二葉亭追録
内田魯庵
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二葉亭が存命だったら今頃ドウしているだろう? という問題が或る時二葉亭を知る同士が寄合った席上の話題となった。二葉亭はとても革命が勃発した頃まで露都に辛抱していなかったろうと思うが、仮に当時に居合わしたとしたら、ロマーノフ朝に味方したろう乎、革命党に同感したろう乎、ドッチの肩を持ったろう? 多恨の詩人肌から亡朝の末路に薤露の悲歌を手向けたろうが、ツァールの悲惨な運命を哀哭するには余りに深くロマーノフの罪悪史を知り過ぎていた。が、同時に入露以前から二、三の露国革命党員とも交際して渠らの苦辛や心事に相応の理解を持っていても、双手を挙げて渠らの革命の成功を祝するにはまた余りに多く渠らの陰謀史や虐殺史を知り過ぎていた。
二葉亭の頭は根が治国平天下の治者思想で叩き上げられ、一度は軍人をも志願した位だから、ヒューマニチーの福音を説きつつもなお権力の信仰を把持して、〝Might is right〟の信条を忘れなかった。貴族や富豪に虐げられる下層階級者に同情していても権力階級の存在は社会組織上止むを得ざるものと見做し、渠らに味方しないまでも呪咀するほどに憎まなかった。
二葉亭はヘルチェンやバクーニンを初め近世社会主義の思想史にほぼ通じていた。就中ヘルチェンは晩年までも座辺から全集を離さなかったほど反覆した。マルクスの思想をも一と通りは弁えていた。が、畢竟は談理を好む論理遊戯から愛読したので、理解者であったが共鳴者でなかった。書斎の空想として興味を持っても実現出来るものともまた是非実現したいとも思っていなかった。かえってこういう空想を直ちに実現しようと猛進する革命党や無政府党の無謀無考慮無経綸を馬鹿にし切っていた。露都へ行く前から露国の内政や社会の状勢については絶えず相応に研究して露国の暗流に良く通じていたが、露西亜の官民の断えざる衝突に対して当該政治家の手腕器度を称揚する事はあっても革命党に対してはトンと同感が稀く、渠らは空想にばかり俘われて夢遊病的に行動する駄々ッ子のようなものだから、時々は灸を据えてやらんと取締りにならぬとまで、官憲の非違横暴を認めつつもとかくに官憲の肩を持つ看方をした。
「露西亜は行詰っているが、革命党は空想ばかりで実行に掛けたらカラ成っていない。いくらヤキモキ騒いだって海千山千の老巧手だれの官僚には歯が立たない、」と二葉亭は常に革命党の無力を見縊り切っていた。欧洲戦という意外の事件が突発したためという条、コンナに早く革命が開幕されて筋書通りに、トいうよりはむしろ筋書も何にもなくて無準備無計画で初めたのが勢いに引摺られてトントン拍子にバタバタ片附いてしまおうとは誰だって夢にだも想像しなかったのだから、二葉亭だってやはり、もし存生だったら地震に遭逢したと同様、暗黒でイキナリ頭をドヤシ付けられたように感じたろう。
が、二葉亭は革命党の無力を見縊っていても、その無思慮な軽率なヤリ口に感服しなくてもまるきり革命が起るのを洞観しないじゃなかった。「露西亜は今噴火坑上に踊ってる。幸い革命党に人物がないから太平を粧っていられるが、何年か後には必ず意外の機会から全露を大混乱に陥れる時がある」とはしばしば云い云いした。「その時が日本の驥足を伸ぶべき時、自分が一世一代の飛躍を試むべき時だ」と畑水練の気焔を良く挙げたもんだ。
果然革命は欧洲戦を導火線として突然爆発した。が、誰も多少予想していないじゃないが余り迅雷疾風的だったから誰も面喰ってしまった。その上、東京の地震の火事と同様、予想以上に大きくなったのでいよいよ面喰ってしまった。日本は二葉亭の注文通りにこの機会に乗じて驥足を伸べるどころか、火の子を恐れて縮こまって手も足も出ないでいる。偶々チョッカイを出しても火傷をするだけで、動やともすると野次馬扱いされて突飛ばされたりドヤされたりしている。これでは二葉亭が一世一代の芝居を打とうとしても出る幕がないだろう。
だが、実をいうと二葉亭は舞台監督が出来ても舞台で踊る柄ではなかった。縦令舞台へ出る役割を振られてもいよいよとなったら二の足を踏むだろうし、踊って見ても板へは附くまい。が、寝言にまでもこの一大事の場合を歌っていたのだから、失敗うまでもこの有史以来の大動揺の舞台に立たして見たかった。
ヨッフェが来た時、二葉亭が一枚会合に加わっていたらドウだったろう。あの会合は本尊が私設外務大臣で、双方が探り合いのダンマリのようなもんだったから、結局が百日鬘と青隈の公卿悪の目を剥く睨合いの見得で幕となったので、見物人はイイ気持に看惚れただけでよほどな看功者でなければドッチが上手か下手か解らなかった。あアいう型に陥った大歌舞伎では型の心得のない素人役者では見得を切って大向うをウナらせる事は出来ないから、まるきり型や振事の心得のない二葉亭では舞台に飛出しても根ッから栄えなかったろうが、沈惟敬もどきの何とかいう男がクロンボを勤めてるよりも舞台を引緊めたであろう。
とは思うものの、二葉亭は舞台の役を振られて果して躍り出すだろう乎。空想はかなり大きく、談論は極めて鋭どかったが、率ざ問題にブツかろうとするとカラキシ舞台度胸がなくて、存外〓(「口+咨」)咀逡巡して容易に決行出来なかった。実行家となるには二葉亭は余りに思慮が細か過ぎた。右から左から縦から横から八方から只見うこう見て卯の毛で突いたほどの隙もないまでに考え詰めてからでないと何でも実行出来なかった。実行家の第一資格たる向う見ずに猪突する大胆を欠いていた。勢い躍り出すツモリでいても出遅れてしまう。機会は何度来ても出足が遅いのでイツモ機会を取逃がしてしまう。存命していても二葉亭はやはりとつおいつ千思万考しつつ出遅れて、可惜多年一剣を磨した千載の好機を逸してしまうが落であるかも解らん。
が、それでも活かして置きたかった。アレカラ先き当分露国に滞留して革命にも遭逢し、労農政府の明暗両方面をも目睹したなら、その露国観は必ず一転回して刮目すべきものがあったであろう。舞台の正面を切る役者になるならぬは問題でなくして、左に右く二葉亭をしてこの余りに大き過ぎて何人にも予想出来なかった露西亜の大変動に直面せしめたかった。
二葉亭は露国文化の注入者としては先駆者であった。プーシキンやゴンチャローフやドストエフスキーや露西亜の近代の巨星の名什を耽読したのが四十年前で、ツルゲーネフの断章を初めて日本に翻訳紹介したのが三十六年前であった。その頃は日本ばかりでなくて欧羅巴ですらが露西亜を北欧の半開民族視していたから、露西亜の文化なぞは問題とならなかった。露西亜の文学がポツポツ欧羅巴の大陸語に翻訳され出したのはやはり同じ頃からで、何一つ欧羅巴に遅れを取らないものはない日本の文化事業の中でただ一つ露西亜の文学の紹介に率先(縦令その後を続けるものが暫らくなかったにしろ)したというは二葉亭あったがためであった。
が、新らしい露西亜の文芸の研究者、精通者、紹介者としては二葉亭は実に輝いた先駆者であったが、元来露西亜の思想なるものは極めてオーソドックスな官僚的階級差別心と頗る放縦なユートピヤ的空想とあるのみで、近代自由思想の糧とすべきものに乏しかったから、二葉亭は芸術的に露西亜の勝れた世界的大作に負う処があっても思想的に露西亜から学ぶべき何物をも与えられなかった。随って少年時代から魏叔子や陸宣公で培われた頭は露西亜の文学の近代的気分に触れてもその中に盛られた自由思想を容れるには余りに偏固になり過ぎていた。
二葉亭が小説家型よりは国士型であるというは生前面識があった人は皆認める。この国士型というは維新前後から明治初期へ掛けての青年の通有であって、二葉亭に限らず同年配のものは皆国士を理想とした。本党の床次、現閣の浜口、皆学校時代から国士を任じていた。当時の青年が政治に志ざしたのは皆国士を標的としたからで、坪内博士の如く初めから劇や小説を生涯の仕事とする決心で起ったものは異数であった。徳冨蘆花が『ほととぎす』に名を成した後の或る時「我は小説家たるを恥とせず」とポーロ擬きに宣言したのはやはり文人としての国士的表現であった。町人宗の開山福沢翁が富の福音を伝道しつつも士魂商才を叫んだ如く、当時の青年はコンパスや計算尺を持つ技師となっても、前垂掛けで算盤を持っても、文芸に陶酔してペンを持っても、国士という桎梏から全く解放されたものは先ずなかった。身、欧羅巴の土を踏んで香水気分に浸ったものでも頭の中では上下を着て大小を佩していた。
二葉亭もやはり、夙くから露西亜の新らしい文芸の洗礼を受けていても頭の中では上下を着て大小を佩していた。聡明の人だから近代思想にも十分な理解を持っていたが、若い自由な思想に活きるよりはヨリ以上に国士的壮図の夢を見ていた。文学的天才に恵まれていながら文学に気乗りがせず、トルストイやドストエフスキーの偉大を認めつつも較やもすれば軽侮する口気を洩らし、文学の尊重を認めるという口の下から男子畢世の業とするに足るや否やを疑うという如きは皆国士の悪夢の囈語であった。
二葉亭は児供の時は陸軍大将を理想として士官学校を志願までした。不幸にして不合格となったので、軍人を断念して外交方面へ方向を転じたが、学校が思うようにならず、その上に一家の事情が纏綿して、三方四方が塞がったから仕方がなしに文学に趨ったので、初一念の国士の大望は決して衰えたのでも鈍ったのでもなかった。語学校に教授を執った時もタダの語学教師たるよりは露西亜を対照としての天下国家の経綸を鼓吹したので、松下村塾の吉田松陰を任じていた。それ故に同じ操觚でも天下の木鐸としての新聞記者を希望して、官報局を罹めた時既に新聞記者たらんとして多少の運動をもした位だから、朝日の通信員として露西亜へ上途した時は半世の夙志が初めて達せられる心地がして意気満盛、恐らくその心事に立入って見たら新聞通信員を踏台として私設大使を任ずる心持であったろう。が、二葉亭の頭は活きた舞台に立つには余りに繊細煩瑣に過ぎていた。北京に放浪して親友川島浪速の片腕となって亜細亜の経綸を策した時代は恐らく一生の中の得意の絶頂であったろうが、余りに潔癖過ぎ詩人過ぎて、さしたる衝突もないのに僚友の引留むるを振払って帰朝してしまった。川島は満洲朝の滅亡と共に雄図蹉跎し、近くは直隷軍の惨敗の結果が宣統帝の尊号褫奪宮城明渡しとなって、時事日に非なりの感に堪えないで腕を扼しているだろうが、依然信州の山河に盤踞して嵎を負うの虎の如くに恐れられておる。渠は実に当世に珍らしい三国志的人物であるが、渠と義を結んで漢の天下を復する計を立つるには二葉亭は余りに近代的思想を持ち過ぎていた。シカモ近代人となるにはまた余りに古風な国士的風懐があり過ぎていた。この鳥にも獣にもドッチにもなり切る事が出来ない性格の矛盾が何をするにも二葉亭のキャリヤの障碍となった。
二葉亭と交際した二十年間、或る時は殆んど毎日往来した。終日あるいは夜を徹して語り明かした事もあった。が、お互いの打明けた談合の外は話題はイツデモ政治談や対外策、人生問題や社会問題に限られて滅多に文学に触れなかった。偶々文学談をしてもゴーゴリやツルゲーネフでなければ芭蕉や西行、京伝や三馬らの古人の批評で、時文や文壇の噂には余り興味を持たなかった。どうかすると紅葉や露伴や文壇人の噂をする事も時偶はあったが、舞台の役者を土間や桟敷から見物するような心持でいた。
『浮雲』以後は暫らく韜晦して文壇との交渉を絶ち、文壇へ乗出す初めに提携した坪内博士とすら遠ざかっていた。が、再びポツポツ翻訳を初めてから新聞雑誌記者や文壇人が頻繁に出入し初めた。二葉亭が二度の文人生活を初めたのは全く糊口のためで文壇的野心が再燃したわけでなく、ドコまでもシロウトの内職の心持であった。本職の文壇人として、舞台あるいは幕裏のあるいは楽屋の人間として扱われるのを痛くイヤがっていた。「文壇の名士が来てはツルゲーネフのトルストイのと持掛けられるにはクサクサする」と苦り切っていた。
『浮雲』を書いた時は真に血みどろの真剣勝負であった。『あいびき』や『めぐりあい』を訳した時は一刀三礼の心持で筆を執っていた。それにもかかわらず、後には若気の過失で後悔しているといった。自分には文学的天分がないと謙下りながらもとかくに大天才と自分自身が認める文豪をさえ茶かすような語気があった。万更文学の尊重を認めないどころか、現代文化における文芸の位置を十分知り抜いているくせに、頭の隅のドコかで文学を遊戯視して男子畢世の業とするに足るか否かを疑っていた。二葉亭の理智の認める処を正直にいわせれば世界における文学芸術の位置なぞは問題ではないのだが、儒教や武家の教養から文芸を雕虫末技視して軽侮する思想が頭の隅のドコかに粘り着いていて一生文人として終るを何となく物足らなく思わした。ゴーゴリやツルゲーネフの洗礼を受けても魏叔子や陸宣公で鍜え上げた思想がイツマデも抜け切らないで、二葉亭の行くべき新らしい世界に眼を閉ざさした。二葉亭は近代思想の聡明な理解者であったが、心の底から近代人になれない旧人であったのだ。
それなら二葉亭は旧人として小説を書くに方っても天下国家を揮廻しそうなもんだが、芸術となるとそうでない。二葉亭の対露問題は多年の深い研究とした夙昔の抱負であったし、西伯利から満洲を放浪し、北京では中心舞台に較や乗出していたし、実行家としてこそさしたる手腕を示しもせず、また手腕がなかったかも知れぬが、頭の中の経綸は決して空疎でなかった。もし小説に仮托するなら矢野龍渓や東海散士の向うを張って中里介山と人気を争うぐらいは何でもなかったろう。二葉亭の頭と技術とを以て思う存分に筆を揮ったなら日本のデュマやユーゴーとなるのは決して困難でなかったろう。が、芸術となると二葉亭はこの国士的性格を離れ燕趙悲歌的傾向を忘れて、天下国家的構想には少しも興味を持たないでやはり市井情事のデリケートな心理の葛藤を題目としている。何十年来シベリヤの空を睨んで悶々鬱勃した磊塊を小説に托して洩らそうとはしないで、家常茶飯的の平凡な人情の紛糾に人生の一臠を探して描き出そうとしている。二葉亭の作だけを読んで人間を知らないものは恐らく世間並の小説家以上には思わないだろうし、また人間だけを知ってその作を読まないものは、二葉亭を小説家であると聞いて必ず馬琴の作のようなものを聯想せずにはいられないだろう。
こうした根本の性格矛盾が始終二葉亭の足蹟に累を成していた。最一つ二葉亭は洞察が余り鋭ど過ぎた、というよりも総てのものを畸形的立体式に、あるいは彎曲的螺旋式に見なければ気が済まない詩人哲学者通有の痼癖があった。尤もこういう痼癖がしばしば大きな詩や哲学を作り出すのであるが、二葉亭もまたこの通有癖に累いされ、直線に屈曲を見出し平面に凹凸を捜し出して苦んだり悶いたりした。坦々砥の如き何間幅の大通路を行く時も二葉亭は木の根岩角の凸凹した羊腸折や、刃を仰向けたような山の背を縦走する危険を聯想せずにはいられなかった。日常家庭生活においても二葉亭の家庭は実の親子夫婦の水不入で、シカモ皆好人物揃いであったから面倒臭いイザコザが起るはずはなかったが、二葉亭を中心としての一家の小競合いは絶間がなくてバンコと苦情を聴かされた。二葉亭の言分を聞けば一々モットモで、大抵の場合は小競合いの敵手の方に非分があったが、実は何でもない日常の些事をも一々解剖分析して前後表裏から考えて見なければ気が済まない二葉亭の性格が原因していた。一と口にいえば二葉亭は家庭の主人公としては人情もあり思遣も深かったが、同時に我儘な気難かし屋であった。が、二葉亭のこの我儘な気難かし屋は世間普通の手前勝手や肝癪から来るのではなくて、反覆熟慮して考え抜いた結果の我儘であり気難かし屋であったのだ。
二葉亭は一時哲学に耽った事があったが、その哲学の根柢は懐疑で、疑いがあるから哲学がある、疑いがなくて仮定の名の下に或る前提を定めて掛るなら最うドグマであって哲学でないといっていた。が、一切の前提を破壊してしまったならドコまで行っても思索は極まりなく、結局は出口のない八幡知らずへ踏込んだと同じく、一つ処をドウドウ廻りするより外はなくなる。それでは阿波の鳴門の渦に巻込まれて底へ底へと沈むようなもんで、頭の疲れや苦痛に堪え切れなくなったので、最後に盲亀の浮木のように取捉まえたのが即ちヒューマニチーであった。が、根柢に構わってるのが懐疑だから、動やともするとヒューマニチーはグラグラして、命の綱と頼むには手頼甲斐がなかった。けれども大船に救い上げられたからッて安心する二葉亭ではないので、板子一枚でも何千噸何万噸の浮城でも、浪と風との前には五十歩百歩であるように思えて終に一生を浪のうねうねに浮きつ沈みつしていた。
政治や外交や二葉亭がいわゆる男子畢世の業とするに足ると自ら信じた仕事でも結局がやはり安住していられなくなるのは北京の前轍に徴しても明かである。最後のペテルスブルグ生活は到着早々病臥して碌々見物もしなかったらしいが、仮に健康でユルユル観光もし名士との往来交歓もしたとしても二葉亭は果して満足して得意であったろう乎。二葉亭は以前から露西亜を礼讃していたのではなかった。来て見れば予期以上にいよいよ幻滅を感じて、案外与しやすい独活の大木だとも思い、あるいは箍の弛んだ桶、穴の明いた風船玉のような民族だと愛想を尽かしてしまうかも解らない。当座の中こそ訪問や見物に忙がしく、夙昔の志望たる日露の問題に気焔を吐きもしようし努力もするだろうが、暫らくしたら多年の抱懐や計画や野心や宿望が総て石鹸玉の泡のように消えてしまって索然とするだろう。欧洲戦が初まる前までどころか、恐らく二、三年も露都に過ごしたらクサクサしてとても辛抱出来なくなるだろう。
所詮二葉亭は常に現状に満足出来ない人であった。絶間なく跡から跡からと煩悶を製造しては手玉に取ってオモチャにする人であった。二葉亭がかつて疑いがあるから哲学で、疑いがなくなったら哲学でなくなるといった通りに、悶えるのが二葉亭の存在であって、悶えがなくなったら二葉亭でなくなる。命のあらん限り悶えから悶えへと一生悶えを追って悶え抜くのが二葉亭である。『浮雲』の文三が二葉亭の性格の一部のパーソニフィケーションであるのは二葉亭自身から聴いていた。煩悶の内容こそ違え、二葉亭はあの文三と同じように疑いから疑いへ、苦みから苦みへ、悶えから悶えへと絶間なく藻掻き通していた。これが即ち二葉亭の存在であって、長生きしたからって二葉亭の生涯には恐らく「満足」や「安心」や「解決」や「落着」は決して見出されなかったろう。
二葉亭は失敗の英雄であった。小説家としては未成の巨人であった。事業家としてドレほどの手腕があったかは疑問であるが、事を侶にした人の憶出を綜合して見ると相当の策もあり腕もあったらしく、万更な講釈屋ばかりでもなかったようだ。実をいうと実務というものは台所の権助仕事で、馴れれば誰にも出来る。実務家が自から任ずるほどな難かしいものではない。ところが日本では昔から法科万能で、実務上には学者を疎んじ読書人を軽侮し、議論をしたり文章を書いたり読書に親んだりするとさも働きのない低能者であるかのように軽蔑されあるいは敬遠される。二葉亭ばかりが志を得られなかったのではない。パデレフスキーも日本に生れたら大統領は魯か文部の長官にだって選ばれそうもない。ダンヌンチオも日本だったら義兵を募る事も軍資を作る事も決して出来なかったろう。西洋では詩人や小説家の国務大臣や商売人は一向珍らしくないが、日本では詩人や小説家では頭から対手にされないで、国務大臣は魯か代議士にだって選出される事は覚束ない。こういう国に二葉亭の生れたのは不運だった。
小説家としても『浮雲』は時勢に先んじ過ぎていた。相当に売れもし評判にもなったが半ばは合著の名を仮した春廼舎の声望に由るので、二葉亭としては余りありがたくもなかった。数ある批評のどれもが感服しないのはなかったが、ドレもこれも窮所を外れて自分の思う坪に陥ったのが一つもなかったのは褒められても淋しかった。『其面影』や『平凡』は苦辛したといっても二葉亭としては米銭の方便であって真剣でなかった。褒められても貶されても余り深く関心しなかったろうし、自ら任ずるほどの作とも思っていなかった。
正直にいったら『浮雲』も『其面影』も『平凡』も皆未完成の出来損ないである。あの三作で文人としての名を残すのは仮令文人たるを屑しとしなくてもまた遺憾であったろう。
結局二葉亭は日本には余り早く生れ過ぎた。もし欧羅巴だったら小説家としても相応に優遇され、二葉亭もまた文人たるを甘んずる事が出来たであろう。
底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
2008(平成20)年7月10日第3刷
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
1925(大正14)年6月初版発行
初出:「女性」
1925(大正14)年1月号
※初出時の表題は「未完成の二葉亭」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月29日作成
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