知々夫紀行
幸田露伴
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八月六日、知々夫の郡へと心ざして立出ず。年月隅田の川のほとりに住めるものから、いつぞはこの川の出ずるところをも究め、武蔵禰乃乎美禰と古の人の詠みけんあたりの山々をも見んなど思いしことの数次なりしが、ある時は須田の堤の上、ある時は綾瀬の橋の央より雲はるかに遠く眺めやりし彼の秩父嶺の翠色深きが中に、明日明後日はこの身の行き徘徊りて、この心の欲しきまま林谷に嘯き傲るべしと思えば、楽しさに足もおのずから軽く挙るごとくおぼゆ。牛頭山前よりは共にと契りたる寒月子と打連れ立ちて、竹屋の渡りより浅草にかかる。午後二時というに上野を出でて高崎におもむく汽車に便りて熊谷まで行かんとするなれば、夏の日の真盛りの頃を歩むこととて、市中の塵埃の匀い、馬車の騒ぎあえるなど、見る眼あつげならざるはなし。とある家にて百万遍の念仏会を催し、爺嫗打交りて大なる珠数を繰りながら名号唱えたる、特に声さえ沸ゆるかと聞えたり。
上野に着きて少時待つほどに二時となりて汽車は走り出でぬ。熱し熱しと人もいい我も喞つ。鴻巣上尾あたりは、暑気に倦めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りには山車小屋をしつらい、御神輿の御仮屋をもしつらいたり。同じく祭りのための設けとは知られながら、いと長き竿を鉾立に立てて、それを心にして四辺に棒を取り回し枠の如くにしたるを、白布もて総て包めるものありて、何とも悟り得ず。打見たるところ譬えば糸を絡う用にすなる篗子というもののいと大なるを、竿に貫きて立てたるが如し。何ぞと問うに、四方幕というものぞという。心得がたき名なり。
石原というところに至れば、左に折るる路ありて、そこに宝登山道としるせる碑に対いあいて、秩父三峰道とのしるべの碑立てり。径路は擱きていわず、東京より秩父に入るの大路は数条ありともいうべきか。一つは青梅線の鉄道によりて所沢に至り、それより飯能を過ぎ、白子より坂石に至るの路なり。これを我野通りと称えて、高麗より秩父に入るの路とす。次には川越より小川にかかり、安戸に至るの路なり。これを川越通りと称え、比企より秩父に入るの路とす。中仙道熊谷より荒川に沿い寄居を経て矢那瀬に至るの路を中仙道通りと呼び、この路と川越通りを昔時は秩父へ入るの大路としたりと見ゆ。今は汽車の便ありて深谷より寄居に至る方、熊谷より寄居に至るよりもやや近ければ、深谷まで汽車にて行き越し、そこより馬車の便りを仮りて寄居に至り、中仙道通りの路に合する路を人の取ることも少からずと聞く。同じ汽車にて本庄まで行き、それより児玉町を経て秩父に入る一路は児玉郡よりするものにて、東京より行かんにははなはだしく迂なるが如くなれども、馬車の接続など便よければこの路を取る人も少からず。上州の新町にて汽車を下り、藤岡より鬼石にかかり、渡良瀬川を渡りて秩父に入るの一路もまた小径にあらざれど、東京よりせんにはあまりに迂遠かるべし。我野、川越、熊谷、深谷、本庄、新町以上合せて六路の中、熊谷よりする路こそ大方は荒川に沿いたれば、我らが住家のほとりを流るる川の水上と思うにつけて興も多かるべけれと択び定め来しが、今この岐路にしるべの碑のいと大きなるが立てられたるを見ては、あるが中にも正しき大路を取りたるかとおぼえて心嬉し。
広瀬、大麻生、明戸などいえる村々が稲田桑圃の間を過ぎて行くうち、日はやや傾きて雨持つ雲のむずかしげに片曇りせる天のさま、そぞろに人をして暑さを厭う暇もなく心忙しく進ましむ。明戸を出はずるる頃、小さき松山の行く手にありて、それにかかれる坂路の線の如くに翠の影の中に入れるさま、何の事はなけれど繕わぬ趣ありておもしろく見えければ、寒月子はこれを筆に写す。おとう坂というところとかや。菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがたければ、鍛冶する片手わざに菓子などならべて売れる家あるを見て立寄りて憩う。湯をと乞うに、主人の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そを火の上に懸るとひとしく、主人吹革もて烈しく炭火を煽り、忽地にして熱き茶をすすめくれたる、時に取りておかしくもまた嬉しくもおぼえぬ。田中という村にて日暮れたれば、ここにただ一軒の旅舎島田屋というに宿る。間の宿とまでもいい難きところなれど、幸にして高からねど楼あり涼風を領すべく、美からねど酒あり微酔を買うべきに、まして膳の上には荒川の鮎を得たれば、小酌に疲れを休めて快く眠る。夜半の頃おい神鳴り雨過ぎて枕に通う風も涼しきに、家居続ける東京ならねばこそと、半は夢心地に旅のおかしさを味う。
七日、朝いと夙く起き出でて、自ら戸を繰り外の方を見るに、天いと美わしく横雲のたなびける間に、なお昨夜の名残の電光す。涼しき中にこそと、朝餉済ますやがて立出ず。路は荒川に沿えど磧までは、あるは二、三町、あるいは四、五町を隔てたれば水の面を見ず。少しずつの上り下りはあれど、ほとほと平なる路を西へ西へと辿り、田中の原、黒田の原とて小松の生いたる広き原を過ぎ、小前田というに至る。路のほとりにやや大なる寺ありて、如何にやしけむ鐘楼はなく、山門に鐘を懸けたれば二人相見ておぼえず笑う。九時少し過ぐる頃寄居に入る。ここは人家も少からず、町の彼方に秩父の山々近く見えて如何にも田舎びたれど、熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。さればにや氷売る店など涼しげによろずを取りなして都めかしたるもあり。とある店に入り、氷に喉の渇を癒して、この氷いずくより来るぞと問えば、荒川にて作るなりという。隅田川の水としいえば黄ばみ濁りて清からぬものと思い馴れたれど、水上にて水晶のようなる氷をさえ出すかと今更の如くに、源の汚れたる川も少く、生れだちより悪き人の鮮かるべきを思う。ここの町よりただ荒川一条を隔てたる鉢形村といえるは、むかしの鉢形の城のありたるところにて、城は天正の頃、北条氏政の弟安房守氏邦の守りたるところなれば、このあたりはその頃より繁昌したりと見ゆ。
寄居を出離れて行くこと少時にして、水の流るるとおぼしき音の耳に入れば、さては道と川と相近づきたるかと疑いつつ行くに、果して左の方に水の光り見えたり。問わずして荒川とは知るものから、昨日と今日とは見どころ異れば同じ流れながら如何なるさまをかなせると、路より少し左に下る小径のあるにまかせて伝い行くに、たちまちにしてささやかなる家を得たり。家は数十丈の絶壁にいと危くも桟づくりに装置いて、旅客が欄に凴り深きに臨みて賞覧を縦にせんを待つものの如し。こはおもしろしと走り寄りて見下せば、川は開きたる扇の二ツの親骨のように右より来りて折れて左に去り、我が立つところの真下の川原は、扇の蟹眼釘にも喩えつべし。ところの名を問えば象が鼻という。まことにその名空しからで、流れの下にあたりて長々と川中へ突き出でたる巌のさま、彼の普賢菩薩の乗りもののおもかげに似たるが、その上には美わしき赤松ばらばらと簇立ち生いて、中に聖天尊の宮居神さびて見えさせ給える、絵を見るごとくおもしろし。川は巌の此方に碧の淵をなし、しばらく澱みて遂に逝く。川を隔てて遥彼方には石尊山白雲を帯びて聳え、眼の前には釜伏山の一トつづき屏風なして立つらなれり。折柄川向の磧には、さしかけ小屋して二、三十人ばかりの男打集い、浅瀬の流れを柵して塞き、大きなる簗をつくらんとてそれそれに働けるが、多くは赤はだかにて走り廻れる、見る眼いとおかし。ここに毗奈耶迦天を祀れるは地の名に因みてしたるにやあらんなど思いつづくるにつけて、竹屋の渡しより待乳山あたりのありさま眼に浮び、同じ川のほとりなり、同じ神の祠なれど、此処と彼処とのおもむきの違えば違うものよなど想いくらべて、そぞろに時を移せしが、寒月子の図も成りたれば、いざとて立ち出ず。
末野を過ぐる頃より平地ようやく窄り、左右の山々近く道に逼らんとす。やがて矢那瀬というに至れば、はや秩父の郡なり。川中にいと大なる岩の色丹く見ゆるがあり。中凹みていささか水を湛う。土地の人これを重忠の鬢水と名づけて、旱つづきたる時こを汲み乾せば必ず雨ふるよしにいい伝う。また二つ岩とて大なる岩の川中に横たわれるあり。字滝の上というところにかかれる折しも、真昼近き日の光り烈しく熱さ堪えがたければ、清水を尋ねて辛くも道の右の巌陰に石井を得たり。さし当りては鬢水よりもこれこそ嬉しけれと、汲みて喉を潤おしつ、この井に名ありやと問えばなしという。名のなくてすみぬるも心にくし、ただやすらかに巌陰の清水と名づけばやなど戯れて過ぎ、やがて本野上に着く。
おのずからなる石の文理の尉姥鶴亀なんどのように見ゆるよしにて名高き高砂石といえるは、荒川のここの村に添いて流るるあたりの岸にありと聞きたれば、昼餉食べにとて立寄りたる家の老媼をとらえて問い質すに、この村今は赤痢にかかるもの多ければ、年若く壮んなるものどもはそのために奔り廻りて暇なく、かつはまた高砂石見せまいらする導せんとて川中に下り立ち水に浸りなどせんは病を惹くおそれもあれば、何人か敢て案内しまいらせん、ましてその路に当りて仮の病院の建てられつれば、誰人も傍を過ぎらんをだに忌わしと思うべし、道しるべせん男得たまうべきたよりはなしとおぼせという。要なき時疫の恨めしけれど是非なく、なおかにかくとその石のさまなど問うに、強て見るべきほどのものとも思われねば已む。今日は市立つ日とて、秤を腰に算盤を懐にしたる人々のそこここに行きかい、糸繭の売買に声かしましく罵り叫く。文化文政の頃に成りたる風土記稿にしるせる如く、今も昔の定めを更えで二七の日をば用いるなるべし。昼餉を終えたれど暑さ烈しければ、二時過ぐる頃ようやく立出ず。
四方の山々いよいよ近づくを見るのみ、取り出でていうべき眺望あるところにも出会わねば、いささか心も倦みて脚歩もたゆみ勝ちに辿り行くに、路の右手に大なる鳥居立ちて一条の路ほがらかに開けたるあり。里の嫗に如何なる神ぞと問えば、宝登神社という。さては熊谷の石原にしるしの碑の立てりしもこの御神のためなるべし、ことさらにまいる人も多しとおぼゆるに、少しの路のまわりを厭いて見過ごさんもさすがなりと、大路を横に折れて、蝉の声々かしましき中を山の方へと進み入るに、少時して石の階数十級の上に宮居見えさせ玉う。色がらすを嵌めたる「ぶりっき」の燈籠の、いと大きくものものしげなるが門にかけられたるなど、見る眼いたく、あらずもがなとおもわる。境内広く、社務所などもいかめしくは見えたれど、宮居を初めよろずのかかり、まだ古びねばにや神々しきところ無く、松杉の梢を洩りていささか吹く風のみをぞなつかしきものにはおぼえける。ここの御社の御前の狛犬は全く狼の相をなせり。八幡の鳩、春日の鹿などの如く、狼をここの御社の御使いなりとすればなるべし。
さてこれより金崎へ至らんとするに、来し路を元のところまで返りて行かんもおかしからねばとて、おおよその考えのみを心頼みに、人にさえ逢えば問いただして、おぼつかなくも山添いの小径の草深き中を歩むに、思いもかけぬ草叢より、けたたましき羽音させていと烈しく飛びたつものあり。何ぞと見るに雉子の雌鳥なれば、あわれ狩する時ならばといいつつそのままやみしが、大路を去る幾何もあらぬところに雉子などの遊べるをもておもえば、土地のさまも測り知るべきなり。
かくてようやく大路に出でたる頃は、さまで道のりをあゆみしにあらねど、暑に息もあえぐばかり苦しくおぼえしかば、もの売る小家の眼に入りたるを幸とそこにやすむ。水湯茶のたぐいをのみ飲まんもあしかるべし、あつき日にはあつきものこそよかるべけれとて、寒月子くず湯を欲しとのぞめば、あるじの老媼いなかうどの心緩やかに、まことにあしき病なんど行わるる折なれば、くず湯召したまわんとはよろしき御心づきなり、湯の沸えたぎらばまいらせんほどに、しばし待ちたまえといいて、傍の棚をさぐりて小皿をとりいだし懐にして立出でしが、やがて帰り来れるを見れば白き砂糖をその皿に山と盛りて手にしたり。くず湯に入るべき白き砂糖のなかりければ、老の足のたどたどしくも母屋がり行きもどりせしとは問わでも知らるるに、ここらのさびしさ、人の優しさ目のあたり見ゆ。ただし今の世の風に吹かれたる若き人はこうもあらぬなるべし。
かくてくず湯も成りければ、啜る啜るさまざまの物語する序に、氷雨塚というもののこのあたりにあるべきはずなるが知らずやと問えば、そのいわれはよくも知らねど塚は我が家のすぐ横にあり、それその竹の一ト簇しげれるが、尋ねたまうものなりと指さし示す。氷の雨塚とは太古のいまだ開けざる頃の人の住家もしくは墓穴のたぐいを、むかし氷の雨降りたる時人々の隠れたりしところならんと後のものの思いしより呼びならわせし名にやあるべき、詳くは考うべき由なし。大淵、小柱、金崎、皆野、久那、寺尾等秩父郡の村々には氷雨塚と称うるもの甚だ多く、大野原には百八塚などいうものあり、また贄川、日野あたりには棒神と唱えて雷槌を安置せるものありと聞きしまま、秩父へ来し次手には、おおむかしのかたみの氷の雨塚というもののさまをも見おぼえおかんとおもいしまでなりしが、休めるところの鼻のさきにその塚ありと聞きては、心もはずみて興を増しつ、身を起してそこに行き見るに、塚は小高き丘をなして、丘の上には翠の葉かげ濃やかに竹美しく生い立ちたり。塚のやや円形に空虚にして畳二ひら三ひらを敷くべく、すべて平めなる石をつみかさねたるさま、たとえば今の人の煉瓦を用いてなせるが如し。入口の上框ともいうべきところに、いと大なる石を横たえわたして崩れ潰えざらしめんとしたる如きは、むかしの人もなかなかに巧みありというべし。寒月子の図も成りければ、もとのところに帰り、この塚より土器の欠片など出したる事を耳にせざりしやと問えば、その様なることも聞きたるおぼえあり、なお氷雨塚はここより少しばかり南へ行きたる処の道の東側なる商家のうしろに二ツほどありという。さらばそれも見んとて老媼にわかれ立出で、それとおぼしき家にことわりいいて、突と裏の方に至り見るに、大さのやや異なるのみにて、ここのもそのさま前のと同じく、別に見るべきところもなし。ただここにはそれと知れたる外に、穴の口全く埋もれしままにて、いまだ掘発さざるがありて、そぞろに人の事を好む心を動かす。されど敢て乞うて掘るべくもあらねば、そのままに見すてて道を急ぎ、国神村というに至る。この村の名も、国神塚といえるがこのあたりにあるより称えそめしなるべし。
今宵は大宮に仮寝の夢を結ばんとおもえるに、路程はなお近からず、天は雨降らんとし、足は疲れたれば、すすむるを幸に金沢橋の袂より車に乗る。流れの上へ上へとのぼるなれど、路あしからねば車も行きなずまず。とかくするうち夏の夕の空かわりやすく、雨雲天をおおいしと見る程もなく、山風ざわざわと吹き下し来て草も木も鳴るとひとしく、雨ばらばらと落つるやがて車の幌もかけあえぬまに篠つく如くふり出しぬ。赤平川の鉄橋をわたる頃は、雷さえ加わりたればすさまじさいうばかりなく、おそるおそる行くての方を見るに、空は墨より黒くしていずくに山ありとも日ありとも見えわかず、天地一つに昏くなりて、ただ狂わしき雷、荒ぶる雨、怒れる風の声々の乱れては合い、合いてはまた乱れて、いずれがいずれともなく、ごうごうとして人の耳を驚かし魂をおびやかすが中に、折々雲裂け天破れて紫色の光まばゆく輝きわたる電魂の虚空に跳り閃く勢い、見る眼の睛をも焼かんとす。ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れば色もただならず、唇までも青みたり。牛馬に等しき事して世をわたるいやしきものながら、同じ人なればさすがにあわれに覚ゆ。我らのほかにも旅人三人ばかり憩い居けるが、口々にあらずもがなのおそろしき雨かなとつぶやき、この家の主が妻は雷をおそれて病める人のようにうちふしなやむ。
されどとかくする中、さしもの雷雨もいささか勢弱りければ、夜に入らぬ中にとてまた車を駛せ、秩父橋といえるをわたる。例の荒川にわたしたるなれば、その大なるはいうまでもなく、いといかめしき鉄の橋にて、打見たるところ東京なる吾妻橋によく似かよいたる節あり。同じ人の作りたるなりというも、まことにさもあるべしとうけがわる。ほどなく大宮につきて、関根屋というに宿かれば、雨もまたようやく止みて、雲のたえだえに夕の山々黒々と眼近くあらわれたり。ここは秩父第一の町なれば、家数も少からず軒なみもあしからねど、夏ながら夜の賑わしからで、燈の光の多く見えず、物売る店々も門の戸を早く鎖したるが多きなど、一つは強き雨の後なればにもあるべけれど、さすがに田舎びたりというべし。この日さのみ歩みしというにはあらねど、暑かりしこととていたく疲れたるに、腹さえいささか痛む心地すれば、酒も得飲まで睡りにつく。
八日、朝餉を終えて立出で、まず妙見尊の宮に詣ず。宮居は町の大通りを南へ行きて左手にあり。これぞというべきことはなけれど樹立老いて広前もゆたかに、その名高きほどの尊さは見ゆ。中古の頃この宮居のいと栄えさせたまいしより大宮郷というここの称えも出で来りしなるべく、古くは中村郷といいしとおぼしく、『和名抄』に見えたるそのとなえ今も大宮の内の小名に残れりという。この祠の祭の行わるるときは、御花圃とよぶところにて口々に歌など唱いながら、知る知らぬ男女ども、こなた行き、かなた行きして、会いつ別れつしつつ相戯れて遊びくらすを習いとすとかや。かかるならいは、よその国々も少なからず、むかしの「かがい」ということなどの名残にもやあるべき。磐城の相馬のは流山ぶしの歌にひびき渡りて、その地に至りしことなき人もよく知ったることなるが、しかも彼処といい此処といい、そのまつる所のものの共に妙見尊なるいとおかしく、相馬も将門にゆかりあり、秩父も将門にゆかりある地なるなど、いよいよ奇し。
やがて立出でて南をむきて行くに、路にあたりていと大きなる山の頭を圧す如くに峙てるが見ゆ。問わでも武甲山とは知らるるまで姿雄々しくすぐれて秀でたり。横瀬、大宮、上影森、下影森、浦山、上名栗、下名栗の七村に跨れるといえる、まことにさもあるべし。この山のとなえをいつの頃よりか武甲と書きならわししより、終に国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊東夷どもを平げたまいて後甲冑の類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を武甲というなどと説くものあるに至れり。説のいつわりなるべきは誰しも知るところなれど、山の頂に日本武尊をいつきまつりありなんどするまま、なおあるいは然らんとおもう人もなきにあらず。されど文字も古くは武光とのみ書きて武甲とは書かねば、強言そのよりどころを失うというべし。さてまたひそかにおもうに、武光のとなえも甚だ故なきに似て、地理の書などにもその説を欠けり。けだし疑うらくはここらを領せし人の名などより、たけ光の庄、たけ光の山などとの称の起りたるならんか。いと古くより秩父の郡に拠りて栄えたる丹の党には、その初めてここに来りし丹治比武信、また初めてここを領せし武経などの如く、武の字を名につけたるもの多ければ、あるいは武光というものもありしかと思わる。ただし地の名より人の名の起れる例は多けれど、人の名より地の名の起れる例はいと少ければ、武光は人の名ならんとの考えもいと力なしなど思いつつ、桑圃の中の一すじ路を行くに、露もまだ乾ぬ桑の葉の上吹く朝風いと涼しく、心地よきこというばかりなし。武光山より右にあたりて山々連なり立てるが中に、三峰は少しく低く黒みて見ゆ。それより奥の方、甲斐境信濃境の高き嶺々重なり聳えて天の末をば限りたるは、雁坂十文字など名さえすさまじく呼ぶものなるべし。
進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至るに、秩父二十八番の観音へ詣らんにはここより入るべしと、道のわかれに立札せるあり。二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐には特にも詣らんかとおもいしところなり。いざとて左のかたの小き径に入る。枝路のことなれば闊からず平かならず、誰が造りしともなく自然と里人が踏みならせしものなるべく、草に埋もれ木の根に荒れて明らかならず、迷わんとすること数次なり。山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、橋立川と呼ぶものなるべし、水音の涼しげに響くを聞く。それより右に打ち開けたるところを望みつつ、左の山の腰を繞りて岨道を上り行くに、形おかしき鼠色の巌の峙てるあり。おもしろきさまの巌よと心留まりて、ふりかえり見れば、すぐその傍の山の根に、格子しつらい鎖さし固め、猥に人の入るを許さずと記したるあり。これこそ彼の岩窟ならめと差し覗き見るに、底知れぬ穴一つ窅然として暗く見ゆ。さてはいよいよこれなりけりと心勇みて、疾く嚮導すべき人を得んと先ず観音堂を索むるに、見渡す限りそれかと覚しきものも見えねばいささか心惑う折から、寒月子は岨道を遥かに上り行きて、ここに堂あり堂ありと叫ぶ。嬉しやと己も走り上りて其処に至れば、眼の前のありさま忽ち変りて、山の姿、樹立の態も凡ならず面白く見ゆるが中に、小き家の棟二つ三つ現わる。名にのみ聞きし石竜山の観音を今ぞ拝み奉ると、先ず境内に入りて足を駐めつ、打仰ぎて四辺を見るに、高さはおよそ三、四百尺もあるべく亙りは二町あまりもあるべき、いと大きなる一トつづきの巌の屏風なして聳え立ちたるその真下に、馬頭尊の御堂の古びたるがいと小やかに物さびて見えたるさま、画としても人の肯うまじきまで珍らかにめでたければ、言語を以ては如何にしてか見ぬものをして点頭かしむることを得ん、まことにただ仙境の如しといわんのみ。巌といえば日光の華厳の滝のかかれる巌、白石川の上なる材木巌、帚川のほとりの天狗巌など、いずれ趣致なきはなけれど、ここのはそれらとは状異りて、巌という巌にはあるが習いなる劈痕皺裂の殆どなくして、光るというにはあらざれど底におのずから潤を含みたる美しさ、たとえば他のは老い枯びたる人の肌の如く、これは若く壮なる人の面の如し。特に世の常の巌の色はただ一ト色にしておかしからぬに、ここのは都ての黒きが中に白くして赤き流れ斑の入りて彩色をなせる、いとおもしろし。憾むらくは橋立川のやや遠くして一望の中に水なきため、かほどの巌をして一トしおの栄あらしむること能わず、惜みてもなお惜むべきなり。
堂のこなた一段低きところの左側に、堂守る人の居るところならんと思しき家ありて、檐に響板懸り、それに禅教尼という文字見えたり。ここの別当橋立寺と予て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路あまりの女の髪は銀杏返しというに結び、指には洋銀の戒指して、手頸には風邪ひかぬ厭勝というなる黒き草綿糸の環かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人とも見えぬは、これぞ響板の面に見えたる人なるべし。奥の院の窟の案内頼みたき由をいい入るれば、少時待ち玉えとて茶を薦めなどしつ、やおら立上りたり。何するぞと見るに、やがて頸長き槌を手にして檐近く進み寄り、とうとうとうと彼の響板を打鳴らす。禽も啼かざる山間の物静かなるが中なれば、その声谿に応え雲に響きて岩にも侵み入らんばかりなりしが、この音の知らせにそれと心得てなるべし、筒袖の単衣着て藁草履穿きたる農民の婦とおぼしきが、鎌を手にせしまま那処よりか知らず我らが前に現れ出でければ、そぞろに梁山泊の朱貴が酒亭も思い合わされて打笑まれぬ。
婦は我らを一目見て直ちに鎌を捨て、蝋燭、鍵などを主人の尼より受け取り、いざ来玉えと先立ちて行く。後に従いて先に見たる窟の口に到れば、女先ず鎖を開き燭を点して、よく心し玉えなどいい捨てて入る。背をかがめ身を窄めでは入ること叶わざるまで口は狭きに、行くては日の光の洩るる隙もなく真黒にして、まことに人の世の声も風も通わざるべきありさま、吾他が終に眠らん墓穴もかくやと思わるるにぞ、さすがに歩もはかばかしくは進まず。されど今さら入らずして已まん心もなければ、後れじものと従いて入るに、下ること二、三十歩にして窟の内やや広くなり、人々立ち行くことを得。婦燭を執りて窟壁の其処此処を示し、これは蓮花の岩なり、これは無明の滝、乳房の岩なりなどと所以なき名を告ぐ。この窟上下四方すべて滑らかにして堅き岩なれば、これらの名は皆その凸く張り出でたるところを似つかわしきものに擬えて、昔の法師らの呼びなせしものにて、窟の内に別に一々岩あるにはあらず。
道二つに岐れて左の方に入れば、頻都廬、賽河原、地蔵尊、見る目、齅ぐ鼻、三途川の姥石、白髭明神、恵比須、三宝荒神、大黒天、弁才天、十五童子などいうものあり。およそ一町あまりにして途窮まりて後戻りし、一度旧の処に至りてまた右に進めば、幅二尺ばかりなる梯子あり。このあたり窟の内闊くしてかえって物すさまじ。梯の子十五、六ばかりを踏みて上れば、三十三天、夜摩天、兜率天、忉利天などいうあり、天人石あり、弥勒仏あり。また梯子を上りて五色の滝、大梵天、千手観音などいうを見る。難界が谷というは窟の中の淵ともいうべきものなるが、暗くしてその深さを知るに由なく、さし覗くだに好き心地せず。蓮花幔とて婦燭を岩の彼方にさしつくれば、火の光朧気に透きて見ゆるまで薄くなりて下れる岩あり。降り竜といえるは竜の首めきたる岩の、上より斜に張り出でたるなるが、燭を執りたる婦に従いて寒月子があたかもその岩の下を行くを後より見れば、さなきだに燭の光りのそこここに陰影をつくれるが怪しく物怖ろしげに見ゆる中に、今や落ちかからんずる勢して、したたかなる大きさの岩の人の頭の上に臨めるさま、見るものの胆を冷さしむ。それよりまた梯子を上り、百万遍の念珠、五百羅漢、弘法大師の護摩壇、十六善神などいうを見、天の逆鉾、八大観音などいうものあるあたりを経て、また梯子を上り、匍匐うようにして狭き口より這い出ずれば、忽ち我眼我耳の初めてここに開けしか、この雲行く天、草芳る地の新にここに成りしかを疑う心の中のすがすがしさ、更に比えんかたを知らず。
古よりこの窟に入りて出ずることを窟禅定と呼びならわせる由なるが、さらばこの窟を出でたる時の心地をば窟禅定の禅悦ともいうべくやなどと、私に戯れながら堂の前に至る。この窟地理の書によるに昇降およそ二町半ばかり、一度は禅定すること廃れしが、元禄年中三谷助太夫というものの探り試みしより以来また行わるるに至りしという。窟のありさまを考うるに、あるいは闊くなりあるいは狭くなり、あるいは上りあるいは下り、極めて深き底知れぬ谷などのあるのみならず、岩のさま角だたず滑らかにして、すべて物の自然溶け去りし後の如くなれば、人の造りしものともおもわれず、七宝所成にして金胎両部の蓮華蔵海なりなどいう法師らが説はさておき、まことにおのずから成れる奇窟なるべく、東の出口と西の入口と相隔たること窟の外にてもおよそ一町ほどなれば、窟の中二町余りというも虚妄にあらじと肯わる。ただ窟の内のさまざまの名は皆強いて名づけたるにて、名に副うものは一もなし。
窟禅定も仕はてたれば、本尊の御姿など乞い受けて、来し路ならぬ路を覚束なくも辿ることやや久しく、不動尊の傍の清水に渇きたる喉を潤しなどして辛くも本道に出で、小野原を経て贄川に憩う。荒川橋とて荒川に架せる鉄橋あり。岸高く水遠くして瀬をなし淵をなし流るる川のさまも凡ならぬに、此方の岩より彼方の岩へかかれる吊橋の事なれば、塗りたる色の総べて青きもなかなかに見る眼厭わしからず、瑞西あたりの景色の絵を目のあたり此処に見る心地す。贄川は後に山を負い前に川を控えたる寂びたる村なれど、家数もやや多くて、蚕の糸ひく車の音の路行く我らを送り迎えするなど、住まば住み心よかるべく思わるるところなり。昼食しながらさまざまの事を問うに、去年の冬は近き山にて熊を獲りたりと聞き、寒月子と顔見合わせて驚き、木曾路の贄川、ここの贄川、いずれ劣らぬ山里かな、思えば思い做しにや景色まで似たるところありなどと語らう。
贄川を立ち出でて猪の鼻を経、強石に到る。贄川より隧道を過ぐるまでの間、山ようやく窄り谷ようやく窮まりて、岨道の岩のさまいとおもしろく、原広く流れ緩きをもて名高き武蔵の国の中にもかかるところありしかと驚かる。されど隧道を過ぐれば趣き変りて、兀げたる山のみ現れ来るもおかし。上りつ下りつして強石を過ぎ、川のほとりにいたる。川のむかいは即ち三峰にて、強石は即ち多くの地図に大滝と見えたる村の小名なり。大滝というも贄川というも、水の流れ烈しきより呼び出せる名にて、仮名は違えど贄川は沸川ならんこと疑いなし。いよいよ雲採、白石、妙法の三峰のふもとに来にけりと思いつつ勇み進むに、十八、九間もあるべき橋の折れ曲りて此方より彼方にわたれるが、その幅わずか三尺ばかりにして、しかも処々腐ちたれば、脚の下の荒川の水の青み渡りて流るるを見るにつけ、さすがに胸つぶれて心易からず、渡りわずらうばかりなり。むかしは独木橋なりしといえばその怖ろしさいうばかりなかりしならん。
ようやくにして渡り終れば大華表ありて、華表のあなたは幾百年も経たりとおぼゆる老樹の杉の、幾本となく蔭暗きまで茂り合いたり。これより神の御山なりと思う心に、日の光だに漏らぬ樹蔭の涼しささえ打添わりて、おのずから身も引きしまるようにおぼゆ。山は麓より巓まで、ひた上り五十二町にして、一町ごとに町数を勒せる標石あり。路はすべて杉の立樹の蔭につき、繞り縈りて上りはすれど、下りということ更になし。三十九町目あたりに到れば、山急に開けて眼の下に今朝より歩み来しあたりを望む。日も暮るるに近き頃、辛くして頂に至りしが、雲霧大に起りて海の如くになり、鳥居にかかれる大なる額の三峰山という文字も朧気ならでは見えわかず、袖も袂も打湿りて絞るばかりになりたり。急ぎて先ず社務所に至り宿仮らん由を乞えば、袴つけたる男我らを誘いて楼上に導き、幅一間余もある長々しき廊を勾に折れて、何番とかやいう畳十ひらも敷くべき一室に入らしめたり。
あたりのさまを見るに我らが居れる一ト棟は、むかし観音院といいし頃より参詣のものを宿らしめんため建てたると覚しく、あたかも廻廊というものを二階建にしたる如く、折りまがりたる一トつづきのいと大なる建物にて、室の数はおおよそ四十もあるべし。一つの堂を中にし、庭を隔てて対いの楼上の燈を見るに、折から霧濃く立迷いたれば、海に泊まれる船の燈を陸より遥に望むが如し。此処は水乏しくして南の方の澗に下る八町ならでは得る由なしと聞けるに、湯殿に入りて見れば浴槽の大さなど賑える市の宿屋も及ばざる程にて、心地好きこと思いのほかなり。参詣のものを除きここの人々のみにて百人に近しといえば、まことに然もあるべきことなるが、水をば今は新らしき装置もて絶ゆる間なく汲み上ぐるという。
夜の食を済ませて後、為すこともなければ携えたる地理の書を読みかえすに、『武甲山蔵王権現縁起』というものを挙げたるその中に、六十一代朱雀天皇天慶七年秩父別当武光同其子七郎武綱云々という文見え、また天慶七年武光奏し奉りて勅を蒙り五条天皇(疑わし)少彦名命を蔵王権現の宮に合せ祀りて云々と見えたり。さてはいよいよ武光という人もありけり、縁起などいうものは多く真とし難きものなれど、偽り飾れる疑ありて信とし難しものの端々にかえって信とすべきものの現るる習いなることは、譬えば鍍金せるものの角々に真の質の見るるが如しなどおもう折しも、按摩取りの老いたるが入り来りたり。眼盲いたるに如何でかかる山の上にはあるならんと疑いつ、呼び入れて問いただすに、秩父に生れ秩父に老いたるものの事とて世はなれたる山の上を憂しともせず、口に糊するほどのことは此地にのみいても叶えば、雲に宿かり霧に息つきて幾許もなき生命を生くという。おかしき男かなと思いてさまざまの事を問うに、極めて石を愛ずる癖ある叟にて、それよりそれと話の次に、平賀源内の明和年中大滝村の奥の方なる中津川にて鉱を採りし事なども語り出でたり。鳩渓の秩父にて山を開かんと企てしことは早くよりその伝説ありて、今もその跡といえるが一処ならず残れるよしなれば、ほとほと疑いなきことなるが、知る人は甚だ稀なるようなり。功利に急なりし人の事とて、あるいは秩父の奥なんどにも思いを疲らして手をつけ足を入れしならん。
按摩済む頃、袴を着けたる男また出で来りて、神酒を戴かるべしとて十三、四なる男の児に銚子酒杯取り持たせ、腥羶はなけれど式立ちたる膳部を据えてもてなす。ここは古昔より女のあることを許さねば、酌するものなどすべて男の児なるもなかなかにきびきびしくて好し。神酒をいただきつつ、酒食のたぐいを那処より得るぞと問うに、酒は此山にて醸せどその他は皆山の下より上すという。人馬の費も少きことにはあらざるべきに盛なることなり。この山是の如く栄ゆるは、ここの御神の御使いの御狗というを四方の人々の参り来て乞い求むるによれり。御神は伊奘諾伊奘冊二柱の神にましませば申すもかしこし、御狗とは狼をさしていう。もとより御狗を乞い求むるとて符牘のたぐいを受くるには止まれど、それに此山の御神の御使の奇しき力籠れりとして人々は恐れ尊むめり。狼の和訓おおかみといえるは大神の義にて、恐れ尊めるよりの称なれば、おもうに我邦のむかし山里の民どもの甚く狼を怖れ尊める習慣の、漸くその故を失ないながら山深きここらにのみ今に存れるにはあらずや。
我邦には獅子虎の如きものなければ、獣には先ず狼熊を最も猛しとす。されば狼を恐れて大神とするも然るべきことにて、熊野は神野の義、神稲をくましねと訓むたぐいを思うに、熊をくまと訓むはあるいは神の義なるや知るべからず。(或曰、くまは韓語、或曰、くまは暈にて月の輪のくま也。)ただ狼という文字は悪きかたにのみ用いらるるならいにて、豺狼、虎狼、狼声、狼毒、狼狠、狼顧、中山狼、狼飡、狼貪、狼竄、狼藉、狼戻、狼狽、狼疾、狼煙など、めでたきは一つもなき唐山のためし、いとおかし。いわゆる御狗を出すところは此山のみならず、来し路の宝登神社、贄川の猪狩明神、薄村の両神神社なども皆人の乞うに任せて与うという。秩父は山重なり谷深ければ、むかしは必ず狼の多かりしなるべく、今もなお折ふしは見ゆというのみか、此山にては月々十九日に飯生酒など本社より八町ほど隔たりたるところに供置きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃かに語り合いつつ、好きほどに酒杯を返し納めて眠りに就くに、今宵は蚊もなければ蚊屋も吊らで、しかも涼しきに過ぐれば夜被引被ぎて臥す。室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひくということもせず戸の後鎖することもせざる、さすがに御神の御稜威ありがたしと心に浸みて嬉しくおぼえ、胸の海浪おだやかに夢の湊に入る。
九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢などは見えわかぬほど霧深き暁の冷やかなるが中を歩みて、寒月子ともども本社に至り階を上りて片隅に扣ゆ。朝々の定まれる業なるべし、神主禰宜ら十人ばかり皆厳かに装束引きつくろいて祝詞をささぐ。宮柱太しく立てる神殿いと広く潔らなるに、此方より彼方へ二行に点しつらねたる御燈明の奥深く見えたる、祝詞の声のほがらかに澄みて聞えたる、胆にこたえ身に浸みて有りがたく覚えぬ。やがて退り立ちて、ここの御社の階の下の狛犬も狼の形をなせるを見、酒倉の小さからぬを見などして例のところに帰り、朝食をすます。
これよりなお荒川に沿いて上り、雁坂峠を越えて甲斐の笛吹川の水上に出で、川と共に下りて甲斐に入り、甲斐路を帰らんと予ては心の底に思い居けるが、ここにて問い糺せば、甲斐の川浦という村まで八里八町人里もなく、草高くして路もたえだえなりとの事に望を失ない、引返さんと心をきわむ。日本武尊の常陸より甲斐の酒折に至りたまいし時は、いずれの路を取り玉いしやらん。常陸より甲斐に至らんに武蔵よりせんには、荒川に沿いて上ると玉川に沿いて上るとの二路あり。三峰、武光、八日見山を首とし、秩父には尊の通り玉いし由のいい伝え処々に存れるが、玉川の水上即ち今の甲斐路にも同じようの伝説なきにあらず。また尊の酒折より武蔵上野を経て信濃に至りたまいし時は、いずくに出で玉いしならん。酒折より笛吹川に沿うて上りたまいしならんには必ず秩父を経たまいしなるべし。雁坂の路は後北条氏頃には往来絶えざりしところにて、秩父と甲斐の武田氏との関係浅からざりしに考うるも、甚だ行き通いし難からざりし路なりしこと推測らる。家を出ずる時は甲斐に越えんと思いしものを口惜とはおもいながら、尊の雄々しくましませしには及ぶべくもあらねば、雁坂を過ぎんことは思い断えつ、さればとて大日向の太陽寺へ廻らん心も起さず、ひた走りに走り下りて大宮に午餉す。ふたたび郷平橋を渡りつつ、赤平川を郷平川ともいうは、赤平の文字もと吾平と書きたるを音もて読みしより、訛りて郷平となりたるなりという昔の人の考えを宜ない、国神野上も走りに走り越し、先には心づかざりし道の辺に青石の大なる板碑立てるを見出しなどしつ、矢那瀬寄居もまた走り過ぎ、暗くなりて小前田に泊りたり。
十日、宿を立出でて長善寺の傍より左へ横折れ、観音堂のほとりを過ぎ、深谷へと心ざす。幸に馬車の深谷へ行くものありければ、武蔵野というところよりそれに乗りて松原を走る。いと広き原にて、行けども行けども尽くることなし。名を問えば櫛挽の原という。夕日さす景色も淋し松たてる岡部の里と、為相の詠めるあたりもこの原つづきなり。よっておもうに、岡部の里をよめる歌には松をよめるが多きようなり。深谷に着きて汽車に打乗り、鴻巣にいたりて汽車を棄て、人力車を走らせて西吉見の百穴に人間の古をしのび、また引返して汽車に乗り、日なお高きに東京へ着き、我家のほとりに帰りつけば、秩父より流るる隅田川の水笑ましげに我が影を涵せり。
底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年9月17日第1刷発行
2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「太陽」博文館
1899(明治32)年2月
初出:「太陽」博文館
1899(明治32)年2月
※表題は底本では、「知々夫紀行」となっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月23日作成
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