磯部の若葉
岡本綺堂



 今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部の若葉を音もなしに湿らしている。家々の湯のけむりも低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光をかすかにもらすかと思うと、またすぐにむそうにどんよりと暗くなる。にわとりが勇ましく歌っても、雀がやかましくさえずっても、上州の空は容易に夢から醒めそうもない。

「どうも困ったお天気でございます。」

 人の顔さえ見ればずこういうのが此頃このごろ挨拶あいさつになってしまった。廊下ろうかや風呂場で出逢う逗留の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、毎日この同じ挨拶を繰返している。私も無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、ここで毎日原稿紙にペンを走らしている私は、ほかの湯治客ほどに雨の日のつれづれにくるしまないのであるが、それでも人の口真似くちまねをして「どうも困ります」などといっていた。実際、湯治とか保養とかいう人たちは別問題として、上州のここらは今が一年中で最も忙がしい養蚕ようさん季節で、なるべく湿れた桑の葉をお蚕様こさまに食わせたくないと念じている。それを考えると「どうも困ります」も決して通り一遍の挨拶ではない。ここらの村や町の人たちに取っては重大の意味をっていることになる。土地の人たちに出逢った場合には、私も真面目まじめに「どうも困ります」ということにした。

 どう考えても、今日も晴れそうもない。傘をさして散歩に出ると、到るところの桑畑は青い波のように雨に烟っている。妙義みょうぎの山も西に見えない、赤城あかぎ榛名はるなも東北にくもっている。蓑笠みのかさの人が桑をになって忙がしそうに通る、馬が桑を重そうに積んでゆく。その桑はむしろにつつんであるが、柔かそうな青い葉はゆでられたようにぐったり湿れている。私はいよいよ痛切に「どうも困ります」を感じずにはいられなくなった。そうして、鉛のような雨雲を無限に送り出して来るいわゆる「上毛じょうもうの三名山」なるものをのろわしく思うようになった。


 磯部には桜が多い。磯部桜といえば上州の一つの名所になっていて、春は長野や高崎前橋から、見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場ていしゃじょうに着くとすぐに桜の多いのがたれの眼にも入る。路傍みちばたにも人家の庭にも、公園にも丘にも、桜の古木が枝をかわして繁っている。磯部の若葉は総て桜若葉であるといってもいい。雪で作ったような白いつばさの鳩の群が沢山に飛んで来ると湯の町を一ぱいにおおっている若葉の光が生きたように青く輝いて来る。護謨ごむほうずきを吹くようなかわずの声が四方に起ると、若葉の色が愁うるように青黒くくもって来る。

 晴の使つかいとして鳩の群が桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」がしばらく取払われるのである。その使も今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義道みょうぎみちにつづく南の高い崖路がけみちは薄黒い若葉にうずめられている。

 旅館の庭には桜のほかに青梧あおぎりえんじゅとを多く栽えてある。せたきりの青い葉はまだ大きい手をひろげないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたようにふるえている。その他には梅とかえで躑躅つつじと、これらが寄集よりあつまって夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門を一歩出ると自然はこの町の初夏を桜若葉でいろどろうとしていることがすぐ首肯うなずかれる。

 雨が小歇おやみになると、町の子供や旅館の男がほうき松明たいまつとを持って桜の毛虫をいている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替たたみがえを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓げいしゃが湯にゆく。白い鳩がをあさる。黒い燕が往来おうらいなかで宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く。ふくろうが鳴く。門附かどづけの芸人が来る。碓氷川うすいがわ河鹿かじかはまだ鳴かない。


 一昨年おととしの夏ここへ来た時に下磯部しもいそべ松岸寺しょうがんじ参詣さんけいしたが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」のくもった日で、桑畑をふいて来る湿った風は、宿の浴衣ゆかたの上にフランネルをかさねた私の肌に冷々ひやひやみる夕方であった。

 寺は安中路あんなかみちを東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内じないまでよほど侵入しているらしく見えた。しかし由緒ある古刹こさつであることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱ささきもりつな大野九郎兵衛おおのくろべえとの墓を所有しているので名高い。佐々木は建久のむかしこの磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔のあお墓石ぼせきは五輪塔のような形式でほとんど完全に保存されている。これにならんでその妻の墓もある。そのわきには明治時代に新らしく作られたという大きい石碑もある。

 しかし私に取っては大野九郎兵衛の墓の方が注意をいた。墓は大きい台石だいいしの上に高さ五尺ほどの楕円形の石をえてあって、石の表には慈望遊謙墓じもうゆうけんはか、右に寛延○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年かく読めない。墓の在所ありかは本堂の横手で、大きい杉の古木を背後うしろにして、南に向って立っている。そのそばにはまた高い桜の木がそびえていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差出ている。周囲には沢山の古い墓がある。杉の立木は昼を暗くするほどに繁っている。『仮名手本かなでほん忠臣蔵』の作者竹田出雲たけだいずも斧九太夫おのくだゆうという名を与えられて以来、殆ど人非人にんぴにんのモデルであるようにあまねく世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄武士は、ここを永久の住家すみかと定めているのである。

 一昨年初めて参詣した時には、墓の所在ありかが知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品の好い若僧にゃくそうで、色々詳しく話してくれた。その話にると、その当時この磯部には浅野家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故にって大野は浅野家滅亡ののちここに来て身を落付けたらしい。そうして、大野ともいわず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙と称する一個の僧となって、小さい草堂そうどうを作って朝夕ちょうせきに経を読み、かたわらには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆じきひつの手本というものは今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望ふじんぼうではなかった。弟子たちにも親切に教えた、色々の慈善をも施した。碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号が刻んであるのを見るとよほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因ってその亡骸なきがらをここに葬られた。

「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね」と、私はいった。

「そうかも知れません。」

 僧は彼に同情するような柔かい口吻くちぶりであった。たとい不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内じないに骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持こころもちは私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、私は厚く礼をいって僧と別れた。僧のせた姿は大きな芭蕉の葉のかげへ隠れて行った。

 自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸ふじとの漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人いちにんとして歴史家に讃美されている。復讐の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃の作者にまで筆誅ひっちゅうされてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼のいつわらざる意見を問いただしてみようかと思ったが、彼の迷惑を察してめた。

 今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓ももとのままで、大野の墓の花筒はなづつには白い躑躅が生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。私は僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾に芍薬しゃくやくあかく咲いていた。


 旅館の門を出て右の小道を這入はいると、丸い石をならべた七、八級の石段がある。登降あがりおりはあまり便利でない。それを登り尽した丘の上に、大きい薬師堂は東に向って立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口わにぐちかかっている。木連格子きつれごうしの前には奉納の絵馬も沢山に懸っている。の字を書いた額も見える。千社札も貼ってある。右には桜若葉の小高い崖をめぐらしているが、境内けいだいはさのみ広くもないので、堂の前の一段低いところにある家々の軒は、すぐ眼の下に連なって見える。私は時々にここへ散歩に行ったが、いつも朝が早いので、参詣らしい人の影を認めたことはなかった。

 それでもたった一度若い娘が拝んでいるのを見たことがある。娘は十七、八らしい、髪は油気の薄い銀杏返いちょうがえしに結って、紺飛白こんがすり単衣ひとえものに紅い帯を締めていた。その風体ふうていはこの丘の下にある鉱泉会社のサイダー製造に通っている女工らしく思われた。色は少し黒いが容貌きりょうは決してみにくい方ではなかった。娘は湿れた番傘を小脇に抱えたままで、堂の前に久しくひざまずいていた。細かい雨は頭の上の若葉から漏れて、娘のそそけたびんに白いしずくを宿しているのも何だかむごたらしい姿であった。私は少時しばらく立っていたが、娘は容易に動きそうもなかった。

 堂と真向いの家はもう起きていた。家の軒下には桑籠が沢山に積まれて、若い女房が蚕棚かいこだなの前に襷掛たすきがけで働いていた。若い娘は何を祈っているのか知らない。若い人妻は生活に忙がしそうであった。

 何処どこかで蛙が鳴き出したかと思うと、雨はさあさあと降って来た。娘はまだ一心に拝んでいた。女房は慌てて軒下の桑籠を片附け始めた。

底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店

   2007(平成19)年1016日第1刷発行

   2008(平成20)年523日第4刷発行

底本の親本:「五色筆」南人社

   1917(大正6)年11月初版発行

初出:「木太刀」

   1916(大正5)年7月号

入力:川山隆

校正:noriko saito

2008年1129日作成

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