斎藤緑雨
内田魯庵
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「僕は、本月本日を以て目出たく死去仕候」という死亡の自家広告を出したのは斎藤緑雨が一生のお別れの皮肉というよりも江戸ッ子作者の最後のシャレの吐きじまいをしたので、化政度戯作文学のラスト・スパークである。緑雨以後真の江戸ッ子文学は絶えてしまった。
紅葉も江戸ッ子作者の流れを汲んだが、紅葉は平民の子であっても山の手の士族町に育って大学の空気を吸った。緑雨は士族の家に生れたが、下町に育って江戸の気分にヨリ多く浸っていた。緑雨の最後の死亡自家広告は三馬や一九やその他の江戸作者の死生を茶にした辞世と共通する江戸ッ子作者特有のシャレであって、緑雨は死の瞬間までもイイ気持になって江戸の戯作者の浮世三分五厘の人生観を歌っていたのだ。
この緑雨の死亡自家広告と旅順の軍神広瀬中佐の海軍葬広告と相隣りしていたというはその後聞いた咄であるが、これこそ真に何たる偶然の皮肉であろう。緑雨は恐らく最後のシャレの吐き栄えをしたのを満足して、眼と唇辺に会心の〝Sneer〟を泛べて苔下にニヤリと脂下ったろう。「死んでまでも『今なるぞ』節の英雄と同列したるは歌曲を生命とする緑雨一代の面目に候」とでも冥土から端書が来る処だった。
緑雨の眼と唇辺に泛べる〝Sneer〟の表情は天下一品であった。能く見ると余り好い男振ではなかったが、この〝Sneer〟が髯のない細面に漲ると俄に活き活きと引立って来て、人に由ては小憎らしくも思い、気障にも見えたろうが、緑雨の千両は実にこの〝Sneer〟であった。ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着いた透徹るような声でプツリと止めを刺すような警句を吐いてはニヤリと笑った。
緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発に一々感服するに遑あらずだが、緑雨と話していると、こういう警句が得意の〝Sneer〟と共にしばしば突発した。我々鈍漢が千言万言列べても要領を尽せない事を緑雨はただ一言で窮処に命中するような警句を吐いた。警句は天才の最も得意とする武器であって、オスカー・ワイルドもメーターランクも人気の半ばは警句の力である。蘇峰も漱石も芥川龍之介も頗る巧妙な警句の製造家である。が、緑雨のスッキリした骨と皮の身体つき、ギロリとした眼つき、絶間ない唇辺の薄笑い、惣てが警句に調和していた。何の事はない、緑雨の風丰、人品、音声、表情など一切がメスのように鋭どいキビキビした緑雨の警句そのままの具象化であった。
私が緑雨を知ったのは明治二十三年の夏、或る温泉地に遊んでいた時、突然緑雨から手紙を請取ったのが初めてであった。尤もその頃専ら称していた正直正太夫の名は二十二年ごろ緑雨が初めてその名で発表した「小説八宗」以来知っていた。(この「小説八宗」は『雨蛙』の巻尾に載っておる。)それ故、この皮肉を売物にしている男がドンナ手紙をくれたかと思って、急いで開封して見ると存外改たまった妙に取済ました文句で一向無味らなかった。が、その末にこの頃は談林発句とやらが流行するから自分も一つ作って見たといって、「月落烏啼霜満天寒さ哉──息を切らずに御読下し被下度候」と書いてあった。当時は正岡子規がマダ学生で世間に顔出しせず、紅葉が淡島寒月にかぶれて「稲妻や二尺八寸ソリャこそ抜いた」というような字余りの談林風を吹かして世間を煙に巻いていた時代であった。この時代を離れては緑雨のこの句の興味はないが、月落ち烏啼いての調子は巧みに当時の新らしい俳風を罵倒したもので、殊に「息を切らずに御読下し被下度候」は談林の病処を衝いた痛快極まる冷罵であった。
緑雨が初めて私の下宿を尋ねて来たのはその年の初冬であった。当時は緑雨というよりは正直正太夫であった。私の頭に深く印象しているは「小説八宗」であって、驚くべき奇才であるとは認めていたが、正直正太夫という名からして寄席芸人じみていて何という理由もなしに当時売出しの落語家の今輔と花山文を一緒にしたような男だろうと想像していた。尤もこういう風采の男だとは多少噂を聞いていたが、会わない以前は通人気取りの扇をパチつかせながらヘタヤタラとシャレをいう気障な男だろうと思っていた。ところが或る朝、突然刺を通じたので会って見ると、斜子の黒の紋付きに白ッぽい一楽のゾロリとした背の高いスッキリした下町の若檀那風の男で、想像したほど忌味がなかった。キチンと四角に坐ったまま少しも膝をくずさないで、少し反身に煙草を燻かしながらニヤリニヤリして、余り口数を利かずにジロジロ部屋の周囲を見廻していた。どんな話をしたか忘れてしまったが、左に右く初めて来たのであるが、朝の九時ごろから夕方近くまで話して帰った。その間少しも姿勢をくずさないでキチンとしていた。一体行儀の好い男で、あぐらを掻くッてな事は殆んどなかった。いよいよ坐り草臥びれると能く立膝をした。あぐらをかくのは田舎者である、通人的でないと思っていたのだろう。
それが皮切で、それから三日目、四日目、時としては続いて毎日来た。来れば必ず朝から晩まで話し込んでいた。が、取留めた格別な咄もそれほどの用事もないのにどうしてこう頻繁に来るのか実は解らなかったが、一と月ばかり経ってから漸と用事が解った。その頃村山龍平の『国会新聞』てのがあって、幸田露伴と石橋忍月とが文芸部を担任していたが、仔細あって忍月が退社するので、(あるいは既に退社していたのか、ドッチだか忘れてしまったが、)その後任として私を物色して、村山の内意を受けて私の人物見届け役に来たのだそうだ。その時分緑雨は『国会新聞』の客員という資格で、村山の秘書というような関係であったらしく、『国会新聞』の機微に通じていて、編輯部内の内情やら村山の人物、新聞の経営方針などを来る度毎に精しく話して聞かせた。こっちから訊きもしないのに何故こんな内幕咄をするのか解らなかったが、一と月ばかり経って公然入社の交渉を受けた時初めて思い当った。この交渉は相互の事情でそれぎりとなったが、緑雨と私との関係はそれが縁となって一時はかなり深く交際した。
尤も私は飲んだり喰ったりして遊ぶ事が以前から嫌いだったから、緑雨に限らず誰との交際にも自ずから限度があったが、当時緑雨は『国会新聞』廃刊後は定った用事のない人だったし、私もまた始終ブラブラしていたから、懶惰という事がお互いの共通点となって、私の方からは遠い本所くんだりに余り足が向かなかったが、緑雨は度々やって来た。来れば必ず一日遊んでいた。時としては朝早くから私の寝込を襲うて午飯も晩飯も下宿屋の不味いものを喰って夜る十一時十二時近くまで話し込んだ事もあった。
その時分即ち本所時代の緑雨はなかなか紳士であった。貧乏咄をして小遣銭にも困るような泣言を能くいっていても、いつでもゾロリとした常綺羅で、困ってるような気振は少しもなかった。が、家を尋ねると、藤堂伯爵の小さな長屋に親の厄介となってる部屋住で、自分の書斎らしい室さえもなかった。緑雨のお父さんというは今の藤堂伯の先々代で絢尭斎の名で通ってる殿様の准侍医であった。この絢尭斎というは文雅風流を以て聞えた著名の殿様であったが、頗る頑固な旧弊人で、洋医の薬が大嫌いで毎日持薬に漢方薬を用いていた。この煎薬を調進するのが緑雨のお父さんの役目で、そのための薬味箪笥が自宅に備えてあった。その薬味箪笥を置いた六畳敷ばかりの部屋が座敷をも兼帯していて緑雨の客もこの座敷へ通し、外に定った書斎らしい室がなかったようだ。こんな長屋に親の厄介となっていたのだから無論気楽な身の上ではなかったろうが、外出ける時はイツデモ常綺羅の斜子の紋付に一楽の小袖というゾロリとした服装をしていた。尤も一枚こっきりのいわゆる常上着の晴着なしであったろうが、左に右くリュウとした服装で、看板法被に篆書崩しの齊の字の付いたお抱え然たる俥を乗廻し、何処へ行っても必ず俥を待たして置いた。例えば私の下宿に一日遊んでる時でも、朝から夜る遅くまでも俥を待たして置いた。長尻の男だからドコへ行っても長かったが、何処でも俥を待たして置いたから、緑雨の来ているのは伴待や玄関や勝手で長々と臥そべってる緑雨の車夫で直ぐ解った。緑雨の車夫は恐らく主人を乗せて駈ける時間よりも待ってて眠る時間の方が長かったろう。緑雨は口先きばかりでなくて真実困っていたらしいが、こんな馬鹿げた虚飾を張るに骨を折っていた。緑雨と一緒に歩いた事も度々あったが、緑雨は何時でもリュウとした黒紋付で跡から俥がお伴をして来るという勢いだから、精々が米琉の羽織に鉄欄の眼鏡の風采頗る揚らぬ私の如きはどうしてもお伴の書生ぐらいにしか見えなかったであろう。
緑雨が一日私の下宿で暮す時は下宿の不味いお膳を平気で喰べていた。シカモ鰍の味噌煮というような下宿屋料理を小言云い云い奇麗に平らげた。が、率ざ何処かへ何か食べに行こうとなるとなかなか厳ましい事をいった。三日に揚げずに来るのに毎次でも下宿の不味いものでもあるまいと、何処かへ食べに行かないかと誘うと、鳥は浜町の筑紫でなけりゃア喰えんの、天麩羅は横山町の丸新でなけりゃア駄目だのと、ツイ近所で間に合わすという事が出来なかった。家の惣菜なら不味くても好いが、余所へ喰べに行くのは贅沢だから選択みをするのが当然であるというのが緑雨の食物哲学であった。その頃は電車のなかった時代だから、緑雨はお抱えの俥が毎次でも待ってるから宜いとしても、こっちはわざわざ高い宿俥で遠方まで出掛けるのは無駄だと思って、近所の安西洋料理にでも伴れて行こうもんなら何となく通人の権威を傷つけられたというような顔をした。「通人てものは旨い物ばかり知っていて不味い物が解らんようでは駄目だ」と、或時近所の、今なら七銭均一とか十銭均一とかいいそうな安西洋料理へ案内した時にいうと、「だから君の下宿のお膳を一生懸命研究しているじゃアないか、」と抜からぬ顔をして冷ましていた。それでも西洋料理は別格通でなかったと見えて、一向通もいわずに塩の辛い不味い料理を奇麗に片附けた。ドダイ西洋料理を旨がる田舎漢では食物の咄は出来ないというのが緑雨の食通であったらしかった。
本所を引払って、高等学校の先きの庭の広いので有名な奥井という下宿屋の離れに転居した頃までは緑雨はマダ紳士の格式を落さないで相当な贅をいっていた。丁度上田万年博士が帰朝したてで、飛白の羽織に鳥打帽という書生風で度々遊びに来ていた。緑雨は相応に影では悪語をいっていたが、それでも新帰朝の秀才を竹馬の友としているのが万更悪い気持がしなかったと見えて、咄のついでに能く万年がこういったとか、あアいったとか噂をしていた。
壱岐殿坂の中途を左へ真砂町へ上るダラダラ坂を登り切った左側の路次裏の何とかいう下宿へ移ってから緑雨は俄に落魄れた。落魄れたといっては語弊があるが、それまでは緑雨は貧乏咄をしても黒斜子の羽織を着ていた。不味い下宿屋の飯を喰っていても牛肉屋の鍋を突つくような鄙しい所為は紳士の体面上すまじきもののような顔をしていた。が、壱岐殿坂時代となると飛白の羽織を着初して、牛肉屋の鍋でも下宿屋の飯よりは旨いなどと弱音を吹き初した。今は天麩羅屋か何かになってるが、その頃は「いろは」といった坂の曲り角の安汁粉屋の団子を藤村ぐらいに喰えるなぞといって、行くたんびに必ず団子を買って出した。
壱岐殿坂時代の緑雨には紳士風が全でなくなってスッカリ書生風となってしまった。竹馬の友の万年博士は一躍専門学務局長という勅任官に跳上って肩で風を切る勢いであったから、公務も忙がしかったろうが、二人の間に何か衝突もあったらしく、緑雨の汚ない下宿屋には万年博士の姿が余り見えなかった。何かにつけて緑雨は万年博士を罵って、愚図愚図いやア万年泣拝という手紙を何本も発表してやると力んでいた。その代りに当時はマダ大学生であった佐々醒雪、笹川臨風、田岡嶺雲というような面々がしばしば緑雨のお客さんとなって「いろは」の団子を賞翫した。醒雪はその時分毿々たる黒い髯を垂れて大学生とは思われない風采であった。緑雨は佐々弾正と呼んで、「昨日弾正が来たよ、」などと能くいったもんだ。緑雨の『おぼえ帳』に、「鮪の土手の夕あらし」という文句が解らなくて「天下豈鮪を以て築きたる土手あらんや」と力んだという批評家は誰だか忘れたがこの連中の一人であった。緑雨は笑止しがって私に話したが、とうとう『おぼえ帳』の一節となった。
上田博士が帰朝してから大学は俄に純文学を振って『帝国文学』を発刊したり近松研究会を創めたりした。緑雨は竹馬の友の万年博士を初め若い文学士や学生などと頻りに交際していたが、江戸の通人を任ずる緑雨の眼からは田舎出の学士の何にも知らないのが馬鹿げて見えたのは無理もなかった。若い学士の方でも緑雨の社会通を相当に認めて、そういう方面の解らない事があるとしばしば緑雨の許に訊きに来たもんだ。万年博士が『天網島』を持って来て、「さんじやうばつからうんころとつころ」とは何の事だと質問した時は、有繋の緑雨も閉口して兜を抜いで降参した。その頃の若い学士たちの馬鹿々々しい質問や楽屋落や内緒咄の剔抉きが後の『おぼえ帳』や『控え帳』の材料となったのだ。
何でもその時分だった。『帝国文学』を課題とした川柳をイクツも陳べた端書を続いて三枚も四枚もよこした事があった。端書だからツイ失くしてしまって今では一枚しか残っていないが、「上田の附文標準語に当惑し」、「先生の原稿だぞと委員云ひ」というようなのがあった。前者は万年博士が標準語に関する大論文を発表した際で、標準語という言葉がその頃の我々の仲間の流行語となっていた。また誰かの論文中〝Chopin〟をチョピンと書いてあったので、「チヨピンとはおれが事かとシヨパン云ひ」という川柳が出来たが、この作者は緑雨であったか万年博士であったか忘れてしまった。『門三味線』を作ったのもこの壱岐殿坂時代であって、この文句が今の批評家さまに解ったら一大事だなどと皮肉をいいつつ会心の文句を読んで聞かした事があった。
森川町の草津の湯の傍の簾藤という下宿屋に転じたのはその後であった。この簾藤時代が緑雨の最後の文人生活であった。(小田原時代や柳原時代は文壇とはよほど縁が遠くなっていた。)緑雨が一葉の家へしげしげ出入し初めたのはこの時代であって、同じ下宿に燻ぶっていた大野洒竹の関係から馬場孤蝶、戸川秋骨というような『文学界』連と交際を初めたのが一葉の家へ出入する機会となったのであろう。その頃から私とは段々疎遠となって余り往来しなくなったゆえ、その頃からの緑雨の晩年期については殆んど何にも知らない。
余り憚りなくいうと自然暗黒面を暴露するようになるが、緑雨は虚飾家といえば虚飾家だが黒斜子の紋附きを着て抱え俥を乗廻していた時代は貧乏咄をしていても気品を重んじていた。下司な所為は決して做なかった。何処の家の物でなければ喰えないなどと贅をいっていた代りには通人を気取ると同時に紳士を任じていた。
奥井から壱岐殿坂へ移って、紳士風が抜けて書生風となってからもやはり相当に見識を取っていて、時偶は鄙しい事を口にしても決して行う事はなかった。かつ中学へ通う小さい弟(今は医学士となっている)と一緒に暮していたから自然謹慎していた。緑雨の耽溺方面の消息は余り知らぬから、あるいはその頃から案外コソコソ遊んでいたかも知れないが、左に右く表面は頗る真面目で、目に立つような遊びは一切慎しみ、若い人たちのタワイもない遊びぶりを鼻頭で冷笑っていた。或る楼へ遊びに行ったら、正太夫という人が度々遊びに来る、今晩も来ていますというゆえ、その正太夫という人を是非見せてくれと頼んで、廊下鳶をして障子の隙から窃と覗いて見たら、デクデク肥った男が三枚も蒲団を重ねて木魚然と安座をかいて納まり返っていたと笑っていた。また或る人たちが下司な河岸遊びをしたり、或る人が三ツ蒲団の上で新聞小説を書いて得意になって相方の女に読んで聞かせたり、また或る大家が吉原は何となく不潔なような気がするといいつつも折々それとなく誘いの謎を掛けたり、また或る有名な大家が細君にでもやるような手紙を女郎によこしたのを女郎が得意になってお客に見せびらかしてるというような話をして、いわゆる大家先生たちも遊びに掛けると存外な野暮で、田舎臭くて垢ぬけがしないと嘲っていた。それから比べると、文壇では大家ではないが、或る新聞小説家が吉原へ行っても女郎屋へ行かずに引手茶屋へ上って、十二、三の女の子を集めてお手玉をしたり毬をついたりして無邪気な遊びをして帰るを真の通人だと称揚していた。少くも緑雨は遊ぶ事は遊んでもこの通人と同じ程度の遊びだと暗に匂わして他の文人の下等遊びを冷笑していた。壱岐殿坂時代の緑雨はまだこういう垢抜けした通人的気品を重んずる風が残っていた。
簾藤へ転じてからこの気風が全で変ってしまった。服装も書生風よりはむしろ破落戸──というと語弊があるが、同じ書生風でも堕落書生というような気味合があった。第一、話題が以前よりはよほど低くなった。物質上にも次第に逼迫して来たからであろうが、自暴自棄の気味で夜泊が激しくなった。昔しの緑雨なら冷笑しそうな下等な遊びに盛んに耽ったもので、「こんな遊びをするようでは緑雨も駄目です、近々看板を卸してしまいます、」と下等な遊びを自白して淋しそうに笑った事があった。その頃緑雨の艶聞がしばしば噂された。以前の緑雨なら艶聞の伝わる人を冷笑して、あの先生もとうとう恋の奴となりました、などと澄ました顔をしたもんだが、その頃の緑雨は安価な艶聞を得意らしく自分から臭わす事さえあった。
小田原へ引越してから一度上京したついでに尋ねてくれた。生憎留守で会わなかったので、手紙を送ると直ぐ遣したのが次の手紙で、それぎり往復は絶えてしまった。緑雨の手紙は大抵散逸したが、不思議にこの一本だけが残ってるから爰に掲げて緑雨を偲ぶたねとしよう。
言文一致ニカギル、コウ思附イタ上ハ、基礎ヤ標準ヤニ頓着スルマデモアリマセヌ、タダヤタラニオハナシ体ヲ振廻シサエスレバ、ドコカラカ開化ガ参リマスソウデ、私モマケズニ言文一致デコノ手紙ヲシタタメテ差上ゲマス、今ニ三輪田君ノ梅見ニ誘ウ文、高津君ノ悔ミノ文ナドヲ凌駕スルコトト思召シ下サイ
久シクオ目ニカカリマセヌガ、コレハアナタニバカリデナク、ドナタニモ同ジコトデ、先日チョット露伴君ヲタズネマシタノサエ二年ブリト申スヨウナ訳デス、昔ハ御機嫌伺イトイウ事モアリマシタガ、今デハ御気焔伺イデスカラ、蛙鳴ク小田原ッ子ノ如キハ、メッタニ都ヘハ出ラレマセヌ、コノゴロ御引越ニナリマシタソウデ、区名カラ申シマスト、アナタモヤハリ牛門ノ一傑デアラセラルルヨウナ事デ、先ゴロ弟ヲ喪イマシタノデ、イロイロ片附ケモノヲ致シマシタ、即チ財政整理デ、ソノ節『我楽多文庫』ヲ見出シマシタカラ、遅マキナガラ返上ニ及ビマシタノデ、仰セノ通リアノ時分ノコトヲオモイマスト、何ダカオカシクナリマス
病気ヲオタズネ下サイマシタガ、コレハ重イトイエバ重イ、軽イトイエバ軽イ、ドチラニモナリマスノデ、カノ本復スルカト思エバ全快スノ方ノ組デス、当所へ参リマス前、凡ソ半年ホドヲ鵠沼ニ辛棒シテオリマシタガ、無論ドットネテイルトイウデハアリマセズ、ソレガカエッテ苦痛デハアリマスガ、昨今デハマズマズ健康ニチカイ方デス
文壇モ随分妙ナモノニナッタデハアリマセヌカ、才人ゾロイデ、豪傑ゾロイデ、イヤハヤ我々枯稿連ハ口ヲ出ス場所サエアリマセヌ、一ツ奮ッテナドト思ウコトノナイデモアリマセヌガ、何分オソロシサガ先ニ立チマスノデ、ツイツイ遠クカラ拝見シテイルトイウヨウナコトデ、コレデ無難ニ飯ガクエレバ、コンナラクナ事ハアリマセヌ、慾ニハ私モ東京ニイテ、文芸倶楽部ノ末ノ方ニアルヨウナ端唄ヲツクッテ、竹富久井アタリニ集会シテイマシタラ、モウ一倍ラクナ事ダロウト思イマス
近ゴロノ私ノ道楽ハ、何デモオモイ浮ンダコトヲ書ツケテオイテ、ソレガドレダケノ月日ヲ経タラ、フルクナルカト申スコトヲ試験シテオリマス、何ヲオ隠シ申シマショウ私モ華族ノ二男ニハ生レマセヌノデ、白米氏ニ敗ラルル点ニオイテハ御同様デス
何カ書クコトガモットアッタツモリデシタガ、丁度妹ノモトカラ電報ガ今届キマシテ、急ニ出立ノヨウイニカカリマスノデ、コノ辺デヤメテ置キマス、シリキリトンボ。乱筆御用捨
コウ書イタママデ電車ニ飛乗リマシタノデ、今日マデ机ノ上ニ逗留シテオリマシタ、昨夜帰宅イタシマシタバカリデ今マタ東京へ立チマスノデ書直スヒマガアリマセヌ、ナゼソンナニアワテルカトオ思召シマショウガ、ソレハ明後日アタリノ新聞広告ニ出マス件ト、妹ノ方ノ件ト二ツノ急要ガアルタメデス、オユルシ下サイ 五日正午
緑雨の失意の悶々がこの冷静を粧った手紙の文面にもありあり現われておる。それから以後は全く疎縁になってしまった。
その後再び東京へ転住したと聞いて、一度人伝に聞いた浅草の七曲の住居を最寄へ行ったついでに尋ねたが、ドウしても解らなかった。誰かに精しく訊いてから出直すつもりでいると、その中に一と月ほど経って、「小生事本日死去仕候」となった。一代の奇才は死の瞬間までも世間を茶にする用意を失わなかったが、一人の友人の見舞うものもない終焉は極めて淋しかった。それほど病気が重くなってるとは知らなかったので、最一度尋ねるつもりでツイそれなりに最後の皮肉を訊かずにしまったのを今なお残惜しく思っている。葬儀は遺言だそうで営まなかったが、緑雨の一番古い友達の野崎左文と一番新らしい親友の馬場孤蝶との肝煎で、駒込の菩提所で告別式を行った。緑雨の竹馬の友たる上田博士も緑雨の第一の知己なる坪内博士も参列し、緑雨の最も莫逆を許した幸田露伴が最も悲痛なる祭文を読んだ。丁度風交りの雨がドシャドシャ降った日で、一代の皮肉家緑雨を弔うには極めて相応しい意地の悪い天気であった。
緑雨の全盛期は『国会新聞』時代で、それから次第に不如意となり、わざわざ世に背き人に逆らうを売物としたので益々世間から遠ざかるようになった。元来緑雨の皮肉には憎気がなくて愛嬌があった。緑雨に冷笑されて緑雨を憎む気には決してなれなかった。が、世間から款待やされて非常な大文豪であるかのように持上げられて自分を高く買うようになってからの緑雨の皮肉は冴を失って、或時は田舎のお大尽のように横柄で鼻持がならなかったり、或時は女に振棄てられた色男のように愚痴ッぽく厭味であったりした。緑雨が世間からも重く見られず、自らも世間の毀誉褒貶に頓着しなかった頃は宜かったが、段々重く見られて自分でも高く買うようになると自負と評判とに相応する創作なり批評なりを書かねばならなくなるから、苦しくもなり固くもなった。同時に自分を案外安く扱う世間の声が耳に入ると不愉快で堪らなくなって愚痴を覆すようになった。緑雨の愚痴は壱岐殿坂時代から初まったが、それ以後失意となればなるほど世間の影口に対する弁明即ち愚痴がいよいよ多くなった。私が緑雨と次第に疎遠になったのは緑雨の話柄が段々低級になって嫌気がさしたからであるが、一つは皮肉の冴を失った愚痴を聞くのが気の毒で堪らなかったからだ。
緑雨は逍遥や鴎外と結んで新らしい流れに棹さしていた。が、根が昔の戯作者系統であったから、人生問題や社会問題を文人には無用な野暮臭い穿鑿と思っていた。露骨にいうと、こういうマジメな問題に興味を持つだけの根柢を持たなかった。が、不思議に新らしい傾向を直覚する明敏な頭を持っていて、魯文門下の「江東みどり」から「正直正太夫」となると忽ち逍遥博士と交を訂し、続いて露伴、鴎外、万年、醒雪、臨風、嶺雲、洒竹、一葉、孤蝶、秋骨と、絶えず向上して若い新らしい知識に接触するに少しも油断がなかった。根柢ある学問はなかったが、不断の新傾向の聡明なる理解者であった。が、この学問という点が緑雨の弱点であって、新知識を振廻すものがあると痛く癪に触るらしく、独逸語や拉丁語を知っていたって端唄の文句は解るまいと空嘯いて、「君、和田平の鰻を食った事があるかい?」などと敵を討ったもんだ。
緑雨の傑作は何といっても『油地獄』であろう。が、緑雨自身は『油地獄』を褒めるような批評家さまだからカタキシお話しにならぬといって、『かくれんぼ』や『門三味線』を得意がっていた。『門三味線』は全く油汗を搾って苦辛した真に彫心鏤骨の名文章であった。けれども苦辛というは修辞一点張であったゆえ、私の如きは初めから少しも感服しないで明らさまに面白くないというと、頗る不平で、「君も少し端唄の稽古でもし玉え、」と面白くない顔をした。緑雨のデリケートな江戸趣味からは言文一致の飜訳調子の新文体の或るものは気障であったり、或るものは田舎臭かったりして堪らなかったようだ。
が、緑雨の傑作はやはり『油地獄』と『雨蛙』であろう。この二つはいずれも緑雨自身の不得意とする作で、人の褒めるのが癪に触るといって喰って掛ったものであるが、緑雨が自ら得意とする『かくれんぼ』や『門三味線』よりは確に永遠の生命がある。聡明な眼識を持っていたがやはり江戸作者の系統を引いてシャレや小唄の粋を拾って練りに練り上げた文章上の「穿ち」を得意とし、世間に通用しない「独りよがり」が世間に認められないのを不満としつつも、誰にも理解されないのをかえって得意がる気味があった。が、紅葉も露伴も飽かれた今日、緑雨だけが相変らず読まれて、昨年縮印された全集がかなりな部数を売ったというは緑雨の随喜者が今でもマダ絶えないものと見える。緑雨は定めし苔の下でニヤリニヤリと脂下ってるだろう。だが、江戸の作者の伝統を引いた最後の一人たる緑雨の作は過渡期の驕児の不遇の悶えとして存在の理由がある。緑雨の作の価値を秤量するにニーチェやトルストイを持出すは牛肉の香味を以て酢の物を論ずるようなものである。緑雨の通人的観察もまたしばしば人生の一角に触れているので、シミッ垂れな貧乏臭いプロの論客が鼻を衝く今日緑雨のような小唄で人生を論ずるものも一人ぐらいはあってもイイような気がする。が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと思うと何となく落莫の感がある。
底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
2008(平成20)年7月10日第3刷
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
1925(大正14)年6月初版発行
初出:「現代」
1913(大正2)年4月号
※初出時の表題は「緑雨の十周年」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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