門司へ渡つてM会社のU氏に紹介される、何もかも昨日と今日とは正反対だ。

夜、樹明君を駅に見送る、当分逢へまい、切ない別離だつた(樹明君も同様だつたらしい)。


 九月十三日 晴。


主人について彦島へ行き、材木の陸揚を手伝ふ。

算盤の響だ、まつたく六十の手習!

嫌な家庭だ(家庭とはいへない家庭だ)、夫、妻、子、孫、みんなラツフでエゴイストで、見聞するにたへない場面の連続だ。

街を歩いてゐたら、ヅケを見せつけられた、あそこまで落ちてしまつたら、どんなに人間もラクな動物だらう。

いたるところ戦時気分がたゞようてゐる。

月がよかつた。


 九月十四日 晴。


主人と共に門司行、請求書調製。

オヤヂのワカラズヤであるに驚く、彼はガムシヤラで世の中を渡る男に過ぎない。


 九月十五日 晴。


未明起床、主人仲仕連中といつしよに本船へ出かける、北海道松を受取るのである、慣れない船上徃来には閉口した。

菜葉服にゴム靴、自分ながら苦笑しないではゐられない。

昨日も今日も樹明君の友情に感泣する、それはありがたいともありがたい手紙であつた。

酒を飲まないでよく睡ることが出来た。


 九月十六日 晴。


雑務、主人のワカラナサ加減にウンザリする。

夕方たうとうカンシヤクバクハツ、サヨナラをする、サツパリした。

あるだけ飲む、酔ひつぶれてしまつた、善哉々々。


 九月十七日 晴。


地橙孫君徃訪、不在、ふと思ひついて、女学校に支草を訪ふ、句集を数冊売つて貰ふ。

関日社のH君を訪ねる、おでんやでしばらく話す。

夜は支草居徃訪。

H屋といふ宿は泊れるだけだが、安くて清潔で、遠慮がなくてよろしい。


 九月十八日 曇。


門司に渡つて、岔水君徃訪、さらに黎君徃訪。


 九月十九日 晴。


電車で黎々火居へ、いつしよに塩風呂にはいつてから別れる、一時の汽車で小郡へ、やれ〳〵やれ〳〵。


 九月廿日──十月八日


晴れたり曇つたり、澄んだり濁つたり。──


 十月九日 晴。


沈欝、そこらを散歩して、農学校に立寄り、樹明君から五十銭借りる、石油を買ひコツプ酒を呷る。

色即是空空即是色、──私はこの境地に向ひつゝある、そこまで徹したいと念じる、現象に即して実在を観なければならないと思ふ

□俳句性は──

 表現上では、簡素、それは五七五の定型に限らない。

 内容についていへば、単純、必ずしも季感を要しない。

□俳句は個性芸術心境の文学である、そして人間そのものをうたふよりも自然をうたふ──自然を通して、自然の風物に即して人間を表現することに特徴づけられる、生活をうたふにしても、人間を自然として鑑賞する境地に立つてうたはなければならない。

 俳人は現実に没入しながらも、しかも現実を超越してゐなければならない。


 十月十日 好い秋日和。


終日身辺整理、だん〳〵落ちついてきた。

私の好きな茶の花が咲きだした。

秋風の裏藪がざわめく。

今夜も眠れない。──


 十月十一日 晴。


秋暑し、おちついて読む。

熟柿がうまい、山の鴉もやつてきて食べる。

午後、ポストまで出かける、W屋で一杯。

道べりの蓼紅葉がうつくしい。

神保さんの妻君が子供を連れて柿もぎに来た、今年はだいぶなることはなつたけれど大方は落ちた、それでも籠にいつぱい百ぢかくあつたらう。

今夜は幸にして眠れた。

不眠は我儘な不幸である。


 十月十二日 雨、後晴。


ひとりしんみりと籠つてゐた。

整理しても、整理しても、整理しきれないものがある、それが私のなげきなやみとなるのだ、整理せよ、整理せよ。

──無くなつた、何もかも無くなつた、銭はもとより、米も醤油も、マツチまでも無くなつてしまつた。

私にあつては、酒は好き嫌ひの問題ではない、その有無が生死となるのである。

私が酒をやめようやめようと努めながらもやめることが出来ないのは、必ずしも私の薄志弱行ばかりではない。

酒は仏か鬼か。

とにかく私は酒と心中するのだ!


 十月十三日 曇。


早起、朝寒、火が恋しくなつた。

樹明君を訪ねる、新聞を読ませて貰ふ。

今日から国民総動員週間。

午後、街へ出かける、I店で米を借りる、Y屋で飲む(久しぶりの山頭火的飲ツ振だつた)。

夜は句集発送をかたづける、何でもないことだけれど、整理のあとのこゝろよさ。

今夜はほどよう睡れさうなのに、なか〳〵睡れなかつた。

事変句数首をまとめた。

  今日の買物

一金六銭   菜葉二把

一金六十五銭 切手端書

一金十五銭  石油三合

一金五銭   線香

一金三十弐銭 なでしこ

一金九銭   味噌

一金十七銭  煮干

一金八銭   大根

  (大根一本七銭とは高いぞ)


 十月十四日 秋晴。


身心沈静。

今日は小学校の運動会、子供も親達もうれしさうにお辨当を持つて行く、日本晴で何よりだ、私までうれしい気分になる、まことに楽しい行中行事の一つである。

郵便局へ出かける、とてもうらゝかな日である、久しぶりに──四十余日ぶりに理髪、そして久しぶりに──十余日ぶりに入浴、身も心も軽くなつた、──二十八銭の保健的享楽といへばいへるだらう!

途中で見つけた鮮人屑屋さんを連れて戻つて、古新聞と空瓶とを売る、金四十銭、これだけでもこの場合大いに助かる。

石蕗の花がぼつ〳〵咲きだした、野性味がある、下品なやうでおつとりしてゐる、私の好きな花の一つだ。

コスモスはやゝすがれ気味になつてゐる、優美そのものともいふべき花であるが、どういふものか、私はあまり好きでない。

松茸は今が出盛り、百目が二十銭乃至三十銭、今年は稲作が上出来なので、それと反対に不出来だといふ。

菜ツ葉を買うて来て、さつそく煮たり漬けたりする、うまいうまい!

今夜もまた一睡も出来なかつた、むろん近来昼寝なんかしやしない、不眠は情ないが、それに堪へる健康は有難い、私のは不死身なのだらうか。……


 十月十五日 晴──曇──雨。


朝はなか〳〵寒かつた。

裏藪はまさに秋風、柿の落葉がうつくしうなる。

たよりいろ〳〵、ありがたし〳〵。

K店のマイナスを払ふことが出来たのはうれしい、マイナスを払つた気持のよさはマイナスに苦しんだものでないと解らない。

品行方正、どうやら落ちつけさうだ。

今夜はぐつすり睡れた、めづらしい熟睡だつた。

人間は互に理解し理解せられることを欲する、それは所有慾名聞慾でなくして真実心だ。

自由な自由律! 私は自由律の自由を要求する。


 十月十六日 時雨。


けふもつゝましく。──

かへりみると、八月九月はきわめて多事多難だつた、自分で自分を殺すやうな日夜がつゞいた、そして死にもしないで、私はこの境地まで来た。……

身辺整理、何もかもかたづけて──まだ屋根と野菜畑とはかたづかないが──ほつとする、おちついてゆつたりした気持である。

濡れてポストまで、傘も帽子もなくなつたから!

一杯ひつかけたが、いつもほどうまくなかつた、後味もよくなかつた、戻つてから熟柿を食べて、どうやらさつぱりした、──これが本当ならありがたいうれしいと思ふ、同時にさびしくもかなしくも思ふ。

私は酒を飲む時はいつも一生懸命だつた、いのちがけで飲んで飲んで飲みつぶれてゐたのである!

夜はのんきに古雑誌(それも主婦の友だ!)を読んでゐたが、どうしても睡れない、明方近くとろ〳〵としたが、すぐ覚めて起きた、不眠はたしかに罰だ! なまけものにうちおろされる鞭だ!


 十月十七日 曇。


しづかなるかな。……

稲扱機のひゞきがなつかしくきこえる。

風、秋風だ、木の葉がちる。

秋寒、何となくうすら寒い。

炭屋まで出かける、火鉢がこひしうなつたのだ、火鉢に手をかざしてゐないとおちつきがわるい。

今夜はともかく眠れた、夢は多かつたが。


 十月十八日 晴、満月。


寒い、冷たい、冬が近いことを思はせる、今朝から火鉢に火をいける。

最近二ヶ月間の変化を考へると、私はしゆくぜんとする、自然も私もすつかり変化した。

うれしいたよりいろ〳〵、ことにアメリカからのそれはうれしかつた。

さつそく街へ出かけて買物をする、ありがたかつた。

久しぶりに独酌を味ふ、うまい、うまい。

暮れてから学校に樹明君を訪ねる(酒と焼茸とを携へて)、いつしよに散歩する、ほどよく酔うて、労れたのでI屋に泊る、よかつた、よかつた。


 十月十九日 秋空一碧。


早朝、同道して帰庵、酒もあり汁もあり飯もあつて幸福だつた。

何だか、忘れてしまつたやうな気がする、何もかもみんな忘れてしまへ!

山口へ行く、湯田で一浴、そして一杯、もつたいないことだ、私は「天下の楽人ラクジン」であらうか!

おとなしく戻つて、月を観て、しんみり睡つた。

方々へ手紙を書く。──

私はこのごろ落ちついてはゐますが、もつと山ふかい里にひつこまなければ、しんじつ落ちつけないやうに思ひます、……どうなる私か、……老来いよ〳〵恥多く惑ひ多し、です。……


 十月廿日 晴。


今朝も早くから、出征を見送る声が聞える、私はその声に聞き入りつゝ、ほんたうにすまないと思ふ、合掌低頭して懺悔し感謝した。……

まことに日本晴、散歩する、山口へ行く、シヨウチユウのたゝりで動けなくなり、たうとうK旅館に泊つた。

泥酔の快! いたましい幸福だ。


 十月廿一日 晴。


どうやらかうやら払ふだけは払へた、歩いて帰る、秋色こまやかであつた。

昨夜、酔中に手帳を盗まれてしまつた、盗んだ者には何の価値もないけれど、盗まれた私は大いに困る。

信濃のHさんから、米と餅とを頂戴した、万謝、何と餅のうまいこと!

晩酌一本、上機嫌になつて、牧水の幾山河を読む、面白い面白い。

まいばん良い月で、睡れても睡れなくてもうれしい。


 十月廿二日 晴れきつて雲のかけらもない、午後は少し曇つたが。


──戦争は、私のやうなものにも、心理的にまた経済的にこたえる、私は所詮、無能無力で、積極的に生産的に働くことは出来ないから、せめて消極的にでも、自己を正しうし、愚を守らう、酒も出来るだけ慎んで、精一杯詩作しよう、──それが私の奉公である。

ぢつとしてはをれないほどの好天気である、そこらをぶら〳〵歩いて、学校に寄り新聞を読んで戻つた。

戦争の記事はいたましくもいさましい、私は読んで興奮するよりも、読んでゐるうちに涙ぐましくなり遣りきれなくなる。……

O主人が頼んで置いた松茸を持つて来て下さつた、早速、二包に荷造りして発送する、一つは緑平老へ、一つは澄太君へ(両君も喜んでくれるだらうが私も嬉しい)。

裏山逍遙、秋いよ〳〵深し。

松茸を焼いて食べ煮て食べる、うまいな、うまいな。

夜、久しぶりに暮羊君来庵、餅を焼き渋茶を沸かして暫らく話す、近々一杯やらうといふ相談がまとまる。

今夜もよい月夜だつた、しづかに読みしづかに寝る。


 十月廿三日 好晴。


澄みきつた空に朝月の清けさ、うつくしい秋景色。

飯がうまく頭が軽い、ほんに好い季節ではある。

鶲がやつて来て啼く、鵯も出て来て啼く。

ポストへ、──山の鴉がしきりに啼きさわぐ。

ちよいと一杯が三杯になつた! ほろ酔のこゝろよさ!

茶の花がうつくしい、熟柿もうまい。

またポストへ、そしてまた一杯! 嚢中無一文!

W老人から、ちしや苗とわけぎの球根を分けて貰うて植ゑる、安心々々。

夕方、約の如く暮羊君来庵、酒と新菊とを持つて、そして壱円投げだして飲まうといふ、応とばかりに街へ出かけて買物いろ〳〵、飲む、笑ふ、二十日月がほんのりとのぞいてきた、とてもおいしかつた、うれしかつた。

松茸と柚子と新菊との三重香秋の香気が一碗の中にあつまつてゐる、秋は匂ひだ、その匂ひの凝つたのが松茸の香であり、柚子の香である。

   今日の買物

一金十銭   ハガキ

一金三十銭  酒

一金二十九銭 煮干

一金九銭   玉葱

一金四銭   大根

一金五十五銭 酒

一金六銭   豆腐

一金九銭   揚豆腐

一金十四銭  松茸


□小鳥のおもひで

□田雀──

□渡り鳥──

□雲雀の巣──

□眼白──


 十月廿四日 今日も好晴。


おかげでぐつすり睡れて、早く眼が覚めた、ランプをともして読書してゐるうちに、鶏が啼き、お寺の鐘が鳴り、会社のサイレンが鳴る、すぐ起きる、明星はだいぶ昇つてゐるが、山の端がうつすら明るいだけ、しかし、朝月が冴えてゐるので暗くはない、──昭和十二年十月二十四日といふ今日の好き日をことほぐ。

世はさま〴〵人はいろ〳〵だとつく〴〵思ふ、たとへば、こんどの句集についても、申込んで来たので送つてあげたのに、礼状さへもよこさ人がずゐぶん多い、そしてさういふ人はたいがい青年らしい(私がかうまで憤慨するのも自分に関した事柄であり、物質的なこだはりがあるからかも知れない、お互、反省しよう)。

──おかげさまで、──といふ言葉は尊い、私たちが飲食するのも読書するのも散歩するのも、すべて生きものが生きてゐるのは、みんな何かのおかげである、その何かに感謝し報恩したいと努めることに人生の意義がある。

例によつてポストまで、学校で新聞を読み樹明君に会ふ。

路傍の草の中で仔猫が断末魔の悲鳴をあげてゐた、胸が痛くなつた。

樹明君を待ちつつ支度をする、今日もまた松茸に豆腐のチリだ、待ちきれないで一杯やつてゐると、めづらしくも女と子供の声が山の方へ行く、何ともいへない秋日和である。

三時頃、樹明君やうやく来庵、お土産として若鶏の肉、おいしかつた。

おもしろかつた、よかつた、うれしかつた、万歳!

酒と肉とがからだいつぱいになつたやう、私の肉体は不死身みたいに変態的だ(精神が変質性であるやうに)。

年をとつて、とかく物忘れするやうになつた、それがあたりまへであり、そしてわるくないとは思ふが、何だかさびしくないでもない、やつぱり年はとりたくないものだ。

今夜はなか〳〵寝つかなかつた、なんどもランプをつけたり消したりした。

更けてからの月が良かつた。

   今日の御馳走

一金七十銭  酒

一金弐十一銭 松茸

一金九銭   豆腐

  〆金壱円也、あるたけ!


 十月廿五日 晴──曇。


けさも早起、朝景色のよろしさを心ゆくまで観賞する、生きてゐることのよろこびを感じる。

たよりいろ〳〵、アメリカの大月君からはうれしい手紙を貰つた、名古屋の森君からは長良川の鮎の粕漬を頂戴した。

今更ながら、買ひ被られる心苦しさ見下げられる気安さを思ふ。

散歩がてらポストへ、──櫨紅葉が日にましうつくしうなる、野菊が咲きだした、龍膽も咲いてゐる、……秋は野に山にいつぱいだ

おいしい昼餉をいたゞく。

何と敏感にして、そして手足不自由な秋蠅よ。

午後、湯屋へ、ばら〳〵雨に濡れながら。

今日は宮市の花御子祭ださうな、昔なつかしいおもひにうたれる。……

おだやかな夕焼、よき眠あれ。

┌Over value

└under value


 十月廿六日 今日も快晴。


たよりいろ〳〵、いづれもうれしいが、とりわけて、アメリカのOさん、イキスのKからのはうれしかつた。

うれしいこと、かなしいこと、さびしいこと。

払へるだけ払ひ、買へるだけ買ふ、──それからまた、散歩、湯田へ、飲む、酔ふ、泊る。


 十月廿七日 晴。


Fで飲む、アルコールなしでは夢がなさすぎる私の生活だ!

あちらこちら彷徨、今夜も湯田泊。

○流転しながらも安定を失はざれ。

○動中静。

○謙遜であれ、自他に対して。


 十月廿八日 曇。


ぼう〳〵として、歩いて戻る、……いつものやうに、つゝましく、わびしく。……


 十月廿九日 曇。


降りさうで降らない、だん〳〵晴れる。

──生死の問題がこびりついて離れない、死を考へるはそれだけ生に執着してゐるのだ、生死超脱の境地には生死の思念はないのだ。──


 十月三十日 雨──曇。


久しぶりの雨、秋らしくしよう〳〵と降る。

身心沈静。

迷悟共に放下せよ一切空に徹せよ

山野逍遙遊、雑木紅葉のうつくしさ、秋の野草のうつくしさ。

菊の花のよろしさは、りんだうのよろしさは。

純真情熱と、そして意力と。


 十月卅一日 曇。


たよりはうれしい、木の葉がうつくしいやうに。

散歩、一杯また一杯、一歩一杯とでもいはうか。

樹明君の案内を受けたので、農学校の運動会へ出かけたが面白くないので(私はスポーツ、一切の勝負事に興味を失つてゐる)、早々帰庵して読書。

生きものが──むろん人間が──私が──生きてゆくことはなか〳〵むつかしい、木の実草の実を食べて、それですむならばどんなにラクだらう、などゝ考へる。

閑居句作、その外に私の生きる道があるかよ。

読みたい本があつて、そして酔へる酒があるならば、そこは極楽だ。


 十一月一日 曇、時雨。


早起、安静。

詩作報国をおもふ、日本を歌へ! 歌はなければならない

純情を失ふなかれ、正直であれ、自他に対して。

散歩がてらポストへ。

──ふらふら湯田をさまよふた、そして自分をなくしてしまつた。──

自己否定か。

自己破壊か。

自己忘却か。


 十一月二日 三日 四日 五日


飲んだ、むちやくちやに飲んだ、T屋で、O旅館で、Mで、K屋で。……

たうとう留置場にぶちこまれた、ああ!


十一月六日 七日 八日 九日


南京虫に苦しめられた、それよりも良心に責められた。

南京虫よりも劣つた私だ、何といふ醜悪!

検事局にまはされ、支払を誓約して解放された。

歩いて戻つた。──


 十一月十日 曇。


白紙になつて生きようすなほに一切を受け入れよう

嘘をいふな、善いことも悪いことも、他人に対しても、自分に対しても。

心気透明、澄みわたる心が刃物のやうに冴えかへる。


 十一月十一日 曇。


身心きわめて沈静。

悲しい手紙を書きつゞける。

非国民、非人間のそしりは甘んじて受ける。

胸が痛い、心が痛い。

かへりみてやましい生活ではあつたがかへりみてやましい句は作らなかつた、それがせめてものよろこびである。

最後の場面山頭火五十五年の生涯はたゞ悪夢の連続に過ぎなかつた

緑平老よ、澄太君よ、赦して下さい、健よ、悲しまないでくれ。


 十一月十二日 晴。


朝早く、樹明君来庵、何だか形勢おだやかでない、先日来の出来事を告白する。

堪へがたい憂欝に堪へてゐるところへ、N君来訪、冷静に現在の自分を暴露する。

N君の好意を受けて、久しぶりに酒盃をとりかはす、すこし酔うて、いつしよに街へ出かけて、Mでしばらく遊んでから別れる、帰庵して残りの酒を飲みながら考へてゐると、酔樹明君があやしげな女を連れて来た、けつきよく、また連れ出されて、その女の許に泊つてしまつた。……

虚心。──

生死を超越した生死、是非を超越した是非、得失を超越した得失。


色即空空即色

煩悩を離れて人間は存在しない、存在することは出来ないけれど、人間は煩悩に囚へられてはならない、煩悩を御するところに生活がある。


 十一月十三日 曇。


その翌朝だ、──何といふ悲しい現実だ。

Kさんからの手紙が私を悲しませる。

鶲よ、お前もさびしい鳥だね。

ぢつとしてゐるに堪へきれなくなつて散歩する、阿知須まで行つた、その塩風呂はよかつた、中食もうまかつた、夕方帰庵して、めづらしく熟睡をめぐまれた。


 十一月十四日 晴──曇。


沈静、待つものは来ないけれど。──

土に還る、──ああ!

身辺整理。

みそさゞいが来て、さびしい声で啼く。

夕、ポストまで出かける、ついでに理髪する、そして一杯やる、この一杯は最後の一杯となるかも解らない。

〝I am a rolling stone !〟

もう地団太ふんではゐない。

尻餅をついたのだ!


 十一月十五日 晴。


うらゝかな日ざしが身ぬちにしみとほる。

私は最後の関頭に立つてゐる、死地に於ける安静!

身辺整理、いつでも死ねるやうに。──

健から電報為替が来た、おお健よ、健よ、合掌。

樹明君に一書を託し置き、直ぐ山口へ急ぐ、どうにかかうにか事件解決、ほつとする、ぐつたりして一風呂浴びてから一杯ひつかける、のんびりとS屋に泊つた。

純真であることの外に私の生きてゆく道はない


 十一月十六日 曇──晴。


朝、無事帰庵。

昨日の私、そして今日の私。──

私も此事件を契機として断然更生します、作詩報国の心がまへで、余生を清く正しく美しく生きませう。

酒を慎まう、自分を育てよう、ほんたうの山頭火を表現しよう。

信濃のH君から蕎麦粉と粟餅とを頂戴した、うれしかつた。


 十一月十七日 晴。


身心安静。──

今日は陰暦で十月十五日、宮市天満宮の神幸祭である、おもひではつきない、共に裸坊となつておもしろがつたA君はどうしてゐるだらう?

午後、Nさん来訪、無事を喜ぶ(意味深長な一句だ)、見送りがてら、散歩がてら、石油買ひがてらに新町まで同道する、折から展開される演習を観る(何十年ぶりかで)。

戦争記事は私を憂欝にする、しかも読まずにはゐられない、読みつゝ道徳的苛責を感じる、非国民のそしりを甘んじて受ける私であるが、しかも非国民であることには安んじ得ない私である。

とてもよい月夜だつた、ぢつとしてゐると、宮市のお祭のどよめきが聞えるやうだ、私はひとりさみしく耳を澄ましてゐた。

夢を見た、はかない夢であつた、恥づかしい夢でもあつた、血肉のつながりの微妙さを此事件に於て味ふた、血肉は切つても切れない、切れば血が出る、その血は時としてあまりねばりづよくてあさましくなるが。……

即かうとすれば離れる、離れたいのに即く、これが人間の、ことに私の癖だ、実際生活に於ける私の態度は不即不離でありたい、言葉は古いけれど、意味は新らしい、私は人及物──就中──に対して不即不離でなければならない

実際生活を一点に集約すると、食べること、になると思ふ。

食べることは最も大切で、最も愉快で、神聖といふべきである。


 十一月十八日 曇──晴。


未明起床、演習の砲声が私を考へさせる。

しだいに憂欝が身ぬちにひろがつて堪へがたくなる、散歩、雑木紅葉がうつくしい、櫨紅葉は目さむるばかりである、生きてゐることの幸福がほのかに湧いてくる。……

友が恋しい、逢ひたい、緑平老、澄太君から音信がないのが気にかゝる、先日の手紙は君ら二人を共に失望させ腹立たせたに違ひない、私が私に愛想をつかすほどだから、君らが私に愛想をつかすのもあたりまへだ、が、それにしても私はあきらめきれない、私はまたと得がたい尊い心友のどちらをも失ふたのだらうか、私はやるせない悔恨に責められてゐる。……

暮れて風が吹きだした、月はかう〳〵とかゞやいてゐる、何だか寂しくてやりきれないので、或る人へ手土産のつもりで買つて置いた外郎を食べる、なつかしい味だ。

眠れない、眠りきれない。──

上手下手の境を早く通りぬけたい。

よいとかわるいとかいふ批評を許さない境地に到達したい。


 十一月十九日 曇。


寒うなつた、冬らしく風が吹く。

沈欝、時として、天地に向つて慟哭したいやうな気持におそはれる、それは持病ともいふべきオイボレセンチではない。

私は隠遁生活にはいらう(今までもさうでないことはなかつたけれど)、そして孤独に徹しなければならない、それが私の運命だ。

今夜はいつもよりよく眠れた。

自律心をなくしてしまふ自分を悲しむ。

自律力のない自分を鞭打つ。

アルコールのない生活。

悔のない生活


自他を欺くなかれ。

自分に佞り他人に甘えるなかれ。


 十一月廿日 晴。


空も私もしぐれる。──

茶の実を採る、アメリカの友に贈るべく。

──私は躓いた、傷いた、そして、しかも、新らしい歩みを踏み出したのである(その歩みが溌剌颯爽たるものでないことはあたりまへだ)。──

読書、私には読書が何よりもうれしくよろしい、趣味としても、また教養としても、私は読書におちつかう

信濃の松郎君から頂戴した蕎麦粉を掻いて味ふ、信濃の風物がほうふつとしてうかんでくる。

午後、ポストまで散歩、このごろの散歩は楽しい。

寝苦しかつた。

   自問自答(一)

     ──自殺について──

死ねるか。

死ねる。

いつでも死ねるか。

いつでも。──

死にたいか。

死にたいといふよりも生きてゐたくないと思ふ。

どうして?

性格破産の苦悩に堪へきれないのだ。

古くさいな!

古い新らしいは問題ぢやない、ウソかホントウか、それが問題だ。

それもよからう。

……ウソがホントウになりホントウがウソになる

私の生活はメチヤクチヤだ。

それで。──

生活難ぢやない、生存難だ、いや、存在難だ! 生きる死ぬるの問題以前の問題だ。


 十一月廿一日 時雨。


めつきり冬らしくなつた。

めつたにないことであるが、頭が重苦しい、断酒五日にわたるせいかも知れない。

終日無言時雨を聴き枯草を観る

林五君に、そして緑平、澄太、比古の三君に懺悔謝罪状を送る。……

天蒼々地茫々、そして人漠々。

林伍君に──

──所詮、無能無力、そして我がまゝ気まゝ、これでは苦しむのがあたりまへでせう、みんな身から出た錆で、どうしようもありません、人生は苦悩の連続ですね。──

緑平、澄太、比古君に──

──辛うじて非国民非人間の泥沼から立ちあがることが出来ました、前後截断、余生をつゝましくうつくしく生きぬく覚悟であります、既徃重々の悪業、改めて謝罪いたします。

  百舌鳥するどく

     酔ひざめの身ぬちをつらぬく


 十一月廿二日 晴、時々曇る。


安静、そして憂欝。

ともすれば死の誘惑を感じる、しんじつほんたうに、まつたく落ちついてゐないからだらう。

柚子味噌をこしらへる、たいしてうまいものではないけれど、純日本的な味がある(こしらへ方も日本的だ)。


 十一月廿三日 曇。


寒い風が吹く、雪でも降りさうな。

水仙を活ける、ことしはあたゝかいので早く蕾をもつた、私は日本水仙の清純を愛する、色も香も気高い。

忠彦君へ詫状を書く、強いて詫びなくてもよいのだが、詫びなくては、私の気がすまないのである、忠彦君よ、早く元気になりたまへ、そしていつしよに人生を楽しみませう

今日此頃の私は転身一路の安静である、人間は、ことに私のやうなものは、落ちるところまで落ちないと落ちつけないらしい。

自分をごまかすな、どんな場合でも。

快食は出来る、快眠が出来ない、修行が足らないのだ。

午後は散歩する、M屋に寄つて一杯また一杯(一週間ぶりの酒だけれど、あまりうまくなかつた)、それからついでにK店に寄つてなでしこを借りて帰つた。

酒も煙草もなか〳〵やめられないが、どうやら酒が水になりさうである。

味噌石油と、そしてと、そして煙草と、そして。──

新古今を読みつゞけた、その技巧には感服する、しかし私はさういふ歌を作らうとは考へない、やつぱり万葉がよい、そこには掬めども尽きないものがある。

一、社会的自覚  人間として

一、国民的自覚  日本人として

一、個人的自覚  俳人山頭火として


自然と不自然

自然らしい不自然

不自然らしい自然

私の場合


 十一月廿四日 曇。


寝苦しかつた夜が明けて陰欝な日が来た。

身心整理。──

みそさゞいが寒さうに啼く、その声は私の声ではあるまいか、私の句はその声のやうなものだらう。

裏山逍遙、あゝ山は美しいと讃嘆しないではゐられなかつた、山はほんたうに美しく装ひしてゐる。

此頃は毎朝、有明の月がさやかである、その月を仰いで、私は昨夜見た夢を恥づかしく思つた。

   自問自答(二)

     ──(生死について)──


『生死を超越したる生死』


 十一月廿五日 晴。


冬らしい冷たさ、朝寒夜寒であるが。

午前中はうらゝかだつたが、午後はうそ寒かつた。

──ほろびゆくものゝうつくしさをおもふ。

ハガキが二枚残つてゐたので、岔水君と多々桜君とへたよりを書く、SOSを意味しないでもない。

散歩、ポストのあるところまで。

日々の新聞を待ち受けて読み耽る気持、その気持が、新聞は生活の一部であることを証拠立てる、とにかく新聞といふものは面白い、読まずにはゐられない。

夜は石油がないので(それを買ふ銭もないので)、宵から寝たが、なか〳〵寝つかなかつた、苦しい贅沢とでもいはうか!

┌流転美

│頽廃美

└壊滅美


凋落の秋の色


散る葉のうつくしさ

木の葉は散るときが最もうつくしい。


 十一月廿六日 晴、時々曇。


おちついて、おちつきほどおちついて読書。

……食べるものがなくなつてます〳〵食べることの真実が解る。……

夕飯は米がなくなつたので、そばかきですます、そしてすぐ寝る、石油もないから!


 十一月廿七日 晴。


朝はよいかな、朝はよいかな、小鳥と共にうたはう。

──自省しつゝ私は独語する、──私のやうな変質的我儘者も或は千万人中の一人として許しては貰へないだらうか、枯木も山のにぎはひといはれるやうに。──

午後、頭痛がしてたまらないのでそこらを散歩する、櫨紅葉の美しい一枝を折つて戻る、あゝ亡き母の追懐! 私が自叙伝を書くならば、その冒頭の語句として、──私一家の不幸は母の自殺から初まる、──と書かなければならない、しかし、母よ、あなたに罪はない、あなたは犠牲となられたのだ。

朝も昼も夕も蕎麦粉を掻いて食べる。

夜が明けると起き、日が暮れると寝る、それもわるくない、おもしろい私の生活ではある。


 十一月廿八日 曇、時雨。


うれしいたより、大山の奥さんからのたよりはとりわけて、私をよろこばせた(龍造寺さんから、句集代として多分の喜捨を頂戴して感謝に堪へない)、おゝ大山君、ありがたう(それにつけても緑平老からたよりがないのが気にかかつてならない)。

さつそく街へ出かけて買物いろ〳〵、──米、醤油、石油、マツチ、味噌、煙草、等々等々。

何といふ飯のうまさ!(貧乏は物の味を倍加する)ありがたさ!(困窮はその物の価値を認識せしめる)

暮羊君、久しぶりに来庵、蕎麦掻きを御馳走する、同君から金と傘とを借りて、再び街へ出かけた。

夜、湯田まで出かけて入浴する、十二日ぶりの入浴である、すぐ引き返した、そして心ゆたかに独酌のよさを味つた。

私は私のうちにりんりんたるものを感じるそれを正しくうたふことが私の当面の仕事である

酒が今までのやうにうまくなくなつた、それは心理的といふよりも生理的変化が私の内部に起つてゐるからであらう、とにかく私はアルコールを揚棄しなければならない


 十一月廿九日 曇。


起きるとすぐ火を焚きつける、火はうれしいものだ、冬の火はことさらうれしい。

生きてゐることは死んでしまふよりも苦しい世の中であるけれども、その苦しさに堪へることが人生である。

ポストまで出かける、緑平老へ第二の詫状をおくる、岔水、多々桜君へ受贈本をそれ〴〵送る、この送料はけふこのごろの私にはこたへた。

鰯十尾十三銭、酒二合二十二銭、おいしい中食をいたゞく。

午後散歩、湯田へ行く、S屋に泊る、温泉はありがたいといつも思ふ、つい泊つてしまふ(安くて良い宿を見つけたものだから)。

酒はあまり飲まなくなつた、いや飲めなくなつた(経済的に、また肉体的に)、しかし絶対禁酒はとうてい出来ない。


 十一月卅一日 曇──晴。


朝湯を浴びて、一杯ひつかけて、それからバスに乗つて帰庵。

緑平老からあたゝかいたよりが来た、ほつとする。

大根はうまいかな、大根はあらゆる点で日本蔬菜の王だ。

白菜一玉八銭、これも漬物にして天下一品。

身辺整理、そゝくさ日が暮れた。


 十二月一日 時雨。


新らしい月が来た(間もなく新らしい年が来る)、新らしい足どりで精進しよう。

防火デーといふので、サイレン、鐘声、消防隊の活動がこゝまでもよく解る。

だいたい、このごろは何々デー何々週間が多すぎる、多ぎたるは及ばざるにしかず、誰もが食傷してゐるやうである!

冬ごもり、ことしはつゝましく私らしい冬ごもりをしたい、今日まづ炬燵の用意をした(今年はとても暖かくて、当分炬燵に用もないらしいが)。

おとなしく読書して今日一日を生きた。

今日一日の生活──

それが私の生活の一切だ。

昨日を忘れ明日を考へない

私の生き方は正常でないかも知れない、だが、私には私の生き方として、かういふ生き方が最も自然であり正当である。


 十二月二日 けふも時雨。


早朝、樹明君がやつて来て(多分、よくない朝帰りだらう!)、一寝入して、お茶を飲んで、そしてそのまゝ出勤(感心々々)。

呂竹さんの奥さんが逝かれたさうな、お気の毒だ、さつそくお悔に行き会葬しなければならないのだけれど、それが出来ないので、仏壇に香を炷きお経をあげて、ひとりひそかに冥福を祈つた。

昨日も今日も郵便が来ないが、私はぢつと待つてゐる、それだけ私も落ちついて来たのだらう。

身辺整理、整理しても整理しきれないものがある。

頭痛が堪へがたいので臥床、どうやら風邪をひいたらしい。

知足安分、──これが私の生活信条である。

年はとつても年寄にはなりたくない、──誰でもがかう望むだらう。

年寄になつてはもう駄目だ。

情熱のないところに創作はない


 十二月三日 時雨。


第五十五回の誕生日!

郵便は来たけれど、期待する手紙は来なかつた。

新聞を読み〳〵、新聞は有難いと思ふ。

寒波が襲来したさうだが、寒い〳〵。

終日無言、酒はないけれど米はまだあるので、落ちついて読書した。

夕方、一杯やりたくなつたが、ぢつとこらへて早寝した。

さびしい一日、さびしすぎる誕生日であつた。


 十二月四日 曇、時雨。


身心安静。──

ポストへ出かける、W店で酒三合借りる、ほうれん草二把四銭、なでしこ四銭、木綿針五本で一銭!

ほうれん草はおいしい、酒はさほどうまくない(四日ぶりの酒なのに)。

酒がうまくなくなることは──酒で無理をしなくなることは、私の苦悩がなくなることであるが、それは同時に私の悦楽がなくなることでもある。

精神乖離症シツオイド

└精神分裂症

┌今日一日の命

│大死一番絶後蘇生

└死而後已

┌剣道四病

│  驚、恐、疑、惑

└剣道四綱

   一眼二足三膽四力


 十二月五日 初雪、晴。


朝早く雪が積んでゐる、降ってゐる、雪のうつくしさ。

雪見酒! わるくないな、誰か一樽さげて来ないかな。……

それどころぢやない、米が一粒もないではないか、……よしよし、絶食もよからう! 食べすぎ飲みすぎのわだかまりが清掃されるだらう!

雪がふるふる、支那遠征の将士を思ふ、合掌。

郵便屋さん、御苦労、新聞屋さん、御苦労。

あらゆるものに対して感激と感謝を覚える日である

ポストまで、すぐ戻つた、善哉々々。

雪を眺めつゝ、行乞時代を追想しないではゐられなかつた。

寒い寒い、冬もいよ〳〵本調子になつた。

初炬燵、かうしてぬく〳〵と寝てゐられることは何といふ幸福であらう、有難いよりも勿躰ない。

寝苦しかつた、なか〳〵睡れなかつた(空腹の故でもある!)、長い夜が一層長かつた、私は熱心に軍歌の語句を考へつゞけた。……

金がありがたいのではない金をありがたがるのではない物が物そのものがありがたいのだ物を造つた者をありがたがるのだ


 十二月六日 曇。


今にも何か降りだしさうな空模様である。

初霜初氷。

霜に強い葉弱い葉、氷を砕く音の快さ。

いよ〳〵南京陥落も迫つた、亢奮せざるを得ない。

軍歌一篇をまとめた。

煙草もなくなつた、石油も乏しい、木炭も僅かしか残つてゐない、其中庵非常時風景、いや、むしろ、平常時風景!

悠然として飢えるか! それだけのおちつきが私にあるならば、私は私を祝福する。

今が絶食の──断食といふよりも妥当だ──最も苦しい時である、頑張れ、頑張れ。

臥床読書、徒然草鑑賞。

午前は菜漬、午後は煮大根を少々食べる、なんと番茶のかんばしさ。


 十二月七日 曇、時雨。


寒い々々、貧弱々々。

動いて動かざる心を養へ。

今日で絶食三日、断酒も三日、そして禁煙二日、──午後堪へきれなくなつて出かける、精神は落ちついてゐるけれど、肉体がひよろつく、やうやくコツプ酒一杯、なでしこ一袋にありつく、米の方はいろ〳〵うるさいことがあるから、W老人を訪ねて芋を貰うて戻る、芋のうまさが──今まであまり食べなかつたが──初めて解つた!

たかな六株植える、楽しみである、悔なき楽しみ

睡れないし、燈火はないし、腹はへるしで、夜の明けるのがほんたうに待ち遠かつた。

   其中雑感──

○衝動性変質、自虐症

○孤独癖

○自然的

○断食、絶食

○頽廃美


 十二月八日 曇。


朝は芋をお茶受にして渋茶何杯でもすゝつた、昼も夜もまた、芋々芋々。

多々桜君罹病入院のたより、そんな予感がないでもなかつたが、気にかゝる、早く快くなつて下さい。

病中は何もかも投げだして物事に拘泥しないことが第一大切だと思ひます、……のんきにのんびりと句でも作ることです。

南京まさに陥落しようとして、降伏勧告! 城下の盟は支那人としてさぞ辛からう、勝つ者と負ける者!

暮羊君の奥さんから十銭借りて街へ出かける、切手四銭、ハガキ二銭、そしてなでしこ四銭。

日が暮れるとすぐ寝床にはいつた、燈火がなくては寝て考へるより外はない。

┌短日抄

└長夜抄


夜が明けると起き

日が暮れると寝る

残れるものを食べて

余生を楽しむ


 十二月九日 晴、曇、時雨。


朝の心、朝焼、昇る日がうつくしかつた。

時雨、草に私にしみ入る。……

何もかもなくなる、SOSの反響はない。

南京攻略の祝賀会が方々で催される(国民的感激の高調が公報を待ちきれないで)、当地でも提灯行列が行はれた、それに参加しない私はさびしい。

寝床で行列のどよめきを聴いてゐると、人並の生活人として生活することの出来ない自分を恥づかしく悩ましく思はないではゐられない。

樹明君ちよつと来談、ほんたうにすまなかつた。

貰つたバツトのうまさ、肉慾は痛切であり、そして卑らしくもある。

寝苦しかつた、あたりまへである。

貧乏を味へ

貧乏にあまやかされるな。

貧乏にごまかされるな。


 十二月十日 時雨。


けさは芋もなくなつて、お茶ばかりすゝつてすました。

飢は緊張する、餓えてます〳〵沈静、いよ〳〵真摯

頭痛がするので臥床。

お茶のあつさよ、うまさよ、かうばしさよ。

天青地白(ちちこぐさ)


 十二月十一日 晴。


めづらしくお天気になつた、沈欝気分やゝうすらぐ。

来書一通、岔君ありがたう、ほんたうにありがたう。

さつそく出かけて買物いろ〳〵。

七日ぶりに飯を味ふうまいと感じるよりもありがたいと思うたことである御飯の御の字の意義を考へる

南京陥落、歓喜と悲愁とを痛感する。

久しぶりに、ほんに久しぶりに、ひとりしみ〴〵一盞傾けた。

私もいよ〳〵一生のしめくゝりをつけるべき時機に際会した。

指が何故だか痛い、指一本のための不自由、不快、不甲斐なさ、全体と部分との緊密なる接触を考へる。

午後、湯田へ行き、温泉で、連日の垢と汗とを流した。

S屋に泊つて、ゆつくり休養した。

蕎麦がうまかつた、山口の山はうつくしい。

陰部の両面的意義

  排泄交接、そしてその快感


酔へばあさましく

酔はねばさびしく


 十二月十二日 晴。


小春日、好い日であつた、朝帰庵。

つゝましく読書。

風邪をひいたとみえて(私も人並に!)、洟水がぽたり〳〵落ちて困つた、老を感じた。

今晩は何日ぶりかで、ランプをともすことが出来た。

或る日の出来事──バスの中で

  パン屑、インテリ女性


 十二月十三日 好晴。


けさは少々朝寝、それだけよくねむれたわけ。

降霜、寒冷も本格的になつた。

霜晴れの太陽のまぶしさ、小鳥の声のうれしさ。

私の好きな藪椿がもう咲いては落ちだした。

夕方、ポストまで、ついでに焼酎と蝦雑魚とを買うて戻つて飲んだり食べたり、御馳走々々々。

──物に触れ事につれ、ともすれば心が動く、心の芯は動かないつもりだけれど、やつぱり私は落ちつかない。──

からだがとかくよろめく、アルコールの害毒と老衰とを感じないではゐられない。

アルコールのおかげで快眠、夢中大きな鯉を捕へた、何の前兆か、ハツハツハツ!

『わが冬ごもりの記』


 十二月十四日 晴、曇、時雨。


午前中は申分のない小春凪だつた。

朝酒一本(昨夜の残りもの)、うまいな、ありがたいな、いや、もつたいないな、ほんに朝湯朝酒朝……。

昭和十二年十二月十三日夕刻、敵の首都南京城を攻略せり、──堂々たる公報だ

なつかしい友へたより二通、澄太君へ、無坪君へ。

午後は買物がてら散歩。

今晩から麦飯にした、それは経済的といふよりも生理的な理由による(といつても、新聞代位は倹約になるが)、私はだいたい食べすぎる(飲みすぎることはいふまでもなからう!)、とかく貧乏人の胃袋は大きい、ルンペンは殆んど例外なしに胃拡張的だ、私は自分でも驚くほど大食だ、白飯をぞんぶんに詰め込むと年寄にはもたれ気味になるが、大麦飯(米麦半々)ならば腹いつぱい食べてもあまり徹へないのである、あゝ食べることはあまりに痛切だ

晩は久しぶりの豆腐で、おいしい麦御飯を頂戴した、張り切つた腹を撫でゝは結構々々!

夜、上厠後の痔出血で閉口した、焼酎と唐辛とのせいだらう、老人は強い刺戟を慎むべし。

──わが南京攻囲軍は十三日夕刻南京城を完全に占領せり。

江南の空澄み渡り日章旗城頭高く夕陽に映え皇軍の威容紫金山を圧せり。──

(上海日本海軍部公報)

大空澄みわたる

  日の丸あかるい涙あふるる  (山生)


 十二月十五日 快晴。


早起、身辺整理。──

小春日和のうらゝかさ、一天雲なし、気分ほがらか。

書かなければならない、出さなければならない手紙があるのだけれど、今日も果さなかつた、播いたものは刈らなければならないのに、私はどうしてこんなに我がまゝなのだらう。

終日独坐無言行

良い月夜だつた、霜月十三夜である。


 十二月十六日 霜晴。


昨夜の夢の名残が嫌なおもひをさせる。……

その後一ヶ月経つた、私はいよ〳〵落ちつく。……

やうやくにして、長い悲しい恥づかしい手紙を書きあげて、さつそく投函した、健よ健よ許してくれ許してくれ!

沈欝たへがたきにたへた、あゝ苦しい。

落ちたるを拾ふといふよりも、捨てられたる物を生かす気持で、また一つ拾うて戻つた。

大根一本二銭、おろしたり煮たり漬たり、なんぼ大根好きの私でも一度や二度では食べきれない。

今夜も良い月夜、玲瓏として冴えわたる月光がおのづから天地の悠久を考へさせた、いつまでも睡れなかつた。

悠久な時の流れ、いひかへれば厳粛な歴史の流れ、我々はその流れに流されて行く、その流れに躍り込んで泳ぎ切らなければならない、時代の波に棹して自己の使命を果さなければならない。


 十二月十七日 晴。


風はさむいが大気はあたゝかい、小春日である。

──酒を忘れる、さういふ境地が私のうちに拓かれつゝある、──あまり酒をおもはなくなつた。

郵便は来ない、新聞は来たけれど。

何となく淋しい。

今日は南京入場式、そして今夜は満月、誰も感慨無量であらう、殊に出征の将兵は。──

うらゝかにして小鳥のうた、百舌鳥の疳高い声、目白のおとなしい合唱。

ちよつと出かけて一杯ひつかけた、うまい酒だつた、あぶないあぶない!(だが、酒はよいかな、ほどよい酒は、──とうたひたくなる!)

道連れになつたW老人の話、彼は幸福人だらう。

油揚を買ふ、揚豆腐は田舎料理にはなくてはならぬものである、稲荷鮨のころもとしても、煮物の味付としても。

睡眠不足の気味で、すまないけれど、しばらく昼寝した、すまないと思ふ。

帝人事件判決が下つた、被告全部無罪、私たちには事件の真相はつかめないけれど、割り切れないものがあるらしい、その割り切れないものは現社会の癌だらう!

おだやかに昇る月を観た、よかつた、よかつた。

寝苦しく胸苦しかつた、粗食大食のためか!


 十二月十八日 曇、時雨。


雨にらしい、ぬくすぎる、ばら〳〵雨が落ちだした。

身心平静。

私は生活苦といふよりも生存苦になやまされてゐる、それではあまりにみじめだ。

朝、めづらしくこゝまで行商人がやつて来て、反物はいらないかといふ、御苦労さん、反物どころか、食べる物がなくなつて困つてゐる! それもこれも不景気の反映だらう。

世界歴史に燦然として光輝を放つべき南京入城式の壮観が、今日の新聞では写真と共に色々報道されてゐる、ありがたいニユースであつた。

濡れてかゞやく枯草のうつくしさよ、観れば観るほど美しい。

午後、やうやく半切四枚を書きなぐつた、悪筆の乱筆をもつともつと揮はなければなりません!

今夜も睡れないので、あれこれ読みちらしてごまかす。

読書浄土

旅極楽

飯醍醐

酒甘露


 十二月十九日 曇──雪。


寒い雲がかさなりひろがつて年の瀬らしくなる、粉雪がちら〳〵する、寒い、寒い。

火鉢に火、机に本、おちついてしづかな心。

あるだけの米と麦とを炊く、二食分には足るまい、また絶食か! つらいね。

しようことなしに、暮羊君から墨を借りて、半切四枚書きなぐる、いつものやうに悪筆の乱筆、仕方がないといへばそれまでだけれど、あまりよい気持ではない、そしてそれを急いで送るべく──早く物に代へて貰ひために、ポストまで出かける、ついでにうどん玉を買ひたかつたが、かなしいかな、銭がなかつた。

風がきびしくなつた、まさしく凩だ。

かねて見つけておいて蔓梅一枝を活ける、よいなあと眺める。

夕方、Y君がだしぬけに来庵、ほとんど一年ぶりだ、持参の酒と魚とを食べて、いつしよに寝る。……

┌縦の関係──祖先──父母──遺伝、伝統

└横の関係──兄弟──夫婦、友人──社会性

┌短歌──外延的──迸出──詠嘆

└俳句──内包的──沈潜──


 十二月廿日 雪──曇──雨。


Y君と別れる、お茶をすゝつて(お茶しか食べるものがなかつた)。

うれしいたよりがあつた。

支那をおもふ、支那をおもへば、一度や二度の絶食は何でもない、炭火があるだけでも私にはありがたすぎる!

ポストまで出かける、うどんを食べる、うまい〳〵。

ぽろりと歯が抜けた(四本のうちの一本だ)。


 十二月廿一日 曇。


雪がちほらする中を郵便局へいそぐ、Kよ、ありがたう、涙ぐましくなつて、あてもなく歩く。

飯のうまさ、酒のうまさ、そして生きる苦しさ、考へる切なさ!

たうとう湯田温泉まで。──


 十二月廿二日 曇。


冬至、あゝまた朝酒! 身にしみる冬至だ!

主観の客観化

創作は一種の脱皮ともいへる。

宛名のない遺言状ともいへやう。


 十二月廿三日 曇、時雨。 廿四日 もおなじく、雨。


昨夜も帰れなかつたが、今日も帰れさうにない。

駅で遺骨を迎へる、あはれ、六百五十柱、涙がとめどもなくこぼれて困つた。

熟睡が何よりもうれしかつた。……


 十二月廿五日 晴。


小春日和。

いつもの気まぐれで、歩いて防府へまはる、おもひでのつきない道すぢである。──

S君を訪ねる、不在、M君には逢つたが客来なので遠慮する、I君を訪ねる、また不在、E君も同様に。……

最後にY君を訪ねた(といふよりも尋ねた)、幸にして在宅、十何年ぶりの再会だ、旧友のなつかしさあたゝかさが身にしみた。

暮れて──更けて別れる、月が出た、おもひでを反芻しながらやうやくにして帰庵した。

労れた、労れた、ぐつすりと寝た。


 十二月廿六日 晴──曇──雪。


祖母忌。──

さむ〴〵として、しみ〴〵として。

──すまない、すまない、私は大地に跪づいて天に謝し、人に詫びる、あゝすまない、すまない。──


 十二月廿七日 曇。


悪夢のやうな私の生活、その中へ樹明君が女を連れて(無論、酒も持つて)、訪ねて来た。

現実はみじめすぎる

夜は農学校に宿直の樹明君を訪ねて泊る。


 十二月廿八日 晴曇定めなし。


寒さも本格的になつた。

身辺整理、心内整理が第一だ。

私の心は此頃の天候のやうに、晴れたり曇つたり、しぐれたり、雪がふつたり。……

酔はない酒、いや酔へない心、彷徨。


 十二月廿九日 晴。


天高く地広し、──さういふ心がまへで生活せよ。

昨夜は湯田温泉に浸り、そのまゝ泊つた、そして早朝帰庵。


 十二月卅日 晴。


今年もいよ〳〵押しつまつた。

私も人並に門松を飾つた。

理髪入浴、よい年を迎へよう。


 十二月卅一日 曇。


名残の雪でも降りだしさうな。

街へ、すぐ戻つた。

蕎麦を食べ、一本傾けた。

  昭和十二年を送る

ことしもこゝにけふぎりの米五升

ことしもをはりの虫がまつくろ


 自己を省みて



    新古今集より

 窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとゞみじかきうたたねのゆめ      式子内親王

   朗詠──風生竹夜窓間臥

 道のべに清水流るゝ柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ        西行法師

 夕づく日さすや庵りの柴の戸に寂しくもあるかひぐらしの声      前大納言忠良

 さびしさに堪へたる人の又もあれないほりならべむ冬の山里      西行法師

 かりそめの別れと今日を思へども今やまことの旅にもあるらむ     俊恵法師

 あけばまた越ゆべき山の峯なれや空ゆく月の末の白雲         藤原家隆

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山        西行法師

 遙かなる岩のはざまにひとりゐて人目おもはで物思はばや       〃

 ながめわびそれとはなしに物ぞ思ふ雲のはたての夕ぐれの空      藤原通光

・鈴鹿山うきことよそにふりすてていかになりゆくわが身なるらむ    西行法師

 風に靡く富士のけぶりの空に消えてゆくへも知らぬ我が思ひかな    〃


□苦しい節季であり、寂しい正月であつたが、今年はトンビを着ることが出来た、Iさんの温情を、Kが活かしてくれたのである、ありがたいことである。


柿の葉の広告文として、層雲に発表した感想──

句作三十年、俳句はほんたうにむつかしいと思ふ。

俳句は自然のままがよい、自己をいつはらないことである、よくてもわるくても、自分をあるじとする句でなければならない。

私はこの境地におちついて、かへりみてやましくない句を作りたい。

私の句集は、私にあつては、私自身で積みかさねる墓標に外ならない。

子に与へる句集

父らしくない父が子らしい子に与へる句集

底本:「山頭火全集 第八巻」春陽堂書店

   1987(昭和62)年725日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2009年1021日作成

青空文庫作成ファイル:

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