三十年前の島田沼南
内田魯庵




 島田沼南しまだしょうなんは大政治家として葬られた。清廉潔白百年まれに見る君子人として世を挙げて哀悼された。棺をおおうて定まる批評は燦爛さんらんたる勲章よりもヨリ以上に沼南の一生の政治的功績を顕揚するに足るものがあった。

 沼南には最近十四、五年間会った事がない。それ以前とて会えば寒暄かんけんを叙する位の面識で、私邸を訪問したのも二、三度しかなかった。シカモその二、三度も、待たされるのがイツモ三十分以上で、ようやく対座して十分かソコラで用談を済ますときまって、「ドウゾたおひまの時御ユックリとお遊びにいらしって下さい」と後日の再訪を求めて打切られるから、勢い即時に暇乞いとまごいせざるを得なくなった。したがって会えば万更まんざら路人のように扱われもしなかったが、親しく口をいた正味の時間は前後合して二、三十分ぐらいなもんだったろう。

 が、沼南の「復たドウゾ御ユックリ」で巧みに撃退されたのは我々通り一遍の面識者ばかりじゃなかった。沼南と仕事をともにした提携者や門下生的関係ある昵近じっきん者さえが「復たユックリ来給え」で碌々ろくろく用談も済まないうちに撃退されてブツクサいうのは珍らしくなかった。

 もっとも沼南は極めて多忙で、地方の有志者などが頻繁ひんぱんに出入していたから、我々閑人ひまじんにユックリすわり込まれるのは迷惑だったに違いない。かつ天下国家の大問題で充満する頭の中には我々閑人のノンキな空談をれる余地はなかったろうが、応酬に巧みな政客の常で誰にでも共鳴するかのように調子を合わせるから、イイ気になって知己を得たツモリで愚談を聴いてもらおうとすると、たちまち巧みに受流されて「復たおヒマの時に御ユックリ」で撃退されてしまう。

 由来我々筆舌の徒ほど始末の悪いものはない。談ずる処は多くは実務に縁の遠い無用の空想であって、シカモ発言したらとして尽きないから対手あいてになっていたら際限がない。沼南のような多忙な政治家が日に接踵せっしょうする地方の有志家を撃退すると同じコツで我々閑人を遇するは決して無理はない。ブツクサいうものが誤っておる。

 が、沼南の応対は普通の社交家のうわすべりのした如才なさと違って如何いかにも真率に打解けて対手を育服さした。いつもニコニコ笑顔えがおを作ってわずか二、三回の面識者をさえ百年の友であるかのように遇するから大抵なものはコロリと参って知遇を得たかのように感激する。政治家や実業家には得てこういう人をらさない共通の如才なさがあるものだが、世事にれない青年や先輩の恩顧に渇する不遇者は感激して忽ち腹心の門下や昵近の知友となったツモリにひとりでめてしまって同情や好意や推輓すいばん斡旋あっせんを求めに行くと案外素気そっけなく待遇あしらわれ、合力無心を乞う苦学生の如くに撃退されるので、昨の感激が消滅して幻滅を感じ、敵意を持たないまでも不満を抱き反感を持つようになる。沼南ばかりじゃない。



 沼南は終始一貫清廉を立通たてとおした。少くも利権割取を政治家の余得として一進一退をすべて金に換えてあやしまない今の政界にあっては沼南は実に鶏群けいぐん一鶴いっかくであった。

 が、清廉を看板にし売物にする結果が貧乏をミエにする奇妙な虚飾があった。無論、沼南は金持ではなかった。が、その社会的位置に相応する堂々たる生活をしていたので、濁富でないまでも清貧を任ずるには余りブールジョア過ぎていた。それにもかかわらず、何かというと必要もないのに貧乏を揮廻ふりまわしていた。

 沼南が今の邸宅を新築した頃、偶然訪問して「大層立派な御普請が出来ました、」と挨拶あいさつすると、沼南は苦笑いして、「この家も建築中から抵当に入ってるんです」といった。何の必要もないのにそういう世帯の繰廻くりまわしを誰にでも吹聴ふいちょうするのが沼南の一癖であった。その後沼南昵近のものにくと、なるほど、抵当に入ってるのはホントウだが、これを抵当に取った債権者というは岳父がくふであったそうだ。

 これも或る時、ドウいうはなしの連続であったか忘れたが、例の通り清貧咄をして「黒くとも米の飯を食し、綿布でも綿の入った着物を着ていれば僕はそれで満足している」と得々とくとくとしていった。沼南が平生綿服を着ているかドウかは知らぬが、その時の沼南はリュウとしたお召か何かでゾロッとしていたのだから挨拶に窮した。

 その後、沼南昵近の或る男に会った時、その話をして、「何だってアンナに貧乏ぶるんだろう、」というと、

「アレは沼南の癖だよ、」といった。「ツイこの頃も社(毎日新聞社)で沼南が、何かの話のついでに僕はマダかかぐるまを置いた事がない、イツデモ辻俥で用を足すというンのだ。沼南の金紋護謨輪ゴムわの抱え俥が社の前にチャンと待ってるんだからイイじゃないか。社の者が沼南の俥を知らないとはマサカに思ってもいまいが、他の者が貧乏咄をすると自分も釣られて負けない気になってウッカリいってしまうんだネ。お目出たい咄サ。こんな処はマア低能だネ。」

 沼南の清貧咄はあながち貧乏をてらうためでもまた借金を申込まれる防禦ぼうぎょ線を張るためでもなかったが、場合にると聴者ききてに悪感を抱かせた。その頃毎日新聞社に籍を置いたG・Yという男が或る時、来て話した。「僕は社の会計から煙草銭ぐらい融通する事はあるが、個人としての沼南には一銭だって借りた覚えがない。ところがこの頃退引のっぴきならない事情があって沼南に相談すると、君の事情には同情するが金があればいいがネ、とたもとから蟇口がまぐちを出してさかさに振って見せて、「ない、同情するには同情するが生憎あいにく僕にも金がない」という、こういう挨拶だ。貸す気がないなら貸さんでもいい、無理に借りようとはいわない。何も同情呼ばわりして逆さに蟇口を振って見せなくてもかろう、」と、プンプンおこって沼南を罵倒ばとうした事があった。

 その頃の新聞社はドコも貧乏していた。とりわけ毎日新聞社は最も逼迫ひっぱくして社員の給料が極めて少かった。妻子を抱えているものは勿論もちろんだが、独身者すらも糊口ここうがし兼ねて社長の沼南に増給を哀願すると、「僕だって社からは十五円しかもらわないよ」というのがきまった挨拶であった。増給はおろか、ドンナ苦しい事情を打明けられても逆さに蟇口を振って見せるだけだ。「十五円であの生活が出来るかい。十五円はウソじゃアあるまいが、沼南の収入は社の月給ばかりじゃなかろう。コッチは社から貰う外にドコからも金の入る道はないンだぜ、」と、沼南に逆さに蟇口を振って見せられた連中は沼南の口先きだけの同情をブツクサいっていた。



 それでも当時の毎日新聞社にはマダ嚶鳴社おうめいしゃ以来の沼間ぬまの気風が残っていたから、当時の国士的記者気質かたぎから月給なぞは問題としないで天下の木鐸ぼくたくの天職をたのしんでいた。が、新たに入社するものはこの伝統の社風に同感するものでも、また必ずしも沼南の人物に推服するものばかりでもなかったから、暫らくすると沼南の節度にあきたらないで社員は絶えず代謝して、解体前の数年間はシッキリなしにガタビシしていた。

 就中なかんずく、社員が度々不平を鳴らし、かつ実際に困らせられたのは沼南の編輯方針が常にグラグラして朝令暮改少しも一定しない事だった。例えば甲の社員の提言を容れて直ぐ実行してくれと命じたものを乙の社員の意見でクルリと飜えして肝腎かんじんの提言者に通告もしないでやめてしまう。そんな事とは知らないから前に命ぜられた社員は着々進行してざ実現しようとなると、「アレはやめにした、」とケロリとました顔をしている。自分ばかりが呆気あっけに取られるだけなら我慢もなるが、社外の人に手数を掛けたり多少の骨折ほねおりをさせたりした事をおかまいなしに破毀はきされてしまっては、中間に立つ社員は板挟いたばさみになって窮してしまう。あるいはまた、同じ仕事を甲にも乙にも丙にも一人々々に「君が適任だから骨を折ってくれ」と命ずる。自分だけが命ぜられたツモリで各々めいめい一生懸命になって骨を折ってると、イツカ互に同士討どうしうちしている事が解るから誰も皆厭気いやきがさして手を引いてしまう。手を引くばかりでなく反感を持つようになる。沼南統率下の毎日新聞社の末期が惰気満々として一人も本気に働くものがなかったのはこれがためであった。

 松隈内閣だか隈板内閣だかの組閣にあたって沼南が入閣するという風説が立った時、毎日新聞社にかつて在籍して猫の目のようにクルクル変る沼南の朝令暮改に散三さんざぱら苦しまされた或る男はいわく、「沼南の大臣になるならおれが第一番に反対運動する、国家の政治が沼南のお天気模様で毎日グラグラ変られてたまるもんか、」と。

 毎日新聞社が他へ譲り渡された時、世間では十日も前からうわさがあったが、社員は燈台下暗とうだいもとくらしで、沼南の腹心はあるいは知っていたかも知らぬが、ひらの社員は受渡しの済んだ当日になっても知らなかった。中には薄々うすうす感づいて沼南の口占くちうらを引いて見たものもあったが、その日になっても何とも沙汰さたがないので、一日社務に服して家へ帰ると、留守宅に社は解散したから明日から出社に及ばないという葉書が届いているんだから呆気あっけに取られてしまった。

 いやしくも沼南は信誼しんぎを重んずる天下の士である。毎日新聞社は南風きそわずして城を明渡さなくてはならなくなっても安い月給を甘んじて悪銭苦闘を続けて来た社員に一言の挨拶もなく解散するというは嚶鳴社以来の伝統の遺風からいっても許しがたい事だし、自分の物だからといって多年辛苦をともにした社員をスッポかして、タダの奉公人でも追出すような了簡りょうけんで葉書一枚で解職を通知したぎりでましているというは天下の国士を任ずる沼南にあるまじき不信であるというので、葉書一枚で馘首かくしゅされた社員は皆カンカンになって結束して沼南に迫った。その結果が沼南のイツモ逆さに振って見せる蟇口から社を売った身代金みのしろきんの幾分を吐出はきだして目出たく無事に落着したそうだ。そうかと思うと一方には、代がわりした『毎日新聞』の翌々日に載る沼南署名の訣別けつべつの辞のゲラずりを封入した自筆の手紙を友人に配っている。何人に配ったか知らぬが、わずかに数回の面識しかない浅い交際の私のもとへまでよこしたのを見るとかなり多数の知人に配ったらしいが、新聞社を他へ譲渡ゆずりわたすの止むを得ない事情をと訴えたかなり長い手紙を印刷もせず代筆でもなく一々自筆でしたためて何十通(あるいはそれ以上)も配ったのは大抵じゃなかったろう。平生の知己に対して進退行蔵こうぞうを公明にする態度は間然かんぜんする処なく、我々後進は余り鄭重ていちょう過ぎる通告に痛み入ったが、近い社員の解職は一片の葉書の通告で済まし、遠いタダの知人にはすこぶ慇懃いんぎんな自筆の長手紙ながてがみを配るという処に沼南の政治家的面目が仄見ほのみえる心地がする。

 沼南の五十年の政治家生活がついに台閣の椅子をむくいられなかったのは沼南の志が世俗の権勢でなかったからばかりではない。アレだけの長い閲歴と、相当の識見を擁しながら次第に政友と離れて孤立し、頼みになる腹心も門下生もなく、末路寂寞せきばくとしてわずか廓清かくせい会長として最後の幕を閉じたのはただに清廉や狷介けんかいわざわいしたばかりでもなかったろう。



 沼南は廃娼はいしょうを最後の使命としてたたかった。が、若い時には相応に折花攀柳せっかはんりゅうの風流に遊んだものだ。その時代の沼南の消息は易簀えきさく当時多くの新聞に伝えられた。十年前だった、塚原靖つかはらしずむ島田三郎合訳と署した代数学だか幾何学だかを偶然或る古本屋で見附けた。余り畑違はたけちがいの著述であるのを不思議に思って、それから間もなく塚原老人に会った時にくと、「大変なものを見附けられた。アレはネ……」と渋柿園じゅうしえん老人は例の磊落らいらくな調子で、「島田の奴が馬を引張ひっぱって来たので、仕方がないから有合ありあいのものを典じて始末をつけたが、その穴埋あなうめをしなけりゃならん。そこで島田が或る本屋を口説くどいたところが、数学の本を書いてくれるなら金を出そうというので、それから島田がドコからか原書を借出して来て、二人して一週間ばかりで書上げたのがアノ本サ。早速金に換えてふところがあったまったので、サア繰出せと二人して大豪遊を極めたところが、島田の奴はイツマデもブン流して帰ろうといわんもんだから、とうとう遣い果して復た馬をれて戻るというわけサ。その時分の島田はソリャアでれでれしてしりが腐ってしまうンだからカラ始末に行かなかった」と昔を憶出おもいだして塚原老人はカラカラと笑った。この頃の或る新聞に、沼南が流連して馴染なじみの女が病気でている枕頭ちんとうにイツマデも附添って手厚く看護したという逸事が載っているが、沼南は心中しんじゅう仕損しそこないまでした遊蕩児ゆうとうじであった。が、それほど情がこまやかだったので、同じ遊蕩児でも東家西家と花を摘んで転々する浮薄漢ではなかったようだ。

 沼南は本姓鈴木で、島田家の養子であった。先夫人は養家の家附いえつき娘だともいうし養女だともいうが、ドチラにしても若い沼南が島田家に寄食していた時、おもわれて縁組した恋婿であったそうだ。沼南が大隈おおくま参議と進退をともにし、今の次官よりも重く見られた文部ごん大書記官の栄位を弊履の如く一蹴いっしゅうして野に下り、矢野文雄やのふみお小野梓おのあずさと並んで改進党の三領袖りょうしゅうとして声望隆々とした頃の先夫人は才貌さいぼう双絶の艶名えんめいを鳴らしたもんだった。

 その頃私は番町の島田邸近くすまっていたので、度々島田夫人と途中で行逢ゆきあった。今なら女優というようなまぶしい粉黛ふんたいを凝らした島田夫人の美装は行人の眼を集中し、番町女王としての艶名は隠れなかった。良人おっと沼南と同伴でない時はイツデモ小間使こまづかいをおともにつれていたが、その頃流行した前髪まえがみを切って前額ひたいらした束髪そくはつで、嬌態しなを作って桃色の小さいハンケチをり揮り香水のにおいを四辺あたりくんじていた。知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様らしくもなしと眼をみはって美貌と美装に看惚みとれたもんだ。その時分はマダ今ほど夫婦連れ立って歩く習慣が流行はやらなかったが、沼南はこの艶色したたる夫人を出来るだけ極彩色させて、近所の寄席よせへ連れてったり縁日を冷かしたりした。孔雀くじゃくのような夫人のこの盛粧はドコへ行っても目に着くので沼南の顔も自然に知られ、沼南夫人と解って益々ますます夫人の艶名が騒がれた。

 九段くだんの坂下の近角常観ちかずみじょうかんの説教所はとは藤本というこの辺での落語席であった。或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、背後うしろで割れるような笑い声がした。ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧盻ふりかえって見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに白壁しらかべのように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の肩をたたいたりひざゆすったりして不行儀を極めているので、衆人の視線は自然と沼南夫妻に集中して高座こうざよりは沼南夫妻のイチャツキの方に気を取られた。沼南の傍若無人の高笑いや夫人のヒッヒッとくすぐられるような笑いが余り耳触みみざわりになるので、「百姓、静かにしろ」と罵声ばせいを浴びせ掛けられた。

 数年前物故ぶっこした細川風谷の親父の統計院幹事の細川広世が死んだ時、九段の坂上で偶然その葬列に邂逅でっくわした。その頃はマダ合乗俥あいのりぐるまというものがあったが、沼南は夫人と共に一つ俥に同乗して葬列に加わっていた。一体合乗俥というはその頃の川柳や都々逸どどいつの無二の材料となったもので、狭い俥に両性がピッタリ粘着くっつき合って一つ膝掛にくるまった容子は余り見っともイイものではなかった。てて加えて沼南夫人の極彩色にお化粧した顔はお葬い向きでなかった。その上に間断なくニタニタ笑いながら沼南と喃々なんなん私語して行くていたらくはひつぎを見送るものを顰蹙ひんしゅくせしめずにはかなかった。政界の名士沼南とも知らない行人の中には目に余って、あるいは岡焼おかやき半分に無礼な罵声を浴びせ掛けるものもあった。

 その頃は既に鹿鳴館ろくめいかんの欧化時代を過ぎていたが、欧化の余波は当時の新らしい女の運動を惹起じゃっきした。沼南は当時の政界の新人の領袖りょうしゅうとして名声藉甚せきじんし、キリスト教界の名士としてもまた儕輩せいはいされていたゆえ、主としてキリスト教側から起された目覚めざめた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。

 丁度巌本善治いわもとよしはるの明治女学校が創立された時代で、教会の奥に隠れたキリスト教婦人が街頭に出でて活動し初めた。九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる矢島楫子刀自やじまかじことじを初め今はとっくに鬼籍に入った木村鐙子とうこ夫人や中島湘烟なかじましょうえん夫人は皆当時に崛起くっきした。国木田独歩くにきだどっぽを恋に泣かせ、有島武郎ありしまたけおの小説に描かれた佐々木のぶ子の母の豊寿とよじゅ夫人はその頃のチャキチャキであった。沼南夫人はまた実にその頃の若い新らしい側を代表する花形であった。

 今日の女の運動は社交の一つであって、貴婦人階級は勿論だが、中産以下、プロ階級の女の集まりでもとかくに着物やおつくりの競争場になりがちであるが、その頃のキリスト教婦人は今の普通の婦人は勿論、教会婦人と比べても数段ピューリタニックであって、若い婦人の集りでも喪に包まれたようで色彩に乏しかった。その中で沼南夫人は百舌もずからすの中のインコのように美しく飾り立てて脂粉と色彩の空気を漂わしていた。

 この五色で満身を飾り立ったインコ夫人が後に沼南の外遊不在中、沼南の名誉に泥を塗ったのは当時の新聞の三面種ともなったので誰も知ってる。今日これを繰返しても決して沼南の徳を累する事はあるまい。徳を累するどころか、この家庭の破綻はたんを処理した沼南の善後策は恐らく沼南の一生を通ずる美徳の最高発現であったろう。



 沼南のインコ夫人の極彩色は番町界隈や基督キリスト教界で誰知らぬものはなかった。羽子板はごいたの押絵が抜け出したようで余り目に立ち過ぎたので、鈍色にぶいろを女徳の看板とする教徒の間には顰蹙するものもあった。欧化気分がマダ残っていたとはいえ、沼南がこの極彩色の夫人と衆人環視の中でさえも綢繆ちゅうびゅう纏綿てんめんするのを苦笑してひそかに沼南の名誉のためあやぶむものもあった。果然、沼南が外遊の途に上ってマダ半年と経たない中に余り面白くない噂がポツポツ聞えて来た。アアいう人目ひとめに着くよそおいの婦人に対してはとかくにあらぬ評判をしたがるもんだから、我々は沼南夫人に顰蹙しながらも余りに耳を傾けなかった。が、沼南の帰朝が近くなるに従って次第に風評が露骨になって、二、三の新聞の三面に臭わされるようになった。

 その頃沼南の玄関にYという書生がいた。文学志望ではやくから私の家に出入していた。沼南が外遊してからは書生の雑用がひまになったからといって、殊にシゲシゲと遊びに来た。写字をしたり口授を筆記したりして私の仕事の手伝いをしていた。面胞にきびだらけの小汚こぎたない醜男ぶおとこで、口は重く気は利かず、文学志望だけに能書というほどではないが筆札だけは上手じょうずであったが、その外には才も働きもない朴念人ぼくねんじんであった。

 沼南が帰朝してから間もなくだった。Yは私の仕事の手伝いをしに大抵毎日、朝から来ては晩までほとんど一日を私の家で過ごしたが、或る時、「ちょっと故郷くにへ帰りますから今日ぎり暫らくお暇をいただきたい」といった。

 余り突然だったので、故郷くにに急な用事でも出来たかとくと、脚気かっけだといった。ソンナ気振けぶりはそれまでなかったのだからうそとは思ったが、その日ぎりで来なくなってしまった。

 それから二、三日過ぎて、偶然沼南夫妻の在籍する教会の牧師のU氏を尋ねると、U氏はちょっとしたはなしの途切れに、「Yはこの頃君のとこへ行くかい?」といった。

「二、三日前に来て近々故郷くにへ帰るといってました。」

「そのほかに一身上の咄は何もしなかったかい?」

「イイヤ、何にも。」

「困ったよ、」U氏は首をってこといったぎり顔をしかめて固くくちびるを結んでしまった。

「Yがドウかしましたか?」

「困ったよ、」と、U氏は両手で頭をかかえて首を掉り掉り苦しそうに髪の毛を掻きむしった。「君はYから何も聞かなかったかい?」

「何にも聞きません。」

「こんな弱った事はない、」と、U氏はた暫らく黙してしまった。やがて、「君は島田のワイフの咄を何処どこかで聞いたろう?」

「どんな話をです?」と、氏のとい呑込のみこめないので訊き返したが、その時っと胸に浮んだのは沼南外遊中からの夫人のかんばしからぬ噂であった。ツイその数日前の或る新聞にも、「開国始末」でえんそそがれた井伊直弼いいなおすけの亡霊がお礼心に沼南夫人の孤閨こけい無聊ぶりょうを慰めに夜な夜な通うというようなくすぐったい記事が載っていた。今なら女優をおもわしめるジャラクラした沼南夫人が長い留守中の孤独に堪えられなかったというは、さもありそうな気もするが、マサカに世間で評判するようなソンナ不品行ふしだらもあるまいと、U氏の島田のワイフの咄というのが何とも計りかねてU氏の口の開くのを待ってると、

「君も薄々知ってるだろうが、島田のワイフが飛んでもない不品行をやってネ……」

 私はハッとした。予期した事が実現されたようでもあるし、自分の疑心で迎えてU氏の言葉を聞違えたようにも思って、「ホントウですか、」と反問すると、

「ホントウとも、ホントウとも、」とU氏は早口に点頭うなずいて、「ホントウだから困ってしまった。」

 U氏が最初からの口吻くちぶりではYがこの事件に関係があるらしいので、Yが夫人の道にはずれた恋の取持ちでもした、あるいは逢曳あいびきの使いか手紙の取次でもしたかと早合点はやがてんして、

「それじゃアYが夫人の逢曳のお使いでもしたんですか?」というと、

「そんな幇助罪ほうじょざいならマダ軽いが、不品行の対手あいての本人なんだ。」

「えッ?」と私はまるで狐につままれたような気がした。

 沼南夫人のジャラクラした姿態なりふりや極彩色の化粧を一度でも見た人は貞操が足駄あしだ穿いて玉乗たまのりをするよりもあぶなッかしいのを誰でも感ずるだろう。が、世界の美人を一人で背負せおって立ったツモリの美貌自慢の夫人がりに択って面胞にきびだらけの不男ぶおとこのYを対手に恋の綱渡りをしようとは誰が想像しよう。孔雀くじゃくが豚を道連れにするエソップにでもありそうな図が憶出おもいだされた。

「あの奥さんがYと?」と私は何度も何度も一つ事を繰返して「そうだよ、ホントウだよ」とU氏に何度もいわれても自分の耳を疑わずにはいられなかった。



 駿馬しゅんめ痴漢を乗せて走るというが、それにしてもアノ美貌を誇る孔雀夫人が択りに択って面胞面にきびづらの不男を対手にするとは余り物好き過ぎる。尤も一と頃倫敦ロンドンの社交夫人間にカメレオンを鍾愛しょうあいする流行があったというが、カメレオンの名代みょうだいならYにも勤まる。

 そういえばYの衣服みなりが近来著るしく贅沢ぜいたくになって来た。新裁下したておろしのセルの単衣ひとえ大巾縮緬おおはばちりめん兵児帯へこおびをグルグル巻きつけたこの頃のYの服装は玄関番の書生としては分に過ぎていた。奥さんからもらったと自慢そうに見せたいつぶしの紙入かみいれも書生にくれる品じゃない。疑えば疑われる事もまるきりないじゃなかったが、あのモズモズした無愛想な男、シカモ女に縁のなさそうな薄汚うすぎたないつらをした男が沼南夫人の若いつばめになろうとは夢にも思わなかったから、夫人の芳ばしくない噂を薄々小耳こみみに入れてもYなぞはテンから問題としなかった。

「女が悪いんだ。女の方から持掛もちかけたんだ、」とU氏は渋面じゅうめんを作って苦々にがにがしい微笑を唇辺くちもとに寄せつつ、「あの女は先天的に堕落の要素を持ってる。僕は裁判をしてこっちが羞恥しゅうちを感じて赤面したが、女はシャアシャアしたもんで、平気でベラベラ白状した。職業的堕落婦人よりは一層厚顔だ。口の先では済まない事をした、申訳がありませんといったが、腹の底では何を思ってるか知れたもんじゃない。良心がまるで曇ってる。」

「Yも平気でしたか?」

「イヤ、Yは小さくなってしおれ返っていた。アレは誘惑されたんだ、オモチャにされたんだ。」

と、U氏はYの悔悛かいしゅんに多少の同情を寄せていたが、それには違いなくても主人なり恩師なりの眼をかすめてその最愛の夫人の道ならぬ遊戯のオモチャになったYの破廉恥を私は憤らずにはいられなかった。Yは私の門生でも何でもなかった。が、日夕にっせき親しく出入していただけに私までが馬鹿にされたような不快を感じた。

「Yはマダ人間が出来ておらんからぐ誘惑される。チンコロのようにオモチャにされたんで罪を犯す了簡りょうけんがあったんじゃない。島田の許へ連れてってあやまらせたが、オイオイ声を揚げて泣き出した。」

 U氏がコンナ事でYをゆるすような口吻くちぶりがあるのが私には歯痒はがゆかった。Yは果してU氏の思うように腹の底から悔悛くいあらためたであろう乎。この騒ぎが持上もちあがってる最中でもYは平気な顔をして私の家へ来て仕事の手伝いをしていた。沼南と私とは親しい知り合いでなかったにしろ、沼南夫妻の属するU氏の教会と私とは何の交渉がなかったにしろ、良心が働いたなら神の名を以てする罪の裁きを受ける日にノメノメ恥を包んで私の前へは出て来られないはずであるのを、サモ天地に恥じない公明正大の人であるかのような平気な顔をして私の前に現れた。これが神をおそれ罪を恥じて悔悛めた人であろう乎。

 U氏もYの罪を免しつつもその態度にはマダあきたらないものがあったのであろう。「君には何にも話さなかったかい? 変った素振そぶりは見えなかったかい?」といった。

「そんな不名誉な話は無論する気遣いはありませんが、シカシ妙だと思いましたよ、二、三日前に来た時急に国へ帰るってましたから。」

「それは君、島田が帰らせるんだよ。島田には実に感服したよ。Yがオイオイ声を出して泣いて詫まった時にダネ。人間てものは誰でも誤って邪路に踏迷ふみまよう事があるが、心から悔悛めれば罪は奇麗にぬぐい去られると懇々説諭して、おれはお前に顔へ泥を塗られたからって一端の過失のために前途にドンナ光明が待ってるかも解らないお前の一生を葬ってしまいたくない。なお更これから先きも手許に置いて面倒を見てやりたいが、それでは世間が承知しない。俺は決してお前を憎むのではないが暫らく余焔ほとぼりめるまで故郷くにへ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他のまとまった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を二、三十冊わざわざ自分で買って来てYの退先のきさきへ届けてくれたそうだ。普通の常識ではえらいか馬鹿かちょっと判断が出来ないが、く島田は普通の人間の出来ない事をするよ──」

「それにはYも心から感謝して、その話を僕にした時ポロポロ涙をこぼして島田の恩を一生忘れないと泣いていた、」とU氏は暫らくしてから再び言葉を続け、「が、Yはマダ人間が出来ておらんから、恩に感ずる事も早いが恩を忘れる事も早い。君ももしYに会ったら訓誡くんかいしてやってくれ給え。二度と再び島田に裏切るような不品行をしたなら、う世の中へ出て来られない。一生のすたれ者になってしまう。」



 その頃私はマダ沼南と交際がなかった。沼南の味も率気そっけもないなしじるのような政治論には余り感服しなかった上に、其処此処そこここで見掛けた夫人の顰蹙すべき娼婦的媚態びたいが妨げをして、沼南に対してもまた余りイイ感じを持たないで、敬意を払う気になれなかった。

 が、この不しだらな夫人のために泥を塗られても少しも平時の沈着をうしなわないで穏便おんびんに済まし、恩をあだで報ゆるに等しいYの不埒ふらちをさえも寛容して、諄々じゅんじゅんと訓誡した上に帰国の旅費まで恵み、あまつさえ自分に罪を犯した不義者を心から悔悛くいあらためさせるための修養書を買って与えたという沼南の大雅量は普通人には真似まねても出来ない襟度きんどだと心から嘆服した。

「全く君子だ。古聖賢に恥じない徳人だ、」とそれまで沼南に対して抱いた誤解を一掃して、世間尋常政治家には容易にひつを求めがたい沼南の人格を深く感嘆した。

 それにしてもYを心から悔悛めさせて、めては世間並せけんなみ真人間まにんげんにしなければ沼南の高誼こうぎに対して済まぬから、年長者の義務としても門生でも何でもなくても日頃親しく出入する由縁ゆかりから十分訓誡して目を覚まさしてやろうと思い、一つはYを四角四面の謹厳一方の青年と信じ切らないまでも恩人の顔に泥を塗る不義な人間とも思わなかったのが裏切られたイマイマしさから思うさま油をしぼってやろうとYの来るのを待構まちかまえていた。が、二、三日経っても何の沙汰もないので、葉書を出して呼寄せたが、返事も来なければついに顔も見せなかった。

 二タ月ほどして国元から手紙をよこしたが、紋切形の無沙汰見舞であった。半歳ほどして上京したが、その時もいずれ参上するという手紙を遣しただけでやはり顔を見せなかった。U氏から後に聞くと、U氏が私にYの話をしたあくる日に、帰国の前にモ一度私の許へ行けといったそうで、YはU氏が私に秘密を話したのを悟って、キマリが悪くて来られなかったらしい。

 Yはその後も度々故郷へ行ったり上京したりしたが、傷持つ足のおのずとしきいが高くなって、いつも手紙をよこすだけでそれぎり私の家へは寄り附かなくなった。が、手紙で知らして来た容子にると、その後も続いて沼南の世話になっていたらしく、中国辺の新聞記者となったのも沼南の口入くちいれなら、最後に脚気か何かの病気でドコかの病院に入院して終に死んでしまった病院費用から死後の始末まで万端皆沼南が世話をしてやったのだそうだ。

 私が沼南と心易こころやすくなったはその後であった。Yが私の家へ出入でいりしていたのを沼南はく知っていたが、私も沼南もYの名は一度でもおくびにも出さなかった。

 沼南の先夫人の不しだらは当時二、三の新聞の三面をにぎわしたから誰も知っている。が、不義の対手あいての忘恩者をゆるした沼南の大雅量は直接事件に交渉したものの外は余り知らない。使用人同様の玄関番の書生の身分で主人なり恩師なりの眼をぬすんでその名誉に泥を塗るいおうようない忘恩の非行者を当の被害者としてただに寛容するばかりでなく、若気わかげの一端の過失のために終生を埋もらせたくないと訓誡もし、生活の道まで心配して死ぬまで面倒を見てやったというは世間に余り例を聞かない何という美談であろう。中には沼南が顔に泥を塗られた見にくさをはくでゴマカそうとするためのお化粧的偽善だというものもあるが、偽善でも何でも忘恩の非行者に対してこういう寛容な襟度を示したものは滅多にない。

 沼南にはその後段々近接し、沼南門下のものからも度々噂を聞いて、Yに対する沼南の情誼に感奮した最初の推服を次第に減じたが、沼南の百の欠点を知っても自分の顔へ泥を塗った門生の罪過を憎む代りにあわれんで生涯面倒を見てやった沼南の美徳に対する感嘆はごうも減ずるものではない。が、有体ありていにいうと沼南は度量海の如き大人格でも、清濁あわむ大腹中でもなかった。それよりはむしろ小悪微罪に触れるさえ忍び得られないで独りをいさぎようする潔癖家であった。濁流の渦巻うずまく政界から次第に孤立して終にピューリタニックの使命にかくれるようになったは畢竟ひっきょうこの潔癖のためであった。が、ドウしてYに対してのみ寛大であったろう。U氏は「沼南は不可解だ、神愚人乎」とその後しばしば私に話したが、私にも実はマダなぞである。

 沼南が議政壇に最後の光焔こうえんを放ったのはシーメンス事件を弾劾だんがいした大演説であった。沼南の直截ちょくせつ痛烈な長広舌はこの種の弾劾演説に掛けては近代政治界の第一人者であった。不義を憎む事蛇蝎だかつよりもはなはだしく、悪政暴吏に対しては挺身搏闘はくとうして滅ぼさざれば止まなかった沼南は孤高清節を全うした一代の潔士でもありまた闘士でもあった。が、沼南の清節は縕袍弊袴うんぽうへいこで怒号した田中正造たなかしょうぞうの操守と違ってかなり有福な贅沢な清貧であった。沼南社長時代の毎日新聞社員は貧乏が通り相場である新聞記者中でも殊にぬきんでて貧乏であった。毎月の月給が晦日みそかの晩になっても集金人が金を持って帰るまでは支払えなくて、九時過ぎまでも社員が待たされた事が珍らしくなかった。したがって社員は月末の米屋酒屋の勘定どころか煙草銭にもしばしば差支さしつかえた。が、社長沼南は位置相当の門戸を構える必要があったとはいえ、堂々たる生活をしながら社員が急を訴えても空々そらぞらしい貧乏咄をしてテンから相談対手にならなかった。

 沼南はまた晩年を風紀の廓清かくせいささげて東奔西走廃娼禁酒を侃々かんかんするに寧日ねいじつなかった。が、壮年の沼南は廃娼よりはむしろ拝娼で艶名隠れもなかった。が、その頃は偎紅倚翠わいこういすいを風流として道徳上の問題としなかった。忠孝の結晶として神にまつられる乃木のぎ将軍さえ若い頃には盛んに柳暗花明のちまたに馬をつないだ事があるので、若い沼南が流連荒亡した半面の消息を剔抉てっけつしても毫も沼南の徳を傷つける事はないだろう。沼南はウソが嫌いであった。「私はウソをいった事がない」と沼南自身の口ずから聞いたのは数回にとどまらない。瑜瑕ゆか並びおおわざる赤裸々の沼南のありのままを正直に語るのは、沼南を唐偏木とうへんぼくのピューリタンとして偶像扱いするよりも苔下の沼南は微笑を含んでかえって満足するであろう。

底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店

   1994(平成6)年216日第1刷発行

   2008(平成20)年710日第3

底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社

   1925(大正14)年6月初版発行

初出:「読売新聞」

   1923(大正12)年1130日~126日号

入力:川山隆

校正:門田裕志

2011年529日作成

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