久保田米斎君の思い出
岡本綺堂



 久保田米斎君の事に就て何か話せということですが、本職の画の方の事は私にはわかりませんから、主として芝居の方の事だけ御話するようになりましょう。これは最初に御断りしておきます。

 たしかな事はいえませんが、私の知っている限りでは、米斎君がはじめて舞台装置をなすったのは、明治三十七年の四月に歌舞伎座で、森鴎外博士の『日蓮上人辻説法』というものを上演しました。その時分に御父さんの米僊先生がまだ御達者で、衣裳とか、かずらとかいう扮装の考証をなすった。その関係で息子さんの米斎君が、舞台装置をやったり、背景を画いたりなすったのです。今では局外の者が背景を画いたり、舞台装置をやったりすることも珍しくありませんが、その時分は芝居についている道具方がやるのが普通で、外の方がやるのは珍しかった。それでこの時も、大変新しいといって評判がよかったようです。これが米斎君が舞台装置なんぞをなさるようになったそもそものはじまりだろうと思っています。

 その時分米斎君は、まだ三十前後位でしたろう。御承知の通り、三越の意匠部に勤めておいでなすったから、その方の仕事もお忙しかったんでしょうが、明治三十九年六月、歌舞伎座で『南都炎上』が上演された時に、やはり米斎君の舞台装置、その後しばらく間が切れて、明治四十三年の九月に明治座で、今の歌右衛門が新田義貞をした『太平記足羽合戦』という三幕物を私が書いた。その時分にやはり舞台装置や何かを米斎君に御願いしました。

 それから翌年の二月に歌舞伎座で、今の六代目菊五郎が長谷川時雨さんの『桜吹雪』を上演しました。それをまた米斎君が背景、扮装等の考証をなすったのですが、狂言も評判がよかったし、舞台装置や何かも評判がよかった。ずそれらがはじめで、明治四十四年以後は明治座で新作が出ると、いつも舞台装置を米斎君に御願いするようになりました。私の『修禅寺物語』『箕輪心中』なんていうものもこの年の作で、いずれも米斎君に御願いしたものです。

 大正二年でしたか、東京の芝居というものがほとんど大阪の松竹に属することになりました。その時分から米斎君は松竹に関係されることになって、どこの劇場でも新作が出れば米斎君のところへ持込むという風でした。何しろ松竹系といえば、帝劇を除いて東京の有名な劇場は皆そうなのですから、一時は米斎君も彼方此方あっちこっちの芝居を掛持で、随分お忙しかったようです。三越の方も大正五年頃に御引きになって、それからは何だか画家というよりも、舞台装置専門家のような形でした。

 ところが昭和二年頃から三年ばかり、強い神経衰弱で、その方の仕事を休んでおいででしたから、その間はむを得ず、外の人に頼んでいましたが、この三年ばかり此方こっち、また芝居の方を続けられることになって、現にこの二月の東劇に上演した私の『三井寺絵巻』なども、米斎君に御願いしました。米斎君としてはこれが最後だったわけで、先達せんだっても奥さんが御見えになった時、丁度私のものが最後になって、かなり久しい御馴染おなじみでしたが、やはり御縁があったんでしょうと申上げたような次第です。

 今日ではいろいろな方が舞台装置をなさるようになりましたし、大正年代にも他の方がやって下すったこともありましたが、私どもが何時いつも米斎君に御願いするのは、万事芝居に都合のいいように作って下さるからなのです。役者がしにくいような場合には、脚本をよく考えて下すって、──例えばある部屋が舞台になる場合、実際からいえばもっと狭かるべきはずであっても、ここは広くこしらえなければならぬとなるとチャンと芝居のしいいように斟酌しんしゃくして下さる。随分場合によると、部屋の中に甲冑を著て刀をさした人間が何人も出なければならぬこともありますから、立とうとする時に刀のこじりで障子や壁を破るようなおそれがないでもない。また道具の飾り方によっては主要な人物が一方からは見えても、一方からは見えにくいというようなこともある。米斎君はそういう点によく注意して下すって、これはこうしては嘘ですが、芝居だからマアこうしておきましょうとか、ちょっと見た目がよくっても芝居がしにくいような道具じゃ困るとかいう風に、斟酌してやって下すったものです。

 役者の扮装や何かにしても同じ事で、考証して下さる方が何でも本当本当ということになると、芝居の方じゃ困る場合が出て来る。実際は短い筒ッポをツンポルテンに著ているのが本当であっても、それが白く塗って女にでも惚れられるような役だというと、どうも恰好かっこうがつかない。嘘でも袖を丸くして、長い著物にしてもらわなければ工合が悪いのです。芝居というものはイリュージョンを破りさえしなければいいので、何も有職故実ゆうそくこじつをおぼえに来るところじゃない。もしそんなつもりで来る人があれば、その方が心得違いなんですから、大体その時代らしく、芝居としても都合のいいように拵えればいいわけなのだが、学者の考証家先生になると、なかなかそう行かない。新規に道具を拵えさせてみたり、見物に見えないような細かいところまで、むずかしい考証が出たりして困るのですが、米斎君ならそういう心配がなかった。芝居として都合のいいように考えて下さるから、芝居も助かり、作者も助かるのです。今後はどういう方がやって下さるか知りませんが、そう申しちゃ失礼だけれども、馴れないうちは御互に困る事が出来やしないかと思います。

 芝居の舞台装置をはじめてやる方は、平生から芝居をよく見てて僕ならこうやるというわけで、蘊蓄うんちくを傾けられるのですが、芝居の方には二百何十年という長い間の伝統があって、いろいろ工夫を積んだ結果、今日のようなものになっているのですから、平凡なようでも無事な型が出来ている。変った舞台面は結構だけれどもあまりむやみに破壊してかかると、何かに差支さしつかえを生じて来る。御承知の通り、舞台は正面からばかり見るのじゃありませんから、その辺も考えなければならず、ことに近頃のように何階も高い席が出来て、上から見下されることになると、それだけでも大分むずかしいわけです。

 だから芝居のやりいいようにさえすればいいようなものですが、舞台装置をやる人の立場になると、またそうばかり行かぬ点があります。仮に米斎君のやった舞台装置を他の画家が見に来るとします。米斎君の方では芝居の都合を考えてやった事でも、久保田君はあんな事を知らないか、という風になりかねない。専門家とすればそこがむずかしいわけでしょう。批評する方に芝居気があればいいけれども、まるで帝展の画でも見るような調子で、ぐに物を識らないといって非難されては困る。自分の立場もある程度までは守らなければなりますまい。昔なら「そこが芝居だ」という迯道にげみちがあったので、「野暮をいうな」位で話は済むんだが、今ではそう簡単に行かないから面倒です。

 これは芝居の方も悪いのです。狂言を決定するのが非常に遅い。というと、それは私たちが書くのが遅いからだと順押しになりますが、五月なら五月の芝居に何を出すか、それがはっきりきまるのは前月の二十日頃なのです。警視庁の方では、二週間以前に脚本を提出しろということになっていますけれども、マア三、四日のところは御目こぼしがあるんでしょう。いよいよ上演するまでに十日位しか余裕がない。それから急に舞台装置とか衣裳の考証とかいう方を頼みに行く。米斎君はじめ、不断から用意のある人だからいいが、そうでなければたちまち困る話です。近頃の見物はなかなかやかましくなって、彼処あそこで富士が見えるはずはないと、いうような理窟をいい出されるから、時によると夜行の汽車で現場を見に行かなければならないような事も出来て来る。それに道具を拵える暇がありますから、十日というけれども、せいぜい三日か四日で片附けて、あとはそういう方の暇を見てやらなければならない。博物館へ行って調べるとか誰のうちへ何を見に行くとかいう事を、その短い時間でやらなければならないから、忙しい時にはつい徹夜をするという事にもなります。舞台装置をやるには、一場一場の画をかいてやらなければいけない。それだけでもいい加減骨が折れるのに、衣裳も新規のものだと大体の形を画いて著物の模様までつけてやる。その見本によって衣裳屋が拵えるので、それも一人や二人じゃない、大勢出て来る連中のを皆画いてやるのだから大変です。道具の方の世話も焼いて指図しなければならず、初日に行って見て、どうもあの松の木が小さくて工合が悪いと思えば、すぐにそれを直す。二日三日位までは毎日行って見る。これにも半日位は潰れます。役者と作者との間に立って、一番暇潰しで、しかも縁の下の力持になる。あんな割の悪い仕事はない。すきでなければやれるわけのものではないのです。

 それに作者というものは──私には限りませんが、書く方をいい加減にしておいて、あとは舞台装置家が何とかしてくれるだろうというような料簡でいる。脚本に道具がくわしく指定してあればそれによって画けるわけだけれども、ただ農家の内部位な事じゃ、どうやっていいかわからない。一口に海岸といったところで、海岸にもいろいろあるから困るわけですが、だんだんそういう書き方の脚本がえて来ましたから舞台装置家も随分難儀なことがあるだろうと思う。役者は役者で、やりにくいとか何とかいいますし、よほど親切な我慢強い人でないと、喧嘩けんかになってしまうおそれがある。米斎君はその点は割合に練れていて、芝居の都合を考えては斟酌してくれる方でしたが、ある時にはひどく強情で、固くって動かないところがありました。時には悪強情だと思われる位で、例えばあの役には烏帽子えぼしを被せないで下さいといっても、いや、あれはどうしても被せなければいけないという。そういう場合には仕方がないから、役者に烏帽子を被るなといっておくのですが、舞台へ出るのを見ると、チャンと烏帽子を被っている。あとで部屋へ行って、どうして私のいった通りにしないのだ、と聞くと、実は烏帽子を被らずに出ようとしたら、久保田さんがどうしても被らなけれゃいけないとおっしゃるものですから、というのです。だから何時でも素直に聞いてくれるわけじゃない。すべて芸術家気質というものでしょうが、米斎君もたしかにそういう気骨を持っていました。それがため、往々興行主と意見の衝突することがあったようです。もっとも興行主なんていうものは、わけがわからずに勝手な事をいうんですから、仕方がありませんが。

 私どもの物などを上演する場合、今度の舞台装置は誰ですと聞いて、久保田さんですといわれれば安心したものです。米斎君は大抵やる前に粗図を画いて、相談してから拵えて下すったので、舞台稽古の時に行って見て、こんな道具が出来たのか、と驚くようなことはありませんでした。粗図で相談してから、本当の図が道具方に廻る。道具方はそれによって見本を拵えて、私の方へ持って来ますから直すべき点があればそこでまた直す。つまり承知の上で出来上るようなものですから、自然当り外れはないわけなのです。ただ再演、三演となりますと、米斎君に御願いして、多少道具の恰好を変えていただくことがある。衣裳なんぞは大概毎回変っています。時によって舞台装置と、衣裳や鬘を別々の方に願うこともありますが、あれはあまりよくないようです。両方が自分勝手にやるから、調和ということが考えられなくなってしまう。白い壁だからこういう服装にする、黒い道具だから明るい著物を著せて出す、というような工夫があるのですから、それが別ッこになると、鼠色の壁に黒い著物を著て出るという風になって、甚だ工合が悪いのです。米斎君が亡くなってしまったから、今後はこれまでやった方々のうちから選ぶことにしますか、また新規な方に御願いするようになりますか、その辺はわかりません。しかし図は取ってありますし、写真も残っていますから、大体はそれで見当がつくはずです。

 一体日本の芝居の道具は、複雑でもあり面倒でもある。家の道具にしたところで、一軒の家を造るのと同じように、柱を立て床を張りして行かなければならない。そこへ行くと外国のは簡単なもので私が紐育ニューヨークへ行った時分に、メーテルリンクの『ベルジュームの市長』という芝居を見ましたが、これは朝、昼、夕方という三幕になっているけれども、三幕が三幕とも、舞台は同じ市長の部屋で、ただ窓から来る光線によって、朝とか、昼とか、夕方とかいうことを現すだけなのです。ですから道具は一度飾っておけば、あとは幕ごとに多少椅子テーブルの位置を替える位に過ぎない。私の見たのは七十日目だということでしたが、外国では半年位続くのは珍しくないそうです。ただその場合に道具の色が変ったりするから、あまり長くなれば上塗をする。まことに簡単とも簡便とも申しようがない。それですから外国の幕間は五分でもいいわけなので、日本の芝居の道具は五分やそこらで飾れるものじゃありません。立木なんかでも外国のは「切出し」といって正面からそう見える板なんですが、日本では本物と同じような丸の木を植えている。それを早く片附けて次のものを早く飾るようにしなければならない。普通の人は前の道具をこわす時間を考えないけれども、つまり手数からいうと二度になるので、幕間五分といっても、二分半でこわして二分半で飾らなければならないのです。そこで舞台装置家はなるべく手のかからぬようにかからぬようにと心がける。念を入れたものが出来ないのは已むを得ません。

 役者の顔をつくるのでもそうです。現代劇の方はさほどでもないが、歌舞伎になりますと、五分位で出来るものじゃない。本当にやれば前の顔を洗って地の顔にして、それから次の顔にかかるのですが、とてもそんな時間はないものだから、作った上をちょっとごまかして出ることになる。真白に塗る歌舞伎の顔は五分や十分で出来るものじゃない。壁を塗るのと同じ理窟で、下塗、中塗、上塗と三度塗らなければ、ツヤのある綺麗な顔は出来ません。下塗を乾かすために団扇うちわあおいだりしたものですが、今はそんな暢気のんきな事をやっていられないから、はじめから濃いやつを塗る。白粉おしろいの方もだんだん器用な物が出来るようですけれども、とにかく日本の芝居で幕間五分というのは、いろいろな点からいって無理なのです。正直にやれば長くなるから、臨機応変でやって行くということになります。

 私の書いた『幡随院長兵衛』の芝居、あれは米斎君の方から、今度の芝居は湯殿が出ますか、という御尋ねがありましたから、出ますというと、今までの芝居でやっている湯殿は出たらめだ、あの時分の湯殿はこうこういうものだから、それで出来るように芝居を書いてくれ、ということなのです。私は実はあの頃の湯殿がどんなものだか知らないんですが、縁側みたいなものがあって手摺がついている。花活はないけに花が活けてあったりして、何だか妙なものだと思ったけれども、万事先生の指図通りにやりました。この場合には限りませんが、舞台装置をなさる方にはまたそういう御道楽があって、今までやっているのは嘘だから、今度はこういう風にやる、というようなところでいい気持になるらしい。それだけ見物が感心するかどうかは疑問ですが、ここが前申した通り、好でなければ出来ないところです。役者にしたって同じ事で、下廻りの役者なんぞは、随分給料が安いといって不平を並べますが、大根おおねはといえば好なんだから唐物屋なら唐物屋で、もっと給料を出すからといったところで、役者をやめて其方そっちへ行きやしません。電車の運転手がハンドルを動かしているのとはわけが違う。芝居の方でもそこを心得ているから、奴らは何ていったって役者をやめやしないというんで、給料も余計は払わない、ということになるんでしょう。

 大分余談が多くなりました。米斎君の舞台装置ではもう一つこういう話がある。明治四十三年の暮に私は『貞任宗任』というものを書きました。これは翌年の正月に幸四郎と左団次が演じたもので、例によって舞台装置は米斎君に御願いするつもりでいたところ、京都へ旅行なすっていて間に合わない。他に願う方もないものですから、エエいい加減にやっちまえというわけで、私が自分でごまかしておいた。米斎君は正月になって帰られて、芝居を見るといろいろ間違を指摘された。一言もないので、二度目にやる時には御指図に従いますから、といって、大正五年に歌舞伎座で再演した時には、万事米斎君に御願いしました。おれだって出来るなんと思っても、やってみるとそうは行きません。

 私は自分が無趣味だから、米斎君の外の方面の事は殆ど知りません。俳句は本名の米太郎から「世音」と号して、白人会なんかでよくやっておいででしたが、ああいうものの控えがおありですかどうですか。旅行も相当なすったようだけれども、大概御用があったり御連れがあったりで、特に自分ひとりで思い立つというようなことはあまりなかったようです。一体がおとなしい方で、逸話というようなものはごく少い。その点は御父さんの米僊先生とは大分違うと思います。

 日清戦争の時には米僊先生も米斎君も従軍、弟さんの金僊君は日清、日露とも従軍されたようにおぼえています。私は金僊君の方は早くから知っていましたが、米斎君と懇意になったのは日露戦争のあたりからです。明治三十六年に三井呉服店が三越と改称して、流行会というものを拵えた。十五、六人乃至ないし二十人位集って、流行を研究するということでしたが、マア一種の雑談会のようなものです。私にも会員になれということでなったのですが、米斎君はすでに三越に入っておられたか、あるいはまだ入られず米僊先生の代りにおいでなすったか、そこはハッキリしません。とにかくそこで御目にかかったのが最初でした。それ以来三十五年ばかりになるわけです。長い間だから劇評などを書かれたのもあるかも知れませんが、一人のものは今記憶にない。合評会には出ておいででした。主として扮装とか何とかいう方の批評をされたようです。

 何時頃でしたか、米斎君が私のうちへおいでなすって、今そこで掘出し物をしました、といわれたことがある。代官山の駅を下りて此方へ来る途中の古道具屋で、私も湯へ行ったり、髪結床へ行ったりして始終その前を通るのですが、そこで買ったといって見せられたのが、青磁まがいのような壺みたいなものです。雑巾を貸してもらいたい、といってしきりに拭いておられたが、やっぱりそうです、という。全体いくらで御買いになったんですかと聞いたら、値段をいってしまうと仕方がないが、実は二十五銭で買いました、これで二十円、少くとも十四、五円のものでしょう、といわれたには驚いた。私は毎日その前を通っているんだけれども、ちっとも気がつかない。米斎君はヒョイと通りがかりに見ただけで、直ぐわかったらしいのです。どうも余所よそから来て掘出し物をされちゃ困りますね、といって笑いましたが、──中にはそう掘出し物ばかりもなかったかも知れない。悪くいえばがらくたに近いものもあったでしょう。こういうものは元来主観的なものだから、本人がこれでいいと思えばそれでいいのかも知れません。私も米斎君から、瓦みたいなものだの、仏様みたいなものだのを頂戴して、難有ありがとうございますと御礼はいったけれども、実によくわからないので、戸棚へつッこんでおくうちに、震災でみんな焼いてしまいました。

 去年東北の方へおいでなすった御土産に、堤人形の和唐内を貰いました。これが米斎君から頂戴したものの最後です。今では仙台にこの人形を売る店が二軒位しかないそうですが、そこへ行ってみると、水兵だとか、ベースボールのバットを持っているものだとかいうものばかりで、一向面白くない。漸く棚の隅のところに、今売れない和唐内や何かが押込んであるのを発見して、それを買って来たのだ、ということでした。こういう調子で出先へ行っては何か買われるんだから、そればかりでも大変なものでしょう。

 今度の病気は去年の十一月、箱根へ大名行列の世話においでなすってからのように思う。押詰って見えた時、海軍病院で診察してもらったが、もう十年ばかりは生きていないと仕事が片附かない、やりたい事が沢山ある、という御話だったので、御大事になさいといって別れたのですが、二月の東劇の舞台装置もなすった位だし、二月の六日の晩、私は行かなかったけれども、新橋演舞場で米斎君に逢ったという人がある。そんな調子なら心配はあるまいと思っていると、急に訃報に接して驚きました。実はその頃は私の方が危かったので、風邪のあとで軽い肺炎になって寝ている間に米斎君は亡くなってしまったのです。私の作で米斎君の御世話になったものは五、六十位ありましょう。考えると何だか夢のようです。

底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店

   2007(平成19)年1016日第1刷発行

   2008(平成20)年523日第4刷発行

底本の親本:「伝記」

   1937(昭和12)年6月号

初出:「伝記」

   1937(昭和12)年6月号

入力:川山隆

校正:noriko saito

2008年1129日作成

青空文庫作成ファイル:

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