二葉亭四迷
──遺稿を整理して──
内田魯庵



 二葉亭四迷の全集が完結してその追悼会が故人の友人に由て開かれたについて、全集編纂者の一人としてその遺編を整理した我らは今更に感慨の念に堪えない。二葉亭が一生自ら「文人に非ず」と称したについてはその内容の意味は種々あろうが、要するに、「文学には常に必ず多少の遊戯分子を伴うゆえに文学ではドウシテも死身になれない」と或る席上で故人自ら明言したのがその有力なる理由の一つであろう。が、文学には果して常に必ず遊戯的分子を伴うものであろう乎。およそ文学に限らず、如何いかなる職業でも学術でも既に興味を以て従う以上はソコに必ず快楽を伴う。この快楽を目して遊戯的分子というならば、発明家の苦辛くしんにも政治家の経営にもまた必ず若干の遊戯的分子を存するはずで、国事に奔走する憂国の志士の心事も──無論少数の除外はあるが──後世の伝記家が痛烈なる文字をつらねて形容する如き朝から晩まで真剣勝負のマジメなものではないであろう。あるいはまた真剣勝負であってもこの真剣勝負が一つの快楽であって、その中に必ず多少の遊戯的分子を含んでおるだろう。

 が、二葉亭のいうのは恐らくこの意味ではないので、二葉亭はく西欧文人の生涯、ことに露国の真率かつ痛烈なる文人生涯に熟していたが、それ以上に東洋の軽浮な、空虚な、ヴォラプチュアスな、廃頽はいたいした文学を能く知りかつその気分に襯染しんせんしていた。一言すれば二葉亭は能く外国思想に熟していたが、同時にやはり幼時から染込んだ東洋思想を全く擺脱はいだつする事が出来ないで、この相背馳あいはいちした二つの思想の蹚着とうちゃくが常に頭脳に絶えなかったであろう。二葉亭が遊戯分子というは西鶴や其蹟、三馬や京伝の文学ばかりを指すのではない、支那の屈原や司馬長卿、降って六朝はもとより唐宋以下の内容の空虚な、貧弱な、美くしい文字ばかりをならべた文学にあきたらなかった。それ故に外国文学に対してもまた、十分かれらの文学に従う意味を理解しつつもなお、東洋文芸に対する先入の不満が累をなしてこの同じ見方からして、その晩年にあってはかつて随喜したツルゲーネフをも詩人の空想と軽侮し、トルストイの如きは老人の寝言だと嘲っていた。独り他人を軽侮し冷笑するのみならず、この東洋文人を一串する通弊に自ずから襯染していた自家の文学的態度をも危ぶみかつ飽足らず思うて而して「文学には必ず遊戯的分子がある、文学ではドウシテモ死身になれない」という。近代思想を十分理解しながら近代人になり切れない二葉亭の葛藤は必ずここにも在ったろう。

 二葉亭に限らず、総て我々年輩のものは誰でも児供の時から吹込まれた儒教思想が何時まで経っても頭脳の隅のドコかにこびり着いていて容易に抜け切れないものだ。坪内博士がイブセンにもショオにもストリンドベルヒにも如何なるものにも少しも影響されないで益々自家の塁を固うするはやはり同じ性質の思想が累をなすのである。最も近代人的態度を持する島村抱月君もまた恐らくこの種の葛藤を属々繰返されるだろう。

 この殆んど第二の天性となった東洋的思想の傾向と近代思想の理解との衝突はただに文学に対してのみならず総ての日常の問題に触れて必ず生ずる。啻に文人──東洋風の──たるをいさぎよしとしないのみならず、東洋的の政治家、東洋的の実業家、東洋的の家庭の主人、東洋的の生活者たるを欲しない。一言すれば東洋的の生活の総てに不満であって、その不満に堪えられない。そんならその不満を破壊する決心を有するかというと、決心を有さないではないが、常にその決心を鈍らす因襲の思想が頭脳のドコかで囁やいて制肘する。二葉亭の一生はこの葛藤の歴史であって、独り文人たるを屑しとしなかったばかりでなく、政治的方面にも実業的方面にもちょっと首を突込で見て直ぐイヤになった。この方面では二葉亭の手腕がまだ少しも認められないで政治家だとも実業家だとも誰にもいわれなかったゆえ、「我は政治家に非ず、実業家に非ず」と一度も言わなかったは、二葉亭は日本の政治家にも実業家にも慊らなかったのだ。朝日新聞記者として永眠して死後なお朝日新聞社の好意に浴しているが、「新聞記者はイヤだ、」といった事は決して一度や二度でなかった。ただ独り職業ばかりではない。その家庭に対してすら不満が少くなかった。(家庭が不和であったという意味ではない。)更にまた一歩を進めていうと、二葉亭は生活の総てに対して不満であったが、何よりも彼よりもこの不満を如何ともする能わざる自己に対する不満が不満中の最大不満であったろう。言換えると二葉亭は周囲のもの一切が不満であるよりはこの不満をドウスル事も出来ないのが毎日の堪えざる苦痛であって、この苦痛を紛らすための方法を求めるに常に焦って悶えていた。文学もかつてその排悶手段の一つであったが、文学では終に紛らし切れなくなったので政治となり外交となったのである。二葉亭が「文学では死身になれない」というは、取りも直さず文学のような生柔なまやさしい事ではとても自分の最大苦悶を紛らす事が出来ないという意味にも解釈される。

 世の中には行詰った生活とか生の悶えとか言うヴォヤビュラリーをのみ陳列して生活の苦痛を叫んでるものは多いが、その大多数は自己一身に対しては満足して蝸殻の小天地に安息しておる。懐疑といい疑惑というもその議論は総てドグマの城壁を固めて而してドグマを以て徹底した思想とし安心し切っておる。二葉亭が苦悶を以て一生を終ったに比較してかれらは大いなる幸福者である。

 明治の文人中、国木田独歩君の生涯は面白かった。北村透谷君の一生もまた極めて興味がある。が、二葉亭の一生はこれらの二君に比べると更に一層意味のある近代的の悶えとなやみの歴史であった。

底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店

   1994(平成6)年216日第1刷発行

   2008(平成20)年710日第3

底本の親本:「太陽」

   1913(大正2)年9月初版発行

初出:「太陽」

   1913(大正2)年9月号

※初出時の表題は「書斎の窓より─故二葉亭を懐ふ」です。

入力:川山隆

校正:門田裕志

2011年529日作成

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